いよいよ終盤、時代的には13世紀鎌倉歌人の歌へと入っていきます。91良経は76忠通の孫、兼実の息子、95慈円の甥にあたります。権門の摂政関白家にして和歌・漢学に秀でた優秀一族の人模様。見て行きましょう。
【本文は「百人一首 全訳注」(有吉保 講談社学術文庫)による】
91.きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣片敷きひとりかも寝む
【訳詩は「百人一首」(大岡信 講談社文庫)より転載】
訳詩: あ 鳴いているのはこおろぎか
寒い霜夜のさむしろに
ただ一人 わが袖ひとつ片敷いて
しんしんと身にしむ夜の闇の底
うずくまって あわれ 一人寝
作者:後京極摂政前太政大臣(藤原良経)1169-1206 38才 九条兼実の次男
出典:新古今集 秋下518
詞書:「百首歌奉りし時」
①藤原良経、九条家を名乗った兼実の子(次男)なので九条良経とも呼ばれる。
→摂政関白家の嫡流である。
・良経1169生まれ=後鳥羽院より11才年長、定家より7才年少
・忠通-基通(近衛家)-家実-兼平(鷹司家)
-兼実(九条家)-良通(勅撰歌人、有望なるも22才で病死)
-良経(兄亡き後九条家の嫡流となる)
(九条家は良経の孫の代で二条家・一条家とに分流し五摂家ができあがる)
(誠に優秀な一族。武士の世になってなければ政治の実権はこの一族のものだったろう)
・兄良通は将来を嘱望される逸材であったが22才で病死、同母弟の良経が九条家の後継者となる。以降父兼実とともに公卿に列なり(途中反兼実派の反撃で一時朝廷から追放されるがまもなく復帰)土御門帝(後鳥羽院の子)の摂政、太政大臣となる。
→百人一首上の名前は「後京極摂政前太政大臣」(十字)二番目に長い
一番長いのは祖父76忠通の十二字「法性寺入道前関白太政大臣」
・ところが摂政太政大臣として現役バリバリの1206年 38才にして急死
暗殺説(何者かが寝所に侵入して天上から槍で突き殺したとか)もあり。
→諸説紛々だが結局は不明。ただ尋常な病死ではなかったのだろう。
【余談 京都の朝廷公家と鎌倉幕府の関係について】
良経が左大臣・太政大臣(1199-1206)として京都の朝廷で政治に携わっていたのは既に鎌倉に幕府ができていた時代。政権(行政・立法・司法とも)は鎌倉にあったと思うのだが京都朝廷は何をやってたのだろう。政権の実権は鎌倉にあったが形式上朝廷(天皇&公卿)のお墨付きが必要でその形式を整える役目が公卿の役割だったということだろうか。
→この辺、どうももよく分かりません。
②歌人としての良経
・若くから和歌、書道、漢詩に堪能。博学多才の貴公子。
特に書道は独特で天才的、「後京極流」と呼ばれた。
・83俊成を師として和歌を学ぶ。97定家は九条家の家司、定家からも学んだ。
→御子左家に学んだ歌人であり御子左家歌道の庇護者的役割も担っていた。
【余談 和歌道の確立と公家】
兼実・良経の九条家の後見もあって御子左家は歌道の祖となっていく。嫡流の御子左家は二条家(五摂家の二条家とは別)と呼ばれるが定家の孫の代で冷泉家・京極家が分流し三家となっていく。
→政治的に武家に従ずるようになった貴族・公家のアイデンティティとして和歌道が重要視されるようになっていった。
・新古今集に79首 勅撰集計319首(これは多い!) 私家集に秋篠月清集
・新古今集では和歌所の筆頭になり仮名序を執筆
新古今集巻頭の歌は良経の歌
春立つこころをよみ侍りける 摂政太政大臣
みよし野は山もかすみて白雲のふりにし里に春は来にけり
→後鳥羽院の信頼が如何に厚かったかが分かる。
後鳥羽院口伝
故摂政は、たけをむねとして、諸方を兼ねたりき。いかにぞや見ゆる詞のなさ、哥ごとに由あるさま、不可思議なりき。
・1193六百番歌合(超大規模歌合)を良経邸で開く。
(87寂蓮と六条藤家顕昭との「独鈷鎌首」論争(87番歌の項参照))
→良経歌壇の主宰者として多くの歌合を主催。
また後鳥羽院歌壇の中心人物としても後鳥羽院に貢献した。
・良経の恋愛結婚についてはあまりエキサイティングな話は見当たらなかったが一つ。
頼朝の女婿一条能保の娘を妻としたが先立たれた。妻を悼んで。
くらべこし夜半の枕も夢なれや苔の下にぞ果ては朽ちぬる
→余程妻を愛していたのであろう。91番歌も妻を偲んでの歌との説もある。
・千人万首より一首
かぢをたえゆらの湊による舟のたよりもしらぬ沖つしほ風(新古今集)
→調べとして46番歌プラス祖父忠通の76番歌みたいな感じがする。
③91番歌 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣片敷きひとりかも寝む
・1200年に後鳥羽院が主催した初度百首歌で詠んだ歌。後鳥羽院が本格的に和歌に取り組み始めた頃で後鳥羽院歌壇形成の契機となった百首歌。実に79首が新古今集に入集している。
・「恋」の部でなく「秋」の部に分類されている。
・「きりぎりす」は今の「こおろぎ」
(平安王朝で「松虫」は今の「鈴虫」、「鈴虫」は今の「松虫」。ややこしい)
きりぎりす(こおろぎ)は秋深くなると野外から家の床下にまで入り込んでくる。
秋深くなりにけらしなきりぎりす床のあたりに声聞こゆなり
→寝てる下から聞こえてくる。寒くなったのが実感される。
またきりぎりすは寒くなると弱ってくる。
きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか声の遠ざかりゆく(西行)
・さむしろ=「寒い」・「狭いむしろ」 掛詞
・共寝では脱いだ互いの衣を掛け合って寝る。一人寝は自分の衣の半分しか敷けない。
→なかなかうまい表現ではないか。
・「ひとりかも寝む」
→3あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む(柿本人麻呂)
・他に本歌とされる歌
吾が恋ふる妹は逢はずて玉の浦に衣かたしきひとりかも寝む(万葉集)
さむしろに衣片敷き今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫(古今集)
さむしろに衣かたしきこよひもや恋しき人にあはでのみ寝む(伊勢物語第六十三段 つくも髪)
この歌の評価はいかがでしょう。淡々とした調子の歌で恋の情熱とか恨みとか熱いものは感じられない。さりとて寒くなりゆく秋の夜を詠んだ歌としてももの足りない。何となく中途半端な歌かなと思ったのですが、、、後京極摂政殿、お怒りにならないで!
④源氏物語との関連
・秋の虫については「鈴虫」が重要で巻名にもなっている。
「きりぎりす」はさほどでもないが「壁の中のきりぎりす」として二ヶ所登場。
1 庶民の町にある夕顔の宿に泊まった朝の描写
虫の声々乱りがはしく、壁の中のきりぎりすだに間遠に聞きならひたまへる御耳に、さし当てたるやうに鳴き乱るるを、なかなかさま変へて思さるる、、(夕顔10)
2 大君は薫の気配に物陰に隠れ夜が明けるころきりぎりすのように姿を現した。
明けにける光につきてぞ、壁の中のきりぎりす這ひ出でたまへる。(総角7)
→薫から逃げまくる大君。まどろっこしくてやきもきしたものです。
・序でに
寝返りをするぞ脇よれきりぎりす (一茶)
むざんやな甲の下のきりぎりす(芭蕉 奥の細道 小松多太神社)
先入観なくさらっと91番歌を読んだら、こんな身分の高い人の歌だとはおもわれません。本歌とされる数首のそれぞれの趣きをしっかり理解していないと、この歌の良さを味わうのは難しいですよね。
現代人のわれわれは、いろいろ調べて成る程と納得するだけですからねえ。
百々爺が挙げてくれた本歌の恋の情調を漂わせながら、独り寝のわびしさと晩秋の寂しさを溶け合わせた歌なのでしょう。この歌を詠む少し前に妻に先立たれたことも影響しているのかもしれません。
さっぱりとした雰囲気のある91番歌、悪くはないなと思います。
謡曲『紅葉狩』にある「時雨をいそぐもみぢ狩り、深き山路を尋ねん」は、新古今、秋下、藤原良経の歌「竜田姫いまはの頃の秋風に時雨を急ぐ人の袖かな」を転用しています。
謡曲『親任』にある「春霞、霞みし空の名残さへけふを限りの別かれとなりぬる」は、新古今、哀傷、藤原良経の歌「春霞かすみし空の名残さへ今日を限りの別れなりけり」によっています。
安東次男氏は、和漢朗詠集や詩経のなかの詩を挙げて、91番歌の見どころを語っています。(略)
そして、「良経の歌は詩藻に恵まれた生得の大宰相の歌というべきか。長(たけ)高く、尽すところの情はこまやかでしかも悠容としている。」と記しています。
・「さっぱりとした雰囲気のある91番歌、悪くはない」
確かに。命が切れるだの血の涙が出るだの、ドロドロねちねちした恋歌の後でさっぱりと口直しって感じですかね。しつこくないししみじみしている。確かに悪くはない感じです。
・この歌が詠まれた少し前に愛する奥さんを失くしてるとすれば92番歌は詠む人にとってもそれを味わう人にとっても特別なものだったのでしょう。「、、、、ひとりかも寝む、、、」聞く人は同情の涙を禁じ得なかったことでしょう。
・良経は余程漢詩漢学に通じていたようですね。小町姐さんに勧められて読んだ塚本邦雄と島内景二との対談での塚本発言によると、良経は1201後鳥羽院の千五百番歌合で判詞は漢文で書いているし1205年以降和歌は作らず漢詩作者の方に回っている。歌は捨てて漢詩に転じて一生を終わっていく、、、と記しています。
→後鳥羽院との関係は分かりませんがある面、当時の和歌に限界を感じていたのかもしれません。
爺の解説にあるように、鎌倉時代に入っての歌人。武家政治の時代が始まっているゆえ、公家たちの優雅な世界は支配者であった過去とは異なり表舞台ではなくなり、政治的・軍事的実権力はなく(経済力もかってほどではない)、政治を支える役割も形式化していった。そんな中、良経暗殺説もあるぐらいで生臭い世界は残っていたであろうが、芸術の世界が公家生活の中心になっていったように思える。
そのような時代背景を考えると、91番歌が、
柿本人麻呂の”吾が恋ふる妹は逢はずて玉の浦に衣かたしきひとりかも寝む(万葉集)”からの本歌取り
”や”という詠嘆の間投助詞を入れ、”さむしろ”と掛詞も入れ、
”3あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む(柿本人麻呂)”からこれまた重ねての”ひとりかもねん”の詞をもらい、
詞遊びを駆使し、凝りに凝った”新古今調”の歌で、調べは悪くないが、心に訴えてくる力は弱く、面白くない歌と小生には思える。が、時代を考えれば、さもありなん でもある。
歌謡曲といっしょにしては失礼であるが、世は歌につれ であろう。
千人万首より
家に百首歌合に、余寒の心を
空はなほかすみもやらず風さえて雪げにくもる春の夜の月(新古23)
これは、聖子女史もご推薦
百首歌たてまつりし時
かたしきの袖の氷もむすぼほれとけて寝ぬ夜の夢ぞみじかき(新古635)
かたしきの袖も好きな詞のようである。
今散歩に行き、歩きながら考えましたが
1)世は歌につれ ではなく、歌は世につれ が正しいのでしょうね。
2)91番歌、玄人受けする名歌なのでしょうが、素人には難しい歌と言うのが、正当な評価でしょうか。
・良経の38才にしての頓死、何なんだったのでしょうね。時の権力者が暗殺されるなんてのは凡そ平安の王朝時代には考えられなかったことでしょう。正にポスト保元の乱、武士の世のなせるところでしょう。
→これが昂じて太平記の時代になるといつ寝首をかかれるか、オチオチ眠っておれなくなる。王朝時代はほんとよき時代であったと思います。
・「歌は世につれ世は歌につれ」
時代が歌を作り、歌が時代を作っていく。どっちもどっちなんだと思います。庶民階級の俗謡今様、公家→武家階級の和歌。
→そんな中、庶民階級のものはダイナミックに変遷を続けていくが公家の和歌は停滞し連歌俳諧などへ転じていくということですかね。
→昭和歌謡曲は偉大・不滅です(私にとってだけかもしれませんが)。今日は思いっきり歌いましょう。
何?鶴竜、日馬富士が休場?でも稀勢の里、白鵬の活躍で初場所は盛り上がりましたね。小町姐、源智平朝臣氏のコメントが未載ですが盛り上げて参りましょう。
91番歌 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣片敷きひとりかも寝む
後京極摂政前太政大臣こと藤原良経(1169~1206)の歌。
霜の降る寒い夜に、むしろを置き、衣を敷き、きりぎりすの細い声を聞きながら独りで寝るのか、ああ、寂しいなあ、くらいの意味だろう。肩書を見れば一目瞭然、とっても偉い人である。政治家として、歌人として、一世の教養人として卓越した才能を示したが、若くして急逝している。
「きりぎりす」はこおろぎである。寒い夜にこの虫の声が細々と聞こえてくるのは、ひどく寂しい。ここで阿刀田氏は太宰治の「きりぎりす」という書簡体の短編小説を取り上げています。(以下抜粋)
のっけからヒロインの「お別れ致します」という宣言。訴えの相手は彼女の夫で、売れない画家であったのが、急に人気を集めるようになり、それにつれ昔の孤高はどこへやら、孤高はただの見せかけで、どんどん俗っぽい虚飾の多い人柄に変わっていく。地金が現れる。そんな夫を、みずからの芸術にひたむきな人だと信じて尽くしてきたヒロインは許せない。別れるよりほかにないと考えたわけだ。「ああ、あなたは早く躓いたら、いいのだ。私はあの夜、早く休みました。一人で寝ていると、背筋の下で、こおろぎが懸命に鳴いていました。それがちょうど私の背筋の真下あたりで鳴いているので、なんだか私の背中の中で小さいきりぎりすが鳴いているような気がするのでした。この小さい、幽かな声を一生忘れずに、背骨にしまって生きていこうと思いました。この世では、きっと、あなたが正しくて、私こそ間違っているのだろうとも思いますが、私には、どこが間違っているのか、どうしても、わかりません」と終わっている。なかなかの名作だ。不確かな名声に酔って、いい気になっている軽佻浮薄名人格をあからさまにあばいて、間然するところがない。
―太宰がこれを書くかねえー
とおもうし、
―それが、太宰のしたたかさ。太宰だから書くのだー
とも思うけれど、この作品では最後に一度だけ出てくるこおろぎが効果的だ。こおろぎが鳴いているのにタイトルは「きりぎりす」。辞書には、こおろぎの古名がきりぎりすと書いてある。そのかすかな声を藤原良経は人生の寂しさとしてとらえ、太宰治のヒロインは人生の小さな小さな確かさとしてとらえていこう、としているらしい。文学は色々考えるものですね。そこがおもしろいんだけれど。(阿刀田氏)
トランプさん、安倍さんも暖かい米フロリダ州でゴルフに興じ、智平朝臣殿もサイパン島へゴルフツアーとか。せめて多寡秀は八重山諸島辺りをイメージして、春備えのイメージトレーニングと参りましょう。
・太宰治の「きりぎりす」、紹介ありがとうございます。
「きりぎりす」と聞くとやはりイソップの「アリとキリギリス」から、享楽主義者が没落の道を辿る道理を思い浮かべてしまいます。
→ヒロインの心を忖度するなら題名はむしろ「こおろぎ」じゃないでしょうか。夫の成り上がりを揶揄するなら「きりぎりす」かも(読んでもいないのにいい加減なコメントですね。スミマセン、太宰先生!)
・安倍さん、パー5で3オン1パットのバーディ取ったらしいですね。これはめでたい、ご本人も嬉しかったでしょうね。「ソウリをやって来てよかった」と思ったことでしょう。
→昭和歌謡曲と同様、ゴルフも偉大・不滅です。
小倉百人一首ものこすところあと10首。手元の解説本の残るページ厚も薄くなってきました。
きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣片敷きひとりかも寝む
聖子さんは寒くなるとこの歌を思い出すとか。秋の寒さ厳しい夜に、ムシロに一人寝する寂しさを詠む。平安時代には男女が一緒に寝る場合、お互いの袖を枕代わりに敷き交わして寝る。「かたしき」は「寂しい一人寝」を意味する。この歌を作る直前に妻を亡くしていることから、「衣かたしき一人かも寝む」に良経の気持ちがこもる。この歌は秋の歌とされるが、亡き妻を恋慕う、哀悼の歌である。
きりぎりすとはこおろぎのこと。きりぎりすは昼間に鳴き、こおろぎは夜に鳴く。この夜の歌にはこおろぎが合致する。夜にきりぎりすが鳴くと「ギーチョン ギーチョン」と、煩わしくてなかなか寝つけない事だろう。
平安時代は蟋蟀をキリギリスと呼び、キリギリスをコオロギと呼んでいた。古代、秋に鳴く虫はすべて蟋蟀とよばれていた。スズムシ、マツムシ、クツワムシなどと区別し、鳴く音を聞き分けるようになったのは平安時代からといわれている。いわば、万葉人は虫の演奏をシンフォニーとして聴きなし、王朝人はソナタを鑑賞していたとでもいえましょうか(ネット記事)。
万葉集に詠まれている蟋蟀は、秋に鳴く虫の総称と考えられてる。
夕月夜心もしのに白露の置くこの庭にこほろぎ鳴くも(1552)
庭草に村雨降りてこほろぎの鳴く声聞けば秋づきにけり(2160)
こほろぎの待ち喜ぶる秋の夜を寝る験なし枕と我れは(2264)
藤原良経は風雅の聞こえ高い貴公子で、その家系から歌才は保証書付きの人物。後鳥羽上皇の信任厚く「新古今和歌集」の仮名序を書く。
「やまとうたは、昔あめつち開けはじめて、人のしわざいまだ定まらざりし時、葦原中国の言の葉として、稲田姫、素鵞の里よりぞつたはりける。しかありしよりこのかた、その道さかりに興り、その流れいまに絶ゆることなくして、色にふけり、心をのぶるなかだちとし、世をおさめ、民をやはらぐる道とせり・・・」
しかし、新古今集成立の翌年(1206年)、38歳の若さで、突然の死を遂げる。暗殺説があり、一説に、犯人は土御門天皇の教育係・菅原為長だとか。はじめ菅原為長が「新古今集」の序文を書くはずだったのが、後京極殿・良経にかえられたので、恨みに思っての犯行とされる。王朝末期にあっても、歌は人の生き死にが関係するほど、当時の人には大変な事だったのだ。(ネット記事)
・この歌は上五の「きりぎりす」がものすごく効いていると思います。「きりぎりす」は誰もが小さい時から知ってる虫で(今の子どもは覚束ないが)百人一首の「きりぎりす」札は親しみやすい歌として人気札だったのじゃないでしょうか。
但し今の「きりぎりす」でなく実は「こおろぎ」のことだった、、、となるとヤヤコシということになります。というか現代人には「こおろぎ」のイメージが湧かないのでイソップのイメージから「落ちぶれたきりぎりすがボロをまとって寒い夜震えている、、、」なんて風に感じてしまうのです。
→王朝人には「こおろぎ」ですから、夜さり寂しげなこおろぎの声ということで名歌になるのでしょうね。
・虫の説明、ありがとうございます。万葉人は秋鳴く虫の総称として「こおろぎ」と言ってたのですか。なるほど。「ムシ」と言う言葉はなかったのでしょうかね。現代の歳時記見ると「虫」が秋鳴く虫の総称で、後は竃馬、蟋蟀、鈴虫、松虫、邯鄲、草雲雀、鉦叩、螽斯(きりぎりす)、馬追、轡虫と個別に秋の季語として虫の名前が列挙されています。
「万葉人は虫の演奏をシンフォニーとして聴きなし、王朝人はソナタを鑑賞していた」
→なるほど、源氏物語では鈴虫・松虫が個別に出てきます。ちょっと時間なくうろ覚えですが、野分の後、女童に鈴虫の入った虫籠に朝露を入れさせる場面があったんじゃなかったかなあ(後で調べてみます)。
【追記】
野分の翌朝、秋好中宮の庭での描写でした。鈴虫といった特定の虫ではなくいろいろな虫籠に露を移させる様子が書かれています。
童べ下ろさせたまひて、虫の籠どもに露かはせたまふなりけり。
(野分5)
→鈴虫・松虫とそれぞれ別の籠に入れて鳴き比べを楽しんでいたのでしょうか。
・新古今集の真名序は誰が書いたんですかね。良経はむしろ漢詩の方が堪能だったのだから真名序を良経が書き、仮名序は菅原為長に譲ってもよかったかも。
→でもそんなことしたら今度は為長でなくその真名序を書くはずで取り上げられた某が刃を振るったかもしれませんねぇ。
いよいよ最終章10首の始まりの歌は
きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣片敷きひとりかも寝む
いかにも寂しげな歌で始まりましたね。
昨日から留守をしており 珍しくこんな時間のコメントとなりました。
百々爺さんの完璧な解説で時代背景や後京極摂政前太政大臣(藤原良経)の人物像を詳しく知ることが出来ました。
そして皆さんのコメントを読ませていただいて今更私が書くことはもう何もないような気がしております。
こういうスタイルもなかなか良いな~・・・と
生まれも育ちも能力も申し分ない立派な貴公子がこのようないかにも秋の心寂しく「きりぎりす」や「ひとりかも寝む」の歌を詠むのかと思いきや亡き妻を恋うる歌との事。
妻を亡くし本人自身も若くして亡くなったとは、才能に恵まれても余り幸せな人生とは言えないですね。
さぞや妻を愛していたのでしょうね。それを想えばこの歌は理解できますし心の空洞を感じます。
定家、雅経、家隆推薦の歌
み吉野の山もかすみてしら雪のふりにし里に春は来にけり
これは季節的にも待たれる春を想像させてくれてキリギリスよりもずっといいな~と思います。
あし引きの山鳥の尾のしだりをのながながし夜をひとりかもねむ(3番 人麿)
さむしろに衣かたしき今宵もや我をまつらむ宇治の橋姫(古今集)
橋姫は「平家物語」読み本系異本では嫉妬に狂う鬼として収録されているそうで橋姫にそういう伝説があるのかもしれませんが私は「源氏物語」の宇治の大君、中君を想像してしまいます。
「きりぎりす」で真っ先にイメージされるのは実盛の討死から500年後に芭蕉が詠んだ句。
むざんやな甲の下のきりぎりす
「平家物語」卷第七 「真盛」
真盛の首を確かめた樋口次郎、ただ一目みて「あなむざんや、斎藤別当で候ひけり」と涙はらはら流い、・・・この巻は私も涙はらはらでした。
この歌を歌人の塚本邦雄がえらくけなし選んだ定家にまで怒りと殺意を抱くなんて言っていましたが歌の背景を知れば百合局さん同様、私もそう悪くはないと思います。
・私もこの歌を亡くなった愛妻への哀悼歌と考えるとスンナリ心に入ってくるように感じました。どうも今まで真夏の叢で大声で鳴くきりぎりすのイメージをぬぐえなかったものですから。
→昔「ギリス捕り」よく行きました。いっぱい鳴いていました。でも捕るのは難しかった。
→今は当地では全く鳴き声を聞きません。先年斎宮博物館の裏の叢で鳴いているのがきりぎりすを聞いた最後です。
・先日ご紹介いただいた「源氏五十四帖題詠」(塚本邦雄 ちくま学芸文庫)読みました(源氏の題詠の方は追々読むとして島内景二との源氏物語対談が素晴らしかったです)。
このお二人、良経をものすごく買ってるんですね。塚本先生は学生に良経の家集「秋篠月清集」を暗記するくらい読めと言っているし、島内先生は良経が源氏物語をどう読んでいたか、どの程度読んでいたか、どう自分の歌に昇華させたかというテーマに取り組み、良経にかかる前に叔父の慈円からやります、、、なんて言ってます。
→良経と源氏物語、島内先生の研究どこまで進んだのでしょうか。楽しみです。
→そんな塚本先生だから91番歌を選んだ定家に殺意なんて言われるのでしょうね。でも、一般人には91番歌、さっぱり・しんみりで良しとしましょうね。
コテコテの技巧作が続き、少々、食傷気味でしたが
残すところ10首となり、時代が、漸く鎌倉頼朝幕府の綻びが
表面化してきたこともあり、俄然緊迫感が出てきました。
この91番も「きりぎりすが寂しい」とか、なんとかより、
作者の九条良経自体の方が面白いのでは?
そもそもオヤジさん(九条兼実)は、当時、公卿内でも超親幕派で、
後鳥羽院グループから左遷されているし、なのに
良経の娘・立子は おやじと一緒に承久の乱を企てた順徳院の皇后ですよ。
それに 四歳で即位、在位70日、と言えども 仲恭天皇のお袋さんです。
所が、本人は1206年38歳で殺害されています。
百人一首の作者の中で 殺害された人、他に居ましたっけ?
殺害理由は 解説書では新古今集の序文を誰にするかでもめたことが
原因かと。でも、公卿権力のTOPに居た人がそんなに簡単に殺されますかね!?
いずれにせよ 百人一首の選定の謎も絡み、あと10首、百々爺の名解説
(実に上手い!!) それに Deepな 各位のコメン、益々 楽しみです。
PS 源氏の話が 良く出ますが、今、NHKラジオの「こころを読む」で
『源氏物語に学ぶ十三の知恵』を放送しています。
小生ぐらいには丁度好い按配な Not-Deepなお話です。
ストリーミングで 放送済のものも聞けます。
以上
http://www4.nhk.or.jp/kokorowoyomu/x/2017-02-19/06/68244/3641650/
お久しぶりです。いつもながらスパイシーなコメントありがとうございます。
・私も五摂家九条家の始まりとなった兼実以下一族の生き様は面白いと思います。平家~源氏 vs 後白河院~後鳥羽院と藤原摂関家そっちのけでの権力争いの中、武力も持たず血筋と伝統(和歌もその内の一つ)のみで公家として生き残り武士の世になっても千年に亘る地位を築いていったのですから。
→正に「貴族」と呼ぶに相応しい一握りの集団と言えましょう。
・良経の頓死。暗殺なんでしょうね。でも動機が新古今集の序を巡る争いとは信じがたいですね。何かもっと政治的な理由があったのではないかと思うのですが、、。
→良経が亡くなって得をしたのは誰か、、、謎解きの名探偵でも登場して欲しいものです。
・百人一首歌人で殺害されたのは。93番実朝です。これは白昼堂々の個人テロ。
→でも場所は京から遠く離れた坂東の地。天子さまお膝元の京での事件とはちょっと違うような気がします。
・『源氏物語に学ぶ十三の知恵』ご紹介ありがとうございます。
私の尊敬する島内先生のお話しで早速3週分聞きました。すごいDeepなお話じゃないですか。
→島内先生は92良経の歌と源氏物語の関連性にも注目されてるようで、その内百人一首の話でも出て来ないかなと楽しみにしています。
(オマケ)
「光源氏の人間関係」(島内景二 ウェッジ文庫)
源氏物語の物語性解説の決定版です。