【本文は「百人一首 全訳注」(有吉保 講談社学術文庫)による】
1.秋の田のかりほの庵のとまをあらみわがころもでは露にぬれつゝ
【訳詩は「百人一首」(大岡信 講談社文庫)より転載】
訳詩: 稲が実った田のかたすみ
番をするため仮小屋をたてて私は泊る
屋根を葺いた苫は即製 目はあらい
隙間から洩れ落ちる露に
濡れそぼつ袖は 乾くまもない
作者:天智天皇(626-671)46才 38代天皇 父は舒明天皇
出典:後撰集 秋中302
詞書:「題しらず」
原歌:万葉集 読人しらず
秋田刈る仮蘆を作り我が居れば衣手寒く露ぞ置きにける
さて1番歌から気ままなコメント始めます。よろしくお願いします。
①何故天智天皇のこの田舎くさい歌が王朝文化讃歌集たる百人一首の栄えある冒頭を飾るのか。それこそ定家の確信に基づくものでしょう。
・天智は平安王朝では(平安貴族にとっては)特別な天皇(平安王朝の祖先)であった。
・歌の内容もさることながら天智詠と言うことが重要。
・歌の解釈は二の次、何とでもなる。
→爺は農民の労苦を思いやり豊作を祈る聖帝の地道で真摯な歌、、と感じています。
②さてその天智(中大兄皇子)、大王(まだ天皇ではない)・豪族が入り乱れる世の中を天皇を頂点とする中央集権律令国家にするべく第一歩を踏み出した強力なリーダーであった。
天智天皇
645 @19 大化の改新(乙巳の変) 蘇我氏(入鹿・蝦夷)を討伐
→白昼宮中、母皇極天皇の御前で入鹿を斬殺。歴史が動いた瞬間である。
663 @37 白村江で敗れる(唐が本土に迫るかも、日本国存亡の危機であった)
667 @41 飛鳥から近江(大津)へ遷都 翌年即位(@42)
→大津にある近江神社で毎年カルタ大会が開かれる。
671 @46 没 ここから壬申の乱へと続く
天智天皇の業績(大化の改新)
・全国的戸籍の作成(庚午年籍)統一的租税制度のため
・法治(律令)国家へ向け近江令制定
・唐、新羅の侵攻に備え軍事制度を作る
・国史編纂を企図(完成は奈良朝になってから)
・漏刻(水時計)をつくる
→日本の国づくりが天智により大きく動き出したと言えるのではないか。
③乙巳の変(クーデター)で組んだ中臣鎌足(後藤原姓に)が藤原家の祖先。
→定家を始め藤原貴族にとっては天智天皇+中臣鎌足が尊敬すべき大祖先
→百人一首が乙巳の変から始まるのも納得である。
④さて、歌としての感想、どうしましょうかね。
・労働歌なのであろうがどうにも田舎くさい歌である。
→田が出てくるのは他に71番歌(夕されば)
・源氏物語の優美な世界からは一番遠い歌であろうか。
→源氏物語には田んぼ描写はなかったと思います。
田んぼ、農夫はマイナスイメージで出でくる。
袖ぬるるこひぢとかつは知りながら下り立つ田子のみづからぞうき
(六条御息所 @葵)
→源氏との恋が行き詰まり苦しみを源氏に訴えた贈歌。
→物語中第一の歌とも目される(細流抄)
・「とまをあらみ」 ~~~を~~~~み
この言い方百人一首では3首、他の2首は、
48番 風をいたみ~
77番 瀬を早み~
→この古語形式は俳句には使えないんでしょうかね。
第一首、固くなってしまいました。反省です。もっと柔らかくしないとね。。
私の中での最も古くて強烈な印象は天智天皇(中大兄皇子)
大化の改新とか壬申の乱とかではなく中大兄皇子と書いて(なかのおうえのおうじ)と読ませる。
これを(ちゅうだいきょうおうじ)と読んだクラスメイトがいたこと。
これは面白い、試験に出たら(ちゅうだいきょうおうじ)の文字を当てれば良い。
そして年号の645年(虫殺し)の語呂あわせ。
これが私の中学時代の歴史認識。
内容はどうでも良かった、笑っちゃいますね。
藤原姓を持つ人には先祖は鎌足?と密かに思ったりします。
さてその天智天皇のお歌
百人一首筆頭の歌が天皇であるのはもっともでそれらしいですが歌の内容はえっ!!と言う感じ。
華やかな天皇らしい雲の上とかではなく「秋の田のかりほの庵のとまをあらみ」
私の父が詠んでもおかしくない農民の歌としか思えません。
でもいくつかの物の本の解釈を読めばああ、そうかなるほどと思わせます。
農民を思いやる歌と思えば嬉しいし素朴でいいなとも思います。
追記
漫画「ちはやふる」5巻まで読みました。だんだん面白くなってきました。
絵も楽しみながら読んでいるのでゆっくりです。
なせ毎年大津にある近江神社でかるた会が行われるのかも解りました。
1.そうですね、天智は死後のおくり名ですから生前は専ら「なかのおおえ」と呼ばれていたのですもんね。ちょっと呼びにくい。大兄でなく中大兄ですからね。皇位継承第二番目と目されていたのでしょうか(一番目は古人大兄か?)。いきなりのクーデター、のさばっては次は標的にされる、、。皇位を辞退して慎重に事を進めた。権謀術数の人だったのでしょうね。
2.645年 虫殺し。「入鹿って虫なんだ」なんて思ったものでした。
天智帝と藤原鎌足 & 持統帝と藤原不比等 この不動のコンビが日本を作っていったのですね。藤原姓は偉大です。佐藤も伊藤も加藤も藤原ですもんね。一方滅ぼされた蘇我氏はその後石川姓になっていく。石川さんと聞いたら蘇我氏末裔なんだなと思えばいいのですかね。
3.1番「秋の田の」15番「君がため」は下の句が「わが衣手」までいっしょ。15番と50番は上句が「君がため」まで同じ。この3首はカルタ取りでややこしいのでしょうね。
1番 秋の田のかりほの庵のとまをあらみわがころもでは露にぬれつゝ
15番 君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ
50番 君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな
二宮尊徳は別の解釈をしています。
「人々の一生の業果の応報→悪事が絶えないのは、天皇である私の政治が至らない為、と涙で袖を濡らしている」二宮翁夜話
コメントありがとうございます。
なるほど、道徳の塊りみたいなお方らしい解釈ですね。
二宮尊徳と言うと百姓の大将のようなイメージですがその二宮翁が公家文化の権化みたいな百人一首をキチンと読み人々に講釈していたというのが素晴らしいと思いました。
一番歌だけの何度も諳んじるといい歌に思えてきた。
承久の変に失敗した後鳥羽院の歌で閉める為、乙巳の変を成功させた天智天皇をむりやり最初に据えた。先祖への尊崇をこめた定家バランス感覚からと推測されている。
本当は農繁期に昼夜を通して刈入れをする農民をみて、地方の役人が憐み、詠んだものと思う。 飽きたのか小屋で番する獣追い
おっ、ありがたい。川柳に挑戦していただけるのですね。きっといい記念になると思いますよ。よろしくお願いします。
「飽きたのか、、」ちょっと難解ですね。猟師が猟に飽きたので小屋で休んでいる?違うのでしょうね。
天智天皇はむりやり最初に据えたのではなく先ず天智があっての百人一首ではないでしょうか。
飽きたのか・・は語呂合わせ。
大切に育てた稲穂が獣類(猪、猿、烏か)に荒らされない様に見張り番をしていた。昼間の農作業にうんざりし、クタクタの体に夜露が・・。
書き出しから「てにをは」にミスがありました。以後注意します。
分かりました。川柳ってのも難しいものですね。
その内慣れてくるかも。その調子でドンドン書き込んでください。
なお、誤字脱字その他修正点あれば追加で書いてください。すぐ修正しますので。
定家がこの歌を最初にもってきたのは天智顕彰の現れでしょうか。
天皇がたまたま刈穂の庵(小屋)に旅の宿りをされた時の歌とでも解釈したいです。
天皇家が血族で争い殺し合った飛鳥朝廷の時代の和歌に平安王朝の優美、優雅を求めるのは無理でしょうね。
飛鳥以前の日本の農民の楽しみは何だったのでしょう? やはり歌、踊り、音曲、祭りでしょうか。
歌垣から生まれた相聞歌が芸として高められ、抒情的な恋歌として発展し、舞踊、音曲などは今も各地の郷土芸能としてその片鱗が残っているように思います。
古代の日本の村々には芸能があり、村の芸能として発達し、宴席の芸能となり、宮廷でもおこなわれるようになったようです。
古事記、日本書紀には応神天皇の時代に朝貢芸能の記事が集中しています。
蟹舞、鹿舞、国栖の舞、隼人舞などがあります。これは和楽でしょう。
唐楽の一つの伎楽も飛鳥時代に伝わり、寺院の法会や宮中の舞楽会などで和楽と一緒におこなわれたようです。仮面のいくつかは今も正倉院や東大寺に伝わっているのでご覧になったかたもあるでしょう。
天智天皇の歌から直接になにかの芸能に結び付けることはできませんが、この時代以前から存在した芸能が現代まで脈々と続いていることは喜ばしいかぎりです。
飛鳥・奈良時代もそうでしょうが平安王朝においても日本経済(産業)のかなめは稲作、秋の実りであったのだと思います。農民が一生懸命稲作に励み天候にも恵まれて稲がたわわに実る。それこそ天皇はじめ統治者も人民も皆願ったことでしょう。神を祀り五穀豊穣を願う、神に仕える最高位の人として天皇が位置づけられていったのだと思います。
そして忙しい田植えの後の束の間の休み&豊作・刈り入れの後の休みにはお楽しみとしておっしゃるように歌、踊り、音曲、祭りが行われたのでしょう。ほんに一年に数日だけ。残りは汗水たらしての農作業、、、。一年中お祭りみたいな享楽の時代には想像もつきませんね。
お楽しみとしての芸能も村から始まり宮廷でも行われるようになったのですね。納得です。
『秋の田の 案山子の下で
お~い お茶!』
好きな川柳
『お~い お茶! お茶が呼ばれて
来るものか!』
も紹介しますね。
なるほど、忙しい刈り入れ作業中一息入れてる光景ですかね。
これが松風流の川柳なんでしょうか。。
何故天智天皇のこの田舎くさい歌が王朝文化讃歌集たる百人一首の栄えある冒頭を飾るのか?
多寡秀なりに考えてみましたがどうにもなりません。「百人一首の作者たち」(目崎徳衛著)に、以下の解釈が紹介されています。丸谷才一氏は「あの派手な恋歌の多い「百人一首」を、単に農民の労苦をしのぶだけの地味な歌で、定家が果たして始めるだろうか」と問い、秋田の仮小屋で農衣が夜霧に濡れるという意味と重ねてもう一つの意味、すなわち「上の句を序歌として扱ふ、「「仮の小屋で番をしている農民の袖のように、私の袖は泪に濡れているーあなたに飽きられてしまって」」という閨怨の歌の層、恋歌の層があるに違いない」と説いています。これなら源氏物語の優美な世界に近い歌になりますね。。
百々爺曰く「歌の解釈は二の次、何とでもなる。天智詠と言うことが重要」は言いえて妙。
丸谷才一氏の解釈の紹介ありがとうございます。私は読んだ時「そりゃあちょっと無理だろう」と思ったのですが。秋の田だの農民だのが出て来ると男女の素朴な出会いとか大らかな語らいとかを連想するのは自然でしょうが王朝風の複雑な恋模様はいかがなもんでしょうかね。
衣手=袖ということですが、源氏物語では「袖が濡れる」=涙をこぼして泣くという表現は数限りなく出て来ますが「衣手が濡れる」という言い方は記憶にありません。
多分私には「天智天皇と光源氏は根本的に違う。相容れない」との先入観があるのだと思います。
この歌、小学生の頃から「なんか変だなぁ」と思っていました。立派な台(当時は畳と知らなかった)の上に座った天皇が稲刈りの苦労の歌?と。後にどうもこれは万葉集の詠み人知らずから拝借したものらしいと聞いて納得したものです(賀茂真淵がこれは天皇御製ではないと断定しているようですね)。もちろん、定家もそのあたりは承知のうえで後撰集から選んだのでしょうが、もう少しいい歌はなかったのかと思います。日本の国の形を作り、数々の立派な業績を残した人、冷静で理知的なひと(権謀術数のひと?)ではありますが、和歌はあまり上手くなかった? 晩年に大海人皇子と大友皇子との壬申の乱の原因を作ったあたりはやはり人の子でしょうか(このあたり里中満智子「天上の虹」からの受け売り)。それにしても定家はどうしてこの歌を……?
えっ、小学生の頃から? ませてましたね。まあ爺もその頃麻雀やり始めてましたがね。。
天智天皇の歌で勅撰集に入っているのは4首、一つが後撰集「秋の田の」。二つ目は新古今集に入れられた「朝倉や木の丸殿に我がをれば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ」。残り2首は百人一首選定後の勅撰集なので対象にならない。。。。とすると天智から百人一首を始めようと決めていた定家にとって選択肢は二つ。その中から「秋の田の」を採ったということでしょうか。
→「朝倉や」よりは「秋の田の」の方が数段いいでしょう。
そもそも天智詠だの御製だの言っても怪しいものでしょう。花山天皇・後鳥羽天皇といった歌人を自負する天皇は別でしょうが、、、。けっこうゴーストライター・ゴーストエディターがいたのではないですかね。
→世の中その方が丸くおさまるとすればそれでいいのでしょう。
朝倉と聞けば雄略の万葉集巻頭との関連がすぐに頭が浮かびます。朝倉は雄略の宮があったところです。おまけに、その巻頭は、
名告る、即ち求婚の歌ですが、似た歌を選ぶのは勿論避けたかったのでしょう。
そうだ、この朝倉は泊瀬朝倉でしたか。土地鑑がないのでピンと来ませんでした。さすがです。
万葉集の一丁目一番地ですもんね。「名のり」とあったので宮中宿直番交替のときの「名対面」かと思ってました。名前を聞く=求婚、名前を答える=応諾でしたね。そうするとこの天智の「朝倉や」も違った感じになるのかもしれません。
二宮尊徳の解釈です。
秋の田の刈穂の → 人々の一生の業果の行く末(は悲劇的だ)
庵の → 国の
苫をあらみ →(天皇である私の)政治があらくて(人々に)行き届かない為だ
我が衣では露に濡れつつ → 私の衣では涙で濡れている
百々爺の解説のとおり、天智天皇は「天皇を頂点とする中央集権律令国家」という日本の国の形を示し、その構想に沿って国造りを始めた最初の天皇です。正に、百人一首のトップバッターに相応しい人物であると思います。贈り名に過ぎないけど、名前に「智」が入っているので、源智平朝臣としては親しみも感じます。
天智天皇の構想は弟の天武天皇に引き継がれ、娘で天武天皇の妻であった持統天皇(後に太上天皇)でほぼ完成しました。「天上の虹」の漫画に影響されたせいかもしれませんが、私見では、歴代125天皇の内で、この3人の天皇が日本の最高指導者として前向きの仕事を最も熱心におやりになった天皇であると思います。平安時代の醍醐・村上天皇等の親政といっても所詮は藤原氏の掌の中での政治みたいだし、明治天皇の親政も薩長出身者の輔弼があって始めて可能だったのでしょうから。
こうした国造りという仕事の業績に加えて、天智天皇は平安王朝の祖先であり、藤原家の祖先である鎌足の同志・戦友であったことを考え合わすと、百人一首の冒頭を飾るのは天智天皇以外にはないような気もします。となると、百々爺の言うとおり、歌の内容より天智詠と言うことが重要なのでしょうね。
でも、小生は歌の内容も悪くないと考えます。日本は「瑞穂の国」であり、建国の理想とか熱意を謳い上げた天智詠の歌が残っていない中では、瑞穂の国の国造りを始めた天皇が詠む歌としては、恋の歌より、農民の労苦を思いやる歌の方が相応しいと思うからです。
(追記)我が家のどこかにあった筈と思っていた百人一首かるたを、昨日、二箱も発見しました。その内の一箱は、何とかつて「幻のかるた」と言われていた尾形光琳作の「光琳かるた」の復刻版でした。製作は京都・大石天狗堂、裏貼り純金箔で、昭和49年に小学館が1,400部限定で発行したものです。我が家のかるた箱には手書きで第904番と書いてありました。このかるたは小生の家内の母親が嫁入り道具(?)として家内に買い与えたものですが、家内は百人一首をやらないので「猫に小判」、直ちに小生のものになりました。と言っても、このかるたは芸術品でカルタ取りに使うものではないですね。いつか皆で集まる時(多分5/23)に、数枚持参しますので、ご鑑賞ください。
智平朝臣殿、さすがにいいもの(いい北の方)持っていますねえ。
感謝しないといけませんよ。
ぜひ、絵柄の特に美しいものを少し見せてくださいな。
紛失しないように注意して取り扱ってくださいね。
楽しみにしています。
源智平朝臣殿の「幻のかるた」是非拝見したいものです。
本当は箱ごと見せていただきたい気分ですが貴重なものが紛失するといけませんものね。
それに比べれば月とすっぽんですが我が家のボロかるたも数枚持参しましょう。
以前一枚ずつ絵柄を見た時(畳の縁の区別など)に輪ゴムで絡めてありますので。
天皇7人と親王1人、女帝、内親王各1枚、小野小町、清少納言、紫式部計13枚です。
あれから間違いや新たな発見もありましたので・・・またその折にでも。
1.天智(&天武・持統)天皇の位置づけについて要領よくまとめていただきました。歴代最高点をつけられて父娘・兄弟・夫婦はお喜びのことでしょう。
以後日本は中国のように王朝の交替は一切なく万世一系の朝廷の権威の下で臣下(藤原氏・平氏・鎌倉・室町・豊臣・徳川)が権力をもって国を統治するという図式が出来上がったのですから。この政治統治システムは世界に類のないものじゃないでしょうか。
「秋の田の」歌の内容もいいですか。そうですね、そうやって積極的に評価する方が気持ちいいですもんね。
2.えっ、「光琳かるた」の復刻版、裏貼り純金箔! そんなお宝が出てきたのですか。すごいですね。談話室で百人一首のこと話する機会がなければおそらく日の目を見ることなく箪笥の中で眠り続けていたのかも。そりゃ活用しないと勿体ない。実物も見せていただきたいですが、100枚全て談話室で写真公開してもらうのはどうでしょう(やり方については相談させていただくとして)。是非ご検討ください。
→そう言えば大石天狗堂製の「源氏歌かるた」、道しるべで使わせてもらうと言いながら桐壷だけヘッダーに載せてあとはサボってしまい反省してます。これ大事に預ってます。
「光琳かるた」の写真公開ですか。百々爺の要請とあらば協力は惜しみませんが、ネットを見ると、既に光琳かるたの写真を掲載しているページが散見されますよ。例えば、大石天狗堂のHPには光琳かるたの一部が掲載されています。(http://www.tengudo.jp/korin/)。
「模写光琳かるた」と題するページには、小林鳥園という書道家が「光琳かるた」全部を模写した写真が掲載されています(「模写光琳かるた」で検索してください)。この写真は模写の写真なので、復刻版と絵や色合いが多少違っています。その他、「光琳かるた」の画像検索結果をまとめたページもあります。
本件でちょっと気になるのは著作権侵害で訴えられて、百々爺や小生が臭い飯を食うことにならないかということ。1,2枚なら問題にならないと思うけど、百枚x2=2百枚全部だと、事前に小学館や大石天狗堂に確認を取る方が安全であると思います。
万事了解です。大石天狗堂のHP見ました。正に鳴物入りの商品であることよく分かりました。感じはつかめましたので後は実物を少し見せていただくことにして談話室への持ち込みは慎んでおきましょう。危うきに近寄らずで。。
「光琳かるた」チェックしていたら下記ページがありました。大きく100枚X2 全てアップされてます。これが「光琳かるた」ということでいいのでしょうか。それならこのページ参照させてもらうことにしたいと思います。
「獺祭書屋 – 光琳かるた」http://dassai2.p2.weblife.me/p5/scrap0169.html
さすが光琳かるた。
読み札、取り札とも素晴らしい絵です。
色使い、特にそれぞれ百人の顔の表情が生き生き描かれていて素晴らしかったです。
源智平朝臣殿、まさしく貴重なお宝をお持ちで羨ましいです。
徳川美術館では光琳かるた28万円ぐらいしていましたよ。
二宮尊徳 夜話(下)
秋の田の刈穂の庵の苫をあらみ我が衣では露に濡れつつ
(解釈)
人々の人生の応報は悲劇的結果で絶えることがない。これは、国家を司る天皇である私の政治が(苫が粗くて雨露が凌げないように)人々に行き届かない為だ。粗い苫から雨露が滴るように、私の衣では涙に濡れている。