百人一首に三代続けて入選した71源経信-74源俊頼-85俊恵法師の二代目。父経信が白河歌壇の重鎮なら源俊頼は堀河歌壇の重鎮。平家台頭直前、王朝末期の歌人で革新的な歌を詠み俊成-定家に影響を与えた重要人物のようです。
74.憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを
訳詩: 私につらかった人を ああ初瀬の山おろしよ
やさしく風になびくようになびかせてくれと
あれほどここな御仏に祈りまつったのに!
そうだ 山おろしよ おまえみたいに
つらく当ることなど祈りはしなかったのに!
作者:源俊頼朝臣 1055-1129 75才 71大納言経信の三男 従四位上木工頭
出典:千載集 恋二708
詞書:「権中納言俊忠の家に恋十首の歌よみ侍りける時、祈れども逢はざる恋といへる心をよめる」
①源俊頼 宇多源氏の末裔 六代目 もう王家の意識はないであろう。
・宇多帝-敦実親王-源重信-源道方-71源経信―74源俊頼
・最高位が従四位上木工頭 父経信は正二位大納言 大分水を空けられた感じ。
・父は三舟の才と讃えられたが俊頼も篳篥を能くし最初は宮中楽団員だった。
→篳篥なんて特殊才能に秀でた人(技能職)は一般の出世は難しいのかも。
・父経信は80才で太宰権帥として赴任、俊頼も同道(41才)
まもなく父が亡くなりとし俊頼は京へ帰りこの頃から歌人として頭角を現す。
→やはり親の七光りみたいな感じで取りたてられるケースもあったのだろう。
②歌人としても源俊頼
・勅撰集に201首(父経信は87首)金葉集(自身の撰)千載集(俊成撰)では最多
→俊頼は俊成の父権中納言俊忠と懇意で歌合せなどで訪れており俊成も自ずと俊頼に私淑するようになった。
→ただ俊成は直接の師としては俊頼のライバル75藤原基俊に師事している。
・白河院の勅を受け1126金葉集(650首)を選定
→父経信は後拾遺集の撰者に選ばれず不満をぶちあげていたが俊頼は撰者になった。
→ただ金葉集の評判は今イチだったみたい(でも勅撰集撰者として名は残った)。
・堀河歌壇の重鎮として堀河百首を企画・推進(プロデューサーか)
→詠者を選んでお題を出して。編集・推敲なんかもしたのだろうか。
歌合の判者を多く務める。
→権門76藤原忠通サロンでも中心人物だった。人柄もよく人気者であったようだ。
恋のお題も今までの類型に加えて多種多様な恋模様を歌題にして詠み遊んだ。
「年経る恋」「月を隔つる恋」「旅の恋」「夜の恋」「雨中の恋」「ねざめの恋」・・・
→さながら恋愛評論家である。俊頼自身の実際の恋模様はあまり書かれてないが。
・75藤原基俊(従五位上、俊頼より下位)とはライバル関係
基俊が他人の歌を厳しく批評したのに対し俊頼は温厚誠実に接した。
・歌論書「俊頼髄脳」を著す。
「歌はわが秋津州の国のたはぶれ遊び」
「男にても女にても、貴きも卑しきも、好み習ふべけれども、情けある人はすすみ、情けなきものはすすまざることか」
→公的な和歌の役割を尊びつつ清新なモチーフと詞を追及した。
・俊頼の歌より(革新的な歌風で俊成(千載集)→定家(新古今集)へと繋がる)
鶉鳴く真野の入江の浜風に尾花波よる秋の夕暮(金葉集)
→田辺聖子推奨
山桜咲きそめしより久方の雲居に見ゆる滝の白糸(金葉集)
→百人秀歌(小倉百人一首の原撰本)では74番歌でなくこの歌が入っていた。
→清新な叙景歌であり74番の怨恋の歌とは大いに違う。定家の心境変化が取沙汰されている。
・エピソード
或る歌合で名前を書かずに歌を提出、講師の催促にそのまま読めとて読ませた。
卯の花の身の白髪とも見ゆるかな賤が垣根もとしよりにけり
→嫌味っぽい。そもそも俊頼=年寄りでありあまりいい名前ではない。自虐の一面も。
70番歌の所で小町姐さんよりご指摘いただいたエピソード
後に歌壇の第一人者「金葉和歌集」を編んだ74源俊頼(憂かりける)が大原に出かけた。
俊頼は良暹の旧房の前を通り過ぎる際、下馬の礼をとったという。
→初めて「秋の夕暮」を詠み新古今への道筋を示した良暹に心寄せるところがあったのだろう。
③74番歌 憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを
・「権中納言俊忠の家に恋十首の歌よみ侍りける時」
また定家の祖父(俊成の父)俊忠が登場(72番歌紀伊の歌合の相手だった)
恋の題は「祈れども逢はざる恋」
→新しい題と言おうか。細かな状況設定と言おうか。でも詠むしかない。
・憂かれける人=私につれなかった人 なびいてくれなかった人
初瀬の長谷寺観音にやさしくしてくれとお祈りしたのに山おろしのように激しかった。
→俊頼自身を詠んだものでなく女性になり代わって詠んだとするのが自然ではないか。
・定家は74番歌を激賞している。
是は心ふかくことば心にまかせて、まねぶともいひつづけがたく、まことに及ぶまじき姿なり
後鳥羽院も誉めている。
俊頼堪能のものなり。もみもみと人はえよみおほせぬ様なる姿もあり。
・長谷寺の十一面観音は恋のご利益祈願として有名。王朝貴女たちもしばしば訪れている。
.53道綱母は初瀬詣でに2回(蜻蛉日記)
→74番歌は兼家のつれなさを詠んだ道綱母の気持ちかもしれない。
.62清少納言 枕草子第12段(講談社学術文庫)
市は、辰の市。里の市。海石榴市(つばいち)、大和にあまたある中に、長谷にまうづる人のかならずそこに泊まるは、観音の縁のあるにやと、心ことなり。
.菅原孝標女 更級日記
二度も訪れている。宇治で源氏物語浮舟を偲び、道中怖い思いもしながら初瀬観音に詣でた感激が綴られている。
.源氏物語
玉鬘の初瀬詣でについては35番歌の項より引用します。
初瀬椿市は右近が玉鬘に巡り合うところ(玉鬘7.)
→源氏物語屈指の名場面
二人の歌の贈答、喜びがほとばしる。
ふたもとの杉のたちどをたづねずはふる川のべに君をみましや(右近)
初瀬川はやくのことは知らねども今日の逢ふ瀬に身さへながれぬ(玉鬘)
→長谷寺へ行かれたら「二本の杉」(登廊入口付近を右に)をお見逃しなく
.うかれける人や初瀬の山桜(芭蕉)
→芭蕉初期の作。古典を踏まえて詠んでいた時期。74番歌に拠るもの。
本歌の評価ですが、よく分かりません。46番歌「由良の門を」と同じく新鮮さは感じるのですが題に合わせて作り上げた歌という感じがぬぐえません。
④源氏物語との関連 他
・宇治十帖では長谷寺詣でが何度も登場する。
浮舟は母と二人でまた単独で参詣。その浮舟を助けた妹尼も何度か長谷寺に詣でている。
→宇治十帖の方が宗教に救いを求める度合いが強くなってるように感じる。
・六条御息所は「憂かりける人」(源氏)の心変わりを日々伊勢神宮で神に祈っていたのではなかろうか。これぞ「祈れども逢はざる恋」ではなかろうか。
・最後に初瀬と言えばは万葉集の巻頭を飾る雄略天皇の名問いの歌を挙げねばなりますまい。
籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜採ます児
家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は 押しなべて 我れこそ居れ
しきなべて 我れこそいませ 我れこそば 告らめ 家をも名をも
この人が71番歌「夕されば」の経信の三男である。
源俊頼朝臣と源智平朝臣、お名前が似ていてとても親しみを感じます。
でも俊頼(年寄)より智平が良いな~
漢詩、和歌、管弦に秀でた父とともに摂関家の和歌催事に詠んだ歌。
山桜さき初めしよりひさかたの雲居に見ゆる滝のしら糸(金葉集)
父、経信は公任の再来と目されながらも白河院からは勅撰も院宣も下りず不動の第一人者もついに勅撰撰者にはなれなかった。
息子、俊頼も官位には恵まれなかったが白河上皇より金葉和歌集の編纂を命じられた。
奏覧された選集は意に染まず脚下、ようやく三度目で裁可が下されたと言う。
斬新かつ自在、題詠の名手、伝統も流行も取り入れた俊頼は四半世紀の時を経て歌壇の第一人者となった。
俊頼は篳篥の奏者で笛の名手、堀河天皇に近侍し管弦の雅宴に連なりその後に催される歌席でも和歌を詠じた。
後世、題詠の規範となった「堀河百首」は俊頼が発案した詩的な百首歌を原型としている。
歌論書「俊頼髄脳」いいですね、まさにその通りだと思います。
「歌はわが秋津州の国のたはぶれ遊び」
さて74番歌
憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを
字余りですが「山おろしよ」との呼びかけが絶妙ですね、好きです。
ここでも初瀬が登場、長谷寺と言えば限りなく和歌や物語の背景としては永遠の地、私にとっても懐かしき思い出の地である。
映画「ちはやふる」でのかるたの覚え方。
うっかり(憂かりける)ハゲ(はげしかれ)と覚えた歌です。忘れませんよ!!
和歌史上の巨人でもある俊頼朝臣さまに何というご無礼を、お許しください。
「祈れども逢はざる恋」での詠作、百々爺さんっおっしゃるように定家は絶賛していますね。
鶉鳴く真野の入江の浜風に尾花波よる秋の夕暮れ(金葉集)
これが俊頼の自讃歌らしい。
俊成も「これほどの歌たやすくはいできがたし」と発言している。
俊頼に私淑し宮廷歌壇を指導した俊成(83)・そして定家(97)に、また俊頼の息子で芸術家集団(歌林苑)を主宰した俊恵(85)に俊頼の遺産は受け継がれていく。
・白河院について考えてみました。
〇白河天皇(白河院)という人、政治的には院政を開始した天皇(1086年24才の若さで8才の息子堀河天皇に譲位、以後40年以上上皇・法皇として子の堀河天皇・孫の鳥羽天皇・曾孫の崇徳天皇を庇護・後見し院庁を置き専制政治を行った)として有名だが文化的にも色々業績を残している。
〇自らも和歌を詠じ勅撰集に29首入選
二つの勅撰集を編ませている。
後拾遺集 1087年 1218首 14首 撰者 藤原通俊
金葉集 1126年 650首 5首 撰者 源俊頼
→ご指摘通り金葉集では自分の気に入る内容になるまで三度も修正させている。歌人としての矜持もありやっかいな人だったのでしょう。
〇女性関係も中宮・女御・典侍・女房・祇園女御他その数知れず。
待賢門院璋子とのこと。平清盛も白河院のご落胤との説あり。
→光源氏も真っ青。白河院は光源氏を越えようと考えていたのかもしれない。
源氏物語絵巻(国宝)も白河院が画かせたという説が有力とのこと。
→既にこの頃源氏物語は皇族・貴族の世界で不動の地位を確立していたのでしょう。全部残っていれば素晴らしかったのに、残念。
・「憂かりける人」
最初百人一首を通読したとき意味がさっぱり分かりませんでした。リズムも悪いし未だにどうもいい歌としては響いてきません。でも和歌に新風を吹き込もうと色々工夫をし挑戦したのだと思います。
→初瀬の長谷寺が詠み込まれているだけで十分価値があると思ってますが、、。
源俊頼はこの時代の天才歌人で、父経信の七光りもあって早くから歌合せに参加していたようですが、強引なことのできない気の弱さもあり、宮廷の行事を勤めたとき、彼の声はかすかで、聞き取れないほどだったそうで、そういう性格が従四位上にとどまった理由の一つかもしれません。
俊頼が堀河天皇歌壇で、主導的な役割を果たすのは、天皇の叔父にあたる国信(国信は堀河天皇の母后賢子の弟)の推挽に負うところが多いようです。(「日本文学の歴史4」 角川書店)
作歌の手引書『俊頼髄脳』の記述のなかの「おほかた、歌の良しといふは、心をさきとして、珍しき節をもとめ、詞をかざり詠むべきなり」は、まさにそのとおりだなと思いますね。
謡曲『玉葛』にある「憂かりける人を初瀬の山颪、烈しく落ちて露も涙も散りぢりに」は、千載集、恋二、源俊頼のこの74番歌「憂かりける人を初瀬の山おろしよ烈しかれとは祈らぬものを」を使っています。
謡曲『道成寺』にある「難波江の藻に埋もるる玉柏あからさまなる」(宝生流の地の詞章のなかにある。観世流にはこの部分なし)は、千載集、恋一、俊頼の歌「難波江の藻に埋もるる玉柏あらはれてだに人を恋ひばや」からきています。
・源俊頼は気が弱くて声も小さかったのですか。どんな時代でもそれじゃあエラクはなれませんよね。やはり大声で多少強引な性格でないとダメなんでしょうね。
→でも勅撰集の撰者となり百人一首の背番号74をいただき後世の我らに堀河歌壇の重鎮として崇められているんだからそれで十分ですよ、俊頼朝臣!
・源国信は堀河天皇の叔父だったのですか。その天皇の叔父源国信に目をかけられたのが源俊頼だったということですか。なるほど。
〇天皇の叔父になった歌人っていましたね。
25藤原定方(姉の胤子が宇多帝妃でその子が醍醐帝)がそうでした。定方と同じく源国信も堀河歌壇では幅を利かせたのでしょうね。
〇この源国信は定家の百人秀歌に入っていて百人一首に入っていない3人の内の1人(他の2人は中宮定子と藤原長方)
百人秀歌にとられていて百人一首にとられなかった源国信の歌
春日野の下萌えわたる草の上につれなく見ゆる春の淡雪(新古今集)
八麻呂さんへの返信で書きますが74「憂かりける」も百人秀歌と違う歌がとられているし、源国信・源俊頼の二人は何か因縁がありますねぇ。
→二人の歌が百人一首に並んでおれば面白かったのに。。
王朝期末期の歌は、作者も知らぬ人が多く、なんだか歌も作者も取っ付きにくい印象を勝手に持っていましたが、こうして皆さんの解説・コメントを聞き、自分でも少し勉強してみると、なかなか面白いと思えるようになり、さすが定家が選んだ小倉百人一首だけのことはあると、再認識しています。よかったです。
この歌を、いつも参考にしている”田辺聖子の小倉百人一首”は”わかりにくい歌”と紹介し現代語訳していますが、これ訳もちと面白くなく、爺が引用してくれた、冒頭の訳のほうが、ずっと元の歌に近く解りやすく、いいですね。
ところで、爺と小町姐が触れている
”山桜さき初めしよりひさかたの雲居に見ゆる滝のしら糸(金葉集)”
の歌、WIKIによれば、百人秀歌と小倉百人一首の両方から定家が採った歌人で異なる歌が採られたのは、この俊頼一人と、爺本当ですか?
さて、千人万首を見ると、俊頼の歌がなんと71首も載っています。凄い数です。
その内から、少し紹介します。
樹陰風来
日ざかりはあそびてゆかむ影もよし真野の萩はら風たちにけり(散木奇歌集)
【補記】「遊びてゆかむ。影もよし。」と、二句・三句切れが弾んだような心持を伝える。夏の昼間のあふれる光、緑陰の涼しさ、歌枕真野(琵琶湖畔)の入江のひろがる情景など、言わずしてイメージが広がってくる。自由奔放な歌いぶりは俊頼の独擅場で、彼の特長が最も良く出た一首である。なお、『散木奇歌集』では夏の部に入っているので、萩の花はまだ咲いていないと考えるべきだろう。
翫明月
吹く風にあたりの空をはらはせてひとりもあゆむ秋の月かな(散木奇歌集)
帥大納言、筑紫にてかくれ給ひにければ、夢などの心地してあさましさに、かかることは世のつねの事ぞかしなど思ひ慰むれど、それは旅の空にて、物おそろしさもそひ、人の心もかはりたるやうにて、われが身もたひらかにとつかんことも、ありがたかりぬべきやうにおぼえて、ほけすぐる程に、おのづから涙のひまにおぼえける事をわざとにはあらねど書きおきたる中に、きぬの色などかへける次によめる
墨染の衣を袖にかさぬれば目も共にきるものにぞありける(散木奇歌集)
【語釈】◇帥大納言 作者の父、経信。◇目もともにきる 喪服を着ると、目がそれと共に涙でかすむ。「きる」は「(喪服を)着る」「(涙で視界が)霧る」の掛詞。
【補記】父の経信が永長二年(1097)閏正月六日、筑紫の大宰府で死去した時、俊頼は四十三歳であったが、父に従って筑紫にいたらしい。茫然自失する俊頼であったが、「涙のひまに」書き置いた歌は六十余首。日記風の記述も見え、『散木奇歌集』に異彩を放つ歌群である。掲出歌はその冒頭、喪服に着替えた際の作。
恨躬恥運雑歌百首より
世の中を思ひはてなば放ち鳥とびたちぬべき心ちこそすれ(散木奇歌集)
話は変わりますが、先週後半、姪の結婚式が大阪であり、この機会にと、丸二日、初秋の京都を訪れ、宇治にも足を運び、源氏物語ミュージアム、宇治上神社、興聖寺をめぐりましたが、ここの所、雨が多かったせいか宇治川の流れは激しく早く、まわりの山やお庭では少し紅葉も始まっており、みなさんといった思い出にもふけりながらゆっくり楽しんできました。
あとは、大徳寺 聚光院で、京都国立博物館に寄託していた狩野永徳とその父、松栄による本堂障壁画46面(全て国宝)が9年ぶりに里帰りし、一挙公開されていたので、同じく特別公開されていた、千住博の書院障壁画”滝”とともに見てきました。
明日、NHK Eテレ 21時30分からの ”趣味どきっ 国宝圧巻II !京都聚光院&智積院障壁画”で紹介されるので、興味ある方がおられれば見てください。
・そうですね、田辺聖子は「わかりにくい歌である」と断じてますねぇ。定家は絶賛してるのに。この辺がお聖さんの面目躍如なんでしょう。私も同感です。
・百人秀歌はご存知通り定家が百人一首以前に編んだ歌集ですが百人一首との違いは、
.百人秀歌は101人101首
.百人秀歌に入っていて百人一首に採られてないのは3人
(中宮定子・源国信・藤原長方)
.百人秀歌に入っておらず百人一首に入っているのが2人
(99後鳥羽院・100順徳院)
そして百人秀歌と百人一首で歌が替えられているのが1人でそれが源俊頼なんです。
百人秀歌の源俊頼の歌
山桜さき初めしよりひさかたの雲居に見ゆる滝のしら糸(金葉集)
百人一首の源俊頼の歌
憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを(千載集)
何故定家が源俊頼の歌を替えたのか色々謂われています。
・千人万首の俊頼の歌、多いですね。紹介ありがとうございます。
それまでの時代とは違った新しいモチーフの題材なんかが多いのでしょうか。
・京都・宇治、ゆっくり回られたようでよかったですね。「趣味どきっ 国宝圧巻II」見てみます。
→月曜日の「趣味どきっ! 損しないゴルフ」も見なきゃいけないし、忙しいですわ。。
小町姐さんに「源俊頼朝臣と源智平朝臣は名前が似ていてとても親しみを感じます。でも俊頼(年寄)より智平が良いな~」というコメントをいただき、びっくりしつつも、大喜びしています。そうは言っても、智平も来月には遂に古希に達して十分に年寄になるので、喜んでばかりいられない心境でもあります。
さて、源俊頼ですが、いわばプロの一流歌人&歌学者で、ネットで調べてみても歌関連以外のエピソードは見当たりません。歌人の人物像に焦点を当てたコメントを書きたい智平にはお手上げといったところですが、ネット・サーフィン中に、俊頼の和歌に対する考え方を藤原俊成並びに藤原定家と比較して記している興味深いブログ(「愛しい詩歌・高畑耕治の詩想」)を見付けましたので、そのポイントを紹介したいと存じます。
まず、藤原俊成ですが、彼の歌学書「新撰髄脳」で次のように記しています。
・凡そ歌は心ふかく姿きよげにて心をかしきところあるをすぐれたりといふべし。
・心姿あひ具することかたくば先づ心をとるべし。
即ち、俊成は表現方法や言葉の使い方も大切であるものの、「先ず心を」を最重要視して、読者の心にふかく響き、揺り動かす歌が良い歌としています。
次に、源俊頼は「俊頼髄脳」で次のように記しています。
・おほかた、歌の良しといふは、心をさきとして、珍しき節(ふし)をもとめ、詞(ことば)をかざり詠むべきなり。心あれど、詞かざらねば、歌おもてめでたしと聞こえず。詞かざりたれど、させる節なければ、良しとも聞えず。めでたき節あれども、優(いう)なる心ことばなければ、また、わろし。
即ち、俊頼は心、節、詞のどれが欠けても良い歌とはいえないとし、3者の間に軽重をつけていません。
最後に、藤原定家ですが、彼は「先ず言葉をこそ」と述べて、言葉や表現の重要性を強調しています。(注)これは高畑氏の説明で出典は不明。定家は「余情妖艶」とか「有心(心あり、心深し)」を重視していると言われているというのが、智平の理解。
高畑氏は「(姿よりも)先ず心を」という選択が日本の詩歌の豊かな川の主流となって流れ続けており、自分もそうした俊成の選択が好きであると記しています。歌学には門外漢である智平は高畑氏による3人の考え方の比較や「先ず心を」という選択が日本の主流であるという説明を無条件で信じてよいのか否か迷っています。ついては、智平よりは遥かに和歌や歌学に造詣が深い百々爺を初めとする皆様方からのご教示を期待しております。
私、小町姐は全くの私見ではありますが先ずは「心有りき」だと考えます。
心有れば自ずとその発露として姿、形はついて来るものだと思います。
但し心有っても表現力が欠ければ歌は思う様に詠めないし言葉を鍛えることは大事です。
言葉を磨くのは持って生まれた天性もあるかも知れませんがやはり凡夫には難しい。ではどうすればいいか?
人生経験と共に多くの優秀な作品にあたるより他ないと考えますがいかがでしょうか?
さて俊頼についての記事を掲載します。
父の任地大宰府から帰洛後雅な言葉と伝統的な表現に飽き足らなく万葉の古風をたずね古語、俗語、そして卑語までも大胆に取り入れ私的な心情を吐露し宮廷詩としての和歌からは逸脱するような作品も自由に作り出した。
大宰府で異国の文化文物に接した事は彼の視野を大いに広げたことだろう。
二十年間を「前木工頭」して無官ですごした。
「歌よみ」ではなく「歌つくり」を自ら任じ「えも言はぬ詞どもを取り集めて切りこむなり」、良材を選び集め切って組み上げるという創作法には木工頭の役職に在った者らしさがのぞく。
「春雨」の題。
つくづくと思へば悲し数ならぬ身を知る雨よ小止みだにせよ
叙景の中に自己の内面を落とし込み個人の憂愁を三十一文字のしらべに乗せるのは万葉の大伴家持の作風に通うものがある。
又俊頼は勅撰集にはじめて連歌」の項目を立てる。
言葉を選び上句と下句を巧みに捌きどのように一種に組み上げるか、連歌の形式に自覚的だったこの人らしい。
気の利いた即詠も魅力だが和歌は確実に近現代の文芸へと近づいていた
(以上小林一彦)
ありがとうございます。
・スポーツでよく言われる「心」「技」「体」。何にでも通じると思います。三つとも大事なんでしょうがこの年になると第一は「体」。健康でないと心も病んでしまいますもんね。「健全な心は健全な身体に宿る」健康に注意しましょう。
→関係ないコメントですみません。
・俊頼の大宰府駐在に伴う経験談、ありがとうございます。京にだけ住んでいては味わえない様々な異国?体験をしたのでしょうね。「歌は詠むものでなくつくるもの」ですか。それにしても20年間も無官だったとは。でもそれで食っていけたのですから文句はないでしょうけどねぇ。
・古語、俗語、卑語まで取りいれ自由な作品を作り出した。
まさに革新歌人ですねぇ。革新とは伝統をぶち壊すことにある訳でその為には今までと違った「節」と「詞」を作り出す(見つけ出す)ことが必要だったのでしょう。
ネット・サーフィン、いいですよね。まさに波に揺られて。時には思いがけない所に行ってしまったりして。今回もいい所に辿り着いていただいたようでありがたいです。
歌学・歌論、俳句には程遠い五七五を並べているだけの私になんぞさっぱり分かりません。まあ感想もどきでご勘弁ください。
(最初の「新撰髄脳」の部分は俊成でなく藤原公任ですよね、念のため)
・和歌の三要素 「心」「節」(モチーフでしょうか)「詞」
三つとも大事だと思いますがそれぞれ違った要素ではないでしょうか。「心」は和歌とは何ぞやの本質論であり、「節」「詞」は優れた和歌を詠むための技術論。従って「心」はいつの時代でも変わらないが「節」「詞」は時代に応じ変わっていく。そんな感じですがいかがでしょう。
・和歌の本質論と言えばやはり古今集仮名序でしょう。
やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける 世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり 花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり(wikiよりコピペ)
→これは謂わば「和歌の定義」。これから外れるものは和歌ではない。
→確かによくできた名文で読む度に感動します。
・古今集で和歌が定義され、和歌は日本社会で確固たる地位を占めて行く。支配者階級・知的階級は和歌に情熱を注ぎその一つの頂点が公任の時代(道長摂関政治の最盛期)でしょう。
→公任の時代、ともすれば技巧に走り本質論から離れた歌が目についてきた。その風潮を一蹴したのが「先ず心を」のフレーズなんでしょうか。
・源俊頼は「心」「節」「詞」三位一体説ですか。
革新歌人である俊頼の言いたかったのは、「心」は当たり前で「詞」も大事だが、「珍しき節」こそ求めるべきことだ、、、ということでしょうか。
→「憂かりける人」なんて保守・伝統歌人には思いもつかなかった言い方だったのかもしれません。
・定家は後ほど考えてみます。
ややっ!! 7件のフィードバック?
そうか、今日は週明けではあるが火曜日なんだ。歳は取りたくないもの。こうした勘違いの日常が多くなった多寡秀であります。
74番歌
憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを
「憂かりけるひとを」と対象を述べて、一転して、挿入句「初瀬の山おろしよ」と呼びかける。「山おろし」の縁で、「はげしかれとは」といったかと思うと、「初瀬」の縁で「祈らぬものを」と逆転させて、強い抑揚・曲折を、一首の調子に表している。このような表現上の変化と、そこに生じるテンポ、音調の変化によって、恋の想いを詠いあげるのである。初瀬観音に訴える真意を内に隠して、叶わぬ恋に苦しむ男の心の中をうつし出して、秀歌の一つとして評価できる。(三木幸信、中川浩文)
やまあらしとやまおろし
山嵐 山颪 虱みたいなけったいな文字
22番歌 文屋康秀 吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ
いろんな解説書を読んでみると「山の颪」と書いたり、「初瀬の山嵐よ」と書いているところをみると、この場合大した差はなさそうです。
千載集の恋の歌。恋の気配は見えにくいけれど、恋に悩んだ男性が、自分につれない女性(憂かりける人)について、「もっと私にやさしくしてくれよ」と桜井市(奈良県)の初瀬の観音さまに祈ったのである。ところがビューッ、山おろしが激しく吹いてきて、「ああ、山の嵐も、あの人の仕打ちもきびしいんだよなあ。そんなことを祈ったわけじゃないのに」賽銭返せ、といった心境だろう。そこそこの役人であり、そこそこの歌人であった。
とは、阿刀田氏の評価。
さて横丁の御隠居さんの落語の解説。
くまさんの
「これ、どういう意味なんですか?」
問いかけに対して
「うっかり蹴ってしまったんだ」
「へえ?」
「暗い山道に寝転がってる人がいたんだな。それをうっかり蹴った」
「うかりける、ですか」
「さよう。そこへ山おろしが吹いてきて、かつらが飛びハゲ光れと祈ったわけではないのに」
はい、またしても御退屈様。
百々爺に締めなる、万葉集の巻頭を飾る雄略天皇の名問いの歌。
籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜採ます児
家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は 押しなべて 我れこそ居れ
しきなべて 我れこそいませ 我れこそば 告らめ 家をも名をも
何度も声を出して読んでみますと味が出てきますね。
初瀬・朝倉の地に歌碑があるんですね。納得です。
ほんと曜日感覚、日にち感覚が鈍ってますねぇ。3月は三重テラスであった「夏井いつき俳句教室」を一週間間違えて行けなかったし、先日は歯科の予約を忘れ電話を受け謝りました。ショックでした。
→未だゴルフの予定を忘れたことはありませんけどね。
・74番歌に対する三木幸信、中川浩文氏の賛辞、いいですねぇ。そう言われるとこの歌いかにも革新歌人の歌に相応しい新鮮な秀歌に思えてきます。百人一首の中では一番分かりにくいけったいな歌かもしれませんね。
・「うかりける」→「うっかり蹴る」
「やまおろし」→「やまたのおろち」
「はげしかれ」→「禿げし彼」
→小噺の宝庫みたいな歌ですね。
→枇杷の実さんのコメントにある芭蕉の「うかれける人や初瀬の山桜」も74番歌をもじった言葉遊びでしょうし。
万葉集の冒頭を飾る歌、初瀬界隈が雄略天皇の宮伝承地とは初めて知りました。
奈良観光のHP「歩く・なら」に”倭王武・雄略天皇の拠点へ”と初瀬川ルートが紹介されていました。
憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを
藤原俊忠(定家の祖父)の歌合の席での「祈れども逢わざる恋」という難しいお題。月並みな歌ではつまらないとばかりに技巧が冴えたをこの歌を詠んで歌学者の本領発揮といったところか。
恋の成就を祈った長谷観音の山から吹き下ろす嵐に向かって訴えるという特異な趣向(千人万首)とある。
定家はこの歌につき「これは心ふかく、詞心に任せて、学ぶともいひつづけがたく、まことに及ぶまじき姿也」と絶賛している。平安後期の歌壇の分裂と統一のなかで新派のさきがけをなしたのは源経信だが、その子、俊頼に至って新奇な素材、耳慣れない用語、異様な趣向などによって新派の歌風をいっそう徹底させていった。(小西甚一)「憂かりける人」なんて歌語もその表れか。
山桜咲きそめしより久方の雲居に見ゆる滝の白糸(金葉集)
百人秀歌(小倉百人一首の原撰本)にあるこの清新な歌が百人一首に採られていないのは一首前の73番歌が「山の桜」を詠んでおり、また二首あとの76番歌の「雲居にまがふ・・」と同じおもむき、類似した表現が近くに並ぶのことに。それを避け74番「憂かりける人」に入れ替えたとか。(織田庄吉)
「千人万首」にこの歌からの派生歌として、
年もへぬ祈る契りははつせ山をのへの鐘のよその夕暮 (藤原定家、新古今集)
(補記)恋の成就に霊験があるとされた長谷観音を詠むに際し、「はつせ山」に掛けて願掛けも「果つ」とし、また長谷寺の
名物であった「をのへの鐘」に寄せて、夕暮時の孤独に繋げた。
うかれける人や初瀬の山桜 (芭蕉)
74番歌のもじりで「憂かり」と「浮かれ」のラ行音の”かすり”という技巧が使ってあるのだそうだ。句の前書きに「初瀬にて人々花を見けるに」とあり、芭蕉が若い頃に愛宕山から長谷寺全景を眺めながらの句と想像されている。
・奈良観光のHP「歩く・なら」、見てみました。なるほど初瀬川沿いルート6.3km(長谷寺終点)ですか。いいですねぇ。奈良在住の在六少将さんが羨ましい。この辺なら次期ハイキング幹事の枇杷の実さんも苦労しないでしょうにねぇ。
・74番歌、分かりにくいけったいな歌というのが第一印象ですが新派の歌風が徹底された秀歌と言われれば確かにそう思えます。定家も絶賛、小西甚一先生も評価されてますね(「日本文学史」読んでみました)。
古今集で確立した和歌、それを革新した歌人の系譜は、
46曽禰好忠 - 71源経信 ― 74源俊頼
ということになるのでしょうか。
・おっ、「絢爛たる暗号」織田正吉さん登場しましたね。
何故定家は百人秀歌の俊頼の歌(「山桜」)を「憂かりける」に入れ替えたのか。73番、76番の叙景歌との重複を避けるためというのも一つの理由かもしれません。でも定家は百人秀歌選定時と百人一首選定時では和歌の評価基準が違ってきて革新性を強く打ち出したけったいな歌として「憂かりける」に替え、「まことに及ぶまじき姿也」と絶賛したのじゃないでしょうか。
最後に、みなさんのコメントを読ませていただき74番歌についてあれこれ考えましたが歌の主題、言葉遣いの新しさはそうかもしれませんが、やはり女性との恋を神仏に祈って成就を願うなんて女々しい。「男たるもの自分の力で何とかせんかい!」と思う(思うだけで実行力はない)百々爺であります。
→長谷寺観音は女性が恋の成就を祈りにいくお寺じゃなかったでしたっけねぇ。