さて、10番歌です。しつこいようですが復誦やっておられますか。10首、このあたりが境目です。そうです、この逢坂の関を乗り越えば100番まで行けます。源氏の須磨返りならぬ逢坂返りは勿体ないですぞ。
10.これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関
訳詩: これがかの 名にし負う逢坂の関
東下りの旅人も 京への人も
知り人も 見知らぬ人も
たとえこの地で東に西に別れようと
きっとまた逢う日もあろう
名にし負う 逢坂の関
作者:蝉丸(生没年・伝未詳)
出典:後撰集 雑一1089
詞書:「逢坂の関に庵室をつくりて住み侍りけるに、行きかふ人を見て 蝉丸」
①蝉丸も生没年・伝未詳。さらに僧なのか僧でないのか、盲人なのかそうでないのかも分からない。というより色んな伝承が飛び交っていて訳が分からない。
今昔物語では宇多帝の第八皇子(琵琶の名手)の雑色で自ずと琵琶の名人になった盲目の僧侶として登場、平家物語ではこれを発展させ醍醐帝の第四皇子としている。
→次々に尾ひれがついていくのが伝承というものであろう。
(光琳かるたでは目をつむっているが盲目なのか単に眠たげな目をしているだけかよく分からない)
平家物語巻十 海道下り(平重衡を鎌倉に下向させる道行文)
四宮河原になりぬれば、ここはむかし延喜第四の王子蝉丸の、関の嵐に心をすまし、琵琶をひき給ひしに、博雅の三位と云いし人、風の吹く日もふかぬ日も、雨のふる夜もふらぬ夜も、三年が間あゆみをはこびたち聞きて、彼三曲を伝へけむ、藁屋の床のいにしへも、思ひやられて哀れなり。
②琵琶の名手 琵琶は盲目の法師(琵琶法師)の得意とするところ。
源氏物語では明石入道・明石の君が琵琶の名手。あの末摘花も琵琶を弾いたし宇治の姫たちも。女性が弾く琵琶の音に貴公子たちは心をときめかしたのである。
③逢坂の関、不破の関(美濃)、鈴鹿の関を平安三関というとあるが、実際には平安時代には既に逢坂には関所はなかったらしい。でも交通の要所であり、ここまでが京内で逢坂の関を越えると京外ということだったのだろう。
62番歌「夜をこめて」(清少納言)も逢坂の関が詠まれている。
源氏物語関屋ではたった一度だけ契った人妻空蝉が常陸より帰ってくるのと石山詣でに出かける光源氏が12年ぶりに邂逅する場面に逢坂の関が使われている。
→出来過ぎの舞台設定だが
行くと来とせきとめがたき涙をや絶えぬ清水と人は見るらむ(空蝉)
→この歌も10番蝉丸歌を下敷きにしている。
④この歌何ともリズミカルで覚えやすい。これも8番歌「わが庵は」同様世をはかなんでるような暗い響きはない。むしろウキウキと弾むような感じがする。
→前半か行が多く後半はさ行で始まる。語尾の「も」も効いている。
この蝉丸の歌、百人一首でも人気の歌であろう。人物も面白いし歌も分かりやすい。「これ」→「しる」の2字決まりだしかるたでも得意札にしている人多いのでは。
区切りの10番歌 謎の人物最後の蝉丸。
この歌も流れに乗って諳んじれば覚えやすいです。
昭和蝉丸さん、さあ出番ですよ。しつこいね?
先ず思い浮かぶのはまず源氏物語「関屋」
源氏と空蝉が再び出会った場所でしたね。
平家物語「海道下り」もう一度読み直してみます。
又、芭蕉の「行き交ふ年も又旅人也」を彷彿させます。
♪会うが別れの始めとは♪ なんて歌謡曲もありましたよね
。
ここまでちょっと気合いが入り過ぎて疲れ気味。
次からはもう少し気楽にいくとしましょう。
漫画、ちはやふるも19巻まで次々と届きましたがそれ以降は40~50人待ちです。
天上の虹も1巻が未だに届かない。
1~10番歌 つっかえつつも、何とか覚えました。
皆さまもうばっちり?
まあここまで半分以上は馴染みがあり好きな歌が三首も入っているとなれば
覚えました!!とは言えないかもね。
そこで順番、詠者、和歌からのイメージを思い浮かべ暗唱できるように私なりの無い知恵を絞りました。
私の10番歌迄の覚え方をご紹介します。
天、天、人丸、田子の浦、猿、鳥、もろこし、宇治、小町、蝉です。
1) 天 天智から (秋の田の)
2) 天 持統天皇の天 (春過ぎて)
3) 人丸 人麻呂から (あしびきの)
4) 田子の浦 赤人 (田子の浦に)
5) 猿 猿丸の猿から(おく山に)
6) 鳥 かささぎの鳥(かささぎの)
7)もろこし 唐から 天の原)
8) 宇治 うじやまから(わが庵は)
9) 小町 花の色から(花の色は)
10)蝉 蝉丸から(これやこの)
いかがでしょう?
5番 8番を鹿ではなく猿と宇治にしたのは百首中、鹿が何匹か詠まれていました。
もっと良い方法がありましたら教えてくださいな。
(民宿のあるじ業に精を出しておりまして返信遅れました。すみません)
・逢坂の関、地名もいいし京への出入り口ということで重要性もある。歴史的にも色んな事件の舞台となったのでしょう。物語に登場させるのは自然だと思いますが、源氏の関屋は唐突すぎてちょっと違和感を感じました。まあエピソードの挿入と見ればいいのでしょうが54分の1帖とするにはねぇ。
・「奥の細道」「行き交ふ年も又旅人也」ですか、なるほど。旅人があっての関所。芭蕉は白河の関で往時を偲ぶ時、隠遁者蝉丸のこの歌を思い浮かべたのかもしれません。そして以降「蝉」が頭にあって山寺での名句を得た、、、なんてね。
・♪会うが別れの始めとは♪ 別れの磯千鳥、、いいですね。
私は、♪逢えば別れがこんなにつらい 逢わなきゃ夜がやるせない♪(長崎ブルース 青江美奈)を思い出しました。ちょっと暗いですかね。
・「天、天、人丸、田子の浦、猿、鳥、もろこし、宇治、小町、蝉」ですか。なるほど。これは「♪てんてんてんまり てん手まり♪(毬と殿様)のメロディでやるとピッタリですね。
(私はどちらかと言うと語呂合わせはやらず直接数字のイメージと作者・歌を結びつけるやり方ですが、人それぞれ独自の方法があるのでしょうね)
途中放棄が怖くて黙ってましたが、小生も100首覚えようと奮闘中。妙策はなく、爺がいう、念仏を唱えるがごとく、気が向けば、繰り返し繰り返し、歌っています。
問題は、覚えても日が変わると忘れてしますこと。でも10番歌よりちょっと先を走れているので、最後まで、小町姐さんと気持ちの上で伴走し、完走を目指します。
(大丈夫かな)
8番歌・10番歌とも、小生にも暗さ・悲痛さが感じられず、むしろ軽いタッチで弾むトーンで聞こえます。これは、藤原定家(人物については勉強中で深くは知りません)が、隠遁生活は悪くないよ との考えで、そのメッセージを伝えるため、こうした歌を選んだのでは、と思えてきます。
逢坂の関の歴史的考察について、関所はすでになかったらしいですが、一日何人ぐらいが通ったのか、軍隊は除き一時間20人とすれば10時間で200人、どんな人が通ったのか、征夷大将軍と軍隊、役人とその家族、僧侶、石山詣での人、商人、荷役人、罪人などでしょうか。
何かご存知の方は、教えてください。
・おお、頑張っておられるようですね。そうです、お経です。毎日唱えておれば必ず極楽浄土にたどりつけますよ。(全部で三千百字=漢字が入るのでもっと少ない。原稿用紙8枚にも満たない分量です)
・そうですか、定家の「隠遁生活は悪くないよとのメッセージ」ですか。なるほど。ますます隠遁生活に魅せられてるようですね。8番・10番、ユーモア感覚が何とも言えずいいですねぇ。
・逢坂の関をどんな人が一日何人くらい通ったのか。これは興味ありますね。カウンターを持って調査でもしてたらさぞ面白かったでしょうにねぇ。おっしゃる通り当時(奈良~平安)、京と地方の行き来はごく限られた人だったのでしょう。京と地方との物産の交易なんかはまだ殆どなかったと思いますし。歴史の先生にお伺いしたいところですね。
「逢坂」と言う言葉の響きはロマンチックな響きがあり、芭蕉が
和歌を作ったらこのような句になるかなと思うような
妙に旅情を誘う歌でもあります。
この逢坂の辺りは古代から要衝中の要衝でした。
神世の時代の最後の天皇・仲哀の長子・忍熊王が、
継母–神功皇后の命を受けた武内宿禰に攻められ、
近江に逃げるも宿禰軍に追いつかれ、逢いまみえた所より
『逢坂』と名づけられたと言われています。
ちなみに忍熊王が劣勢挽回を期して最後に陣取ったのが、
この談話室では、おなじみの宇治でした。
(宇治には常に敗者の香りがしますね)。
この歌は京都で育った人なら誰もが知っています。
今は昔、京都の小学校は 夏休み前に学校行事で琵琶湖へ海水浴に
行くのが常でした。
(「琵琶湖で海水浴?」
そうなんです、近江の人は琵琶湖を「海」と言います。)
学校から観光バスで一路琵琶湖へ。
その時必ず通ったのが逢坂の関跡。
国道一号線を緩やかに登り 蝉丸神社や大津絵の店などがある辺りに来ると、
バスガイド嬢が「これやこれ~」と節を付けて歌ってくれました。
半世紀たった今も この歌は 忘れていた記憶の澱を
舞い上がらせます。
逢坂の地名の由来ご紹介ありがとうございます。神話の世界からなんですね。
琵琶湖へ海水浴ですか。それは面白い。納得です。湖も海も「うみ」なんですね。まして琵琶湖の大きさですから。バスガイド嬢の歌、、ありました。まだカラオケなんかなくて人前で歌うこと珍しかった中、バスガイド嬢は堂々と歌を聞かせてくれましたもんね。
琵琶湖を詠んだ関屋での源氏の歌
わくらばに行きあふみちを頼みしもなほかひなしやしほならぬ海
→琵琶湖が塩のない海は分かりますが「貝なし」ではないでしょうが。。
おそ松?川柳は
これやこの おしなりくんの
スカイツリー
『これやこれ』『どれやどれや』と
さんま言い
毎度すんません、、、
毎度ありがとさんです。
「これやこの」語呂がいいですからね。
「どれや?」「これや!」、これは大阪弁の会話ですよね。
百首中、濁点がひとつもない唯一の歌として知られているそうです。そのせいか諳んじやすいですね。
「行くも帰るも」「知るも知らぬも」「別れては・・逢坂」と対になる表現を三つも盛り込んで戯れ歌に近いが「別れては会う」という人生の無常を詠んで趣深い。当時の人は、仏教の「会者定離(えしゃじょうり)」をこの歌に感じ、会えば必ず別れがあり、別れては又出会いがある、という無常観をここにみたとか。ふ~ん、そういうものかな。
三関の一つ、鈴鹿関。古来、伊勢へ参宮する交通の要衝だった。
思い出すのは、高校生の夏、ママチャリで峠を越え滋賀県土山にある田村神社を詣でたこと。嵯峨天皇の命で、峠に出没する悪鬼を平定し、交通の障害を取り除いた坂上田村麻呂を祀る。厄除け、交通安全の神さんで、そのせいか合格祈願は成らなかった。
帰り道は、風を切って一気に国道一号を下る、気持ちの良かった体験です。
蝉丸は ジョーカーとなって 眼をつむり
百首中唯一の濁点のない歌ですか。これは貴重なご指摘ありがとうございます。百人一首を話題にするとき使えますねぇ。
仏教の「会者定離(えしゃじょうり)」ですか。巡礼を趣味とされてる枇杷の実さんらしいですね。逆に一期一会なんてのも同じ発想からなんでしょうか。
ママチャリで鈴鹿峠を越えたんですか。すごいなあ。ママチャリといっても当時は重いごっつい自転車でしょうに。若さあってのことでしょう。いい思い出ですね。
蝉丸は ジョーカーとなって 眼をつむり
→これは面白い。坊主めくり、さあ勝負はどっちに流れるか、重大局面でジョーカーの蝉丸が目をつむって出てくる「ごめんなさいね」って感じでしょうかね。
百人一首の中で私が最初に自然に覚えた歌です。 意味が全然わからない幼子の頭にもすらすらと入ってきて面白さを感じたのだと思います。
同様に文字の読めない人々の多かった時代、耳から聞いて覚えただろうから、調べのよいこの歌はより広く伝わったように思います。
定家も歌の内容よりも朗誦歌としての面白さで選んだのでしょうか。
謡曲『安宅』では「如月の十日の夜月の都を立ち出でて、これやこの行くも帰るも別れては、行くも帰るも別れては、知るも知らぬも逢坂の山隠す、霞ぞ春は怨めしき」と使われています。
謡曲『盛久』では「これやこの行くも帰るも別れては、行くも帰るも別れては、知るも知らぬも逢坂の関守も、今の我をばよも留めじ」と使われています。
謡曲『蝉丸』では「かかる憂き世に逢坂の、知るも知らぬもこれ見よや、延喜の皇子の成り行く果てぞ悲しき」と使われています。
浄瑠璃、歌舞伎にも蝉丸ものは多く、作家にとっても想像をふくらませやすかったように思います。
毎晩、眠る前にそれまでの和歌を暗唱していますが、2度ほど途中で眠ってしまいました。今後和歌数がどんどんふえてくると多分お終いまで暗唱するのが大変になるだろうと心配しています。朝起きてから続きを暗唱する?
確かにリズミカルで百人一首中覚えやすい歌一二に入る歌でしょう。優麗典雅をモットーにする定家も実はユーモア・滑稽がお好きだったのじゃないでしょうか。古今集以降の撰歌にはさすがにこんなのは入れられなかったけど、奈良~平安前期だしましてや詠み手も怪しげな人物。え~い、この滑稽歌入れておこう!ってことで8番歌・10番歌入れたのかもしれません。それでよかったと思います。
謡曲にはよく引かれるのでしょうね。それも「行くも帰るも別れては、行くも帰るも別れては」と繰り返して使われるのですね。蝉丸が伝統芸能で有名な理由がよく分かります。
(朝起きてから続きはダメです。毎回最初からやる、、これが大事です)
「これやこの」蝉丸の歌は語呂がよく、リズムも心地よいからだと思いますが、子供の頃に「奥山に紅葉踏み分け」→コチラは意味が分かりやすい と共に早くから覚えた歌です。それにしても猿丸といい蝉丸といい、百人一首に登場する丸のつく人はどうにもとらえどころがない人が多いね。
枇杷の実氏は高1の夏休み鈴鹿越えで土山まで出かけたそうですが、僕は同級生と4人で津から松阪→長島→矢ノ川峠→尾鷲→熊野→新宮へサイクリング。もちろんママチャリです。当時の国道42号線ときたらまだ未舗装がほとんどで酷道そのもの、長島から尾鷲の間の矢ノ川峠では途中でへばって根をあげていたら、トラックの運転手が「乗ってくか」と声を掛けられた時の嬉しかったこと! 1週間足らずの期間でしたが、いろいろなことを体験できた懐かしい思い出です。
人丸、猿丸、蝉丸、、三丸ですね。怪しげな男という意味での丸なんですかね。
高1での冒険旅行、聞いたことあったような忘れたような。鈴鹿峠越えとどちらが大変だったか、、、枇杷の実さんと舌戦したら如何でしょう。どちらが勝つか賭けたりして。爺が胴元つとめてもいいですよ。
冗談はさておき尾鷲・熊野は津からみれば大辺境地でしたね。紀勢東線・西線が繋がり紀勢本線になったのがS34(小6)、津を通る参宮線が紀勢線と名前が変ってしまった。「あれ、参宮線ってなくなったの?」と思ったものです。
交通の便、極めて不便だったのでしょう。木本高校など津球場での県大会開幕式に全員で来れなくてキャプテンが一人校旗を持って入場行進、激励と同情の大拍手だったこと覚えています。
大冒険旅行、さぞ大変(向こう見ず)だったでしょう。一度じっくりお話聞かせてください(聞いてあげますよ)。。
この多寡秀 九代目仁王殿の冒険旅行聞き及んでおりましたよ。当時面識のない仁王殿の快挙は別のクラスにもかなりのインパクトを持って話題になってました。実は一瞬枇杷の実氏が鈴鹿越えの一件で仁王殿かと思ったくらいですから。
この多寡秀もその後、学生時代に紀伊半島をキスリングザックひっさげワンダリングしました。コースは津~大王崎~那智山~串本・大島~和歌山城~吉野。テントに自炊、大島では船頭の爺さん宅。和歌山は和歌山大寮泊。今は昔の懐かしい思い出です。
さて10番歌ですが、枇杷の実氏御指摘の「百首中、濁点がひとつもない唯一の歌」に尽きますね。なんせ百人中一人なんですから。
百人で99人は蛇におぢ(俳風柳多留13)
蝉丸一人が盲人
旅と出会いと別れ、人生そのものを快いリズムの詠嘆調で歌い上げたこの歌は広く皆に口ずさまれ、さまざまな曲や物語に取り上げられているようです。
踊子は行くも帰るも大阪屋(同上16)
踊子は大阪屋(薬屋)でいつもの薬を買っていた。
逢坂山にかけて。
そして白洲正子女史は、「慌しげに」聞こえるにもかかわらず、水のように流麗で、静逸を感じますと。それはまさに蝉丸が盲目の琵琶法師であったからで、人のざわめきや気配に敏感だったに違いない。慌しくても、騒々しくないのは、音楽に身を託した盲人の諦観が、底を流れているからだと。
多寡秀も旅をこよなく愛しております。そこには折々流行った歌があります。この歌が一瞬にしてその折々に回帰してくれます。10番歌は多寡秀そのものであります。
そうでしたか多寡秀どのも冒険家だったのですね。大学の時のようですがワンダーフォーゲル、けっこう流行ってましたね。でも一方では親からは全学連と山岳部にだけは入ってくれるなと言われる時代でもありましたよね。今の学生さんはどうなんでしょう。陽希くんみたいな人も現れてるし時代は変われど若者の冒険心は健在ってことですかね。
10番歌、色んな角度からの解説ありがとうございます。他のみなさんも口々におっしゃってますがこの歌は人の世の出会い・別れ、会者定離、世の無常を悲観的ではなくかといって楽観に過ぎることもなく淡々と詠んだ歌ということになりましょうか。
(川柳は何れも蝉丸が盲目である、ただその一点に注目して作られていますね。ちょっと芸がないなあと思うのですがいかがでしょう)