忍恋に命を細らせた式子内親王に続くのは、式子内親王の姉殷富門院(亮子内親王)に仕えた大輔。「くれないの涙」、これも強烈な恋の歌です。
90.見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず
訳詩: 見せてあげたいこの袖を あの方に
雄島の磯で濡れそぼっている漁夫の袖さえ
どれほど濡れても色まで変りはしないのに
わたしの袖は濡れに濡れて
紅に変ってしまった 血の涙いろに
作者:殷富門院大輔 生没年未詳 父は藤原北家勧修寺流従五位下藤原信成
出典:千載集 恋四886
詞書:「歌合し侍りける時、恋の歌とてよめる」
①殷富門院大輔 生没年 wikiに1130-1200 こうしておきましょう。70才
・父藤原信成 勧修寺流 即ち25藤原定方の末裔
母菅原在良の娘 即ち菅原道真の末裔
→まあここまで下るとあまり関係ないでしょうが。
・結婚歴はない。若くから末年までずっと亮子内親王に仕える。
→一生を亮子内親王家に捧げた人生と言えようか。
*女房勤めとは何たるかと考えてしまう。自身のためかお家のためか。
勤めた先が不婚を原則とする内親王家では結婚はためらわれたのであろう。
→女房と一口に言っても身分出自も色々、能力性格もあろうし一概には言えないであろうが。
・その亮子内親王1147-1216 後白河院の第一皇女 89式子内親王の同母姉
安徳帝、後鳥羽帝の准母 院号殷富門院(いんぷもんいん)
・百人一首の並びとしては、
88番 皇嘉門院(崇徳院中宮)の女房別当
89番 式子内親王(後白河院第三皇女)
90番 殷富門院(後白河院第一皇女)の女房大輔
女性が3人続く。それも強烈な恋の歌。
→一つ飛ばして92番二条院讃岐も女性の恋歌。定家の意図が窺われる。
②歌人としての殷富門院大輔
・亮子内親王家を代表し数々の宮廷・貴族の歌合に出詠
・千載集を始め勅撰集に63首(定家撰の新勅撰集には15首入集)
→定家が高く買っていたことが分かる。
・家集に「殷富門院大輔集」
多作家として名高くついたあだ名が「千首大輔」
→頭もきれ積極的で物怖じしない活発勝気な女性だったのだろうか。
・85俊恵法師主宰の歌林苑の常連メンバー
歌林苑に集まった歌人
82道因法師、84清輔、源頼政、90殷富門院大輔、92二条院讃岐、87寂蓮、鴨長明
→一流勤め先(亮子内親王家)ということで仲間も一目おいてたのだろう。
また86西行、97定家と交際交流している。
→定家は大輔よりも30才も年下。多作の先輩歌人に何かと教わったのだろう。
・鴨長明は無明抄で殷富門院大輔を小侍従と並ぶ女流歌人の双璧と賞賛している。
近く歌よみの上手にては、大輔、小侍従とてとりどりにいはれ侍りき
*****
小侍従1121-1201=二代の后(藤原多子)に仕えた女房歌人 勅撰集55首
母の父は菅原在良、従って殷富門院大輔の従姉にあたる。
平家物語巻五月見で81実定が同母姉の多子を訪れる段に登場、「待宵の小侍従」と呼ばれた。
待つ宵のふけゆく鐘の声きけばあかぬ別れの鳥はものかは(新古今集)
→以上、長い余談、すみません。
*****
・「この人は恋の歌を作らせると、時として激越で感覚がするどい。人しれぬ悲恋を経験した女性だったのかもしれぬ」(田辺聖子)
なにかとふよも長からじさのみやは憂きにたへたる命なるべき(新古今集)
〈あなた、どうしてそう、あたしを嫌うの? あたし、とても長くは生きていないでしょうよ、だっていつまでもこんな辛さに堪えていられないんだもの〉(田辺聖子訳)
→確かにこんな官能的な歌、普通未婚者には詠めないでしょうにねぇ。
③90番歌 見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず
・「見せばやな~~」呼びかけの第一句。朗々と読みあげられると
→「えっ、何、何。何を見せたいの?」と引き込まれてしまう。
この「見せばやな」は「見せてさしあげたい」と言うより「ほら、よく見てよ!」という感じだろうか。
・本歌 48源重之
松島や雄島の磯にあさりせしあまの袖こそかくはぬれしか(後拾遺集)
→48番で述べたが源重之は陸奥に縁が深かった。実際に雄島も訪れていたのだろう。
・「雄島の海人」はセット
海人の生活ぶり。毎日ずぶ濡れになって魚を獲り若布を刈り塩を焼く。都人から見るととんでもないタフな生活。
・「いつも濡れてる海人の袖の色は変わらないでしょうが、私の袖は血の涙で色も変わってるんですよ」
血の涙=漢籍からの引用 王朝では「恋の涙は血の涙」
→技巧を駆使して本歌を超える歌とされる。定家も気に入って百人一首の歌としたのであろう。
・派生歌
松島や雄島の海人も心あらば月に今宵袖ぬらすらん(二条院讃岐)
袖のいろは人のとふまでなりもせよ深き思を君にたのまば(式子内親王)
④源氏物語他との関連
・紅涙
くれなゐの涙にふかき袖の色をあさみどりとや言ひしをるべき(夕霧@少女)
→これは恋の涙ではなく源氏のスパルタ方針で六位スタートとなった夕霧が流した悔し涙。
伊勢物語第六十九段(業平-伊勢斎宮の重要段)
その男(狩りの使い)が伊勢の斎宮を訪れ歌を交し合った翌日、今度こそは逢って思いを遂げたいと思ったが邪魔が入って逢えなかったというくだり。
狩りの使ありと聞きて、夜ひと夜酒飲みしければ、もはらあひごともえせで、明けば尾張の国へたちなむとすれば、男も人知れず血の涙を流せどえ逢はず。
・源重之の歌以来歌枕となった松島の雄島、勿論芭蕉も奥の細道で立ち寄っているが、雄島では特に和歌の引用もなく塩竈から舟で松島に渡ったとすっと述べている。
日既に午にちかし。船をかりて松嶋にわたる。其の間二里餘、雄嶋の磯につく。
→この後に松島の名文描写が続く。
最後に改めて89番式子内親王、90番殷富門院大輔と並べてみると結婚に縁のなかった二人の題詠とは言え恋の想いを相手に訴える強烈さにたじろぐ思いがする。
89玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
90見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず
松風有情さんの90番絵です。ありがとうございました。
http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2017/02/KIMG0107_20170203125059.jpg
「殷富門院」?えっ!!あ~あ~(溜息)この人も初めて聞く名前、読み方さえも分からない?
と思っていたら百々爺さん、先の89番、式子内親王の解説で同母姉に亮子内親王(殷富門院)、とあり二人とも後白河院の子どもと知る。読みは「いんぷもんいん」 難しい!!
高貴な女性じゃないですか、その皇女に仕えた女房が大輔。
女房の出自も前を辿れば結構なものですね。
後白河天皇の第一皇女と言うことは先の式子内親王のお姉さまということですね。
この所88(皇嘉門院別当)89(式子内親王)90(殷冨門院大輔)と三首連続して皇室関係の女性とその女房。
皇女と内親王そして女院と門院、皇室の女性の呼び方が紛らわしく思っていた所、百々爺さんが前回、前々回と折よくまとめて下さっているので再度復習の為、引用させていただきます。
皇女と内親王
天皇の娘が皇女。その中で親王宣下を受けたのが内親王。
皇女でも母の身分が低いとかの場合内親王にはなれない
女院
皇后ないしそれに準ずる身分(内親王を含む)の女性が出家したときに宣せられる称号。一条天皇の母詮子(兼家の娘、道長の姉)が最初(東三条院)
それまで出家すれば后妃の待遇は停止だったが女院とすることで后妃待遇を継続させた。
門院
女院の名称に内裏の門名が付けられたもの(門を称号としてない女院もいる。二条院・八条院など)。一条帝中宮彰子が上東門院と呼ばれたのが最初。大内裏の門は禁門と呼ばれ十四あった(待賢門・皇嘉門・殷富門ともに大内裏の門)。これだけでは足らなくなり内裏の外郭内郭の門名も付けられるようになった(建礼門・建春門など)。
これらの皇室の女性で斎王になれるのは天皇の皇女(処女)にかぎる。
斎宮歴史博物館の資料を開いてみると最初の斎王、大伯は皇女。
そして伊勢物語69段恬子(やすこ)は内親王、最後の斎宮は祥子内親王、他にも女王と名のつく斎王がみられる。
さらに斎王一覧表を見ると斎王の時代と続柄、在任期間、群行があったかなかったか天皇は誰であったかも詳しい。
斎王に撰ばれたものの群行のなかった斎王もあったとの事。
殷冨門院(亮子内親王)も後白河天皇の第一皇女で伊勢の斎宮を務めている(1156~1158)但し群行は無かった。
斎王のイメージは百々爺さんも前に触れているように京から遥か離れた地でいつ帰れるかもしれず神に身をささげるというイメージ。人々は畏れ多く無垢で神々しいと同時にちょっとお気の毒と述べられている。
私も斎王は悲しみの皇女と言ったイメージが大きかったのですが一連のテレビ番組、「斎宮幻の皇女」を見た後は認識が少し変わりました。
天皇の名代として誇りを抱きつつ何年も都を離れ喜びも悲しみも秘めた強い女性。
生身の人間として忍ぶ恋、秘めたる恋もし意思を持った人間皇女であると感じた。
大きく脱線してしまいました。
さて本題の90番 殷冨門院大輔の歌
見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず
いきなり「見せばやな」と言いきって強い意志を感じさせるのが好もしい。
訳詞の 「紅に変ってしまった 血の涙いろに」もいいですね。
激情の情熱歌人を思わせます。
妹の式子内親王とその姉君に仕えた女房大輔の和歌が仲良く並んでいる、定家も粋なことをやりますよね。
最後に松風有情さん90番絵、ありがとうございます。
青い海に浮かぶ緑の島々。故郷、伊勢志摩のリアスの美しい海を想像しております。
・殷富門院「いんぷもんいん」
どんな読み方するんだろうと調べてみたら「いんぷ」。「えっ、ちょっと」と思いましたが、考え過ぎでしょうね。「殷富」=富み栄えること、素直に読めばいいんです。
・斎宮歴史博物館の資料の紹介ありがとうございます。三重県、三重テレビも力入ってますね。
亮子内親王は斎宮に卜定されて2年間(1156-58)嵯峨野の野宮神社で潔斎してたが天皇が後白河帝から二条帝に替ったので実際には伊勢には行かず、次妹の好子内親王に交代。好子内親王が伊勢に群行した(1160)。時を同じくして第三皇女式子内親王は賀茂神社の斎院になっている(1159-1169)。
→神に仕える内親王。誠にご苦労さまであります。
→歴史に残る最初の斎宮(斎王)は大伯なんでしょうが、遠く神代の時代から「神にお仕えする」というお役目はあったのでしょう。
→亮子内親王の場合、斎宮に卜定されて潔斎中に交代となり結局は伊勢には赴かなかった。この2年間は伊勢には斎宮はいなかったのか?それとも後任の好子内親王が来るまで前任の斎宮( 喜子内親王)が留まっていたのでしょうか。
・みなさんからのコメントを読むと殷冨門院大輔は場数を踏んだ経験豊富な歌人だったようですね。「見せばやな」も「ここは一丁かましたろか」って感じで弾んで詠んでるように感じます。
ちょっと安心。
百々爺さんにおかれましても想像されることは私と変わらない・・・
「殷富門院」淫らどころか冨み栄える高貴な女性でした。
次に想像したのは殷の紂王。
これらも最初の下書にはあったのですがブログに似合わないかなと削除しました。
斎王一覧表によると亮子内親王のように斎宮に卜定されるも群行のなかった皇女が他にも結構あった事がわかります。
亮子内親王が潔斎中、好子内親王に交代する間、伊勢には斎宮がおかれなかったように見られます。と言うのは
善子内親王(1151~1155)
亮子内親王(1156~1158)群行無し。
好子内親王(1158~1165)と7年間務めています。(斎王一覧表より)
そして大伯皇女以前の伝承時代の斎王には豊鍬入姫(とよすきいりひめ)ー崇神天皇 倭姫ー垂仁天皇 稚足姫(わかたらひめ)-雄略天皇、~推古天皇まで他にも姫君がおられます。
追記
前回 、亮子内親王は安徳、後鳥羽、順徳帝の准母、とあり准母って?
今回智平さんの詳しい説明でこの疑問も氷解しました。
ありがとうございます。
斎宮は天皇が代り退下となるとすぐ帰ってしまう。新任の斎宮は2年間野宮で潔斎。亮子内親王の場合2年潔斎したがまた交代になり次の好子内親王が2年潔斎してやっと伊勢に赴いた。
→4年間も斎宮は伊勢には不在だった。こんなんでいいんでしょうかねぇ。
→別に潔斎を済ませた亮子内親王がそのまま二条帝の斎宮として伊勢に行けばいいと思うんですけど。
(まあ何ごとも神の思し召し、余計なことは言わないようしましょう)
http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2017/02/KIMG0107_20170203125059.jpg
いや~朝からのフェニックスオープンLIVE ハラハラドキドキでした。
松山英樹連覇おめでとう。
遅ればせながら#90番歌のコメントします。
松嶋は残念ながらまだ訪れたことのない地なので、我が古里の九十九島を思い出しながら描いてみました。
実際に見ていたら芭蕉が発句出来なかった様に迂闊に描けなかったかもです。
芭蕉に代わり曽良の歌は
松嶋や 鶴に身をかれ ほととぎす
松嶋や、さて松嶋や松嶋や~
菜々子姫 むかしは女優 今や騎手
東北つながりで津軽塗りの漆器に『菜々子塗り』なる珍品もあるそうですが手に取って見てみたい。
大分脱線しました。
・昨日午前中は取り込みあり、松山くんの快挙もペイトリオッツの史上最大の大逆転劇もライブでは見落としてしまいました。録画では見ましたがやっぱりライブじゃないとねぇ。
→ヒデキ、間違いなく日本ゴルフ史上ナンバーワンでしょう。マスターズが楽しみです。
・九十九島、画像で見せてもらいました。よく似てますねぇ。序でに言えば英虞湾の景色もこんな感じですよ。
王朝の90番歌に芭蕉と曽良が登場するというこのチャランポランさが何とも言えずいいですね。有情流も大分確立してきた感じですね。ますます磨きをかけてください。
強烈な恋の歌が続きますねえ。
もしかしたら、真の強いプラトニックラブのほうが内に籠る分だけ激しい表現になるのだろうかな、とも思ったりします。
安東次男氏は「殷富門院大輔の歌も式子内親王の歌もともに恋愛至上主義の歌であるが、前者はポジティヴな形で、後者はネガティヴな形で表現している」と書いています。
馬場あき子氏は「大輔の歌は、内面的翳りが恋の情緒を重くし、社交的な宮廷の恋とは少しちがった趣きをもっている。 ~ ~ 鎌倉歌壇が後鳥羽院のエネルギッシュな行動力を中心に動き出すと、大輔の長い修練期を経た歌はいよいよその実力を発揮するようになる。 ~ ききつもる霜の齢の鐘の声年はふれどもすむ心かな というような晩年の歌をみると、歌の気力は充実していて、弛みがなく、歌の志をとげたものの自恃の心が静かに幸せにあるように思われてならない」と記しています。
大輔はこの時代としては70歳と長命で、実際の恋や結婚とは縁がなかったかもしれませんが、生涯歌を愛し、老いて後も場を得て、素晴らしい一生だったと私には思われます。
謡曲『柏崎』にある「道芝の露の憂き身の置き所たれに問はまし」は、続古今、哀傷、殷富門院大輔の歌「消えぬべき露の憂き身の置き所いづれの野辺の草葉なるらん」によっています。
・「真の強いプラトニックラブのほうが内に籠る分だけ激しい表現になる」
なるほど、現実に付き合っていればそうそうきれいごとばかりではおれませんものね。ましてや題詠となると想像の翼の世界。なんぼでも飛躍できるし飛び跳ねないと刺激的な作品にならない。
→歌合とはいかに激しい表現を引き出すかの競争みたいな面もあったのかもしれませんね。
・亮子内親王家で天皇・皇族とのお目見えもあったろうし、一方俊恵の歌林苑で老若男女幅広い歌人たちと交流を重ねた大輔。怖いものはないし堂々たる貫録の晩年だったのでしょう。
→こういう才女をものにしたいという貴公子は現れなかったのですかねぇ。もったいない。
このあたりいかにも定家が好きそうな歌が並んでいると思います。
小生には少し重たい歌が続きますが、こうして読んでいると、なんとなく親近感も湧いてくるものです。
さて、雄島、歌枕で有名ですが、2013年10月、爺が行った後を追い、小生も訪問しています(源氏物語のブログで紹介)。
2011年3月11日の東関東大震災の傷あとをこの旅で多く見ましたが、それでも消失した朱塗りの渡月橋が復元されており、きれいな雄島と松島を観ることが出来ました。
爺が引用してくれている派生歌のほかにも、
立ち帰りまたも見てけん松島や雄島のとまや浪にあらすな 藤原俊成
心ある雄島のあまのたもとかな月やどれとはぬれぬものから
後鳥羽院宮女 源師光女
そして、雄島にある句碑
朝よさをだれまつしまぞ片心 芭蕉
雄島や鶴にみをかれほととぎす 曾良 (おくのほそ道)
流石、雄島、いい歌と句が出てきます。
最後に、千人万首から、彼女の激しい恋の歌をもう一つ
題しらず
かはりゆく気色を見ても生ける身の命をあだに思ひけるかな(千載926)
・「このあたりいかにも定家が好きそうな歌が並んでいる」
そうですね、もう同時代の人たちですからね。大輔は定家より30才以上も年上ですが交流はあった。亮子内親王家には俊成の娘たちも出仕していたし、定家は亮子の同母妹式子内親王家の家司だったのですから、日常生活においても交流はあったろうし、歌に関して議論を戦わせることもあったのではないでしょうか。
→百人一首選定では殷富門院大輔はスンナリ撰に入ったのでしょうね。
・源重之、藤原実方、能因法師。彼らが詠みこんだ陸奥の歌枕は都人にとって行きたいけど行けない憧れの場所だったのでしょう。88難波江、90雄島、92沖の石。歌枕を入れた女流の歌が一つおきに並んでいるのも面白いですね。
・「抑々ことふりにたれど、松嶋は扶桑第一の好風にして、凡そ洞庭・西湖を恥ぢず」から始まる松島~雄島の描写は奥の細道の中でも出色の名文だと思います。練りに練り推敲に推敲を重ねたのでしょう。これだけの名文ができてしまったので俳句はあきらめた。むしろ載せない方がいいとして曽良の名前でわざとどうってことない「松嶋や鶴に身をかれほととぎす」を載せた、、、、なんて説もあったような。多分そんなところでしょう。名文、読んでみてください。
90番歌 見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず
殷富門院大輔の歌だ。女性である。殷富門院までが偉い皇女の称号で、この歌の詠み手は彼女に仕える女房で、大輔と呼ばれていた。歌はすこぶる巧みだったらしい。
恋の歌である。歌合わせ、つまり歌会のときに恋の歌として詠んだものだとか。恋の歌なら恋の歌らしく、楽しい恋、苦しい恋、恋ってものをきちんと歌えばよろしかろうに、名人上手となれば、そういう簡単なことはしない。言ってみれば間接話法だ。あなたに見せてあげたいわ、雄島で働く漁師の袖だってビショ濡れになっても色が変わらないのよ、であって、玄人筋の解釈では、なのに私の袖は苦しい恋の涙ですっかり色が変わってますのよ、それくらい泣いたんだから・・・憎らしい人に見せてやりたいわ、となる。
雄島というのは、これも玄人筋の知識では宮城県は松島群島の中の一つ、歌枕であり、歌人が実際に赴いて見聞しているわけではない。涙で色が変わったのは染料が溶け落ちたのではなく血の涙で赤く染まったのである。「あま」は「蜑」と書くこともあって、これは「海女」ではなく「海人」、男女を含む。元はと言えば、中国で漁撈を営む少数民族の謂である。
小倉百人一首の歌についていえば、いろいろな知識や約束事が伏在していて、だが当時の教養人なら、
―ははーん、なるほどー
いちいち説明なんかしなくたってわかったのだ。この恋歌をしていい歌かどうか、私はもっと直截のほうが好みだけれど、ピッチングで言えば変化球の妙でしょうね。歌っていないことを訴えるという手法である。(阿刀田高)
これだけ変化球を駆使されると、「現代の並みの男」には理解が及ばない。
昨夜読み終えた湊かなえの「山女日記」。
山渓に連載された山岳小説ではあるが、恋愛、結婚、離婚なんでもありの、男と女、女と女の物語。推理小説家の手になるとかくも見事な構成になるのかと、最後まで一気読みしてしまいます。
それにもまして、「今も昔も永遠に分かり合えないエイリアンの様な存在」が女性なのかもしれない、と、つくづく多寡爺は思うのであります。はい。
・玄人筋なんてのが登場するのが面白いですね。確かにある程度の知識がないと(ズブの素人では)チンプンカンプンかもしれませんね。
「海士」は職業ですが百人一首には他にどんな職業が詠み込まれているか、パラパラっと見てみました(見落としあるかもしれません)
11海人、46舟人、49衛士、78関守、90海士、93海士
→やはり漁業関係者が多い(農林業は歌には不向きだったのか)。
→それと警固関係、あと運送業。
・山男もドロドロの山女小説には圧倒されたようですね。
→源氏物語では紫の上が「山の女」、明石の君が「海の女」とされています。
殷富門院大輔は俊恵法師主宰の歌林苑の常連メンバーであり、いろいろな歌合にも参加していました。彼女は多くの歌人と交友関係を結び、エピソードも残しています。まず、そのいくつかを、「百人一首の作者達」(神田龍一)を参照しながら、紹介したいと存じます。
1)大輔は30歳の時、「藤原清輔家歌合」に初めて出詠し、この頃より大輔と清輔の交流が始まったようです。その後、二人は歌林苑の歌合、住吉社歌合、東山歌合で同席しています。
2)大輔と俊恵は個人的にも親しい間柄だったようで、大輔が俊恵の姉妹の新少将や二条院讃岐の父源三位頼政らと、秋に有馬温泉に湯あみに出掛けた時、旅に誘われなかった俊恵が歌で恨み言を伝えると、大輔は「旅の間、あなたのことばかり思い出していました」という返しの歌を送りました(大輔の家集に掲載)。
3)西行は伊勢に行った時に12,13歳年下の大輔へ貝を入れた箱を次の一首を添えて贈りました。「うらしまのこはなに物とひととはば あけてかいある箱とこたえよ」(←貝と甲斐の掛詞)。すると大輔は「いつしかもあけてかいある箱みれば よはひものふる心ちこそすれ」(←箱を開けたら、年取った気がした)。二人はこうしたたわいない歌のやり取りができるような打ち解けた仲であったようです。
4)大輔は7,8歳年下の寂蓮と住吉社歌合で対詠して、大輔が2勝1分けで寂蓮を負かしています。二人は「伊勢物語」の好事を偲んで感慨を述べ合っているし、大輔が大仏を拝みに奈良へ出掛けた時に、そこで出会った寂蓮と歌を詠み交わすなどしています。
5)大輔はその他にも、道因・鴨長明・後徳大寺左大臣・定家などと交流があり、歌が上手くて勤め先が一流というだけではなく、頭も人柄も良い社交的な女性だったようです。
次に、大輔が仕えた殷富門院は安徳帝と後鳥羽帝の准母でしたが、「准母」って何でしょうか。Wikiによれば、「天皇の生母ではない女性が母に擬されること。また、母に擬された女性の称号」です。そして、准母を定めるのは、①幼年で即位した天皇の生母が死去している場合、②生母は存命だが身分が低すぎる場合、あるいは既に女院になっている場合、であり、准母は、父帝ではない先代の天皇の皇后(皇后宮または中宮)、あるいは天皇の姉または叔母にあたる未婚の内親王の中から選ばれました。准母はもともとは宮中儀礼の必要性から設けられた制度(幼少の天皇が即位する時にだっこする女性が必要だが、生母の身分が低いと即位の式典に出られない)でしたが、後代になると内親王に対する経済的援助(准母になると手当が支給された)や「子」となった天皇の権威づけのために定められたようです。こうした手当や引き継いだ荘園などで豊かであったからでしょうか、殷富門院の御所は才能溢れる女房と若い殿上人たちとの活発な交歓の場となり、動乱に明け暮れて沈みがちな文芸の興隆に大きく寄与したようです。
最後に、智平は2/12-15に友人とサイパン島へゴルフツアーに出掛ける予定であり、来週はコメントできませんので、ご理解下さい。
・大輔の交遊関係、さすが歌林苑の中核メンバーだけあって活発ですね。
挙げていただいた男性連中を見てみると清輔は26才年上、道因、俊恵、西行も相当年上の出家者。寂蓮も妻子を捨てた出家者。定家は30才も年下。あまり胸ときめく相手はいなかったみたい。
→後徳大寺実定は9才ほど年下か。でもちょっと身分が違いすぎますかね。
→激しい恋歌は文藝の手管であり大輔の実生活はあまり色恋に溺れない淡白だったのかも。
・「准母」の説明、ありがとうございます。
不婚を原則とする内親王に称号と手当を与えるうまい具合の制度だったってことですね。そして天皇の「准母」となると〇〇門院の称号がついてくる。亮子内親王は安徳帝と後鳥羽帝の「准母」になったので「殷富門院」が与えられたが式子内親王は色々話はあったようだが(順徳帝の准母になるとか)結局「准母」になっていない。それで門院の称号は与えられなかった。
→式子内親王には少し気の毒な感じがする。
・春シーズンの開幕間近、でもまだまだ寒風吹きすさびゴルフは大変。サイパン島へのゴルフキャンプ、いいですね。しっかり調整してきてください。
見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず(殷部門院大輔)
松島や雄島の磯にあさりせしあまの袖こそかくはぬれしか(源重之)
大輔の歌は源重之の歌を本歌取りし、百年の時を超えた男女の贈答歌になっているとされる。いずれも恋人への恨み嘆く気持ちを、海人の濡れ袖に縁をもたせて歌うが、流す涙で袖を変色させる大輔歌の方により情念の深さ漂う。「私の流すのはただの涙ではない、血の涙が出るほどに激しく泣いたの」と。流す涙は量より質といったところか。
はらはらと流す涙に色をつけ
殷部門院大輔は『女房三十六人歌合』に歌を採られた女房36歌仙の一人。平安初期~鎌倉時代までの主だった女性歌人を左右に配し、歌合に擬して3首ずつ結番したもの。左に中古の、右に中世初期の歌人をおく。殷部門院大輔は伊勢大輔に番われている。36人の中で「大輔」はこの二人で、同じ位が結番のよしみなのか。「千人万」にあるその歌は
左)伊勢大輔
いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重に匂ひぬるかな
別れにしその日ばかりはめぐりきて又もかへらぬ人ぞかなしき
はやくみし山井の水の薄氷うちとけさまはかはらざりけり
右)殷富門院大輔
もらさばや思ふ心をさてのみはえぞ山城の井手のしがらみ
何か厭ふよもながらへじさのみやはうきに堪へたる命なるべき
今はとてみざらん秋の末までも思へばかなし夜半の月かげ
殷富門院大輔の歌は「古風をねがひて又さびたるさまなり」(歌仙落書)と評され、技巧的、先進的とされるが、どこか厭世的な歌にみえる。
外戚政治の衰退に伴い、後宮はとみに前代の活気を失った・・・後代の方がはるかに芸術的完成度は高いであろう。しかし一首一首に作者の個性がけざやかに躍動する面白さは、もはや消え失せた。それは王朝の衰退につれて女性の役割が後景に退き、生き方がつつましさと息苦しさを加えていく中世への推移を、ごく自然に反映している。(目崎徳江)
・えっ、百年を超えた男女の贈答歌ですって?なるほど、そういうことですか。
源重之=私の袖はこんなにも濡れてるんですよ。
大輔=何よ、でも色は変わってないでしょう。私のは真っ赤よ。
重之は975くらい、大輔は1175くらい。200年超しの贈答歌ですね。
→血の涙。近ごろはアイシャドーによる黒ずんだ涙なんてのもあるかも。
・伊勢大輔と殷富門院大輔。いい組合せですね。歌もそれぞれに華やかでいいじゃないですか。
→伊勢大輔は上東門院彰子に仕えてたのだから上東門院大輔としたらよかったのかも。
・「百人一首の作者たち」勿論、人物論が中心の解説書でしょうが72紀伊以下の六人の女流歌人を十把一絡げにして半ページで片づけるのは目崎先生、チト乱暴なんじゃないでしょうかねぇ。