権門生まれの大僧正慈円。現実的に世相を眺め朝廷を重んじつつ武家の世を受け入れ公武合体を説いた。こういう物分りがよく徳のある人がいたから頼朝も王朝転覆は考えなかったのではないか。偉い人だと思います。
95.おほけなくうき世の民におほふかなわがたつ杣に墨染の袖
訳詩: 見のほど知らぬことよ さもあらばあれ
憂き世の民に私は覆いかけるのだ
比叡の山に住み初めのわが墨染の衣の袖を
みほとけの冥加を念じ
はるか 大師伝教の御跡を踏んで
作者:前大僧正慈円 1155-1225 71才 76忠通の第六子 天台座主
出典:千載集 雑中1137
詞書:「題しらず」
①慈円 76忠通が59才の時の第六子 摂政関白兼実の同母弟 91良経の叔父
・1155生まれ 正に武士の世の到来を告げる保元の乱の前年生まれである。
10才で父忠通死亡 11才(13才とも)で天台宗青蓮院に入寺 13才で受戒
→父が死んだからか。兄等がおり公卿への道が狭かったからか。
(青蓮院は知恩院の北、今度行く中川庵から極く近い)
・比叡山に移り千日入堂、12年も山に籠り厳しい修行を積む(その間京に下りていない)。
25才で山を下り兄兼実に隠居(天台僧を辞める)を申し出るが説得され思い止まる。
→吉野で荒行した66大僧正行尊ほどではないが相当真面目にやったようだ。
→辞めようとしたのは比叡山も荒れてた、それに嫌気がさしたか。
・1192 38才で天台座主になる(頼朝が征夷大将軍になった年)
以後政局の変遷で座主を辞めさせられたり復活したりで計四度座主になった。
→天台宗座主の椅子も政治ポストであった。
・後白河院に続き後鳥羽院(@11才)の護持僧を務める。
→幼少の後鳥羽帝に色々ためになる話をしたのであろう。
・僧にありながら摂政関白兼実の弟、当然政治の世界でも九条家(兼実-良経-道家)のために力を尽す。
→九条家は頼朝派(親幕派)。公武合体を目指す。
・鎌倉は頼朝の死後、頼家・実朝と暗殺が続きごちゃごちゃになる。実朝の後の四代将軍として実朝にわずかながら血のつながってる九条道家の子頼経(2才)が送りこまれる(1219)。
(頼経=父九条道家、父の父91良経。母倫子、母の父96公経)
→慈円は九条家と鎌倉将軍家を結びつけるべく力を尽す。
・1220 愚管抄を著す。
【愚管抄】(広辞苑)
鎌倉初期、日本最初の史論書。慈円の著。7巻。神武天皇から順徳天皇までの歴史を仏教的世界観で解釈し、日本の政治の変遷を道理の展開として説明
→抽象的な説明だがポイントは「公武合体こそが今執るべき道ですよ」と討幕を目論む後鳥羽院を諌める書であった(らしい)。
保元以後ノコトハミナ乱世ニテ侍レバ、ワロキ事ノミニテアランズル
三種の神器宝剣のない後鳥羽院に宝剣はなくても武家が守ってくれますと説く。
コレハ武士ノ、キミ(天皇)ノ御守リトナリタル世ニナレバソレニ代ヘテ失セタルニヤト覚ユルナリ
・1221 慈円の諌めも聞かず後鳥羽院は承久の乱へと突っ走る。
→結果的に「武士の世」が決定づけられる。
・1225 71才で入寂。
→後鳥羽院の隠岐配流には心を痛めたことであろう。
慈円の一生、正に保元の乱とともに生まれ武士の世の確立(承久の乱)を見て亡くなった。承久の乱は止められなかったが、結果的には鎌倉が王朝を覆すこともなく公武合体の国体が以後幕末まで続くことになる。慈円の見通しが600年も続いたということではないか。
②歌人としての慈円
・西行に密教(天台宗)を学ぶには先ず和歌を詠めと言われて和歌に精進した。
→いつ頃の話だろう。西行とは37才違い。西行の晩年であろうか。
・父忠通も勅撰歌人。元々和歌も能くする家系だった。秀才の慈円にしてみれば和歌の習得もお手のものだったのだろう。
・新古今集に91首(西行に次いで多い) 勅撰集合計およそ260首
私家集に拾玉集 5414首もの歌が残る 多作家であった。
→詠んで詠んで詠みまくった感じ。
・甥91良経主宰の九条家歌壇や後鳥羽院歌壇でも活躍。
俊成-定家-為家の御子左家を支援、和歌に行き詰まりを感じ出家しようとした為家を思い止まらせ御子左家歌道の存続興隆に寄与した。
→歌もできる徳の高い高僧としてアドバイスには説得力があったのであろう。
・頼朝とも交流あり。頼朝が上洛し鎌倉に帰るにあたって歌を詠みかわしている。
慈円 東路の方に勿来の関の名は君を都に住めとなりけり
頼朝 都にはきみに逢坂近ければ勿来の関は遠きとを知れ
→公武合体推進論者の慈円。頼朝とはいい関係にあった。
・後鳥羽院も慈円の歌を誉めている(後鳥羽院御口伝)
大僧正は、おほやう西行がふりなり。すぐれたる歌、いづれの上手にも劣らず、むねと珍しき様を好まれき。
・仏門にあった弟に仏道にありながら歌に熱中するのを咎められて
みな人は一つの癖はあるぞとよ我には許せ敷島の道
→しきしまの道(色し魔の道)?
慈円の恋歌を千人万首から引っ張り出してみた。
わが恋は庭のむら萩うらがれて人をも身をも秋の夕暮(新古今集)
→いかにもお坊さんが詠んだ恋の歌。女性の匂いが全く感じられない。
③95番歌 おほけなくうき世の民におほふかなわがたつ杣に墨染の袖
・20代後半ないし30代前半 比叡山での修行中の歌。
(1180-1185 源平争乱の真っ只中)
おほけなく=身分不相応ながら 謙遜の意
・わがたつ杣
比叡山延暦寺天台宗の開祖、伝教大師(最澄)の歌(梵語)を本歌とする。
阿耨多羅三みやく三菩提の仏たち我が立つ杣に冥加あらせたまへ(新古今集)
(あのくたら三みやく三ぼだい) 梵語 サンスクリット語
最上の悟りを開いた仏さま、私が開く比叡山にお加護をいただけますように。
95番歌により「わがたつ杣」は比叡山のことを指すようになる。
・95番歌の俊成評
はじめの五文字より心おほきにこもりて末の匂ひまでいみじくをかしくは侍る
・「おほけなく」と謙遜しながらも「人民よわたしの覆う衣の下で安んじるがいい」とけっこうおこがましい感じの歌である。
→でもこれぞ宗教の歌。カリスマ性がなくては宗教家は務まらない。
仏教の力による世の平安・衆生の救済を図る。
→若いながら「天台宗をしょって立つ気概にあふれている」(白洲正子)
ずっと訳の分からない歌でしたが、色々調べてみて凄い歌であることに気づきました。
百人一首中、時局を反映した歌としては一番じゃないでしょうか。
④源氏物語との関連
あまり思いつきませんが比叡山でしょうか。
・源氏は某の院で頓死した夕顔の四十九日の供養を秘かに比叡山にて行った。
(自ら手配して供養を行うなど初めてだったろう)
かの人の四十九日、忍びて比叡の法華堂にて、事そがず、装束よりはじめてさるべき物どもこまかに、誦経などせさせたまふ。(夕顔19)
・宇治十帖 入水した浮舟を見つけ小野の里に連れて行き面倒みたのが横川の僧都&妹尼
最後の帖(夢浮橋)、薫は浮舟のことを聞くべく比叡山に上り中堂に参詣、横川に回って僧都に会う。出家した浮舟。逢って縒りを戻そうと考える薫。僧都が浮舟に書いた手紙は還俗を進めるものだったか否か。
→宇治十帖の最後の最後は比叡山の山麓小野の里が舞台でありました。
いよいよカウントダウンの段階に入ってきました。
一首一首が愛おしくかけがえなく思われて仕方がない。
藤原忠通の息子で九条兼実の弟である。
父亡き後11歳で比叡山に入り愚管抄の著者として有名。
百々爺さんの解説から歴史上、公武合体の立役者である事も理解できました。
天台座主を四回勤めた名望の人、九条家の中心歌人として新風の興隆に力を加えた。
阿耨多羅三みやく三菩提とは法華経如来壽量品第十六にある経典で然善男子我實成佛已來と続きます。
百人一首中、最後の僧侶の歌である。
95.おほけなくうき世の民におほふかなわがたつ杣に墨染の袖
この歌からは厳しい修行を経た仏法者の気概を感じる。
切り抜き魔の小町姐のことは前に述べとおりである。
山のように重なっている切り抜きを整理して見つけた面白い記事の概略を紹介します。
寄稿者は同じカルチャーセンターで講師を務めている草野隆(星美学園短大名誉教授)
「かるたの中の僧侶たち」と題して以下の通り
百人一首の中の僧侶は一人として仏や経典について詠っていない。
世には観音菩薩や聖徳太子の歌なども伝えられているが不思議なことに百人一首にはそれらも撰ばれていない。
慈円は「墨染めの袖」を詠っているがそれは自らの決意である。
僧たちが詠うのは四季や恋であり身の不遇である。
僧正遍昭などは「乙女の姿しばしとどめん」と五節の舞姫をあでやかに詠っていてなんとも僧侶らしくない。不思議なことはまだある。
和歌には祝意を込めた言葉によって幸いを招き寄せる機能がある。
しかし百人一首に目立つのは恋に苦しみ身の不遇を嘆き諸国をさすらう淋しげな歌人たちの姿ばかりで賀歌がただの一首もない。
落語では陽成院や崇徳院や業平のちはやぶるの歌が愉快に取り上げられているが皆不幸を背負っている。
醍醐天皇や道長など今風にいえば自己実現をなし得た歌人は百人一首には出てこない
定家の「明月記」によって百人一首が僧侶の別邸を装飾する色紙の歌として撰ばれたものであることは知られている。
そうするとなおさらその邸宅を祝福し仏法を賞揚する歌があっても良さそうなのにそうはなっていない、
定家に撰歌を依頼した僧、蓮生は武士にして浄土教の僧でありそれも大物である。
そこで仮説を立てた。色紙の飾られる室は浄土に達していない歌人たちを顕彰し鎮魂するために計画された空間で、定家の撰歌はその為に工夫されたものだという考え方である。
そうすると僧侶も貴人も姫君たちも娑婆をさまよい現世を苦しんでいる歌人ということになる。
そしてその百人の歌人の姿を西の仏堂の阿弥陀如来が極楽へと導く図式である。
だから尊い菩薩や経文の歌はここにはない。
考えて見れば僧蓮生の邸宅に仏堂がなかったはずがない。
先の僧正遍昭の歌はこの蓮生のための色紙の草稿ではもともと喜撰法師と蝉丸に挟まれた形だった。
三人の僧が並べられていて脱俗の聖と天皇に信任された高位の僧と、もと皇子であったという伝説さえある僧が対照されているのである。
すなわち様々な僧の「人生のありかた」が比較対象される仕組みらしい。
坊主めくりで嫌われる僧侶歌人たちはそれぞれに深い事情を抱かえて苦悩する存在として定家に撰ばれたのではないか。
こうした視点から見直すと百人一首は未だ光の当たっていない部分がが数多くあるように思われるのであると結ばれていますがいかがでしょうか?
百人一首一夕話の逸話
高僧の身で歌を読むことに執着していることを奈良の一条院門主にとがめられた時の逸話。
みな人の一つの癖はあるぞとよ我には許せ敷島の道
歌で応えている所、洒落ていますね。僧侶だって人間ですもの。
上記の切り抜き「かるたの中の僧侶たち」の答えにもなりそうです。
僧正遍昭、喜撰法師、蝉丸もそう言いたかったのかもしれませんよね。
「我にはゆるせ」この後、如何様にも続けられそうですね。
みな様なら何と続けたいですか?
さあ~私、小町姐ならさしずめ○○○○の道
百々爺さんにあっては(→しきしまの道(色し魔の道)?)
皆さまは如何?
・そうですね。百人一首僧侶13人(蝉丸入れて)中の最後ですね。
13人、復習しておきましょう。
8喜撰法師 10蝉丸 12僧正遍昭 21素性法師 47恵慶法師
66大僧正行尊 69能因法師 70良暹法師 82道因法師 85俊恵法師
86西行法師 87寂蓮法師 95慈円
→でもこの分類もいい加減。だって道因法師は83才で出家するまで藤原敦頼だったし、逆に俊成は63才で出家し釈阿と名乗ってるんですから。名前をどう登録するかによって違いますもんね。
→80番台に4人もすごい。そういう時代だったんでしょう。
・なるほど、僧侶たちは抹香くさい歌を詠ってないし、貴人・貴女も嬉しい歌、祝賀の歌を詠っていない。それは極楽に行けずに中空を彷徨っている歌人たちを鎮魂するためってことですか。
→一つの解釈でしょうね。でもこんなに多くの歌人たちが中空を彷徨ってたら大変じゃないですか。歌人たちの人生模様みてきましたが、勿論それぞれ苦労はあるのでしょうが、けっこう人生をエンジョイし心おきなく天国へ旅立った人も多いと思うんですが。
→それに96番公経以降、家隆、後鳥羽院、順徳院は百人一首撰定の1235年現在まだご存命中ですもんね。
・「みな人の一つの癖はあるぞとよ」
まあ人はみなそれぞれ癖というか普段の自分とは違った一面を持ってますよね。取り柄であったり欠点であったり。慈円の場合、和歌は癖というより自分の生活そのものだったと思いますけどねぇ。
慈円、こういう高僧が居たというのは、なんだか気持ちがほっとするところがある。行尊の時も、そのように思った。百人一首に二人登場する大僧正は、単に地位を示す名だけではなく、修行を重ね、人を愛し、一段上から物事が見えていた実がある僧侶であったと思う。僧正遍照と比較するのは大変失礼であるが、”大”にはそれなりの価値がある。
鎌倉時代に入り、どうして王政が武家世界と共存しえたのか、王政にもまだまだ地力があり、武家政治も内輪もめが多く力が不十分だったから、その均衡の上に成立したと理解してきたが、慈円のような、”公武合体”を唱え、”愚管抄”を表した人物がいたから実現したことも事実で、今回初めて慈円を調べ、爺に教えられ、長年の疑問がかなり解けた気がして、今朝は気持ちがいい朝である。
”和の国”のことで、小生の疑問が解けずにいることは多くあるが、主なもの
*仏教徒と神道の共存(聖徳太子の存在が大きいと思っている、御朱印を集めだし て、諸寺を尋ねなおしているが、神仏習合がなんと多いことか)
*武家と王政の共存(今回慈円の存在を知る。途中でやめたNHK大河ドラマ”平清 盛を改め見始めてもいる)
*光源氏という登場人物(今爺から教えてもらったNHKラジオ第二”源氏物語の 学ぶ十三の知恵”を読み、考え中、でも島内景維二さんのこの講義は、まだ途中で すが、おもしろいです)
*支那事変から太平洋戦争に突入した理由?背景
和歌もそうだが、どうも”和を尊ぶ”が一つのキーワードになってくる気もする。
脱線したが、慈円が好きな理由のひとつが、公武合体もそうであるが、世界観の大きさがある。他人の考えを認める広さであろう。
WIKIより、
”当時異端視されていた専修念仏の法然の教義を批判する一方で、その弾圧にも否定的で法然や弟子の親鸞を庇護してもいる。なお、親鸞は治承5年(1181年)9歳の時に慈円について得度を受けている。”
いま、法然をかじり始めているが、確かに慈円が多く出てくる。
そして歌人としての慈円、好きな歌を、千人万首より
百首歌奉りし時よめる
わが恋は松を時雨のそめかねて真葛が原に風さわぐなり(新古1030)
題しらず
山里にひとりながめて思ふかな世にすむ人の心づよさを(新古1658)
・僧侶13人中、12僧正遍昭(桓武帝孫)、66大僧正行尊(三条帝曾孫)、95慈円(関白太政大臣忠通息子)の3人は出自が別格ですよね(21素性は遍昭の息子ですが)。権門の人が僧侶になってこちらの方面でリーダーシップを発揮する。これも世の中を治めるのに大事なことだと思います。
→その3人も俗聖の狭間で気楽に生きた遍昭、荒行を積み歴代天皇の護持僧を務めた行尊、武家の台頭の中にあって君臣(天皇家と藤原家)の存続を図った慈円と役割は違いながら、その時代の宗教界で重きをなしたエライ人だったのだと敬意を表したいと思います。
・わが国は「和の国」であり、キーワードは「和を尊ぶ」ですか。全くその通りだと思います。
神仏習合、武家と王政(朝廷・公家)の共存。
→これぞ日本の姿だと思います。
光源氏の人物像。
→いいですねぇ。私もいつも源氏物語振り返って源氏のこと考えてます。共感したり反発したりの繰り返しです。
支那事変から太平洋戦争
→全くねぇ。今話題の教育勅語読み返してみました。
「教育勅語の中にも共感すべき項目がある」ですって! とんでもない。「汝臣民に告ぐ、身命を賭して国体を守れ」が本旨の教育勅語、この精神が元凶だったのだと改めて思いました。
この95番歌はスケールの大きな歌ですね。仏法によって天下万民を救おうというのですから。名僧のういういしさが感じられます。
「憂き世の民」は悪疫、飢饉、戦乱という現実を生きているすべての人々をさしているわけで、立派な僧になる素質が若いころから十分あったのですよね。
和歌は本当に好きだったようで、九条良経、定家、寂連などと和歌の催しを熱心に行っていたようです。
わざわざ難しい題、珍しい題を出したり、共通の字や句を決めておいて、必ずそれをよみ込まねばならないという条件を設けたり、百首歌を短時間によむことを競ったりしたようです。中でも慈円は速詠が得意だったようです。
琵琶語り「平家物語」の作者、中山行長はもと、関白九条兼実家の家司を勤めていて、その後出家。その行長を慈円は扶持したので、おそらく琵琶語り「平家物語」成立のスポンサーは慈円だともいえるでしょう。
影印本「百人一首」に次のように記されています。
この歌は慈鎮和尚自歌合(建久末年)、大比叡十五番中の二番右に見え、左「志賀の浦にいつつの色の波立ててあまくだりますいにしへの跡」に対して負けとなっている。その判詞(俊成)に「此の右歌は、はじめの五文字より、心おほきにこもりて、末の匂ひまでいみじくをかしくは侍るを、左方、志賀のうら波の色、ことに身にしむここちして、いにしへのあと、猶たちまさるべくや侍らん」とある。
定家でなく俊成だったら、百人一首のなかの慈円の歌は別の歌だったかもしれませんね。
安東次男氏によると「慈円の歌はおびただしく遺されていて ~ その中から比較的初期のこの歌を定家が採ったのは、一つには百首も終わりに近づいて王道の歌が必要だったからだろう。後年、天台座主となった人の歌にふさわしい、と眺めている」となります。
謡曲『隅田川』にある「真葛が原の露の世に」は新古今、恋一、慈円の歌「わが恋は松に時雨の染めかねて真葛が原に風さわぐなり」からきています。
・「憂き世の民」に語りかけた95番歌、おっしゃる通りスケールの大きな歌だと思います。
1180~1220のあたり、源平の争乱~鎌倉政権~承久の乱と世の中、人為的な騒乱で大変だった訳ですが、自然の災害(天災)の面でも干ばつ・洪水が繰り返され大飢饉・疫病、暴行・追剥・強盗がひきもきらず。想像するだに恐ろしい時代だったのだと思います。それに敢然と立向かう慈円、そう思えば95番歌、ホントかっこいい歌だと思います。
・そうですか、平家物語の作者と言われる行長は兼実家に仕えていたのですか。慈円は平家物語成立のスポンサーだった。
→ひょっとして「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」は慈円が考えたのかもしれませんね。だって慈円が入寺した青蓮院は祇園の近くですよ(関係ないか)。
・安東次男説、いいですねぇ。私も95番は人物は慈円、歌はこの歌をおいて他にないと思います。
百々爺さんコメントでは比叡山から夕顔&宇治十帖を連想されています。ふと比叡山を意識して描いたことを思い出して、源氏物語25帖の蛍を投稿しますね。蛍の光で玉鬘の美貌を捉える描写は好きな名場面のひとつでした。
http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2017/03/KIMG0145_20170313111936.jpg
投稿ありがとうございます。きれいに描けてますね。
蛍の帖。蛍に照らされる玉鬘のシルエットと源氏と玉鬘との物語談義を思い出しました。比叡山がバックだったのですか。私は猿沢の池に映る興福寺の五重の塔かなと思ってました。色んなところからイメージを引っ張ってくる。まあ前回出てきた雅経の本歌取りみたいなもんですかね。
先週、梅と東寺餅に誘われ京都を訪ね、ウオーミングアップをしてきました(詳細FBご参照)。本番の完読旅行楽しみにしております。廻り切れなければ第二波、第三波でカバーしましょう。
95番歌 おほけなくうき世の民におほふかなわが立つ杣に墨染めの袖
日本人の哲学的思案の根底に仏教の影響があったのは当然のこと。出家の身であれば、詠む歌にもそれは顕著に表れる。前大僧正慈円(1155~1225)が格調高く詠んでいる。
当時、坊さんが平均的に教養の人であった。その中でもこの慈円は第一級の中の第一級。出自は権力を極めた藤原家の中枢であったが、幼くして出家。比叡山に入り、やがて天台宗の座主、大僧正となった。法界の最高の実力者である。学問の方も凡庸なレベルを超え、その著作「愚管抄」六巻は、歴史書として独特の史論を含む名著である。歌ももちろんうまかった。
仏の教えを究め、学問にも精を出し、そのほかこの人の楽しみはと言えば、歌を詠むことくらい。歌は軟弱なたしなみであるから、
「僧侶なのに花鳥風月の道なんか夢中になって、いいのかね」
と、けちをつける人もいたらしい。それに対し慈円は答えて、小町姐も触れているように、
みな人の一つのくせはあるぞとよわれには許せ敷島の道
パロディがあって
みな人の一つのくせはあるぞとよわれには許せ色情の道
これはかなり困るんだなあ、許せません、とは阿刀田氏。
一方吉海氏曰く、
慈円が最初に天台座主になったのが建久三年。この歌はそれより四年以上前の詠かと。墨染めの掛詞たる「住み初め」を重視すれば、若いころ比叡山に住み初めた時(二〇代後半ごろか)の詠作ではなかろうか。
そして定家が勅撰集入集歌二六七首の中から、あえて「おほけなく」歌を慈円の代表作に撰んだのは、この歌の成立状況とは別に、四度も天台座主になった慈円の数奇な人生を象徴するのにもっとも相応しいものと再解釈しているのではなかろうか。それは既に「慈鎮和尚自歌合」の中で判者たる俊成が、この歌を「初めの五文字より心おほきにこもりて末の匂ひまでいみじくをかしくは侍る」と注している事によっても察せられる。定家の解釈もまさしくその延長線上にあった。だからこそ洗練された新古今調の歌を撰ばず、あえて宗教的な述懐歌を慈円の人生史の象徴として撰んでいるのではないだろうかと。
京での梅見、伊勢でのゴルフ堪能されたことでしょう。完読旅行、近江は文屋どの馴染の所のようですから、薀蓄楽しみにしています。
→松阪牛と近江牛と神戸牛の賞味比較なんてね、、。
・「日本人の哲学的思案の根底に仏教の影響があった」
そうですよね。やはり人民にとってお坊さんはエライ人。今でも法事の後など必ずためになるいい話をしてくれますもんね。百人一首のお坊さんの話でも挿めばますます尊敬度は上がるでしょうに。
・「みな人の一つのくせはあるぞとよわれには許せ色情の道」
これこそ光源氏の歌でしょう。義母、人妻、熟女、醜女、男色、幼女拉致、ロリコン、覗き、レイプ、コスプレ、身代わり、、、正にポルノ映画の百科事典。(源氏物語道しるべ ウオームアップより)。
→そんなありきたりの色情の道には飽き足りず源氏が目指したのが「あやにくの恋」。どうです、読んでみたくなったでしょう。
慈円は僧侶でありながら、深く政治に関与した外、多くの歌を残し、歴史書「愚管抄」も残しました。愚管抄では日本の歴史の背景にある「道理」を明らかにしようと試み、貴族の時代から武家の時代への転換を道理に基づくものとして受け入れ、道理に従う世直しのあり方として公武合体を提唱しました。定家が明月記の中で、慈円を「抜群の賢者」と称賛していますが、慈円は前向きに世の中の推移を捉え、我が国が進むべき道を考え抜いたスケールが大きくて素晴らしい政治思想家でもあったと智平は思います。
また、①法然の専修念仏の教義には批判的であった一方で、その弾圧には否定的で法然や弟子の親鸞を庇護した、②いつも辛口な吉田兼好が「慈鎮和尚(慈円のこと)、一芸ある者をば、下部まで召し置きて…」(徒然草226段)と「慈円は一芸があれば、身分に関係なく面倒を見た人物」と讃えた、といった記録を読むと、公平で寛大な心の広い人物として大いに好感を抱きます。
歌人としての慈円は多作で、百合局さんのコメントにあるように速詠が得意だったようですが、その速詠も世の中の変化に対する慈円の思いの反映であるという見方もあります。即ち、民衆と直結した新たなタイプの文化や宗教(例えば、専修念仏)が徐々に広がって行く中、慈円は古い朝廷文化をそのまま保持し伝えていくだけではなく、それを内部から刷新していく必要があると考えて、時間をおかずに次から次へと和歌を詠む速詠を選びました。その理由は、速詠は神仏の奉げる歌として詠まれることも多く、趣向として神を喜ばすことに加えて、社前において「自己の心情を作為や変形を含まずに吐露する」という宗教活動だからです。定家を初めとする当時の新進歌人も伝統的な和歌の様式からの脱却を志向しており、速詠が瞬間的な発想の優劣を競う一種の技術比べという魅力を持っていたので、速詠はそれなりに受け入れられ、流行ったようです。速詠歌では、特定の言葉の繰り返し(例えば下記の「色」)やすぐに口についてでる口語的な言い回し(例えば「なまめきたてる」)も許されましたが、そうした例を含む慈円の速詠歌を3首ほど紹介します。
・鶯の梢に来ゐる初音より 色に色添う住の江の松
・こはいかに又こはいかにとに欺くに 唯悲しきは心なりけり
・いつまでかなまめきたてる女郎花 花も一時露も一時
八麻呂さんのコメントにあるように、親鸞は9歳の時に青蓮院院主の慈円について得度を受けました。この得度については、次のエピソードが伝わっており、青蓮院には今でも「親鸞得度の間」があり、その時の絵が「御絵伝」として飾られています。
親鸞は9歳の春に叔父に連れられて、青蓮院の得度式に臨みました。ところが、得度に必要な中務省の許可が遅れ、夕暮れ時となってしまいました。慈円が日も暮れかけたので明日にしようと言われた時、幼い親鸞聖人は次の歌を詠み院主に訴えました。
・明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは
仏法には明日は無いという厳しい思いから、私は今、得度式をしてほしいという切なる願いを歌に託したのです。慈円は童子の心根に感嘆し、早速その夜に得度出家の儀を行い、僧名を範宴(はんねん)と名付けました。この得度の由縁から、真宗高田本山の得度式は昼間でも扉を閉ざして、夜になぞらえて執り行われています。
投稿が一日遅れとなったのは、昨日、少なくとも75歳までは元気でゴルフを楽しもうという「なごみ会」のゴルフ・コンペに百々爺や枇杷の実さんと一緒に参加していたからですが、コンペでは枇杷の実さんが見事に初優勝を飾りました。誠におめでとうございました。百々爺は堅実に3位に入賞しましたが、智平はボロボロの成績。どっと疲れて、家に帰った次第です。
慈円、保元の乱~承久の乱の世にあって見事に政治と宗教の両面から自らの果たすべき役割を果たした偉人だと思います。こういう人はいいですねぇ。
・当時の宗教界、どんな感じだったのでしょう。従来の天台・真言他密教系に源信の浄土宗が一般的になり、次いで法然、親鸞の念仏仏教が興りはじめたころという図式でしょうか。慈円は天台宗(座主)でありながら教義の違いはともかく法然や親鸞を庇護(主として経済的にか)したのですね。これも偉いですね。
→「うき世の民におほふかな」の対象には法然も親鸞も入っていたのでしょう。「みんなまとめてめんどうみるよ!」の心意気が感じられるじゃないですか。
・親鸞得度の時のエピソード、いいですね。青蓮院には「親鸞得度の間」があるのですか。益々青蓮院に行ってみたくなりました。
明日ありと思う心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは
慈円に今日中にやってくださいよと催促した親鸞の歌。新人らしく初々しくていいですね。
英語の短文を思い出しました。
Do not put off until tomorrow what you can do today.
(得度に中務省の許可が要るってのも面白いですね)
昨日はお疲れさまでした。ちょっと相性が悪いんですかね。ゴルフはさながら「魔性の女」。持前のアタック精神あらば籠絡も時間の問題でしょう。
【お知らせ】
現在NHKBSでグレートトラバース2が再放送されています。
昨日見ていたら陽希さんが丁度200名山82座目の滋賀、武奈ケ岳に登山中でした。
次回は多分武奈ケ岳から御在所に入るはずです。
今回は一山ごとに15分かけて放送されるので地域ごとにまとめてのものとは少し雰囲気が変わります。
ひょっとして私も映るのではないかと期待しているのですが・・・・
皆さんよろしければNHKBSプレミアム見て下さい。
放送は3月20日(月)12:00~13:00です。
連絡ありがとうございます。陽希さんの再放送やってるんですね。折角のお宝コンテンツでしょうからNHKとしても繰り返しやらなきゃってことでしょうね。
3月20日、見てみます。御在所で小町姐さん登場するか。楽しみです。
陽希君は来週20日に御在所岳ですか、小町姉さんの登場を期待して録画取りを家内に頼んでおきましょう(枇杷の実はそのころ高野山にいます)。
みな人の一つのくせはあるぞとよわれには許せ敷島の道
源氏物語は官能小説か?Yes, of course!, 時に「源氏物語は教育書である」とも言われています。源氏物語道しるべ ウオームアップを読んでみると、この段には清々爺さんも力が入っていました。ところで、「あやにくの恋」とは、あいにくの恋のこと?それとも相肉の恋?
声はせで身をのみ焦がす蛍こそいふよりまさる思ひなるらめ(玉蔓)
なんだか、いい歌ですね。 音もせで思ひに燃ゆる蛍こそ鳴く虫よりもあはれなりけれ (重之)「思ひ」の「ひ」という言葉に「火」と「(思)ひ」を掛けているとか。身につまされます(冗談です)。
さて、慈円の95番、生きたのは古代末期から中世初期の段階で、朝廷か武士か選択に迫られる動乱の時代であった。院政→平氏政権→源氏政権→北条執権政治という目まぐるしい世間交代がわずか65年(保元の乱から承久の乱)の間で起こる。仏教界も同様に、専修か兼修か、権力者のための仏教か民衆に開かれた仏教か、始覚(修行の結果解脱する)か本覚(もともと悟りの状態にある)かなど選択に時代に入る。
おほけなくうき世の民におほふかなわが立つ杣に墨染めの袖
俺が救世者と言わんばかりの高邁な理想をもった歌詠みです。不安、煩悩、業苦ばかりが現実を覆う中で、比叡山で修行中の若き慈円は四苦八苦の満ちた憂き世に暮らす人々を救済したいと覚悟・使命感を抑えきれなかった。38歳で天台座主となった慈円だが、僧職に専念していたわけではない。摂関家に生まれた以上、出家しても政治に無縁とはいかず、権力者の兄・九条兼実や後鳥羽天皇と深く関わり振り回されることになる。
専門歌人とはいえない慈円が自己の信念を具現化するために選んだ装置が、時間をおかずに次から次へと和歌を詠む「速詠」であった。慈円の詠みぶりはその拾玉集に、
さもあらばあれ春の野沢の若菜ゆゑ心を人に摘まれぬるかな(若菜)
思ひとけ夢のうちなる現こそ現の中の夢には有りけれ(夢)
皆人の知り顔にして知らぬかな必ず死ぬる別れありとも(無常)
・「あやにくの恋」
分かりにくかったですね。ごめんなさい、私の造語です。
第二帖帚木の冒頭(雨夜の品定めの前)で源氏の性格として、「普段は生まじめだが時にはとんでもない恋に突っ走ってしまう癖がある」という趣旨のことが語られています。そこに「あやにく」という形容詞が出て来ます。これから始まる源氏の数々の恋はこの「あやにくなご本性」のなせる所という訳です。
、、、まれには、あながちにひき違へ心づくしなることを御心に思しとどむる癖なむあやにくにて、さるまじき御ふるまひもうちまじりける。(帚木1)
・玉鬘の「声はせで」の歌、48源重之の「音もせで」からそっくりいただいていますねぇ。テキストの脚注でもしっかり指摘されてました。
身をこがす蛍というともう一つ56和泉式部の歌
もの思へば沢のほたるもわが身よりあくがれ出づる魂かとぞみる
・そうですね、この時代は仏教も大きな変革を遂げる時期なんですね。
「権力者のための仏教か民衆に開かれた仏教か」
いい観点だと思います。源氏物語には皇族・貴族を守り救うための仏教がわんさか出てきますが、万人のためではない。法然・親鸞に始まる鎌倉仏教の出現は大きな出来事だったと思います。
・そうですか、慈円の速詠は自己主張の道具であったとう訳ですか。いい癖を持ったものですね。
→確かに僧侶のトップ兼政治的人間であった慈円、専門歌人ではない。
→でも5414首の歌を残し勅撰集入集260首はすごい!
(ゴルフ優勝、おめでとうございました。高野山ですか。楽しんできてください。比叡山は源氏物語にも百人一首にも出てくるのですが空海の高野山はあんまり出てこないんですよね)
「あやにく」。
どこか耳に懐かしい言葉だなあと思ったら、早春賦二番、
にありました。
「蘆の角」は春の季語。
そうか、早春賦にありましたか。
きっと「あしはつのぐむ」も「おもうあやにく」も何のことやらさっぱり分からずに歌っていたのでしょうね。
「蘆の角」春の季語ですか。当地の沼地ではまだちょっと早いかな。でも新芽もそろそろ水面から顔を出すころかと思います。観察してみます。