謹賀新年
お正月いかがお過ごしだったでしょうか。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて、西行法師のご登場です。歌壇が題詠中心のお公家歌道になっていく中、独自の歌境を貫いた大歌人とお見受けしました。ちょっとパフォーマンス過剰で反発する向きもあるようですが、その生き様みていきましょう。
86.嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな
訳詩: うつけ者よ 月が嘆けと言っただろうか
物思いにふけれと言っただろうか
月にかこつけ溢れおちる
この涙 このわたしの涙
うつけ者の うつけ涙よ
作者:西行法師 1118-1190 73才 俗名 佐藤義清
出典:千載集 恋五929
詞書:「月前恋といへる心をよめる」
①西行法師 俗名 佐藤義清(のりきよ)
西行年表
1118 佐藤義清誕生(平清盛も同年生)(この年璋子鳥羽帝中宮になる)
1135@18 左兵衛尉、鳥羽院の北面武士
1140@23 出家、円位→西行を名乗る(妻と二人の子を捨てて)
洛外に草庵を結ぶ 第一回東北・陸奥旅行
1149@32 この頃高野山に草庵、しばしば吉野に入る
吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ
1156@39 保元の乱、崇徳院讃岐へ配流
1167@50 四国行脚、没後の崇徳院を偲ぶ
よしや君昔の玉の床とてもかゝらん後は何かはせん
1180@63 伊勢二見浦に草庵を結ぶ(1181平清盛死去)
ここもまた都のたつみしかぞ住む山こそかはれ名は宇治の里
1186@69 東大寺料勧進のため陸奥へ、途中源頼朝と会見
年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山(新古987)
1189@72 河内国弘川寺に草庵を結ぶ
1190@73 寂 願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ
・祖先は藤原秀郷(百足退治で有名な俵藤太)
父は左衛門尉佐藤康清(代々左衛門府勤めが多くそれで佐藤姓に)
徳大寺家(徳大寺実能-公能-実定)に仕える。
→徳大寺家出身の待賢門院・崇徳院につながる。
・18才で左衛門尉、20才で鳥羽院の北面武士
北面武士:白河院創設の院の直属護衛武士。院御所の北側(北面)に詰めた。
→和歌・故実に詳しく教養深い若きイケメンの武者姿。
→かっこいい!女性たちが騒いだのも無理なかろう。
・23才で突如出家、円位を名乗る。
出家の原因は、、、謎とされる。
親友の急死説、失恋説(待賢門院・美福門院・上西門院・上臈女房)、将来をはかなんで。
→やはり女性がからんでのことだろう。こんがらがり切羽詰まってニッチもサッチもいかなかったのかも。
→待賢門院は40才、美福門院22才、上西門院15才。何れもありそうな気がします。
・出家後、高野山~吉野、伊勢二見の草庵をベースに諸国行脚(東北・陸奥・四国讃岐・再び東北)、折々京の歌壇にも顔を出し皇族・貴族・歌人たちとも交流。
→出世をきっぱり捨てて歌に生きる生き様と歌の上手さで崇徳院・平清盛・源頼朝らトップにもお目見えし、世人の尊敬を一身に集める存在であった。
→出家後も後宮に出入りし女房たちとの歌の交流も盛ん。
②歌人としての西行
・詞花集初め勅撰集に205首(新古今は94首でトップ) 家集に「山家集」
説話集として「撰集抄」(自身作か)、「西行物語」
・生得の歌人 遁世歌人
歌風は率直、質実、平明、真率、具体的、、歌語にとらわれない自由な詠み振り。
→題詠でこねくり回した歌とは異なる。
・後鳥羽院が絶賛している(鳥羽院御口伝)
「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」
→近世和歌の大成者とも謂われ後世に与えた影響は大きいとされる。
・宮廷貴族の歌合には出詠を拒んだものの歌人たちとの交流、歌の贈答は極めて多岐にわたる。
「百人一首の作者達」(神田龍一)による交遊人は、
待賢門院璋子、80待賢門院堀河、95慈円、平清盛、源頼朝、85俊恵、90殷富門院大輔、98家隆、87寂蓮、97定家、83俊成、81実定、77崇徳院
→これはすごい。やはり誰しもが一目をおく自由人であったからだろう。
・西行の歌 春の桜と秋の月 そしてこれらが恋につながる。
分かりやすいいい歌が多い。二三ピックアップすると、
仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば
春風の花をちらすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり
何事のおわしますをば知らねどもかたじけなさに涙こぼるる(@伊勢神宮)
心なき身にもあはれは知られけり鴫たつ沢の秋の夕暮(三夕の歌)
さびしさにたへたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里
・西行に関する逸話はいっぱい。どうぞこれといったエピソード、コメントで紹介してください。
③86番歌 嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな
・「月が嘆けと言って物思いをさせるのか、月のせいで涙がこぼれ落ちることよ」
→恋の歌って感じがしない。
およそ魅力のない歌、おもしろくもなんともない、西行にしては技巧的な歌、、、。
解説書は挙って何故この歌が撰ばれたのか疑問を呈している。
→確かに分かりにくいし「月前恋」の心が伝わってこない。
(西行の歌はたいがい一読で理解できるがこの歌さっぱり分からない)
→何故この歌か。定家の我ら後世の人に対する挑戦状かもしれない。
・23番歌が本歌との説もある。
月見れば千々に物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど
それと伊勢物語第四段 業平の歌
月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして
→どうでしょう。23番歌は恋歌ではないし、ちょっと違う気がします。
・千人万首にも西行の月を詠んだ恋歌が多数載せられているがそちらの方がよさそうな気がする。その内の一つ、
面影の忘らるまじき別れかな名残を人の月にとどめて(新古今集)
④奥の細道との関連
・西行と言えばやはり芭蕉でしょう。芭蕉は西行を信仰的に尊敬していた。西行の500回忌ということで1689年(元禄2年)に奥の細道の旅に出た芭蕉。奥の細道に登場する西行をピックアップしておきましょう。
1. 遊行柳(黒羽を出て北に向かう芭蕉、芦野の里の西行ゆかりの柳を訪ねる)
又清水ながるるの柳は、芦野の里にありて、田の畔に残る。。。今日此の柳のかげにこそ立ちより侍りつれ。
田一枚植ゑて立去る柳かな
→道の辺に清水ながるる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ(西行 新古今集)
2. 象潟(象潟で西行が詠んだとされる(伝承)桜を訪ねる)
其の朝、天能く晴れて朝日花やかにさし出づる程に、象潟に舟をうかぶ。先づ能因嶋に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念(かたみ)をのこす。
→象潟の桜はなみに埋れてはなの上こぐ蜑のつり船(伝西行)
3. 汐越の松(加賀と越前の境にある汐越の松、西行の歌をそのまま引用し絶賛している)
越前の境、吉崎の入江を舟に棹さして、汐越の松を尋ぬ。
夜もすがら嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松
此の一首にて数景盡きたり。もし一弁を加ふるものは、無用の指を立つるがごとし。
4. 色の浜(敦賀の浜辺)
前日中秋の名月を雨で見られず「名月や北國日和定めなき」と詠んだ翌日
十六日、空晴れたれば、ますほの小貝ひろはんと、種の濱に舟を走す。。。。
波の間や小貝にまじる萩の塵
→汐そむるますほの小貝拾ふとて色の浜とはいうにやあらん(西行 山家集)
え
皆さま良いお年を迎えられたこととお喜び申し上げます。
今年もよろしくお願い致します。
冒頭に百々爺さんが毎回大岡信の訳詞を挙げて下さっています。
先日夕刊に大岡信(85歳)さんが自選詩集を出版したと、しかし闘病中で瞬きで意思を伝えながら奥さまと作品を選んだとの事。
いつも大岡信さんの百人一首の訳詞気に入っています。
又、近江神宮では百人一首の名人、クイーン戦が行われ映画「ちはやふる」の影響もあり観戦者が多かったようです。
それとシネマ歌舞伎阿古屋も観てきました。
先ず玉三郎の衣装の豪華さに目を引かれあの衣装で琴、三味線、胡弓の三つの楽器を弾きこなすのは至難の技と思いました。
難役ゆえに今まで阿古屋を演じたのは歌右衛門だけとか。
景清は能舞台で一度見ているが阿古屋は初めて、昨年秋に歌舞伎座で上演されたものを映画化した作品であった。
哀愁を帯びた胡弓の演奏が今も耳に残っている。
今年は酉年、談話室もいよいよ終盤、大きく羽ばたき見事な着地を決めましょう。
世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば (山上憶良)
さて本題の86番西行
嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな
余りにも有名な西行、何から始めればいいのか思い悩む。
元永元年(1118)生まれ、建久元年(1190)没、23歳で出家。
俗名佐藤義清、北面の武士、文武両道の美丈夫。カッコいい!!
出家の原因は何であったのか?
「源平盛衰記」にはある高貴な女性との恋に破れたとその経緯が書かれているそうですがその真相は確認できない。
西行の発心の源は恋故とぞ承る申すもおそれおおくも、上﨟女房を思い懸け進めらせたりける。
その72年の生涯は一体どんなものだったのか興味は尽きない。
西行に関する物の本は数えきれないほどあり過ぎてすべてには当たれない
凡夫の理解を超えた想像もつかない世界に遊離していたのではないか?
その人生観、世界観に圧倒される思いである。
放浪の旅に何を求め、何を得、何に到達したかは私には及ぶべくもないが歌こそ法、法こそ歌ではなかったか。
人知を超えた不思議な人物である。
百々爺さんが挙げられた後鳥羽院が絶賛している(鳥羽院御口伝)に何かを見いだせる気がするが素人には言葉にならない。
文章にすれば院の詞を汚しそうである。
これ以上の詞は見つからなく何かを書けば言葉が空しく響きそうです。
願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ
その通りに見事、あっ晴れな人生を生き切ったのではなかろうか。
ほととぎすなくなくこそは語らはめ死出の山路に君しかからば(堀川との贈答歌)
山深み小暗き峰の梢よりものものしくもわたる嵐か(寂然との贈答歌)
そして86番歌
嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな
これよりも他に良い歌が山ほどあると言うのに・・・
数ならぬ身をも心のあり顔に浮かれては又帰り来にけり
世をすつる人はまことにすつるかはすてぬ人こそすつるなりけり
山深くさこそ心のかよふともすまで哀はしらんものかは
数々の歌に西行を偲ぶより他はない。
改めて芭蕉の「おくの細道」を見ると西行を追体験しているのがよく解りますね。
先日の放送大学の講師(渡部泰明氏)の解説から少々紹介してみたい。
①西行と恋 ②山家集恋部の「月」歌群 ③恋百十首について ④西行の自嘆歌
以上四つの柱を立てた解説。
西行は恋(歌)を通して社会、政治、文化を語った。
嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな
嘆けと言って月が悩ませる訳ではないのに月のせいと言わぬばかりに涙が出る。
月を擬人化してユーモアを含み客観的に自身を外から眺めている。
月に託して心のあり方を問い人間の情念、恋の心を限りなく解き放ち人の心の奥にある言葉には表せない情動を引き出す役割を歌に託した。
西行は和泉式部の歌の精神の継承者であり反社会的な情動を脱社会的な情動に導いたという。
最後に西行の生涯の自信作としての自嘆歌
風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬわがおもひかな
「新古今」では雑に「西行上人集」では恋の部に。
信仰者としては心の奥に潜む闇への覚醒を促し、歌人、表現者としては人間の心を深く表したい、そういう果ての富士山の歌であると。
少し難しい解説でしたが孤高の人物、西行のイメージが少しだけ親しく感じられた。
(この放送は2014年の科目とのことでした)
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
小町姐さんが、放送大学について書かれているので、2015年5月21日、このブログに載せた小生のコメントを再載します。実は、三浦しおんさんも推奨の番組です。
”もうひとつ、今週月曜日にも改め書きましたが、放送大学で”和歌文学の世界”を見ています。
実はこの番組、三浦しおんさんが絶賛されている(読売新聞)番組で、小生は去年途中から見出し、この4月から再放送で去年見れなかった前半を今見ています”
ご存知とは思いますが、”和歌文学の世界”という講義内容を記した教材も出版されています。(西行の86番歌への下記小生コメントでも使わせてもらいます。)
もう一つ、歌舞伎の阿古屋、早速シネマ歌舞伎で観られましたか。小生は、これもブログに書きましたが、2015年10月、松竹創業120周年記念の東京歌舞伎座で観てきました。琴 三味線 胡弓の演奏のすばらしさと玉三郎の美しさに惚れ惚れしました。玉三郎は凄い、同感です。
シネマ歌舞伎も観たいと思っています。
悲しいかな、人間(特に私)の記憶の何と頼りない事よ。
以前に放送大学「和歌文学の世界」のこと八麻呂さんから教えていだき視聴の方法やチャンネルまで聞いていながらすっかり忘れているんですもの・・・
八麻呂さんや百々爺さんの「定家の方法」もすでにコメントされているのに忘れていました。
改めて過去ログを遡っていろいろ思い出しました。
たまには復習を兼ねて以前のブログを読んでみるのもいいものですね。
ついつい読んでいたら止まらなくなり長時間楽しんでしまいました。
八麻呂さんは「阿古屋」を歌舞伎座で生で観られたのでしたね。
誠に羨ましい限り、さぞや絢爛豪華なお衣裳を間近に鑑賞されたのでしょうね。
シネマは観る角度やアップ映像として違う視点で鑑賞でき玉三郎の心意気なども伝わり観比べるのもいいかもしれませんね。
こちらこそ最後まで伴走の程よろしくお願いいたします。
・大岡信の訳詩、私も大好きです。やはり詩人ですよね。ありきたりの訳では伝わらない詩情があふれてます。和歌や俳句の鑑賞には感情移入が必要なんでしょうね。
・新年から映画鑑賞やらテレビ講座やら相変わらず活動的ですねぇ。小町姐さん、本物の小町さんをはるかに凌駕してると思いますよ。
「花の色は移り変わらずとこしえに、、」益々頑張ってください。
・「歌こそ法、法こそ歌ではなかったか」
なるほど、いい詞ですね。西行がどれだけ仏道修行をし仏教に精通してたかはともかく、人間として人を包み込む包容力があったのでしょうね。歌も分かりやすいし、西行と話をしているとほっとしたのじゃないでしょうか。頼朝との問答の話など聞くとそう思います。まあこれも芸術の力なんでしょう。
・後鳥羽院の絶賛もすごいですね。これは後鳥羽院、心からのものだと思います。後鳥羽院が歌を始めた時(1199頃)、西行は既にいなかった(1190没)。いわばちょうど入れ違いですかね。後鳥羽院歌壇を築き新古今集を自ら編んだ後鳥羽院、さぞ西行と歌の交流ができてたらと残念に思ったことでしょう。
・「西行は和泉式部の歌の精神の継承者であり反社会的な情動を脱社会的な情動に導いたという」
西行と和泉式部、確かに歌の精神には通じるものがあるのでしょうかね。反社会的、脱社会的はよく分かりませんが、恋に関して言うと和泉式部は正に自由奔放思うがままに、一方西行は極めて理性的抑制的だと思うのですが。まあ、そういう素直な心を歌にするという観点では似ているのかもしれません。
今年は、好きな西行から始まり、うれしいです。
本年もよろしくお願いします。
爺が年始で書いている、お正月を皆さん元気に一家が集まり、大いに盛り上がったとのこと、昨夏のこともあったので、良かったなとうれしく思いました。
年明け1月4日から昨日まで奈良・京都に出かけてきました。天気もよく御朱印も集められ、うれしかったので、今年は、三つの”うれし”で年が始まりました、
京都では、1月7日丸山公園の南にある、西行庵を初めて訪れました。ここで西行はなくなったとの説がある場所。
願わくば花のもとにて春死なん その如月の望月のころ
西行を慕う芭蕉も何度もここに滞留したことがあるとのこと。西行を偲んできました。
西行が住んだところでは、2015年4月、桜の盛りに、京都洛西の山に立つ、勝持寺(通称、花の寺)にも行っています(このブログでも報告済みですが)。ここは、西行が出家し、庵を結んだところと言われ、交通の便が悪い山の中腹にあり、静かに西行桜が咲いていました。
そして、レポート済みですが、2016年4月12日花の吉野を訪問し、西行庵を訪れました。その時の紀行文から西行がらみの箇所を、抜粋しますが、西行庵は、3箇所行ったことに
なります。。
QT:
奥千本は、1-2Mぐらいの小さな背丈の植えたての桜が中心で、大きな桜は見えず、がっかり。それでも西行庵まで足を運んできました。
とくとくと落つも岩間の苔清水 汲みほすまでもなきすみかかな
吉野山去年の枝折の道かへて まだ見ぬ方の花をたすねむ
吉野山花のさかりは限りなし 青葉の奥もなほさかりにて
吉野山梢のはなを見し日より 心は身にもそはずなりにき
小生には、西行が見た桜は、遠き昔となりにけり。
芭蕉 露とくとく 試みに浮世すすがばや
苔清水は、まだ健在で水が流れていました。
UNQT:
爺の解説によると、諸説あるとのことですが、2015年にとった三田誠広先生の講座”古代ロマンの愉しみ”第五回で、西行について先生が小説風に決め付けて語られ、なるほど さもありなんと 感心しましたので、、その要約を紹介します。
*西行は、蹴鞠の達人で、貴族に呼ばれるようになり、やがて和歌でも顔を出すようになり、待賢門院障子のところでも出世して、側近のボディーガードみたいなものになります。このとき障子は三十歳後半で鳥羽天皇からも捨てられ寂しい晩年を送っております。お琴の先生を追いかけ回したり、ちょっと色情狂みたいな女になっています。それを西行が見ていた。西行は無骨な人です。後に和歌を詠むことになります。
嘆けとて月やは物を思はする かこち顔なるわが涙かな
恐らく待賢門院障子に恋をしたんだろうと思います。中宮ですから手の届かない人ですし、ちょっと危ない女性です。だから遠くから見ているしかない。西行は若いうちに仏門に入ります。これは、待賢門院障子との間が怪しいとうわさされたので、仏門に入ったんじゃないかと言われています。。
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そういう風に西行は貴族たちとも付き合いながら、待賢門院障子に恋をしていた。待賢門院障子というのは、「月」なんだろと思います。だから、月の出ている時に死にたいという。でもお釈迦様と一緒に二月に死にたい。ポイントは、二月十五日に桜が咲いているかどうかということです。三年に一度閏月が来ると、次の年十一月四日くらいが冬至になり、三ヵ月後の二月はじめに春分になります。春分から二週間ぐらい経ったら桜が満開になります。二月十五日に桜が咲いているのは、三年に一度。西行は、暦を知り、今年の二月十五日は桜が満開になると知った上で、正月あたりからだんだ飯を食うのをやめてしまい、一ヶ月前から断食をして、ぴったりと合わせる。命日が二月十六日です。十五夜を見て次の日に死んだのです。
願わくば花の下にて春死なん その望月の如月にころ
なかなか面白いいい話だと思い、紹介しました。
西行の出家のことが解る歌:
”源平盛衰記”によると、口にするのも恐れ多い上臈女房に懸想したが、「あこぎの浦ぞ」と言われて、断念し、出家したという。
伊勢の海あこぎが浦に引く綱も たび重なれば人もこそ知れ
思ひきや富士の高嶺に一夜寝て 雲の上なる月をみんとは 西行
出家の際に衣の裾に取りついて泣く子(4歳)を縁側から蹴落とし、詠んだ歌。
惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ
NHK”和歌文学の世界”第六章 ”西行の恋歌”を担当した、渡部秦明先生によると、
”山家集”の中巻の恋部に見られる、「月」題のもとに収められた三十九首である。
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なぜ西行は、ここまで月に執着して恋歌を詠んだのだろうか。と言われ
月見ればいでやと世のみ思ほえて 持たりにくくもなる心かな
物思ふ心の丈ぞ知られぬる 夜な夜な月をながめ明かして
思ひ出づることはいつともいひながら、月には堪えぬ心なりけり
夜もすがら月を見顔にもてなして 心の闇に迷ふころかな
物思ふ心の隅をのごひ棄てて くもらぬ月を見るよしもがな
ともすれば月すむそらにあくがるる心の果てを知るよしもがな
ゆくへなく月に心の澄み澄みて 果てはいかにかならんとすらん
秋の夜の月や涙をかこつらん 雲なき影をもてやつすとて
恋しさをもよほす月の影なれば こぼれかかりてかこつ涙か
嘆けとて月やは物を思わする かこちがほなるわが涙かな
と、たくさんの歌を挙げられいる。
どれもいい歌だと思うし、三田先生が言うように、心から恋した、手の届かぬ待賢門間障子が「月」であると思えば、すんなり歌も読めてくる。西行の歌は、わかりやすく、率直で自由であり、調子も流れるようで、でも人の心の奥に響いてくる深さがあるゆえ、好きなのだと思う。
同じく渡部先生によると、源氏物語の源氏と藤壺の逢瀬の歌を踏まえた歌として、以下挙げておられる。
今はさは覚めぬを夢になしはてて人に語らでやみねとぞ思う
ーーーそれならもう、恋の陶酔から醒めぬこの身をすっかり夢にしてしまって、人に秘密を漏らし、人の語り草とならないうちに二人のことは終わってしまえ、と願うのだ
源氏物語”若紫”より
見てもまた逢ふ夜まれなる 夢の中にやがてまぎるるわが身ともがな 光源氏
世語りに人や伝へんたぐひなく うき身を覚めぬ夢になしても 藤壺
爺からも紹介があったが、西行の自賛歌を、千人万首より
風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬ我が心てかな(新古1613)
【補記】『山家集』には見えない。慈円の『拾玉集』には「これぞわが第一の自嘆歌と申しし事を思ふなるべし」ともあり、
西行にとって最高の自信作であったらしい。
白洲正子さんは、著書 ”西行”の最後で「西行の真価は、信じがたい程の精神力を持って、数奇を貫いたところにあり、時には虹のようにはかなく、風のように無常迅速な、人の世のさだめを歌ったことにあると私は思う」とある。その通りと共鳴させられる。
好きな西行、長くなりましたが、この辺で
・いやあ、八麻呂さんの西行への思い入れは大したものですね。西行庵(円山公園南)、大原野勝持寺、西行庵(吉野奥千本)ですか。すごい。芭蕉も一目おくのじゃないでしょうか。
→西行は諸国行脚したのですから各地にゆかりの地はいっぱいあるのでしょう。今度の百人一首ゆかりの地巡りにも大歌人西行ははずせないでしょうね。
・三田先生の待賢門院説の紹介ありがとうございます。
何とも言えませんが待賢門院璋子は徳大寺出で西行の主筋ですから、当然璋子を敬愛してたし璋子も義清に声をかけるようなことはあったのでしょう。一夜の契りがあったのかどうか、まあ「あとはおぼろ~~あとはおぼろ~~」ですかね。
→でも若き北面武士義清が妻子がありながら勤め先のアチコチで女性に関るようになり、それが元で妻子と別れ出家の道を選んだのは間違いないような気がします。そういった人間的な苦悩もあって味のある歌を残せるようになったのでしょう。
・今はさは覚めぬを夢になしはてて人に語らでやみねとぞ思う
西行にこんな歌があるのですか、う~ん、正しく源氏・藤壷の禁断の契りですねぇ。紹介いただいた源氏と藤壷の歌の贈答。源氏物語の中でも一二のものでしょう。西行も自分の「禁じられた恋」を源氏物語になぞらえて詠んだのかもしれませんね。
同じく柏木と女三の宮が禁断の契りを交した後の歌の贈答にも通じますね。
(若菜下26)
起きてゆく空も知られぬあけぐれにいづくの露のかかる袖なり
(柏木)
あけぐれの空にうき身は消えななむ夢なりけりと見てもやむべく
(女三の宮)
明けましておめでとうございます。今年も世界の政治情勢が更に混迷を深める年となりそうですが、「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」の精神で百人一首の世界を楽しもうと思っていますので、どうぞよろしくお願いいたします。
新年最初に登場したのは超有名人の西行法師。百々爺の筆は益々冴え渡り、実に要領良く、西行の生涯・人間関係・エピソード・有名歌・奥の細道との関係などを解説していることに感心しました。
智平はコメントのネタを探すべく、例によって「西行」でネット検索をしたところ、何と780万のサイトがあることが分かりました。これは西行が超有名人であることに加えて、彼が日本各地を旅行して歌や逸話を残しているので、市町村の観光協会や住民が作成したサイトが沢山あるのも一因のようです。いずれにせよ、780万もあると1年かけても読み切れないと判断し、最初の数ページから見つけ出した智平好みのエピソードをいくつか紹介したいと思います。
1)謡曲「西行桜」の話
京都西山に住む西行法師の庵の桜が、満開で、毎年春になると大勢の人々が桜をめでに訪れます。西行法師はすげなく断ることも出来ず庭に通しますが、閑居を妨げられるので、これを厭わしく思い「花見んと群れつゝ人の来るのみぞ あたら桜のとがにはありける」と和歌を詠みます。その夜の夢に、木陰から白髪の老人が現れて、西行法師の詠んだ歌を口ずさむので不審に思っていると、老人は猶もこの歌の心を尋ねたい、桜のとがとは承服できないと不満を述べます。桜は無心の草木であるから、浮世のとがは無いのだと言います。そして自分は実は桜の精だと名乗り、歌仙西行に逢えたことを喜び、名所の桜を讃えて舞を舞い、春の夜を楽しみますが、やがて夜が明けると、老桜の精は別れを告げて消え失せ、西行の夢も覚めます。あたりは一面に敷きつめたように桜花が散り、人影も消えています。
2)西行水「泡子塚」の話(滋賀県観光情報に掲載。やはり謡曲にもなっている)
東国への旅の途中に、西行が米原市醒井の茶店に立ち寄ったところ、その茶店の娘が西行に恋をして、西行が立ち去った後に飲み残したお茶の泡を飲んだら、不思議にも懐妊して男の子を出産した。西行が東国からの帰途にこの茶店で娘から事の次第を聞き、子を熟視して「もし我が子ならば元の泡に帰れ」と祈り、「水上は清き流れの醒井に 浮世の垢をすすぎてやみん」と詠むと、子はたちまち消えて、元の泡になった。これを見た西行は、そこに石塔を建て、「泡子墓 一煎一服一期終 即今端的雲脚泡」と記した。この墓は今でも「泡子塚」として親しまれている。
3)落語「西行」の話
西行が北面の武士だった頃、絶世の美女である染殿の内侍が南禅寺に参詣した際に、菜の花畑に蝶が舞っているのを見て「蝶(丁)なれば二つか四つも舞うべきに 一つ舞うとはこれは半なり」と詠んだ(注:丁=偶数、半=奇数)。これに対して、佐藤義清(西行)は「一羽にて千鳥といへる名もあれば 一つ舞うとも蝶は蝶なり」と返歌した。(これがきっかけで義清(西行)は染殿の内侍への恋わずらいに陥り、話はまだまだ続くが、省略します)。
この辺で、「お後がよろしいようで」と止めるべきでしょうが、最後に百人一首の解説書の中で、智平が印象に残ったものを二つ紹介しておきたいと思います。
①白洲正子は、西行について「彼は歌人でも僧侶でもなく、手ぶらで人生の迷路を闊歩した見事な人間といえよう」と記している。
②目崎徳衛は、西行が新古今集巻18で「この道(歌道)こそ世の末に変らぬもの云々」との詞書を付きで次の歌を詠んでおり、歌道の永遠不滅の確信こそが西行の到達点だったと記している。
・末の世もこのなさけのみかはらずと 見し夢なくばよそに聞かまし
・誠に騒がしい世界情勢になりそうですね。こんな時こそアウトドアやら文藝やら遊びに精を出しましょう。元気あってのナンボのものでっせ。
・西行のインターネットサイトはそんなにありますか。人気者ですねぇ。謡曲、落語にもなっている。それだけ一般人にも親しまれ敬われている。位が高いエライお坊さんだとか、山に籠りっきりの遁世人だとかは玄人筋では評価もされようが普通の人には親しみは持てません。西行さんは俗と聖の間、一般人にも分かりやすい人間味のあるキャラの人とみなされてるのでしょうね。
→落語「西行」、面白そうですね。一度聞いてみたいです。
・白洲正子は「西行」の中で断定こそしないものの西行が出家するに及んだ恋慕の相手は待賢門院璋子であったろうとして数々の歌をあげている。また西行が出家後一時嵯峨に草庵を結んだのは、待賢門院が晩年を過ごした法金剛院があったからだろうと推測している。
→待賢門院が崩御したとき西行は間髪を入れず女房の堀河に弔問の歌を贈っている。表面はともかくも裏には悶々としたものがあったのであろう。
西行 尋ぬとも風の伝にも聞かじかし花と散りにし君が行くへを
堀河返し
吹く風の行へしらするものならば花と散るにもおくれざらまし
→この時西行28才(出家後5年)。この苦悶を経て西行は高野へ移り成長していったのだろうか。
西行は昔から好きで色々読んだのですが、記憶があちこち飛んでしまって整理するのが難しいです。
この86番歌は、月のように手の届かない相手に恋をして、心の動揺を包まず自然なままに出している歌のようです。「かこつ」ということばを歌に対して使用した例は西行以前にはなかったと学んだ覚えがあります。
西行の自信あるいは愛着のある歌であったらしく、晩年の自歌合せ御裳濯川歌合にも入れていて、二八番左「心深く姿優なり」と評されています。
西行の生涯には、貴族の随身のころ、武士のころ、僧になってからといくつもの変化はありますが、ずっと歌詠みでありました。貴族社会で磨かれた知性、つわものの裔の率直さ、脱俗の心、歌壇にこびない歌詠みの矜持、これらが人間西行の歌のもとになっていたのだと思われます。自由闊達、表現が自在、豊かな心がそのまま歌になっているからずっと愛される歌人だったのでしょうね。現代人の心にもしみじみとせまってきます。
勧進聖西行の69歳のころの歌
年たけてまた越ゆべしと思ひきやいのちなりけり小夜の中山
私の年齢からなのか、生きながらえた命の果てをしみじみと愛おしむ気持ちが伝わってきて良い歌だなと感じます。
謡曲『遊行柳』にある「道の辺に清水流るる柳蔭」は、新古今、夏、西行の歌「道の辺に清水流るる柳蔭しばしとてこそ立ちとまりつれ」からきています。
謡曲『西行桜』にある「花見んと群れつつ人の来るのみぞあたら桜の咎にはありける」は、山家集、西行の歌「花見にと群れつつひとの来るのみぞあたら桜の咎にはありける」を引いています。
謡曲『龍田』にある「あきしのや外山のもみぢ名に残る龍田の川に着きにけり」は、
新古今、冬、西行の歌「秋篠や外山の里やしぐるらん生駒の岳に雲のかかれる」からきています。
謡曲『芭蕉』にある「芭蕉に落ちて松の聲徒にや風の破るらん」は、山家集、西行の歌「風吹けばあだにやれゆく芭蕉葉のあればと身をも頼むべきかは」からきています
謡曲『芦刈』にある「津の國の難波の春は夢なれや芦の枯れ葉に風渡る」は、新古今、冬、西行の歌「津の國の難波の春は夢なれや芦の枯れ葉に風渡るなり」を引いています。
謡曲『江口』にある「げにや西行法師このところにて一夜の宿を借りけるに主の心なかりしかば 世の中を厭ふまでこそ難からめかりの宿りを惜しむ君かな と詠じけんもこのところにてのことなるべし」の中の歌は、新古今、羈旅、西行の歌「世の中を厭ふまでこそ難からめかりの宿りを惜しむ君かな」を引いています。
歌舞伎舞踊『時雨西行』も上記『江口』と同じく西行と遊女との時雨の雨宿りの出来事をテーマにしています。
・昔から古典や伝統芸能に親しんで来られた百合局さんには西行さんは、まあ友だちみたいな人なんでしょうね。各地を旅行すると各所に西行ゆかりの地があるし、芭蕉を読むと出て来るし、勿論能や歌舞伎にも。そんな友だちかけがえのない宝物じゃないですか。
→つくづく普段からの積み重ねが大事だと思います。
・西行に月の歌、月に因んだ恋の歌が多いのはやはり月を手の届かない恋の相手になぞらえているからなんでしょうかね(三田先生の説のように)。
・・・「私を慕うなんてとんでもない!義清よ、嘆きなさい、考え直しなさい」とあの待賢門院さまに責められた訳ではないけれど、でもやはり涙が止まらないのはあの方のせいなんだ・・・・
・年たけてまた越ゆべしと思ひきやいのちなりけり小夜の中山
69才、晩年東国へ勧進で出かけたときの歌ですね。
「いのちなりけり」がいいですね。西行は73才で没した。私らまだまだ飽きるほど桜を見てませんものね。
「願わくば花の下にて愛で舞はん如月弥生幾々年も」
で行きましょう。
皆さま新年おめでとうございます。それぞれに有意義な新年をお過ごしされましたようでなによりと存じます。
何にもまして、新しい年への心意気を感じる力作揃いのコメントに、出遅れながらも何とか付いていきたいと存じます。
86番歌 嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな
恋の気配を漂わせながらも武士として、また出家の身として凛々しく生きたのが西行法師(1118~1190)、この人には名歌がたくさんあるのに、なぜか小倉百人一首はつまらない歌を選んだ、というのが定説。それがこの86番歌。
西行は俗名を佐藤義清、若いときは北面の武士、すなわち御所を守るエリート、鳥羽上皇に仕え、文武に秀でた颯爽たる美丈夫であった。やんごとない女性と恋をして、一度は思いが叶ったものの女性がスキャンダルを恐れて「もうやめましょ」「わかりました」。これが原因で出家した、と下世話には伝えられているが、真相はもっと深いところでしょうね。早くから仏道に親しみ、人生への諦観を抱いていたからだろう。二十三歳の出家であった。それからは諸国を旅して苦行修行を重ねた。歌人としての力量は折り紙つきである。
たったいま述べた、やんごとない女性とは待賢門院璋子、鳥羽上皇の中宮だといううわさもあり、
「自分が仕えている上皇の奥さんにチョッカイを出したとなると・・・」
「ばれたら大変よね」
この噂はともかく、義清はよくもてた青年ではあったらしい。もて過ぎると、この世がむなしくなるのかもしれない。さくらが大好きで、
ねがはくは花のしたにて春死なむそのきさらぎの望月のころ
春二月、満月の桜の下、死にたい、と願って、その通りの頃に死んでいる。
百人一首に採られた歌について、もうひとこと言えば、これは千載集にあって、恋の歌分類されている。やんごとない女性と別れ、それが出家の理由と噂されていたとすれば、寂しい月影に世の無常を覚えて涙を流しても、
―はたから見れば失恋のせいって思うだろうなー
そういう自分の「かこち顔」を嘆いて詠ったのかもしれない。人は自分についての噂を厭いながらも、ついついそれにそうよう演じてしまうことがある。とりわけ恋愛に関わる噂では、決してないことではない。西行もそうだったのかな。微妙な心理を歌っているのかもしてない。(阿刀田高)
そして吉海直人氏曰く。
超一流の歌人たる西行が百人一首に撰入されている事に問題はなかろう。但し選ばれた歌にはいささか疑問が残る。。もちろん「嘆けとて」歌は、西行自らが「御裳灌河歌合」に撰んだ自信作のひとつであった。判者俊成も「心深く姿をかし」と評価し、それがそのまま「千載集」入集となって現れており、そこに俊成の西行観を認めることもできなくはない。ただし俊成の判は「両者ともに」であり、結局、歌合の勝負は「よき持」(引き分け)となっており、決してこの歌を最大級に評価していたわけではなかった。
それが定家に至ると突然高く評価され「八代抄」・「自筆本近代秀歌」・「秀歌体大略」・「八代集秀逸」に撰入されている。そこに定家の西行観、ひいては百人一首の撰歌意識を考える手がかりがあると思われる。それにしても西行の秀歌は多いわけで皆さんも挙げておられる、「心なき」や「寂しさに」や「年たけて」歌等、新古今集には実に九四首も撰ばれている。ところが定家はこれらの歌を「八代抄」に採っておらず、秀歌とは認めていなかったことが分かる。
加えてこの歌は、本科を二つも有している深みのある歌であった。その一つは大江千里の「月見れば千々に物こそかなしけれ我身ひとつの秋にはあらねど」(二三番)歌であり、もう一つは在原業平の秀歌「月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして」(伊勢物語第四段)である。
定家はこの歌の背景に「伊勢物語」世界を嗅ぎとっていたのではないだろうか。もしそうなら西行出家の背景として、業平同様に高貴な女性との悲恋が投影されることになり、まさしく人生史の象徴として再解釈できる。
西行歌の特徴を考えた場合、出家の身でありながら以外に恋歌が多かった。また花・月を題にしていることもあげられる。中でも月の歌は恋と結びつき、しばしば涙を伴っており、同発想の歌も少なくない。そういった西行歌的要素がこの「嘆けとて」歌にはすべて含まれていることになる。遁世歌人と言う西行像からは大きくはずれているものの、むしろこの歌こそが西行の実像であり、それ故にあえて定家はこれを代表歌として撰んだのではないだろうか。と説いておられます。
なにか、すと~んと腑に落ち、すっきりとした次第です。
お互い七の字に行きかかった新しい年、元気に張り切って参りましょう。よろしくお願いいたします。
・西行の生年は平清盛と同じ1118年なんですね。非常に示唆的だと思います。清盛は一説に白河院のご落胤と言われてる男。一方待賢門院璋子は1119年に(白河院との間に)顕仁親王(崇徳帝)を生んでいる。そして23才になった西行は待賢門院を思慕するあまり妻子を捨てて出家までしてしまう。
→白河院自身およびその後宮の乱脈さは道長・紫式部・和泉式部の時代より、いや、源氏物語の世界よりひどいのではないでしょうか。「よくやるよなあ」ってのが正直な感想です。
・「月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして」(伊勢物語第四段)
86番歌に業平と藤原高子との恋を想起しますか、なるほど。ただ高子はまだ入内前の藤原の娘だしちょっと違うかなという気がします。でも伊勢物語(第六十九段)には業平と斎宮との禁忌の情事もモザイク入りで語られており、まあ西行と待賢門院の関わりに伊勢物語の世界を感じるのはありかもしれませんね。
何ごともすっきりするのはけっこうなことです。よかったですね。
百々爺の解説と皆さんの多角的なコメントで集録されたこのブログを読むと、手元の解説本は無用とさえ思われます。
残すところ14首、今年も楽しませていただきます。宜しくお願いします。
さて、花と月の歌人といえば、西行。86番歌いついては十分にコメントされており、加えて特記するものはない。
ここでは山折哲雄「仏教民俗学」から抜粋して下記しておきます。
日本人が桜ということですぐに思い出されるのが西行法師である。一生のあいだ、桜を歌い続けて倦むことがなかった。なかでも吉野の桜を詠んだ歌はよく知られる。
西行は桜の花を見ているうちに、自分の心が俄かに騒ぎ出し、感情が激してきて、ついにその心が自分の体から花の方へと抜け出していく感じにとらわれる。
吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき(山家集)
桜の花を見て一時的な心の激発と飛翔感を経験するのは、なにも西行の時代にかぎらない。なぜならそれは季節の訪れとともに、毎年みられる光景だからである。
一般に花祭りといわれる行事は、日本の各地に様々な形で伝えられるが、花に対する日本人のこうした独自の感覚に深く根ざしていると考えられる。花祭りには、仏教本来の行事と直接に結びついた形のものがもともとあり、それが灌仏会である。
若くして出家した西行は諸国を遍歴し、山に登って修行したが、恋を歌い、自然を歌い、そして西方浄土に往生する気持ちを詠うこともやめなかった。その中に「見月思西といふことを」と詞書した次の歌がある。「見月思西」というのは西方、すなわち浄土を思い出すということである。
山の端にかくるる月をながむれば我も心の西にいるかな(山家集)
山の端にかかる月を見ていると、自分の心も次第に西方浄土にひかれていく、というもので山中浄土感が、この西行の歌にも表れている。
余談だが、ゴルフ練習場の隣に丸亀製麺があり、たまに腹ごなしに利用するが、店内の大きな額縁には
讃岐にはこれをば富士といいの山朝げ煙たたぬ日はなし
西行法師が四国修業の時の歌とされ、花も月も出てこないが、生活感があって良いのでは。ちなみに、讃岐富士の山麓には飯神社があり、古事記・国生みの神話に関連して、飯依比古(イヒヨリヒコ)、「穀物が集まる」神を祀る。
・山折哲雄「仏教民俗学」よりの紹介、ありがとうございます。
日本人は皆桜が好きですよねぇ。平安京の春、江戸のお花見、現代も桜の季節になると全国の桜の名所は観光客でごった返す。お花見に行かないと悪いことしたような気持ちにもなりますからねぇ。
→「菊と刀」もそうでしょうが「桜と鍬」でも日本人を語れるのかと思います。
・西行というと出家の原因とか待賢門院との関係とかに目が行って高野山~吉野に籠って桜に精神の高揚を覚え宗教的境地を開いて行った人生後半部分はすっと通り過しがちですが、実はこちらの方が肝腎なんでしょうね。
→「見月思西」となると女性との恋のことなどはもう超越した境地でしょうね。
・桜を詠んだ有名歌(爺の愛唱歌)
世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし( 在原業平)
久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ(紀友則)
願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ(西行)
敷島の大和心を人問わば 朝日ににおう山桜花(本居宣長)
風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん(浅野内匠頭)
・えっ、枇杷の実さんの練習場ってロッキーでしたか。丸亀製麺、ありますよね。毎日のようにその道通ってるのですが、まだ食べたことありません。一度食べてみようと話しているところです。
→「富士といいの山」西行の歌ですか。店主も風流ですね。
三浦佑之氏のHPに下記の記事がありましたのでお知らせしておきます。
立正大学特別公開講座
親子対談~古事記を読み、物語を楽しむ~
文学部 三浦佑之教授 × 直木賞作家 三浦しをん氏
日時 平成29年2月18日(土) 14時30分~16時30分(開場 14時)
場所 品川キャンパス 石橋湛山記念講堂
定員 600名受講料無料(要申込み 先着順)応募方法インターネット応募 2月17日(金)まで
往復はがきで応募 2月9日(木)必着
往信欄に「公開講座参加希望」、郵便番号、住所、お名前(ふりがな)、電話番号、同伴者数(2名まで)を、返信宛名に返信先の郵便番号、住所、宛名をご記入のうえ、下記あてにご応募ください。
〒141-8602 東京都品川区大崎4-2-16
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