出だしのワン・ツー・スリーを終わり第4番歌に入ります。3番までの歌毎日復誦されてますか? 始めが肝心です。「まあまだいいや、10首くらいたまってからやろう」と考えているとしたらオシマイですぞ。1~5番、覚えやすい(馴染のある)歌が集まってると思います。是非毎日の復誦を習慣づけてください。
4.田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ
訳詩: 田子の浦から振り仰げば
富士の峰の雪の輝き
いま あそこには
新雪がさらに積っているのだ
作者:山辺赤人(生没年未詳)奈良時代初期の宮廷歌人
出典:新古今集 冬675
詞書:「題しらず」
万葉集原歌:
田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける
①万葉集の歌の方が雄大荘厳ではるかに勝る、新古今の歌は改悪だ!との評価がもっぱらのようです。まあそうなのかも知れませんが新古今は定家も与って編まれた勅撰集でそこから定家が百人一首に採用したのですから文句をつけることもないでしょう。二通りあると思えばいいじゃないですか。
なお、この万葉集原歌は官命をおびて東国に旅した時富士の崇高な神性を謳い上げた長歌の反歌です。
②山辺赤人 生没年不詳ながら柿本人麿の20年くらい後、奈良朝初期の宮廷歌人と考えておきましょうか。身分は低く天皇貴人が各地に出かけるとき(行幸)同道し天皇を讃え叙景を詠むことがお役目だった歌人。歌は上手だったようで古今集序では柿本人麿と並び称されています。
古今集序
又、山の辺の赤人といふ人ありけり。歌に、あやしく妙なりけり。人丸は赤人が上に立たむ事かたく、赤人は人麿が下に立たむ事かたくなむありける。
山辺赤人の代表歌とされる万葉歌を二つ
和歌の浦に潮満ち来れば潟をなみ芦辺をさして鶴鳴き渡る(万葉集)
春の野にすみれつみにとこし我ぞ野をなつかしみ一夜ねにける(万葉集)
→これも女性(すみれ)を訪れたことを暗示しているのであろうか。
③富士は日本一の山! これは日本人が物心ついたときからそう感じ讃えたことでしょう。当然歌にも物語にも富士山は欠かせません。定家もよくぞ百人一首に富士山を入れてくれたものです。
・万葉集に見られる富士を詠んだ歌
天の原富士の柴山木の暗(このくれ)の時ゆつりなば逢はずかもあらむ(東歌)
富士の嶺のいや遠長き山路をも妹がりとへばけによばず来ぬ(東歌)
→赤人の歌は旅人の歌だが、これらは富士とともに暮らしていた人の素朴な歌
・竹取物語 かぐや姫に振られた帝が不死の薬を焼かせる最後の場面
不死の薬の壺並べて、火をつけて燃やすべき由、仰せ給ふ。、、その山を「富士の山」とは名づけける。その煙、いまだ雲の中へ立ち昇るとぞ、言ひ伝へたる。
・伊勢物語第九段 東くだり(から衣の段) 最も有名な段の一つ
富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白う降れり。
時知らぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪のふるらむ
その山は、ここにたとへば、比叡の山を二十ばかり重ねあげたらむほどして、なりは塩尻のやうになむありける。
・源氏物語 若紫 源氏が北山に上り京を眺め下ろす件で従者良清が京しか知らない源氏に日本は広いことを言い聞かせるシーン(この直後若紫を垣間見る)
これはいと浅く侍り。人の国などに侍る海山の有様などを御覧ぜせられて侍らば、いかに御絵いみじうまさらせ給はむ。富士の山、なにがしの嶽」など語りきこゆるもあり。また、西国(にしぐに)のおもしろき浦々、磯の上を言ひ続くるもありて、よろづにまぎらはしきこゆ。
羅列のみでスミマセン。。
最初にひとこと・・・
この歌には思い入れ(ただし原歌の方)があり少々長くなりますが悪しからず
中学国語の教科書で万葉集に出会った時の感動と新鮮な驚き。
今でも忘れられません。
その中の印象に残っている三首。
◎熟田津に船乗りせむと 月待てば潮もかなひぬ今は榜ぎ出でな 額田王巻一・8
◎渡津海の豊旗雲に入日さし今夜の月夜 清明けくこそ 天智天皇巻一・15
(うっかりしていましたがこれって天智天皇なんですね)
◎田子の浦ゆうち出でて見ればま真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける 山部赤人巻三・318
昔の言葉のなんというおおらかさ。
大和言葉にほれぼれした最初の衝撃的な出会いでした。
それ以来万葉集が大好きになりました。
初めて買った万葉集はS13年発行、茂吉の「萬葉秀歌」。
最近では「万葉の旅」(犬養孝)を愛用しています。
中でも好きなのがとてもわかりやすい「田子の浦ゆ・・・」
その好きな歌が新古今では
田子の浦に打ち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ
誤解を恐れずに言わせてもらえばこれはやはり改悪だと思います。
田子の浦の「ゆ」を「に」するなんて!!
私の中では永遠に「ゆ」であって断じて「に」ではあり得ません。
4句、5句も同様です。
「真白にぞ」こそ富士山の雄大さと冠雪の美しさを現わすというもの。
白妙なんてやわな言葉は富士には似合わない!!
「降りつつ」よりもやはり「降りける」
過去の助動詞連体形で締めてこそ歌意が深く伝わります。
すごい過激な発言ですがこれはあくまでも私の偏見と願望です。
多感な中学生時からの譲れないこだわりで個人的感情と思ってください。
まあ百人一首は定家が勅撰から採ったと言う事で良しとしておきましょう。
採ってくれたことに感謝したいですね。
この4番歌と原歌では好き嫌いを含めいろんな見方がありそうですね。
赤人さんもさぞや不本意ではないかと私は勝手に想像しているのですが・・・
赤人は額田王、山上憶良と共に私の好きな万葉歌人の一人です。
おっしゃるように万葉集では東歌や防人の歌などにとても素朴で庶民の思いが伝わる良い歌が多いですね。
3番までは確実に4番はもちろん得意、5番も何とか大丈夫、6番以降がうろ覚えで問題有りです。
一つ一つ覚えていきましょう。
真白に積もった富士の雪をも溶かさんばかりの熱のこもったコメントありがとうございます。全く異存ありません。そういう思い入れこそ大事だと思います。特に初めて覚えた感動は忘れられないですよね。
改悪か改善かはともかく日本語の言葉使いや受けとめ方も時代に応じて違っているのかも知れません。断定がいいのか余韻を残すのがいいのか。赤人が詠んだ時点と紀貫之の古今集の時点で200年、定家の新古今の時代へは更に300年の時間差。定家の時代から現代までは800年ですからね。色んな味わい方ができる現代は幸せなんでしょう。
まあ赤人さんも不本意かも知れませんが撰にもれた額田王や山上憶良に比べれば「やった!」と思っているのじゃないでしょうか。
昨日、4月12日は矢来能楽堂で能「小袖曽我」「百萬」、狂言「寝音曲」を楽しみました。200曲ほどある能ですが、同じような表現がところどころ出てくることがあり、日本は本歌取りのようなことがもてはやされた国だったのだと感じます。共通の知識、教養が人々の根底にあるということが前提ですから、われらの先祖は心豊かな文化芸術好きだったといえますね。
山部赤人のこの歌は能「盛久」(長門本 平家物語二十、 観音利生説話)に
「田子の浦うち出でて見れば眞白なる雪の富士の嶺~~」と使われています。
他の赤人歌からは
「春の野にすみれ摘みにと来し我ぞ野をなつかしみ一夜寝にける」が
能「求塚」(歌舞伎舞踊の土佐絵などに繋がっていく)の謡では
「春の野にすみれ摘みにと来し人も若紫の菜や摘みし」と使われています。
そうですか、この4番歌有名ですもんね。「盛久」の話は知りませんでした。鎌倉での頼朝とのお話なんですね。由比ヶ浜と田子の浦はまあ近いですから4番歌が使われたのでしょうか。本歌どり、引き歌、おっしゃる通り共通の教養ベースがあってのもの。日本人の豊かさだと思います。
→「矢来能楽堂」って神楽坂なんですね。神楽坂はマインしか知らないものでして。。。
能の知識はまったくありません。
百合局さんに触発されて今年は能楽堂で是非お能を鑑賞してみたいと思っています。
幸い身近に詳しい人がいますので何か親しめる演目があれば相談してみます。
小学校時代に「盛久」と言う名のつく子がいました。
ひょっとして関連あるかしら?
今度会ったら聞いてみたいです。
学生時代、万葉集にはあまり関心がなかった私ですが、それでも今詠めば、小町姐さんが言われるとおり、この歌は、百人一首の歌はそれはそれとして、
田子の浦ゆうち出でて見ればま真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける
が圧倒的によく思えます。
紺碧の海の方から見ると、雄大な富士の紫色の高嶺に、真白き雪が降っている、これぞ日本といった趣です。
新幹線”新富士駅”あたりからみる富士山は幻滅です。林立する煙筒から薄灰色の煙が立ち上っていますから、いつも見ないようにして通過しています。もう少し西の清水?あたりになると、きれいな富士山が見えてきます。
あとは、よく行く山中湖や富士五湖からの富士山は、はっとさせられる美しさがあります。冬の朝一番が一番きれいな姿が見れると思います。
ところで、週末、孫を連れて、井の頭自然文化園に行き、山鳥を5種?見てきました。想像を超え、凛とした色彩の美しさのある、正に尾長鳥(オスのことで、メスは地味)でした。
柿本人麻呂が山鳥を題材にした訳がわかったように思え、秋の田・天の香具山・山鳥・富士と、大和日本が誇れる風景・題材が並んでおり、上では色々書きましたが、流石定家と、関心しています。
そうですか、八麻呂さんも「田子の浦ゆ」派ですか。いいでしょう。
「ゆ」(~経由、~を通って)という格助詞は万葉ではあったのでしょうが平安(定家の時代)ではどうだったのでしょうか。源氏物語でもこの「ゆ」は記憶がありません。勿論今では使われてません。片や「に」は現代語です。そのあたりも現代人がこの歌をどう感じるか、人によって違いがあるのかもしれません。
新富士からの富士山は見ない、それは贅沢ですね。私なんぞどこへ行っても富士山が見えればそれだけで幸せな気分になれますけどね。何れにせよ日本人にとって富士山の威力は絶大ですね。常時富士山が見えるところに住んでいる人はそれだけで羨ましい思いです。
尾長鳥きれいでしたか。よかったですね。お孫さんも喜んだことでしょう。なるほど1番~4番、日本の四季・花鳥風月を詠んだ歌が続きますね。逆に心情(恋心・忠心・別れ)を詠んだ歌はまだ出て来ません。この辺も並びの綾かも知れません。
この歌も、持統の歌も定家によって変えられてるんですね。百人一首のこと全く知らなかったのでびっくりです。ここまで変化してしまうと、万葉仮名の曖昧さがもたらしたとは言えないですね。
この歌に限ればお二方が仰るようにかえって格調が失われたようで、好きにはなれませんね。単純に好き嫌いで言うと、総じて萬葉のおおらかさ、素朴、ストレートな感情、庶民性と言ったものに人間らしさ、人間臭さがあって好きです。
コメントありがとうございます。正しく2番・4番歌の変り方、古今調(平安王朝風)の技巧に子規も異を唱えたのでしょうね。映像で見る公家・貴族のお化粧やら言葉・話し方をみると確かに辟易しますもんね。でも身分社会で一般人とは違うんだという権威づけをするためにはありのままの姿でなく技巧に走ることが必要であった。その技巧の中から和歌もそうですが華道、香道、書道等々日本伝統文化が生まれ育ったと言えるのかもしれません。
→別に万葉風に異を唱えているのではなくて、反論のための反論なのですが。。
松風有情さんが画いてくれた4番歌絵です。なかなかいいじゃないですか。
松風さん、コメントも載せてください。
http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2015/04/KIMG0147.jpg
→在六少将どの URLでなく写真そのものをコメント欄あるいは投稿欄に載せるのはできないのでしょうか。
蜀山人・大田南畝に狂歌百人一首というのがあるようで、山辺赤人の歌は「白妙のふじの御詠で赤ひとの鼻の高ねに雪はふりつつ」とありました。蜀山人にしてはあまりいい出来じゃないですね。八麻呂さんは新富士あたりからの富士は見るに耐えん!とのご意見ですが、現在は製紙工場の煙もそうひどくはなく毛嫌いするほどのこともないのでは……と私は思っています。それよりよく言われるのが、静岡側からの眺めがいいのか、山梨側からのほうが美しいのかの論争。これに関しては蜀山人は「裾野より捲くり上げたるお富士さん甲斐で見るより駿河一番」と結論を出しておるようです。やや下品?
久々に登場してくれましたね。どっか行方不明になったのかと心配してましたよ。
大田南畝ってホントすごい才能ですよね。勿論物知りだったのでしょうがユーモアのセンスはとても普通の人の及ぶところじゃないですね。仁王どのにも南畝の向うを張って狂歌に挑戦してもらいたいところですが、チト無理ですかね。それなら今回のようにパロディを紹介いただき、それをベースにお得意の雑学を披露してください。お願いします。
「裾野より、、、」なるほど面白い。感心しますね。どんな風にして考えるのでしょうね。やや下品というよりかなり下品ですね。まあギリギリ映倫パスといったところでしょうか。
百々爺さんURL設定頂きどうもありがとうございます。
これで充分ですのでまた絵心湧けば投稿致します。
我が家に猫が居候しました。娘からの預かりもんですが毎日振り回されています。で、、
白妙の 犬猫パンダ (尾)おもしろい
猫が居候してきましたか。苦沙弥先生の気分でしょうか。いや、名前はあるのでしょうね。
また絵心湧かせて書いてみてください。私宛メールで送っていただければ今回のように掲載します。
山辺赤人は聖武天皇の時代の宮廷歌人で、朝廷の命により東国から四国へと派遣されたようだ。
聖武天皇は仏教を厚く信仰し、全国に国分寺、国分尼寺を置き、仕上げとして東大寺・大仏を建立した。中央の威光(律令制)を地方氏族に示して主従関係の強化を図り、地方と中央の二重構造を解消するための布石であったとされる。
赤人が日本中を旅したのは、この大事業が始まる前のことと推測されるが、地方密偵の密命もあったのかも。
先達の人麻呂の抒情歌に比して、赤人は自然の美しさを詠む叙景歌を得意とした。
白き富士 走る眼の前 新東名
聖武天皇の解説ありがとうございます。国家宗教として仏教を全国に広めた天皇でしたよね。山辺赤人も全国各地を歴訪し忙しかったことでしょう。中央からの役人が地方を回るのですから地方の人々は下にも置かない歓待ぶりだったのでしょうね。
新東名、運転しやすくて便利ですがトンネルばかりでろくに富士山見たことありません。どこかポイントのサービスエリアあるのですかね。
和歌には無知な小生ですが、この歌を万葉集のオリジナル版と比べると、ついつい藤原定家の人柄や歌についての考え方に疑問を感じてしまいます。
山部赤人は柿本人麻呂と並んで古今集の序で歌聖とまで呼ばれた万葉歌人です。素人の持統天皇の歌(春過ぎて…)を添削するのは許されるにしても、歌聖赤人の歌を、しかも富士山を詠った素晴らしい歌を添削するというのは思い上がりが過ぎるのではないでしょうか。定家は偉大な歌聖をも尊ばない唯我独尊的な人物で、極めてうぬぼれが強い人柄であったと思わざるをえません。
添削による効果はどうかと言えば、オリジナル版の雄大さや新鮮な感動が失われる一方で、幻想的な美しさが加わったというのが大方の見方です。これは後鳥羽院がその御口伝で、「総じて定家の歌は言葉や姿はやさしく艶やかだが、心も余情もない」と厳しく批判していることに通じると思います。そうした考え方が優美な新古今風であり、定家の家系の御子左流なのかもしれませんが、「歌に心がなくても良い」という考え方は本末転倒で受け入れ難いと感じます。百々爺の見解は如何でしょうか。
いやはや手厳しいコメントをいただきました。定家信奉者の爺としては定家の名誉のため何とか弁護・反論せねばなりません。以下爺の個人的妄想に基く見解です。
1.紀貫之に代表される古今集から始まった平安王朝の和歌、この和歌のあり方、詠み方を完成させたのが定家(が代表)の新古今集でしょう。和歌とは五七五七七の三十一文字による短定型詩ですが、何を詠むか、どう詠むかは時代により流儀により考え方が異なってくるのは当然です。即ち、平安王朝風(新古今風と言ってもいい)和歌にとって万葉風の素朴・武骨・写実はむしろ排除すべきだった。即ち、定家の和歌の教室では万葉風の歌を作る生徒はたしなめられ、王朝風の言葉使いに改めるよう指導されたのではないでしょうか。
即ち、2番歌・4番歌を王朝風に添削することは当然のことで、むしろそうしなければ新古今集(ひいては百人一首に)に入れることはできなかったのです。
凡そ芸術において何に焦点をおくか、どうデフォルメするかは個人的センスもさることながら時代としての風潮・流行もあるでしょう。絵画における印象派・写実派・抽象派。音楽においても同様でしょう。
和歌の世界でも万葉風は万葉風として一つの領域だし、平安王朝風は平安王朝風。謂わば言葉のデフォルメの仕方が異なり、それはそれで現代人の我々が見ればどちらも一理あると考えればいいのではないでしょうか。同じ三十一文字でも「サラダ記念日」みたいな現代短歌もあるわけですし。
2.定家はそのような平安王朝風の和歌の流儀を御子左流として完成させた家元です。歌道における家元なんてのはとにかく形が大事。歌語の使い方・序詞・掛詞・縁語・本歌取りの仕方など細かいルールを定めそれに則って和歌道を高めていった。御子左流の家元として定家はカリスマ的地位を築きあげ、定家のお蔭で平安王朝風和歌が完成したのです。後鳥羽院の批判の当否については分かりませんが、単によくある芸術家同士の見解の違いではないでしょうか。
→定家はあくまで平安王朝風和歌御子左家の家元、万葉風和歌の理解者・伝播者ではない。
以上反論のための反論かもしれませんが定家の人格まで否定されるのはいかがなものかと思い考えてみたものです。
(今日は朝から終日快晴、文句のつけようのない日和、ただそれだけでした)
熱のこもった反論、ありがとうございました。それなりに理解&納得しました。確かに家元であるならば、弟子に教える基本原則とかルールが必要となり、形重視にならざるをえないのかもしれませんね。そのため、形(言葉や姿)は良いけれども、内容(心や余情)を軽視しているという批判を招いてしまうのでしょう。
それにしても、歌聖と呼ばれている山部赤人の素晴らしい歌まで勝手に添削するというのは凄い。こうした添削は平安王朝風という流儀に染まった当時の歌人なら誰でもやることであり、定家が特別に傲岸不遜というわけではないのですね。
(うららかで明るく温かい春の平日にゴルフを楽しめる。それだけで十分に幸せではないでしょうか。)
歌聖赤人の秀歌を勝手に添削した定家の大罪を一等減じていただけたようでよかったです。どうぞ今後とも定家を温かい目で見てやってください。
(ハイ、十二分に幸せでありました)