源実朝、昔から「大海の」の歌、大好きです。東映映画のタイトルシーン、よくぞ豪快にこんな歌詠めたものだと感心します。そんな実朝、武家のならいとは言え28才にして暗殺さる。どんな一生だったのでしょうか。
93.世の中は常にもがもな渚漕ぐあまの小舟の綱手かなしも
訳詩: 世の中はいつも変わらずありがたいものよ
渚こぐ漁師の小舟の
綱手ひくさまのおもしろ
眼の奥に焼きつけておきたいほどの
おもしろの さてまた哀しい 人のいとなみ
作者:鎌倉右大臣(源実朝)1192-1219 28才 源頼朝二男 鎌倉三代将軍 正二位
出典:新勅撰集 羈旅525
詞書:「題しらず」
①「鎌倉右大臣」
・武士としては初めての右大臣で当時の公家社会からすると尊称なのであろうが、現代人からするとピンと来ない。やはり「鎌倉三代征夷大将軍源実朝」がいいのではないか。
→実際には鎌倉幕府が政治を牛耳っていたのだが京都朝廷からすれば「鎌倉の右大臣」、一介の臣下に過ぎないという感覚(希望的妄想)だったのだろう。
→これが昂じて後鳥羽院の独り善がりの暴走(承久の乱)へと繋がる。
・頼朝誕生~鎌倉幕府成立~実朝暗殺~北条執権政治までの年表
1147 頼朝誕生
1159 平治の乱 頼朝@13伊豆へ配流
~~ 平家全盛 頼朝ひたすら伊豆で耐える(約20年間)
1180 頼朝、以仁王の令旨を受けて伊豆で挙兵
1185 壇ノ浦にて平氏滅亡
1187 義経征討、奥州藤原氏(泰衡)滅亡→頼朝の天下へ
→この頃から実質的には鎌倉幕府が政治を動かしている。
1192 頼朝征夷大将軍就任(後白河院崩御の直後)
この年に実朝誕生(政子腹の次男)
→一般的には「イイクニ作ろう」でここから鎌倉時代が始まったとされる。
1199 頼朝死去@53(体調崩し病死か、落馬原因説もある)
頼朝の後を継ぎ(政子腹の)長男頼家第二代将軍に
1203 頼家を廃し実朝@12第三代将軍に
(実朝を担ぐ北条氏と頼家の乳母系比企氏との争い)
1204 頼家、北条氏に暗殺さる。
実朝@13新古今和歌集取り寄せ、定家に師事
1211 94参議雅経、鴨長明を連れて来鎌倉、実朝に和歌、蹴鞠を指導
1213 金槐和歌集成立(この頃で実朝、歌作を止める)
1218 実朝、右大臣就任(武士として初めて)
1219 実朝、公暁(頼家の子)に鶴岡八幡宮で暗殺さる。@28北条義時の策謀
源氏の血は絶え、以後京からの公卿、親王が傀儡将軍となり実質北条執権政治が始まる。
1221 承久の乱(北条政子が大演説をして幕府軍がまとまる)
1225 北条政子死去
(年表をじっと見ての感想)
・頼朝は挙兵までは一介の地方豪族に過ぎなかった。以仁王の令旨&源氏嫡流の血筋で5年にして平家を滅亡させ7年で天下一となる。
→正に武士の世のダイナミック性である。
・京と鎌倉 二つの政権。
京の朝廷(&公家)からすれば鎌倉の臣下に政治をやらせているとの感覚。
→万世一系の天皇家を長とする日本の国体は変わらない。
・北条(政子)の力が大きい。頼朝死後は御家人間の争いが絶えず結局源氏の血筋は実朝で断絶。承久の乱でぐらつくが政子の大演説によって幕府軍は一本化し承久の乱を平定、以後北条執権政治の世の中となる。
→父祖からの忠臣に支えられて天下を成した家康と異なり、頼朝は伊豆での流浪生活からの這い上がり。頼朝死後は結局妻方の北条氏の天下になってしまう。53才での頼朝の死は早すぎた。
②歌人としての源実朝
・父頼朝も歌人だった(新古今集に2首入集)。実朝も若くから和歌に傾倒。
13才時、できたての新古今集を贈られ大喜びしている。
17才で疱瘡を病む。以後も病弱だった模様。
18才 定家に自作の30首を送り評価を求める。定家より歌論書「詠歌口伝」を贈られる。
20才 参議雅経、鴨長明に鎌倉で和歌の指導を受ける。
22才 金槐和歌集成立、定家へ贈る。
→和歌に対し誠に早熟、熱心である。
→12才で将軍になったが実質は母政子と北条義時・和田義盛ら御家人が政治を行い。実朝は和歌に没頭しておればよかったのだろう。
→23才以降は歌作が殆どない由。身辺もきな臭くなって歌どころではなかったのだろうか。
・実朝の歌は京の新古今調とは異なり新鮮な響きがある。
【実朝歌に対する評価(「日本文学史」小西甚一)】
定家の系統をひかぬ歌人は存在しない、唯一の例外として、源実朝がある。この名目だけの将軍は、武家に在籍しながら、精神的には公家化した人であって、定家の指導により、歌道を熱心に修めた。しかし、実朝の歌には、当時としてたいへん異質的な歌風、すなわち万葉風がいちじるしく、どうしてそのような歌を詠むにいたったかはまだ研究されつくしていないが、とにかく異彩ではある。実朝を除けば、中世和歌即定家流ということになる。
→古今集をボロクソにけなした子規も返す刀で実朝のことを絶賛している。
・実朝の歌から
自然を豪快に詠んだ歌
もののふの矢並つくろふ籠手のうへに霰たばしる那須の篠原
箱根路を我が越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ
大海の磯もとどろによする浪われてくだけて裂けて散るかも
→素晴らしい! いつ口遊んでも心が大きくなります。
山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも
→後鳥羽院に忠誠を誓った歌。官位が欲しい、あくまで朝廷には従服であった。
萩の花くれぐれまでもありつるが月出でて見るになきがはかなさ
うば玉や闇の暗きにあま雲の八重雲がくれ雁ぞ鳴くなる
→世のはかなさ、あはれを詠った歌。
時により過ぐれば民のなげきなり八大竜王雨やめ給へ
ものいはぬ四方の獣すらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ
→山上憶良を彷彿させる。
すごいスケールが大きい。セコセコしていない。
何とも言えない物悲しさが伝わってくる。
→将軍になどなりたくなかったのであろう。京の公家に生まれたかった!
・公暁に暗殺される日に詠んだとされる(辞世の)歌
出でいなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな
→そう言えば24菅原道真も右大臣だった。でも出来過ぎ。後世の戯作であろう。
③93番歌
・本歌取りの手法を駆使した歌
本歌とされる二つの歌
十市皇女伊勢の神宮に参る赴く時に波多の横山の巌を見て吹ぶき刀自が作る歌
川上のゆつ岩群に草生さず常にもがもな常をとめにて(万葉集)
(天武と額田王の子十市皇女、大友皇子に嫁し壬申の乱で敗れ、天武の元に戻る)
→波多の横山は小町姐さん、文屋さんの生まれ故郷
陸奥はいづくはあれど塩釜の浦漕ぐ舟の綱手かなしも(古今集 陸奥歌)
・「常にもがもな」変わらないで欲しいという願望。
I wish it were、、、反実仮想の言い方である。
・「あまの小舟の綱手」漁師の日常の描写
→実朝は常々鎌倉海岸を散策し海を遠望し物思いにふけったのであろうか。
・「かなしも」何がかなしいのか? →「無常のはかなさ」
→歌全体から「もののあはれ」感が漂う。
→三代将軍にして暗殺されるという実朝の生涯を考えると、「箱根路を」「大海の」よりも93番歌の方が代表作として相応しいのかも。
④源氏物語との関連
ちょっと思いつきません。何せ武門のトップ征夷大将軍の歌、雅な源氏物語世界からは程遠い存在です。それにしても凡そ和歌・公家・風流と征夷大将軍とはミスマッチ。
百人一首中京都の空気を吸ったことのない歌人はこの人だけ(平安時代以前を除く)。然も白昼公然と暗殺された男。
→誠に異色づくめの人選です。それだけに天性の詩才は輝くものであった筈です。
松風有情さんから93番絵いただきました。大銀杏、インパクトありますね。
http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2017/02/KIMG0144_20170225111035.jpg
世の中は常にもがもな渚漕ぐあまの小舟の綱手かなしも
百々爺さんも挙げられているこの歌の本歌とされる私の好きな歌。
河の上のゆつ磐群に草生さずつねにもがもな常処女にて(万葉集1-22)
両方とも「常にもがもな」と詠われる。
私の中では十市皇女から紫の上へそしてふるさとへの思いと果てしなく繋がっていく哀しくも美しく懐かしくかけがえのない歌。
最近では「とと姉ちゃん」の名前の由来としての常にもがもな、の常子
もうこれだけで93番は忘れられない好きな一首です。
常に変わらず永遠であって欲しい願望の終助詞「もがも」+詠嘆の終助詞「な」と言うことらしい。
悲劇の将軍、実朝にまつわる私のお粗末。
中学の修学旅行で鶴岡八幡宮を訪ねた時のことです。
歴史の先生が実朝が暗殺された石段に血痕があると話したのを真に受けた超真面目な私はそれを捜したのである。今では笑い話である。
解説の年表から北条氏の台頭、歴史の流れに奔走され若き命を落とした実朝の悲劇がみえてける。
この歌のあまの小舟の綱でかなしもに将軍実朝の孤独感がひしひしと伝わる。
次の94参議雅経(飛鳥井雅経)とは蹴鞠の師や和歌の友として交流があり雅経は鴨長明を同動し1211年鎌倉を訪れている。
1212年長明の「方丈記」が成立、この頃と前後して無名抄が成立しているが定かではない。
鎌倉へ下った目的は何だったのだろう?これは今学んでいるカルチャースクールでの皆の疑問でもある。
長明の「方丈記」と「無名抄」はどちらが先に成立したかは定家の研究者、久保田淳氏の「無名抄の成立と書名」によっても確答は得られなかった。
ただの和歌の友人として度々の下向か、それとも他に目的があったのか謎である?
長明は実朝に和歌の指導をしたかったのではなかったのだろうかとはカルチャーの講師の見方である。ならば手ぶらで行くことはない、何らかの歌論書があったと見なしたい。それが「無名抄」ではなかったかと。しかしその対面は失敗に終わったのではないかと。
長明には出家してなお将軍の和歌の師友という出世の野心が内在していたのか?
実朝には対面こそしていないがすでに定家という偉大な和歌の師匠がいた。
15歳で定家に入門し貴重な歌書などを贈られ和歌の道に精通している。
実朝亡き後、定家は金塊和歌集を編纂した。その中の最後の歌(719)
時により過ぐれば民のなげきなり八大龍王雨やめさせたまへ。
建仁元年 七月洪水 浸天 土民愁嘆せむことを思ひて一人奉向本尊、聊致祈念曰く。
この歌からは武士らしくスケールが大きく雄大な中に言い知れぬ哀しみを漂わせ93番歌にも通じる漁民を想う気持ちがうかがえる。
余談ですがネットで面白い記事を見つけました。
太宰治の戦前発表の小説「右大臣実朝」の中に鴨長明を登場させているとのこと。
早速その本を図書館で予約した所、古色蒼然たる本が届きました。
県立名古屋図書館S21年6月22日の判が押してある茶褐色のザラザラの藁半紙製。
奥書を見るとS17年9月初版印刷、発行とありS21年第三刷発行 増進堂。
さらに右大臣實朝の字は右から始まり装幀も藤田嗣治と右から書かれているではないですか。びっくり仰天、お値段は拾貮圓。今やネットでは2万円前後。
藤田の絵は桜の絵がカラーで描かれ本の文字は旧字体、読みづらいが意味は大体分かる。興味のある人は御一読ください。
どうも貴重な資料で鶴舞中央図書館書架で保存されていたようです。
実朝の若き付人の立場から実朝と長明の会見が書かれています。
勿論太宰の創作ですから実のところは不明です。
太宰が想像力の思いの丈を駆使して書いたのでしょうか。
その時、後鳥羽院28歳、実朝19歳、定家49歳 長明56歳
登場する名前は実朝、長明、参議雅経、仙洞御所(後鳥羽院)良経、通雅、定家等。
この若い付人は長明のことを見どころのない小さく貧層な田舎の爺さん、奇人ひねくれ者扱いしていますがでもやはり只の爺さんではないとも。
この小説はここ数年長明を学んでいる私のイメージと当たらずとは言え遠からずでとても面白かったです。
28歳で暗殺された実朝、片や「ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」の名文を残した長明。
実際は二人の間でどんなやりとりがなされたのか永遠の謎、太宰の小説はフィクションとはいえ、又フィクションだからこそ面白かったです。
実朝は武士と言うより貴族志向で妻は京より坊門信清の娘、信子を正室に迎えている。
鎌倉三代征夷大将軍源実朝、決して名ばかりの無能の将軍ではなかったと私は思いたい。
長いコメントになりました。
松風有情さん93番絵ありがとうございました。
八幡宮に続く参道と大銀杏、今にも実朝が現れそうです。
銀杏の根方に佇む小さな男は木守でしょうか。何気なく描かれているのが良いですね。
・「常にもがもな」
この力強い語調は他の歌にはない実朝独特のもの。一発で心に響きます。そして常処女は紫の上ですか、なるほど。そうでしたね。
青玉源氏物語和歌集、引っ張り出してみました。
常処女あはれ無常の華と散る儚き露の消ゆるがごとく(御法)
(源氏物語道しるべ 御法12~16 2014.1.30 参照)
(懐かしいですね。もう3年前になります)
→「美しい乙女よ永遠に」の所を「世の中よ永遠に」と詠み替えた所に実朝の非凡さを感じます。
・中学の修学旅行、鎌倉も行きましたか。ウチは横浜(氷川丸とか)から東京で鎌倉は行かなかったですね。まだ新幹線はなく修学旅行列車「ひので号」でしたよね。勿論初めての東京でした。
・94参議雅経が鴨長明を伴って鎌倉に下向した経緯。
私が読んだ限りでは実朝が雅経(京と鎌倉の橋渡し役)に和歌を教えてくれる人を連れて来てくれと頼み、それに応えて雅経が当時の歌壇(後鳥羽院とか定家とか)に相談し俊恵の弟子で官職もなかった鴨長明が選ばれ一緒に鎌倉に行ったのだと思います。鎌倉へ下った目的は実朝に歌を教えることだったので勿論対面もししっかり教えたんじゃないですかね。
→和歌勉強の気分転換に偶には庭に出て雅経が蹴鞠を教えたんでしょう。
・この前91九条良経の「きりぎりす」の所でも太宰治が登場しましたね(文屋どのの紹介)。あまり太宰は知らないのですが古典文学(歴史)にも造詣が深かったのでしょうね。
→それにしてもそんな古文書まがいの小説まですぐ読んでみるって、小町姐さんの行動力には頭が下がります。
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残り8首となり、歌絵の選択に悩むところです。最近のマスコミはどこもマレーシアジョンナム暗殺事件ばかりでしたが、今回源実朝の最後の事件現場の鶴岡八幡宮を選びました。
数年前に訪れた時はその大銀杏は台風に倒れた後で修復中でした。しかし周りの木々は大きく育ち八幡宮の全景は今や見えません。
なので百人一首今昔散歩に昔の風景があったのでそれを参考にし描きました。
ご指摘の男は鉛筆のいたずら書きを入れてみました。怪しい侍です。
多分歌枕絵としてはこの93番歌が最後になると思います。100まで残り少ない中からもう1つは選んでみるつもりです。
源氏名は 昔の名前で 出ています
大銀杏 アサギマダラの 逃避行
(VX )
ありがとうございます。なるほど、分かりやすい絵ですね。
そうか、木の陰に怪しい男がいるんだ。最初気がつきませんでした。ウオーリーを探せみたいなものですね。面白い。
鶴岡八幡宮は頼朝が鎌倉入りし町を造りあげた時その象徴として海から真直ぐの若宮大路の頂上にどっしりすえた守護神社。そして鶴岡八幡宮の象徴として歴史を見守ってきた大銀杏(樹齢千年)。この大銀杏が倒れてしまったのは何とも残念であります。
まだまだ残りはあります。新作お待ちしています。
実朝の歌となると反射神経の働きなのか、「大海の磯もとどろに寄する波われてくだけて裂けて散るかも」が思い浮かびます。
おそらく中学生のころの古文の時間に習っているので、同年代のみんなも良く知っている歌でしょう。百々爺も書いていますが、私も短絡的だとは思いつつ東映映画のタイトルシーンが見えます。
少女時代から今に至るまで、ダイナミックでスケールの大きいこの歌が好きです。
93番歌の本歌に関しては、百々爺、小町姐が詳しく記されているので、万葉集巻一22、古今集巻二十陸奥歌は省略しますが、この二首の歌を本歌としながら詠まれた「 ~ 綱手かなしも」の歌は、人の世の無常に対する感傷が漂っています。京都の歌人たちでは詠むことのできない鎌倉人の格調がそこにあるように感じます。
安東次男は次のように書いています。
定家から、とりわけ万葉歌の取り様を教えられ、それをたよりに忠実に作歌した実朝の歌には、古歌の語法を活かすためにこころみられた習作ふうの歌が多いが、京都歌壇にあこがれながらも、身は東国の武人として終わるさだめに生まれついていたため、その点でもおのずと万葉ぶりの語法に惹かれたのだろう。それが実朝の歌を、時流から離れた異色歌にしている。
謡曲『玉鬘』にある「浮き舟の楫を絶え 綱手悲しき類ひかな」は、新勅撰、旅、源実朝の歌「世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱手かなしも」を使っています。
・「少女時代から今に至るまで、ダイナミックでスケールの大きい93番歌が好き」
少女時代から好きでしたか。私も少年時代から好きでした。きっと好みがあってたのでしょうね。、、ねぇ。
→私の古文はどうしたら点数が取れるかだけしか考えてませんでしたから、古典を味わっておられた百合局さんとは根本的に違いますけどね。
・安藤次男説、ありがとうございます。
実朝の歌の特異性は①東国在住であったこと②武家であったことの2点だと思います。
→百人一首名の「鎌倉右大臣」この肩書きが全てを語っていると思いませんか。
・「浮き舟の楫を絶え 綱手悲しき類ひかな」(玉鬘)
源氏物語の玉鬘+浮舟、46番曽禰好忠(楫を絶え)、そして93番歌(綱手悲しき)
→謡曲が引っ張ってくる範囲の広さはすごいですね。
実朝の歌、万葉調と評されているが、爺が掲げてくれた歌を含め、小生は好きな歌人である。
今回この歌を読み、調べてみて、”かなしも”の意味がしっかり解らないと、この歌を味わえないことがはっきりと解りました。”今昔散歩”にも、”かなしいだけでなく、いとおしいの意味もある。心が揺り動かされ、感情がゆさぶられること”とあり、奥行きの深さを感じたしだい。
”②歌人としての源実朝”にあるとおり、22歳の若さでで歌作りをやめている。短かった人生とはいえ、28歳まで歌を詠っていれば、どんなすばらしい歌が残ったであろうかと残念に思う歌人でもある。
”百人一首中京都の空気を吸ったことのない歌人はこの人だけ(平安時代以前を除く)”とあるが、百人一首の歌人で、飛鳥京から始まり時の都に住んでない、或いは訪れたことがない人はこの実朝だけではないか。詳しくは調べていないが、実朝は都はもとより、箱根・伊豆あたりまでしか遠出もしていないとおもえる。そして、唯一の武家(将軍でもあるが)歌人。
公家の歌を勉強し教わったとはいえ(憧れもした)、百人一首の歌人たちからすれば、家系・育った場所や環境からして、やはり異端児であったわけで、それゆえ、このような新古今調の調べが感じられない、おおらかな歌が生まれたのだと思う。
WIKIに、正岡子規の絶賛の評があるので、引用します。
仰の如く近来和歌は一向に振ひ不申候。正直に申し候へば万葉以来實朝以来一向に振ひ不申候。實朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。とにかくに第一流の歌人と存候。強ち人丸・赤人の余唾を舐るでもなく、固より貫之・定家の糟粕をしやぶるでもなく、自己の本領屹然として山岳と高きを争ひ日月と光を競ふ処、実に畏るべく尊むべく、覚えず膝を屈するの思ひ有之候。古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤なるべく、北条氏を憚りて韜晦せし人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。人の上に立つ人にて文学技芸に達したらん者は、人間としては下等の地にをるが通例なれども、實朝は全く例外の人に相違無之候。何故と申すに實朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚びざる処、例の物数奇連中や死に歌よみの公卿たちととても同日には論じがたく、人間として立派な見識のある人間ならでは、實朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。真淵は力を極めて實朝をほめた人なれども、真淵のほめ方はまだ足らぬやうに存候。真淵は實朝の歌の妙味の半面を知りて、他の半面を知らざりし故に可有之候。 『歌よみに与ふる書』
最後に、千人万首より
梅の花をよめる
咲きしよりかねてぞをしき梅の花ちりのわかれは我が身と思へば
寒蝉鳴く
吹く風のすずしくもあるかおのづから山の蝉鳴きて秋は来にけり
・実朝、22才で歌をやめている(23才以降歌作が殆どない)。
どうしてなんでしょうね。不思議です。若い頃からの和歌好きであれだけ情熱を燃やしてきたのに。将軍職が忙しくなり和歌どころではなくなったのかもしれませんが、別にねぇ。和歌もやればよかったのに。
→創作意欲がなくなった。歌作に情熱がなくなった。
→(しをんちゃんの言う)感性のきらめきに限界を感じた。
実朝が暗殺されずにもっと詠み続けておればもっともっとすごい秀作を残せたのに、、、。というのは短絡的な見方かもしれませんよ。ひらめきのない凡作を作り続けることはできたかもしれませんが。
・確かに百人一首中の歌人で時の都(大津・飛鳥・藤原・平城京・平安京)に住んでなかった歌人は実朝一人でしょうね。
→いや、実朝の時代は鎌倉こそが時の都であった(少なくとも都は京と鎌倉二つあった)とも言えましょうがねぇ。
・「正岡子規の絶賛の評」引用ありがとうございます。いやぁ、激越ですねぇ。それにしても引合いに出されているお公家歌人たちはここでもボロクソにこきおろされてます。いささか可哀そうであります。
「例の物数奇連中や死に歌よみの公卿たちととても同日には論じがたく」
→子規によれば百人一首など殆どが「死に歌」なんでしょうね。いやはや。
実朝の公暁による暗殺について、百々爺はあっさりと北条義時の策謀と書いていますが、異説もあるようです。1219年1月27日、鶴岡八幡宮で実朝の右大臣昇進を祝う大饗(大宴会)が行われ、実朝は夜になって八幡宮を退出する際に公暁に襲われ、落命しました。この時に太刀持ちを務める筈だった北条義時が直前に体調の不良を訴えて太刀持ちを源仲章に譲り、仲章が義時と間違えて切り殺された(「吾妻鑑」の記録より)ことが、義時黒幕説の根拠となっています。しかし、①義時が黒幕なら、自分を黒幕に疑わせるような記録を吾妻鑑に残しておく筈がない、②秘密を持つ公暁を八幡宮から外に逃すはずがない等から、義時黒幕説には疑問があるとして、次の2つの異説が唱えられています。一つは北条氏の対抗馬であった有力御家人の三浦氏(三浦義村)黒幕説です。もう一つは何と後鳥羽上皇黒幕説で、この説は実朝が死ねば断絶する源氏将軍の後に、宮将軍(親王or皇族将軍)を立てて、後鳥羽上皇が幕府を乗っ取ってしまおう考えたという興味深い説です。異説の可否を論じると長くなるので、説明はここまでとします。
百々爺は「北条政子の力が大きい」と書いていますが、確かに承久の乱が勃発して御家人たちが動揺していた時に、彼女が「最後の詞(ことば)」として行った次の演説は御家人を結束させるのに大きな効果があったようです(「承久記」より)。
「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い。逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。」
尼将軍と呼ばれた政子の権勢について95慈円は「愚管抄」で「女人入眼の日本国」と評し、「承久記」では「女房(女性)の目出度い例である」と評していますが、この評に対して政子は「尼ほど深い悲しみを持った者はこの世にいません」と述懐しています。政子は長女の大姫に先立たれ、長男の頼家・次男の実朝とも暗殺されたという深い悲しみを味わったので、彼女の述懐は理解できますが、智平がよく分からないのは政子が二人の暗殺を(薄々は)事前に知っていたものの、北条家のためには止むをえないと考えたか否かです。かつて40会のハイキングで訪れた鎌倉の寿福寺に政子と実朝のお墓が並んで作られていたので、親子の中は良かったとは思いたいのですが、実際はどうだったのでしょうか。
肝心の源実朝ですが、彼が雄大で豪快な歌を詠む天才的な歌人であったことには異論はないものの、武家の棟梁である征夷大将軍に相応しい人物だったとは言い難い気がします。特に、①御家人の処分の際に歌を献上すれば甘くしていた、②前世に宋の医王山に居たと信じて、渡宋を思い立ち、唐船まで建造させた、③「官打ち(分不相応な昇進を重ねると不幸に遭うという戒め)」を憂慮する部下の進言にも拘らず、早急な昇進を求め続けた、④暗殺に対して十分な防御策を講じていなかった、などは問題であると思います。
最後に、彼が18歳の時に詠んだ伊勢御遷宮の歌を見付けましたので、紹介します。
神風や朝日の宮の宮うつし かげのどかなる世にこそありけれ (かげ=日の光)
・「実朝の暗殺は北条義時の策謀」とあっさり書いて済ましてしまおうと思ったのですが、さすが智平朝臣の目は鋭い。見逃してくれませんねぇ(40年取った杵柄でしょうね)。
頼朝の死(これもひょっとしたら事件性があったのかも)以降、御家人たちの権力争いは権謀術数を極めたものであった。それというのも頼朝は京から流されてきた源氏の御曹司でひっそり過してきただけで昔から寄り添ってきた陪臣たちはいない。そんな成り上がりのプリンスなので頼朝が死んでしまうとバラバラ。御家人たちはオレがオレがで権力闘争を繰り広げた。。。。というのがおおよその実体でしょう。
→後鳥羽上皇説なんてのもあるのですか。とすると実朝暗殺~承久の乱は既定路線だったのかもしれませんね。
→そこまで行かなくても実朝暗殺(源氏の嫡流が消える)が承久の乱への引き金になったのは間違いないでしょうね。
・北条政子についてももう一つよく分かりませんよね。政子がそれだけしっかりしていたら頼家の廃嫡(暗殺)も実朝の暗殺もなかったでしょうに。
→実家の北条のために自ら腹を痛めた頼朝の子たち(頼家・実朝)を見殺しにしたというのもないでしょうねぇ。
→所詮女は女、男たちの世界には太刀打ちできなかったというのが本当かもしれません(女性蔑視と怒られそうですが)。
・「武家の棟梁である征夷大将軍に相応しい人物だったとは言い難い」
確かにそうですね。征夷大将軍と言ったって戦に出陣したことはおろか戦支度に身を包んだこともなかったでしょう。戦乱続く世の中(戦乱後の混乱の世の中)を京の公家志向で和歌と蹴鞠に専念する男が牛耳っていけるわけはないでしょうね。
ネットにあった記事で、愛好家投票のトップ10の実朝の歌は次の通り。
時によりすぎればたみのなげきなり八大龍王雨やめたまへ
世の中は常にもがもな渚こぐあまのを舟の綱手かなしも
塔をくみ堂をつくるも人のなげき懺悔にまさる功徳やはある
大海の磯もとゞろによする波われてくだけてさけて散るかも
紅のちしほのまふり山のはに日の入る時の空にぞありける
箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ
もののふの矢並つくろふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原
世の中は鏡にうつるかげにあれやあるにもあらずなきにもあらず
ほのほのみ虚空にみてる阿鼻地獄行方もなしといふもはかなし
梅が香を夢の枕に誘ひきてさむる待ちける春のはつ風
多くの秀歌の中で定家は、常住不変を願いながら若死にせざるを得なかった実朝の人生を象徴するするものとして、「世の中は常にもがもな」の歌を百人一首に撰んだのではないだろうか。(吉海直人)
この世の無常をイヤというほど知って、ちっぽけな人間の存在など何のこともないと諦観したとき「渚こぐ海人のの小舟の綱手」に深い哀しみを見た。
小町姉さんが紹介する太宰治の短編小説「右大臣実朝」、アプリ「青空文庫」に見つけ読んでみました。「吾妻鑑」を引き合いにして、実朝の死から20年後に近習が実朝の常日頃の人柄や波乱の後半生を回想しつつ語る小説でなかなか面白い。
鴨長明が鎌倉を訪れた際、実朝の和歌について「すがたは爽やか、しらべは天然の妙音、まことに眼のさめる思ひのお歌ばかりでございまする、おゆるし下さりませ、無頼の世捨人の言葉でございます、嘘をおよみにならぬやうに願ひまする」と云う。
実朝の「嘘とは?」との問いに「真似事でございます。たとへば、恋のお歌など。将軍家には、恐れながら未だ真の恋のこころがおわかりなさらぬ。都の真似をなさらぬやう。世にも優れた歌人にまします故にこそ・・、東にはあづまの情がある筈でござります。それだけをまつすぐにおよみ下さいませ」と言い
ゆひそめて馴れしたぶさの濃むらさき思はず今も浅かりきとは
の歌などは、これがあの天才将軍のお歌かといぶかしく思う・・といい及ぶと、実朝は「もうよい」と笑いながら席を立ち、「あの人は、なかなか世捨て人ではない」とぽつりと言い、何事にも気に留めていない様子だった。
この後、長明は頼朝の忌日に法華堂へお参りして読経し、頼朝を偲んでしきりに涙を流して御堂の柱に
草も木も靡きし秋の霜消えて空しき苔を払ふ山風
という自作の和歌を記して帰洛する。そのあと数か月後に長明は「方丈記」を著し、その評判は鎌倉に響く。この一部始終を見た近習は、長明が鎌倉を訪れた真意がわからないとして、「まことに油断のならぬ世捨人で、あのやうに浅間しく、いやしげな風態をしてゐながら、どこにそれ程の力がひそんでゐたのでございませうか」と語らせ、「私たちには、あまり快いことではございませんでした。あのひねくれ切つたやうな御老人から見ると、当将軍家のお心があまりにお若く無邪気すぎるやうに思はれ、それがあの御老人に物足りなかつたといふわけだつたのでございませうか。なんだかひどくわがままな、わけのわからぬお方でございました」と太宰は書く。長明は実朝のお師匠さんになりたかったのかもと思わせる。このとき、実朝が20歳、長明が60歳。
・実朝愛好会なんてのもあるんですね。
やはり為政者として上にたち下の者たちを慈しむ歌が人気あるようですね。これは実朝の偽らざる気持ちだと思います。きっと慈悲深い優しい性格の持ち主だったのでしょう。
→「鎌倉右大臣」でなく「京右大臣」の方がよかったでしょうに。
・「青空文庫」って何でもあるんですね。読書方法の革命ですかね。
実朝20才、長明60才、雅経42才。長明にとっても鎌倉を訪れるのは初めてだったのでしょうね。この時の鎌倉下向は和歌の師を求める実朝の要望によるもので、受け入れられれば長明はずっと鎌倉に留まって実朝に仕えるということになっていたんですかね。でも何故かアンマッチで帰ることになってしまった。
→この辺、小町姐さんのカルチャーセンターでも話題になってるようですね。長明の側から見るか実朝の側から見るかで見方も違うんでしょうね。
93番 世の中は常にもがもな渚漕ぐあまの小舟の綱手かなしも
のっけから「世の中」を詠じているのが、鎌倉右大臣こと源実朝(1192~1219)の歌だ。とはいつもの阿刀田氏。
以下同氏からの引用。
哲学的といえば哲学的。解釈は結構むつかしい。初めの五・七で「世の中は常であってほしいなあ」と世情の不変を願っている。
そして、それに続く五・七・七では「渚を漕いでいる漁師が綱で小舟を引いていくさまが悲しいなあ」なのだ。この二つが、どうつながっているのか。
「渚漕ぐ」にそう深い意味があるとは思えない。小舟という言葉を引き出すための軽い形容詞と見てよいのではないのか。その小舟を綱を用いてどう操作しているか、それもいちいち問うことではないのかもしれない。貧しい庶民が働いている日常的な風景、なにげない様子が遠景として歌人の目に見えた。それをながめるうちに、なにが、どう関連したということではなく、
―どうかこの世は大過なくあってほしい―
と平穏無事を願う心が惹起し、しかし、
―現実はそうじゃない―
だから悲しいのである。ちがうだろうか。
このなにげない日常風景と「常にもがもな」と思う心の断絶的な連絡、これがこの歌の真骨頂ではないのか。私の独断ではなく、そういう解釈が多い。
源実朝は、ご存じ、源頼朝の子にして第三代の鎌倉将軍だ。武人・政治家としてより歌人として優れ、歌風はこの時代とは趣を少し変えて、力強く、万葉調を踏んでいる。個人和歌集の金槐集など評価は時代を越えて、すこぶる高い。現代でもファンは多い。と。
一方吉海氏によると「世の中は」句はなかなか複雑な歌らしい。
いわく。
初句には「世の中をなににたとへむあさぼらけ漕ぎゆく舟のあとのしら波」が、二句には「川上のゆついはむらに草むさず常にもがもな常をとめにて」歌が、三句には「おく山にたてらましかばなぎさ漕ぐふな木も今は紅葉しなまし」が、四句には「うけひかぬあまの小船のつなで縄たゆとて何か来るしかるらん」が、そして五句には「みちのくはいづくはあれど塩竈の浦漕ぐ舟の綱手かなしも」歌がそれぞれ本歌取りされている、と。本歌の部品を合成した作品かと。
さらに、「世の中は」歌は、作者二十二歳以前に詠まれたものであるが、例によって二十八歳の若さで殺された征夷大将軍実朝の悲劇的人生史を投影すると、自ずから無常観(死の予感)に裏打ちされた常住不変の世の中への願望、そして悲嘆の意としての解釈も許容されてこよう。なお実朝の代表歌として「もののふの」や、「箱根路を」歌を挙げる人も多いが、定家は常住不変を願いながら若死にせざるをえなかった実朝の人生を象徴するものとして「世の中は」歌を百人一首に撰んだのではないだろうかと締めくくっておられます。
・そうですねぇ。実朝は二十歳そこそこにして何故にこのような人生の述懐歌とも思えるような歌を詠んだ(詠めた)のでしょうね。やはりこの歌は人生酸いも甘いも体験し尽くしてきた人が晩年に述懐歌として詠むべきもので前途ある若き青年将軍が詠む歌ではないように思います。
それだけ将軍職が重荷になっていたのでしょうね。父頼朝が亡くなったのは実朝が8才の時。頼朝は兄弟を皆粛清しているので父方で頼家・実朝を庇護してくれる親族はいない。代って母方の北条が取り仕切っていくことになるが三浦・比企といった有力御家人たちも黙ってはいない。血なまぐさい権力争いが続く。兄頼家はその犠牲となって殺され、代って祭り上げられた実朝にもいつ火の粉が飛んでくるか分からない、いや必ず飛んでくる。。
12才で将軍の座についた実朝、初めは将軍職の何たるかもよく分からず好きな和歌に没頭しておればよかった。ところが長じるにつれそんな状況が分かってきたのでしょう。和歌の勉強どころではない。何でこんな世の中になってしまったのか。将軍としての自分の行末には悲観的にならざるをえない。そこで謂わば辞世として詠まれた述懐歌が93番歌であったのかもしれませんね。
・歴史を考えているとポスト保元の乱は明らかに違いますね。百人一首では相変わらず題詠の恋歌なんかが主流を占めてますがその中で、
83番 「世の中よ」 俊成の嘆き節
93番 「世の中は」 実朝の絶唱
95番 「おほけなく」 慈円の宗教歌
99番 「人もをし」 後鳥羽院の恨歌
が時代を反映させてる歌だと思います。
→「紅旗征戎は吾が事にあらず」の定家もさすがにこれだけは入れざるを得なかったのでしょうか。