さて70番台に入りました。69能因法師に続いての遁世者。「秋の夕暮」と言えば新古今集三夕の歌。「新古今集の幽寂の境地を先取りした歌人」と称される良暹法師。どんな人物だったのでしょう。
70.さびしさに宿をたち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮
訳詩: 夕暮
家にいても身にしみるさびしさ
おもてに出て見渡せば
どちらにも同じ
秋の色
作者:良暹法師 生没年・伝未詳 御朱雀、後冷泉朝期の歌僧
出典:後拾遺集 秋上333
詞書:「題しらず」
①良暹法師 猿丸や蝉丸じゃあるまいしこの時代で生没年・伝未詳じゃ困りますねぇ。
・参加した歌合の年代などから推定されている1000-1065としておきましょう。
→伊勢大輔・大弐三位の世代。能因法師より10年程年少。
・父不詳 これは困りますねぇ。エラかったのかエラくなかったのか。
母 「歌枕見てまいれ」の51実方の家の「白菊」という女童だったという伝承
→実方は998陸奥で没している。まさか実方のご落胤だったということはないでしょうね。
→でも何となく身分の高い貴族が召使クラスの女性に生ませた子をお寺に預けたケースという気がする(単に想像です)
・比叡山の僧(荒くれ僧のイメージ)であった。
祇園の別当(現八坂神社の管理者)だった。
→神仏習合の先取りみたいなものか。
・大原に隠棲し晩年は雲林院に住んだ。
大原 正に寂しい山里、良暹法師の歌の背景は大原の寂寥によるものだろうか。
【雲林院】
12僧正遍昭が興し子の21素性法師が継いだ天台宗の寺。
源氏も藤壷に出家され寂しさを癒すべく母桐壷更衣の兄が律師を務めていた雲林院を訪れている。
②歌人としての良暹法師 エピソード
・後拾遺集以下勅撰集に31首 私家集もあったらしいが残存していない。
→出自不明なれど大歌人。宮中の歌合にも出詠している。
「歌人として尊崇されていた」(田辺聖子)
・良暹は身分が低く歌も独学、我流だったようで古歌を知らなかったり勘違いしたりして嘲笑を買っている。
古今集にある「時鳥汝が鳴く」を「時鳥長鳴く」と勘違いして詠んだ歌
宿近くしばしながなけ時鳥今日のあやめの根にもくらべん(良暹)
古今集本歌 読む人しらず
時鳥ながなく里のあまたあればなほ疎まれぬ思ふものから
→そんな咎めるほどじゃないでしょう。洒落てて面白いでしょうに。
→でもホトトギスの長鳴きはさすがに常識はずれでしょうかね。
・良暹の歌から
.初めたる恋のこころをよめる
かすめては思ふ心を知るやとて春の空にもまかせつるかな(金葉集)
→恋をしたこともあったということでしょうか。
.雲林院のさくら見にまかりけるに、みなちりはてて、わづかに片枝にのこりて侍りければ
たづねつる花もわが身もおとろへて後の春ともえこそ契ちぎらね(新古今集)
→雲林院、晩年若かりしときを振り返って。仏道修行に励んでいたのでしょう。
ここから隠遁地大原での歌
.あれたる宿に月のもりて侍りけるをよめる
板間より月のもるをも見つるかな宿は荒らしてすむべかりけり(詞花集)
.大原に住みはじめけるころ、俊綱の朝臣のもとはいひつかはしける
大原やまだすみがまも習はねばわが宿のみぞけぶりたえたる
【橘俊綱】
この人が面白い。頼通の子即ち道長の孫として生まれるが頼通の正妻の嫉妬で母は俊綱を宿したまま頼通と離縁し橘俊遠の妻となった。よって橘姓を名乗る。勅撰歌人で管弦、造園にも造詣深かった。
.大原の庵の障子に書きつけていた歌
山里のかひもあるかな時鳥ことしも待たで初音聞きつる
→いい歌である。山里に住んだ甲斐があったというもの。
.藤原国房に宛て詠んだ歌
思ひやる心さへこそ寂しけれ大原山の秋の夕暮(後拾遺集)
→「秋の夕暮」である。
身分が低いだけに気軽に飄々とした感じ。教養教義には欠けていたきらいはあるがマイウエイを行くユニークさもあったようだ。
③70番歌 さびしさに宿をたち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮
・「題しらず」だがこれは隠遁地大原で詠んだ歌であろう。
秋は寂しくもの悲しい
幽玄の境地、墨絵のような心境の歌(白洲正子)
どこへ行ってもどんな人間環境にあっても秋はもの悲しいものである。
→百人一首には秋の歌が16首と圧倒的に多いが日本人の心に一番しっくりくる季節だからであろう。
・「秋の夕暮」は万葉集は勿論、三代集(古今・後撰・拾遺)にもない。
後拾遺集になって突然7首登場する。
良暹の70番歌こそ「秋の夕暮」の感覚を詠みこんだ草分けであろう。
「秋の夕暮」 やはり枕草子から流行になったのであろうか。
秋は夕暮。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三四、二三など、飛び急ぐさへ、あはれなり。まいて雁などのつらねたるが、いとちひさく見ゆるは、いとをかし。日入りはてて、風の音、虫の音など、はた、言ふべきにあらず。
→烏がねぐらへ急ぐ様子、秋のもの悲しさにマッチする。
【1929年秋の早慶戦 神宮球場 NHK松内アナ】
~~神宮球場どんよりした空 白雲垂れた空
塒へ帰る烏が一羽、二羽、三羽、四羽
戦雲いよいよ急を告げております~~
・「秋の夕暮」と来れば当然 新古今集 三夕の歌
寂しさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮(寂蓮法師)
心なき身にもあはれは知られけりしぎ立つ沢の秋の夕暮(西行法師)
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮(定家)
→三人とも百人一首歌人だが百人一首には入っていない。定家は最初に「秋の夕暮」を詠んだ良暹の70番歌と寂蓮からは別の歌を百人一首に撰んでいる。
87村雨の露もまだひぬ真木の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮(寂蓮法師)
・百人一首で「秋は寂し」と詠まれているのは他にもう一首
47八重葎しげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり(恵慶法師)
④源氏物語との関連
秋の物悲しさが語られている名場面を二つあげておきましょう。
・六条御息所との野宮の別れ(賢木2)
はるけき野辺を分け入りたまふよりいとものあはれなり。秋の花みなおとろへつつ、浅茅が原もかれがれなる虫の音に、松風すごく吹きあはせて。そここととも聞きわかれぬほどに、物の音ども絶え絶え聞こえたる、いと艶なり。
・自ら謫居した須磨の秋(須磨15)
須磨には、いとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の、関吹き越ゆると言ひけん浦波、夜々はげに近く聞こえて、またなくあはれなるものはかかる所の秋なりけり。
二人の法師が秋の風景を詠んだ歌ながら69番は錦絵の世界、70番は墨絵の世界。みなさんはどちらがお気に入りでしょう。
→69才の爺はまだ69番歌の方が好きかなと思います。70才になったら70番歌に変わるのかも。
土曜日の「とと姉ちゃん」の録画を今見たところです。
帝大生、星野との別れのシーン、泣けました。
風景の素晴らしさが切なさを余計に醸し出していていいなあ~と思いました。
このドラマなかなか考えていますね。
なにげなく漱石や三好達治が出て百人一首もあったりで特に土曜日の映像は心に余韻を残しました。録画消さないで時々見たいです。
さて良暹法師
さびしさに宿をたち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮
この歌からはいつも漂泊の歌人、若山牧水を思い出してしまいます。
いくやまかわ こえさりゆかば さびしさの果てなむ国ぞ今日もたびゆく
平安時代も半ばを過ぎると煩わしい都を離れ自然と共にわび住まいに暮らす生活に憧れを抱く人々が目立つ。
良暹法師もその一人で大原に隠棲した。自房の襖障子書きつけた一首には
山里のかひもあるかなほととぎす今年も待たで初音ききつる(袋草紙)
百々爺さんおっしゃるように良い歌ですね。
70番歌は人間の弱さが素直に詠われている
都の喧騒を避け気楽な独り暮らしも時に孤独に押しつぶされそうな夜もあろう。
人恋しさに堪えられず正直に吐露した良暹法師を坊主のくせに弱いとは責められない。
西行も又、冬の山住みの孤独に苛なまれ歌を残している。
さびしさに堪へたる人のまたもあれな庵並べむ冬の山里
寂しさを素直に表現しており現代人にも共感できる歌であると思う。
誰でも孤独は寂しい。しかし時に私は孤独を楽しみたい願望がある。
そういう時にお一人様の旅はもってこいである。
孤独と喧騒を上手に使い分け老後を謳歌したい小町姐である。
今日はお一人様でランチタイムコンサートを楽しむ。
源氏物語(桐壺)&平家物語(壇ノ浦)-能管で綴る雅の世界
今年は正月の翁(能)に始まり琵琶の演奏、文楽、8月には海老蔵の【源氏物語】(朧月夜より須磨・明石まで)を予定している。
並べてみると邦楽のオンパレードである事に気づく。
意識的に観ているわけではないがこれはやはり学んでいる古典文学に関係しているのだろうか?
・「とと姉ちゃん」面白いですね。93「世の中は常にもがもな」実朝歌から名前をとったお姉ちゃん、バランスのとれたいい子ですね。ああいうふうに喜怒哀楽をうまく包み込める女性ってホント素晴らしい(でも有り難いかも)。困ったときの「どうしたもんじゃろか」。あれで間をとるのがいいんでしょうね。毎朝楽しみです。
・ほぉ、若山牧水ですか。旅の歌人ですね。教科書に近代短歌何首か出てきましたが私も牧水が好きでした。
白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり
酒をこよなく愛した牧水、でも愛しすぎて命を縮めたよう。気をつけなくっちゃ。
・ほととぎすの初音の歌、いいですねぇ。折しも今全国的にほととぎすの季節でしょう。今朝も近くでほととぎすの声、窓を明けて聞かせてもらいました。3~4回は鳴いてくれました。
・お一人様のランチタイムコンサートいかがでしたか。「桐壷」と「壇ノ浦」、小町姐さんお得意の場面ですもんね。しっかり楽しめたことと思います。
秋の夕暮と遁世者の心が結びついた歌ですね。
都の貴族の生活からは、実感としてこのような歌は生まれないでしょうね。
寂寥感が感じられます。
70番歌を踏まえた蕪村の句
門を出れば我も行く人秋のくれ
謡曲『芦刈』にある「渡邊や大江の岸も移り行く」は後拾遺、旅、良暹法師の歌「わたのべや大江の岸に宿りして雲居に見ゆる生駒山かな」からとっています。
・「山里のさびしさを詠んだ歌」ということで28番源宗于の歌を思い出してみました。
山里は冬ぞ寂しさまさりける人目も草もかれぬと思へば
やはり歌の鑑賞は詠み手のことを考えざるを得ません。源宗于は不遇の受領暮らしだったとは言え別に山里に隠遁してた訳ではない。頭の中で考えた感じがします。
良暹の70番歌は作り事でない実感が感じられます。
→出家した僧侶というイメージが読者に寂寥感を与えるということでしょうか。
・蕪村の句、なかなかですね。こんなのためいき会に投句されたらどうしますかねぇ。まあ様子見の「客」くらいつけて他の撰者の出方を見るのでしょうかね。
寂しさに宿をたち出でて眺むればいづこも同じ秋の夕暮
世俗を離れて一人、大原野に隠遁生活を送る。秋のもの悲しさを率直におおらかに詠んだ歌とされ、これこそ隠遁者の心境を如実に示す作である(目崎徳江)。
結句の「秋の夕暮れ」の体言止めが秋の寂寥感を表現しているという。この言葉遣いは良暹法師が最初らしい。新古今集で流行したが、三夕の歌の先駆けと見做されている。万葉集でも秋に係る歌には、秋風、秋草、鹿、蝉、こおろぎ、黄葉、秋の田、秋の野、秋の月夜などの言葉が登場するが、「秋の夕暮れ」という歌語の用例は全く見られないという。「御拾遺集」で7首も登場している。枕草子の「秋は夕暮れ・・」の流行によるもので、同様に「春はあけぼの」も御拾遺集が初出であるとか。
新古今を撰した定家は四季の歌の中でも「秋」歌がお好みで、百人一首では16首と多い。「秋の夕暮れ」と詠む、#70「寂しさに・・」(良暹)、#87「村雨の・・」(寂連)はともに一枚札(一字決まり)ですね。むすめふさほせ。
死にもせぬ旅寝の果よ秋の暮 (芭蕉「野ざらし紀行」)
此道や行人なしに秋の暮 (芭蕉「其便」)
門を出れば我も行人秋のくれ (蕪村「蕪村句集」)
戸口より人影さしぬ秋の暮 (青蘿「青蘿発句集」)
家にゐて旅のごとしや秋の暮 (長谷川櫂「虚空」)
三人で一人魚食ふ秋の暮れ(柳多留)
・・・三夕を詠む三人のうち二人は魚を口にしない僧侶でした。
・「春はあけぼの」「秋は夕暮れ」枕草子の影響力はすごいんですね。後拾遺集は勅が白河帝、撰が藤原通俊 成立は1087年。アフター清少納言の歌人たちは挙って枕草子第一段の風趣を詠みこもうと努めたのでしょう。
特に「秋の夕暮」なる歌語は後拾遺集初出でその先駆けが良暹、その後新古今で爆発的ブームになった。そして芭蕉に蕪村、現代の長谷川櫂。
→「秋の暮」の句の列挙、ありがとうございます。
→私たちも今秋の句会の兼題は「秋の暮」にしましょうよ。
・そうか、百人一首の「秋の夕暮」、70番も87番も一字決まりですか。なるほど。特に87番「村雨の」は下の句「霧たちのぼる」も一字決まりですね。
.あれたる宿に月のもりて侍りけるをよめる
板間より月のもるをも見つるかな宿は荒らしてすむべかりけり(詞花集)
目崎徳衛氏によれば、荒廃に美を発見した逆説の歌であり、王朝のみやびから中世のわび・さびへの美意識の転換を象徴するのもとして、世にもてはやされたと。
.大原に住みはじめけるころ、俊綱の朝臣のもとはいひつかはしける
大原やまだすみがまも習はねばわが宿のみぞけぶりたえたる
西行は、この歌の面影を偲んで
大原に良暹住みける所に人々まかりて 述懐歌読みて扉戸に書付けける
大原やまだすみがまもならはずと いひけむ人を今あらせばや (山家集)
これも目崎氏。
69番と70番とどちらが好きかと爺が尋ねており、爺は69番歌と。
能因法師といえば、遁世者のイメージが焼きついており、よい歌が沢山あるが、69番歌
嵐ふく三室の山のもみぢ葉は 龍田の川の錦なりけりは、王朝みやびの世界の歌に聞こえるゆえ、小生は70番歌のほうがよい。
秋の歌では、
秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる (藤原敏行)
が、前にも書いたが、一番好きである。
・「荒廃に美を発見した逆説の歌」「みやび」から「わび・さび」へ。
この流れ、日本人が精神世界において何を一番上位とするのか、大事なポイントだと思います。百人一首の半ば過ぎでこの転換点が訪れるというのもすごいですよね。
→「わび・さび」がいいと言ってもそれはある時期「みやび」な世界を味わった後で達する自己満足的な境地かもしれない。
→「みやび」足って「わび・さび」を知る、、、これが一般人ではなかろうか。
・能因→良暹→西行と続く遁世者の歌、引き続き読み比べていきましょう。他にも出家者はいるが95慈円は勿論、82道因、85俊恵、87寂蓮も遁世者とは言えないでしょう。
・「秋きぬと」いいですよね。今さらながら何で百人一首に入れてくれなかったのと定家に恨み言言いたいですね。
地域の文化部の世話役を仰せつかっております。昨日は「ドストエフスキーの「罪と罰」を読む」と題して近所のA名誉教授に講演願ったわけです。やや一般受けするとは思われませんでしたが、予想に反して椅子を追加する盛況に。主催者としては嬉しい誤算。この講演に何時か百々爺をお呼びするのが目下の私の夢であります。地元の講座でもご活躍の由、上方でも一肌脱いでくだされ。ただ予算に限りがあり旅費まで出ないのが辛いところ。何かのついでにお立ち寄りいただく他ないのかも。
さて70番歌は良暹法師。この人も履歴がよくわからない。歌だけが残っています。
さびしさに宿をたち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮
寂しい秋の歌。このさびしさが平安歌人の好みに合ってていたんでしょうな。
歌の意は分かりやすい。現実にどちらもこちらも同じ風景だと言っているのではなさそう。いくら山里だって見る方角によって少しは風景が異なるでしょう。いずこも同じということはあり得ない。寂しさが同じなのだ。風景に多少の違いがあっても、どうしようもない寂しさは変わらない、と、この明解な歌の背後に、この心理を読むべきだろう。(阿刀田高)
で、派生歌は
松風はいづくもおなじ声なるを高津の宮の秋の夕暮(慈円)
柴のいほにすみえて後ぞ思ひしるいづくもおなじ夕暮の空(〃)
秋よただながめすてても出でなましこの里のみの夕べと思はば(藤原定家)
さびしさはいづくも同じことわりに思ひなされぬ秋の夕暮(平長時[続古今])
とはばやないづくも同じながめかと高麗もろこしの秋のゆふ暮(大内政弘)
あしがちる難波の里の夕ぐれはいづくもおなじ秋かぜぞふく(賀茂真淵)
いかにせむいづくも同じさびしさと聞きてもたへぬ秋の夕暮(本居宣長)
さびしさに草の庵を出でてみれば稲葉おしなみ秋風ぞ吹く(良寛)
何と多いことか。この多さこそが、寂しい秋が平安歌人の好みであった以上に 、70番歌こそ「秋の夕暮」の感覚を詠みこんだ草分けとして、良暹法師の面目躍如ということでありましょうか。
・地域の文化部のお世話役ですか、ご苦労さまです。ぴったりですよ。私ですか。買い被り過ぎですよ。そこをうまく取り持っていただけるのならかまいませんけどね。今度完読記念旅行にかこつけてなんてあるかもしれませんね。私が基調講演やって皆でパネルディスカッションするとか。。。。まあ夢としておきましょう。
・「いづくも同じ秋の夕暮」これはもう精神世界なんでしょうね。一度寂寥感に襲われてしまえば都会の雑踏も目に入らなくなる。
→でも普通の人間はそんなどうしようもない寂寥感なんて求めない方が身のためでしょうね。寂しさは気分を切り換えて紛らわす方が前向きに生きられるように思います。
・派生歌、随分とありますね。宣長先生も詠ってますね。秋の夕暮、鈴を振り自らを鼓舞しながら詠われたのでしょうかね。
良暹法師は生没年・伝未詳のためか、ネットで調べても、百々爺の解説以上の情報は少なく、人物像も掴み難いですね。そうした中で、落穂拾い的に見付けた話を2つ紹介します。
1.良暹法師はある所で周りの人々に「ある日、近江から京都に向かう途中、逢坂で時雨にあった時、自分は賢くも石門(いわかど)に立ち入って濡れませんでした」と言ったところ、人々は「さすが良暹どの、風流ですなあ」と感心しました。ところが、懐円法師が「へえ、どうやって石門に入ったのですか。どんな門があったのですか?」と質したところ、良暹は「それは…」と言ったきり、言葉に詰まってしまいました。実は石門は石の門ではなく、石が敷き詰めてある地形を言うので、入ることなどできないからです。要するに良暹法師の話は全くの作り話だったのです。この意地悪質問をした懐円法師というのは百々爺の説明にある「時鳥長鳴く」の誤りを嘲笑したのと同一人物ですが、これは懐円がよほど意地悪だったのか、良暹がからかいやすい人物だったからでしょう。
2.良暹法師が大原に住んでいた頃に、寂光院に通じる細い道沿いの灌木の下にあった「滝の清水」と呼ばれた湧き水を巡る素意法師と良暹法師との歌のやり取りが伝わっています。
・素意法師 水草ゐし滝の清水底澄て 心に月の影は浮ぶや
・良暹法師の返し 程経てや月の浮ばん大原や 滝の清水澄む名ばかりぞ
この歌のやり取りの要旨は、素意が「滝の清水の水底が澄んでいるように、あなたの心にも月の姿が浮かんでいるでしょうか」と詠んだのに対し、良暹は「滝の清水が澄んでいるというのは名ばかりなので、私の心に月が浮かぶに、まだ時間がかかりそうですよ」とユーモラスに返したものです。
後世、この滝の清水は歌枕として親しまれ、次の歌や句が作られました。
・大原やいづれ滝の清水とも 知られず秋は澄める月かな 吉田兼好
・春雨の中におぼろの清水かな 与謝蕪村
百々爺の説明のとおり、良暹法師は大原に住み始め時に次の挨拶の歌を詠みました。
・大原やまだすみ(住み・炭)がまも習はねば わが宿のみぞ煙たえたる
この歌は要するの「貧乏です。食料・物資を恵んで下さい」という物乞いの歌であり、歌の贈り先である橘俊綱やその取り巻き(良暹の旧友でもある)の絶賛を博し、後世の語り草ともなりました。上記1&2のエピソードやこの歌から、智平は「良暹法師はユーモアのセンスに溢れた飄々とした人物」だったと想像しますが、如何でしょうか。
最後に70番歌ですが、三夕の歌と異なり、真木立つ山、鴫立つ沢、花に紅葉といった小道具を一切使わず、雰囲気だけで限りない秋の寂しさを描き出している(吉海直人)のは誠にうまい、良暹法師は天才肌の歌人であると感心する次第です。
ステキナ落穂拾いですね。毎度ありがとうございます。
・懐円法師と良暹法師、面白いですね。相性でしょうね。相手のことを認めながらちょっとしたスキをついて突っ込みたくなる。良暹は懐円にとって突っこみやすい相手だったのでしょう。きっと二人の仲は悪くなかったのだと思いますよ。
→九代目仁王が朝臣によく突っこんでたこと憶い出しましたよ。
・大原の「滝の清水」、これも歌枕になっていくのですね。良暹法師の返しはユーモラスだし相手を立ててる感じですよね。穏やかな心の持ち主だったのでしょう。
→蕪村が一転して「春はおぼろ」を詠んでいるのもいいですね。
・本稿に書きましたが奇妙な出自を持つ橘俊綱と頻繁に交流してるんですよね。この辺りの事情が分かると更に面白いのでしょうが。。
「王朝の歌人たち」小林一彦より
後に歌壇の第一人者「金葉和歌集」を編んだ74源俊頼(憂かりける)が大原に出かけた。
俊頼は良暹の旧房の前を通り過ぎる際、下馬の礼をとったという。
更に後、やはり旧房を訪れた西行も感激のあまり歌を詠んだ。
大原やまだすみがまもならはずといひけむ人を今あらせばや (山家集)
良暹法師が今生きてここに住んでいたらなあと妻戸に書きつけたそうです。
良暹法師を敬慕していたことがしのばれるエピソードですね。
ありがとうございます。
良暹法師が後の歌人たちから敬慕されていたことがよく分かります。歌は能くても人間的に慕われてなくばそうはいきません。
歌人が棲んだ旧家が後の世の名所になる。。。。67周防内侍が人手に渡した旧家を西行が訪れたって話がありましたね。大原の良暹法師の旧房もそんな感じだったのでしょうか。
→先達歌人旧房めぐりを山家集に残してる。西行の小まめさを感じますねぇ。
今朝、枕草子を読んでいたら、
.あれたる宿に月のもりて侍りけるをよめる
板間より月のもるをも見つるかな宿は荒らしてすむべかりけり(詞花集)
に関し、”新編 枕草子” 津島 知明 中島和歌子編 一本二十五 に以下発見。
荒れたる家の蓬深く葎はひわたる庭に 月の隈なくあかく澄み上がりてみゆる。また さやうの荒れたる板間より洩り来る月。荒うはあらぬ風の音。
良暹法師の歌もこの段から、本歌取りのようなことをしたように思えます。
「秋の夕暮」 やはり枕草子から流行になったのであろうかとの、爺のコメントもありましたが、源氏物語に限らず、枕草子の和歌への影響力の凄さと、王朝文学絶頂期にあっても、”わび・さび”の心境が目覚め始めていたことを、今朝この段を偶然に読み、改め感じいった次第。
昨晩は深夜までカラオケ、今朝は早速枕草子。大したものですねぇ。
ご紹介ありがとうございます。当該段読んでみました。なるほどこの部分を歌にしたのが良暹の歌ですね。
枕草子・源氏物語は歌詠みたちにとってバイブルだったのでしょうね。
荒廃の中にも自然の美を見出す。源氏物語にはけっこう出てきますが枕草子もそうなんですね。
→「枕草子にわび・さびを見る」なんてテーマも面白いかも。
秋の三夕の歌、そのなかでも西行の
心なき身にもあはれは知られけりしぎ立つ沢の秋の夕暮
図抜けて好きですねえ。
「しぎ立つ沢」と言えば、「鴫立庵」。江戸時代初期に大磯に庵を結んだ人がいて、のちこれを俳句道場として連綿として受け継げられ、今の庵主さんで22代目だそうです。一般にも貸し出されいますので、大磯吟行も兼ねて六十五句会の秋の句会にいかがでしょうか。題「秋の夕暮」で。
関連ホームページは、鴫立庵
すぐ近くに「鴫立沢」と言われる小さな「沢」があって見どころもいろいろありますし。昼食は「國よし」の鰻重(ちょっと高いですが)で。大磯へは現役時代は仕事で何度も出かけたところで懐かしさ一杯です。出前の鰻丼に何度かご馳走になってますが、あれ以上うまい鰻は食ったことがないような。
69か70では、69に軍配をあげたいですね。
70の理由、理屈めいたところが減点です。
板間より月のもるをも見つるかな宿は荒らしてすむべかりけり
は秀歌だと思いますけど。
大磯の「鴫立庵」、紹介ありがとうございます。案内HP見せてもらいました。大磯町の施設になっているのですね。この辺り全く知らないので興味ありです。付近を吟行して鰻を食べて「鴫立庵」で句会ってよさそうですね。是非実現してみたいです。
松阪出身で芭蕉も意識してた俳人大淀三千風が初代庵主なんですね。仙台で芭蕉を案内してくれた畫工加衛門が大淀三千風の弟子。その加衛門へのお礼句(あやめに因み紺の鼻緒の草鞋を餞別にくれた)。
あやめ草足に結ばん草鞋の緒(芭蕉@仙台)
(1689年の今日この頃6月20日くらいに詠まれた句です)