97番 百人一首の産みの親 藤原定家 来ぬ人を

さて、いよいよ百人一首の産みの親(&源氏物語の育ての親)定家卿のお出ましであります。この談話室、百人一首を1番から人物像を中心に語り合って来たわけですが、それはとりもなおさず撰者の定家について論議してきたとも言えましょう。談話室の検索欄に「定家」と入れて検索すると殆ど全ての歌が検索されて出てきます。そんな定家卿です。改めて敬意を込めて考えてみましょう。

【参照】百人一首 談話室 ウオームアップ
「百人一首の成立、いつ誰がどのように選んだのか」2015.3.5
「撰者、藤原定家について」2015.3.9

97.来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ

訳詩:     来ぬ人をまつ身の焦がれ 松帆の浦の
        そよりともせぬ凪のくるしみ
        じりじりと海士の焼くのは藻塩だろうか
        焼けるのは いえ わたしの身です
        来ぬ人をまつ身は焼けて焦がれよじれて

作者:権中納言定家 藤原定家 1162-1241 80才 俊成の男 正二位権中納言
出典:新勅撰集 恋三849
詞書:「建保六年内裏の歌合の恋の歌」 1216歌合

①藤原定家 
 定家に関る年表、談話室ウオームアップ(2015.3.9)記載のものを増補しました。
 (@は定家の数え年令)
 1156 保元の乱
 1159 平治の乱
 1162 @1 定家誕生(父俊成49才の子)
 1167 @6 平清盛太政大臣に(平氏政権成立)
 1180 @19 以仁王挙兵→敗死 後鳥羽院誕生
       定家明月記を書き始める この頃から作歌活動本格化
      「紅旗征戎は吾が事にあらず」 
 1185 @24 平氏滅亡(壇の浦)源雅行と殿上で争い除籍さる
 1186 @25 定家九条家に出仕 西行の勧めで二見浦百首を詠む
 1188 @27 千載和歌集(俊成撰)
 1192 @31 頼朝征夷大将軍(鎌倉幕府成立)
 1196 @35 源通親の政変 九条兼実失脚 九条家ピンチ 定家も不遇時代
 1200 @39 この頃から後鳥羽院和歌に傾注、定家、院御百首作者に加えらる
 1201 @40 後鳥羽院の熊野御幸に供奉
 1202 @41 源通親死去、以降後鳥羽院専制政治開始、やりたい放題
       この頃後鳥羽院と蜜月状態。何度も水無瀬御幸に供奉
 1205 @44 新古今和歌集(定家・家隆・有家・雅経)
       →後鳥羽院が煩く取捨選択し実際は後鳥羽院撰
 1207 @46 名所絵歌で定家の歌が採用されず後鳥羽院と衝突
 1211 @51 やっと従三位に昇任。その後もずっと官位アップに執心
 1220 @59 定家、後鳥羽院と対立 勅勘を受く
 1221 @60 承久の変 後鳥羽院、隠岐に配流
 1233 @72 定家出家(法名:明静)晩年は源氏物語など古典に傾注
 1235 @74 百人一首(小倉山荘 障子絵+色紙形)
 1239 @78 後鳥羽院崩御
 1241 @80 定家死す

 以下アラカルト風に気づいた点を書いてみます。

〇定家の健康状態
 幼少時赤斑瘡やら疱瘡で死にかける。以後も病弱体質。病気のデパートだったよう。
 →でも80才まで生きたら長寿と言えるでしょう。

〇定家の性格、行状
 頑固で強情、粘着質で激情家
 24才、宮中で同僚源雅行に狼藉事件、除籍される。父俊成が修復に奔走
 →これだけ見ると好きになれないが、まあ色々あったのでしょう。

〇後鳥羽院との蜜月~確執
 1200-1205 院が和歌に集中した時代。定家も重んじられ蜜月関係。
       熊野御幸やら水無瀬御幸やらに供奉 お気に入りの歌人であった。
 1205    新古今集完成 この頃から院は和歌への興味を失っていく。
       次第に定家との溝ができてくる。
 1220    お召の歌会に定家は欠席、歌を贈るがその歌に後鳥羽院激怒、勅勘

 →気まぐれ和歌愛好家の後鳥羽院と和歌の求道者定家。合うはずがない。
 →定家はあまりぶれておらず、後鳥羽院の気まぐれには手を焼いた感じ。
 →道中ドンチャン騒ぎの熊野御幸にはほとほと参った模様。

〇定家の結婚 
 20才過ぎ歌道のライバル六条家藤原季能の娘と結婚 二男二女を生む
 その後この妻とは離別(理由不明)、1194頃96藤原公経の姉を後妻に迎える。
 →96番歌でも書いたがこの結婚は大きかった。
 →でもこの時点で公経が後に朝廷の第一人者になるとは予想できなかったろう。

〇定家の官位アップへの執心
 出世欲旺盛、常に不満を抱き訴え続ける。
 1211従三位@51、1216正三位@56、1227正二位@67、1232権大納言@72
 →承久の乱後公経が朝廷の一人者になって引き上げられた。
 →やっぱりそんなに官位って欲しいものなんだ!

〇定家以降の御子左家
 息子為家(公経の猶子)が継ぎその子どもの代で二条・京極・冷泉の三家に分裂
 →ライバル六条藤家が南北朝代に断絶するに対し御子左家(冷泉家)は存続していく。

②歌人としての定家(もう今までに語り尽くされてますが)
・新古今集撰進者の一人 新勅撰集(1235年 1374首 後堀河帝勅)の撰者

・勅撰集入集 465首 私撰集に秀歌撰・定家八代抄 私家集に拾遺愚草
 歌論書に毎月抄他、 18才~74才に亘り日記「明月記」を執筆

・晩年(主として出家後か)は源氏物語他古典の書写、編纂、注釈(古典考証)
 →「膨大な書写、独特な書体」として有名。くせのある書体だったようだ。

・定家の歌から
 1207最勝四天王院の名所障子歌に自信作を取られず院の眼力をそしる
  秋とだに吹きあへぬ風に色変る生田の森の露の下草

 1220歌合欠席時院に差し出した歌。後鳥羽院激怒 勅勘・閉門
  道のべの野原の柳したもえぬあはれなげきのけぶりくらべや

 有名歌を少し
  見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮
  春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空
  駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮

 小倉山荘での歌
  露霜の小倉の山に家居して干さでも袖の朽ちぬべきかな
  忍ばれんものともなしに小倉山軒端の松ぞ馴れて久しき

・定家の近代秀歌より
 「ことばは古きを慕ひ、心は新しきをもとめ、及ばぬ高き姿を願ひて寛平以往の歌に習はば、おのづからよろしきこともなどか侍らざらむ
 →新古今調ということか。

・後鳥羽院の定家評(後鳥羽院口伝)
 「惣じて彼卿が歌のすがた、殊勝のものなれども、人のまねぶべき風情にはあらず。心ある様なるをば庶幾せず、ただ言葉すがたの、えんにやさしきを本体とせる間、その骨すぐれざらん初心の者まねばゝ、正体なき事になりぬべし」
 →歌評というより定家の人柄・行動、定家そのものへの嫌悪。ちょっと大人気ない。

③97番歌 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ
・建保(六年じゃなく)四年の順徳帝主催の歌合 定家55才 自讃歌
 対戦相手は順徳帝 よる浪もをよばぬ浦の玉松のねにあらはれぬ色ぞつれなき
 →順徳帝の歌を合わせられ勝ちとなっている。順徳帝が勝ちを譲ったとも。

・本歌 万葉集 笠金村の長歌
  なきすみの 舩瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ、、、、

 【藻塩】(広辞苑)
  海草に潮水を注ぎかけて塩分を多く含ませ、これを焼いて水に溶かし、その上澄みを釜で煮つめて製した潮。万葉集(6)「夕なぎにー焼きつつ」

・男の訪れを待つ切ない女心を詠んだ歌
 じりじりと焼け焦げる藻塩 焼き焦がれ 身も焦がれ
 松と待つ
 →くっつき過ぎ、常套過ぎる感じもするがどうだろう。

・総じてこの歌の評価は高い
 「定家のすべてがこの一首に圧縮されているといっても過言ではない」(白洲正子)

・松帆の浦 淡路島の北端 島の始めの淡路島 対岸は須磨・明石

④源氏物語との関連
 源氏物語須磨 源氏と女人たちの歌の贈答 みな「藻塩たれつつ」を踏まえている。

 須磨の家居の様子
  おはすべき所は、行平の中納言の藻塩たれつつわびける家居近きわあたりなりけり。

 源氏→藤壷 松島のあまの苫屋もいかならむ須磨の浦人しほたるるころ
 藤壷返し しほたるることをやくにて松島に年ふるあまも歎きをぞつむ

 源氏→朧月夜 こりずまの浦のみるめのゆかしきを塩焼くあまやいかが思はん
 朧月夜返し 浦にたくあまだにつつむ恋なればくゆる煙よ行く方ぞなき

 紫の上返し 浦人のしほくむ袖にくらべみよ波路へだつる夜の衣を
 六条御息所返し うきめ刈る伊勢をの海人を思ひやれもしほたるてふ須磨の浦にて

 →97番歌は須磨・明石からの源氏の帰りを待つ女君たちの心を定家が代弁したものではないでしょうか。

松風有情さんの百人一首絵、97番藤原定家、画き納めだろうとのこと。
よく画けてます。一段と進歩されたこと間違いないでしょう。ありがとうございました。

百人一首絵 97番 藤原定家 by 松風有情

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18 Responses to 97番 百人一首の産みの親 藤原定家 来ぬ人を

  1. 小町姐 のコメント:

    朝一番「百人一首生みの親」定家とあり私の想像通りのタイトルでした。
    百々爺さんの大好きな定家、今回は集大成ともいえる解説でさすが力が入っていますね。
    良くも悪くもこの人の存在なくしては平成の我らもこのようなブログを楽しむことはできなかったであろう。
    その功績は多大であり、そういう意味では定家様々である。
    御子左家四代目俊成の息子に生まれ93番、鎌倉右大臣実朝の師でもある。
       97.来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ
    詞書には「建保六年(1216)内裏歌合・恋歌」とあるが実際には建保4年の誤りで定家55歳の作であるとの事。
    「百人一首」の撰は1235年定家74歳の時の自選である。
    その間、承久の乱が1221年、後鳥羽院が1239年隠岐で世を去る。
    松帆の浦は淡路島北端の歌枕
    この歌の背景には万葉集の「淡路島松帆の浦に朝なぎに玉藻刈りつつ夕なぎに藻しほ焼きつつ海人少女・・・」が取り入れられている。
    待てど待てど来ぬ人を待ち続け身を焦がす恋の歌なのだろうか?
    定家最晩年の作とのことであるが定家は45歳以降ほとんど歌を詠まなかったらしい。
    何故だろう?定家が歌を詠まなくなったのは後鳥羽院と不和になった頃かららしい。
    白州女史はこれは恋歌ではないと言い切る。
    未来に絶望しつつなお一縷の望みを抱いて歌道に心を砕いていた人の身を焼くような告白の詞であると結んでいる。

    目崎徳衛によればこの一首は1216年順徳院主催の百番歌合わせに詠進されたとある。
    左方は若き順徳院を筆頭に公経(96)家隆(98)ら10人、
    右方には道家、定家 二条院讃岐(92)ら10人、そうそうたるメンバーの春夏秋冬恋各二首であった。
    百々爺さんの解説でも触れているが順徳帝の歌を合わせられ勝ちとなっている。
    順徳帝が勝ちを譲ったとも。

    目崎氏によれば
    定家が無数の自信作からこの歌を百人一首に撰んだ理由は成立事情や選定目的と無関係ではありえないと書いている。
    その制作事情とは「来ぬ人」の陰には佐渡に流謫の日々を送る順徳院のおもかげが浮かび「身もこがれつつ」還幸を定家の心情が読みとれ、ただの「まつほの浦」という歌枕を用いた手柄として自選したと解するのは単純と述べている。
    ある意味白州女史の解釈に相通じるところがある。

    白州女史、目崎氏二人の参考文献からら私なりに想像逞しく考察してみた。
    後鳥羽院と定家の性格は共に自己主張が強く我こそはという自負と気概に満ちた共通点があったと思う。
    百々爺さんも気まぐれ和歌愛好家の後鳥羽院と和歌の求道者定家。合うはずがないと書いている。プラスとプラスが反発するのは必然の理。、
    お互いを認め合った蜜月、君臣水魚の時は何事なくともひとたび袂を分かてばその確執は広がる一方。
    定家があえてこの歌を自選したのは両院に対する追慕と心に潜む詫び?懺悔?の想いではなかったか?的確な言葉が見つかりません。
    この歌に定家の痛嘆の極みを感じるのは私だけだろうか?
         来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ
    そう思えば定家の心情が痛ましく涙なくしてこの歌は読めない小町姐なのである。
    定家を偲びちょっと感傷的になり過ぎました。
    「百人一首の作者たち」の著者、目崎徳衛の結論付け。
    「百人一首はすべて定家のものである」
    私もそれを信じます、いえ信じたい!!

    松風有情さん
    描き納めに定家を選ばれたのはこのブログの最後の絵にふさわしく素晴らしいです。
    ありがとうございます。

    • 百々爺 のコメント:

      ・「定家は45歳以降ほとんど歌を詠まなかったらしい」
       定家45歳というと1206年、新古今集が定家たち撰者の手から離れたころ。後鳥羽院がやりたい放題やりだしたころ。ある意味和歌界の旋風児であった後鳥羽院の勢いに引けてしまったのかもしれません。晩年まで詠み続ける歌人がいる一方、筆を折ってしまう歌人もいる。

       →やはりメンタルなものなんでしょうね。鈍感な人は拙速拙多で行け行けドンドンだが、神経質な人は立ち止まってしまう。
       →若い時の感性が出てこなくて挫折してしまう。芸術家によくあることなのでしょうね。

      ・「この歌に定家の痛嘆の極みを感じるのは私だけだろうか?」
       定家がこの歌を詠んだのは55才の時。百人一首に自分の歌としてこの歌を撰んだのは74才の時。定家は多数の歌の中からどの歌が自分の歌として相応しいかよくよく考えたのだと思います。当然自分の生きてきた足取りをつぶさに振り返ったのでしょう。その結果、やはり何よりも後鳥羽・順徳の両院が京を追われ隠岐・佐渡で哀れな末路を迎えていることに何とも言えない自責の念を覚えたのではないでしょうか。

       →「身もこがれつつ」はじりじりと自分を責めつける表現
       →定家もこの歌に小町姐さんが涙してくれてると聞き、嬉し涙を流していることでしょう。

      ・「百人一首はすべて定家のものである」
       言い得て妙ですよね。考えてみれば百人の歌人を選び出すのも、それぞれの歌人が詠んだ多数の歌の中からどの歌を選びだすのかも、それをどの順番に並べるのかもすべて定家一人が決めたのですからねぇ。

       →「百人一首はすべてオレのものだ、文句あっか!」
        定家卿のどや顔が見えるようです。

      • 小町姐 のコメント:

        見つからなかった言葉を百々爺さんからは「自責の念」、枇杷の実さんからは「鎮魂の願い」と教えていただきスッキリしました。
        近頃、とっさに言葉が出てこなくなりました。
        謂わばこの歌は私なりの深読みをすれば追慕、自責、鎮魂の思いを込めたレクイエムととりました。
        定家にそこまでの思いがあったかどうかは定家のみぞ知ると言うことでしょうか・・・

        ところで八麻呂さんから紹介のあった放送大学の内容に百々爺さんがコメントされていた「定家の方法」の月日を教えて下さい。

        • 百々爺 のコメント:

          放送大学の「定家の方法」を私が聞いてコメントしたのは16番歌のコメント欄です。
           →すっかり忘れていました。読み返すとなかなかいいこと書いてありました。
           →定家の方法とは「本歌取り+漢詩+源氏物語」なんですって。読んでみてください。

  2. 松風有情 のコメント:

    歌は淡路島を題材にしているので歌枕絵としてはラストワンかと思います。勿論99番歌の後鳥羽院の隠岐の島、100番歌の順徳院の佐渡島は残っていますが、いずれも配流され没地であるので歌枕絵には不適当と考えます。
    淡路島はすでに78番歌で投稿したこともあり、悩んだ挙げ句藤原定家その人を描いてみました。単なるカルタ絵では面白くないので構図は文屋多寡秀さんが95番歌でコメントされた『花鳥風月』からヒントを得ています。書いているうちに、もしかすると現代の百々爺さん&皆さまも同じ様に調べ物をされている姿にも通じるなぁと思いながら描きました。

    そして拙い川柳ラストは

    定家とて 花鳥風月 仮定法

    花食らう 冬鳥哀し 風の月 

    • 百々爺 のコメント:

      定家卿の絵、素晴らしい! 若々しくて穏やかそうで。「頑固とか色々謂われる私をこんな風に画いてもらってありがたい」と定家卿もお喜びのことでしょう。

      これまで談話室に寄せていただいた絵、数えてみました。
      百人一首絵 19絵 (4,9,17,26,35,42,46,49,53,57,62,66,69,72,78,83,90,93,97)
      源氏物語絵 7絵(浮舟、桐壷、篝火、蜻蛉、椎本、澪標、蛍)投稿順
      プラス 竹林に猫の襖絵

      談話室に華やかな彩りを添えていただきました。改めて感謝いたします。
      引き続きよろしくね。。

  3. 松風有情 のコメント:

    ところで、先週興味深いネット記事がありましたので以下紹介します。

    平安・鎌倉時代の歌人、藤原定家(1162~1241年)が日記「明月記」に書き残した「赤気(せっき)」という現象は、太陽の異常な活発化によって京都の夜空に連続して現れたオーロラだった可能性が高いと、国立極地研究所や国文学研究資料館などのチームが米地球物理学連合の学術誌に発表した。連続したオーロラの観測記録としては国内最古という。(毎日新聞)

    明月記には、1204年2~3月にかけて、京都の北から北東の夜空に赤気が連続して現れ、定家は「山の向こうに起きた火事のようで、重ね重ね恐ろしい」と書き残している。

    • 百々爺 のコメント:

      日本でオーロラが観測されたことがあるんですって?! それは面白い。だってオーロラって極地だけかと思っていました。オーロラ見学ツアー、極地に行くかのも一手、明月記の時代にタイムスリップするのも一手ということですか。

      56年にも亘って明月記を書き続けたってすごいですね。どれほどのボリュームのものか知りませんが読みごたえあるでしょうね。36年に亘る九条兼実の玉葉と併せ読み、時代を分析するなんて野心的な学徒、現れて欲しいものです。

  4. 文屋多寡秀 のコメント:

    閑話休題。
    「尾生の信」をご存じでしょうか。尾生は男の名前。中国の古典「荘子」にあって、愚かなまでに固く約束を守ることを言う。芥川龍之介が「尾生の信」という短編小説を書いて「待つこと」のあわれさとユニークな考えを示唆している。待ちながら女を思う心はいとしいではないか。そして死んだ尾生の魂は体を抜け出し、月の光に誘われて天の高みにうろうろと昇っていく・・・。明晰な文人は綴っている。

    「待てど暮らせど」は古来永遠のテーマ。この方面の歌はたくさんあって、まさに97番もその一つ。

     来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ

    詠み手はこの歌集の撰者 藤原定家。なかなかの名調子だ。来ない人を待っているのである。そこは淡路島の北端の松帆の浦。近くで藻塩草を火で焼いて塩を作っている。しかも夕なぎどき。風ひとつ吹かずジリジリ、ジリジリ・・・なのに待っている人はいっこうに現れない。身も心も焦がれてしまう。文学史的には、男を待つ女の立場になって定家が詠んだ、ということだが、男が待つ側だって同じ情況、同じ心境だろう。「待つ」と「まつほ」掛詞になっていることは言うまでもない。じりじりとした思いが、見事に伝わってくるところが、この歌のリアリティだ。(阿刀田氏)

    一方吉海氏いわく。
    定家の秀歌としては「春の夜の夢のうき橋とだえして峰にわかるる横雲のそら」(新古今集)・「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕暮」(同)「駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮」(同)などの新古今集歌がすぐに思い浮かぶ。
    しかし定家が自らの代表歌として選んだのは「新古今集」に撰入されていない「来ぬ人を」歌であった。この間の事情については小町姐による目﨑論にもある通り。もちろんこの歌は定家自讃歌の一首であったことは間違いない。しかしその選択の是非を含めて、そこに晩年の定家の嗜好が反映されているとすると、百人一首総体としての秀歌意識を考える上で、まさに一等資料ということになる。「応永抄」で「黄門の心にわきて此の百首にのせらるる上は思ひはかる所にはべらんや。しきりに目を付けて心をさぐり知るべきにこそ」と注する所以である。と。

    • 百々爺 のコメント:

      ・「待つ」
       スマホ・携帯の現代、恋人を待ってジリジリすることはなくなったでしょうね。でもボクらの世代はそうでもなかった。デイトして待合せ時間にちゃんと来てくれるか、どきどきした記憶もかすかながらあります(遠い過去のことです)。
       →通信手段の進化とともにデイトの仕方も変わる。どちらがいいんでしょうかね。でもさすが平安時代にはもどりたくない気がします。

      ・定家が通常の秀歌とされてる歌を撰んでおれば百人一首議論もこんなに盛り上がらなかったかもしれません。定家が97番歌を撰んだのは定家の意図あってのことでしょうが、色々に取れる。でも逆に定家の意図は案外単純だったのかもしれませんよ。

       →97番歌を撰んだ理由を述べる定家の手記でも見つかると面白いんでしょうがねぇ。

  5. 百合局 のコメント:

    松風有情さん、定家の絵、百人一首談話室の描き納めにふさわしいですね。
    長らく楽しませていただき、ありがとうございました。
    これからも画道に精進されますように!

    定家に関しては、その性格云々は横において、ただ感謝あるのみです。
    和歌、日記、源氏物語他の古典の書写、等々、後世の人々がいかに恩恵を受けたか、計り知れないものがあります。
    書体は力強く、個性的で、美術館などでの展示を見ても区別がつきやすいです。(故に、祐筆、子孫、それ以外の贋物もあるようですが・・)

    97番歌は、定家にとって自信作であったようです。
    安東次男氏は次のように誉めています。(金村の長歌は百々爺のコメントを参照)
     一読、想の大半を金村の歌から借りて序詞とし、来ぬ人を待って思いこがれているというだけの歌のようだが、金村の歌は、海を渡る手立てもなくただうろうろとしている男の恋情を詠んでいる。それを承けて、「こぬ人を(男)」待っている女の相聞に仕立てているところに、まず工夫がある。待つから松帆の浦を引出し、それにふさわしい景は夕凪であろうと見究め、さらに「焼くや藻塩の」と語順を転位したところも、定家一流の優艶を添える手立てである。 ~ 万葉の歌を本歌に取って、それを優艶有心の体に作り替えた歌人は定家の右に出た者がいない。

    謡曲『定家』にある「偽りのなき世なりけり神無月誰がまことより時雨れ初めけん」は、続後拾遺、冬、定家の歌「偽りのなき世なりせば神無月誰がまことより時雨れ初めけん」からきています。 この歌を種にして謡曲をつくったり、時雨亭もこれより出ています。
    謡曲『定家』にある「あはれ知れ 霜より霜に朽ち果てて 世々にふりにし やまあゐの 袖の涙の身の昔」は、拾遺愚草、定家の歌「あはれ知れ霜より霜に朽ち果てて世々に古りぬる山藍の袖」を使っています。 昇官しない官人の思いを詠ったものを、永年の思いの浅くないことに転用しています。
    謡曲『定家』にある「難くとも恋ふとも逢はん道やなき君葛城の峰の雲と」は、拾遺愚草、定家の歌「難くとも恋ふとも逢はん道やなき君葛城の峰の白雲」をそのまま使っています。
    謡曲『玉葛』にある「年も経ぬ祈る契りや初瀬山尾の上の鐘のよそにのみ」は、新古今、冬、定家の歌「年もへぬ祈る契りは初瀬山をのへの鐘のよその夕暮」からきています。
    謡曲『船橋』にある「所は同じ名の 佐野のわたりの夕暮に 袖うち払ひて お通りあるか」は、新古今、冬、定家の歌「駒とめて袖打ち払ふ蔭もなし佐野の渡りの雪の夕暮」からきています。
    謡曲『阿古屋松』にある「時雨れ行く四方の山並み時雨れ行く 梢の秋を尋ねん」は、千載集、秋下、定家の歌「しぐれゆく四方の梢の色よりも秋はゆふべの変るなりけり」からきています。
    謡曲『鉢木』にある「駒留めて袖うち払ふ蔭もなし佐野のわたりの雪の夕暮れ」は、新古今、冬、定家の歌「駒とめて袖打ち払ふ蔭もなし佐野の渡りの雪の夕暮」からきています。
    謡曲『遊行柳』にある「いづくにか今宵は宿をかりごろもひもいふぐれになりにけり」は、新古今、羈旅、定家の歌「いづくにか今宵は宿をかりごろもひもゆふぐれの嶺の嵐に」からきています。
    謡曲『姥捨』にある「明けばまた秋の半ばも過ぎぬべし今宵の月の惜しきのみかは」は、新勅撰集、秋上、定家の歌「明けばまた秋のなかばも過ぎぬべしかたぶく月の惜しきのみかは」を変型して用いています。

    • 百々爺 のコメント:

      ・ホント、定家には感謝感謝です。世界に誇る日本の文化遺産である源氏物語も定家なくせば今のような形で伝わっていたか分からない。源氏物語が作られて定家まで200年経っている。原本も幾度かの写本を経て混乱してたのでしょう。それをまとめあげた。あの長い物語をキチンと整理するにはすごいエネルギーを必要としたはず。きっと源氏物語が好きで好きでたまらなかったのでしょう。
       
       →後鳥羽院との確執による心の傷も好きな源氏物語の整理作業に没頭することで癒されたのだろうと(勝手に)思っています。

      ・「来ぬ人(男)」
       もう金輪際来ないと分かっている男なら待つことはない。なかなか来てくれないけど絶対来ないとは言い切れない、ひょっとすると今夜あたりひょっこり現れるかもしれない。そんな男を待ってる女の心を詠んだ歌。百人一首には多いですよね。「来ぬ男」に「待つ女」この図式あまり好きではありません。

       →現代世相なら「来ぬ男」には「押しかける女」がお似合いかも。

      ・さすが定家、謡曲にはいっぱい取られているのですね。晩年は連歌も手掛けていた定家。謡曲作者へと繋がっていく系図なんでしょうね。

  6. 浜寺八麻呂 のコメント:

    3月21日より約10日間、孫家族がいる海外に滞在しています。
    3月27日の投稿は、休もうと思ったのですが、ちょうど97番”定家”に当たっています。爺や仲間の皆さんと2年に亘り百人一首を読み解いてきて定家にコメントしないのは、なしかと思い、爺に掲載をお願いしました。

    *先ずは、十人もの天皇の時代に生きた百人一首歌人は、定家のみかと思います。
     定家自身1162-1241年の生涯で79(80?)歳と長生きであった一方、乱世で武家の世界への移行期、このため天皇たちの在位期間も短いが、それでも十人とは凄い。爺も定家暦を解説してくれようが、小生なりに、どんな時代だったか、高校日本史Bより抜粋、整理してみた。宗教的にも浄土宗・臨済宗が始まる大変革期であった。

    【天皇の在位期間】         
     二条天皇 1158-1165 7年間 
            1159平治の乱                
     六条天皇 1165-1168 3年間
            1167 平清盛 太政大臣
     高倉天皇 1168-1180 12年間
            1175 法然 専修念仏
     安徳天皇1180-1185 5年間
            1180 福原遷都
            1183 平家都落ち
     後鳥羽天皇1183-1198 15年間
            1185 平家滅亡
     土御門天皇 1198-1210 12年間
            1191 臨済宗
            1192 頼朝 征夷大将軍
     順徳天皇 1210-1221 11年間
            1219 実朝暗殺
     仲恭天皇 1221-1221 1年間
            1221 承久の乱
     後堀河天皇 1221-1232 11年間
            1226 藤原頼経将軍
     四条天皇1232-1242 10年間

    *定家の歌の評価には、後鳥羽院のものが有名。
     89番式子内親王の歌を後鳥羽院が”もみもみ”と評していたが、ここでも”もみもみ”と出てきており、まーそうなんだろうとは思うが、凡人にはついていけない。

    千人万首より、
    定家は、さうなき物なり。さしも殊勝なりし父の詠をだにもあさあさと思ひたりし上は、まして餘人の哥、沙汰にも及ばず。やさしくもみもみとあるやうに見ゆる姿、まことにありがたく見ゆ。道に達したるさまなど、殊勝なりき。哥見知りたるけしき、ゆゆしげなりき。ただし引汲の心になりぬれば、鹿をもて馬とせしがごとし。傍若無人、ことわりも過ぎたりき。他人の詞を聞くに及ばす。(中略)
     惣じて彼の卿が哥の姿、殊勝の物なれども、人のまねぶべきものにはあらず。心あるやうなるをば庶幾せず。ただ、詞姿の艶にやさしきを本躰とする間、その骨(こつ)すぐれざらん初心の者まねばば、正躰なき事になりぬべし。定家は生得の上手にてこそ、心何となけれども、うつくしくいひつづけたれば、殊勝の物にてあれ
    」(『後鳥羽院御口伝』)。

    *定家の歌は、本歌取りをしたり、漢詩文をふまえたりと難しものが多いが、
    それらはさておき、小生が解りやすく、好きでいいなと思った(直感・情緒的に)歌を千人万首より

    守覚法親王家五十首歌に
     大空は梅のにほひにかすみつつ曇りもはてぬ春の夜の月(新古40)
     
     ここでは風が吹いているが、その風を表現しないため、にほい・かすみ・月光の重なり合う、濃厚な空間が出現いているとは、渡部泰明先生に評

    守覚法親王の五十首歌に
     霜まよふ空にしをれし雁がねの帰るつばさに春雨ぞ降る(新古63)

    名所の歌たてまつりける時
     秋とだに吹きあへぬ風に色かはる生田の杜の露の下草(続後撰248)

    西行法師すすめて、百首歌よませ侍りけるに
     見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮(新古363)
      三夕の歌

    *そして、定家の歴史的評価も、これまた大議論となっている。
    小生にとっては、定家の歌は、些か難解すぎ、評価などとてもであるが。

    WIKIより
    石田吉貞『藤原定家の研究』の序文には次のようにある。

    「藤原定家については古来毀誉さまざまであり、すでに在世中から、「後鳥羽院御口伝」のように骨をさすばかりの痛烈な批判の書があるかと思えば、

    「源家長日記」のように一代の詩宗と認めたものもあるという風であった。が死後になると、中世ではほとんど神のごとく崇められ、歌道においては勿論、連歌をはじめ能楽や茶道においても、その芸術論のごとき、神託のように取扱われ、多くの偽書まで出るという有様であった。随ってその筆になるものは断簡零墨も至宝として尊重され、ためにその筆写にかかる本は、いわゆる定家本となって、現在に至るまで多くの古典の伝本中王座を占めて来ているのである。近世に至ると、中世的権威破壊の機運に逢って、定家の勢威も昔日の観は無くなったけれど、それでもまだ人麻呂・貫之と並ぶ大歌人として取扱われることに変わりはなかった。ところが明治に入ると、定家は古典文学の世界における偶像の代表のごとくに見られ、常軌を逸したとおもわれるほどのはげしい破壊排撃を受けた。その作品はとるにたらない技巧過飾のものとしてしりぞけられ、その歌学書はほとんどすべてが偽書として葬られるに至ったのである。

    (中略)しかし大正の中頃から昭和の初めにかけて、この廃墟の中から一つ一つ真実なものを拾いあげて、定家を築き直そうとする動きが現れて来た。

    (中略)(佐佐木信綱、小島吉雄、風巻景次郎、池田亀鑑らによって)それぞれ大きな開拓がなされ、その和歌作品に対しても、しだいに正しい見方を回復しようとする努力がなされるようになり、定家の人間像歌人像はようやく復元されようとするに至った。偉大なもの真にすぐれたものは、決して破壊されたままで消えてしまうものではない。定家像の復元に当たって示された多くの学徒のたゆまざる情熱を見て、私は深い感激に打たれざるを得なかった」。

    戦後から平成にかけドナルド・キーンや三島由紀夫、小西甚一、谷山茂、塚本邦雄や丸谷才一、堀田善衛ら多くの作家や研究者が定家を積極的に評価してきた。中世から近世にかけて定家を称え、また尊崇を示した多くの芸術家・文学者の中には正徹、心敬、宗祇、今川貞世、京極為兼、世阿弥、金春禅竹、細川幽斎、松永貞徳、小堀遠州、霊元天皇、松尾芭蕉、本居宣長などがいる。

    *最後に、春の夜の夢の浮橋とだえして峯にわかるる横雲の空
     この本歌は
     風吹けば峰にわかるる白雲の絶えてつれなき君が心か
                (壬生忠峯 古今集 恋二)

     渡部泰明先生はNHK”和歌文学の世界 定家”の講義にて、この歌と源氏物語の関連を解説している。先生の解説は、より深く広く詳しいものだが、小生流にこれを簡素化し解釈すると、
     この歌の”夢の浮橋”は、源氏物語の最終巻”夢の浮橋”を想起させるものであり、この巻の名の由来となった歌が

     世の中は夢のわたりの浮橋かうち渡りつつ物をこそ思へ

    という出典不明の古歌、これが同じ源氏物語の”薄雲”巻(10)で、”夢のわたりの浮橋”と引歌されていると。これにより、定家歌の上句の”夢の浮橋”と下句の”雲”が源氏物語を”薄雲”を介して繋がると。ここまで理解が及ぶ人はほとんどいないであろうが、定家がいかに源氏物語を深く研究していたかを示しつつ、本歌取りを踏まえ、源氏物語をも連想しつつ、歌を詠んだと締めくくっておられる。もみもみであるが、小生が、定家の歌は難しいと思うのも、むべならん

    • 百々爺 のコメント:

      八麻呂どの、今ごろは常夏の地でお孫さんと楽しい時をお過しでしょうか。事前にいただいたコメント載せさせてもらいました。随分勉強されてますね。圧倒されています。

      ・定家の生涯80年間に天皇は十人でしたか。平均8年ということですね。即位年令の平均とってみると6.7才でした。7才で即位して15才で退位。藤原摂関政治全盛時でもこんなことはなかったでしょう。正に異常な時代だったことがよく分かります。

       →この十人の内後鳥羽天皇だけは例外。
       →後鳥羽天皇は4才で即位して19才で譲位しているがそれからが長い。承久の乱で隠岐に配流されるまで23年間、専制上皇として君臨し続けた。

      ・後鳥羽院口伝の定家評、すごいですね。この歌人評論集は隠岐で書かれたとのこと。さすれば果たして正常な精神状態の下でなされた人物評か疑問に感じます。
       →まあこの後鳥羽院評を以て定家を悪く決めつける人はいないでしょうが。。

      ・石田吉貞『藤原定家の研究』 紹介ありがとうございます。
       定家の評価歴、面白いですね。これぞ正しく定家こそが和歌王道を極めた家元だったという証しでしょう。良くも悪くも五七五七七日本歌道の盛衰の歴史は定家に帰属する。これってすごい勲章だと思います。

       →定家も鼻が高いと思いますよ。

      ・「夢のわたりの浮橋」
       薄雲10.の部分読み返してみました。大堰までは出てきたがそこで姫君と別れざるを得なかった明石の君。その明石の君を気遣いつつ帰途につく源氏が口遊んだ古歌。
       
       →「男女の仲ははかない逢瀬を重ねながら悩みが絶えないものだ」という意味らしいが、この部分が最終帖「夢の浮橋」に繋がるってのはちょっと違うような気がしています。

       →明石入道・明石の君の抱く「夢」と浮舟の抱く「夢」とは性質が違うでしょうよ。
       

  7. 源智平朝臣 のコメント:

    例によって、「藤原定家」をググってみると、何と31万以上の検索可能記事があると分かりました。さすがに「百人一首の生みの親」で、和歌史のカリスマとか巨魁とか呼ばれる人物ですね。歌人としての彼の評価した記事も山ほど掲載されていますが、その内、我が郷土の国学者である「本居宣長」と智平が成程と思った「萩原朔太郎」の評価を紹介したいと思います。
    1)本居宣長による評価(というより絶賛)
    (定家は)ことに歌も父よりもなをすぐれて、他人の及ばぬ処をよみいでたまふゆへに、天下こぞってあふぐ事ならびなし、まことに古今独歩の人にて、末代まで此道の師範とあふぐもことわり也【宣長全集2-65】
    2)萩原朔太郎による評価
    定家は正に構成主義の典型的歌人であり、万葉集の自然発生的歌人と対蹠的のコントラストを示している。すべて「詩」という観念は、定家に於いては正に「構成されるもの」であって、美学意識の原則と理論によって、科学のごとく純数理的に「技術されるもの」であった。即ち一言にして言えば定家の態度は、美学によってポエジイを構成するところの純技巧主義であったのだ【戀愛名歌集】

    定家は和歌以外にも興味を持ち、活躍もしていたので、その一端を紹介します。
    1)定家はすぐれた古典文学研究者でもあり、「源氏物語」、「伊勢物語」、「土佐日記」、「更科日記」など多くの古典の書写や校注を行っています。後世の古典研究は大いに定家よる研究の恩恵を受けており、彼がいなければ様子が違ったであろうとまで言われています。
    2)定家は物語作家としても活躍しようしていたようで、「松浦宮(まつらのみや)物語」は彼の作とされています。その他にも作品があるようですが、無名草子は「(定家の作品は)ただ気色ばかりにて、むげにまことなきものどのにはべるなるべし」と極めて厳しい評価をしています。
    3)彼の日記「明月記」は知られているだけでも55年間分あり、貴重な歴史資料になっています。その中には、しばしば天文現象も記されており、松風有情さんから紹介があった1204年の「赤気(せっき)」と呼ばれるオーロラ現象はその一つです。他にも、陰陽師の安倍泰俊から聞いた話として1006年のおおかみ座の超新星爆発、1054年のかに星雲の超新星爆発などの記録されており、その記録が世界的にシェアされて、現代の天文学の最先端分野の研究にも役立っているようです。
    なお、松風有情さんの百人一首絵は今回で描き納めとのことですので、この機会に、これまで素晴らしい絵を楽しませて頂いたことに対して心からの御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。いつか松風有情展にお伺いできる日を楽しみにしています。

    百々爺が解説しているように、明月記には、定家は病弱体質で病気のデパートと言えるくらい様々な病に悩み苦しんだ様子も記されています。晩年は糖尿病や老眼に苦みましたが、それでも執筆や書写を続けたというのには頭が下がります。そして80歳で逝去しました。彼の墓は京都上京区の相国寺にありますが、その墓の隣は200年後に亡くなった室町8代将軍足利義政、さらにその横には600年後に亡くなった絵師伊藤若冲(遺髪)が眠っているようです。不思議な取り合わせですね。

    最後に、とても妖艶な定家の歌を紹介して結びとします。「源氏物語」の玉鬘を思う光源氏の心にも通う趣もあるとの解説がありましたが、如何でしょうか。
    かきやりしその黒髪のすぢごとにうち臥すほどは面影ぞたつ(新古今和歌集)

    • 百々爺 のコメント:

      色々と調べていただき多彩なコメントありがとうございます。

      ・萩原朔太郎による評価、興味深いですね。
       美学意識の原則と理論なんてさっぱり分かりませんが、「技術されるもの」と聞いてピンときました。「エンジニアリング」、理科系のセンスと言う訳ですね。源氏物語はリケジョである紫式部の作品だと常々思っているのですが、それで定家と紫式部が繋がっているんだなと納得した思いです。

       →「じゃあオマエ、定家の歌のどこにエンジニアリングがあるんだ」なんて詰問されても困りますけどね。

      ・そうですか、定家は物語も書いていたのですか。でも評価はそれほどでもなかった。そうなんでしょうね。おそらく源氏物語を意識して張り切って書いたのでしょうが、どっこいそうはいかなかったのでしょう。

       →本居宣長に源氏物語の欠落部分(源氏と六条御息所との馴れ初め)を補った「手枕」という創作があるのですが、評価はボロクソのようです。

      ・明月記の叙述が現代の天文学の最先端分野の研究に役立ってるのですか。そりゃあ定家卿もびっくりでしょうね。明月記を読んでおらず単なる想像ですが、やはり長きに亘ってキチンと真面目に(&理系の頭を持って)日常見聞を記録し続ければその記録は専門的に見る人が見れば貴重な記録なのでしょう(理系の頭だからある日の気象現象も過去幾度かの類似現象と比較分析して記録されてるんでしょうね)

      かきやりしその黒髪のすぢごとにうち臥すほどは面影ぞたつ
       これは完全に「玉鬘を思う光源氏の心」を意識してますね。
       物語中源氏が玉鬘の髪に手をやって寄り添うシーンは二ヶ所あり、
        一つは「蛍9」有名な物語論の部分
        一つは「篝火2」琴を枕に添い臥す場面

        →何れも髪を愛撫はするもののそれ以上の行動には出ないという妖しい雰囲気の場面でした。定家が気になって気になって仕方なかった場面なのでしょう。

  8. 枇杷の実 のコメント:

     来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ
    この歌の「凪」(夕なぎで無風状態)は後鳥羽院が隠岐で詠んだ歌「我こそは新島守よおきの海のあらき波風心して吹け」の「あらき波風」、そして隠岐から京に向かって吹くあなしの風(北西風)よ静まれという願いを込めたものであり、「身もこがれつつ」は式子内親王を恋ふ定家自身の心をあらわしている。「来ぬひと」とは隠岐に流された後鳥羽院であり、また、定家に先立ってはかなくなった式子内親王であろう。(織田庄吉)
    定家は生涯の中でもっとも心に痕跡を残した高貴な男女二人_後鳥羽院と式子内親王_を想う自身の心を匿すため、鎮魂の願いをこめて古今の歌百首を撰び、時代順の配列によって偽装し、洛西嵯峨野山荘の一室にその色紙を貼りめぐらせて心の平安を求めようとした。

    定家は承久2年(1220)、59歳の時に詠んだ歌二首により後鳥羽院の勅勘を受けることになる。その二首とは順徳天皇の内裏歌会に詠進したもので
     さやかにもみるべき山はかすみつつ我が身の外も春の夜の月 (春山月)
     道のべの野原の柳したもえぬあはれ嘆きの煙くらべに (野外柳)
    山はかすんで月も朧だが、私は疎外されて春の夜の外、野原の柳にも芽は出てきた、わが胸中の嘆きと競い合うかのように。
    堀田善衛(定家明月記私抄)によると、この二首、とりわけ野外柳「道のべの」の歌で後鳥羽院の怒り、歌人としての活動停止命令を受ける。この現実の事件には、過去にもう一つの事件を含んでおり、それは院の勅命を受けて検非違使長が突然お忍びで定家の屋敷にやって来て、柳二本を掘り起こして持って行ったという事件。院の宮殿である高陽院の柳が枯れたから徴発したものだが、定家は後鳥羽院の専横に激怒したと明月記に記す。
    あはれ嘆きの煙くらべに-特にこの「煙くらべ」という言葉が、燃える思いの強さを比較することであってみれば、それは直ちに源氏物語柏木の中の「立ち添いて消えやしなまし憂きことを思ひ乱るる煙くらべに」の一首を思い起こさせ、柳が芽生えて来るのを見るにつけ、あの時の恨みが一層に、と解される。後鳥羽院としてもすでに忘れていた7年前の柳掠取事件を間歇泉のように一気に思い出すことに。かつ、この歌の本歌は「道のべの朽ち木の柳春来ればあはれ昔としのばれずする」、「夕されば野にも山にも立つ煙嘆きよりこそ燃えまさりけれ」。菅原道真の作になるもので、道真配流は朝廷にあって「禁忌」となっており、定家は自分の位階昇進の遅いことを道真に例えるとは何事か!と怒りが吹き上げて来たとしても不思議はないと堀田善衛は書いている。
    平安文化の最後に大輪の花を咲かせ、その終焉を見とどけた藤原定家。パトロンであり最大のライバルでもあった後鳥羽院はこの翌年の承久の乱で隠岐に配流となる。百人一首の最後に後鳥羽院とその皇子順徳院の作品を置いたのは、自分の才能を認めて庇護してくれた父子へのせめてもの恩返しだったということか。

    • 百々爺 のコメント:

      ・定家の歌の謎解きは織田正吉「絢爛たる暗号」の一番力の入ってる部分ですよね。97番歌には後鳥羽院と式子内親王が詠み込まれている。いいじゃないですか。
       →謎解きの正否はともかくとして、定家にとって後鳥羽院と式子内親王は特別な二人であったことは間違いないでしょう。

      道のべの野原の柳したもえぬあはれ嘆きの煙くらべに
       堀田善衛の解説紹介ありがとうございます。
       「煙くらべ」、そうです、源氏にいびられ死の床につくに至った柏木が最後の力を振り絞り女三の宮と歌を贈答する。その時の「キーワード」が「煙くらべ」でした。

      (柏木2)
      柏木 今はとて燃えむ煙もむすぼほれ絶えぬ思ひのなほや残らむ
      女三の宮 立ちそひて消えやしなまし憂きことを思ひ乱るる煙くらべに
      柏木 行く方なき空の煙となりぬとも思ふあたりを立ちは離れじ

       →特に女三の宮歌の「煙くらべ」は世人の絶賛を浴びたようです。
       →当然定家もこの場面は繰り返し読んだことでしょう。「あはれ衛門督!」 

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