源三位頼政の娘として名高い二条院讃岐。父の一生をバックとしつつ考えてみましょう。
92.わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし
訳詩: わたしの袖は そうです あの沖の石です
潮がひいてもなお姿を現さないあの――――
人は知らないことですけれど
わたしの袖はあの石のように濡れつづけです。
望みない恋のために流す涙で
作者:二条院讃岐 1141ころ~1217ころ 78才 源三位頼政の娘
出典:千載集 恋二760
詞書:「石に寄する恋といへる心を」
①二条院讃岐
・二条帝(後白河帝の次)(即位1158-65病死)に仕えた女房ということで「二条院讃岐」だが、何故「讃岐」なのか、よく分からなかった。
父が有名な源三位頼政、この父から見て行きましょう。
・父源頼政1104-1180 77才 清和源氏で源頼光の流れ
(源頼光は65相模の父、大江山の鬼退治で武勇を馳せる。同時に歌人でもあり勅撰集に3首入撰している)
・頼政も文武に秀でた気骨ある源氏として名を馳せた。
保元・平治の乱ではうまい具合に勝者側に属し、清盛の平家政権下では源氏の長老として従三位公卿に列せられるまでなったが、所詮は中途半端な出自、出世は思うにまかせず歎き節を残している。
人知れず大内山のやまもりは木がくれてのみ月をみるかな
→この歌で昇殿を許されて四位に昇格
登るべき頼りなければ木のもとに椎を拾ひて世を渡るかな
→この歌で清盛に訴え75才でやっと従三位、公卿になった。
・ところが頼政はまだ不満があったのか以仁王を奉じて清盛に反旗を翻したが、全く問題にならず宇治平等院であっけなく自害。享年77才
頼政辞世の句 埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける
・平家物語での源頼政
1 巻四 「鵺(ぬえ)」
近衛帝の時、御所に正体不明な生物が出現、これを頼政が退治した。
其の時上下手ン手に火をともいて、これをご覧じみ給ふに、頭は猿、むくろは狸、尾は蛇、手足は虎の姿なり。なく声鵺にぞ似たりける。おそろしなンどもおろかなり。
2 巻四 「宮御最後」
壮絶な最後。頼政も歌林苑のメンバーだったことから既に85俊恵のコメント欄で紹介していますが改めて記しておきます。
埋れ木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける
これを最後の詞にて、太刀のさきを腹につきたて、うつぶさまにつらぬかってぞうせられける。其の時に歌よむべうはなかりしかども、わかうよりあながちにすいたる道なれば、最後の時も忘れ給はず。その頸をばとなふって、泣く泣く石にくくりあはせ、かたきのなかをまぎれいでて、宇治川のふかき所にしづめてげり。(@宇治平等院 頼政享年77才)
3 巻四 「競」
そもそも75才でやっと清盛に三位にしてもらって念願かなった頼政が何故清盛に反旗をあげたのか。息子仲綱所有の名馬を清盛の次男宗盛が所望、仲綱と宗盛の壮絶ないやがらせ合戦が繰り広げられる。結局負けるしかなかった仲綱の悔しさが頼政挙兵の原因か、、、、と
→どうでしょう。頼政、楽隠居で余生を過ごしておけばよかったのに。
・源頼政
歌林苑の会衆、数々の歌合に出詠、勅撰集に59首入集
→本来なら百人一首の撰に残ってもよさそうな歌人
→政権に反旗を翻した謀反人の烙印がおされており、撰の対象にならず。讃岐の入選はその点の考慮もあったのかも。
以上、長々と源三位頼政について述べすみませんでした。
(この人の人生航路を辿れば保元の乱~平家滅亡までがよく分かるように思います)
・さて娘の「讃岐」
若い時(18才)から二条帝の宮中に仕える。
→二条帝とほぼ同年令、帝も目をかけていたのであろう(お手はつかなかったようだが)。
→父譲りで和歌も得意、華やかな宮中勤めだったのだろう。
25才の時二条帝が病気で崩御、宮中から退出。
藤原重頼(受領階級の中流貴族)と結婚、子どもも成す。
50才頃、後鳥羽天皇の中宮宜秋門院任子に再出仕、6年ほどで退出出家する。
(異説もあるようだが上記多数説で考えておきましょう)
→父(&兄仲綱)の討ち死は40才の時、ショックを乗り越え頑張ったんだなあと拍手を送りたい。
→二条院退出後は異説があるように詳しくは分かってないようだ。重頼との結婚の経緯、子育てのことなど知りたいところ。
②歌人としての二条院讃岐
・若くして二条院に出仕、宮中歌合にも出詠。父に連れて行かれたのであろうか俊恵の歌林苑にも参加。段々と歌人として重用されていく。
→歌合には彩りを添える存在として女流歌人が必ず必要。有名歌人を父に持ち讃岐にはひっきりなしに声がかかったのであろう(一度ブレークすると各局にレギュラー番組を持つようになる現代のタレントと同じ)
・千載集以下勅撰集に73首(父の59首より多い) 私家集「二条院讃岐集}
・歌林苑での交遊は讃岐の歌人としてのキャリア造りに貢献したのであろう。
→90殷富門院大輔と同じである。
・(wikiより)1201後鳥羽院主催の千五百番歌合で詠んだ讃岐の「世にふる」歌はその後延々と続く本歌取りのもとになった。
世にふるはくるしき物をまきのやにやすくも過る初時雨哉(新古今集)
これに続いて大歌人たちが挙って派生歌を詠み、室町~江戸と下って連歌俳諧の世界でも「世にふる」が詠みこまれる。まあ一種のブームだろうか。
→「世にふる」は9小町歌が始まりでしょうよ。
③92番歌 わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし
・「石に寄する恋」
百人一首中一番キテレツな題ではなかろうか。
「筵、網、糸、帯、玉などかなりひねりを利かした趣向も少なくない」(安東次男)
「題詠という創作方法が、趣向をつかい果して、ついに恋と石をとりあわせるところまでたどりつかざるをえなかったことは、やはり一種の病的現象というよりほかないだろう」久保田正文(百人一首の世界)
→こんなのを当時も「前衛運動」と呼んだのであろうか。
→満開の花の宴で「春といふ文字賜れり」と叫んで秀逸な詩(漢詩)と作りあげる。これぞ題詠でしょうに。
・沖の石は干潮時にも水面下にあって顔を出さない。石は乾くことがない。
私の袖も同じように乾くことはない。
→そもそも海面から顔を出さない石なんて譬の例になるんですかね。
→何だか発想が貧弱なような気もするのですがねぇ。
・「人こそ知らね」 一般の人を指してか、恋の相手を指してか。
→一般の人を詠みこんでも仕方ない。やはり相手に突き付けてる感じじゃなかろうか。
・「沖の石」 二説あり
.父頼政所領の若狭矢代の浦の沖合にある大石
.夫重頼が陸奥守でもあったので多賀城市の沖の石
→多賀城市の沖の石で考えておきましょうよ。
芭蕉も奥の細道で訪ねているし私も見てきました。末の松山のご近所です。
・海中の石が乾くことはない。私の袖も、、、という歌はいっぱい詠まれている。
先行歌
わが袖は水の下なる石なれや人に知られで乾くまもなし 和泉式部
ともすれば涙に沈む枕かな潮満つ磯の石ならなくに 源三位頼政
なごの海潮干潮満ち磯の石となれるか君が見え隠れする 源三位頼政
厭はるう我はみぎはに離れ石のかかる涙にゆるげぞなき 源三位頼政
みつ汐にかくれぬ沖のはなれ石霞にしづむ春の曙 源仲綱
→頼政・仲綱のものはまあファミリー工房ということでいいとして、和泉式部の歌は出だしの五と下句の七七が殆ど同じ。まあ盗作と言われても抗弁できないんじゃないでしょうか。
→定家ももうちょっといい歌を採ってあげたらよかったのに。
④源氏物語との関連
・源氏物語には何故か歌合の場面が登場しません。歌合に代り絵合がある。
→その「絵合」の描写は40,41番歌の天徳内裏歌合を踏襲している。
・源氏和歌795首には題詠によるものというのは見当たらない。
須磨の秋のあはれを源氏主従(源氏・良清・惟光・左近将監)で唱和し合うのはあるが、題詠ではない。
歌の大半が個人間の歌の贈答、これぞ本来の和歌の役目ではなかあろうか。
百人一首中最後の女性歌人、二条院讃岐 珍しく大体の生没がわかりますね。
1141ころ~1217ころ、と言う事は持統天皇より約500年。
万葉の時代とは随分歌の詠みっぷりは変わりましたね。
私には石と恋の結びつきなんて想像もつきません。
やはり万葉歌人の素朴さは捨てがたいです。
平家物語にもある鵺退治で名高い源三位頼政を父に持ち二条院、後鳥羽の中宮に仕えた。流れは鬼退治の頼光でしたか。
ここは百々爺さん解説の通り父、源三位頼政と一体で考えると時代の背景もよくわかります。
中日新聞 小林一彦「王朝の歌人たち」も良いタイミングで二週連続して父頼政、娘二条院讃が取り上げられたので以下に紹介します。
彼女の家は曽祖父、祖父、父さらに叔母たち、兄の仲綱、従姉妹も勅撰集に入集する歌人であった。
恵まれた環境で歌才を伸ばす。父や兄と俊恵法師の主宰した歌林苑に参加した。
しかし二人は平氏討伐のために挙兵、身近な先達、父、兄を平等院の戦いで同時に失った。悲しみは深かったに違いない。
わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし
歌題は「石に寄する恋」
私の袖は潮が引いても隠れて見えない沖合の石のように、あのひとは知らないでしょうが涙のために乾く間もないのです。
父の歌に触発された作であろうか。
ともすれば涙にしづむ枕かな潮満つ磯の石ならなくに(頼政集)
この歌が評判となり彼女は「沖の石の讃岐」と異名をとり後年百人一首に採られた。
明けぬれどまだきぬぎぬになりやらで人の袖をも濡らしつるかな(新古今集)
歌題は「暁帰りなむとする恋」
相手が帰ろうとする明け方に場面を設定してフィクションの恋物語を如何に美しくうたい上げるか、作者の手腕が問われる。
王朝の時代には夜具の布団はまだ存在しない、互いの衣を敷き交わして並べ男女はその上に寝ていた。「きぬぎぬ」とは互いの肌着を交換して別れたことに由来する語という。
女の家を男が訪れる通い婚ではかならず別れの朝が来る。
目の前にいない相手を恋い慕うのが日本の恋愛詩、共寝の最中に恋の歌は生まれない。
恋歌の世界は夜明けに男を見送った瞬間からはじまるのだ。
ところが讃岐のこの歌は床を同じくしている。
相手の男がまだ寝息を立てているうちから、刻々と迫りくる別れの時を想い早くも女は息をおし殺して泣いている。
それで引き交わして延べられた相手の袖までが涙で濡れると言うのだ。
おそろしいまでに切ない女心が詠われている。
讃岐の歌風を当時の歌書は「風体艶なるを先として、いとほしきさまなり。女の歌かくこそあらめとあはれにも侍るかな」(歌仙落書)
思わせぶりでいじらしい、女の歌はこうありたいものだ、と絶賛している。
父娘共に歌の上手は珍しいのではないか、父が百人一首に入らず娘が入首。
どんな父娘関係であったのであろうか?ちょっと興味ある。
親の七光りばかりではなく確かに歌才はあったのだろう。
父娘関係と言えば三浦父娘もありますね~
どんな関係でしたかしら?これも興味ありです。
やはりDNAは争えないのでしょうね。
それにしても驚いたのは
わが袖は水の下なる石なれや人に知られで乾くまもなし 和泉式部
こんなの有りかしら?絶賛が信じられない・・・
三浦親子対談、面白かったですよ。大いに笑ってきました。
しをんさんにつっこまれて、三浦先生たじたじという場面が多かったです。
おふたりともよく勉強されているのは同じです。
石橋湛山記念講堂始まって以来の超満員の盛況とかで、学長が感激してスピーチしておられました。(600席満席、他に2教室にも放映)
私は、「古事記学者ノート」(コジオタノート)を買い求め、サインもいただきました。(事前に買うのを我慢して、当日買ったのです)
楽しい時間でした。
いやあ、楽しませてもらいましたね。「こじきおたく」の三浦先生が文字通り「おたおた」「たじたじ」でしたもんね。
【見聞メモ】
第一部で古事記から三つの物語パターン(二男一女のタブーの恋・男を踏み台として強く生きる女・女を巡る男の友情)を先生が紹介、第二部はそれらを題材としてのお二人による物語論。そしてしをんちゃんの小説作法についてなどなど。
創造には感性のひらめきが重要。でも年とともに感性は鈍る。逆に経験を積んで書き振りは安定してくる。
→小説家として光り輝いているしをんちゃんでした。
見聞記ありがとうございます。
楽しい時間を過ごせて良かったですね。
今度我がカルチャーセンターにしをんさんの講演を申請してみようかな。
父娘フアンの割合はどのくらいでしょうかね。
最初で最後の親子対談と言うのがいいですよね。
私自身は父娘の関係がいまいちだったので仲良しは羨ましいです。
そう言えば百人一首には三組の父娘がいたんでしたよね。
いずれもこの父にしてこの娘在りですね。
お礼を言い忘れていました。在京の仲間みんなで楽しませてもらいましたが、小町姐さんから紹介いただかなかったら知らなかったことでしょう。改めてお礼申し上げます。どうぞ何かと今後ともよろしくお願いいたします。
【追記】
勿論しをんちゃんお目当ての人も多かったと思いますが、古事記フアンと思しき我らが同年輩が多いのでびっくりしました。「二人で全国講演やったら2年は食っていけるだろう、、」なんて口さがないこというご同輩もおりました。それほど活況でしたよ。
・そうか、92二条院讃岐は百人一首21人の紅組のトリなんですね。
おっしゃる通り天智・持統時代からは500年。百人一首も一桁番台と90番台では全く違いますね。90番台からすれば一桁番台は遠い昔の古歌そのものだったのでしょう。
→それぞれに歌の良さはあるのでしょうが、「石に寄せる恋」よりは藤原京~天の香具山を素直に詠んだ2番歌の方が心に響く感じがします。
→まあ、私の題詠への偏見もあるのでしょうが、、。
・明けぬれどまだきぬぎぬになりやらで人の袖をも濡らしつるかな
これは題詠と言ってもごく普通の恋愛場面の設定で分かりやすいと思います。相手の男が大きないびきをかいていては興覚めでしょうが、まあ一夜の疲れもあってほんのまどろみの一瞬ということでしょうね。でも女性は眠ることなどできず、やがてくるつらい別れに涙がとめどなく流れてくる。
明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな
52番歌を思い出しました。
・父と娘
百人一首では3組でしたね。
1天智帝-2持統帝 40平兼盛―59赤染衛門 42清原元輔-62清少納言
→清原元輔と清少納言は仲が良かった。ちょっとひょうきん・朴訥なお父さんと突っ込み鋭い娘さん、、、三浦父娘もそんな微笑ましい感じでしたよ。
これぞ新古今調の玄人受けする歌が続きますが、百人一首も残すところ後8首、始めの頃の好きだった素朴系の歌とは随分と違ってきています。
でも、最後まで完走、これは大変大事なこと。
爺が書いてくれている歌
世にふるはくるしき物をまきのやにやすくも過る初時雨哉(新古今集)
千人万首より、
【補記】恋愛に鬱屈しているところへ、恋人は訪れず、代りにしぐれの雨が過ぎていったとも読め、恋歌の風情が纏綿する。自然と人事を重ね合わせ、小野小町の流れを汲む風体。千五百番歌合冬、九百八番左勝。
【参考歌】
まばらなる槙の板屋に音はして漏らぬ時雨や木の葉なるらん(藤原俊成[千載])
さゆる夜の槙の板屋のひとり寝に心くだけと霰ふるなり(藤原良経[千載])
世にふるもさらに時雨のやどり哉(宗祇)
・当初は一年ほどで完読しようと思っていたのですが、何やかやあって丸二年かかってしまうことになります。でもそれだけ時間をかけて勉強する値打ちのあるコンテンツだったと思います。逆にまだまだ読み切れてないところも多いと思うので、気がついたら補充していきたいと思ってます。
・昭和蝉丸さんに紹介してもらった『源氏物語に学ぶ十三の知恵』、源氏物語が如何に後世の文芸、人々の生き方に影響を与えているかといった題材できっと八麻呂さんには興味深いものだと思います。是非聴いてみてください。
紹介ありがとうございます。
源氏物語に学ぶ十三の知恵、買い求めます。
昨晩第5回聴いてたら、源氏物語を作り発展させた7人の天才ということで紫式部(生みの母)、藤原定家(育ての父)、四辻善成(河海抄)、一条兼良(花鳥余情)、北村季吟(湖月抄)、本居宣長(もののあはれ)、アーサー・ウェイリー(英語訳)を挙げ、その内の一条兼良の花鳥余情を「和の精神」で源氏物語を読み解いた注釈書だと高く評価していました。
→一条兼良。正に兼実-良経から続く一条家の筆頭として摂政関白太政大臣を務めている。室町時代にあっても藤原摂関家が政治の重鎮で文化の中心であったことを改めて感じた次第。
影印本百人一首によると、この92番歌は「二条院讃岐集」には初句「我が恋は」、第五句「かはく間もなき」とあると記されています。
他の歌集、百人一首と調べれていけばその流れがわかって興味がわくと思うのですが、時間がなくて調べていません。
安東次男氏は、たぶんこの歌は讃岐が父頼政と共に、同日同題で詠んだ歌なのであろうとしています。
頼政 いとはるるわが水際には離れ石のかかる涙にゆるぎげぞなき
俊恵 苔のむす岩ほど成りし人だにもことの葉にこそ打ちはとけけれ
讃岐 わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾くまもなし
「寄石恋」に託した三者三様の石の受取り方が即妙に響きあう。とりわけ讃岐の歌はしゃれていて、機知に富んでいるだろう。これは、めそめそと泣き暮れている歌ではない。闊達な才女の歌である。(百首通見)
馬場あき子氏は頼政の歌「ともすれば涙に沈む枕かな汐みつ磯の石ならなくに」をふまえて讃岐は92番歌を詠んだのでは、とされています。さらに、和泉式部の歌「わが袖は水の下なる石なれや人にしられでかはくまもなし」とくらべて、讃岐の歌は隠微な恋の場を文学としての晴れの場に持ち出す緊迫が、ことばえらびにも声調の上にもみられ、一分のすきもみせていない。じつに堂々とした忍ぶ恋であると書かれています。また、讃岐の「なにはがた汀の葦は霜枯れてなだの捨舟あらはれにけり」をあげて、題材のこなし方や「捨舟」の新鮮なクローズアップには、月例歌会で学んだ視角もあったことと思われる。と記されています。
父親の源三位頼政は能(謡曲)『頼政』もあり、他の曲に歌が出てくるのでそれを挙げておきます
謡曲『小袖曽我』にある「人知れぬ大内山の山守も木隠れて」は頼政の歌「人知れぬ大内山の山守は木隠れてのみ月を見るかな」を借用しています。
頼政の武人としての誇り、意地が、老齢の身となった時、ここでやらねばもうチャンスはないと思わせての反旗でしょうか。
動乱の時代、女もたくましく生きざるを得なかったでしょうし、讃岐はかなり老齢になるまで現役歌人として活躍できたので、良かったなと思います。
・安藤次男説、ありがとうございます。
「寄石恋」なんてわざとキテレツな題材にして詠み比べをする。俊恵主宰の歌林苑での窮極の知的ゲームだったのでしょうかね。
→でも娘と恋歌の詠み比べをするなんて私にはとても無理ですね。
→「何よお父さん、それじゃ石頭の恋じゃない!」なんて言われそうで。
・馬場あき子先生の解説、一々なるほどと思います。歌人がキチンと解釈するとそういうことになるのでしょうね。「才能なし時々凡人」の身には難しいものがあります。
なにはがた汀の葦は霜枯れてなだの捨舟あらはれにけり
→「捨舟」は新鮮ですね。この方がいいじゃないですか。でもこれを百人一首に入れると難波が4首にもなってしまう。ちょっと多すぎですね。
→葦と言えば古事記には多数のものが居る譬はなんでも蘆・蘆・蘆で、「お父さん、もうちょっと他の譬できないの!」って先生突っ込まれてましたね。
馬場あき子先生で思い出しましたが私の友人は中学の時の国語の先生が馬場先あき子生、その娘が大学の時、文学が馬場先生で親子二代教えてもらったそうです。
たまたまこんな事ってあるんだと思っていたら最近知ったのは我が息子の中学時代の担任がその子どもたち三人とも教科担任だったとか。
縁があるというか昔の田舎では親子二代とか三代とかよくあった話ですけどね~。余談でした。
今日は何の予定もなく退屈しのぎに書いています。
百合の局さんが馬場あき子先生の百人一首に触れられたのに刺激を受け図書館で馬場さんの本を予約しました。
百人一首よりも先に「寂しさが歌の源だから」と言う穂村弘との対談集が届きました。
穂村弘が聞く馬場あき子の波乱万丈とサブタイトルがついています。
まだ半分も読んではいませんが面白い箇所に出あえました。
戦時中焼け出されバラックに住んでいた頃、裏に大原富枝が住んでいて後S44年馬場さんが「式子内親王」を出した時電話があったそうで大原がS50年小説「建礼門院右京大夫」を書いた時にアドバイスをしたと・・・
戦後軍の払い下げの学校で池田亀鑑に源氏物語や他にも更級日記や万葉集を私の知らない大家から教えを受けた話など興味深い話が満載。
対談形式なので気楽に寝そべりながら読んでいます。
余談の余談でした。
馬場あき子先生、ジャイアント馬場を凌ぐ巨星なんですね。昭和を丸々生き抜いた方たちの人生はそれぞれが波乱万丈なんでしょうが、馬場先生のは和歌という太い柱が通っているから迫力あるのでしょうね。馬場先生の百人一首、取り寄せてみます。
92番 わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし
詠み手は二条院という偉い女性に仕えた讃岐(1141頃~1217頃)という女房で、歌の巧みさが彼女の売りであったらしい。この人がどういう恋をしたかわからないが、千載集のそえ書きによれば「石に寄せて恋という心を」とあって、これは、まあ、恋ごころって、こんなもんじゃないですか、と沖の石を思い浮かべながらイマジネーションを膨らませた、という事情だろう。他人事っぽい、というか、評論家的というか、ひしひしと迫るものがない。それにしても、往時はこういう恋が多かったのだろうか。もしそうならマゾと違うか。いや、いや、恋をする以上、そのくらいの覚悟を持ちなさい、ということかもしれない。「源氏物語」あたりを見ても女の恋は根源的に切ないところばかりがあった時代である。
さらに事のついでに歌枕について。
これは「和歌にしばしば詠み込まれる特定の名所」のことだが、当時の人々はそう繁く旅をしたわけではない。もちろん、いわく因縁のある名所だから、実際の見聞と関わりを持つケースもあっただろうが、どちらかと言えばイメージ先行の傾向が強かったろう。耳学問、あるいは書物からの知識として心得ていて、和歌作法の一パターンでもあったろう。それも一つの技法であったろうが、一般論として言えば文学は風土と深い関わりを持つもの、舞台となる土地について実体験を抜きにして知識だけで描写してしまうと
―なんだか現実味が薄いんだよなあー
ということになりかねない。逆にいえば、しっかりと風土をわきまえていると、
―そう、こういう感じなんだ、あそこはー
えも言われない臨場感がこみ上げてきて、これが文学鑑賞の大きな楽しみとなる。歌枕の利用は、こういう文学の属性を形式化し、意図的に削いで別種の表現法としたもの、と見てよいだろう。名所を示して先人たちの歌ごころを軽く匂わせながら観光案内的味わいをそえ、教養を加味したもの、それが和歌という短い文学にふさわしかったのだろう。といかにも饒舌な今週の阿刀田氏でありました。
本当はさらに饒舌は続き、長い作品には耳学的知識は向かない。名作「風と共に去りぬ」ではアメリカ南部の風土について体験的に熟知していなければ、とてもあの雰囲気は出せない。国木田独歩の「武蔵野」は明治期の武蔵野を徹底的に歩きまわって綴った名品だ。稀には逆の例もあって水上勉の「飢餓海峡」は「あれを書いたとき、下北半島の先端とか、知ってたわけじゃないんだ。」とは作者自身の述懐。そしてさらに言えば古今に冠たるシェークスピア、この人はいろんな土地を舞台にしてドラマを書いているけれど、土地への見聞は全く薄い。「ベニスの商人」、デンマークの王子「ハムレット」、スコットランドを舞台にした「マクベス」だって、みんな何処へも言ってな~い。ともかく風土の匂いの乏しい作家である。と脱線しまくり、歌枕は名所旧跡を詠みながら必ずしもその風土を実感させないユニークな技法、こういう指摘は和歌文学論としていかがだろうかと問いかけておられます。皆様、いかが?
・「石に寄せる恋」というと、女の恋の切なさというよりむしろ、男の恋の空しさみたいな感じがするのですがどうでしょう。強烈に恋慕っているのに(この女をおいて我が人生の伴侶となる人はいない〈大君に対する薫の恋のように〉)女の心は石のように冷たく動こうとしない。でも男の心は変わらず何度も何度も石を動かそうと試みる、、、。そんなイメージなんですがねぇ。
・歌枕の意味合いについての阿刀田説、ご紹介ありがとうございます。
この意味合いも昔と今では全く違うでしょうね。昔(平安時代は勿論、つい最近まで)は生まれた故郷を離れて遠くへ旅することなんて殆どなかったろうし、映像も写真もない。イメージだけの世界。歌に詠まれた世界が全てでそのイメージが益々に深化していく。それが「歌枕」だったのでしょう。
→そりゃあ行ったことない景色、見たことない景色を実感を持って詠みきることなどできませんものね。
→そういう意味では行ったことのない「歌枕」を詠むのも、凡そ現実的でない「石に寄せる恋」なんて題を詠むのも実感なしの頭での想像の世界という点で同じなのかも知れませんね。
源頼政が後白河法皇の第3皇子以仁王を奉じて平氏打倒の兵を挙げ、諸国の源氏に平氏打倒を呼び掛ける以仁王の令旨を伝えたのは彼が77歳の時。既に出家して家督を嫡男の仲綱に譲った翌年でした。この挙兵計画は準備が整っていない段階で露見し、頼政と以仁王は平氏の追撃にあって宇治であっけなく敗死しました。頼政だけの人生を見れば、百々爺の言うように「楽隠居で余生を過ごしておけばよかった」と言えるかもしれません。でも、日本の歴史からみれば、令旨は伊豆の流されていた源頼朝や信濃にいた源義仲をはじめとする諸国の源氏の挙兵を促し、やがて平氏を滅亡させたのだから、頼政は77歳にして「歴史を動かすきっかけを作った」という快挙を成し遂げたと言えます。彼は天国で「これぞ、男の本懐」とほくそ笑んでいるかもしれません。ちなみに、頼政の末子の広綱や、仲綱の子の有綱・成綱は知行国の伊豆国にいたために生き残り、伊豆で挙兵した頼朝の幕下に参加しました。
さて、その娘の二条院讃岐ですが、ネットで調べても、讃岐の謂れは不明だし、20代半ば~40代後半にかけての動静は異説があって確定していません。でも、歌が上手だったことは確かで、「無名抄:第49話 代々恋中の秀歌」によれば、俊恵が「歌苑抄の中には、
ひと夜とて夜離れし床の小筵(さむしろ)に やがて塵の積りぬるかな(讃岐作)
これをなむ面歌(=代表的な秀歌)と思ひ給ふる。いかが侍らん」と言っています。
また、小町姐さんのコメントにもあるように、「歌仙落書」は「讃岐の心優しく余情のある歌の詠み振りは父よりも優っており、これから先、讃岐のような歌人は出てこないであろう。更に、女の詠む歌はこのようであって欲しいと思うし、何よりも讃岐の歌には、可愛さと心惹かれる風情がある」と評して、彼女を絶賛しています。
最後に、92番歌については、和泉式部の歌の盗作まがいという批判もあるでしょうが、「石に寄する恋」なんていうお題がお題だし、本歌取りも許されていたので、そう目くじら立てなくてもよいのではないでしょうか。それより、和泉式部の歌にはない「沖の石」という言葉を入れ、「沖の石の讃岐」と呼ばれるようになった言葉選びの上手さに「あっぱれ」を差し上げたいと思います。←以上、女性には甘い源智平朝臣のコメントでした。
・源頼政の挙兵の意義。
いい所をついていただきました。もし77才の源頼政が挙兵してなかったら? 歴史のイフの一つになるでしょうね。まだしばらくは平家と後白河院のつばぜり合いでゴタゴタが続いていたのでしょうね。
次回93番実朝の所で頼朝のことも含め考察してみましたが、以仁王に呼応して頼朝が立ってから天下を牛耳るまでが実に早い(5~7 年)。正に疾風怒濤。これもタイミングの成せるわざだったのでしょう。
「頼政は歴史を動かすきっかけを作った」
→老骨に鞭打っての一仕事。頼政はほくそ笑んで死んでいったのかもしれません。
♪破れ番傘逆さに振って~ ひとつ覚えの捨てゼリフ~
俺がやらなきゃ~~~だ~れ~~~がや~~る。
(男の情話 坂本冬美)
・何故「讃岐」なのか、どこにも見当たらないってのが不思議ですね。杉本苑子「二条院ノ讃岐」に何かヒントがあるのかもしれませんが、手元にありながらついに読めませんでした(まあ時間ができたらめくってみますが)。
・「無明抄」(鴨長明)や「歌仙落書」(当時の芸能誌みたいなものでしょうか)で讃岐の歌は絶賛されているんですね。俊恵の歌林苑に父頼政に連れられてデビューしたのは20才前後、歌林苑ではきっとアイドルだったのだと思います。後から歌林苑に参加した長明には眩しいお姉さまだったのかも。
・わが袖は水の下なる石なれや人に知られで乾くまもなし(和泉式部)
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わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし(讃岐)
盗作ではない本歌取りだ、、、まあそうかもしれません。
いや、和泉式部の歌に「いつき先生」ならぬ「さぬき先生」がバサバサっと赤筆を入れて推敲したのかもしれませんね。
92番 わが袖は汐干に見えぬ沖の石の人こそ知らぬ乾く間もなし
この歌は「石寄恋」という風変わりで突飛な題(聖子さん)に上手く対応している。しおん女史からは「何よそれ~」と突っ込みがはいりそうなお題なのだ。
「乾く間もなし」と、泣きどおしと映るが、海中に沈む「沖の石」を使い人目に付かない処での忍ぶ恋を意味している。百人一首で涙の縁語、「袖」を表現した歌は他に4首あり、いづれも掛詞を巧みにして詠むが、讃岐の歌はダイナミックで、言葉ほど湿っぽさを感じさせない。序詞「汐干に見えぬ沖の石」がユニークで効果的ということらしい。
42番 契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは
65番 恨み侘びほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ
72番 音に聞く高師の浜のあだ浪はかけじや袖のぬれもこそすれ
90番 見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず
「袖を濡らす」という表現は古からあり、万葉集では労働で袖が濡れるという。その労働にも異性への感情が込められているようで、袖(衣)を濡らすというのは詩的表現であった。
我が背子を相見しその日今日までに我が衣手は干る時もなし(703)
妹がため貝を拾ふと茅渟の海に濡れにし袖は干せど乾かず(1145)
王朝時になると「袖の涙」のメタファーから「涙」 は詩的言語の卓越した役割を得る。王朝文学の「涙」は「目」からではなく「たぎつ心」から直接に湧いてくるので「人の心を種として、万の言の葉」になったやまと歌の「声」を表し始めたと言えるだろう。それは当時の思想とも結ばれている「なく」という言葉によって支持されている。つまり、紀貫之の古今集・仮名序の「花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声をこけば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」という言葉も顕示しているように、歌は人間に限らず、すべての生き物に共通しているので、共通した歌の声も「なき声」であったと推測できる。一方「涙を流す」という「泣く」に「亡くなる」の「亡く」を重ねると「なからん後の形見」としての涙の機能も連続的に浮かんでくる。(以上「涙の詩学」 ツベタナ・クリステワ)
源氏物語・道しるべにある源氏百首から
橋姫の心をくみて高瀬さす棹のしづくに袖ぞ濡れける(薫)
さしかへる宇治の河をさ朝夕のしづくや袖を朽たし果つらむ(大君)
・袖、濡れる、涙、忍ぶ恋。。。これも連想ゲームの世界ですかね。
智平朝臣への返信で書いた和泉式部との歌との比較、もう少し考えてみました。
わが袖は水の下なる石なれや人に知られで乾くまもなし(和泉式部)
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わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし(讃岐)
第一句は同じ
第二句「水の下なる」⇒「潮干に見えぬ」
→単に水と言うより干満のある海の方が迫力がある。
第三句「石なれや」⇒「沖の石の」
→歌枕を入れた方が具体的でイメージが湧く
第四句「人に知られで」⇒「人こそ知らね」
→「こそ」を使って強調
第五句は同じ
「潮干に見えぬ沖の石」この二句三句が讃岐の命ということでしょうか。
→昔は「無体財産権」なかったのですかねぇ。今なら完全にアウトでしょうに。
・涙を流して「泣く」、声をあげて「泣く」。王朝人は女は勿論男もよく泣いたようですね。源氏物語でも何かあると源氏始め男たちも「およよ」と声をあげて泣いてます。
→最初読んだ時は「オイオイ、そんなに泣くなよ!」って思ったものでした。
その後武士の世になると「涙を見せない」が男の本領となっていく。そしてついにはお国のため涙も見せず笑顔でバンザイと叫び死んで行くのが普通という狂った世の中になる。
→何ごとも行き過ぎは禁物。泣き過ぎも困るけど悲しかったら、悔しかったら泣くのが自然というものでしょう。
・源氏百首からの引用、ありがとうございます。
薫が宇治を訪れ大君を橋姫になぞらえ歌の贈答をする。ここから実質宇治十帖が始まるのでした。
「袖ぬるる」ではもう一首
袖ぬるるこひぢとかつは知りながら下り立つ田子のみづからぞうき
(六条御息所@葵)
→源氏との絶望的な愛恋から抜け出せぬ我が身の悲運を詠う。
→「細流抄」(三条西実隆)が物語中第一と評した歌。