さて2015.4.2天智帝の1番歌から始まった百人一首「談話室」、丁度2年を経て100番歌に到達です。大トリは後鳥羽院の子で承久の乱で後鳥羽院に連座して佐渡の地で果てた順徳院。高らかにフィナーレを飾っていただきましょう。
智ではじめ徳でおさめる小倉山(江戸川柳)
100.ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり
訳詩: 大宮の古い軒端は荒れはてて
わがもの顔のしのぶ草よ
ああ しのぶともしのびつくせぬ
昔日の大宮の威儀 その栄華
いまはただ 古い軒端にしのぶ草が
作者:順徳院 1197-1242 46才 第八四代天皇 後鳥羽天皇の第三皇子
出典:続後撰集 雑下1205
詞書:「題しらず」
①順徳院 1197-1242 46才
・1197生まれ。完全に鎌倉時代生まれ、百人一首中の最年少。
(次に若いのは93源実朝 1192(イイクニ)生まれ)
(百人一首撰定時1235存命だったのは96公経、97定家、98家隆、99後鳥羽院、100順徳院の5人。順徳院が最年少)
→公武合体路線が採られておれば違った日本史を作りあげていた人物かも。
(所詮タラレバの世界であるが)
・後鳥羽院の第三皇子 母は藤原範季の娘重子 母の母は平教子(清盛の姪)
→平家の血が流れている。反幕府(源氏)に流れるのも宜なるかな。
・後鳥羽院は先ず土御門帝(源通親の娘腹)に譲位したが源通親が亡くなると取分け可愛がっていた第三皇子を順徳帝@14として帝位につけた1210。
→後鳥羽院が討幕の心持に傾いていった頃。
→順徳帝は父に似た活発・勇武の気性で後鳥羽院の相棒として討幕計画に同調していく。
・91九条良経の娘立子を中宮とし息子懐成親王(仲恭天皇)を儲ける。
→承久の乱勃発にあたり仲恭天皇に譲位するも乱後廃位となり一旦後鳥羽院系は途切れる。
→後堀河・四条帝を経て八十八代後嵯峨帝(土御門帝の子)から後鳥羽帝系に戻る。
・1210~1221 帝位にはあったが政治は専ら後鳥羽院による院政、順徳帝の出る幕なし。
詩歌・管弦など風雅の道に傾注(和歌は定家に師事)
宮中の有職故実を研究し禁秘抄(古典的名著の誉高い)を著す。
→成り上がりの鎌倉幕府に朝廷の威厳を示す意図もあったか。
→北条にしたら「フン、それがどうした」って感じだったのかも知れぬが。
→聡明闊達な勉強家。帝位を全うし公武合体新日本を十分リードしていけたのでは。
・1221 承久の乱 上皇側はなすすべなく幕府軍に敗れる
後鳥羽院は隠岐へ、順徳院は佐渡島へ配流となる。
【佐渡島】
周囲263km 面積東京都の約半分 日本の島としては沖縄本島に次ぐ大きさ
人口58千人 最大都市佐渡市(西側中央部)
既に8世紀以前に佐渡国として日本国の領地下となっている。
流された人 順徳天皇・日蓮・日野資朝・世阿弥
→京都の文化が入り込んでいる。取分け能が有名
関ヶ原後、佐渡金山が発見され幕府天領となる。
順徳院は真野(佐渡市)黒木御所で21年を過し1242 46才で亡くなる。
1239隠岐で後鳥羽院崩御、これで希望をなくした順徳院は自ら食を断って死亡
→何とも哀れである。鎌倉幕府には心ある人物がいなかったという他ない。
②歌人としての順徳院
・幼少時から定家に師事 息子為家も近習 熱心に歌の道を進む。
帝位について宮中で数々の歌合を主催
・続後撰集(為家撰)以下勅撰集に159首
私家集に順徳院御集(紫禁和歌草)歌論書に八雲御抄 日記に順徳院御記
・佐渡に配流された時の歌
ながらへてたとへば末に帰るとも憂きはこの世の都なりけり
厭ふともながらへて経る世の中の憂きにはいかで春を待つべき
→我慢して恭順の意を示しておれば還京できると思っていたろう。
・佐渡でも歌作に励み定家とは音信を続け(定家も応じた)ている。
百首歌(順徳院御百首)を定家に送り定家はこれに評価を加えている。
八雲御抄も佐渡で書き続け完成本を定家に贈っている。
→歌作、和歌の研究が慰みであった。
八雲御抄
歌論として古風を尊び自然体での歌をよしとしている。
・後鳥羽帝が亡くなった時1239の弔歌
君もげにこれぞ限りの形見とはしらでや千代のあとをとめけむ
→希望が絶望に変った。お可哀そうである。
③100番歌 ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり
・1216 20才の時の歌 後鳥羽院が討幕へと傾く政情不穏の折の歌である。
・ももしき(百磯城)=多くの石で築いた城、転じて宮中
・しのぶ 忍ぶ草(ウラシダ) ジメジメした日陰に茂る雑草
→荒廃した建物に生える象徴的植物
→蓬・葎は日向、浅茅は沼地 何れも荒廃を表すやっかいな雑草
・聖代を偲び王道の衰微を慨嘆する歌
聖代とは延喜・天暦(醍醐・村上朝)か天智・持統朝か
→百人一首の始めと終りを考えれば天智・持統朝でよかろう。
1番(秋の田の)・2番(春過ぎて) 希望に満ちたニッポン
99番(人もをし)・100番(ももしきや) 王道の廃れゆくニッポン
→王道とは天皇を頂点にいただき臣下(藤原氏)が支える構図である。
・百人一首の締め括りに百の数字が入っているのは分かり易くていいのではないかとも思うが、それにしても100番歌はあまりにも侘しい。
→定家は後鳥羽院・順徳院の気持を率直に伝えるべく歌を撰んだのであろう。
④源氏物語との関連
・源氏物語は延喜・天暦の聖代を描いた物語とされている。
現世を嘆く順徳院にも源氏物語は眩しく映っていたのではないか。
・荒れ屋敷の象徴として忍ぶ草は定番
1源氏が夕顔を連れ込んだなにがしの院(夕顔11)
なにがしの院におはしまし着きて、預り召し出づるほど、荒れたる門の忍ぶ草茂りて見上げられたる、たとしへなく木暗し。
2源氏が須磨に去って荒れた花散里邸、この歌を見て源氏は修繕を手配する。
荒れまさる軒のしのぶをながめつつしげくも露のかかる袖かな(須磨13)
3源氏が何年も訪れず荒廃した末摘花邸で古今集の歌が引かれている。
君しのぶ草にやつるる故里はまつ虫の音ぞかなしかりける(読人しらず)
→「忍ぶ草の生い茂る荒廃の邸をいうとともに、源氏も末摘花も互いにしのびあう気持ちでいることをいう」(脚注)
フィナーレと言うにはあまりにも侘しい終わり方であるが当時の現実であり致し方あるまい。それにしても大化の改新(天智・持統帝)に始まり600年を経て承久の乱(後鳥羽院・順徳院)で終わる百人一首、これ以上の歴史教材はないのではないか。
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これで100番までの投稿を終わります。長らくのご支援ありがとうございました。後は完読記念旅行に向けて余韻を楽しみましょう。引き続きよろしくお願いいたします。
いよいよラスト、泣いても笑っても最後の一首、有終の美を飾りたいですね。
100.ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり
智ではじめ徳でおさめる小倉山
まさにその通りですね。
父に殉じた84代順徳天皇のこれは若き頃の一首との事。
若さも希望も感じられない、これが天皇の御製とは・・・あまりにも侘しい。
過去を偲ぶ深い諦観の歌である。
佐渡に流されその地で没した20年。その20余年、若き身を一体どのように過ごしたのか、どんな人生?
順徳院についての知識はほとんどなく誰?という感じ。
百人一首最後の歌「ももしき」を百を冠する百々爺さんの解説に全てをゆだねるつもりであった。
私が調べた事は以下の事のみでほぼ百々爺さんと重なる。
後鳥羽院の第三皇子、気性の激しい父似で和歌上手の天皇、八雲御抄という歌書を残す。
在島21年の後、任治3年(1242)9月12日に佐渡で崩御、病気は重くなかったが、還京の望みがない以上の存命は無益として、断食を行った後、最期は自らの頭に焼石を乗せて亡くなったと伝えられる。
天皇の最期としてはあまりにも痛ましい行為ではないか、鎌倉幕府はこれを見過ごしたのか?
源氏物語で思い出すのは国宝源氏物語絵巻「蓬生」です。
荒れ果てた末摘花の屋敷を惟光の露払いの後、傘をさす源氏の姿。
育爺休暇、奥様の手術、御自身の入院など様々な出来事を乗り越えての二年間、本当にお疲れさまでした。
佐渡には院の御陵があり遺骨は大原の法華堂陵に合祀されているという。
佐渡も、そして大原は何度も訪れているのにその当時はこの父子の悲劇が頭になく物見遊山で終わったのが残念である。
百人一首最後の一首を前にして次に行く機会があれば懇ろに手を合わせたい心境である。
最後が晴れ晴ればれとした思いに浸れないのは後鳥羽、順徳を偲ぶ気持ちが深い故かもしれない。
しかし和歌に明け、和歌に暮れた二年間は何と幸せな時間であった事だろう。
そして今日この日の達成感も決して半端ではない。
百々爺さんの名解説に導かれ毎月曜日は待ち遠しくなるべく外出を控えた。
どれほど感謝してもしきれない。
できることならこのブログの思い出の日々は来世への手土産にしたいほどである。
そしてあの世でも百人一首談議ができればどんなに楽しいことだろう。
中学から高校にかけ歴史の勉強をおろそかにしてきたがこのブログのおかげで歴史の一端を振り返り天皇はじめ一人ひとりの人物と真摯に向き合い共感、反発、笑い、怒り、涙して学ぶことができたのはすごい財産であったと思いたい。
今となっては百人の歌人、全部お友達と言った感じで愛すべき大好きな歌人たちである。
目崎徳衛氏曰く、百人一首が後鳥羽院、順徳院の二首を欠く形であったら王朝文化の系譜として画竜点睛を欠き何の迫力もないのではあるまいか。
平安王統の祖、天智天皇に始まる百人一首は王統の政治権力に終止符を打った両院を配さねば首尾一貫しまいと述べている。
ここに1番から100番までの大いなる意義があるのだな~とつくづく感じ入っている。
「百人一首談話室に集う十叟」も100番順徳院が最後かと思うと名残は尽きぬことでしょう。
老いてなお個性豊かな十叟軍団。
十数年からここ数年のお付き合いの方まで、かけがえのない友人たち。
源氏物語に続く百人一首、老後の楽しみを共有した4年間余の何と充実の日々だったことか。
人間、目的を持つことの大切さを改めて感じさせられた年月でした。
それぞれの細かい部分の内容は忘れても肝心の所は心の楔としてしっかり打ち込まれたような気がします。
百人一首よ!!永遠であれかしと祈るばかりである。
連綿とやまと言の葉妙音のかるたは語る百人一首
皆さん本当にありがとう!!
6月の記念旅行でお目にかかれるのを心待ちにしています。
・定家も99番後鳥羽院、100番順徳院の歌を撰ぶにあたっては感無量だったと思います。あまりにも侘しい歌。定家は「私は『紅旗征戎は吾が事にあらず』なんて言ってきたがそれはあくまで建前のこと、実際にはそんな風によそ事で済む筈がない。大変な世の中を生きたのですよ。武士の世になった今がいいのかそれとも昔の聖代がよかったのか、評価は後世の人に託そう」との想いで締め括りの歌を撰んだのではないでしょうか。
→目崎先生のお説その通りでしょう。最近、百人一首は歌集というより人物集だとの思いがますます強くなっています。
・小町姐さんには本当に感謝しても感謝しきれません。最近源氏物語を復習しておこうと思って「道しるべ」を読み返しているのですが、青玉さんが一日も欠かさずコメントをつけてくれたことがいかに大きかったか。コメントをいただき読み直すことで私の読みも更に深くなったことがよく分かり、改めて感銘を受けているものです。
「談話室」もしっかり予習し真っ先に基調コメントをつけていただくことで、それに続くみなさんのコメントの方向性も決まっていったように感じています。「談話室」も回を追う毎に字数が増え深いものになっていきましたが、これも小町姐さんが作った流れだろうと思います。ありがたかったです。
→完読感想和歌、ありがとうございます。実は記念旅行の催しの一つで各自一首づつ完読感想和歌を持ち寄るという企画を考えていたところでして、、、。
→記念旅行、旅程・企画、色々話し合っていきたいと思っています。よろしくお願いいたします。
いよいよ最後の百番歌、長かった2年ではありましたが、百人一首がかように面白いものと知ることができた貴重な2年でもありました。爺には大変な負担をかけたと思うが、でも楽しかった、ありがとうございます。
一番一番の歌もちゃんと鑑賞し、詠み手の他の歌も千人万首などで広く読み、その時代・社会を勉強し、その人物を知りさらに人のつながりまで広げて調べ、爺の深く幅広い解説と皆さんの多面的コメントを拝見し、小生としては、かなり深読みができたと自負しています。そして、家内や孫にも百人一首を紹介し、小生は暗誦をGIVE UPしましたが、家内は全部覚えたようです。百人一首に因んだ場所にも足を運び、すずちゃんの映画も見ました。孫も興味を示し、いくつか諳んじています。上の孫は、ちはやふるを、何回となく読んでいました。で、家族でも正式のカルタ取りをやるようになりました(因みに小生は読み手のみ)。
5年ほど前までは、俳句、和歌、古典文学などまったく関心もなかった小生が、爺の勧めでこれは単独で”奥の細道”を読み、そして芭蕉の足跡を辿り東北から北陸へと旅をし、近世文学に接する喜びを知り、次も、やはり爺の勧めで、”源氏物語”に挑戦、途中からブログに参加させてもらい、何とか皆さんにも追いつき、2年掛け原文の完読ができ、みなさんと打ち上げの京都旅行にも行きました。源氏物語では、文学作品としての楽しみに加え、紫式部と青玉さんの和歌に触れ、登場人物評も皆さんと語りました。一人ではとても最後まで到達できなかったと感謝しています。
此の後、これで終わりは淋しいと何か別の古典も読みたいと爺にお願いし、皆さんからも同じような意見が出、快諾願えたのが、今回の百人一首。皆さんは、高校時代から古典に勤しんでこられた方々、源氏物語・百人一首と、新参者の小生を仲間に入れていただいたことに感謝すると同時に、このような機会に恵まれたことはラッキーそのものと思っています。 6月の完読旅行で、皆さんといろいろお話できるのを楽しみにしています。
この100番歌で、談話室は終了です。
今まで、話さずにきましたが、次の読み物のブログも爺にやっていただけないかとの思いが強くあります。リーダーの爺の労力が大変なものであることは認識していますので、あまり大きな負担にならないようなやり方を探し出し、新たなブログとして、続けられれば、大変うれしいです。勿論、爺の意向と予定を尊重すべきは当たり前ゆえ、先ずは爺の意見をお聞きし、もしよろしければ、6月の完読旅行で皆さんと相談できればと思っています。
だらだらと長くなり、恐縮です。この辺で止め、100番歌について
爺の解説に加えることも思い浮かばないのですが、なんとも寂しい終わりかたの歌だなーと思うと同時に、百人一首に相応しい終わりかただなーとも思うしだい。
百敷やーーー、深いですね。
では、千人万首からいくつかお歌を
ちくま川春ゆく水はすみにけり消えていくかの峰の白雪(風雅36)
【補記】貞永元年(1232)、配流地の佐渡で編まれた百首歌。
春よりも花はいく日(か)もなきものをしひても惜しめ鶯の声(新後撰114)
ーーー花は梅の花と解説にあります。
先週はじめから、お隣の庭のしだれ桜が咲き始め、鶯がつがいできて、ホーホケキョと鳴いています。この一両日で満開になり、鶯が朝訪れて、たくさん鳴いてくれています。窓を開け、鶯を聞きながら、濃い目のピンクのしだれ桜を眺め、春を満喫しています。庭の梅の花が咲いたときは来なかった鶯、今真っ盛りの春を惜しむとばかり姿は見えねど盛んに鳴いています。
ももしきや花も昔の香をとめてふるき梢に春風ぞ吹く(新千載102)
ーーー18歳の歌と
かぎりあれば昨日にまさる露もなし軒のしのぶの秋の初風(続古今285)
そして、後鳥羽院と順徳院の別れのお歌を紹介します。
後鳥羽院かくれさせ給うて、御なげきの比、月を御覧じて
同じ世の別れはなほぞしのばるる空行く月のよそのかたみに(新拾遺918)
【通釈】隠岐と佐渡と、はるか遠くの国に離れていても同じこの世には生きておりましたのに、今や父帝とは今生(こんじょう)の世でもお別れすることとなり、いっそう思慕されてなりません。空をゆく月はたった一つ、それを父帝の面影と偲んでおりましたが、御身はこの世の外へ逝かれ、もはや月を形見と眺めるばかりでございます。
・「なんとも寂しい終わりかたの歌」全くそうですねぇ。
100番歌が詠まれた1216年になると宮中も大分寂れていたんでしょうね。平家の福原遷都もありましたし。昔(延喜・天暦でも寛弘でも)のような華やかな大宮ではなかった、、、そんな想いの歌なんでしょう。
→源融の河原院の寂れた様を詠んだ47恵慶法師の「八重葎」の歌、末摘花邸の荒廃ぶりを描いた源氏物語絵巻「蓬生」が思い浮かびます。
・毎回千人万首をベースに八麻呂撰の歌を紹介いただきありがとうございました。後鳥羽院の訃報に接した順徳院の気持ち、察するに余りありますよね。「空行く月のよそのかたみに」畏れ多くも天皇・上皇をこんなお気持ちにさせてはいけません。若い身空で生きる望みを失った順徳院が哀れでなりません。
・八麻呂さんにはすっかり古典を傍らにおく生活が身についたようでよかったですね。4~5年前、カラオケしながら「源氏始めたから是非いっしょにやろうよ」とけっこう強引に誘ってたことが思い出されます。今や大学文学部の聴講生ですもんね。大したもんです。せっかく身についた生活習慣を大切に古典とともに豊かな生活を送ってください(勿論カラオケも続けましょうね)。
→「ポスト談話室」ちょっと考えてみます(考えてます)。
(もう手持ちが尽きたので大層なことはできませんが)
旅行時、相談しましょう。
百々爺の素晴らしいリードに導かれて百首に到達することができ、感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
まとめの言葉として契沖の改観抄を引いてみます。
「天智天皇よりここにいたりてやうやう五百五十年許りに王道はすたれて行はれずなりにき。毛詩の序に治世音安以楽、亡国音哀以思(治レル世ノコエハ安ジテ以テ楽シク、亡国ノコエハ哀シビヲ以テ思フ)といへり。秋の田の御歌は治まれる世の声にして、百しきの御歌はかなしびて以て思ふこころを顕はせり。時人歌人の尤嘆くべき時なれば、黄門の心ここに有べし。本に二帝の御歌をすゑて、末に両院の御うたを載せらる。これまた一部の首尾なり。」
順徳院の沢山の歌の中から「ももしきや ~ 」の歌を百首目に採ったわけを安東次男氏は以下のように述べています。
「あえて配流後の歌を出さなかったところも、国民感情の趨勢をよく捉えていて、これは民もまた王道を庶機する心を示した択びだろう。」
また、順徳院、定家、為家の関係を次のように記しています。
「定家の優艶有心の歌体に反撥した後鳥羽の政治的気質に、定家に親炙しその歌風歌学を忠実に継承した順徳の文学的気質を打添わせたところも、なかなか含蓄がある。」
「因みに定家は、定家の判を求めるべく佐渡からもたらされた順徳院百首について、しばしば妖艶の評語を用いているし、為家もまた、院から最も信頼された近臣であった。」
順徳院の歌論書「八雲御抄」の一部(地名・歌枕)からの謡曲つながりを書きます。
謡曲『舟橋』にある「上野の国佐野と申す所に着きて候」は、八雲御抄の「佐野の渡は家なしと万葉にもいへり」のイメージをふまえているようです。
同じく「所は同じ名の 佐野のわたりの夕暮に 袖うち払ひて」(定家の歌の一部引用)の佐野は大和だと述べています。
上野の佐野の舟橋取り放し親は離くれど我は離かるがへ (万葉集3439)
かけてだに契りし仲はほど遠し思ひを絶えね佐野の舟橋 (順徳院)
のちに世阿弥も流罪になった佐渡にはいくつも能楽堂があります。建物を見るも良し、日時が合えば能を観るも良しの環境です。いつでも手軽にというならば、ハイテクロボットによる能舞台もあります。動きが能になっていて、面白いですよ。10数年前に観たので今はまた進歩しているかもしれません。
謡曲『胡蝶』にある「昔忍ぶの忘れ草」(昔を忍ぶ忍ぶ草、一名また忘れ草)は、こじつけ気味ですが、100番歌「ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり」を念頭においてのことばかもしれません。(他にも用例がありすぎますが・・) 謡曲『胡蝶』は源氏物語「胡蝶」の巻によって作られたものなので、小品ですが、私としては少し華やかな気分になるこれで最後を締めようと思います。
・いつも言ってますがウロウロと独りで古典の道を彷徨っていた私に光を与えてくれたのは式部さんであります。ホント式部さんを源氏講読会に誘い込んでくれた髭白大将に感謝しています。もう8年になりますかね。
談話室もありがとうございました。切れ味鋭いコメントに「してやったり」と膝を打つこともしばしばでした。百人一首歌人歌の謡曲への引用研究は貴重なものだと思います(私には少し高級すぎて消化不良で申し訳なかったですが)。どうぞ引き続きよろしくお願いいたします。
・「治世音安以楽、亡国音哀以思(治レル世ノコエハ安ジテ以テ楽シク、亡国ノコエハ哀シビヲ以テ思フ)」
いい詞ですね。1・2番歌と99・100番歌を評するにピッタリだと思います。
→こう考えると田舎くさいと思っていた天智帝の「1秋の田の」が俄然輝かしく見えてきます。
・謡曲の引用は『胡蝶』で締めですか。おっしゃる通り源氏物語「胡蝶」、六条院の春の町に竜頭鷁首の船をうかべての夜を徹しての大遊宴、順徳院が偲んだのはこういう華やかな宮廷だったのでしょうね。
今、地域の6月講演会の準備中です。
本来ならば、百々爺に一肌脱いでもらう予定でしたが、完読旅行の往復に、単独で移動いただくのも本意ならず、いくらかの熟成期間ののち、あらためてご登場願うことにいたしましょう。このシリーズ、本当に同窓生に支えられております。人材豊富を実感しております。
百々爺、本当にお疲れ様。そしてありがとう。この多寡秀、皆さんに助けられ何とかご一緒にゴールイン出来ましたことを、心から喜んでおります。
では、100番歌。
まず、小町姐引用の、目崎徳衛氏曰く。百人一首が後鳥羽院、順徳院の二首を欠く形であったら王朝文化の系譜として画竜点睛を欠き何の迫力もないのではあるまいか。
平安王統の祖、天智天皇に始まる百人一首は王統の政治権力に終止符を打った両院を配さねば首尾一貫しまい、とは言い得て妙。
ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり
百首からなる歌集の一番最後におかれた順徳院(1197~1242)の御詠、第八十四代順徳天皇の若いころの歌である。父・後鳥羽院とともに鎌倉幕府をくつがえす企てに加わり(承久の乱・一二二一年)敗れて佐渡に流されて二十余年後、同地で没した。父子とも歌道に卓越していたが、小倉百人一首の基を選んだ藤原定家は、時の権力に配慮して、この二人の歌を百首の中に選ばなかったようだ。だが後に定家の子・為家(1198~1275)が入れ替えを敢行し・・・・父の選んだ歌から二歌を外し九十九番に後鳥羽院の歌を、百番に順徳院の歌を押し込んだ、という説が有力だ。
昔日の栄華を思い出して嘆く悲痛な一首だが「ももしきや」と言われると、幼いころの私の脳みそは、やっぱり、
―ももひき、かなぁ―
と妄想をめぐらしてしまった。(阿刀田氏)
次に吉海先生曰く。
平安朝における理想の聖代たる延喜・天暦期(醍醐・村上朝)に近付こうという努力も情熱もむなしく、又現在の政情を直接批判することすらなく、ただただ現在に非嘆し過去を憧憬する順徳院であった。下句の深い詠嘆がそれを如実に物語っている。院にとっての未来は、もはや後ろ向きでしかないのである。
この歌は承久の乱以前に詠まれたものであるが、ひとたび百人一首に撰入されると、作者の人生史を象徴する歌として、承久の乱に敗れて佐渡で崩御した順徳院の王道の御述懐・諦念として享受されたことになる。本来は単なる旧懐の歌であったものが、百人一首では王道の述懐へと変貌しているのである。
武家(鎌倉幕府)の専横は天皇家の衰退と表裏一体であり、それはとりもなおさず平安朝の終結でもあった。定家は巻頭の天智・持統天皇と対照的に巻末に後鳥羽・順徳院を配置し、首尾を一貫させている。
そのことは契沖が「秋の田の御歌は治まれる世の声にして、ももしきの御歌はかなしびて以て思ふ心を顕はせり。詩人歌人の尤も歎くべき時なれば、黄門の心ここに有べし。本に二帝の御歌をすゑて、末に両院の御うたを載らる。これまた一部の首尾也」(改観抄)と詳述している。ここに定家の百人一首撰歌意識(和歌で綴る平安朝の歴史)が反映していることは疑いあるまい、と。
このことは既に百々爺が99番歌にて指摘しているところであります。
追記
ああ~本当に終わったんですね。継続とはなんとすばらしい行為であることか。
富士山の登頂だって、一歩一歩の積み重ねなんですもんね。
談話室万歳!百々爺万歳!! (平成29年4月17日 多寡秀 記)
・お疲れさまでした。よくぞ完走いただきました。これで大姐への面目も立つし叱責も受けなくても済む。よかったですね。お喜び申し上げます。
→阿刀田さん、吉海先生と硬軟並べてのコメント愉快でよかったですよ。コピペと違い変換ミスもご愛嬌でした。いい思い出です。
・99番、100番歌を今の姿で百人一首に収めたのは為家でしょうがそれは父定家の意を呈してのこと。何せ「百人一首はすべて定家のものである」訳ですからねぇ。
・吉海先生の言ですが、「ただただ現在に非嘆し過去を憧憬する順徳院であった」はちょっと言い過ぎかと思うのですが如何でしょう。鎌倉の専横が激しさを増す中で後鳥羽院ともども何とか朝廷が中心となる政治世界を取り戻そうと懸命に思考したのが順徳院だったのではないでしょうか。結果的には承久の乱で自爆してしまった訳ですが、朝廷・藤原側にもう少し知恵者がいて鎌倉側を切り崩し西国勢力も味方につけて新たな国体の創出を図っておれば、また違った道が開けていたかもしれません。
→順徳院は文武両道、それぐらいの才能はあったと思うのですがねぇ。
順徳院は聡明で才気があり、明朗活発な人物でしたが、14歳で帝位に就いても後鳥羽院の院政中であったため政治の舞台に出る幕がなく、詩歌・管弦や有職故実の研究に専念しました(順徳院には失礼ながら、煩わしいので敬語表現を使わないことにしました)。そして、後鳥羽院が引き起こした承久の乱に参画して敗れ、25歳で佐渡に流され、配流の地で20年あまり悶々と暮らし、46歳で自ら死を選んで崩御しました。誠にお気の毒な一生であったと思います。父の後鳥羽院も配流の地である隠岐で崩御しましたが、後鳥羽院は治天の君として政治権力を恣にしながら、和歌にのめり込み、存分に「飲む、打つ、買う」の気儘な生活を楽しんだ後に、過信と無知ゆえに討幕を企てて配流されたのですから、いわば自業自得。智平はやりたい放題の面白い一生を送った幸せなお方とは思うものの、お気の毒などと同情する気持ちにはなれません。
さて、その順徳院は佐渡でどのような暮らしを送っていたのでしょうか。伝えられているエピソードのいくつかを紹介したいと思います。
1)当時、佐渡の人々は順徳院の本当の身分を知らず、歌を詠み、仏道に精進する京都から来たお坊さんだと思って「順徳坊さん」とか「順徳老僧」と呼んでいました。
2)ある時、粗末な身なりのお坊さんが、佐渡市両津の大川に来て、土地の老人に「海上の岩に行ってみたい」と頼み、小舟を出してもらいました。岩に着いて、舟から降りようとした時に、お坊さんはうっかりして、刀を海に落としてしまいました。彼は落胆しながらも、「海に沈んだ刀もきっとこの鞘に帰りたいと思っているだろう」と天に向かって歌を詠んだところ、突然、海底から竜王が現れて、刀を拾い上げてくれました。お坊さんは、その刀を老人にあげ、後に順徳院と知った老人はその刀を家宝にしました。
3)順徳院は佐渡の黒木御所の周辺に後鳥羽院が愛した白菊を植え、それを見ながら自らを慰めるとともに、「都忘れ」と名付け、都を忘れようとしました。そして「いかにして契りおきけむ白菊を 都忘れと名づくるも憂し」と詠みました。「都忘れ」はこの白菊の名前となり、越後三条にある松坂屋の和菓子の名前としても使われています。
4)順徳院は佐渡で一男二女を作りました。子供の母親は不詳ですが、佐渡市金井の尾花崎には、「はな」という大変に美しい女性がいて、順徳院は度々彼女のもとを訪ねたので、後に人々は「花塚」という記念碑を建てたという言い伝えもあります。
順徳院は後鳥羽院を崇拝にも近い形で慕っていたようであり、百々爺から紹介があった後鳥羽院への弔歌の他にも、次のような歌を詠んでいます。
・いざさらば磯打つ波にこと問はむ隠岐のかなたには何事かある(後鳥羽院を思う歌)
・同じ世の別れはなほぞしのばるる空行く月のよそのかたみに(後鳥羽院への弔歌)
そして、順徳院自身の辞世の歌は、次のとおりです。
・思いきや雲の上をば余所に見て 真野の入り江にて朽ち果てむとは
順徳院は1239年の後鳥羽院の崩御の後、1242年9月に自ら食を絶つなどして崩御しました。順徳院がこれ以上の存命は無益と考えたのは、1242年1月の四条天皇の急逝した後に、継承候補であった自分の息子の忠成皇子が選ばれず、幕府が選んだのは兄の土御門院の息子である邦仁皇子(後嵯峨天皇)であったため、皇統を伝える望みも還京の望みも完全に絶たれたからであると言われています。崩御後、遺骨は分骨されて都に持ち帰られ、大原法華堂に安置されました。この大原法華堂は、後鳥羽院の遺骨を安置するために、修明門院(後鳥羽院妃・順徳院生母)と尊快法親王(後鳥羽院皇子&順徳院同母弟)が水無瀬離宮の廃材を用いて建立したものです。ここで、親子が遺骨の姿ながら、待望の対面を果たしたと言えるでしょうか。明治政府は大原法華堂の旧地とされる地に後鳥羽天皇と順徳天皇の陵墓として大原陵を整備し、現在に至っています。ちなみに、大原陵の所在地は左京区大原勝林院町で、大原三千院の近くです。
100番歌のコメントは以上で、最後に一言。百人一首談話室も遂に今回でフィナーレを迎えました。百々爺さん並びにコメント投稿仲間の皆さま、誠にお疲れさまでした。和歌はよく分からないけど、歴史上の人物には興味がある智平は専ら「作者がどういう人物で、どのような一生を送ったか」を自分なりに調べて投稿しましたが、百々爺のお蔭で、毎週、面白い宿題を楽しませてもらったと感じています。それに加えて、智平はこの際、「インターネットがどの程度役に立つか」を体験によって知りたいと考え、参照する書物は目崎、大岡、吉海、田辺、白洲の文庫本程度に留め、コメントのネタは専らネットで探すことにしました。その結果、それなりに興味深い情報が得られ、ネットが図書館並みの働きをしてくれることが分かって良かったと感じています。2年余りの間、楽しみながら歌と歴史を学び、ネットの有益性を検証する機会を与えてくれた百々爺とコメント仲間の皆さまに心からの感謝を申し上げたいと思います。誠にありがとうございました。6月に完読旅行でお会いできることを楽しみにしています。
・毎度ネットを駆使して色んなエピソードや見解をコメントしていただきありがとうございました。お疲れさまでした。道長の時代までは(70番くらい)まあ馴染みがあるかなと思ってたのですがそれ以降はどうなることかとビクビクでした。でも76番忠通・77番崇徳院の保元の乱から最後の承久の乱までの歴史はホント面白かった。歌人一人一人が深く歴史に関係していて定家の目の高さに感服したものでした。
→ネット検索、プロ級になりましたね。一度「智平流ネット検索の仕方」講座開いてくださいよ。
→それにしてもネットの威力はすごい。コピペの横行には要注意でしょうが、情報を拾い上げ自分のものにするにも今やネットなしでは成り立たないでしょう。後鳥羽院は45万4千もありましたか。そりゃあ図書館よりもはるかに大きなキャパじゃないでしょうか。
・後鳥羽院の専横ぶりには惑わされますが承久の乱へ向かう道は順徳院ともども二人で歩んだのだと思います。後鳥羽院との関係で順徳院にもう少し積極的に物申す資質があったら大分違ってたのかも知れませんね。
・佐渡での順徳院、お気の毒と言う他ありませんね。逸話や詠んだ歌からは順徳院の正に徳ある姿が浮かび上がってきます。
それにしても辞世の歌は涙を誘いますね。まさかまさか京に還されることもなく佐渡の地で死を迎えなければならないとは思わなかったでしょう。
思いきや雲の上をば余所に見て真野の入り江にて朽ち果てむとは
引き続き何やかや遊びましょう。談話室に割いていただいてた時間、是非有効に使ってください。。じゃあね。
ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり
「ももしき」とは百磯城(百敷)のことで宮中の意味だとか。定家がこの歌を最後に置いたのは番号合わせをした訳ではない。百人の中に後鳥羽、順徳の両院を加えることは当初からの方針であった。両院の二首を欠く形であったら、王朝文化の系譜としてして、画竜点睛に欠き、何の迫力もないのではあるまいか。(目崎徳江)
順徳院はこの歌で宮中が最も栄えていた時代をうらやみ、衰えたしまった朝廷の力は再び戻ることはないことを痛切な思いで詠んでいる。その裏にある朝廷の繁栄への願望を「なおあまりある」と、静かに燃える心情を表現する。
近年、「御製歌少々」なる順徳院の歌集的な仮名日記が冷泉家から出現した。父後鳥羽院の死を嘆く追悼記で、かっての寵臣であった為家に送られたとされる。父後鳥羽院が隠岐で崩御との報せが、佐渡の順徳院のもとに届いた時から始まる。詳しいことを知らせる使を待つ間に法要を行い、墨染めの袖に悲しみを増す。後鳥羽院が病気になってから後に送られた手紙を取り出し、これが父の形見になるとは、もう届くことはないと嘆き悲しむ。隠岐で近侍した人々が都に戻った報せが届き、誰もいなくなった隠岐を想い、人々の惑乱を思う。
君もげにこれぞ限りの形見とはしらでや千代の跡をとどめん
思いやる心の及ぶ方もなし煙となりし後の浦風
ひたすらに世は曇り日の心地して君なきかげに誰まどふらん
今はとて光や空にくもりけん霞そめたる春の望月
思わじな海士のしはざの藻塩草かくこのたびを限りなりとは
これは後鳥羽院の「遠島五百歌」にあるつぎの歌を偲んでのもの。
おきつ島海士の磯屋の藻塩草かく数ならでよをや尽きなん
順徳院自らが著した父院への追悼記で、二人とも遠く流島に配流された王であることは特異である。多くの詠歌があったなかから撰び、勅撰集の撰歌資料ともなることを意識しながら、三十六首にまとめたもので、この中から六首が勅撰集に採られた。「新古今集・後鳥羽院と定家の時代」(田渕句美子)
最後になりましたが、百々爺さんには二年間に亘り、和歌百首への解説と適宜・軽妙なコメントを返していただきました。本当にお疲れ様でした。そして、小町姉さんには首尾一貫してコメントリーダーを務めていただき有難う御座いました。
「百人一首は和歌で綴った歴史書であった」、お陰様で、歴史再発見した枇杷の実は限りある余生をより楽しむ事になるでしょう。
百人一首談話室の成功を藤原定家に成り代わり祝福申し上げます。
ご近所の枇杷の実さん、よくぞお付き合いいただきました。ゴルフへの道すがらも百人一首談義で盛り上がりましたもんね。百首全部憶えたとのこと、きっと財産になると思いますよ。これからもよろしく。
・「御製歌少々」
「少々」とは控え目な名前ですね。後鳥羽院と順徳院は隠岐と佐渡で随分と音信を交されていたのですね。隠岐の後鳥羽院とは家隆が交流を続け「遠島五百首」が詠まれているし、佐渡の順徳院とは定家・為家親子が歌を交し合い、為家には歌集的な仮名日記も送られていた。
→大げさに言えば承久の乱以後歌壇は隠岐と佐渡にあったと言えるのかもしれません。
→隠岐と佐渡。想像するだけでも音信は大変だったと思います。歌を詠み送り返信を待つ。待てども待てどもなかなか来ない。返歌が来て無事を確認できたときの喜びはひとしおだったでしょう。それだけに悲報に接したときの哀しみには胸を打たれます。
思いやる心の及ぶ方もなし煙となりし後の浦風
切ないですねぇ。
皆さまのコメント、そして百々爺さんからのコメント返しを読みつつ深い感慨に浸っています。
達成感と喪失感の入り混じった不思議な面持ちを持て余している。
ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり
100番以外の皆さんが挙げて下さった順徳院のすべてのお歌をしみじみと味わいながら余韻にたゆたう小町姐です。
ながらへてたとへば末に帰るとも憂きはこの世の都なりけり
厭ふともながらへて経る世の中の憂きにはいかで春を待つべき
君もげにこれぞ限りの形見とはしらでや千代のあとをとめけむ
ちくま川春ゆく水はすみにけり消えていくかの峰の白雪
ももしきや花も昔の香をとめてふるき梢に春風ぞ吹く
春よりも花はいく日(か)もなきものをしひても惜しめ鶯の声
かぎりあれば昨日にまさる露もなし軒のしのぶの秋の初風
同じ世の別れはなほぞしのばるる空行く月のよそのかたみに
かけてだに契りし仲はほど遠し思ひを絶えね佐野の舟橋
いざさらば磯打つ波にこと問はむ隠岐のかなたには何事かある
同じ世の別れはなほぞしのばるる空行く月のよそのかたみに
思いきや雲の上をば余所に見て 真野の入り江にて朽ち果てむとは
思いやる心の及ぶ方もなし煙となりし後の浦風
ひたすらに世は曇り日の心地して君なきかげに誰まどふらん
今はとて光や空にくもりけん霞そめたる春の望月
思わじな海士のしはざの藻塩草かくこのたびを限りなりとは
どのお歌も順徳院の心情が吐露されており哀惜極まりない。
そして印象深かった言葉は「治世音安以楽、亡国音哀以思」
冒頭、掉尾のすべてを言い得ている。
「百人一首は和歌で綴った歴史書であった」枇杷の実さんのおっしゃるとおりです。
並べていただいた順徳院の佐渡での歌、どれも切ないですねぇ。順徳院が如何に真面目で勉強家で父思いだったかがよく分かります。
いざさらば磯打つ波にこと問はむ隠岐のかなたには何事かある(順徳院)
われこそは新島守よおきの海の荒き波風心して吹け(後鳥羽院)
→やはり後鳥羽院のこの気概が承久の乱へと導いたのでしょうか。
とうとう 百首 出揃いましたね。
思えば、投稿が出揃う木曜か金曜の夜、全文をPRINTOUTし、
参考本(次第に増えて目下7冊)、加えて、「歴代天皇事典」と
百合局のコメントに備え、「能五十番」と「能・狂言鑑賞ガイド」を
傍らに置き、四色ボールペンを握って読み込み開始、そうそう、
カットグラスに注いだ上物の焼酎と乾きものも欠かせません。
五十番台の女流歌人が続く時はホロ酔ってグラスがすすみましたし、
七十番台後半からの保元の乱から承久の乱に至る最終歌の時は
妙に血が騒ぎ、益々グラスがすすみました。
そんな、週末の至福の時間が終わるなんて!
何かの飲み会で、「源氏と百人一首を読めば古典は分かる」と百々爺に言われ
半信半疑で談話室の末席に加わりましたが、「分かる」、否、それ以上でした。
六百年にわたる、朝廷にまつろう人々の紀伝。
そんな作品って、他にあるのでしょうかね、六百年ですよ!
思えば、あの秦の始皇帝さえも数代前は甘粛省の僻地の護衛隊長だったし、
漢の劉邦など本人が無頼漢、その後の王朝も異民族の金、元、清は
言わずもがな、歴代王朝の氏素性など、すべて怪しに尽きます。
翻って、百人一首で綴られたのは、天智・持統から後鳥羽・順徳まで、
六百年間の疑うことなき王統政治権力の綿々たる系譜です。
その伝承と奥深さに改めて感動すら覚えます。
それを知らしめてくれた、百々爺および小町姐さんはじめ百合局・在六・智平・八麻呂・文屋・枇杷の実・松風さんらのDEEPな薀蓄とお話、ありがとうございました。
コメントありがとうございます。
・全文プリントアウトして参考書と焼酎を傍らに4色ペンですか。蝉丸さんらしい実にDEEPで粋な読み方ですね。それだけ堪能していただけば爺は勿論、コメント各位も嬉しいですよ、ねぇ。
・源氏物語が一人の天才が紡ぎ出した極上の文芸作品とすれば百人一首は一人の天才が編み出した最上の歴史教材と言えるのでしょうか。この二つを深く読みこめたことすごく誇りに感じています。これもひとえにお付き合いいただいたみなさまのお陰です。ありがとうございました。
→大分ご無沙汰してますね。完読記念旅行でお会いできるのすごく楽しみです。いろいろお話しましょうね。
アレレッ!
野暮用で月火曜日と過ぎてしまい、昨日も別件ありで遅くなりました。
二年間本当にお世話になりました。
源氏物語道しるべ時代には遂に追い付けませんでしたが、百人一首では当初からメンバー一員に加えて頂き誠にありがとうございました。途中、世の中趣味の絵書きさんが意外に多いことを知り、それも素晴らしい出来映えに圧倒されて自分の未熟な歌絵本を果たして続けていけるかとかなり不安も覚えました。
でもその都度励ましを頂き、何とか最後まで続けられたのも皆さんからの応援があったからこそと新ためて御礼申し上げます。
母の自宅介護が難しくなり、特養に預けてからの百人一首でしたので筆を持つ機会はかなり少なくなりましたが、今回ブログに投稿するにはかな文字を何とかしようと百人一首仮名文字練習帳で二三度練習して本番を書いてみました。なので源氏物語の仮名文字とはかなり違ったかなと思います。
どうにかひらがなの綴り方崩し方は理解出来た気がします。
皆さまのご支援どうもありがとうございました。
PS
来週月曜日にひとり娘がオーストラリアに転勤します。向こうで彼氏でも見つけて欲しいものです。
二年間にわたり百人一首の絵を楽しませていただき有難うございました。
文字のみの無機質なページを彩ってくださり内容がより豊かになったっと感じております。
私は今、百人一首ロス状態でちょっと虚ろです。でも呆けている訳にはいきません。
いろいろな課題や目標がありそれに向かって少しずつでも取り組んでいきたいと思います。
先ずは松風さんもおっしゃるようにかな文字への理解です。
憧れは光琳かるたのかな文字です。
「くずし字で楽しむ和歌」という講座を二週無料で聴講したら結構面白かったので新たに正式に入門しました。
教材は「平成新修古筆資料集」と言うもので先ずは読みから入ります。
かなは読むのも書くのも難しいですがこれが私の老後の課題。
お母さまご長寿で有難いですね。お大切にね。
先ずは記念旅行でお目にかかれるのを楽しみにしております。
お嬢さんも国際派なのですね。向こうで良い出会いがあるかもしれませんよ。
とても頼もしく楽しみじゃないですか。
それではお元気でね!!
こちらこそお世話になりました。
・普通こういうブログは色付きで写真やら挿絵などもいっぱいで華やかなものですよね。ところがこの「談話室」、いかにも無粋。表紙に在六さんに載せていただいた写真(これは素晴らしいものでした)のみ。小町姐さん言われる「文字のみの無機質なページ」ばっかりでした。それを救っていただいたのが有情さんの絵(百人一首絵19、源氏絵7、竹林に猫の襖絵)。ホントありがたかったです。
→絵のトーンが素晴らしい。これぞマチュアの鑑みたいな絵でしたよ。
・仮名文字も一段と上達しましたよね。やはり努力の賜物ですよ。
これで百人一首は終わりますが、引き続き何やかやお付き合いしていきましょう。よろしくお願いします。
【余談37】 百人一首を終えて
最後の百人一首を終え一週間余が経ちました。
母の三回忌で田舎暮らしをしていてふと今日は月曜日「コメントしなくていいんだ」とホッとしました。
それは負担に感じていたのではなくて何やら解放感に満ちた爽快な気分でした。
4月から始めた「くずし字で楽しむ和歌」楽しくて楽しくて・・・
講師がユニークな人物で脱線が多く文字通り楽しく気楽に受講しています。
先月、聴講生として無料受講しその後一回もぐらせてもらい今月から正式の受講生になりました。
昨日は尊良親王 四半切(古今集)と尊円法親王 巻物切(和漢朗詠集)を学びました。
面白おかしくエピソードを交えての講義であっという間の二時間です。
その途中で必ず時代物の巻物(写本)を見せて下さいます。
昨日は何と源氏物語夕顔(三)の源氏、歌に興をおぼえ返歌を贈る
この部分の写本を写したものです。(室町頃のもの)
心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花
寄りてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見つる花の夕顔
この和歌が出てきたのです。
10名余りの生徒が写本に釘づけ、何とか読み、夕顔と源氏の贈答歌を思い出しました。
改めて今朝、清々爺さんの源氏物語道しるべ 夕顔(3) 夕顔との歌の贈答の部分を開き教材の古典セレクション、夕顔の部分を読みなおしました。
もう一点、法華経観世音菩薩普門本の経本も見せてもらったのですが女性受講生が多いのでもっぱら源氏物語のほうに集中していました。
この講座でも「鴨長明をを読む」の弓削先生の講座でもすべてが源氏物語や百人一首等古典に繋がり重なっていることに気づかされます。
ちなみにこの二人の講師は対照的でそれがまた面白いのです。
では今からお習字のお稽古に行ってきます。
書き込みありがとうございます。
私といえば先々週100番歌の予約原稿を終えてホッとして、それからボオッとしてしまって何もやってません。怠惰といえば怠惰、楽チンといえば楽チンです。しばらくこんな調子でやって行こうかなと思っています。
先日来、「源氏物語道しるべ」と「百人一首談話室」を読み返しています。源氏は幻まで終えました。談話室は10番まで。面白いし感慨深いんですがボリュームがあるので時間がかかります。
→早く古事記の世界に行かなくっちゃいけないんですけどねぇ。なかなか平安時代から抜けることができません。
「くずし字で楽しむ和歌」
いいですね。書をやられるってホント素晴らしいと思います。写本で源氏物語を楽しめれば無上の喜びでしょうね。がんばってください。
(私も宮内庁所蔵の青表紙本の複製版を桐壷だけ持ってます。さっぱり分かりませんがなかなかの達筆で読めればさぞ誇らしいことでしょう)
【余談38】 その後の日々雑感
ゴールデンウイークも終わり新緑がまぶしい今日この頃、皆さまその後いかがお過ごしでしょうか?
完読記念旅行までいよいよ一か月を切りましたね。
小町姐と言えば毎日忙しい日々ではあるがこのゴールデンウイークは読書三昧の日々。
ここ数年間は源氏物語と百人一首の関連本以外には縁遠くなっていた。
久しぶりに好きな輝(宮本輝)さんの小説を検索してみた。
知らない名前の新しい本が数冊あった。
ああ!!輝さん、ちゃんと書いていたんだと感慨を新たにする。
その中にシリーズ物があり何部まで読んだのかが記憶にない。
取りあえず数冊を借り出し先ず二冊を同時進行で読み始めて驚く。
平家物語、ゴッホ、ラフマニノフ、中島敦の弟子、そして究極は能、井筒と羽衣の話。
息子と50才差のある父親が中学生の息子に能の井筒を見せるのである。
他にも西行の歌、映画、灰とダイヤモンドなど。ハッとする気がかりの言葉ばかりが目につく。
不遜にも、輝さんは何で私の好みがわかるのかしら?
ファンとはそういうもの、笑っちゃいますよね。
面白かったのは男が眉を剃ると言うのは「私は人畜無害の腑抜けで世を風流に生きることしか考えていません」という印で公家が武士への恭順を眉を剃ることで示したという。
だから平安の昔から公家の男には眉がない、と。
そういえば映像で見るお公家さんは白塗りで眉がないですね。
しばらく遠退いていた輝さんの健在を知っただけでも嬉しく益々の活躍をと祈りファンを楽しませて欲しいと思った次第である。
小説を読み始めると止まらなくなり他の事が何も進まない。
輝さんを読み終えたら元に戻ろう。
先日観た映画「名探偵コナン から紅の恋の歌」は偶然にも百人一首かるたを扱ったアニメでした。
談話室が終わって以来初めて百人一首に触れた。この映画でいろいろな歌が蘇った。
特に印象に残ったのは映画のなぞ解きのキーワードでテーマにも由来するこの歌である。
40番 しのぶれど色に出にけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで 平兼盛
見終えて、はは~ん、なるほど、と思いこの歌は忘れられない得意札になること間違いなし。
皆さん試しにご覧になってください。
どんな映画かも知らず孫に誘われるままに観た映画ですが孫に感謝です。
そして先日はコンサート「万葉集への憧れ」と題した筝、尺八の演奏と語りを聴きました。
邦楽に分野を広げるきっかけになったのはやはり万葉集、源氏物語、百人一首の影響が大である。
そして百合局さんの謡やカルチャーの邦楽好きの友人にも感化されている。
冒頭に九面の筝に尺八が「わだつみ」と題した壮麗な曲を合奏。
わたつみの豊旗雲に入日さし今宵の月夜あきらけくこそ (天智天皇)
を題材に作られた曲で語り手が朗々と詠じて曲が始まった。
締めは炎(ほむら)と題した人麿の
近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古 思ほゆ
をイメージして作られた作品(野村正峰作曲)
こうやって聴いてみると日本文学はすべてが万葉集に端を発しているような気がしてならない。
今までかじってきた古典のすべては万葉集に始まり「天上の虹]を懐かしく思い出すコンサートであった。
ご無沙汰しております。100番歌を終わりぐったりしてクールダウンもできず、すみませんです。雑感書き込みありがとうございます。相変わらずお元気で多方面に活動されてて素晴らしいです。
・そうですか、公家が眉を剃ったのは武家への恭順を示すためとの説もあるのですか。なるほど、時代的には源平の乱~鎌倉初期くらいからでしょうか。正に定家の時代からそんな風潮になってきたということですね。確かに。「お公家さん」という言葉は道長には似合わない。九条兼実には似合いますもんね。
・「名探偵コナン から紅の恋の歌」
映画の題名にも「から紅」があるのですね。実は昨日ひょんなことから府中に競馬観戦に行きまして(百合局さん、智平朝臣、枇杷の実さん同道)、メインレースのNHKマイルの一番人気馬が牝馬の「カラクレナイ」。「そりゃあちはやふるの世界、女神も舞い降りるよ」ってことで「カラクレナイ」を中心に買ったら後方に惨敗。なかなかうまくいきませんでした。でも楽しかったです。
→関係ないコメントですみません。
・「万葉集への憧れ」 よかったでしょうね。
私も万葉集が日本文学の原点であろうというのには賛成です。
記念旅行の件、昨日百合局さんから原案もらったし、枇杷の実さんも考えてもらってるので今週には私からみなさんにメールネットで提案連絡します。
(今から八麻呂・有情さんと伊東にカラオケ一泊旅行です)
じゃあ失礼します。