58番 紫式部の娘 大弐三位 いでそよ人を忘れやはする

紫式部の一人娘大弐三位です。年代的には当然一世代若く小式部内侍と同年の999年(推定)生まれ。相模が一つ上の998年(推定)生まれです。母と娘を並べたのかもしれませんがこの順番はよく分かりませんね。

58.有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする

訳詩:     私があなたに「否」などと申したでしょうか
        有馬山 猪名のささ原 風吹きわたれば
        ささ原はそよぎ それよそれよと頷きます
        なんであなたを忘れたりするものでしょうか

作者:大弐三位=藤原賢子 生没年未詳 紫式部の娘 父は藤原宣孝 中宮彰子女房の一人
出典:後拾遺集 恋二709
詞書:「離れ離れなる男の、おぼつかなくなど言ひたるに詠める」

(以下大弐三位では呼びにくいので「賢子」と呼ぶことにします)
①父藤原宣孝 母紫式部 生没年は999-1082推定 享年84才=すごい長寿
 →女性の長寿は珍しい(有名女性も死没年が不詳なので長寿もいるかもしれないが)
 父宣孝は3才ころ死亡、祖父為時邸で母紫式部に育てられる。
・1017 19才で母に次ぎ中宮彰子に出仕(重代女房)
 →彰子も紫式部の娘ということで可愛がったのであろう。

・出仕中、権門の貴公子たちと浮名をながす。
 藤原頼宗= 道長の次男
 64藤原定頼= 公任の息子 
 源朝任= 大納言源時中の息子(といってもよく知らないが)
 →賢子自身明るく開放的で魅力的な女性だったのだろうが、「あの紫式部の娘なんだぜ、、」ってことで寄ってくる男も多かったのであろう。

・最初の夫は道兼(道長の兄)の次男兼隆(権門だが道長には楯突けず随従)
 この時一女を儲け、タイミングが合って親仁親王(後の後冷泉帝)の乳母に抜擢される。親仁親王の父は御朱雀天皇(彰子の第二子敦良親王)
 →紫式部・賢子、二代に亘り彰子の子・孫に貢献している。因縁であろうか。
 →後に後冷泉帝即位の時、典侍に任ぜられ乳母の功績で従三位を贈られている。

 乳母の役割は極めて大きい。授乳は勿論、躾け・教育も。正に親代わりである。
 (乳母兄弟は身分を越えて固い絆で結ばれる。源氏物語では源氏と惟光、夕顔と右近が乳母兄弟姉妹であった)

・最初の夫兼隆とはいつしか離婚
 →何故だろう。お互い心が通じ合わなくなったのか。離婚は普通のことだったようだが。
 →源氏物語でも雲居雁の母が頭中と離婚して他の男と再婚したとあった。

・次の夫が高階成章(990-1058)賢子37才くらいの時
 →高階家の登場 成章の祖父敏忠と中宮定子の祖父(高階貴子の父)成忠が兄弟
 高階成章、典型的な受領階級だが処世術に富んでいたのか太宰大弐、正三位となる。
 →賢子が大宰府まで付いて行ったとは思われないが。
 成章は蓄財に長けてたようで「欲大弐」と呼ばれる。
 →特にあくどいことした様子もないが、、。まあやっかみの類なんだろう。

②歌人としての賢子
・勅撰集に37首 宮廷高級女房として歌合せにも多数出詠 私家集大弐三位集

・賢子の歌、58番歌以外全く知りませんでした。千人万首より3首ほど、
 待たぬ夜も待つ夜も聞きつほととぎす花橘のにほふあたりは(後拾遺集)
 →ほととぎす、花橘と来れば花散里 でも賢子には凡そ花散里的要素は見られない。
 つらからむ方こそあらめ君ならで誰にか見せむ白菊の花(後拾遺集)
 →かれがれなる男への誘いの歌。相手は定頼。58番歌の逆の立場の歌、面白い。
 梅の花なににほふらむ見る人の色をも香をも忘れぬる世に(新古今集)
 →彰子の出家を惜しんで。

③58番歌 有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする
・かれがれなる男が心変わりを問うのに対し「そんなことありま(有馬)せん、否(猪名)です」と軽くいなした歌。

・笹原のサラサラ、「いでそよ」(あらまあ、なんで!)
 サラッとしてる。恋が命、、なんて悲愴さが感じられない。恋に対する余裕であろうか。

・有馬山と猪名はセット。文屋どののご近所。ご当地ソングですねぇ。
 有馬温泉、日本三大古湯だとか(他は道後温泉、紀伊白浜温泉)
 →有馬稲子、思春期の頃憧れてました。日経への暴露告白にはびっくりしましたが。

・有馬山を詠んだ万葉集の歌
 しなが鳥猪名野をくれば有馬山夕霧たちぬ宿はなくして(万葉集)
  息長鳥=かいつぶり

・定家の派生歌
 もろともにゐなの笹原みち絶えてただ吹く風の音に聞けとや(藤原定家)

・58番歌は後で出てくる60番歌(小式部内侍)と構造が全く同じとの指摘もあった。
 
  58番 有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする
  60番 大江山生野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立
  →なるほどよく似ている。やはり二世歌人同士だからだろうか。

④源氏物語との関連、紫式部との関連
・上坂信男「百人一首・耽美の空間」では花宴における源氏と朧月夜とのめぐり逢いの場面に57番歌、58番歌を連動させているが今ひとつよく分からない。
 
 花宴2 源氏と朧月夜の契りの場面の歌の贈答、正体を知りたい源氏、ためらう朧月夜
 朧月夜 うき身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問はじとや思ふ

 源氏  いづれぞと露のやどりをわかむまに小篠が原に風もこそ吹け
     →笹原の風が出てくる。扇を取り替えて別れる二人

・源氏物語には二人の重要な幼い女の子が登場する。若紫(紫の上)と明石の姫君である。この描写が素晴らしいのは紫式部が賢子を生み育てた経験があったからだろうと言われている。

 二人の登場場面から、
 若紫4 紫の上が初めて読者の前に登場する。これぞ名場面!
  中に、十ばかりやあらむと見えて、白き衣、山吹などの萎えたる着て走り来たる女子、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生ひ先見えてうつくしげなる容貌なり。髪は扇をひろげたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。

 薄雲6 大堰の別れ 明石の君は断腸の思いで姫君を二条院の紫の上に託す
  姫君は、何心もなく、御車に乗らむことを急ぎたまふ。片言の、声はいとうつくしうて、袖をとらへて、「乗りたまへ」と引くもいみじうおぼえて、
  (明石の君)末遠き二葉の松にひきわかれいつか木高きかげをみるべき
  えも言ひやらずいみじう泣けば、さりや、あな苦しと思して

  (源氏)「生ひそめし根もふかければ武隈の松に小松の千代をならべん
  のどかにを」と慰めたまふ。

・紫式部と賢子、母と娘、性格や行動力など好対照である。
  母は夫と死に別れ再婚せず源氏物語と宮仕えに終始する。
  娘は結婚、乳母仕え、離婚、再婚と前向きに長寿を全うする。

・宇治十帖は大弐三位の作であるとする説もあるようだが(与謝野晶子など)、
 →学問的なことは分からないが源氏物語・宇治十帖と読んだ感覚から言うとそれはあり得ないでしょう。宇治十帖は源氏物語と密接に繋がっており源氏物語を隅々まで知ってないと書けない。単に筋的に辻褄を合わせるだけでも大変だが源氏物語の心を引き継いでその続編を宇治に展開するのは同一人でないと無理でしょう。

 →それと宇治十帖はこれでもかというほどしつこく長い。とてつもないエネルギーと時間がかかったと思われる。ずっとキャリアウーマンで忙しかった賢子にはとてもそのような時間はなかったでしょう。

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20 Responses to 58番 紫式部の娘 大弐三位 いでそよ人を忘れやはする

  1. 小町姐 のコメント:

    言わずと知れた紫式部の娘、賢子
    母子共に彰子に仕える、さすがは紫式部、娘の教育はばっちりです。
    母と違って次々貴公子と恋をする所は父親似なのか?
    それとも母より美人だったりして・・・
    母譲りの聡明さは後に後冷泉天皇の乳母としての勤めを果たし三位迄出世、両親の優性遺伝子を受け継いだかに見える。
    母以上のキャリアウーマンでもある。

       有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする
    さてこの歌、地名(有馬山、猪名)が二つも詠まれている。
    有馬山の有、猪名の否
    何かの拍子に思い出してご機嫌伺的に様子を尋ねる男。
    女は貴女の事を忘れたわけではありませんよ、忘れるわけがないでしょ、と軽くいなしている。
    「いでそよ人を忘れやはする」と印象深く結ばれていて先の「笹原風吹けば」との繋がりもリズミカルで良い。
    重々しくなく軽やかに詠まれて現代感覚的、さらに覚えやすい歌である
    私も百々爺さん同様、58番以外の歌は知らないが母、紫式部とは対照的な性格であったように思える。
    挙げていただいた三首の和歌、いずれも母に劣らず女性的で良い歌だと思う。
    そう言えば58番、60番、娘同士の歌を並べると歌の組み立てがよく似ていることに気づかされます。

    さて源氏物語に登場の二人の幼女、忘れようにも忘れられません。
    それこそ「忘れやはする」ですね。
    若紫の初々しさ、明石の姫君の無邪気さ、健気さ、愛おしさ、涙なしには読めません。
    母なればこその紫式部の心情の発露、これ以上の表現はないくらい読者も感動の場面でした。
    「源氏物語」宇治十帖を含めて全編紫式部の作だと私は信じます。

    ゴルフ旅行「百人一首」を忘れて思い切り楽しんでください。

    • 百々爺 のコメント:

      コメント遅れてすみません。雨と風のゴルフ終えて書斎に復帰しました。

      ・賢子のキャリアにおいて母紫式部の存在はとても大きかったと思います。母の後に入った彰子後宮では紫式部の娘ということで彰子には可愛がられ、当然貴公子たちがひっきりなしにアタックをかけてくる。正に親の七光りを存分に活かし、ある面では親を反面教師として愛想よく快活に振舞った文字通り賢いウーマンだったのでしょう。

       →母より美人だったかも、、、そうですねぇ、母は空蝉+花散里みたいな人だったでしょうから。玉鬘とまではいかなくても明石の君くらいの器量良しだったのでしょうか。

      ・若紫と明石の姫君、よく描けていたと思います。
       明石の姫君を引き取り紫の上に託した源氏が大堰の明石の君を訪ねようとする場面、幼い姫君に紫の上が自らの乳首を含ませる。子のない紫の上の切なさ、実母と離れ離れになった姫君、、、涙を誘うシーンでした。

       何ごととも聞き分けで戯れ歩きたまふ人を、上はうつくしと見たまへば、をちかた人のめざましさもこよなく思しゆるされにたり。いかに思ひおこすらむ、我にていみじう恋しかりぬべきさまをよとうちまもりつつ、ふところに入れて、うつくしげなる御乳をくくめたまひつつ戯れゐたまへる御さま、見どころ多かり。御前なる人々は、「などか同じくは」「いでや」など語らひあへり。(薄雲9)

       →「いでや」=いや、もう、、、何たることお可哀そうに、、、紫の上お付きの女房たちのつぶやきにも「いでや」が使われています。

  2. 浜寺八麻呂 のコメント:

    爺も書いてくれていますが、この歌、歌枕を並べ 有馬(あり)と猪名(いな 否)との対句になっているとは、知りませんでした。リズミカルでポップ調の響きがあり、耳に心地よい歌です。

    田辺聖子の小倉百人一首に出てくる熊八中年が言うとおり、賢子は貴公子たちとしっかり多くの恋をし、権勢の中心にいた藤原兼隆の子供も生んで後の後冷泉天皇の乳母と成り典侍にまで立身出世、36-7歳の高齢で大金持ちの高階成章と結婚、身を固める、理想的な生き方をした当時のキャリアウーマンであろう。恋が少なかった幸薄げだった母紫式部にはほとんど似ず、父藤原宣孝に似たようである。

    丁度先週にて、皆さんお勧めの杉本苑子さんの”散華 紫式部の生涯”を読み終えたので、このあたりに出てくる女性歌人たちが身近に感じられ、時代背景もはっきりわかってきたようで、面白いです。

    この”散華”を読むと、摂関政治の血なまぐささ、貴族政治の金権政治、女性の社会的地位、庶民の貧困、疫病などもわかりやすく書いてあり(小説としてですが)、源氏物語を読む人は、セットでこの本も読むべきと感じました。
    源氏物語を読み始めるに当たり、当時の歴史を高校日本史や揺れ動く貴族社会などで勉強しましたが、それはそれですごくよかったですが、”散華”は歴史書以上に時代を説明してくれているとおもったしだい(光源氏も物語が歴史書以上に時代を表すとか言っていましたね)。
    とはいえ、”散華”では、紫式部が何故、どのような背景を抱え源氏物語を構想し、書いたのかは、小生にはいまいち突っ込み不足に感じられましたが(違っていてもいいからもう少し思い切った仮説を立ててほしかったとの思いですが)、でもよくかけた小説であることには間違いありません。

    最後に、小生も千人百首より、好きな歌を2首

    いとどしく春の心の空なるに また花の香をみにぞしめつる (新勅撰44)

    吹く風ぞ思へばつらき桜花 心とちれる春しなければ (後拾遣143)

    • 百々爺 のコメント:

      ・都で華々しい政界夫人の後、地方の大金持ちの夫と再婚、ジャクリーン夫人みたいですね。私には欲三位などと揶揄された夫を持って賢子が幸せだったかちょっと疑問なんですが。。
       →成章がどのようにして大金持ちになったのかなど悪い逸話は見当たらないので単なるやっかみだと思いますが、そんな噂の男と暮らしたくないような気がします。

      ・”散華 紫式部の生涯” 楽しまれたようでよかったですね。
       当時の背景や情況を理解するのに格好の本だったと思います。一条朝の主だった人が多数登場し大鏡・栄花物語・今昔物語等に出てくるそれぞれの逸話が満載されている。面白くためになる本だったと思います。

      ・紫式部の少女時代の友だちが筑紫に赴くって件がありましたかね。紫式部&賢子にとっても大宰府・筑紫はなじみがあったのだと思います。式部の夫宣孝は太宰少弐だったし、父為時も筑紫にいたことがあったようです。こんなことから玉鬘物語の始点を九州においたのじゃないでしょうか。

      ・確かに散華では源氏物語の執筆動機があまり明らかじゃありませんね。物語好きな少女が何となく物語を書き始めたみたいな感じでしたね。一条帝に彰子の所へ来ていただくために道長が書かせたというのが一般的に言われていますが本当のところは散華にあるように何となく始めたのかもしれません。それでいいんじゃないでしょうか。

      【散華、お勧め本に挙げておきましょうか】
      「散華 紫式部の生涯」上下 杉本苑子 中央公論・中公文庫

  3. 百合局 のコメント:

    まずこの歌に対する安東次男評から。
    「そよ吹く風に頼りない男(そよ人)のイメージを重ね、さらに「いでそよ」(さあそのことですよ)と問答ふうにたたみこんで掛けているところが心にくい。機知に富んだ歌であるが、軽快なしらべにのせた女の情感もよく伝わってきて、これは佳い歌である。」 私もこの軽さがいいなと思います。

    後冷泉天皇の母は上東門院の末の妹嬉子であるが、産後5日で亡くなられたため、乳母の越後の弁(大弐三位・賢子)を、ことに親しく思われたようです。
    「栄花物語」では、後冷泉院の性格が温雅で、人への思いはかりが優しくめでたかったのは「 ~ をかしき御時なり。弁の乳母をかしうおはする人にて、おほしたて習はし申したまへりけるにや。」と評し、乳母の教育がよかったとしています。

    『栄花物語』のなかの上東門院の住吉詣での盛儀の帰途の部分に「~ 日うち暮るる程に歌よませ給ふ。」とあって、数名の詠んだ歌の中に弁の乳母の歌があります。
      芦わけて今日は茲にも暮さばやうち過ぎがたき三島江の波
      まつ見れば帰らん方も忘られてまことなりけり住吉の岸

    謡曲『忠度』にある「~ 泊りもはてぬ旅の慣らひ 憂き身はいつも交りの 塵のうき世の芥川 猪名の小篠を分け過ぎて」は、この58番歌「有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする」からきています。

    最後に賢子の歌の中で私の心に一番残った歌をあげます。

      遥かなるもろこしまでもゆくものは秋のねざめの心なりけり

      

    • 百々爺 のコメント:

      ・「軽快なしらべの佳い歌」その通りだと思います。
       誰にでも口当たりのよいさっぱりサラダみたいな感じでしょうか。

      ・親仁親王=後冷泉天皇の母嬉子は出産直後に亡くなられたのですか(麻疹だったとか)。それは道長-彰子中宮にとっては大ショックだったでしょうね。そうなるともう乳母こそが実母みたいなもの、親仁親王にとって賢子はなくてはならない人だったと思います。栄花物語でも褒められている、つくづく偉い人だったのですね。

      ・上東門院の住吉詣でですか。源氏が明石の女御に皇子誕生を受けて願ほどきに明石一族(明石の尼君・明石の君・明石の女御)ともども住吉大社に詣でたのを思い出します。皆が寿ぎの歌を唱和する中、随従した紫の上の微妙な心持ちが哀れでした。

       住の江の松に夜ぶかくおく霜は神のかけたる木綿鬘かも(紫の上 若菜下10)

  4. 文屋多寡秀 のコメント:

    春ですねえ、春を寿ぐ歌はたくさんありますよねえ。キャンディーズの「春一番」、芹洋子の「四季の歌」。他にもいっぱいそれぞれお気に入りがありますよね。

    御当地、宝塚では云わずと知れた「すみれの花咲く頃」。これは皆様ご承知のメロディーの前段にやや難しい部分(メロディー)が並んでいます。

     はるすみれ 咲き はるを告げる
     はるなにゆえ ひとなれを待つ
     たのしくなやましきはるのゆめ
     あまきこい ひとのこころ酔わすそはなれ
     すみれさくはる

    とね。でもこんな所は飛ばして好きなところだけ思いっきり歌いましょう。

    そうそう、今日は58番歌でしたね。
     
     有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする

    百々爺ご紹介の通り、多寡秀の住む宝塚近辺が今回の歌の背景となっております。
    有馬山と猪名はセットで、有りと否を掛けているとか。

    有馬山から猪名の笹原に風が吹くと、ええそうよ、そうなのよ、貴方という人を忘れるでしょうか、忘れはしないわと、反語になっている。
    笹原に吹く風が心のざわめきをほのめかし、「そうよ、そうよ」と相槌を誘い出しており、ポイントは反語の部分の力強さ、思いの深さにこそある、とのこと。

    まあ行ってみればバレンタインデーのチョコレートみたいな歌。女心について深くも取れるし軽くも取れるし・・・・。大弐三位の歌は語調の良さが目立ちますが、状況を考えますと、内容的にも思いのほか巧みな歌かもしれません。その気がありそうで、なさそうで、ウッフン・・・・。歌は男女の交際の重要なツールだったのでしょうね。当時はね。(今週も引き続き阿刀田調で)。

    • 百々爺 のコメント:

      ・「すみれの花咲く頃」、ホント春らしい心ウキウキする歌だと思います。女の花園、宝塚にピッタリ合ってて軽やかな気分になります。これは女性の澄み通ったきれいな声で歌わないと似合いません。残念ながら爺の千曲に入っていない所以であります。どうぞご当地ソング大切にしてください。

      ・バレンタインのチョコレートですか、意味深ですね。爺は未だかつて明らかな義理チョコしか縁がないのでよくは分かりませんが、ちょっと微妙なチョコを複数の女性からもらったりすると悩むんでしょうね。そう言えばコメントいただいた日はホワイトデイでしたね。爺は悩むことなく義理はお返ししておきました。

  5. 小町姐 のコメント:

    毎週火曜の中日新聞、小林一彦(京都産業大教授)「王朝の歌人たち」が掲載される。
    これは百人一首の作者には限らない。
    今日の歌人は大弐三位でした。
    後冷泉天皇(親仁親王)の乳母をつとめた事は百々爺さんの解説にもあった通り。
    生後二日目に実母を喪った親王から慕われ全幅の信頼を寄せられたと言う。
    大弐三位、里にいで侍りにけるをきこしめして
    彼女が里に帰ったことを耳にした皇太子時代の親仁親王から歌を贈られる
       待つ人は心ゆくとも住吉の里にとのみは思はざらなむ(新古今集)
    大弐三位の返歌
       住よしの松はまつとも思ほえで君が千歳の蔭ぞ恋しき(同)
    親王から帰京を促されその返事を祝歌で応じ巧みの技が光る。
    後代、歌を返す手本として称揚されたと言う。(以上、小林一彦氏)

    先年私たちが京都へ記念旅行をした時に訪れた亀山公園には大弐三位の58番の歌碑があるそうです。
    あの時は周恩来の記念碑を探していて気付かなかったようです。

    • 百々爺 のコメント:

      ・中日新聞、なかなかいい連載やってますね。単行本になったら読んでみたいです。

      ・親王にとって乳母賢子は「おかあさん」そのものだったのでしょう。里下がりした賢子に早くもどって来てほしいと願う親王の気持ち、よく分かります。賢子の里って住吉?って思いましたがまさかね。住吉と言えば松(待つ)と言うことなんでしょうね。ナイス贈歌・ナイス返歌だと思います。

      ・貴人にとって乳母は重要。明石の君の出産を聞き源氏は由緒ある女性(宣旨の娘)を乳母に選びただちに明石に派遣する。何と言っても明石の君は所詮田舎受領の娘、この宣旨の娘が明石の姫君の養育係として以後ずっと付き添うことになる。なかなか色っぽい女性だったようで源氏との別れの件が興味深い。

       人のさま若やかにをかしければ、御覧じ放たれず。「とかく戯れたまひて、「取り返しつべき心地こそすれ。いかに」とのたまふにつけても、げに同じうは御身近うも仕うまつり馴ればうき身も慰みなましと見たてまつる。
       (源氏)「かねてより隔てぬなかとならはねど別れは惜しきものにぞありける
        慕いひやせまし」とのたまへば、うち笑ひて、
       (宣旨の娘)うちつけの別れを惜しむかごとにて思はむ方に慕ひやせぬ
       馴れて聞こゆるをいたしと思す
      。(澪標5)

      ・亀山公園、思い出しますねぇ。蒋介石の記念碑なんて言ってた人もいましたっけ。

      • 小町姐 のコメント:

        一部省略しましたが「住吉の里」は住み良い里を賭けた言葉。
        親王
        そなたを待っていた夫は心が満ち足りていることだろう、でも住み良い里だからと長居はしないで欲しい、今度は私が待っているのだから・・・
        大弐三位
        あの名高い住吉の松でさえ松とも思えません。これから千歳の齢を保たれる若々しいわが君、その恩寵にくらべれば私もお側が恋しくてなりません。
        まるで恋人どうしの贈答歌にもとれますね。

        • 百々爺 のコメント:

          歌の解説ありがとうございます。よく分かりました。ホント恋人か夫婦かと思いますね。

          里下がり、普段は宮中にあっても病気・出産・その他忌み事があったりすると実家に戻らなければならない。宮中の天皇は寂しがり早く戻って来てほしいと何度も督促の使いを出す。よくありましたね。

           桐壷の更衣の病気、藤壷の出産: 桐壷帝
           朧月夜の病気: 朱雀帝
           
           史実として 定子中宮: 一条帝 

  6. 源智平朝臣 のコメント:

    昨日3/14はなごみ会ゴルフコンペが開催され、冷たい雨が降り続く悲惨な天気の下、百々爺を含む高校時代の仲間9人でゴルフをやってきました。厳しい天気に加えて、サミット・ゴルフクラブの沢山のバンカーとやたらと大きいグリーンに苦しめられ、智平を初めとする大方の仲間が大崩れする中、百々爺一人が90台を記録して正々堂々の優勝を飾りました。何はともあれ、「あっぱれ!おめでとう!」です。他方で、智平は心身ともに疲労困憊し、今日はコメントを投稿する気力もない状況です。でも、明日はいろいろと予定が入っていて忙しいので、眠い目をこすりながら、頑張ってネットを調べ、そこで見つけた大弐三位と源氏物語の関係を2つ紹介して、お許しをいただくことにしました。

    最初は、大弐三位の2番目の夫「高階成章」は彼女の名前にも使われたように「太宰大弐」(大宰府の次官)でした。太宰大弐と言えば、「源氏物語」の「蓬生」の巻には、太宰大弐の妻となった末摘花のおばが描かれています。そして、もとは皇族の出身らしい人が、落ちぶれているのは目も当てられないと、紫式部はこのおばを貶した書き方をしています。奇しくもその太宰大弐の妻になった賢子は、それをどう感じていたでしょうか。

    次は、夕顔の遺児で、「源氏物語」の「玉鬘十帖」のヒロイン、「玉鬘」。彼女は夕顔の死後、4歳で乳母一家に伴われて都を離れましたが、乳母の夫が太宰少弐であったため、その行先は筑紫の大宰府。その夫の死後も、乳母は玉鬘を「自分の孫」ということにして、玉鬘を筑紫で育てました。即ち、玉鬘にとっては、筑紫の大宰府は4歳から成人するまでの時代を過ごした懐かしい故郷なのです。

    最後に、58番歌は頭の良いキャリアウーマンが作った歌に相応しく、クールで美しい調べの歌であり、平安時代の宮中におけるラブゲーム(の一つの類型)はかくやあらんと想像させる歌でもあると思います。
    うろうろしている間に、明日となってしまいました。さっさと寝ます。おやすみなさい。

    • 百々爺 のコメント:

      ・いやあ、散々な天気でしたね。最初から最後まで雨の中でやったのって初めてかもしれません。遠来の参加者があったこともありますがみなさんよくぞやっていただいたと思います。お疲れさまでした。私の成績はラッキーショット、ラッキーパットの賜物です。特に7番の第3打は前日のイボミの18番第2打に匹敵するラッキーショットでした。まあいい思い出にしましょうよ。

      お疲れの中、源氏物語の2場面のピックアップありがとうございます。さすが目の付け所が素晴らしいと思います。
      ・「末摘花の叔母」源氏物語の悪役中で一番邪悪なのはこの人だと思います。弘徽殿大后も悪役ですが正面切っての対抗者ですからある意味カラッとしていますがこの叔母は性悪女でした。紫式部も顔をしかめながら書いたのでしょう。

       言うことを聞かない末摘花に対する叔母の捨てゼリフ
       「あな憎。心ひとつに思しあがるとも、さる藪原に年経たまふ人を、大将殿もやむごとなくしも思ひきこえたまはじ」など怨じうけひけり。(蓬生6)

       →この後源氏が月光仮面のごとく末摘花を助けに訪れるのでありました。

      ・玉鬘の九州編も面白かったです。玉鬘の乳母の夫が太宰少弐になったのでそれに伴って大宰府に行くというものでした。紫式部の夫宣孝も太宰少弐を務めています。色々とつながりを感じます。

       →肥後の豪族大夫監のいう威勢のいい無頼者が出て来たのも面白かったです。

       その田舎豪族が精一杯都ぶって詠んだ歌
       君にもし心たがはば松浦なる鏡の神をかけて誓はむ(玉鬘4) 

  7. 枇杷の実 のコメント:

    コメントが遅れてスイマセン。ついゴルフの練習が・・、なんてのはウソですが。
    藤原賢子は母、紫式部とはまったく違った人生を歩んでいる。
    若くして、一人ぼっちになり、宮廷女房として、自分の才能と若さだけを頼みに泳ぎ行かなければならない。(田辺聖子)
    若いころは朝廷では重宝に扱われ、貴公子と恋愛を楽しみ、身に着けた処世術を持って仕事の業績もあげて立身する。のちに大金持ちの高級官僚と結婚して身を固めた。
    これは宮廷生活に馴染まず、生き方に少し不器用さがあった母・紫式部とは正反対の生き方で、コメントに有る通り。賢子は気質や資質は父の宣孝似と云われる所以か。

    梅花にそへて大弐三位に遣わしける 権中納言定頼(#64)
     来ぬ人によそへて見つる梅の花 散りなむ後のなぐさめぞなき
    (通釈)花の香に、いつまで待っても来てくれない人を偲びながら、我が家の梅を眺 めていました。花が散ってしまったら、後はもう何も慰めがありません。
    返し 大弐三位
     春ごとに心をしむる花の枝に誰がなをざりの袖か触れつる
    (新古今 春歌上)
    (通釈)春が来るたび、あなたの家の梅の花を心待ちにしていました。その枝に、誰 が袖を触れてしまったのでしょう。私みたいに深い思い込みもなく、いい加減な気 持で…。
    「君に振られて俺は悲しいぞ」「浮気したくせに何言ってるの」といったやりとり。
    一流の和歌の腕前同志で、恋愛を楽しむ。つきあい宜しく歌を詠むが、それほど心がこもっている様にない。

     有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする
    この歌は結局「いでそよ人を忘れやはする」のところだけが云いたのだけれども、「そよ」を語を導き出すために、上の序詞を技巧たっぷりに配する。賢子が中年の頃の贈答歌で、離れ離れなる男とは高階成章と思うが。
    成章はそれまでの恋愛の相手に比べて地味だが、真剣な求愛にほだされたのか。真実はお金?朝廷では重宝に扱われ、歌合せに登場するなど、成章と結婚してからは幸福な後半生は送る。享年84歳で、母のほぼ二倍の長生きをした。

     京染と江戸染百へ月を詠み (柳多留・三三)
    京染は赤染で赤染衛門のこと、江戸染は紫で紫式部。紫式部の「雲隠れにし夜半の月影」(五七)と赤染衛門の「傾くまでの月を見しかな」(五九)、いずれも月を詠んでいる。この二首の間は「有馬山猪名の笹原」(五八)なので、
     両脇に月の出てゐる有馬山 (柳多留・六六)

    • 百々爺 のコメント:

      雨と風のゴルフ、お疲れさまでした。枇杷の実さんの協力を得て小学校以来の友だちと久しぶりに旧交を温めることができました。お付き合いありがとうございました。

      ・そうか、賢子は若くして一人ぼっちになったのですね。父宣孝は3才くらいの時に亡くなり母紫式部も14-5才の時に亡くなってしまう(推定)。そりゃあピンチだったでしょうね。でも紫式部はシングルマザー、いや未亡人となっても死ぬまでは賢子とともにいた。賢子は短い期間ながら母の愛情をたっぷり注がれて育ったのじゃないでしょうか。対するに60番(今予習中です)の小式部内侍は母和泉式部は存命だったが色恋沙汰の連続でろくに娘の面倒など見られなかったのかもしれません。紫式部にしっかり育てられた賢子は幸せだったと思います。

      ・そうですか、離れ離れなる男は成章ですか。そりゃあ最高、心も弾むというもんでしょう。だってもうお互い齢なんだし、「亭主元気で留守がいい」。まして大金持ちの亭主なら言うことなし。賢子が長生きした訳が分かった気がします。

      ・京染は赤染、すると末摘花でしょうか。それに江戸紫、こちらは桃屋の「ごはんですよ」。そして58番歌は両脇に月、これは1Q84ですかな。色々書いていただき面白いです。

  8. 昭和蝉丸 のコメント:

    58番。歌は、身勝手な男に対し、上品に穏やかに言い返している、
    所謂「お断りの歌」。リズミカルで明るいだけの御当地ソングですが、
    紫式部の娘というだけで談話室は大賑わい。
    賢子。親の七光りのHappyLady、晩年は不幸になるかと思えば
    そうでもなく・・、なんとなく「つまんない」ですね。

    それより、百々爺と小町姐さんの;
    “宇治十帖は大弐三位の作であるとする説もあるようだが・・/
    「源氏物語」宇治十帖を含めて全編紫式部の作だと信じます。” に注目。
    はみ出すような才能で小生などついていけない、今、旬の劇作家
    古川 日出男が去年発表し数々の玄人受けする賞を獲得した
    『女たち三百人の裏切りの書』。
     紫式部が100年後に亡霊として蘇り 「源氏物語は改竄された、
     宇治十帖の本当の読み方はこうだ」、とのたまうお話。
    所が、この本、小生のような浅薄な知識では読み切れず 
    途中で投げ出し埃をかぶっています。
    百々爺や小町姐さんなら読み切れると思いますので
    是非一読を!

    • 百々爺 のコメント:

      ホント親が有名だと子も何かとチヤホヤされる。昔も今も変わりませんねぇ。いや、メデイアが何事も隅から隅まで暴き出し喧伝する今の方が顕著かもしれません。

      『女たち三百人の裏切りの書』ご紹介ありがとうございます。この手のテーマはわんさとあるのですがこの本は面白そう。ということでずっと枕元に置いてあるのですが読み止しで私のも埃をかぶってます。宇治十帖の悲劇は「長すぎる」ことですがこの本の悲劇も「長すぎる」ことでしょうか。500頁ですからね。でもお勧め通り面白そう、その内時間かけて読んでみます(読んだら感想書きます)。

  9. 小町姐 のコメント:

    【余談23】 「ちはやふる」上の句
    見てきました。少女漫画の映画化。館内は母子連れ、孫連れのカップルが目立つ。
    競技かるたの世界にどっぷりつかってきました。
    毎年近江神宮で行われるクイーン戦のニュースで瞬間の映像しか見たことはない。
    我が家のかるた遊びとは全くの別世界。
    主人公、綾瀬千早が高校でかるた部を立ち上げるところから始まる。
    札の並べ方、取り方やルール、読手の読み方も勉強になりました。
    頻繁に登場する歌はやはり主人公、千早に因んで
     ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは(在原業平)
    ここでちょっと脱線させてください。
    【先日豊田市の松平郷(徳川家発祥の地)を訪ねた時この郷の開拓領主は後宇多天皇に仕えた公家の在原信盛(在原業平の子孫)という人物でその信盛の子、信繁の娘婿となったのが初代松平親氏で8代清康が岡崎に居城を移しそして9代広忠(家康の父)と続く。
    何が言いたいかと言えば在原家と徳川家は姻戚関係にあると言うことです】
    話は映画に戻ります。
    競技かるたを通じて青春、恋、友情、夢、てんこ盛り、詳しくはどうぞ劇場で・・・
    ちなみに私の好きなキャラは奏ちゃん。
    一番面白かったのはかるたの覚え方
     憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを
    「うっかりハゲ」と覚える、私も忘れません。うっかりハゲ取りたいです。
    我が孫が「田子の浦、富士の高嶺」と覚えるのも無理ない事かと改めて思いました。

    さて今日は時間配分がうまくいきハードスケジュール
    ちはやふる 10:05~
    エヴェレスト(神々の山嶺)12:15~
    幸せをつかむ歌 14:35~
    これだけ見ても5時までにちゃんと我が家に戻り夕御飯の支度もバッチリ!!
    今日は早く休みましょう。
    追記
    昭和蝉丸さん紹介の「女たち三百人の裏切りの書」
    図書館で検索しても蔵書がありません。百々爺さん読まれたら感想聞かせて下さい。

    • 百々爺 のコメント:

      いつもながら余談、ありがとうございます。そうです、談話室です。品のいい余談、大歓迎です。

      ・えっ、シネマのトリプルヘッダーですか。すごい!時間的にもゴルフのワンハーフ。若い時ならともかく、ちょっとシンドイんじゃないですか。でもやりなれてる小町姐さんのこと、楽勝なんでしょうね。

      ・「ちはやふる」面白そうですね。これは百人一首談話室主宰者としては必見。孫娘も今週には任期を終え帰ってくるので一足先に行って来ようと思っています。楽しみです。

      ・家康は清和源氏を名乗ってた。すると清和帝-藤原高子の子孫かも。一方、高子と業平も恋仲だった。なんかゴチャゴチャ繋がってるのかも。それに三河松平郷の在原信盛は業平が東下りの時、三河の八橋で「からごろも、、、」と詠いながら土地の女と契ってできた男の末裔かもしれませんね。

      ・「女たち三百人の裏切りの書」、了解です。読んでみます。
      (来週末自治会で源氏をやるので来週はずっと源氏の予習。「道しるべ」でおさらいするつもりです) 

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