いよいよラストスリー(上がり3ホール)となりました。定家が明月記に「1天智天皇以来、98家隆・94雅経に及ぶ」と書いた家隆。百人一首撰定時(1235)定家と並び双璧だった家隆(家隆が4才上)。百人一首の配列からもその歌人としての重要性が伝わってきます。
1番 天智天皇 2番 持統天皇 Vs 99番 後鳥羽天皇 100番 順徳天皇
3番 山辺赤人 4番 柿本人麻呂 Vs 97番 藤原定家 98番 藤原家隆
98.風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける
訳詩: 楢の葉に風がそよげば
このならの小川のあたり
夕暮はもう秋を思わすすずしさ
けれどあそこでみそぎをする姿を見れば
今はまだ夏 六月なのだ
作者:従二位家隆 藤原家隆 1158-1237 80才 藤原光隆の子 壬生二品
出典:新勅撰集 夏192
詞書:「寛喜元年女御入内屏風」
①藤原家隆
・何と27藤原兼輔の末裔。
兼輔-雅正(紫式部の祖父) 雅正の八代孫にあたるとのこと。
→それがどうしたって言われそうですが。
→源氏物語マニアの定家は家隆を羨ましく思ったのかも。
・父は正二位権中納言藤原光隆
「猫間中納言光隆卿」として平家物語巻八「猫間」に登場。
田舎者木曾義仲の野人ぶりを嘲笑する段だが、光隆も損な役回りを演じている。
→平家物語読んだとき、「この人お気の毒だな」と思った。まさか家隆の父君だったとは!
・父も正二位、家隆も晩年ながら従二位に上がってる。まあそこそこの権門。
・最初寂蓮(藤原定長)の娘と結婚、寂蓮の養子になった(との説あり)。
寂蓮は俊成の養子だった訳で、そんなことで家隆も俊成から歌を学ぶことになる。
→定家と机を並べて学んだのだろうか?何れにせよバリバリの御子左流ではないか。
(後、寂蓮の娘とは離れたのか、光隆の子雅隆の娘(即ち姪)を妻室にしている)
・九条家歌壇、後鳥羽院歌壇で活躍後、病を得て79才で出家(出家したのは四天王寺)
大阪夕陽丘に「夕日庵」を結び、大阪の海に沈む夕日を眺めて晩年を過す。
契りあれば難波の里にやどりきて浪の入日を拝みつるかな(辞世7首の一つ)
→天王寺高の近くでしょうか、八麻呂さん。
②歌人としての家隆
・千載集(俊成撰)以下勅撰集に282首。定家撰の新勅撰集は43首で最多。
私家集に玉吟集(壬二集)
・若くして俊成に師事したが、歌人として頭角を現したのは40才ころから。晩生である。
→丁度後鳥羽院が歌に熱中しはじめる頃か。後鳥羽院の歌の師も務める(91良経の推薦)
「家隆卿は、若かりし折はきこえざりしが、建久のころほひより、殊に名誉もいできたりき。歌になりかへりたるさまに、かひがひしく、秀歌ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり。たけもあり、心もめづらしく見ゆ」(後鳥羽院口伝)
・定家との関係
同じ俊成門下だし、御子左流としてお互い切磋琢磨したのだろう。ライバルというより仲間・同志みたいな感じ。歌風は違うが仲はよかったのだろう。
→定家が新勅撰集で家隆の歌を最多選出(43首)してるのはエライと思う。
・新古今集撰者の一人(源通具・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮)
→新古今集1205頃 後鳥羽院があれこれ口出しし最終的には後鳥羽院撰とも言われる。
・若かりしころの初々しい歌
さえわたる光を霜にまがへてや月にうつろふ白菊の花
→爽やかな叙景歌である。
・後鳥羽院歌壇の中心人物として活躍。後鳥羽院とは親交を結ぶ。
後鳥羽院は頑固で肌合いが合わない定家を疎んじるようになり、その分温厚篤実な家隆を重用。承久の乱で後鳥羽院が隠岐に流された後も家隆は後鳥羽院と音信し続ける。
1236家隆は隠岐に後鳥羽院を訪ね「遠島御歌合」に参加。家隆が隠岐から京へ帰るにあたって後鳥羽院が航路安全を祈ったのが有名な下記歌であった(とする説もある)。
われこそは新島守よ隠岐の海のあらき波かぜ心してふけ
→政治的に距離を置かざるを得なかった定家と比較的自由だった家隆の違いだろうか。
→定家は冷たかったけど家隆は暖かだった、、、これもイメージ操作か。
・家隆の代表歌とされる歌
下紅葉かつ散る山の夕時雨ぬれてやひとり鹿の鳴くらむ
明けばまた越ゆべき山のみねなれや空ゆく月の末の白雲(自讃歌)
・多作家として知られる。晩年まで歌を詠み続け六万首も詠んだ。
「今伝はる所は十が一にも及ばず」(百人一首一夕話)
→毎日10首で16年。シンドイでしょうね。
③98番歌 風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける
・1229年 九条道家(91良経の息子)の娘竴子(そんし)が後堀河帝の女御として入内する際、婚礼調度として月次屏風に書く歌として詠まれた。
屏風歌 当代を代表する歌人 月毎に3首、計36首
(36首内訳は道家5首 公経8首 実氏6首 定家7首 為家3首 家隆7首)
→1229年に詠まれたということは百人一首中一番出来立てで新しい歌ではなかろうか。
・風そよぐ 風がそよそよと音をさせて吹く
→爽やか感が伝わってくる。
・ならの小川 上賀茂神社の御手洗川
→先年源氏物語(第一回)完読記念旅行で訪れた。きれいな水の小川だった。
上賀茂神社は災難を除く厄除けの神さま
斎院が仕える所。葵祭りで有名
・みそぎ 夏越の祓い(六月祓い)
→半年たまった罪や穢れを水をかぶって祓い落す。
他に茅の輪くぐりやら人形流しやら。
・本歌とされる二首
みそぎするならの小川の河風に祈りぞわたる下に絶えじと(八代女王 新古今集)
夏山のならの葉そよぐ夕暮は今年も秋の心地こそすれ(源頼綱 後拾遺集)
・夏のしるしなりけり
もう秋の気配だがみそぎをやってる所をみるとまだ夏なんだ、、、との歌。
夏の確認の歌。やがて秋になる。秋の確認の歌は、
秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(18藤原敏行)
・夏の歌は百人一首に4首
2春過ぎて 36夏の夜は 81ほととぎす 98風そよぐ
→一番少ない(春6首 秋16首 冬6首)
④源氏物語との関連
・賀茂神社に仕える未婚の皇女または女王が「斎院」
朝顔の姫君が24才~32才(推定)8年間斎院を務める。
→源氏の後妻になるチャンスがあったのに。女盛りを神さまに捧げた朝顔の姫君、お気の毒。
・葵祭り(賀茂祭)
賀茂祭の前に斎院が御手洗川で禊をする(斎院御禊)。祭当日は宮中で奉納舞や飾馬のお披露目があり、斎院・勅使が賀茂神社(下鴨→上賀茂)へとパレード。
パレードは見物人で大混雑。葵の上vs六条御息所 車争いが起こる。
正妻葵の上側の勢いに愛人六条御息所側は対抗できずボロボロにされる。
六条御息所の絶唱
影をのみみたらし川のつれなきに身のうきほどぞいとど知らるる(葵5)
→六条御息所が生霊となった瞬間である。
(さわやかな98番歌なのに重っ苦しい引用でごめんなさい。藤原兼輔末裔の家隆卿、紫式部も遠い血筋であるには違いないでしょう。お許しを)
ご指摘の通り今更のように百人一首並びの意味を感じずにはおれません。
そうですか、平家物語の中納言光隆卿がお父上でしたか、唯一笑ってしまう場面でした。
98.風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける
この歌は上加茂神社の行事、六月祓(みなづきばらえ)の御手洗川に吹く風をさわやかに
謳いあげ神社の社の楢の葉ずえがそよそよといかにも涼しげな秋の気配を感じさせる歌である。
平安時代は12月の晦日と並び六月は一年の上半期の穢れを川の水で洗い流す区切りの行事であった。禊ぎは夏のしるし。
この歌からは天皇の名代として伊勢斎宮や加茂社に遣わされた斎院の姿が浮かぶ。
それは禊ぎで身も心も清める皇女の姿である。
そして源氏物語を思い出させるのは百々爺さんじゃないけどもちろんの事である。
上加茂神社の境内を流れるならの小川と下鴨神社を流れる瀬見の小川。
どちらも大河ではないが清らかな小川。
御手洗川らしいがこの川は両神社と繋がって流れているのかよくわからない。
瀬見の小川は長明の造語ではないかと思うしならの小川も楢の木があったからかと想像できる。
家隆は後鳥羽院より信頼厚く温厚な性格
定家と家隆は新古今を代表する双璧であったが歌風も性格もまるで違う
定家も一目置いたとみえ家隆とは争わなかった。
家隆も定家を尊敬していた、後鳥羽院と定家の間で上手く人間関係を保てたのも家隆の性格のなせる技と思える。
後鳥羽院が隠岐へ流された後も定家と違い度々文を贈り隠岐へも赴いたという。
崇徳院を慕った西行や俊成のような存在だったのかもしれない。
後鳥羽院の絶唱
われこそは新島守よ隠岐の海のあらき波かぜ心してふけ(遠島御歌合)
これは隠岐を訪れる家隆を思う院の深い心が偲ばれる歌とのことらしい。
契りあればなにはの里にやどりきて浪の入日を拝みつるかな (辞世の歌)
二人が仲良く98番99番と並んでいるのが微笑しく感じられ定家の次に家隆が並ぶのもむべなるかな。
・日本国(皇室)にとって特別な二つの神社、伊勢神宮は外宮と内宮、加茂神社は上賀茂と下鴨。対になっている。意味があるのでしょうね。
神社で毎年決められた神事を恙なく行う、これがとても大事なことだった。キチンとやることで精神的な安堵感を覚える。今では伝統的な風物詩みたいな感覚の神事も当時は真剣そのものだったのでしょう。
→半年に一回、たまった穢れを水に流し御破算にして新しく出直す。よくできた知恵だと思います。
・定家と家隆、いいコンビだったのでしょうね。年は家隆が4才上、官位もほぼ同じ。家隆は寂蓮の婿で俊成に師事したということなので、まあ定家も含め俊成一家(御子左家)の一員みたいなものだったのでしょう。
年上で温厚な家隆は激しい気性の定家には時に兄のように思えたのかもしれません。後鳥羽院に働きかけて後鳥羽院歌壇に定家を誘い入れたのも家隆。定家は家隆に頭が上がらなかったのだと思います。
先月末まで、常夏の地に出向き、孫たちと泳いだり、食べたり、欲しい物を買ってあげたりと、10日間ほど楽しく過ごしてきました。97番歌では、コメントを掲載いただき、爺、ありがとうございました。
さて、98番歌、夏の終わりを詠う、と同時に秋の訪れを詠う清々しい歌である。これまで”ならの小川”と”みそぎぞ夏のしるし”の解釈がきちんとできなかったため、調べはよいが意味不明の歌であったが、上賀茂神社と禊がピタリと結びつき、加茂の森の小川に涼しい風が吹き始めた季節の移り目をさわやかな風景が目に浮かび、なかなか気分のよい歌である。そして定家とは、違った家風で、解りやすい。
千人万首に、
「妖艷の彩を洗い落とした後の冷やかな覚醒、鬼拉の技の入り込む隙もない端正なしかもただならぬ詩法、それは俊成を師とした彼と、俊成を父とした定家の相肖つつ相分つ微妙な特質であった」(塚本邦雄『藤原俊成・藤原良経』)。
とある。その通りなり。
千人万首より、四季の歌を一首づつ
谷川のうちいづる波も声たてつ鶯さそへ春の山風(新古17)
【本歌】源当純「古今集」
谷風にとくる氷の隙ごとにうちいづる波や春の初花
紀友則「古今集」
花の香を風のたよりにたぐへてぞ鶯さそふしるべにはやる
いかにせむ来ぬ夜あまたのほととぎす待たじと思へばむら雨の空(新古214)
【本歌】柿本人麻呂「拾遺集」
たのめつつ来ぬ夜あまたになりぬれば待たじと思ふぞ待つにまされる
をとめごが玉裳のすそに満つ潮のひかりをよする浦の月かげ(自歌合)
【本歌】柿本人麻呂「万葉集」巻一
嗚呼見の浦に舟乗りすらむをとめらが玉裳の裾に潮満つらむか
志賀の浦や遠ざかりゆく波間より氷りて出づる有明の月(新古639)
【本歌】快覚法師「後拾遺集」
さ夜ふくるままに汀や氷るらむ遠ざかりゆく志賀の浦波
そして、出家
いとひてもなほ故郷を思ふかな槙のを山の夕霧の空(壬二集)
【参考歌】『源氏物語』「橋姫」
あさぼらけ家路も見えずたづねこし槙の尾山は霧こめてけり
家隆が晩年を過ごした”夕陽庵” 今は夕陽丘と呼ばれる。
先般大阪に行く用があり、初めて地下鉄谷町線”四天王寺夕陽丘”で降り、四天王寺を訪れてきた。大改装中できちんとは見られなかったが、聖徳太子建立の日本初の官寺、法隆寺と似た風格がただよい立派でした。
中・高と通った、文の里中学、天王寺高校のほん傍なのに、四天王寺にはなぜか行ったことがありませんでした。天王寺高校は、その名と異なり、阿倍野区にあります。
そしてこのあたり夕陽丘のイメージはなく、阿倍野ハルカスが近くに見える光景でした。
お孫さんとの楽しいひと時、よかったですね。リフレッシュされたことと思います。引き続き張り切ってよろしくお願いいたします。
・そうですね、季節の移り目は四季がある日本ならではの感覚ですよね。特に冬から春と夏から秋の移り目はほっとする感じがする。冬から春は「風光る」(春の季語)、夏から秋は「風そよぐ」でしょうか。
→百人一首中さわやか感ナンバーワンと言えば98番歌かもしれません。
・千人一首より引用いただいた歌を見ると家隆は(定家もそうでしょうが)本歌取り作歌なんですね。万葉集から古今集、新古今集まで。全くの独創性よりも本歌の背景をベースにして一味風味を添えるということでしょうか。却って難しいかもしれませんね。
・あさぼらけ家路も見えずたづねこし槙の尾山は霧こめてけり
(薫@橋姫14)
薫が大君をかいま見、初めて贈る歌。ここから薫と大君のちぐはぐな恋が始まるというものでした。家隆、源氏物語に通じていたようですね。
→定家と二人で源氏物語のあれこれ話し合ってたのではないでしょうか。
・家隆は何故難波に行ったのか。四天王寺に出家したからでしたかね。
大阪の街中なので法隆寺の佇まいには及ばないものの伽藍は立派ですよね。私も先年大阪出張時駆け足で四天王寺と住吉大社には行ってきました。
蛇足
今大阪は何かと話題ですね。森友と稀勢の里(大阪場所)と大阪桐蔭。
(履正社は何で稀勢の里みたいに開きなおれなかったのでしょう。挑戦者らしくガンガン行って欲しかった)
藤原家隆は歌人として頭角を現したのは40歳頃からという晩成の歌人でしたが、若い頃から将来は大歌人になる片鱗を示していました。それを示すエピソードとして、次のとおり、いくつかの言い伝えが残されています。
1)家隆がまだ若くて、坊城の侍従と言われ、娘婿として寂蓮と一緒に住んでいた頃に86西行が家隆を訪ね、「末代に貴殿ばかりの歌よみはあるまじなり(今の世にあなたほどの優れた歌人はいません)」と言って、西行秘蔵の自作歌合2巻「御裳濯河歌合」および「宮河歌合」を授けた。←西行の先見の明を示す話でもある。
2)家隆に歌を教えた83藤原俊成は「家隆は歌仙になる」と予言した。
3)後鳥羽院が91藤原良経に「歌の師は誰にすべきか」訊いたところ、良経は「家隆は末代(現代)の人丸(人麻呂)です。彼に学ぶのが良いでしょう」とお答えした。
智平が想像するに、家隆は爽やかでのびのびとした歌が自然に浮かんでくるような生来の天才的な歌人だったのはないでしょうか。家隆が生涯に6万首も詠んだというのは彼がとても歌が好きで、歌を詠むことが日常生活の一部でもあったような気もします。
百々爺も記しているように、家隆は温厚・篤実な性格で、ライバルであった定家とも認め合って仲が良く、隠岐配流になった後鳥羽院にも手紙を送って最後まで慰め続けました。79歳で出家し、大阪夕陽丘に「夕日庵」を結び、大阪の海に沈む夕日を眺めて晩年を過したという家隆の晩年も彼らしく穏やかで良いですね。
・契りあれば難波の里にやどりきて 浪の入日を拝みつるかな
これは、日想観という浄土宗の教えで、西に没する太陽を観察して、西方の極楽浄土を想い浮かべる修業でもあるようですが、そうした日々を過ごした後、80歳で静かに一生を終えました。誠に羨ましい最後ではありませんか。
ところで、千利休も高く評価していた家隆の歌があるようなので、最後に紹介しておきましょう。千利休はご承知のようにわび茶を完成させましたが、彼は茶の精神を表すものとして、家隆の次の歌を常に愛誦したと伝えられています。
・花をのみ待つらん人に山里の 雪間の草の春をみせばや(新古今集)
利休の言わんとしたところは、「わび茶の求めるものは、人が手を加えずして雪間から萌え出す草のように清らかで力強い生命の美であり、ただ静寂の境地に浸るだけでなく、心を静め新しい力を生み出すことが茶の心である」ということのようです。
他方で、利休の師でありわび茶を始めた武野紹鴎はわび茶の精神を表すのもとして、藤原定家の次の歌を挙げたと伝えられています。
・見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ(新古今集)
万葉時代の「人麻呂vs赤人」のように、「家隆vs定家」は新古今集を代表する双璧でしたが、その二人が茶道の精神を表す双璧ともいえる歌を詠んでいるのは面白いですね。
・家隆が頭角を現した40才ころといえば、折しも後鳥羽院が歌に熱中し始めた時。時代をあげて和歌の時代になる。家隆は時流にうまく乗れたと言えるかもしれません。
家隆が大歌人となる片鱗を示すエピソード紹介ありがとうございます。
天才だ神童だって言われてそのままってのが多いのに。家隆の場合はその才能は神ってたのでしょうね。
→さわやかにのびやかに自然に詠う。その感性は西行にも俊成にもなかった特殊独特のものだったのかも。
・西に没する夕陽を眺め極楽浄土へ行く心の準備をする。
→家隆が出家して大阪に行ったのは79才ですよ。ウチらまだそんなこと考えるの早いでしょうよ。
・利休は家隆の雪間の草に生命力を見い出し、紹鴎は定家の三夕の歌にわび茶の精神を見つけ出した。やはり新古今の精神世界が室町以降の諸文化(和歌・連歌・謡曲・茶道・華道・香道など)のベースとなってるということなんですかね。
→定家・家隆はエラかったんだとつくづく思います。
八麻呂さんの、お孫さん相手のバカンス、誠に御同慶の至りです。柔らか頭の孫世代とともに過ごすことは刺激とサプライズに満ち溢れておりますね。
当方にもこの春小学2年になるわんぱく坊主が逗留しておりまして、何と何とこの98番歌初め、幾つかを諳んじておるのであります。なんでも学校の教科で習ったとか。当方、何回練習しても覚えた先から忘れてしまう痴呆状態というのに。恐ろしや恐ろしや。このかたきは六甲山俳句いやハイクで取る予定であります。
さて98番歌。
夏を歌った歌は小倉百人一首では疎らで、あれよあれよと思うまに夏は過ぎていく。
従二位家隆こと藤原家隆(1158~1237年)の歌は、もう秋も近いらしい。
風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける
この歌の場合は京都の上賀茂神社のわきを流れる御手洗川で定例の神事がおこなわれていた。夏の都は6月の末、旧暦なのでもう秋の気配が漂い始めている。だから夕暮どき、風も涼しくそよいで小川で催されるみそぎの神事だけが・・・・これは夏の行事なので夏のしるし、ほかはもうみんな秋みたい、という意味の一首である。事情を知らないと夏の終わりの歌とは判じにくい。スケッチ画のような歌だ。
当時のハイソサエティでは政治家も歌が詠めて当然、歌人と呼ばれる人も政治的にそれなりの地位を占めていた。しかし、おのずと政治の得意な人、歌をよくする人との区分はあったろう。例外的に両方よしもいたろうが(まあ、両方だめもあったろうが)やっぱりこれは一方に傾きがち。家柄や血筋による区分もある。藤原家隆は早くから名人・藤原俊成に養われ、俊成の子・藤原定家と並び称された。そこそこには出世したが、英名はやはり歌道において、温厚な人柄とともに人々に慕われたらしい(阿刀田氏)
一方、吉海氏は98番歌を次のように評している。
この歌は月次屏風歌であるから、必然的に屏風絵に拘束され、極めて無難に形式化せざるを得ない。その折り提出された家隆の歌7首に対して。定家は「今度歌頗非秀歌」と酷評しており、かろうじて「風そよぐ」歌の身は「今度宜歌唯6月祓計尋常也」(明月記)と評価しているが、それでも「宜歌」・「尋常」の歌では秀歌とはいえまい。
なお家隆歌の最大の問題は、実は歌ではなく作者表記にあった。というのも、百人一首では「従二位家隆」とあるのに対して百人秀歌では「正三位家隆」と表記が異なっているからである。従来の百人一首研究では、この相違点を重要な根拠として、百人秀歌の方が先に成立したとしている。即ち家隆が従二位になったのは文暦2年(1235年)9月10日であるから百人秀歌はそれ以前、百人一首はそれ以後の成立というわけである。但しこの説は、作者表記を定家自身が記したことを前提としている。しかし後鳥羽院・順徳院の名が明らかに定家没後の補入である以上、家隆の作者表記も同じように後人の改訂である可能性が高い、と。
要するに「並みの作品」で、いつ詠まれたかの「時期」が研究上重要であるってこと?なんだか凡人にはいかにも解りづらい。
先日京都の上賀茂神社を訪れた時、98番歌の歌碑が鎮座ましましておりました。あれ~、家隆さんって記憶にないなあと思いながらの御対面でしたが、こんな終盤(百々爺いわく上がり3ホール)に出てくるなんて、やはり眞打ち登場の位置付けだったんですね。百々爺解説に納得です。やっぱり温厚なお人だったんだなあと改めて思ったことでした。
お孫さん98番歌、スラスラとですか。頼もしいですね。六甲山ハイクでリベンジするですって!?いかに山男の多寡秀どのと言えどゴルフ場利用税免除のお年ですよ。お気をつけ遊ばせ。
・そうですね。和歌と政治、結びついてますね。当時は和歌の心得は政治家にも必須であった。特に後鳥羽院が歌にのめり込んでた1195-1205あたりは歌こそ命みたいな風潮だったのかも。
→社長がカラオケ狂いだと社員もカラオケが歌えないと肩身が狭い。
→でも社長よりちょっと下手な方がいいんでしょうね。
・百人一首成立についての吉海先生の解説ありがとうございます。
学問的なことはさておき、百人一首の人選びは先に選んだ百人秀歌をベースに定家が行った。後鳥羽院・順徳院も入れるつもりであった。でも承久の乱があって政治的配慮をせねばならず1235の時点では両院を入れることができなかった。今の形で両院を入れたものにしたのは息子の為家。しかしそれは定家の意図を実行したということに過ぎない。。。と考えています。
→何れにせよ「百人一首はすべて定家のものである」ことに間違いないのであります。
97定家と98家隆は同時代のライバルであり、お互いに認め合い尊敬し合う間柄でもあったようですが、家隆が特に隠岐配流後の後鳥羽院と深く結ばれたことに関して、定家は羨ましかったのだと思います。
98番歌の本歌として、後拾遺集、夏、231
俊綱の朝臣のもとにて晩涼如秋といふ心をよみ侍りける源頼綱朝臣
夏山のならの葉そよぐ夕暮はことしも秋のここちこそすれ
があげられますが、この詞書はわかりやすいです。
安東次男氏の説を以下にまとめます。(明月記から引用して)
7首採用された家隆の屏風歌は、あらかじめ定家に見せて評を求めたらしく、98の歌以外の6首は「頗非秀逸」と明月記に書いています。年来家隆の歌を自然の抒情よろしく流露したものと見、自らの作為ある詠みぶりをときに恥じていた定家だから、6首は凡庸な賀歌とみた。その中にあって「六月祓」の一首は、たしかに季節の到来に立ち向かう感動が見える歌である。さらに、この歌にはすでに新古今、恋の部に八代女王(万葉集)の歌として、「みそぎするならの小川の河風に祈りぞわたる下に絶えじと」が本歌としてあり、これは定家・家隆の撰入であるから、定家は家隆がこの歌の風情を眺めやる体に詠んだ懐古の爽やかさを看て取ったうえで「六月祓」を佳しとしたのだろう。王道に適う歌の姿を改めて問い、百首の掉尾を飾らんがための工夫であろう。
謡曲『龍田』にある「紅葉の歌は帝の御製 またその後家隆の歌に、龍田川紅葉を閉づる薄氷渡らばこれも中や絶えなんと かやうに重ねて詠みたれば」は、新古今、家隆の歌「龍田川もみじを閉づる薄氷渡らばそれも中や絶えなん」を引用しています。
謡曲『高砂』にある「老いの鶴のねぐらに残る」は、壬二集の家隆の歌「高砂の松のねぐらや折れぬらん雪の夜つるの浦に鳴くなる」からとっています。
謡曲『紅葉狩』にある「錦を彩る夕時雨、濡れてや鹿のひとり鳴く」は、新古今、秋下、家隆の歌「下紅葉かつ散る山の夕時雨ぬれてやひとり鹿の鳴くらむ」からきています。
謡曲『生田敦盛』にある「秋は来にけりきのふだに訪はんと思ひし津の国の生田の森に着きにけり」は、新古今、秋上、家隆の歌「きのふだに訪はんと思ひし津の国の生田の森に秋は来にけり」を転用しています。
謡曲『一角仙人』にある「露時雨、漏る山陰の下もみぢ、漏る山陰の下もみぢ、色添ふ秋の風までも身にしみまさる」は、新古今、秋下、家隆の歌「露時雨漏る山かげの下もみぢ濡るとも折らむ秋のかたみに」によっています。
・家隆は隠岐の後鳥羽院と交流を続けたが、定家は交流を断った。
きっと定家は立場上(親幕派の九条流の近臣だし、関東申次の公経とは義兄弟)やりたくてもできなかったのでしょう。
→まああれだけ人格を否定するような評価(後鳥羽院口伝)をされれば嫌気もさしましょうしねぇ。
家隆は平然と交流している。鎌倉とは関係上それ程近くないし睨まれることはなかろうと踏んでいたのでしょうね。隠岐で遠島御百首なんてやってると聞けば少しでも文化ゴコロを持つ者なら還っていただこうと思ったでしょうに。家隆はそんなデモンストレーションの意図もあって後鳥羽院とこれみよがしに交流を図ったのかもしれません。
・定家が98番歌を採った意図。
なるほど安藤次男説、説得力ありますよね。家隆がこの歌を詠んだのは72才の時。定家は厳しいこと言ってますがきっと98番歌には負けたと思ったのでしょう(定家も同じ屏風歌7首詠んでますが自己評価はどうだったのでしょうね)。
→私は98番歌が詠まれた時代順に並べると1229で一番新しい歌だと思っています。その点でもフレッシュでけっこうじゃないですか。
代表歌、
下紅葉かつ散る山の夕時雨ぬれてやひとり鹿の鳴くらむ
の「紅葉かつ散る」は晩秋の季語ですが、この「かつ散る」という表現の源をたぐってみましたら、次の歌に当たりました。
霜のたて露のぬきこそ弱からし山の錦の織ればかつ散る(古今291 藤原関雄)
当時すでに紅葉を「たて」「ぬき(横)」、あるいは「露と霜」の糸で織りなしたもの、という趣向は定着していたようですが、この歌はそれを一歩進めて「紅葉する一方で散る」と散る姿の新しい表現とされています。
万葉集に、敬愛してやまない大津皇子に、
経(たて)もなく緯(ぬき)も定めず娘子らが織れる紅葉に霜なふりそね(巻8-1512)
があり、和歌において紅葉を織物にたとえた最初期の例とありました。
万葉にはじまり、古今、新古今へととうとうと流れる歴史を感じますね。
興味深いコメントありがとうございます。さすが俳人在六少将です。
・「紅葉かつ散る」七文字で季語なんですか。俳句の世界ですね。
「かつ」は動詞を並列でならべる接続語でしょうから「紅葉」というのは紅葉するという動詞で使われたのでしょうね。面白い表現だと思います。
→七十二候に「楓蔦(もみぢつた)黄なり」というのがありますね。同じような意味なんでしょうか。
・「霜のたて露のぬき」
たて(縦)とぬき(横)、これはすごい。織物なんですね。
「錦織りなす」の意味が分かりました。すっきりしました。
「花」
錦織りなす長堤にくるればのぼる朧月
桜と柳が織りなす錦模様
見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける(素性法師)
おっと、紅葉の錦模様も忘れてはいけません。
24このたびは幣も取りあへず手向山紅葉の錦神のまにまに(菅原道真)
69嵐吹く三室の山のもみじ葉は龍田の川の錦なりけり(能因法師)
「霜のたて露のぬき」 織物を意味するとは興味深いです。
私の母校(数年前に廃校になった小学校)の校歌にもあります。
1番には矢頭山と波瀬川が歌われていますが2番には
春校庭の花の雲
秋は紅葉の錦織る
風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける
「みそぎぞ」は涼しい夏を形容する言葉かなと思いきや、「禊ぞ」と夏の行事を強調して詠む歌と知りました。定家は第2番に持統天皇が「春過ぎて夏来にけらし」と歌ったものに対応するように、夏から秋へと季節が推移する様を詠ったこの歌を配置している。
上賀茂神社のサイトをみると、水無月行事の「夏越大祓式」に、 古来より半年間の罪穢を祓い清めて来る半期を無病息災 に過ごせる事を願い、「橋殿」にて神職が中臣祓詞を唱え 罪穢を託された人形を「ならの小川」に投流し祓 を行う。そして式中に伶人(楽人)により当神社の大祓式の情景を 詠まれた家隆のこの歌が朗詠されている。
御手洗川は下鴨神社にもあり御手洗の池(湧水)が川と流れて、糺(ただす)の森を「瀬見の小川」として鴨川に入る。蝉の小川ともいい歌枕となっている。
石川やせみの小川のきよければ月も流れを尋ねてぞすむ(新古今、鴨長明)
君が代もわが代も尽きじ石川やせみの小川の絶えじと思へば(金塊集、実朝)
楢の小川と瀬見の小川は地下水脈で繫がっているはずだ。三方を山に囲まれた京都。周囲の山から流れ込む水は、やがて都の大地に染み込む。その豊かな地下水が、京都の暮らしや文化、産業を支えてきた。茶の湯、生け花、京料理、お豆腐、お酒、友禅染など多くのコトに使用され、京の発展を支えてきたんです。(ネット記事)
石川やせみの小川のきよければ月も流れを尋ねてぞすむ(鴨長明)
枇杷の実さんのコメント、「楢の小川と瀬見の小川は地下水脈で繫がっているはずだ」やはり繋がっているのですね。納得です。
瀬見の小川は長明の造語ではないかと昨日コメントした小町姐ですが瀬見(蝉)の小川は加茂川の歌枕でした。
今学習している長明の無名抄に「せみのを川の事」があります。
詞書に加茂社の哥合とて侍りし時、予、月の哥によみて侍りしをとあります。
「かかる河やある」とて負けになり侍りにき、・・・「その度の判すべて心得ぬ事多かり」とてまた改めて顕昭法師に判せさせ侍りし時「石川や瀬見のを川」いとも聞き及び侍らず。ただしをかしく続けたり」・・・いろいろすったもんだ難じられたりその後に「これは加茂川の異名なり、当社の縁起に侍り」と顕昭。又、加茂の禰宜祐兼が難癖つけたりりした挙句、新古今に撰ばれし時この哥入れられたり・・・これ過分の面目なる中にもこの哥の入りて侍るが生死の余執ともなるばかり嬉しく侍るなり。あはれ無益の事どもかな。と結んでいます。
造語だなんて長明さんごめんなさいです。
追記
君が代もわが代も尽きじ石川やせみの小川の絶えじと思へば
今朝気づいたのですが金塊和歌集に実朝のこの歌があると言う事はやはり長明が実朝に謁見した時「無名抄」を持参したことを裏付けることにならないでしょうか?
「馬場あき子と読む鴨長明無名抄」でもそのような見解でした。
・琵琶の実さんのコメントと併せ上賀茂、下鴨神社と川の位置関係が整理できました。ありがとうございます。
上賀茂 - 御手洗川・ならの小川
下鴨 - 御手洗川・ならの小川・瀬見の小川
御手洗川は神社のそばを流れる川(普通名詞)
ならの小川の水源は地下で繋がっている。
瀬見の小川は加茂川の異名(枕詞)
→すべて加茂川に流れ込むのであります。
・鴨長明は家隆の3才上(まあほぼ同年齢)、1201後鳥羽院の和歌所寄人に任命されており謂わば家隆とは同僚でもあった。二人は親しかったのかもしれない。
→それで家隆が後年屏風絵に上賀茂神社の神事を詠もうと思い立った時、長明の下鴨神社の歌(石川や)を思い出したのかも。
・実朝の「君がよも」は完全に長明の「石川や」の本歌取りですね。
→「君がよ」(後鳥羽院の朝廷)と「わが代」(鎌倉幕府)ウインウインの公武合体を望んだ歌ですよね。後鳥羽院に届かなかったのが残念。
・「みそぎ」と聞くと穢れを水に流して清めること、即ち白装束の男女が神社を流れる清水に身を浸して穢れをとるというイメージですよね。だから夏越しの「みそぎ」は涼しげでいいけど、歳末の「みそぎ」はどうするんですかね。厳寒の京都じゃさぞ大変でしょう。
→実際には人がやらず人形(ひとがた)を替わりにするのでしょうね。
私もこの歌、「みそぎ」→「水」→「涼しさ」と考えていました。
・周囲の山から川となって流れ込む水、地下に沁み込んで湧水として吹き出る水、これが京都の暮らしや文化、産業を支えてきた。
→なるほど。伏見が灘と並ぶ酒処になったか、納得であります。
→ブラタモリみたいですね。
爺も読売新聞を取っていると思っており、従い、読んでいるかもしれないが、
昨日4月3日夕刊に
藤原定家、オーロラ見た
明月記”赤い光” 科学で証明
という記事が出ていました。松風さんの指摘は凄い。記事内容はおおむね以下。
定家が”明月記”に記した”赤い光”は、オーロラであることが科学的に裏付けられたと国立極地研究所や国文学研究資料館などのチームが発表した。
明月記には、1204年2月21日と22日、京都の空に”赤気(せっき)”が現れたとの記述がある。
赤い光の筋は”山の向こうの火事のようだった。とても恐ろしい”などと記されている。
チームは、ほかの資料も調査。中国の歴史書”宋史”の中に、2月21日に太陽の黒点が特に大きかったとの記述があるのを見つけ、オーロラを引き起こす太陽活動が活発だったことがわかった。さらに、当時は地磁気の軸が日本側に傾いており、低緯度の京都でも見える状況だったことも確認されたという。
いやはや、定家さんは、歌のみならず、自然現象をも、科学的に観察・分析できたとは、改め頭が下がります。
今、松風さんの97番歌での、赤気のコメントを見直しましたが、同じような記事が、3月に既に毎日新聞に掲載されていたんですね。かぶったコメントで失礼しました。
読売遅しです。
遅ればせながら中日新聞にあっては定家の赤気の記事は本日の夕刊でした。今読んだところです。
毎日、読売よりもさらに遅れをとっています。ローカルですね。
「明月記」の写本に1204年2月21日(旧暦1月19日)に赤気の文字がありました。
定家は文理にたけたマルチタレントと寺島恒世氏が評しています。
この記事は「明月記」9月15日条にあり、例の「紅旗征戎非吾事」の次にあります。当時は天体の運行と政治は結びつけて考えられていたので、公家日記に天文記事は珍しくはないようです。けれど、「明月記」ではその回数も多く内容も詳しいようです。
「明月記」のその部分を見ると定家独特の字で、生き生きと書かれていますよ。(見ているのはもちろん写真ですが・・)
数年前の「芸術新潮」の「冷泉家のひみつ」という特集にそれがでています。もしご興味があれば、6月の北白川の宿に持っていきますが・・
百合局さん、影印本を読んでいらっしゃるのですね。
是非見せて下さい。私は今カルチャーセンターで影印本に苦労しています。
スラスラ読めるようになりたいです。
みなさん、ありがとうございます。いやあ、明月記のオーロラ記事で盛り上がっていますね。みなさんのコメントも色々広がりを見せて。こういうのを「談論風発」というのでしょうか。
・読売3日夕刊、見過ごしてまして今読みました。
・ネット配信が一番早い。後は各社のご都合でということですかね。
・毎日記事には極地研提供の南極のオーロラ写真もあったのですかね。
・確かに京で見た平安びとはぶったまげたでしょうね。
・地磁気の軸ってよく分かりませんね。オーロラはともかくこの軸の方向によって色んなことが違ってくるのですかね。
・明月記、56年間の重みですね。記録の宝庫でしょう。
・定家独特の書体見てみたいです。白川庵の出し物の一つにしましょう。
先ほどのニュースで大岡信さんが亡くなられたと知りました。
このブログの冒頭で毎回、百々爺さんが引用されている和歌の訳詩は大岡信さん。
とてもわかりやすく詩心があふれていて大好きでした。
ご子息の玲さんが「言葉の申し子」だったとおっしゃいました。
まさにその通りだと思います(合掌)
大岡信さん、お世話になりました。どの解説書も現代語訳を載せているがどれも似たようなもの、所詮は現代語への訳に過ぎない。そんな中、大岡信さんの訳詩は新鮮に思いました。さすが詩人、感情移入のポイントが違うなと感じました。
丁度百人一首講読も終わりに近づき、「百人一首」(大岡信)のあとがき解説を読み返してみました。
・百人一首は個別の歌もさりながら百首全体で味わうのがいい。
・和歌を作り合い選び合い評価し合う。それが日本の伝統。
・百人一首は百首の秀歌のアンソロジーで遊ぶ「うたげ」である。
→正に談話室であれこれ言い合い楽しむべしということでしょうね。