12番 僧正がずっと見てたい五節の舞姫

百人一首で一首あげろと言われればこの歌をあげる人も多いのでは。有名な歌です。

12.天つ風雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ

訳詩:    空渡る風よ 厚い雲を吹き寄せてくれ
       天上へ帰ろうとするうるわしい天つ乙女の
       通路を吹き閉ざしてくれ
       乙女らはなおしばし
       地上にとどめおきたいものを

作者:僧正遍昭 (816-890)75才
出典:古今集 雑上872
詞書:「五節の舞姫を見てよめる」

①俗名 良岑宗貞 桓武天皇の皇孫にあたる。父の母が身分低く父が良岑姓を賜って臣籍降下。美男で仕事もでき仁明天皇に重用され順調に出世するが仁明天皇の崩御にあたり殉じて出家(@35才)。
 →賜姓源氏ならぬ賜姓良岑。美男・能吏、、、何となく光源氏を彷彿させる。

 出家後僧正にもなり仏教界の重鎮としてリーダーシップを発揮する。光孝天皇(15番)とは乳母兄弟(遍昭が12才上)で竹馬の友の間柄。宮中にも出入りし奔放にふるまった。
 →凡そ線香臭い僧侶ではない。バリバリの現役であった感じ。75才まで長生き。

 二人の息子も「法師の子は法師になるぞよき」ということで出家させる。その弟の方が21番素性法師。
 →ちょっと強引な感じ。

②歌人としても六歌仙、三十六歌仙に撰ばれている。
 古今集序の僧正遍昭評:
  僧正遍昭は歌のさまは得たれども、まこと少し。
  たとへば絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。

  →ちょっと辛口のようだけど古今調として貫之も買っていたのであろう。

 僧正遍昭の他有名歌
  浅緑いとよりかけて白露を珠にもぬける春の柳か(古今集)
  わび人のわきてたちよる木のもとは頼むかげなく紅葉ちりけり(古今集)

 仁明朝で宮中に居た小野小町とは昵懇で(どこまで関係あったか不詳だが)歌の機智に富んだ歌の贈答などをしている。

  大和の石上寺で(京都の清水寺という説もあり)
   石の上に旅寝をすればいと寒し苔の衣を我に貸さなむ(小野小町)
   世にそむく苔の衣はただ一重貸さねば疎しいざ二人寝む(僧正編昭)
   →こんな歌交し合う仲、光源氏なら、、、、ねぇ。

③五節の舞 11月新嘗祭の後宮中で4日間豊明節会がありそこで未婚の貴族女性5人が舞を舞う。
 →五穀豊穣に感謝する重要な宮中儀式、さぞ華々しい衣裳・舞だったのだろう。

 源氏物語少女に五節の舞の場面が登場する。
  雲居雁との筒井筒の恋がうまくいかない夕霧に五節の舞姫として源氏の寵臣惟光の娘(藤典侍)が現れ恋が芽生えるというお話です。

  をとめごも神さびぬらし天つ袖ふるき世の友よはひ経ぬれば(源氏 @少女)
   →これとは別に源氏が昔関係のあった筑紫の五節を思い出して詠んだ歌。
   →この源氏の歌も12番歌を下敷きにしている。

④さて、歌の鑑賞ですが、とにかく分かりやすい歌です。きれいな舞姫をずっと見ていたい、、、。序詞も掛詞もひねりも何もない。単純明快、ストレートな実直な歌でいいと思うのですがいかがでしょう。

【10日から16日まで奈良・飛鳥に行ってきます。石上神社もできれば行きたいのですがどうなりますやら。返信遅れると思います。ご容赦ください。どうぞみなさんでドンドン談話を進めてください】

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26 Responses to 12番 僧正がずっと見てたい五節の舞姫

  1. 浜寺八麻呂 のコメント:

    この歌も軽快・明快で弾むような心境が伝わり、しゃれたよい歌だと思います。また爺が紹介してくれている、小野小町と石神神社で出会った時の歌も、境遇の暗さ、辛さが出ず、逆に機知に富んだなかなか面白い歌だと思います。

    この他、仁明天皇が急遽した翌年、喪があけて詠んだ歌、これは真面目な

    みな人は花の衣になりぬなり 苔のたもとよ乾きだにせよ (古今集 巻十六)

    も好きな歌です。

    遍照は、僧の統制・管理機関の僧網で、最高位の僧正の地位に登り(僧正ー僧都ー僧官の順)、かつ天台宗最初の僧正とのこと、爺が言うように、晩年も現役バリバリだったようです。

    54代 仁明天皇に寵愛され、天皇の死後急に出家し隠遁生活へ、その後57代陽成天皇の皇太子時代に護持僧となり、58代光孝天皇は、遍照の母を乳母とした幼馴染、この時代重用され、七十の賀を天皇みずから内裏で催すなど厚遇を受けた(”百人一首の作者たち”による)とのこと。まあ優秀だったのでしょう。

    56代清和天皇の后 藤原高子(陽成天皇の母で、歴史上初関白の藤原基経の同母妹、17番歌で述べるが業平の恋人?)が発願した”元慶寺”の開祖でもある遍照、WIKIによれば

    ”元慶寺(がんけいじ)は、京都府京都市山科区にある天台宗の寺院。藤原高子の発願により建立。僧正遍昭を開基とし、元慶元年(877年)に建立された。現在の伽藍は安永年間(1772年-1781年)の再建と伝わる。西国三十三所霊場の番外札所である。山号は華頂山。本尊は薬師瑠璃光如来。

    寛和2年(986年)、花山天皇がこの寺で藤原兼家、道兼父子の策略により出家させられ、兼家の外孫である懐仁親王(一条天皇)が帝位についた(寛和の変)。花山法皇の宸影を安置する寺で花山寺とも呼ばれ、大鏡では花山寺と記述されている。”

    藤原高子も、清和天皇の后妃となる前、清和天皇の大嘗祭(だいじょうさい)の豊明節会で、舞姫を務めたとのこと。
    五節の舞は、高貴・華麗で、乙女と乙女を愛する貴族の憧れだったのでしょう。

    この寺は、100年の時を経て、65代花山天皇が出家させられた寺であり、66代一条天皇が即位、彰子に紫式部が仕えることになり、源氏物語にも縁ありのお寺だそうです。

    • 百々爺 のコメント:

      昨日奈良から帰りました。目と頭に奈良のこといっぱい詰め込んできました。追々感想など書かせてもらいます。

      1.昨日帰途天理IC近くにある石上神宮(いそのかみ)に立ち寄ってきました。伊勢神宮と並ぶ旧い神宮で物部氏の氏神、神武天皇を救った神剣が祀られているとのこと。尾長鳥みたいなのがいっぱいいて盛んに鳴いていました。小町が遍昭を訪ねた石上寺も多分この近くだったのでしょうか。ああ、小町もこの辺までやって来たのだと思いました。(天理教本部の近くです)

      2.遍昭と花山天皇・一条天皇は元慶寺つながりなんですか。ご紹介ありがとうございます。花山天皇が道兼に騙されて出家させられる、この場面から「源氏物語の時代~一条天皇と后たちのものがたり」(山本淳子、朝日選書)が始まります。まさに一条天皇が即位し道長が彰子を後宮に入れ源氏物語を書かせるに至る舞台が整っていくという訳です。

       →花山天皇については13番、陽成院のところでちょっとおかしい天皇として出て来ます。またそこで。

  2. 浜寺八麻呂 のコメント:

    書き忘れました、

    奈良・飛鳥 日にちもたっぷりあるようですし、見所も多いし、是非楽しんできてください。紀行記も楽しみにしています。

  3. 源智平朝臣 のコメント:

    この歌に関する「こんなに面白かった百人一首」(吉海直人)の解説(p56-57)を見て、小生は「なんと誤解していたのは自分だけじゃなかったんだ。」と思わずほくそ笑んでしまいました。その解説には「作者名は僧正…そんな人物が若い娘に見とれている光景を想像して、なにやら不潔な印象を抱く人も多いのではないか。実際、江戸時代の庶民の間でも、作者の遍昭のことを、聖職者のくせに若い娘に欲情しているエロ爺とみなす風潮はあったらしい。だが、それは完全な誤解だ。」と書いてあります。

    実は小生は子供時代に兄貴から「坊主のくせにあんな歌を詠む僧正遍昭はとんでもないスケベ坊主である」と教えられ、談話室開設を機に百人一首作者の勉強を始めた最近まで、その説明を信じていたのです。いわば、僧正遍昭は江戸時代から受け継がれてきた風評の被害者と言えるでしょうか。

    百々爺の解説にあるように、僧正遍昭こと良岑宗貞は桓武天皇の皇孫にあたる由緒正しい生れで、近衛少将や蔵人頭という颯爽たる官職を務めた後、仁明天皇の崩御に殉じて出家し、出家後は仏教界の重鎮&リーダーとして活躍した立派な人物です。そして、この歌を詠んだのは、まだ青年貴族のうぶな時期、五節の舞姫をうっとりと見とれるのも已むをえない年代と言えるでしょう。

    と言いつつも、僧正遍昭なる人物をさらに調べると、「火のない所に煙は立たぬ」の諺どおり、彼が風評の被害者となったのも、それなりに理由があるとも思うようになってきました。それは彼が美男で色男であった上に、人柄がウィットに富み、軽妙洒脱であったからです。目崎著で紹介されている女郎花を擬人化して詠んだ歌(p112)とか、百々爺の解説にある小野小町との歌の贈答で、既に出家の身でありながら、「衣は一枚しかないと言って貸さないのも薄情だから、二人で一緒に寝ようではありませんか」と返した歌などは、彼のこうした人柄を示すユーモラスな歌だと思います。美男で色男の上、こうした人柄の人物はとかく風評被害に遭いやすい。内輪の話ながら、しばしば、九代目仁王さんによる風評被害に悩まされる小生による同情の念を込めての推論ですが…。

    最後になりましたが、奈良・飛鳥の旅、お楽しみ下さい。実際に現地を訪れて見聞した土産話を楽しみにしています。

    • 百々爺 のコメント:

      1.百人一首は作者名が最終官位となっているので(歌を詠んだ時の身分地位ではないので)誤解を招きやすい点がありますね。12番歌も良岑宗貞朝臣詠となってればよく分かるのですが。まあそのため川柳やらで揶揄されるのでしょう。

      ところで遍昭が出家したのは仁明帝に殉じたのでしょうが35才の若さ、よく決断できたものですねぇ。だって出家とは色欲を断つことでしょう。(源氏が出家を躊躇したのも色々リーズニングがあるにせよ色欲が断てなかったからだと思ってます)僧正として仏教界に重きをなすにせよ75才まで独り身を通すとは大変だったろうと同情します。

       →「をとめの姿しばしとどめむ」は晩年、往時を偲び「ああ、昔に還れたらなあ」という想いを込めて詠んだ歌、、、なんてのは考え過ぎでしょうか。

      2.「九代目仁王さんによる風評」、まあこの年なんだから大目に見てあげてください。昔はスケベと言われると卑しめられてるような感じでしたけど、光るの君の物語にはまったりしているとむしろ誉め言葉に感じられるんじゃないでしょうか。

       →薫と匂宮なら断然匂宮でしょう。

  4. 百合局 のコメント:

    この歌、機知に富んだ即興歌のようですね。わかりやすくてありがたいです。
    安東次男は、今でいうところの「アンコールやカーテンコールをしゃれた一首の歌によって替えた」と表現しています。

    謡曲『羽衣』には「面白や天ならでここも妙なり天つ風、雲の通路吹き閉じよ、少女の姿暫し留まりて、この松原の春の色を三保が埼」とあります。
    謡曲『吉野天人』には「げにも上なき君の恵み、治まる国の天つ風雲の通路吹き閉づるや、少女の姿留まる春の」とあります。
    謡曲『定家』では「外の聞えは大方の空恐ろしき日の光、雲の通路絶え果てて少女の姿とどめ得ぬ、心ぞつらき諸共に」と転用しています。
    謡曲『遊行柳』の中の「名残りの涙の玉にも貫ける春の柳の」は遍昭歌「あさみどり糸よりかけて白露を玉にもぬける春の柳か」からとっています。
    謡曲『春栄』の中の「うば玉のわが黒髪の裾を切り、さばかり明け暮れひと筋を、千筋と撫でさせ給ひし髪を」は遍昭歌「たらちめはかかれとてしもうば玉のわが黒髪をなでずやありけん」からとっています。
    歌舞伎舞踊『積恋雪関扉』にも六歌仙のひとりとして見えます。

    百々爺、奈良・飛鳥の旅を十分に楽しんでください!!

    • 百々爺 のコメント:

      1.なるほど、いったん雲隠れした舞姫が「アンコール!アンコール!」の大合唱に応え再び舞台に登場する。そんな感じですかね。後白河院や匂宮ならやりそうなことですね。

      2.五節の舞姫、羽衣伝説、かぐや姫、この辺は繋がっていくのでしょうね。天上から降りてくる乙女、帰したくない地上の男たち、帰らなくてはならない乙女、、、謡曲にもってこいのテーマでしょうか。

  5. 九代目仁王 のコメント:

    源智平朝臣さんの風評被害? はて何のことでしょう? 私は事実を事実として情報をお伝えしているのであって、風評なんて流した記憶は一切ございませんよ。
    僧正遍昭に関しては僕も源智平氏と同様に誤解しておりました。でも若い頃の作であれば「エロ爺」という誤解は解かなければいけませんね。なおこの歌、この間お伝えした朝日新聞の人気ランキングではほんの少しの差でベストテン入りを逃し、11位!
    でも常に好きな歌として上位に挙げられる華やかないい歌だと思います。小野小町への返歌も粋でいいですねぇ。

    • 百々爺 のコメント:

      風評、大体が悪い方へ悪い方へと面白おかしく伝わっていく。いったん広まった風評は良い方に方向転換することは決してない。流す方も流される方も気をつけなくちゃいけませんね。若い時ならいざ知らず、我らもう人生60年一回りして二回目に入ってるんですもん。

      ベスト10の補欠でしたか。10位の「奥山に、、、」よりはいいと思うのですがねぇ。

  6. 百々爺 のコメント:

    みなさま、いつもながら熱のこもったコメントありがとうございます。

    奈良にいます。本日はいいお天気で奈良観光の定番、奈良公園付近に行ってきました。春日大社(御本殿特別公開とかやっててラッキーでした)-手向山八幡-東大寺(三月堂・二月堂・戒壇堂・大仏殿)-正倉院-興福寺(東金堂・国宝殿)と回ってきました。

    明日は台風模様ですが一応 法隆寺-薬師寺-唐招提寺-平城京跡 の予定です。

    みなさまのコメントへのコメント返しは帰ってからにさせていただきます。私も言いたいこといっぱいありますがどうぞ相互にコメントを応酬してください。それこそ談話室ですから。

     →「風評被害とはなんぞや」なんて面白いじゃないですか。。じゃあね。

  7. 枇杷の実 のコメント:

    「・・しばしとどめむ」とはカッコイイ。意志・希望を表わす’む’で歌を結ぶ。
    五節の舞は陰暦11月中旬に行われる新嘗祭の翌日、豊明節会・饗宴の後に、公家・国司から献上、選抜された美女4~5人が踊った舞楽。天武天皇が吉野(天河)に行幸したおり、天女が現れて袖を五度振って舞ったとの伝説がある。
    元来は豊作を祈る田舞いに発し、節会・宮中行事に採用され、平安時代に盛んとなったといわれる。
    大正、昭和の即位式典で改作された形で演じられた。京都御所、伊勢神宮では事ある度に類似の舞が披露されるそうだ。偶に見かける、神社の巫女舞とはだいぶ様相が違うようです。
          五節の舞 小町探して アンコール

    • 百合局 のコメント:

      この伝説からひとつ。
      のちの天武天皇が大友皇子との関係で吉野に逃れていく(これも行幸と考えられる)時の設定で作られているのが謡曲『国栖』です。
      その終わりのほうに「しかも所は月雪の、み吉野なれや花鳥の、色音によりて糸竹の呂律の調め琴の音に、峰の松風通ひ来る、天つ少女の返すなる、五節の始めこれなれや」とあります。

    • 百々爺 のコメント:

      五節の舞の説明ありがとうございます。誰がどんな美女を出すのか、上も下も興味津津だったことでしょう。

      天武天皇(大海人皇子)が天女の舞を見たという「勝手神社」、吉野山の中千本にあります。前を通ってきました。今は何もありません。ここで静御前が捕えられて舞を演じたとの伝もあるようです。

      高野山、西国札札所4ヶ所、熊野三山へ出かけられる由。23日、色々聞かせてください。

  8. 昭和蝉丸 のコメント:

    この歌から真っ先に思い浮かぶのが、往年の宝塚の大スター、天津乙女。
    子供のころ、京都にも町内に一人か二人『宝塚・命』と言うような
    オバサンが居て、どういう経緯か忘れましたが、何回か宝塚劇場まで
    連れていかれ、この大スターをReal-Timeで見ています。
    そのせいか「天つ風雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ」の
    「おとめ」は宝塚ガール(乙女)が浮かんできて、ロケットダンスの
    脚がちらついてきます。

    • 百合局 のコメント:

      亡くなった私の母も宝塚大好き人間でした。
      娘時代から集めた写真がいっぱいあって、母の宝物でした。
      それを見ながら(見せながら)私に、そのころの思い出をいろいろ話してくれました。昔だから一人では観に行けなかったらしくて、祖父に連れて行ってもらっていたようでした。
      なんだか懐かしいです。

    • 文屋多寡秀 のコメント:

      そういえば宝塚歌劇の大スターには百人一首から芸名をとったスターが何人かいますね。有馬稲子(58番)、霧立のぼる(87番)もそうですね。ここ地元・宝塚市では昨年、歌劇100周年、市制60周年、手塚治虫記念館20周年と合わせ大いに盛り上がりました。土地柄合唱団も多く、地元自慢のベガ・ホールでは多くのコンサートが催されます。
       余談ですが、中でも唯一第九を歌える合唱団に実は小生も参加しておりまして、毎年末には第九を中心とした発表会をしています。歌も唄も実に多くのことを教えてくれますね。

      • 百々爺 のコメント:

        おお、宝塚在住でしたね。それに毎年末第九ですって!びっくりしました。人はみかけによりませんねぇ。もっぱら「山男の歌」か「六甲颪」かと思っていました。失礼しました。

    • 百々爺 のコメント:

      無粋なものでして宝塚、見たことがありません。ロケットダンスって言うんですか、昭和の響きですねぇ。蝉丸ちゃん、近所のオバサンに可愛がられていたんですね。ちょっと想像つきませんが。。

      Wiki見てたら天津乙女の妹さんが「雲野かよ子」って言うそうですね。傑作ですね。

  9. 小町姐 のコメント:

    皆様おはようございます。

    実は五月七日、わが愛する母が亡くなりました。
    30数年余りの闘病生活を繰り返しながらも93歳の天寿を全うし安祥と旅立ちました。
    最後の三泊四日、病室で共に寝起きしたことがせめてもの慰めです。
    書や俳句、短歌をこよなく愛し残された作品は膨大な数になります。
       詠み書きがわが使命なる初硯   母の句

    それらの作品や手紙をを読みながら涙し喪失感に襲われる日々。
    母の娘で良かった、また来世も母の娘に生まれたい。

     母よ母 山懐に抱かれて 青き五月の風に送らる  娘詠む  
    哀しみの中にも五月の空のように晴々とした気分、明日から又談話室に参加させていただきますのでよろしくお願いいたします。
     

    • 百合局 のコメント:

       大変でしたね。 お悔やみ申し上げます。

       できるかぎりのことをなさったあとのお別れだと思います。
       往く方も残る方も満足感があったことでしょう。
       寂しさが続くのは仕方のないことです。

       落ち着かれたら、いつもの小町姐さんに戻ってください。
       お待ちしております。

    • 百々爺 のコメント:

      小町姐さん

      お母さまのご逝去、心よりお悔み申し上げます。やや突然だったのでしょうか。お母さまとのことお聞きしてただけに心中お察しいたします。小町姐さんがいらっしゃらないと談話室は成り立ちません。一区切りつきましたら気分転換にも是非またお越しください。

      (本日は一日かけて在六少将どのに飛鳥を案内いただきました)

             百々爺 @橿原 

  10. 小町姐 のコメント:

    百合局さん、百々爺さん ありがとうございます。

    4月末から食事を受け付けなくなり施設から病院に移りました。
    一応覚悟はしたものの子の欲目でまだまだとの思いもありました。
    頻繁に行き来しておりましたので母も私も大満足で思い残すことはほとんどないほどです。

    念願だった飛鳥のポタリング良かったですね。
    23日のお土産話、楽しみにしております。

  11. 松風有情 のコメント:

    小町姐さん
    突然の訃報にお悔やみ申し上げます。
    大変な母の日でしたことでしょう。

    色は空 空は色との 時なき世へ

    は団十郎の辞世の句でした。
    先週は同じ5月7日が叔父、叔母の一周忌法要で九州に出向き、帰りは四国でのお墓参りの法事旅をしてまいりました。

    百人一首にも命の歌がありました。
    五十四番の
    忘れじの 行末まではかたければ
    今日を限りの 命ともなが

  12. 小町姐 のコメント:

    松風有情さんありがとうございます。

    今年の「母の日」はせつない日でした。
    「ありがとう」とプレゼントしたい母はもういない!!
    想像だにしませんでした。

    母も百人一首の和歌が大好きでよく短冊に書き散らしておりました。

  13. 源智平朝臣 のコメント:

    小町姐さん
    お母様のご逝去を悼み、心からご冥福をお祈りします。

    享年93歳ですか。小生の母も同じく93歳であの世に旅立ちました。母が90歳の誕生日まで元気に嬉野町の実家で独り暮らしをしていましたが、その誕生日を嬉野住まいの姉夫婦に豊地温泉で祝ってもらった直後、駐車場で脳梗塞で倒れました。その後は独り暮らしは無理なので、兄夫婦の家に近い東京の老人ホームに入ってもらいました。

    東京では兄が毎日見舞いに行き、小生や東京住まいの姉も毎週見舞いに行きましたので、以前よりも遥かに頻繁に母と会うことができるようになり、最後に少しは親孝行ができたかなと思っています。母が急に旅立った時、小生はケニアに駐在中だったので、母の死に目にあうことはできませんでした。残念でしたが、母はさばさばした性格だったので小生の赴任の際に「私のことなど気にしないでお国のために頑張ってくるのよ」と言って送り出してくれたこと、兄姉から母は微笑みを浮かべて眠るように安らかに旅立ったと聞いたことなどから、母が天国で怒ったり、悲しんだりしているわけではないと確信しつつ、兄姉とともに母の葬儀を執り行いました。

    母と享年が同じだと聞いて、他人事とは思えず、長々と自らの経験談を書いてしまいました。93歳なら、大往生。お母様は小町姐さんや文屋多寡秀さん等に看取られて、満ち足りたお気持ちで悔いのない旅立ちをされたのではないでしょうか。きっと天国から「宏子よ、早く立ち直って、いつもの元気な宏子に戻りなさい」と仰っていると思いますよ。

  14. 小町姐 のコメント:

    源智平朝臣さん ありがとうございます。

    5月1日親族で見舞い元気だったので一度帰り再び4日に二男と病院へ。
    とても元気で二男は安心して帰りました。
    その時私は妙に母と一緒に過ごしたいと思い残りました。
    付き添いベッド、風呂洗面もついていましたので三日三晩共に過ごしました。
    夜中の苦しみから解放されたので四日目一旦近鉄で帰りました。
    家の玄関に入ったと同時に事切れたようで又すぐに病院へ戻りました。
    母はまだ温かくて半眼半口の素晴らしい成仏の相貌でした。
    今にも目覚めて「宏子」と呼びかけそうでした。
    思えば私たちは一卵性双生児と言われるぐらい似たもの母娘でした。
    性格こそまるで正反対でしたが容貌、価値観や趣味などは瓜二つで私の最大の理解者でした。
    私が良き友人たちに恵まれている事を心から喜んでくれました。
    70年の人生で母から叱られたことはたったの2回。
    それほど大らかでこだわりのない性格でした。
    美杉の多気から波瀬に嫁ぎ慣れない農作業に苦労した若いころ。
    晩年は好きな趣味を楽しみ地域に大きく根を張り信頼を受けておりました。
    母の遺影に五月の緑の美しい山々を見せながら田んぼ道を通り抜けました。
    本当に母らしく素晴らしい季節に逝きました。感謝の思いでいっぱいです。
    今は無事母を看送った安堵感で晴々とした心境になりつつあります。
    皆さま、本当にありがとう!!

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