今につながる西園寺家の始祖とされる公経。承久の乱またぎで一歩抜け出し後鳥羽院失脚後、京朝廷での第一人者となる。豪奢を極めた西園寺(今の金閣寺の所)を建て権勢を誇った公経、どんな人だったのでしょう。
91九条家の 良経 が 1169生まれ
94飛鳥井流の 雅経 が 1170生まれ
96西園寺家の 公経 が 1171生まれ
これって何なんでしょう。ややこしくてゴチャゴチャになりますねぇ。。
96.花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり
訳詩: 花を誘って庭一面に白く散らす無情の嵐よ
この庭に白く積るものは 雪ではない
雪ではない 降りゆくものは
古りゆくものは
わが齢のみ
作者:入道前太政大臣 藤原公経 1171-1244 74才 従一位太政大臣 西園寺家の始祖
出典:新勅撰集 雑一1052
詞書:「落花をよみ侍りける」
①西園寺公経
(藤原公経と言うと11世紀に居た人と混同するので西園寺と呼ぶのがいいらしい)
・父藤原実宗 - 閑院流
藤原北家閑院流=師輔の子公季から始まる家流、道長時代は傍流であったが白河帝以降は天皇外祖父(外戚)の主流となる。
実母が閑院流娘の天皇 白河帝 母茂子 外祖父公成
鳥羽帝 母苡子 外祖父実季
崇徳帝 母璋子 外祖父公実
後白河 母璋子 外祖父公実
→81後徳大寺実定の項、参照
・閑院流は三条家・西園寺家・徳大寺家に分れ五摂家に次ぐ家格の公家となっていく。
西園寺家の始祖が96番歌の公経で西園寺公経と呼ばれる。
最後の元老と呼ばれ二度総理大臣となる西園寺公望1849-1940は西園寺家第37代当主
・公経の姻戚閨閥関係、これがすごい。
正妻=全子(源頼朝の同母妹坊門姫の娘、父は北家中御門流一条能保)
→頼朝のかわいい姪。頼朝は婿のごとく公経を大事にしたのではないか。
公経の娘倫子は91九条良経の子道家の妻となり頼経(鎌倉4代将軍)を生む。
また倫子の娘竴子は後堀河帝の中宮となり四条帝の母となる。
(外孫に4代将軍頼経と後堀河帝中宮竴子。ひ孫が四条帝)
→これってすごい閨閥。公経が権勢を誇った理由が分かる。
・鎌倉幕府との結びつき
頼朝の姪全子を妻に迎えたことから鎌倉幕府とは親密。親幕派。
1219 実朝暗殺さる。4代将軍に外孫の頼経(2才)を送り込む。
1221 承久の乱 後鳥羽院の乱の情報を事前に鎌倉に通報。乱鎮圧の功労者に。
1222 太政大臣就任 また鎌倉との関係から関東申次に就任。
以後10年ほど京朝廷の第一人者として君臨する。
1231 病気により出家(出家後の様子はうかがい知れない)
1244 没
・西園寺の名の由来は北山(今の金閣寺の所)に豪勢な西園寺を建立したことによる。
西園寺の様子 増鏡より
太政大臣そのかみ夢み給へることありて、源氏の中将(光源氏)わらはやみまじなひ給ひし、北山のほとりに、世に知らずゆゆしき御堂を建てて、名をば西園寺といふめり。
西園寺に植えた桜を詠んで
山ざくら峯にも尾にも植ゑおかむみぬ世の春を人や忍ぶと
→源氏物語若紫の冒頭、源氏が10才の若紫を発見する場面が引かれている。
・公経の人物評価は毀誉褒貶相半ば。
処世は卓越してたが閨閥を活かし幕府に追従したお陰で京での豪奢な生活は自己中心的。
→世人のやっかみを受けるのはやむないか。でも西園寺邸はやり過ぎだったのでは。
②歌人としての西園寺公経
・多芸多才で和歌・琵琶・書に通じる風流貴公子であった。
・1200以降の数々の歌合に出詠
新古今集に10首、新勅撰集(定家撰出)に30首他、勅撰集に114首
・定家との結びつき、、、すごい結びつき!
公経の姉が定家の妻になり為家を生む。(定家は公経の義兄)
公経は為家をかわいがり猶子としている。
その為義の岳父(妻の父)が宇都宮頼綱。定家に百人一首色紙を所望した男。
→公経は当然定家(御子左家)の大スポンサーとなっている。
その定家が「明月記」の中で公経を「大相一人の任意、福原の平禅門に超過す」と評している。清盛を凌ぐ勢い、公経の権勢ぶりがよく分かる。
・公経の歌から、
西園寺妙音堂に琵琶の道のことで祈りに行く際
音絶えてむせぶ道には悩むとも埋れな果てそ雪の下水
・公経の歌人としての評価は高くなく、新勅撰集に30首を撰入したのも定家の個人的理由とされる。百人一首への撰入も定家との特別関係からであろう。
→だって百人一首を頼んだのは宇都宮頼綱。猶子為家の妻の父。公経を入れない訳にはいかないでしょう。
→百人一首90番台は人物撰でいい。承久の乱後京朝廷の太政大臣として鎌倉と政治を動かした公経が入っていることすごく重要だと思う。
③96番歌 花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり
・花さそう嵐 常套句ながら老いの嘆きに繋げているところが評価されている。
権勢を極めた者が老いを迎えてこれだけはどうにもならないと嘆じた歌。
・ふりゆく 降りゆく&古りゆく
・本歌
9花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に(小野小町)
・「花さそふ嵐」の先行歌
花さそふ嵐や峰をわたるらん桜波よる谷川の水(金葉集)
・定家の先行歌
春をへてみゆきになるる花のかげふりゆく身をもあはれとや思ふ(拾遺愚草)
・逆の発想の歌(桜の花よ沢山散って老いの道を隠して欲しい)
基経40の賀での業平の歌(伊勢物語97段)
さくら花散りかひ曇れ老いらくの来むといふなる道まがふがに(古今集)
・90番台は91冬に近い秋、94秋、98が夏。一首は春の歌が欲しい。それも桜の歌。
桜の歌は百人一首に6首(9花のいろは・33久方の・61いにしへの・66もろともに・73高砂の・96花さそう)。
→「9花のいろは」で始まり「96花さそふ」で春の桜を締めくくる。何とも粋な計らいではなかろうか。
④源氏物語との関連
さっぱり思いつきませんでした。
・春の嵐は源氏が須磨から明石に移るきっかけ手段として出てきました。
・老いを嘆く歌、源氏物語から探してみましたが見当たりませんでした。
(34番歌の所で老いを嘆く歌に触れてますのでご参照ください)
96番歌の歌意としては若菜下源氏が老いゆく自分を嘆き、若き柏木の過ちをいびる場面での源氏の気持ちかとも思うが、若菜下の場面は初春前の師走。歎きの度合いもちょっと違う気がします。
入道前太政大臣、誰のことかしら?と思えば藤原公経、相変わらず官名ですね。
公経と公任、似ているので何らかの関係があるのかと思っていました。
おっしゃる通り、「あなかしこ、このわたりに、若紫やさぶらふ」の人と間違えそうです。
解説から西園寺公望に繋がるすごい家系だと言う事がよくわかりました。
家系だけでなく政治的には親幕派で文人的には定家とも結びつき処世術に長け多芸多才な公経の人物像が見えてきました。
花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり
本歌は小野小町の歌でしたか。
花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に
道理で一見したとき真っ先に小野小町を連想しました。
美しい花と老いの嘆きを対照的に詠っていて男女の違いこそあれ小野小町の歌とも通じるなと思っていました。
女が容貌の衰えを詠ったのに対して男は栄枯盛衰の人生の儚さを詠った。
9番から96番の花つながり面白い趣向です。
果たして定家にその意思があったかどうか?これを思いつく百々爺さんもすごい!!
今回は予備知識全くなし、予習もしなかったのでこの辺で置きます。
後は皆さまの新しいコメントを待ちましょう。
NHK・BSグレートトラバース2(183座目の御在所岳)が先ほど再放映されました。
皆さんご覧いただけましかしら?
最初見逃したのですが陽希さんから再放送されると聞きました。
出たがり屋の私が右に左にチラチラと映りました。
ピンクとグレーのレインウエアーに黒帽子の小柄なおばさんが私でした。
ちなみに同行した息子はチラとも映らず控え目な男です。
同時録画もしたのでしばらくは保存しておこうかな・・・
見ましたよ!
雨だったのですね。
雲海が素晴らしいと思いました。
四日市の町も他の下界も全然見えなかったですね。 やはり、ピンクとグレーのレインウエアが小町姐さんでしたか。
もしかして?と感じていましたが・・チラチラだったので確信は持てませんでした。
雨の中、山頂で待っているのは大変だったでしょう?
応援するということは、そういうことなんですね。
陽希くん&小町姐さん、見せていただきました。バッチリ映ってましたね。本放送の時は御在所殆どカットされてましたもんね。よかったです。
改めて「小町姐さん、御在所岳にて陽希くんに会う」(2015.11.4)読ませてもらいました。陽希くんは湖西から琵琶湖大橋を渡りこの日は日野町から御在所まで登ってきたのですか。すごい!
→大津市内だけの観光にジャンボタクシーを考えているウチらと大分違いますね。
・そうですね、「藤原」って聞いても別に貴族っぽい感じはあまりしませんが(藤原で検索すると藤原紀香が上位に出てくる)、西園寺・鷹司・京極と聞くとお公家さんそのものですよね。でも高校日本史レベルでは西園寺と言えば公望。これで有名になったのだと思います。
・増鏡に北山の西園寺を紹介するのに源氏物語若紫が引用されてますが、これにはちょっと違和感を覚えます。若紫の北山は鞍馬寺でしょう。朱雀院が出家して退いたのが西山のお寺(仁和寺)とされてるし、西園寺も西山というべきじゃないでしょうか。
・百人一首も終わりころになって再び往年の大スター小野小町を思い出させるようになってる仕掛けは見事だと思います。
→もう一人在原業平を思い出させる仕掛けはあるのでしょうかね。
百々爺の書いている以外のことを探すのに苦労する感じの西園寺公経さんです。
朝廷人事を思いのままにし、幕府に追従して保身と我欲の充足に汲々としたとも伝えられ、「世の奸臣」(平戸記」と評されたそうです。
加えて多くの荘園や宋との貿易による莫大な収入で豪華奢侈を極めたので、やっかみもあったのでしょうか。
太政大臣になろうが、権勢をふるおうが、栄耀栄華をきわめようが、老いは必ずやってきます。その時、淡々と
花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり
と詠んだということは、以前からずっと自分への醒めた感覚があった人かもしれませんよね。
公経の妻の一人に白拍子某(もと平親清妾)とあって、二男一女があり、その一女、西園寺成子が後深草天皇妃というのも興味深いです。
・西園寺公経という人、この人の閨閥はすごいですね。というのも妻も頼朝の姪を筆頭に僧の娘とか多種多彩、白拍子某ってもと平家の奥さんだった人ですか。やりますねぇ。そして子どもが多数生まれてる。けっこう老いても精力絶倫だった感じがします。
→壮絶な九条家(良経-道家)との外戚争い。娘を生ませることに命を懸けた人生だったとも言えましょうか。
・「ふりゆくものはわが身なりけり」
公経が西園寺を建立したのが1224(@54) この頃公卿として絶頂
1231(@61)病気で出家、1244(@74)死没
→病気の具合、出家後の生活はどんなものだったのだろう。
→96番歌「落花をよみ侍りけり」は死を意識した歌かと思います。
爺や皆さんの解説・コメント以上、書くことがあまり見当たらないので、WIKIより歴史のことを二つ整理
関東申次、朝廷側の政治上の要職、西園寺家が歴代勤める。
関東申次(かんとうもうしつぎ)は、関東執奏(かんとうしっそう)とも言い、鎌倉時代の朝廷に設けられた役職で、鎌倉幕府側の六波羅探題とともに朝廷・院と幕府の間の連絡・意見調整を行った。
日宋貿易
清盛の話は有名だが、西園寺も日宋貿易の交易の利で建てられたと、どこかで読んだ記憶がある。
越前守でもあった平忠盛は日宋貿易に着目し、後院領である肥前国神崎荘を知行して独自に交易を行い、舶来品を院に進呈して近臣として認められるようになった。平氏政権が成立すると、平氏は勢力基盤であった伊勢の産出する水銀などを輸出品に貿易を行った。平治の乱の直前の1158年(保元3年)に大宰大弐となった平清盛は、日本で最初の人工港を博多に築き貿易を本格化させ、寺社勢力を排除して瀬戸内海航路を掌握した。また、航路の整備や入港管理を行い、宋船による厳島参詣を行う。1173年(承安3年)には摂津国福原の外港にあたる大輪田泊(現在の神戸港の一部)を拡張し、3月に正式に国交を開いて貿易振興策を行う。一方で、宋銭の大量流入で貨幣経済が発達し物価が乱高下するようになったり、唐朝滅亡以来の異国に対する社会不安なども起こっている。
1199年(日本の建久10年)7月、高麗と日本の商人に銅銭の交易は禁止された[2]。
平氏政権が滅亡した後の鎌倉時代には、日宋間の正式な国交はなかったが、鎌倉幕府は民間貿易を認め、鎮西奉行が博多を統治して幕府からの御分唐船を派遣するようになった。貿易は南宋末期まで行われ、武士層が信仰した禅宗は北条得宗家も保護していたため、民間の渡来僧は貿易船に便乗して来日し、モンゴルによる南宋攻撃が本格化してからも往来は継続している。
そして、千人万首より2首
百人一首に選ばれた公経も、歌ではなく、人選であったと爺の解説にあるが、
もみもみしておらず、解りやすい歌が多いように思う。
建仁元年三月歌合に、霞隔遠樹といふことを
高瀬さすむつだの淀の柳原みどりもふかく霞む春かな(新古72)
長月の頃、水無瀬に日頃侍りけるに、嵐の山の紅葉、涙にたぐふよし、申し遣はして侍りける人の返り事に
もみぢ葉をさこそ嵐のはらふらめこの山もとも雨と降るなり(新古543)
・「関東申次」
言い得て妙ですね。鎌倉幕府とのパイプ役を誰が務めるか。後鳥羽院時代は94雅経がその役目をやっていたが承久の乱後は「関東申次」のポストが設けられ先ず西園寺家がその重要ポストにつきその後は九条家との間でポスト争奪戦を繰り返したということですかね。
・日宋貿易
平家(忠盛-清盛)が始めた日宋貿易を公経が引き継いで巨額の富を成したということですか。目のつけどころがいいですね。
→閨閥作りへの執心、関東申次の新設就任、日宋貿易で富を成す
→公経さん、商社マン的なお人ですねぇ。
百々爺解説にあるように、西園寺公経の人物評価は毀誉褒貶相半ばし、中には「世の奸臣」(平経高の「平戸記」)という厳しいものもあります。でも、摂関家の出身でもないのに、従一位太政大臣にまで昇りつめ、平清盛以上の権勢を揮ったというのは凄い。ある意味では、95慈円の唱えた「公武合体」の統治体制がスムーズに始まったのは彼のおかげと言えるのではないでしょうか。公経は閨閥を活かした処世に卓越していただけではなく、多芸多才で和歌・琵琶・書にも通じていたのには感心します。生まれながらの天才だったのでしょうか。ちなみに、公経のひ孫は百々爺の解説にある四条天皇に加えて、後深草天皇と亀山天皇、そして5代将軍藤原頼嗣がいるようで、これも凄い。
公経についての百々爺の解説は完璧で、ネットで調べても、これという情報を見つけることはできませんでした。先行の皆さま同様に何をコメントするか困った挙句、公経死没の90年後に、西園寺家が断絶の危機に陥った出来事を紹介することにしました。その出来事のきっかけは1333年における鎌倉幕府の滅亡と翌1334年における後醍醐天皇による天皇親政(いわゆる建武の中興)の開始です。当時の西園寺家の当主は10代目の公宗(1310~1335)でしたが、鎌倉幕府の滅亡に伴って、西園寺家が公経以降預かっていた関東申次の役職を停止されました。そこで、公宗は北条氏残党である北条泰家を匿い、二人は後醍醐天皇を西園寺家の山荘(後の鹿苑寺)に招いて暗殺し、後伏見上皇を擁立する謀反を計画しました。ところが、異母弟の公重の密告で計画が発覚したため、公宗は逮捕されて処刑されました。西園寺家は公重が継承して断絶の恐れもあったのですが、その後、建武の新政が崩壊して後醍醐天皇が吉野に樹立した南朝に公重が仕えたため、公宗の遺児である実俊が西園寺家11代目の当主になりました。実俊は室町幕府の「武家執奏」に任じられて、以後、その子孫が西園寺家を継承し、現在に至っています。名門の生命力は凄いですね。
96番歌は「発想が古い」とか「雪ならで」の表現が窮屈で無理があるというので、評判は良くないようですが、栄華の頂点を極めた公経ならではの歌であり、90番台の歌の季節のバランスから見ても、ぴったりの歌が選ばれたと思いますが、如何でしょうか。
・「世の奸臣」(平経高の「平戸記」)
この言われ方もすごいですね。どの解説書にも「世の奸臣」と出て来てすっかり悪いイメージが定着してしまう。風評被害に近いですかね。公経さんにもお気の毒な気がします。
→建立した西園寺がよっぽど派手だったのでしょうね。光源氏の六条院でもあるまいし、、。
→ガメツイだけのイメージではダメ。どこか抜けているところがあった方が人々に安心感を与えるということでしょう。
・西園寺家、断絶か存続か。なるほどそんな事情もあったのですね。異母弟への存続ではダメなんですかね。男系家系の継承という点では問題ないと思うのですが。
→家柄がいいところって大変ですね。ウチら全く関係なし。シアワセなものです。
・「武家執奏」
鎌倉時代では「関東申次」「関東執奏」と呼ばれた役職が室町時代では「武家執奏」なんですね。幕府と朝廷の橋渡し役となる朝廷側の重要役職。西園寺家にとっては命がけで守るべきものだったのでしょう。
近畿の今日は朝から雨。 枇杷の実 さんの高野詣は、春を思わせる昨日だったのかな。いずれにしても高野山は東寺に始まる四国お遍路のお礼参りかと。満願、誠におめでとうございます。
96番歌 花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり
まずは、阿刀田氏。
入道前太政大臣こと藤原公経(1171~1244)の一首。時代はすでに鎌倉時代に入り、公経は鎌倉幕府と関わりの深い人、藤原定家を支援し、藤原家の最後の栄華を極めた政治家でもあった。
歌は少し寂しく、花吹雪の庭である。ここは桜。春の嵐が吹き、文字通り雪が降っているように見えるが、ふりゆくものは雪ではなく・・・経りゆく(年取っていく)ものは私自身なのだ、と解すればよいだろう。花は散り雪は溶けても、また年々くり返して美しい景色を見せてくれるだろうが、私の方は年々齢をとり、老いさらばえていくばかりだという実感だ。わかりますね。美しいものを見れば見るほど、わが身のはかなさを感ずる今日この頃です。
そして吉海氏。
公経は鎌倉将軍源頼朝の姪を妻にしている縁もあって、親幕府方の公家として大きな権力を有していた。その公経の姉が定家の妻ということで、定家にとってもパトロン的な存在であった。そのためか「新古今集」には十首しか入集していないのに「新勅撰集」では実に三十首(家隆・良経・俊成に次いで第四位)も撰入されている。それにもかかわらず定家の秀歌撰では、公経の歌など一顧だにされていない。そうなると、そこに公経の歌才以外の政治的要素を読むほかあるまい。
つまり公経は、歌人としての技量を認められたからではなく、晩年の定家の個人的な関係で百人一首に撰ばれていると考えられる。だからこそ「新古今集」に十九首入集している藤原有家や、十七首入集の藤原秀能を差し置いてまで、あえて「新勅撰集」から公経の代表歌を撰んでいるのではないだろうか(塚本邦雄氏)。
しかし決してそれだけの理由はなく「花さそふ」歌に定家の心をとらえるものがあったことも事実であろう。新しく死をイメージし、絢爛たる花吹雪の耽美的世界(栄華の象徴)が一転して嘆老の白髪へ、死へと推移する点にこの歌の斬新さが認められる。そういった意味では後鳥羽院が高く評価した定家の「春をへてみゆきになるる花のかげふりゆく身をもあはれとや思ふ」歌が、そのお手本としてあげられる。つまり定家の秀歌を踏まえているために、その定家によって高く評価されているというわけである。このように考えると、公経歌の政治面を強調するだけでは済まなくなってくる。百人一首成立当時の年齢からして、定家は迫りくる老いや死というものを切実な問題として考えていたはずだからである。(吉海氏)
ややこしや~~~ではあるが、やっぱり定家のひきが最大の要因でしょうかね。
明日は晴れてね。草引きではなく、芝刈りの方です。百々爺も今頃、芝々爺やってんじゃない?
・北山に豪華絢爛西園寺を建立し清盛をもしのぐ栄華を極めたとやっかみ混じりに喧伝される公経。96番歌の述懐は平家物語の冒頭を想起させます。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす
→華やかな人生であればあるほど老衰への格差は大きいのでしょう。
・春をへてみゆきになるる花のかげふりゆく身をもあはれとや思ふ
そうですか、96番歌は定家のこの歌をお手本にしているのですか。
公経と定家と宇都宮頼綱、この三人は親戚で晩年、嵯峨の時雨山荘、北山の西園寺を往き来し風流事で余生を楽しんでいたんですかね。
→いやそれぞれまだ俗世に未練たらたらであったのかもしれませんね。
(明日は快晴でしょう。「おじいさんは芝刈りに」思う存分ぶっ飛ばしてください)
週末の京都でのOB会の後、友人に同行して高野山に行ってきました。
彼は退職後、旧街道歩きを趣味(というよりはライフワーク)としており、日本縦断後も二度の四国遍路を含め、全国の街道を精力的に続けており、現在も高野七口街道にに挑戦中です。今回同行したのは、その一つの京大阪道。橋本市の学文路(かむろ)から女人堂へと向かう参詣道です。標高700mを上る殆ど登山で、中でも極楽橋から女人道(結界道)へは難所の「いろは坂」があり、その急登には息切れました。お彼岸の暖かい日であったが高野山内は意外と人出は少なく、ユッタリと散策を楽しんできました。
多寡秀さんから結願詣でかと祝意をいただきましたが、四国へは道後温泉、金毘羅さんと二山(剣岳、石鎚山)で、お遍路さんには未だ御縁はありません。
花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり
地位と権力と金を得た公経が、桜の花が散るのを見てふと感じたのは、老いゆく自分の寂しい姿。春の華やかさの中で老いを自覚するのは、日本人の人生観の根底にある無常観にも通じるところがあって、なかなか深い歌と言える。同じく栄華を極めた道長が「望月の・・」と自らの繁栄に酔いしれる歌を詠んだのとは対照的だ。
政治家としてはずる賢いと言われるが、公経の生きた時代は激動期で処世術なしでは生きていけなかったことを思えば「私も老いたものだ」と詠んだこの歌からは、一人の人間としての公経の本音が本音が聞こえてくるようだ。(板野博行)
この歌は調子がよくて、覚えやすい。
「老けたなあ、いつの間にか」と、別に桜を見なくても日常茶飯事から感じる我が身だが、この歌には親近感を覚えます。「百人一首 BEST3」とする程ではありませんが。
百々爺さん言うように、高野山は百人一首、源氏物語にはでてこないようです。
わすれても汲やしつらむ旅人の高野の奥の玉川の水 (風雅和歌集)
弘法大師の歌とされ、詞書きに「この流れを飲むまじきよしを、しめしおきてのち詠みはべる」とあるが、宣長は後世の偽作として見ているそうだ。
この歌が登場するのは落語「高野違い」で、八五郎が横丁の隠居の所へ出かけると百人一首の講釈が始まったというお噺で、落ちに興味あるかたはYouTubeをどうぞ。
・高野山詣で、お疲れさまでした。宿坊はどんな具合でしたか。
友人の方ってすごい、日本縦断もやられたのですか。四千万歩の男伊能忠敬もびっくりですね。「学文路」で「かむろ」ですか。何やら由緒ありげな地名ですね。地図見ましたが、70才になってよくこんなとこ歩いて金剛峯寺まで行かれましたね。弘法さんのご利益でゴルフのスコアアップも間違いないことでしょう。
・人生の頂点でどんな栄華を極めた人でも老いて死に行くときは無常観を覚えるものなのでしょう。公経の96番歌もそのように読むのがいいのでしょうね。道長の「望月の歌」は頂点の歌ですからこの二つの歌で公経と道長の比較はできないと思います。きっと道長にも老いを迎えて人生を述懐する歌があったと思うのですがいかがでしょう。
あの光源氏も最愛の紫の上を失くし衰えを感じた51才の暮、出家を前に物語最後の歌を詠んでいます。
もの思ふと過ぐる月日も知らぬ間に年もわが世も今日は尽きぬる
(幻19)
・そうですね、高野山は源氏物語に出てこない。比叡山と違い京から遠かったからですかね。それに山岳修道っぽくえらい不便ですもんね。
→wikiによると道長が1023参詣し、その後白河上皇、鳥羽上皇も参詣したとありますが。
→武家の世になって高野山信仰が盛んになったようですね。