さてラス前、当然大物の登場です。天智・持統帝から始まった天皇&藤原氏による治世も承久の乱を以て終りをつげ、武家筆頭による政権へと移行する(中世の始まり)。その立役者が後鳥羽院。「和歌を通じて日本の文化的統合を狙った意欲的な上皇」(五味文彦)でもありました。大物ぶりを拝見しましょう。
99.人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は
訳詩: 詮のないことだが世を思う
世を思えば物を思う
いとしい者がいる 憎い者がいる
つまらない世に
なおこの愛と憎しみのある心のふしぎ
作者:後鳥羽院 1180-1239 60才 第八二代天皇 高倉天皇の第四皇子
出典:続後撰集 雑中1202
詞書:「題しらず」
①後鳥羽院 父高倉帝(祖父後白河帝) 母藤原信隆の娘殖子
・安徳帝が西国へと落ち、後白河院は次帝に高倉帝の皇子たちの中から後鳥羽帝を指名
この経緯が平家物語巻八山門御幸に見られる(多分に後付けのフィクションだろうが)
*後白河院が三宮、四宮を呼び声をかけたところ、三宮はむずかって院の所へ行かず、四宮は機嫌よく院の膝に乗ったので四宮(後鳥羽帝)を次帝とした*
→こういうことで歴史が作られていく。
→後鳥羽院という個性的な人物が指名されてなかったら日本史も変わっていたろう。
・後鳥羽院関連年譜
1180@1 後鳥羽帝誕生 安徳帝即位(@3) 以仁王挙兵
1181@2 平清盛死去
1183@4 木曾義仲京へ侵攻、平家安徳帝を擁し西国へ 後鳥羽帝即位(@4)(神器なし)
~1185まで安徳帝・後鳥羽帝、二帝並立状態
1185@6 壇ノ浦平家滅亡、安徳帝死去 宝剣失くなる
1192@12 後白河院死去(院政終わる) 頼朝征夷大将軍に
~1196 九条兼実が摂政・関白
1196@17 源通親の政変(以後1202死するまで朝廷を主導)
1198@19 土御門帝(@4)(外祖父は源通親)に譲位
1201@22 和歌所設置、熊野御幸に定家供奉
この頃和歌に没頭(未曾有の千五百番歌合)
1202@23 源通親死去、ここから後鳥羽院の専制が始まる
1205@26 定家ら新古今集撰進
和歌の熱冷めて他諸事に傾注
1210@31 土御門帝に替えて順徳帝@4を立てる
1221@42 承久の乱 隠岐に配流
1239@60 隠岐で崩御
以下97番定家の時同様アラカルト風に感じたことをピックアップします。
〇三種の神器なき即位
神器は安徳帝が持っていった。安徳帝死後(@壇ノ浦)鏡と玉は戻ったが宝剣は見つからず。
→長じるにつれ即位の経緯を知るにつれ「自分は今までの天皇とはちょっと違う、何か欠けているところがある」とコンプレックスを感じたのではないか。
→以後のいささか常軌を逸した行動もその裏返しかも。
〇1198 19才で土御門帝に譲位(自らの意志で)してから和歌に没頭するようになる。
俊成に師事。数々の歌合を主催。後鳥羽院歌壇を形成する。
千五百番歌合(当代主要歌人30人X100首)何年もかけて勝負をつける。
→ちょっと度を越している。専制君主でなくばできまい。
〇新古今集撰進が終わった1205ころから和歌への情熱は徐々に冷め他の遊びに方向転換。
後鳥羽院の多彩な遊び(水無瀬離宮を中心にして)
音楽 琵琶、笛、笙
スポーツ 相撲、水練、蹴鞠、競馬、闘鶏、犬追物、笠懸
歌の会、詩の会、連歌会
今様、猿楽、白拍子の舞
囲碁、双六
→これだけ幅広く遊べるとはすごい。
→正に「飲む・打つ・買う」男冥利に尽きるお人ではなかろうか。
〇吉野御幸三十回以上、水無瀬離宮(豪壮無比の避暑別荘)往訪数知れず。
吉野御幸、毎度一ヶ月以上かかる。毎夜毎夜の和歌会、大酒宴
→やりたい放題。世の人心は離れていったのではないか。
〇1210頃からか鎌倉幕府への不満が募ってくる。荘園経営やら相続を巡り幕府側と対立、幕府も力で押さえつけ譲らない。段々と肩身の狭い思いが昂じてくる。1219実朝暗殺さる。
→鎌倉幕府への実力行使に傾く(「このまま許しておくわけにはいかない」)。
〇1221 承久の乱
執権北条義時追討の院宣を出し挙兵するも召集に応じた兵力は少数で幕府大軍(19万騎とも)になすすべなく完敗。即刻後鳥羽院は隠岐へ、息子順徳院は佐渡へと配流。土御門院も自ら土佐へと落ちる。
院宣を発すれば幕府は降参すると思ったのか。大軍が朝廷側に馳せ参じると思ったのか。
→計算違い。甘い。
まさか即刻隠岐に流されるとは思わなかったのか。
→崇徳院の例があるではないか。愚管抄を侮ったのが墓穴を掘った要因か。
結果的に承久の乱のお陰で今まで京・鎌倉の二重政権だったのが鎌倉幕府専権政治体制(天皇の人事も含め)へと固まった。日本史にとって大きな出来事であったことは間違いなかろう。
〇隠岐での後鳥羽院
配流後ほとぼりの覚めた頃を見計らって朝廷公家側から鎌倉幕府へ還京の嘆願がなされたが鎌倉(北条泰時)は聞く耳持たず。
結局隠岐で19年を過し、1239 60才で崩御。
(佐渡の順徳院は3年後1242 自ら食を断って崩御)
→これはあまりに酷すぎるだろう。源頼朝直系の源氏政府であればそこまで朝廷をないがしろにすることはあり得ない。北条氏、所詮は坂東の田舎者である。
②歌人としての後鳥羽院
・凝り性で若い時に集中し短期間で和歌を極めたようだ。
1198譲位後~1205くらいがピークか。
千五百番歌合、新古今集の編纂
→新古今集は定家らに撰進させたが実際には後鳥羽院が何度も取捨選択し後鳥羽院親撰と言われる。
・新古今集以下勅撰集に256首 御集「後鳥羽院御集」 歌論書「後鳥羽院口伝」
・後鳥羽院秀歌 田辺聖子撰
ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山霞たなびく
見わたせば山もと霞む水無瀬川夕べは秋となに思ひけむ
み吉野の高嶺の桜散りにけり嵐も白き春のあけぼの
寂しさは深山の秋の朝ぐもり霧にしをるる槙のした露
奥山のおどろが下も踏み分けて道ある世ぞと人に知らせむ
・隠岐での後鳥羽院
隠岐では多芸な遊びもできない。再び和歌に情熱を注ぐ。
遠島御百首、時代不同歌合、後鳥羽院口伝も隠岐で書かれた。
われこそは新島守よおきの海の荒き波風心して吹け
承久の乱後97定家は後鳥羽院との音信を断ったが98家隆は文通を続けた。
(家隆は隠岐へ慰問に訪れたとも、、、出来過ぎた話であろうが)
③99番歌 人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は
・出典は続後撰集 1251 藤原為家撰 百人一首よりずっと後
→定家の意図を受けて為家が後撰集に入れ、百人一首にも入れたのか。
・1212 五人百首中の述懐歌
同時に詠まれた後鳥羽院の述懐歌
いかにせむ三十あまりの初霜をうち払ふ程になりにけるかな
憂き世厭ふ思ひは年ぞ積りぬる富士の煙の夕暮の空
→まだ討幕の意図はない頃。述懐というより鬱憤の歌か。
・人もをし人もうらめし
世の中には愛しい(自分サイドの)人もおれば恨めしい(思う通りならない)人もいる。
→同一人説もあるようだが愛しい人、憎い人とする方が率直ではないか。
・丸谷才一は古注(「百首要解」江戸の国学者岡本況斎)に基き99番歌は源氏物語須磨に書かれた光源氏の気持ちを背景にしていると説く。
源氏物語 須磨8
、、、世ゆすりて惜しみきこえ、下には朝廷を謗り恨みたてまつれど、身を棄ててとぶらひ参らむにも、何のかひかはと思ふにや、かかるをりは、人わろく、恨めしき人多く、世の中あぢきなきものかなとのみ、よろづにつけて思す。
須磨に落ちる源氏、東宮に別れを言いに行く場面。
今まで源氏に言い寄って来てた人も須磨に落ちると聞くと離れていく者もいる(源氏命でずっとついてくる者もいるが)。世の中薄情なものだなあという述懐。
→後鳥羽院は源氏物語を読んでいたか?
→水無瀬離宮の豪華絢爛遊びの様は六条院の華やかさに倣ったのではなかろうか。
長くてとりとめなくなってしまいスミマセン。
白河院・後白河院・後鳥羽院の三人は性格も行動も個性的で一口には語れない歴史上の大人物だと感じています。
後鳥羽院をググってみたら、藤原定家の31万強を遥かに上回る45万4千の検索可能記事がありました。これは百々爺が言うように、後鳥羽院が政治と和歌の両方で日本の歴史に名を残している大人物であるからであり、大物の証左と言えるでしょう。その記事の中で、智平の興味を惹いた話を3つほど紹介します。今日はマスターズの最終日でテレビの実況中継を見たい上に、午前中から出掛ける用事があるため、事前準備の原稿を小町姐さんの前に投稿する失礼をお許し下さい。
最初は「菊の御紋」と呼ばれる皇室の紋「十六葉の菊紋」ですが、この紋は後鳥羽上皇に始まります。後鳥羽上皇はことのほか「菊」を好み、自らの印として愛用したほか、鍛刀した刀にも十六弁の菊紋を毛彫りしたと言われています。その後、89代後深草天皇・90代亀山天皇・91代後宇多天皇が自らの印として菊花紋を継承し、ことに「十六八重表菊」が慣例として皇室の紋として定着しました。そして、1869年(明治2年)の太政官布告第802号により、十六八重表菊が公式に皇室の紋と定められました。
次は「承元(じょうげん)の法難」と呼ばれる仏教史上、類をみないとされる弾圧事件です。この事件は1206年に後鳥羽上皇が熊野神社参詣の留守中に上皇が寵愛する松虫と鈴虫という側近の女性が御所から抜け出し、鹿ケ谷草庵で行われていた念仏法会に参加したことから始まります。二人はその法会で念仏の教えに魅かれて出家を懇願し、上皇の許可を得ないまま、安楽房と住蓮房により剃髪が行われました。さらに、彼女たちは説法を聞くために、彼らを上皇不在の御所に招き入れ、そのまま泊めたとされます。これを知った上皇は激怒し、1207年に専修念仏の停止と安楽房・住蓮房の死罪を言い渡しました。その後も、怒りの治まらない上皇は法然を土佐へ、弟子の親鸞を越後へ流罪に処しました。時に法然は75歳で、親鸞は35歳。親鸞は師・法然との別れに際し、「会者定離ありとはかねて聞きしかど きのう今日とは思はざりしを」と詠み、法然は「別れゆく道ははるかにへだつとも 心は同じ花のうてなぞ」と詠んだと伝えられています。そしてこれが二人の今生の別れとなりました。弾圧の背景には比叡山の延暦寺や奈良の興福寺による専修仏教の停止の訴えがありますが、上記のような厳しい処分となったのは後鳥羽上皇の激しい気性によるものと考えられます。
最後は「怨霊としての後鳥羽院」です。1221年の承久の乱の後、鎌倉幕府は後鳥羽上皇の後裔をことごとく配流・出家・臣籍降下させ、その系統による皇位の継承を認めない方針を採りました。このため、乱の直前にわずか4歳で践祚した後鳥羽院の孫にあたる仲恭天皇も退位させられ、幕府の意向で後鳥羽院の兄である守貞親王(後高倉院)の子が後堀河天皇として皇位を継承しました。他方、後鳥羽院は1239年に隠岐の配所で崩御しますが、既に生前から怨霊化するとの恐れが公家社会にあり、1233年に後堀河天皇の中宮であった藤原竴子が、翌1234年に2年前に院政を開始したばかりの当時23歳の御堀河上皇が相次いで崩御すると、後鳥羽院の怨霊によるとの噂も立ちました。
さらに、後鳥羽院自ら、死後に怨霊化することを懸念し、1237年に「万が一にもこの世の妄念にひかれて魔縁(魔物)となるようなことがあれば、この世に災いをなすだろう。我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである」との置文を記しました。そして、後鳥羽院の崩御後、1239年暮れに後鳥羽院への合力を拒否した三浦義村、1240年に泰時とともに京に攻め上った北条時房が相次いで死没しました。1242年には四条天皇が不慮の事故(近習を転ばそうと御所の廊下に撒いた滑石を誤って自ら踏んでしまい転倒したのが直接の死因)により12歳で崩御し、北条泰時も死没しました。これらは全て後鳥羽院の怨霊によると噂され、特に四条天皇については幼くして崩御したことから怨霊によるものとして恐れられました。また、四条天皇の崩御により後堀河天皇の系統が絶えてしまい、結局は土御門天皇の第2皇子で後鳥羽院の孫にあたる邦仁親王が後嵯峨天皇として践祚し、置文に記されたことが実現しました。
ここに至って、朝廷と幕府は後鳥羽院の怨霊の鎮魂に本格的に乗り出すことになりました。まず、「顕徳院」という諮号を改め、「後鳥羽院」の追号を贈りました。これは「徳」という字が怨霊になりやすいという理由から採られた措置であり、諮号が改められたのは後鳥羽院だけです。さらに、後鳥羽院の離宮後に院の御影堂(後の水無瀬神宮)を建立しました。また、幕府は鶴岡八幡宮境内に、後鳥羽院・順徳院を合祀する新若宮を作りました。正に「死せる後鳥羽院生ける朝廷・幕府を走らす」。さすがに大物上皇として存分に力を揮った後鳥羽院だけのことはあると感心する次第です。智平も後鳥羽院に走らされて、いつもより相当に長いコメントとなり、失礼いたしました。
忙しい所、律儀にコメントいただきありがたいことです。
・そうか、「菊の御紋」は後鳥羽院ゆかりのものでしたか。ちょっと調べたら菊の中国からの伝来は奈良末~平安初とのこと。ということは天智・持統帝の時代にはなかったということですね。菊は日本の天皇家の象徴、きっと律令国家制定時にはあったものだと思ってたのですが、違うんですね。
百人一首に菊は一首
29心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花(躬恒)
古今集時代には定着していたのが分かります。
源氏物語でも秋(特に晩秋)を表す花として随所に出てきます。
六条院では明石の君の冬の町に植えられてます。
冬のはじめの朝霜むすぶべき菊の籬、、、、
・「承元(じょうげん)の法難」
そんな事件があったんですね。法然・親鸞が流罪にあったのは事実でしょうから何かあったのは間違いない。若い世間知らずの女性が新興宗教にコロッと参るというならともかく松虫・鈴虫、名前は可愛いけど院の寵愛を受けるほどの女性ですのにね。考えた挙句の意図ある出家かもしれませんね。
→後鳥羽院の乱痴気ぶりに反旗を翻したのかも。
→専修念仏宗教が浸透し始めている証左でもありましょう。
・「怨霊としての後鳥羽院」
上皇を19年も21年も島流しにして平然としておれば化けて出られるのも自業自得というものでしょう。保元の乱の崇徳院、承久の乱の後鳥羽院・順徳院。武士の世が作られていく過程としては止むを得なかったのかも知れませんが酷いことだったと思います。
→南北朝時代の後醍醐天皇の隠岐流罪についてはまだ勉強してなくて分かりませんが。
後鳥羽院も西行法師、同様資料が多すぎて文章にするには私の手には負えない気がする。
99番歌 人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は
今朝一番百々爺さんの解説、丸谷才一、古注からの源氏物語 須磨8を読んで「あっ」と思いました。
きっと後鳥羽院は源氏物語読んでいますよね、読まないはずがない!!
そして「世を思ふゆえに・・・・」この言葉、何やら哲学的で「我思う、故に我在り」を思い浮かべます。
院の複雑な内面、心境が潜んでいるような気がし人間の哀しい性に無常観が漂う。
承久の乱よりずっと若き頃の作であるが後の人生を暗示、象徴しているようにもみえて悲しみが増す。
そのころはまだ鎌倉幕府との軋轢が決定的ではなかった。
何故敗れる確率の高い倒幕に走ったか・・・止むにやまれぬ武家支配への抵抗か・・・
われこそは新島守よおきの海の荒き波風心して吹け
無条件に好きな歌、これは隠岐を訪れた老齢の家隆を想いやっての歌とのことですが流謫の身であってもなお誇り高き天皇としてのプライドが感じられる。
配流の身の院にとって和歌は慰めであり生き抜く力、和歌だけが天皇にとって唯一の支えだったと推測できる。
和歌が院の激しい悲憤を静かな諦観に導く役目を果たしたようにも思える。
承久の乱に敗れた敗北の帝王、後鳥羽院とは一体どんな人であったのか。
百々爺さんも触れている平家物語巻第八「山門御幸」に以下のようにあり少し長いが引用します。
高倉院の皇子は主上の他三所ましましき。二宮をば儲君にしたてまつらむとて平家いざまゐらせて西国へ落給ぬ。三四は都にましましけり。
同八月五日、法王この宮たちをむかへよせまゐらせひてまづ三の宮の五歳にならせ給ふを「是へこれへ」と仰せければ法王を見まゐらさせ給ひて大いにむづからせ給ふあひだ「とうとう」とて出しまゐらさせ給ひぬ。其の後四の宮の四歳にならせ給ふを「是へ」と仰ければすこしもはばからせ給はず。やがて法王の御ひざのうへにまゐらせ給ひて、よにもなつかしげにてぞましましける。法王、御涙をはらはらと流させ給ひて「げにもすぞろならむものは、かやうの老法師を見てなにとてかなつかしげに思ふべき。是ぞ我まことの孫にてましましける。
この四の宮こそが後の後鳥羽院である。
後鳥羽院が幼いころから物おじしない人懐っこい性質であった事がわかる逸話である。
やがて平家は西海に散る。
神器無き新帝の即位、高倉天皇の第四皇子で安徳帝の異腹の弟。
後鳥羽院は風雅の人で人を見る目(評価)は確かと思っていたがここまで来て見方が少し変わってきたように思う。
一体真実はどんな天皇だったのか専制暴君、無謀短慮と評価は様々である。
ここで少し余談です。
今学んでいる無名抄は多分今年いっぱいかかりそう。
結構面白い逸話が多く長明の本質を知るには格好の歌論書であるが何しろ影印本が教材なので遅々として進まない。
字面を追えば意味不明、再度活字本で確認しつつ意味を知る。
でもこれを学ぶことにより少しづつ仮名が読めるようになったのは嬉しい。
いま和泉式部日記の影印本と活字原文を並行して読んでいるが翻訳作業のように感じる。
もしも源氏物語を影印本で読むとしたらお手上げであり一生涯かかっても無理。
活字の原文で勉強できたのは本当に有り難い事であった。
所で先の97番 定家の所で八麻呂さんが十人(二条天皇から四条天皇まで)の天皇の時代に生きた百人一首歌人は、定家のみと記載されていました。(八麻呂さん、本当に勉強家ですね。真面目に真摯に取り組んでおられ感心しています)
無名抄を学んでいる講師の研究専門は影印・翻刻・解説等から成る「六代勝事記」である。
「六代勝事記」とは鎌倉時代前期に書かれた歴史物語である。
始めて聞いた時、六代とは平維盛の子、六代かと勘違いしました。
六代とは高倉、安徳、後鳥羽、土御門、順徳、後堀川の各天皇を指す。
承久の乱で朝廷が幕府に敗れ後鳥羽上皇が隠岐に流され土御門は自ら土佐へ順徳院は佐渡へと前代未聞の事態が生じた。
乱の敗北の原因を後鳥羽上皇が不徳の「悪王」だったとする。
天皇及び神国・日本が否定されたわけではないという論調で書かれているとのこと。
無名抄を終えたら次に何を学ぶかを先日講師と会員で話し合った。
講師からは「平治物語」も提案されたが先ずは後鳥羽院をもっと詳しく知りたいと言うことで「六代勝事記」が予定されることになった。
後鳥羽院に興味を抱いたのはやはりこのブログの影響かもしれない。
この個性的で多種多彩な才能にあふれた天皇がどのような人生を歩みどんな治政を行ない敗北に至ったか、ただの暴君だったのか?
百人一首の何番ごろからかは忘れたが後鳥羽院が頻繁に出てきたことに気付く。
後鳥羽院の事をどこまで知ることができるか楽しみな講座で興味だけが先走っている今日この頃の小町姐である。
人も惜し人も恨めし、そして 我こそは新島守の後鳥羽院をもう少し知りたい思いが強まりつつある。
・後鳥羽院の評価、色々ありますよね。一つ言えることは後鳥羽院は未だかつてない難しい政治情勢の中での天皇-上皇だったということかと思います。それまでの時代は平家が政治を動かしたことはあったが、あくまで京の朝廷をベースとしてのこと。それが後鳥羽院の時代は、京から遥か離れた鎌倉に朝廷とは何のゆかりもない坂東武家が政治の実権(税の徴収権・警察権・人事権)を握り、京の朝廷など度外視してドンドン政治を進めて行く。朝廷はお飾りものに成り下がっていく。そんな流れをどうしたら止められるのか後鳥羽院は真剣に考えた(考えざるを得なかった)のでしょう。公武合体も一方策。しかし後鳥羽院が選んだのは挙兵討幕だった。
→承久の乱は一種の自爆行為だったのかも。一石を投じることで幕府も朝廷に目を向け朝廷主導・幕府従の体制が築ける、、、なんて夢みたのかもしれません。
・影印本で無名抄、和泉式部日記ですか。すごいですね。やはり書をやられる方ならではでしょうね。私なんぞとても無理。アラビア文字くらいにしか思えませんもの。古書・古文書を読むのは知識もさることながらコツもあるのでしょうね。でもスラスラ読めたら楽しいでしょうね。磯田先生みたいに大発見もできるかも知れないし。がんばって下さい。
・「六代勝事記」wiki見てみました。
承久の乱直後に書かれた歴史書のようですね。当然政治的意見が入っており後鳥羽院はボロクソに書かれている。勝者による歴史書、仕方のないところでしょう。
→幕府側の捉え方により後鳥羽院がどんな気持ちだったのかも推察できるかと思います。また教えてください(来年のことになりますけどね)。
隠岐といえば、昔からの流罪の地。 11番歌参議篁(小野篁)(802-852)の歌が思い出されます。
古今集 羈旅407
詞書:「隠岐国に流されける時に、船に乗りて出でたつとて、京なる人のもとに遣はしける」
わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟
彼は2年ほどで都に戻り活躍したが、後鳥羽院は19年暮らし隠岐に没す。大きな違いがあります。
さて、後鳥羽院
後鳥羽院は、文武両道に長け、粋人で行動派の人物でしたが,どんな人物だったかは、爺や皆さまのコメントを読み、かなり解ってきました。それでも、もっと知っておきたいと思う人物であるのも事実、小町姐さんが”六代勝事記”を読みさらに調べていかれるとの事、さすがです。
次に、水無瀬離宮について、駅名にもなっていますが、この場所の所在地を知っている人は少ないようにと思いますが、いかがでしょうか。
先ずは、WIKIより
水無瀬離宮(みなせりきゅう)は、かつて大阪府三島郡島本町に所在した、後鳥羽天皇が避暑のため造営した離宮である。現在は跡地に水無瀬神宮がある。2014年には水無瀬離宮の一部と思われる遺構が発掘されている。場所は、水無瀬神宮は、西国街道を東方向に歩き、サントリー蒸留所も超えて、住宅街の中にある。ちょうど、JR山崎駅と阪急水無瀬駅の中間辺りですが、水無瀬からの方がやや近いという場所。なお、水無瀬神宮には、後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇が祭られています。
さらに、小倉山荘 ”ちょっと差がつく百人一首講座”によると、百人一首の札をことばに紐つけ並び替えると、水無瀬絵図になると、この説は有名なのでしょうか。下記に絵図と解説がありますので、掲載します。
http://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/hyakunin02.html
この説を唱える林先生のブログが見つかり、さらに解説がなされているので、紹介します。このようにきれいに、水無瀬絵図が構成されていくのか、まだいまいち、ピンときていません。
http://www8.plala.or.jp/naomichi/hyakushu/utaorimono.html
最後に、千人万首より、源氏物語がらみの歌を2首
秋の露やたもとにいたく結ぶらむ長き夜あかずやどる月かな(新古433)
【本歌】「源氏物語・桐壷」
鈴虫の声のかぎりを尽くしても長き夜あかずふる涙かな
ーー(8) 命婦が桐壺更衣の母君を訪ね故人を偲ぶ
野原より露のゆかりを尋ねきてわが衣手に秋風ぞ吹く(新古471)
【参考歌】「源氏物語・紅葉の賀」
袖ぬるる露のゆかりと思ふにもなほうとまれぬ大和撫子
ーー(10)源氏 よそえつつ見るに心は慰まで露けさまさるなでしこの花
への藤壺の返歌
・隠岐配流、そうだ、11小野篁でしたね。定家の時代から400年ほど前。でも隠岐は日本国領地下として存在してた。定家が11番歌を入れたのは隠岐にやられた後鳥羽院のことを慮ってでしょうね。
→隠岐に流されたのは他にもいますよ。その内還れますよ、、との鎮魂の想いを込めて。
・水無瀬離宮(水無瀬神宮)の位置の説明ありがとうございます。淀川(合流点)を挟んで丁度先年訪れた石清水八幡宮の対面くらいですね。大体感じが分かりました。
林直道の「百人一首の謎」は織田正吉の「絢爛たる暗号」と並ぶ百人一首の謎解き本として有名です。先ず織田が百人一首は定家が後鳥羽院と式子内親王を鎮魂するための歌を並べたとする「絢爛たる暗号」を発表し次いで林が百首を並び替えると縦横織物のように水無瀬離宮が浮かび上がるとする「百人一首の謎」を発表したもの。
→両書とも昔一度読みました。ふ~ん、って感じでした。
→談話室でも参照しようかと考えたのですがちょっと煩わしくてやめました。
→談話室終えたらもう一度読み返してみようと思っています。きっと新しい発見があるだろうと思っています。
(「絢爛たる暗号」は九代目仁王から借りっ放しになってる遺品です)
・「長き夜あかず」「露のゆかり」源氏物語からの詞ばを引用してるんですか。やはり「源氏見ざる歌詠みは遺恨のことなり」なんですね。
→紅葉の賀の「袖ぬるる」は講読会で撰んだ百首に入っており今も諳んじています。藤壷が産んだ若宮を挟んだ源氏と藤壷の歌の贈答、源氏物語ハイライトの一場面でもありました。
水無瀬離宮築造に関して、定家は山上の新御所のみごとな景観に、表面お世辞をいいながらも、内心ではこの前後の大土木工事について「海内の財力をつくす」とか「国家の費ただこの事のみか」など記して驚きあきれています。後鳥羽院に対する大いなる不満があったのでしょう。器が大きすぎて、エネルギーに溢れた政治家、芸術家、スポーツマン。色事も、旅も何でもありの院についていく側近は大変だっただろうと同情してしまいます。
99番歌の詠まれたころは、安東次男氏によれば「旺盛な活動のあと、歌への執心もかなりさめていた時期に当たる」とのこと。「述懐」の歌からもう一首あげてみます。
人心うらみわびぬる袖の上をあはれとや思ふ山の端の月
同氏によれば「かっての華やかで屈託のない詠みぶりにかわって、内省的でいかにももの憂げな述懐の調子が露わになってくる」とか。
「百人一首の撰者があえて <人もをし> の一首を採り入れた理由は ~ 後年の遠島百首に続く憂悶も、また院の人柄も共によく現れた一首と眺めたのではないか」とし、さらにすすめて「後鳥羽院によって歌名を顕わし、のち後鳥羽院にうとんぜられた定家としては、この歌に現われたほろ苦さは他人事ではなかったはずである。定家は定家なりに時間をおいてそれを懐かしんでいるようにもみえる。」としています。
後鳥羽院と定家の関係を書くだけでも面白い小説になりそうですが、その他の側近との関係。鎌倉方との関係。女性たち(白拍子亀菊など)との関係。どれをとっても面白そうですね。今度、そういう小説を探してみましょう。
後鳥羽院の興味は、その後和歌よりも連歌などの方に傾斜し、和歌はむしろ順徳帝の内裏に継承され、そこで盛況を呈したようです。
謡曲『浮舟』にある「月日も受けよ行く末の、神に祈りのかなひなば」は、新古今、雑下、後鳥羽院の歌「大空に契る思ひの年も経ぬ月日もうけよ行く末の空」からきています。
謡曲『芦刈』にある「山もと霞む水無瀬川」は、新古今、春上、後鳥羽院の歌「見渡せば山もと霞む水無瀬川夕は秋と何思ひけむ」からきています。
・後鳥羽院の熊野御幸と水無瀬離宮造営・御幸は尋常じゃなかったようですね。真面目な臣下である定家からすると「何でそこまで」と理解に苦しむことが多かったでしょう。どうも二人の仲はこの辺り(後鳥羽院の放恣な贅沢三昧を見るにつけ)からおかしくなったのではないかと想像しています。
→後鳥羽院には何とか肯定的評価をしたいと思ってるんですが、やはりちょっと度を過ぎているかもしれませんね。
・安東次男説、その通りだと思います。99番歌、定家は自信を持ってメッセージを込めて選んだのでしょう。水無瀬離宮を詠んだ代表歌よりはるかに意義ある撰歌だと思います。
・後鳥羽院を歌人として評論・解説した本は多いですが(丸谷才一、五味文彦)政治家として捉えた本はあまり見かけません。おっしゃるように後鳥羽院・定家を主役に承久の乱を焦点とする小説、そして大河ドラマいいんじゃないでしょうか。
お江戸を皮切りに東西へと桜前線は広がり、今、難波は桜まっ盛り。遅咲きの造幣局も今が見ごろ。なのにこの空模様は何たること。今しばらくは菜種梅雨とのこと。花曇りに空まで、そして心まで曇りがちな難波の街に、北条、上本の若手の活躍だけが、やけに虎ファンの心を、いやがうえにも盛り上げる。そうそう、海の向こうの、松山君も今朝は大健闘。メジャーのタイトルを引っ提げて来年のマスターズに戻ってきましょう。
さて
99番歌 人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は
後鳥羽院(1180~1239)の歌。
あの人がいとおしい、あの人がうらめしい。この世の真実を求めるがゆえに、もの思う私には人間関係の愛憎がさまざまに映り、どうしようもなくままならないものに思われてならないのです、という解釈はどうだろうか。
いずれにせよ「世を思ふ」と「物思ふ」との対比、これがこの歌のポイントだろう。往時の人々が抱いていた無常感を考慮して「この世を味気なく思うので、あれこれ思い悩んでしまい、あの人のことこの人のことを思い出してしまうのです。」くらいに解釈するのが文学的には正しいのだろうが、もう一歩哲学的に踏み込んでみることも許されるのではあるまいか。「世を思ふ」は「この世界とはなんなのか」と本質を問い、「物思ふ」は、そのためにとことん思案を重ね、結局は、ー人間とはなんなのかー
愛しい人、憎い人、正しい人、正しくない人、人間の実存に行きあたり、やるせない諦観を覚えてしまう、と、まあ、わたしはこんな解釈を提言しておこう。デカルトの「われ思うゆえにわれあり」に対し、「われ思うゆえに人あり」である。小町姐もそんなこと言ってたねえ。
後鳥羽院は往時のスーパーマン、才能にも体力にも恵まれた「強い」人格の為政者であった。新興の武家勢力に不満を抱き、
ー鎌倉幕府、なにするものぞー
と抵抗を示した。
承久の乱についてもう少し詳しく述べておけば・・・後鳥羽院は鎌倉の第三代将軍・源実朝とは親しかったが、実朝が横死したのちは幕府との対立が深まり、ついに兵を集めて倒幕に打って出る。西国の守護たちの支援を受けたが、北条政子をトップとする鎌倉方は十倍近い兵力を擁し、組織力もあって、とても勝負にならない。たちまち敗れて後鳥羽院は隠岐に流され、これを契機に鎌倉幕府は京都や西国、四国にも勢力を広げ、貴族支配から武家支配への決定的転換がここに成った。後鳥羽院にとってはつらく、悲しい生涯であったろう。
とはいえ第九十九番の歌は後鳥羽院の三十代の作。承久の乱より十年ほど前であり、鎌倉方のやり口には目に余るところがあったのだろうが、まだ決定的に後鳥羽院が落ち目であったわけではない。そのわりには諦観が色濃い。第百番の順徳院の歌も二十歳の作で、これも承久の乱に関わる前のことだ。そのわりには昔の繁栄を偲んで、年寄りくさい。鎌倉の圧力におびえていたというか、芸術家の先見性が未来の悲しみを予測していたというか、いずれにせよここには若さが微塵もない。歌のよしあし以前の問題を感じてしまう。一方、同じ諦観でも後鳥羽院は少し違う。因みに言えば、後鳥羽院の歌は百人一首の中の名歌と評されることが多く、やはりここには哲学的な深さを感じ取るべきなのではあるまいか。(阿刀田氏)
今回は、阿刀田さんで一本勝負。あとは泣いても笑っても一首のみ。でもやっぱり泣かずに笑って、打ち上げ、いや、読み上げの喜びを分かち合いましょう。来週にはね。
まだまだ寒いですね。今日は大荒れ、折角のゴルフも昨日の段階で中止。どうも身の置き所がありません。今晩は日本酒飲みながらドームのG-Cテレビ観戦でもすることにします。
→松山くん、3日目18番ホールの4パット。あれはいけません。
→最終日ガルシアの13番・15番・16番には神がいましたね。
・99番歌の「世を思ふ」の「世」とは何か。
これは世の治世者たる(或いは治世者たるべき)後鳥羽院が主語なのですから、治めるべき世の中。武家なんぞが出て来て混乱を呈している今の世の中と考えるのが妥当じゃないでしょうか。そして「物思ふ」の「物」は自分の考える世を実現するための色々な方策ですかね。
→ちょっと一方的かもしれませんが一面はついているかも。
・承久の乱の位置づけ(ちょっと考えてみました)
①鎌倉幕府は別に悪いことしてないのに後鳥羽院が幕府に刃向い幕府を倒そうと挙兵したのでやっつけたまで(鎌倉幕府の見方)
②鎌倉幕府は存在そのものが不遜、これを駆除するため討伐令を出したまで(後鳥羽院側の見方)
→保元の乱では錦の御旗は後白河天皇側で崇徳院側にはなかった筈。承久の乱では錦の御旗は当然後鳥羽院・順徳院・仲恭天皇側にあった筈。
→まあ、そういうのが通じないのが武者の世ということかもしれませんがね。
千五百番歌合は後鳥羽院歌壇の沸騰を著す未曽有な歌合であった。「新古今集・後鳥羽院と定家の時代」(田渕句美子)
建仁元年(1201)6月、30人の歌人が百首歌を詠進した。勅撰集選進を意識して和歌所が設置されているから、この百首歌も来たるべき勅撰集に秀歌を注ぎ入れる為、歌壇の主な歌人を結集し、前年の二つの百首を上回る規模で「院第三度百首」として撰進させたのである。その後、三千首の和歌は千五百番に結番された。歌合にするというには後鳥羽院の意向によるもの。そして、翌建仁二年9月、十人の判者が選定された。権大納言忠良、俊成、内大臣通親、左大臣良経、後鳥羽院、定家、季経入道、師光入道、顕如、慈円で、注目すべきは判者の中に、俊成、定家と同格に後鳥羽院、良経、慈円が加わっている事である。この三人は「千五百番歌合」で、普通に判紙に書く方法は取らなかった。後鳥羽院は和歌を詠み勝負を示すと仮名序に書き、勝負の結果を示している。六百三番で
左)なく鹿の声に目覚めてしのぶかな見果てぬ夢の秋の思ひを(1204、慈円)
右)たづねても誰かはとわん三輪の山霧の籬にすぎたてるかど(1205、雅経)
しのぶ夢かつがつさめぬ空の月よわたる山の木々の秋風(判歌)
慈円歌は、秋の夜の見果てぬ夢のもの悲しさを、鹿の声で目覚めて懐かしむ。院の判歌は、その夢の余情を受けながら、秋の空を渡っていく月と、その月が照らし出す山々の姿を描き、その山々の木々を吹く秋風の物悲しい音で、1204の「しのぶ」「夢」から「さめ」た、と新たに展開させた。
人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は
人を愛するときももあれば、恨めしいと思う時もある。この歌のすごいところは「人もをし人もうらめし」の出だしが初句と二句でそれぞれ句切れることによって、人を愛することと憎むことが、紙一重であることが伝わってくるところ。「・・し」という音で連続して句切れになってリズム感を出す。愛と憎しみは表裏一体のものというのは古今東西の文学の普遍的な心理であり、それを見事に歌いきっていて素晴らしい。(板野博行)
天才肌だった分、後鳥羽院は気性の激しい性格だったらしく、この歌からは朝廷をないがしろにする幕府との軋轢から、ストレスや心労で情緒不安定になり、思うままにならないこの世の中への不満や憤りが感じられる。後鳥羽院33歳の建暦2年(1212)に詠まれたもの。すでに鎌倉幕府との間に険悪なムードが漂っていたにせよ、決して討幕の心情を直接吐露した歌ではなかった。承久の乱はこの9年後に起こる。
・未曾有の千五百番歌合 解説ありがとうございます。
後鳥羽院の和歌への熱狂が頂点に達した出来事でしょうか。ちょっと度胆を抜かれる催しですよね。段取りやら何やら和歌所の事務方は大変だったことでしょう。後鳥羽院の歌に対する熱狂以外の何物でもありませんね。三千首、質より量、何かやけくそ気味の感じがするのですがねぇ。
判定を歌で示すというのも歌にご執着の後鳥羽院の新趣向だったのでしょうか。まあ連歌的な発想なのかもしれませんね。
この時1202俊成は89才。老骨に鞭打って判者を務めていたのでしょうか。翌1203後鳥羽院による俊成九十の賀宴が行われています。
・「人もをし人もうらめし」
板野先生は同一人説なんですね。恋人のことを詠んだとすれば分かるんですがね。一般の人を一々愛しくなったり憎らしくなったりしますかね。
→愛と憎しみは表裏一体というのも恋愛感情としては分かるのですが。
→家族はみなどんな時でも愛しい人でしょう。
→友人知人には普通そこまで高まった感情は持たないのではと思うのですがいかがでしょうかね。
【余談 36】 NHK朝ドラ「ひよっこ」に思う
何だか書かずにはおれなくなりました。
懐かしくてせつなく涙ぐむようなやさしい風景とともに新しい朝が始まりまだ二週間。
家族構成に自分が育った子供時代を重ね合わせている。
時代的にはヒロインの高校生は百々爺さんはじめ皆さんとは同級生。
私はすでに社会人二年目で仕事にも少しずつ慣れ憧れの都会生活を満喫していた。
東京オリンピックを控え日本中が高度成長に伴い浮足立っていたように思う。
自分自身もそうだった。
ヒロインと違いあの当時私は高校を卒業したら一刻も早く都会に出たい一心だった。
みね子のような良い子ではなく結構わがままで自分のことしか考えていなかった。
そして今、朝ドラを目にして思うのは自らの原風景である。
縄をなうお爺さんの姿、鍬を打つ母親、黄金色に輝く稲田、はざ掛けされた稲束。
お櫃のある食卓、すべて自らも体験したことばかりで何とも言えない想いに溢れる。
そして我が祖父、父母を思い出すのである。
お爺ちゃんはやさしくて遊び相手、お父ちゃんは怖かった、お母ちゃんはすべて、弟は喧嘩相手であった。
祖父がいた頃はちょうどヒロインの妹と弟ぐらいの年齢の姉弟であった。
祖父も父も寡黙、母も当時は静かで控えめな性格であった。
食卓は祖父を中心に粗末なもので貧乏暮らしであったが家族は寄り添っていた。
何の不満もなかったが都会への憧れはどうしようもなかった。
ドラマは父親の行方不明で暗雲が垂れこめたが周囲の優しさに救われる。
来週のタイトル「明日に向かって走れ」に少し安堵した。
ヒロインの人生が今後どのように展開するのか、今までにない朝ドラが新鮮で楽しみである。
熱のこもったお話し、ありがとうございます。私もしっかり見ています。べっぴんさんの終わり頃がちょっとダラダラしてたので新鮮に感じます。
奥茨城の田舎風景は小町姐さんところにダブるんでしょうね。ウチ(津市橋北地区)はもう少し都会でしたけどね。おっしゃる通り主人公と年代がいっしょなだけに風景も家族構成も生活ぶりも懐かしいものばかりです。これからが楽しみですね。
→東京赤坂の風景はもうちょっとあか抜けていたのではないかと思うんですが、、。まあ、いいか。