久しぶりに女流歌人の登場です。時代的には67周防内侍と同世代、後朱雀帝の皇女祐子内親王家に長く仕えた紀伊。堀川院主催の艶書合(懸想文合)については67番歌のコメント欄に書きましたがもう一度詳しく見てみましょう。
72.音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ
訳詩: 噂に高い高師の浜のあだ波などに
袖を濡らしてなるものでしょうか
あなたの心はあだ波の 高く寄せても
たちまち退る(すさる)あだなさけ
女は袖を濡らして泣き明かすのがおちですもの
作者:祐子内親王家紀伊 生没年未詳 平安後期の女流歌人
出典:金葉集 恋下469
詞書:「堀河院御時艶書合によめる」歌への「返し」
①生没年未詳だが例によって推定しておきましょう。
・堀河院艶書歌合時(1102)に70才くらいとあるから生年は1032
1113歌合出詠が最後の記録だからこれを没年と考えると、
生没年は1032-1113 82才 周防内侍(1037-1109)と同世代になります。
・父兄については諸説あるようだが以下で考えましょう。
「この紀伊といふ人は散位平経方の女にして、紀伊守重経の妹なり。兄の受領によりて紀伊を呼び名とせしなり」(百人一首一夕話)
→兄が紀伊守だった。
→紀伊守というとどうしても空蝉の夫伊予介の子、紀伊守邸での方違えの夜が思い出される。
【余談 713年元明帝の勅で諸国の名前は漢字二字で表すことが決められた】
「津(つ)」は「摂津」と書かれ「紀(き)」は「紀伊」と書かれることになった。
「上毛野」は「上野(こうずけ)」に「下毛野」は「下野(しもつけ)」になった。
・母も祐子内親王家に仕えた小弁(歌人)
→周防内侍の母も後冷泉朝で小馬内侍と呼ばれた宮廷歌人だった。似ている。
→和泉式部・小式部内侍、紫式部・大弐三位も。母娘重代の宮仕えも多かったのだろう。
・祐子内親王(1038-1105) 後朱雀帝の皇女 数々の歌合を主催 サロンを形成
65相模(998-1061)も菅原孝標娘(1008-1059)も仕えたことがある。
→祐子内親王サロンの華々しさが分かる。
→紀伊は相模や孝標娘とはダブっていないだろうが母小弁から二人のことも聞いていたであろう。
(出自、エピソードはあまり見当たりませんでした。ここはネット検索名人朝臣に期待しましょう)
②歌人としての紀伊
・後拾遺集を初め勅撰集に31首、私家集「一宮紀伊集」、「堀河院百首」の詠者の一人
・数々の歌合に出詠
→祐子内親王サロンの女王的存在でサロンを代表し歌合に引っ張りだこだったのか。
・歌合の題詠以外で恋歌と思われるのが千人万首にあったので引いておきます。
思ふ事ありてよみ侍りける
恋しさにたへて命のあらばこそあはれをかけむ折も待ちみめ(玉葉集1815)
→王朝時代も和泉式部時代を過ぎ65相模、67周防内侍、72紀伊と来ると題詠やら訳ありやらせ気味の歌やら真実味の薄い歌が多くなってくる。技巧・人工的・虚飾・類型化、、。その分、心を打つものが少なくなっているように思われるがどうでしょう。
③72番歌 音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ
・堀河院御時艶書合せ(1102)
堀河院は上品、優雅、誠実で学問・和歌・管弦を愛する風流人で、艶書合せを主催し当代著名歌人14人に「堀河百首」を詠ませている。
艶書合せ。参加者は男10人女11人。先ず男から女へ恋歌、次に女から男へ返歌。日を替えて今度は女から男へ恋歌、そして男から女への返歌。40首くらい。メンバーは男女とも熟年歌人が多かったようだが一人若手の気鋭が中納言俊忠29才。女流としては紀伊70才、周防内侍65才、筑前なる女流は90才くらいだった。
・その艶書合せで中納言俊忠が紀伊に詠みかけたのが、
人知れぬ思ひありその浦風に波のよるこそ言はまほしけれ
これに対する紀伊の返歌が72番歌
音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ
・ありそ(荒磯)は北陸地方の歌枕
→「ひばりの佐渡情話」~佐渡の荒磯の岩かげに 咲くは鹿の子の百合の花~
→「奥の細道 北陸路」 わせの香や分入る右は有磯海
・これに対して紀伊は和泉の歌枕「高師の浜」で応酬した。
「高師の浜」 堺市浜寺~高石の海岸 白砂青松で有名だった。
→浜寺八麻呂さんゆかりの土地です。解説よろしくお願いします。
・高師の浜の万葉歌を「万葉の旅」から
大伴の高師の浜の松が根を枕き寝れど家し偲はゆ(置始東人)
→この辺りは当時大伴氏の所領であった。
先行歌
沖つ浪たかしの浜の浜松の名にこそ君を待ちわたりつれ(紀貫之 古今集)
派生歌
あだ波の高師の浜のそなれ松なれずはかけてわれ恋ひめやも(藤原定家)
・男が言い寄ったのを「そうはいかないわよ」と切り返した類型歌
歌枕の応酬といい掛詞、縁語を駆使して技巧をひけらかす。これぞ王朝の恋愛文芸ゲームというものだろう。
・紀伊に詠みかけた中納言俊忠29才は67番歌で周防内侍に手枕を差し出した大納言忠家の息子。即ち俊忠は俊成の父、定家の祖父である!
→定家は67番歌で曽祖父忠家の名を、72番歌で祖父俊忠の名を百人一首の中に埋め込んだのであろうか。
→それにしてもゲームはいいけど組合せは誰がどう決めたのだろう。組合せ発表を見て「オレ、彼女はちょっとゴメン」とか「ワタシ、あの人絶対イヤ」とかはなかったのだろうか
→29才対70才 まあ年令は関係なかったのだろう。
源氏物語 紅葉賀 源氏19才対源典侍57才もあながち誇張でもないのかも。
④源氏物語との関連
北村季吟は72番歌は源氏物語の次の歌を本歌としているとの説。
若菜上19
朧月夜 身をなげむふちもまことのふちならでかけじやさらにこりずまの波
→心ならずも幼妻女三の宮を迎えることになり紫の上との心の亀裂は大きくなっていく。そんな無聊の慰めを求めて源氏は昔から好きでたまらなかった朧月夜を訪れ強引に縒りを戻す。源氏物語中屈指の官能場面でありました。
コトを終えて源氏が朧月夜に詠みかけた歌
源氏 沈みしも忘れぬものをこりずまに身もなげつべき宿のふぢ波
(あなたゆえに不幸な身の上に沈んだことを忘れはしないのに、また性懲りもなくこの身を投げてしまいそうなこの家の淵です-あなたのためには命を投げうってしまいそうになります)
これに対する返歌が上記
朧月夜 身をなげむふちもまことのふちならでかけじやさらにこりずまの波
(あなたが身を投げようとおっしゃる淵は本当の淵ではありますまい。そんな偽りの淵にいまさら性懲りもなくあらたに袖を濡らすようなことはいたしますまい)
松風有情さんの72番絵です。ありがとうございました。
http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2016/06/KIMG0278-1.jpg
http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2016/06/KIMG0278-1.jpg
浜寺八麻呂さんの歌枕だと知り、いにしえの高師浜海岸を想像しました。
広重を参考に描いてみましたが改めて、彼らの大胆な構図とデフォルメに感心し、そして参りました。
音に聞く 羽衣サウンド
初音ミク
ありがとうございます。いやあ、なかなか大胆に画けたじゃないですか。
広重に百人一首絵でもあったらさぞ面白かったでしょうにねぇ。
艶書合なる言葉を初めて知りました。
艶書って艶っぽい恋の歌合?(懸想文合)と言う事はいわゆるゲーム感覚の歌会。
29才の中納言俊忠から70才の熟女紀伊へ
人知れぬ思ひありその裏風に波のよるこそいはまほしけれ
音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ
これはもうゲームとしか思えないですね。
戯れごとを本気にしては泣きを見ることになりましょう。
何やら前にもあったような、そうそう腕を借りたらひどい目にあうわ。
そう返したのは周防内侍でした。
67番 春の世の夢ばかりなる手枕にかひなくたたむ名こそ惜しけれ
面白い繋がりですね。
周防内侍に手枕を差し出したのが父の大納言忠家、紀伊に恋歌を読み掛けたのが息子の俊忠、そして俊忠の息子が俊成。
定家はそれとなくか意識的にか4代の家系を百人一首に織り込んだ事になりますね。
宮廷人の歌合は命がけのものもあれば遊び感覚のものもあったのですね。
このような歌からは歌を介したただのお遊び程度にしか思われません。
それに比べたら源氏と朧月夜の贈答歌のほうが物語といえどもずっと真実味が伝わります。
諸国の名前ありがとうございました。
下毛野は下野(しもつけ)、そろそろ高山では「しもつけ草」が咲く頃です。
ピンクのきれいな花が恋しくなりました。
松風有情さん
さぞや高師の浜はこのようなあだ波だったのでしょうね。波の感じが好きです。
浜寺八麻呂さん
やっとゆかりの名前が登場しました。浜寺の様子教えて下さい。
追記①
25日(土)例の「斎王・幻の皇女」3話・斎宮の都市計画に続き4話は御食国(みけつくに)と斎宮でした。
斎王の食文化については百々爺さんから紹介された「梅干しと日本刀」と重なる部分があり興味深かったです。
面白かったのは斎王もお酒を召しあがった事が小右記に記されているということでした。
御食国は万葉集にも詠まれています。
みけつ国志摩の海女ならし真熊野の小舟に乗りて沖へ漕ぐ見ゆ(大伴家持)
詳しくはテレビをご覧ください。
追記②
昨日26日シネマ歌舞伎・阿弓流為(アテルイ)を観ました。
蝦夷の族長、阿弓流為と大和朝廷から征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂の蝦夷平定の場面でした。
31番の坂上是則はその子孫である。
詳しくは百々爺さん解説の31番歌を参照。
朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪
180分の舞台はシネマといえども見応え充分。
中でも染五郎と勘九郎のカッコ良さ、七之助の美しさ。
勘九郎は随所随所、所作、声、セリフ回しに勘三郎を彷彿させ勘三郎が健在ならばさぞかし喜んだであろうと思わせた。
*本題から大きく外れてすみません。
・艶書合、ほんとゲーム感覚ですよね。お聖さんは「文学ゲームはオトナのお遊びとして、今後の高齢者社会には打ってつけではないかと思われる」なんておっしゃってますけど、難しいでしょうね。ゲームがゲームで終わらなくなるケースも出て来るのでは。
→それはそれでいいのかも知れませんが、私にはちょっと。
→まあ、カラオケスナックでホステスの女性とデュット歌うのが精一杯でしょうか。
・高師の浜は和泉の国の歌枕。どうせなら紀伊国の歌枕「和歌の浦」とかを詠み込めばより完璧だったのかもしれないですね。あの辺りも波が高そうですし。
・忠家-俊忠-俊成-定家 この4代、百人一首とともに未来永劫語り継がれていくことでしょう。特に忠家と俊忠の歌は貴重でしょうに。
67春の世の夢ばかりなる手枕にかひなくたたむ名こそ惜しけれ(周防内侍)
→契りありて 春の夜ふかき手枕をいかがかひなき夢になすべき(忠家)
人知れぬ思ひありその裏風に波のよるこそいはまほしけれ(俊忠)
→72音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ(紀伊)
・「斎王・幻の皇女」、録画はしてるのですがなかなか見れません。7月初
同窓会で三重に行くときに斎宮博物館に寄る予定なのでそれまでに予習していきます。
・シネマ歌舞伎・阿弓流為(アテルイ)なんてのがあるのですね。近くの柏の映画館でもやってるようなので行きたいのですが、色々とありまして。
安東次男はこの72番歌について「実感に発したものではないが、歯切れよく姿高く、まずは艶書合わせの傑作といってよい。俊忠の歌がいかにも青くさく見える」と書いています。
馬場あき子は「この紀伊の返歌のすばらしさは、それが単なることばの遊戯に堕してはいないことである。この一首は恋の歌としてよくできたという以上に、初句から結句まで、隙なく張りつめた気韻が読む者の心を打つ。姿うるわしく、たけ高い歌だといえる。」と書いています。
紀伊の母の小弁の時代から内親王家に仕え、小弁は内親王の祖父頼通からも信頼され、期待されていたようです。その娘紀伊も幼いころから内親王家に上がったので、宮廷女房の気品と華やかさがその歌にもあらわれているようです。
後二条関白師通がまだ内大臣の若き日紀伊に「今夜は必ずおたずねしますから、妻戸をあけたまま待っていてくださいよ」と言ったのに都合がわるくなって、紀伊の部屋に忍んでくることができなかった。その時の紀伊の歌「真木の戸をあけながらにて明けぬれば頼めぬ月の影ぞ洩り来し」
紀伊は数々の恋をして、たどり着いた境地が72番歌だったのかもしれません。
謡曲『葵上』にある「衰へぬれば朝顔の日影待つ間の有様なり」は堀河百首、秋、紀伊の歌「しののめにおきつつぞ見む朝顔は日影まつ間の程しなければ」によっています。
・安藤次男、馬場あき子両先生のコメント紹介ありがとうございます。
確かに何度も声に出して読んでみると姿のいい格調の高い歌のように感じます。ある意味、題詠歌の完成形と言ってもいいのかもしれません。この評覚えておきます。
・母小弁についてwiki見てみました。
父は藤原南家巨勢麻呂流の正五位下越前守藤原懐尹
母は越前守源致書女
ずっと内親王家に仕える女房で勅撰集に47首入撰
その一つ 玉葉集より
さ夜ふけて衣うつなり我ならでまだ寝ぬ人はあらじと思ふに
→紀伊が31首入撰ですからある意味紀伊以上の女房歌人だった。
→その小弁の元に平経方(諸説あり)が通って来て生まれたのが紀伊。
・紀伊の所にも若き貴公子師通が忍んで来ようとする時があった。
→師通はどうして止めたのでしょう。紀伊はチャンスを逸したということでしょうか。
爺が、源氏物語の若菜上から、光源氏と朧月夜の歌を掲載してくれたので、
千人万首 紀伊の歌から、朧月夜がらみで一首、深読みしないと意味が解らない歌ですが、やはり恋の歌。
人の夕方まうでこむと申したりければよめる
うらむなよ影見えがたき夕月夜おぼろけならぬ雲間まつ身ぞ(金葉483)
【通釈】恨まないで下さい。今日の夕方は、月の見えにくい朧月夜――雲が晴れるまで待たなくてはならない我が身です。
【語釈】◇おぼろけならぬ ありきたりでない。並大抵でない。《おぼろ》は月の縁語。◇雲間まつ身ぞ 雲の絶え間を待つ我が身である。なにか差し障りがあることを言っている。
【補記】ある人が夕方に訪問しようと言って来たので、差し障りがあると婉曲に拒んだ歌。
さて、浜寺、4月に”古の都に桜旅”と題し、このブログに旅行記を書きましたが、久しぶりに訪問してきました。
南海沿線の浜寺公園駅から羽衣駅を経緯し、高師浜までの歩いて一時間ほど、距離にして4KMほどの、白砂の浜辺に美しい松並木が延々と続くのが、高師浜で、子供のころ我々は浜寺公園と呼んで、よく行きました。
浜寺海水浴場として有名で、夏は人で埋め尽くされていましたが、1960年初頭に遠浅の長い海岸線が”あだ”となり、今度は土砂で埋め尽くされ、製鉄所や製油所が建つ工業地帯に様変わりしました。
それでも、海岸線の陸側の松林は残され、今でも大きな公園として健在です。
爺からの引用ですが、万葉時代から有名で、
・高師の浜の万葉歌を「万葉の旅」から
大伴の高師の浜の松が根を枕き寝れど家し偲はゆ(置始東人)
→この辺りは当時大伴氏の所領であった。
また、この72番歌や
先行歌
沖つ浪たかしの浜の浜松の名にこそ君を待ちわたりつれ(紀貫之 古今集)
派生歌
あだ波の高師の浜のそなれ松なれずはかけてわれ恋ひめやも(藤原定家)
でも、波の高い海として歌われており、松風有情さんの絵でも波高い光景が描かれています(絵 いいですね、ありがとうございます)。
小生の小学時代、浜寺水練学校に通って赤ふんどしで泳ぎを習った経験からしても、昭和の時代には、波静かな遠浅の海に変容しています。
ところで、浜寺の松林は、江戸時代に新田開発でその数が減り、明治時代初期には宅地開発で伐採されそうになったとき、1873年に大久保利通内務卿が訪れ、約850本にまで減った松を嘆いて
音に聞く高師浜のはま松も世のあだ浪はのがれざりけり
と詠み、お陰で伐採は中止され、松林が残ったとのことです。
太平洋戦争の後は、一時期、進駐軍がきれいな松が立ち並ぶ浜寺公園を占領、フェンスで囲い、我々は入れなくなりましたが、それでも大きな陸橋が公園を跨ぎ、占領地を越えて浜辺での水泳は可能でした。
小さいころに、米兵やアメ車を見ながら、泳ぎに行ったことが思い出されます。
このように、古代から白砂青松の地として有名ですが、小生が生きてきた時代だけでも、大きく変わってしまいました。でも松林はいつまでたっても美しく、懐かしく、いまでも誇りであります。
長々書きましたが、今回投稿にあたりNETを調べていたら、高師浜のもっと詳しい解説が見つかりましたので、参考まで
http://www.sakai.zaq.ne.jp/plaza_hoso/hamadera/rekishi1.html
余談ですが、昨晩娘と小学生の孫二人が、向こうでの夏休みを利用し、一時帰国しました。7月の3週間ほどは、これまで通っていた小学校に行きますが、合計一ヶ月の滞在、嬉しいそがしの日々が始まりました。
・お孫さん、一時帰国体験入学ですか。じいじは大学、孫は小学校。お互い学校での出来事を報告し合ったりして、、、。いいですね、お楽しみを。
・紀伊が恋人の来訪を断った歌。
なんで断ったのでしょう。女性特有の現象かとも思いますがそんなの歌にしますかねぇ。
→そこが朧月夜かもしれませんが、、。よく分かりません。
・「高師の浜」(浜寺)の詳しい解説ありがとうございます。
.いつもは穏やかな浜辺なのに何かの拍子で高波が立つ。それが「あだ波」なんでしょうね。けっこうそういう海岸で水難事故が起こる。
→爺が通った津市の中学校で6年先輩の女生徒が36人も水死する大事故がありました。普段は静かな海岸です。
.大久保利通の歌の紹介ありがとうございます。幕末の志士大久保卿、京都の祇園あたりで芸妓相手に百人一首やってたのかもしれませんね。
.ネット「浜寺の歴史」いいですね。よく分かりました。
そりゃあそんな風光明媚な海岸を進駐軍が見逃す筈はないですよね。サンタモニカさながらビキニの女性が闊歩したのでしょうか。フェンスで囲まれた公園、こわごわ覗き見する不逞な輩もいたのでしょうね。
音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ
艶書合、いわば恋歌大会では歌の優劣を競うため、内容はさておき、いかにテクニックを盛り込むかが重要だった。紀伊のこの歌、中納言俊忠の荒磯の浦(越中)に対抗して、高師の浜(摂津)を機知で引用し掛詞が巧みで面白い。
「あだ波」がキーワード。辞書を引くと、むやみに立ち騒ぐ波、変わりやすい人の心に例える言葉とある。川の深いところには波が立たないが、浅いところにはいたずらに波が立ち騒ぐことからの用語で、徒波・徒浪・仇浪と書く。
「底ひなき淵やは騒ぐ山川の浅き瀬にこそあだ波は立て」(古今集・恋四)
この詞で「浮気な男の誘い言葉には、そう簡単に乗らないわよ」と29歳の真面目な貴公子を軽くあしらい、紀伊の軍配となる。紀伊も齢重ねた才女で元美女、自負もありこのような歌詠みとなったが、50年も若い頃にこんな歌のやり取りをしていたら「あだ波」なんて言わずにもっと優しいお返しになったに違いない。
この紀伊の歌以降、女流歌人に6首あるがすべて歌合・百首歌ないし題詠の歌で、予定された催しの為に十分な準備で練り上げられたもの、生活の中から奔り出たのでなく芸術的意図で構想されたものである。
外戚政治の衰退に伴い、女房達の行動様式も型にはめられ、その中で生活機能から遊離した詠歌が技術的・専門的ににだけ深まっていった。これに対して、前代、摂関全盛のころの女性歌人(#56和泉式部~)には、こうした文学的契機による歌作りがなく、まことに好対照である。一首一首に作者の個性がけざやかに躍動する面白さがあった。王朝の衰退に連れて、女性の役割が後景に退き、生き方がつつましさと息苦しさを加えていく中世への推移をごく自然に反映している。
と目崎徳衛(百人一首の作者たち)は解説する。
・そうですね、この歌のキーワードは「あだ」波なんでしょうね。「高波」では歌にならない。「あだ」がいいのでしょう。
→「お富さん」(s29春日八郎)
~~粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪
子どものころは何のことやらさっぱり分かりませんでした。
・目崎徳衛先生の解説紹介ありがとうございます。先生は73紀伊以下の女流歌人7人を一まとめにしてバッサリ切り捨てておられますねぇ。歌の内容としてはその通りかも知れませんがそこは男性歌人とて同じ。女性にも人生模様はあった筈で一人一人もう少し掘り下げていただきたかったのですが・・。
・和歌は「生活の中から奔り出たのでなく芸術的意図で構想されたもの」になりはてた。
→私もそう思います。本来和歌は男女間のラブレターであり恋心をあの手この手で訴える手段であった。だからこそ歌の内容だけでなく諸事万端抜かりなく相手に自分をアピールするのに腐心したのです。
一方題詠の恋歌は歌そのものの技巧は求めるもののただそれだけ。後のことは関係なし。歌の本質が変容していったとしか思えません。
25番歌コメント欄で紹介したキーンさんの恋歌の要素を再録しておきます。
【時のラブレター、これは手の込んだ雅なものでありました。ドナルドキーン氏によると7つの要素が織り込まれます。
①紙:何色のどんな紙質の紙を使うのか
②墨:真っ黒、ちょい黒、薄黒
③書:どんな書体、文字の大きさ、配列、濃淡の付け方、ちらし書きとか
④歌:肝腎の歌の内容。あっさり行くか技巧をこらすか。
⑤折り方:文の折り方にも工夫があったらしい。
⑥折り枝:草・木・花に結びつける。
⑦届けさせる人:内容に相応しい人。可愛い女童とか。
これらが相俟って「王朝の恋文」になるのです。単に歌だけを(しかも活字で)読んで評価をするのは正しくないかもしれません】
→まさか歌合の題詠歌を結び文で提出するわけがないですもんね。
→これにつけても私は源氏物語の795首は貴重なものだと思っています。
旅へのあこがれは、それが簡単に果たせないことであればこそ、逆に心を誘うものとなる。歌枕などと言って文学に繁く登場する名所もあって、こういうところは歌人自身が訪ねたことがあっても、なくても、歌の中に現れて、まことしやかに詠じられている。
のっけから、「話に聞いたことだけど」と宣言して
音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ
第72番、詠んだのは祐子内親王家紀伊で、内親王に仕えた女房である。高師の浜は大阪府高石市の浜。堺市の南にあって、昔は波が高く、それも急に立ち騒ぐ厄介なあだ波が立つ、と言われていた。評判の歌枕であり、歌人はそれを利用した、という事情である。そんなあだ波をうっかり袖にかけたりはしませんよ、濡れてしまいますからね、アカンベェー、と、まあそんな気分でしょう。実は、この歌、艶書歌合わせで返歌として詠まれたもの。男女がラブレターもどきの歌をやり取りして楽しむという座興であり、藤原俊忠(俊成の父、定家の祖父)なるおっさんが、
人しれぬ思ひありその浦かぜに波のよるこそいはまほしけれ
海風が吹いて波が寄せてくるように人知れない恋の思いをあなたに言いたい(告白したい)ものですね、くらいの意味。チョロリと粉をかけているのだ。それに対して紀伊が、浮ついたあだ波になんか袖を濡らしたくありませんよ、と軽くいなした、というゲームだろう。軽いジャブの応酬、恋の歌として深く考えるほどのものはあるまい。(阿刀田高)
一方こちらは真剣そのもの、結婚相手や恋人を探すために男女が集まり、互いに即興の歌を交わす。中国の長江以南地域に今も伝わる「歌垣」という行事。歌垣は古代日本にも存在したが、残念ながら今の日本にこうした形を留める例は残っていない。雲南省ぺー族の歌会は和歌と似て5、7音の組み合わせからなり、52音で1首となる。熟練の歌い手だと延々と続く。6時間、男女が何と848首を交わした。理想の結婚相手を見つける実用第一の営みそのものであったとのこと。詳しくは本日、(日経文化欄「求婚の歌垣中国で追う」工藤隆氏)をご覧あれ。
・遠くへ出かける旅行するなんて普通の人にはできなかった当時、歌枕の意味合いは大きかったのでしょうね。行かなくても「音に聞いて」「頭で考えて」光景が浮かぶ。行った気持ちになる。
→現代ではTVなど映像で紀行ものをみて結構行ってきた気分になりますもんね。モスクワもシドニーもエベレストも行ったことありませんが大体感じは分かる気がします。オーガスタも10番~18番はどう攻めたらいいのか知ってますもんねぇ。
・日経文化欄、紹介ありがとうございます。格調高いですね。中国の歌垣ですか。今の日本には残っていないと書かれて反発したのかもしれませんが今朝の読売(11面下欄 大阪本社編集委員のコラム)えっと驚く記事が出ていました。
京都の銭湯「桂湯」で今月「歌垣風呂」と題した合コンがあった。
20~40才代の参加者が男湯女湯に分れ壁越しに短歌を朗詠する。
壁の向こうから緊張気味の朗詠が聞こえると「ほおお」と声があがる。
のぼせぬうちに湯から出て、服を着て(当たり前だろう)対面する。
好みの歌でマッチングしたカップルは脱衣所の交流会で盛り上がる。
・・・・・
→お風呂というのが何ともいいじゃないですか。
昨日(6/27)は梅雨晴間のゴルフ日和。天気運に恵まれた友人と共にゴルフを楽しみ、家に帰ってから談話室を覗いてみると、百々爺の解説の中に「紀伊に関する出自・エピソードはあまり見当たらないので、ネット検索名人朝臣に期待」という旨の一文を発見しました。これは智平に向けたメッセージだろうと思って、今朝(6/28)からネット検索に取組みましたが、残念ながら紀伊本人に関する興味深い新情報は見つけられませんでした。でも、その過程でいくつか紀伊や72番歌に関連する雑情報を見つけたので、手短に紹介したいと思います。
1)紀伊は女房に過ぎないが、主家の名前に引きずられて、百人一首かるた等の絵では、しばしば几帳や繧繝縁の畳と共に描かれ、内親王並みの待遇を受けている(例えば、アメーバブログhttp://ameblo.jp/shirohige10/entry-12099754405.html参照)。
2)内親王は天皇の姉妹・皇女の称号だが、この称号が百人一首で使われるのは89番歌の式子内親王と紀伊の主人の祐子内親王だけである。この2人の内親王は歌合せを盛んに催すなど王朝文化の発展向上に寄与した。ちなみに、祐子内親王の曾祖母は一条天皇の皇后(中宮)定子で、清少納言が仕えた女性であり、その血筋といえるかも。
3)紀伊は日本郵便が平成22年7月23日(文月のふみの日)に百人一首の歌人5人を取り上げて発行した郵便切手歌人の一人として選ばれている。
(https://www.post.japanpost.jp/kitte_hagaki/stamp/tokusyu/2010/h220723_t.html)
4)小町姐さんがコメントしている「艶書合せ=懸想文(けそうぶみ)合せ」は、今の言葉で平たく言えば「ラブレターのやりとり」である。
5)八麻呂さんの詳しい解説や添付資料があるが、「高師浜=浜寺海水浴場」は昭和36年に工場地造成のために閉鎖される前は、何と「東洋一の海水浴場!」と呼ばれるほどの立派な海水浴場だった。その閉鎖は高度成長期の環境破壊の一例と言えるのでは。惜しいことをしたものです。
6)猫好きと思われる方が開いている「猫とネコとふたつの本棚」と題するホームページがあり、その中に「百猫(ひゃくニャン)一首」という猫を題材にした百人一首のパロディ(替え歌)が掲載されている。72番歌のパロディは次の通り。
・音に聞くいずなのきみのやんちゃぶり かけしお縄のほどけもぞする
(注)いずな=飼い猫の名前。かけしお縄=多分、犯人逮捕の縄。
ちなみに、狂歌百人一首(蜀山人)の72番歌パロディは次の通り。
・赤飯をいざやくばらん鳥のふん かけしや袖のぬれもこそすれ
(注)鳥の糞をかけられるのは幸運の前兆というという俗信があり、目出度いことだから赤飯を配ろうという歌。
愚にもつかない話の連続で失礼しました。この辺で、お後がよろしいようで。
「紀伊に関るエピソードをお願い!」 難題に打てば響くが如く応えていただきありがとうございます。話題はいくらあってもありがたいです。
・そうですね。百人一首に親王は20元良親王の一人、内親王は89式子内親王の一人です。意外と少ない。そんな中、祐子内親王が72番に出てくる。この人のサロンはさながら一昔前の定子サロン、彰子サロンさながらだったようですね。
→65相模、菅原孝標女(更級日記)、小弁、72紀伊、、、すごいメンバーです。
→一条帝&定子―敦康親王-嫄子女王&御朱雀帝-祐子内親王ですか。
なるほど定子中宮が曾祖母になりますね。
と同時に御朱雀天皇の母は彰子中宮だから彰子中宮は祖母になる。
定子サロン+彰子サロンの申し子が祐子内親王サロンだったということでしょうか。
・私の現役時代の守備範囲は尼崎・和歌山・海南でして「高師の浜」(浜寺)あたりは行ったことありませんが阪神工業地帯のど真ん中ですよね。重厚長大、日本を引っ張ってきた工場群が闊歩する。白砂青松の海浜に波が襲うことがないように、、、と埋立を敢行したのでしょうかねぇ。
音に聞く高師の浜の青松にかけてやならじ浦のあだ波
高度成長期の時代の歌が聞こえるようです。