ここから20番まで大阪の歌が続きます。百人一首では大阪は大都であります。
18.住の江の岸に寄る波よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ
訳詩: 波は寄る 住の江の岸に
私の思いも あなたの岸に
ああ 夜の波を見つめつくして
ひた嘆くわれとわが身の心弱り
夢路にさえもおどおどと人目を避けて
夜の波を見つめつくして
作者:藤原敏行朝臣 生年未詳-901 清和~宇多四代に仕える 能書家 三十六歌仙
出典:古今集 恋二559
詞書:「寛平御時后宮の歌合の歌」
①清和~宇多四代に仕えるとあるが「百人一首一夕話」では27才没とある。若くしてなくなったのなら四代に仕えるのは無理だろうに。よく分かりません。
父は有名でない藤原氏、母の方が重要。母方の紀氏について考えてみましょう。
母の父=紀名虎 娘静子が文徳帝の第一皇子惟喬親王を生む 惟喬親王には皇位の目もあった。
→一歩間違えば紀名虎は外戚として一大勢力を振るえたかも。
そうはさせないのが藤原氏(良房)。結局紀氏は藤原の下位安全牌になっていく。
敏行の妻は紀有常(名虎の息子)の娘 即ち従兄妹どうしである。
17番在原業平の妻も紀有常の娘 即ち敏行の妻と業平の妻は姉妹
→敏行は業平とも親交があった筈。色好み同士とのことだが、敏行の女性遍歴はあまり書かれていない。
紀氏は紀貫之・紀友則と出て来るが結局政治の世界ではなすすべなく消えて行く。
②さて、藤原敏行 因幡守・右兵衛督を歴任、受領階級 中堅官僚
能書家として名高い。小野道風は空海とともに敏行を能書家としてあげている。
→能書家故の怖い逸話もあり。
三十六歌仙 勅撰集に28首入撰
→相当な歌人でしょう。
何と言っても名高いのは古今集 秋の筆頭に載せられた歌
秋立つ日よめる
秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
→これは分かりやすい。秋の気配を詠んで秀逸である。
③18番歌について
うつつにはさもこそあらめ夢にさへ人めをもると見るがわびしさ
(小野小町 古今集)
→これが本歌という説もあるがどうだろう。夢は小町の得意技。
18番歌は「寛平御時后宮の歌合の歌」として敏行の歌が二首ならんでいる内の一つ。(古今集558 & 559)
558 恋ひわびてうち寝るなかに行き通ふ夢の直路はうつつならなむ
559 住の江の岸に寄る波よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ
→「夢の直路」「夢の通ひ路」 夢の路が二つでてくる。
人目よく(人目を避ける)の主語は歌を詠む本人か恋する相手か。
→両説あるようだが定家に沿ってこの歌は敏行が女性になり代わって詠んだ。「人目よく」の主語は相手の男性。「ああ、、あの人は何で夢の中まで避けようとするのですか、、」との女性の恨み節と解釈しておきましょうか。
④住の江について
・大阪、淀川の南 住吉大社の所(海岸に接していた) 白砂青松の地
・住吉大社は源氏物語で大きな役割を果たす。
明石の入道が住吉大社に願かけして娘(明石の君)の栄達(高貴な人の妻になり高貴な人を生む)を願う。これが成就していくのが「明石物語」
住吉大社が出てくるのは二場面
1.「澪標」京に戻った源氏がお礼参りに住吉大社を訪れ明石の君とすれ違う
あらかりし波のまよひに住吉の神をばかけてわすれやはする(源氏)
2.「若菜下」明石の姫君の皇子が東宮に。大願成就、源氏・明石一族揃ってお礼参りに。
昔こそまづ忘られね住吉の神のしるしを見るにつけても(明石の尼君)
→ああ、この場に明石の入道おらましかば、、、と思いました。
・住吉大社、大阪出張時に阪堺電車で訪れました。源氏物語のことはあまり出てきませんでした。
【今日明日と「なごみ会」(那須で75才までゴルフと味覚をなごやかに楽しむ会)に行ってきます(源智平さん・枇杷の実さん参加)。コメント返信遅れます。ご容赦ください】
18番歌の 「岸によるなみよるさへや」寄ると夜を繰り返すことによってリズムが整い覚えやすい歌です。歌の良さよりも調べの良さに魅かれます。
住ノ江は白砂青松の歌枕。
夜の海辺の様子と恋の切なさが「夢のかよひ路」の言葉によりなお一層伝わります。
あれっ、本当だ!!この歌のかよひ路、通うのは男で、女であろうはずがなくすると女性が詠んだ?なるほど 敏行が女性の気持ちを詠んだとすれば納得です。
昔は人目よ くらむと思っていましたが今は人目よく らむと解しました。
小町姐も少しは成長したかな?
現在の住の江は埋め立てられて昔の面影は見る影もなくちょっとイメージしにくいですが童謡「浜千鳥」や「浜辺の歌」をそして究極は源氏物語の場面を想像するのが一番でしょう。
藤原敏行と言えばやはり「秋きぬと・・・」ですね。
住の江・・・はなんとなく二番煎じの感が否めない。
【余談5】
ずっと以前から人形浄瑠璃・文楽を生の舞台で観たい観たいとと思いつつも機会を逃していた。
今回日程もうまくかみ合い昼の部を鑑賞することができた。
きっかけは三浦しをんさんの「仏果を得ず」です。
文楽は大阪が発祥地の江戸時代から続く日本を代表する伝統芸能の一つである。
そういえば少し前、例の話題多き市長が補助金をカットするとかで物議をかもしましたよね。
語り手である太夫(浄瑠璃)、三味線弾、人形遣いが一体となった世界にも類を見ない舞台芸術とのこと。
2003年にユネスコ無形世界文化遺産に登録されたそうです。
さて初めてみる文楽
幸いにも前から二番目中央席、人形も人形の遣い手もばっちり見える席、ただ三味線と太夫からは少し距離がある。全面の天上下に字幕が掲げられる。
語りを聞きとるのに自信がない私はついつい目線が字幕に及ぶ。
その為人形の動きとセリフ(語り)にずれが出る、浄瑠璃を聞きこなすのは難しい。
もう少し後ろの席の方が見やすいようだ。
最初に解説が10分ほどあり演目は
「寿柱立万歳」(ことぶきはしらだてまんざい)と「女殺油地獄」(おんなごろしあぶらのじごく)の二本。
「女殺油地獄」はシネマ歌舞伎を見ていたので大体のあらすじはわかる。
やはり圧巻は人形の動き。
遣い手と黒子の三人が人形を動かしているのですがまるで人形そのものに命が吹き込まれたような動きに加えて三味線と語りが一体となって迫ります。
とにかく初めての文楽、クライマックスでは人間ドラマを演じているようで人形がとてつもなく大きく見えました。
文楽の初鑑賞、先ずは雰囲気を楽しんできました。
次は「能舞台」ですね。
1.おっしゃる通りリズミカルで覚えやすい歌ですねぇ。「よる」「よる」「よく」と「よ」の音が「夢」を誘います。
「人目よ、、くらむ」ですか、「目くらまし」みたいなものでしょうか。思い込みとか思い違い(場合によっては思い入れ)で勝手に解釈してしまうってあるじゃないですか。それでいいんだと思います。
2.文楽鑑賞記、ありがとうございます。間近に見れてよかったですね。「仏果を得ず」、しをんちゃんらしい痛快小説でしたね。私もあれで三位一体を知りました。映画化すればいいのに、、、。でも素人の俳優には人形遣いも浄瑠璃も難しいのかもしれません。
能舞台鑑賞、是非挑戦なさってください。
余談の追記です。
「文楽」の感動覚めやらず今、三浦しをんさんの「あやつられ文楽鑑賞」を読んでいます。
「遣い手と黒子の三人が人形を動かしている」と書きましたが
正しくは人形を動かしているのは三人遣いと言い一体を三人で遣う。
首(かしら)と右手を担当する「主遣い」 左手担当の「左遣い」 足担当の「足遣い」でこの三人は人形の右側から主遣い、足遣い、左遣いという立ち位置で動くのが基本である(以上、あやつれれ文楽鑑賞より)
私が観た舞台は主遣いが裃(肩衣)、足遣いと左遣いが黒衣裳でした。
演目によっても違いがあるのかも知れません。
しをんさんが「この本が文楽の世界との幸福な出会いの一助となりますよう願いつつ」とあとがきに書いていますがまさしく一助のかたわれになりそうです。
しをんちゃん、色んなものに興味を持ってレパートリーを広げているのは立派ですね。文楽は相当通になったのでしょうね。そろそろ大恋愛小説にでも挑戦して欲しいですね。
小生が、小 中 高校と育った浜寺、その浜寺駅前から出ている阪堺線、路面電車で我々は チンチン電車と呼んでいましたが、今も走っています。30分ほど乗ると 住吉鳥居前に到着、小学生のころ、両親に連れられて初詣に行ったことが懐かしく思い出されます。
”百人一首今昔散歩”に写真が掲載されていますが、反橋、我々は 太鼓橋と呼んでいましたが、結構急な坂の橋を滑らぬように渡ったものです。今も渡れるのか?
小生はここ50年ほどご無沙汰ですが、爺はいつ住吉大社に行きましたか。
住吉神社は、書いてくれている通り、源氏物語でご利益ありの神社で出てきますが、WIKIを調べると
創建[編集]
仲哀天皇9年、神功皇后が三韓征伐より七道の浜(現在の大阪府堺市堺区七道、南海本線七道駅一帯)に帰還した時、神功皇后への神託により天火明命の流れを汲む一族で摂津国住吉郡の豪族の田裳見宿禰が、住吉三神を祀ったのに始まる。その後、神功皇后も祭られる。応神天皇の頃からの大社の歴代宮司の津守氏は、田裳見宿禰の子の津守豊吾団(つもりのとよあだ、つもりのとよのごだん)を祖とする。
住吉社は古代大和王権の外交・航海に関連した神社で、遣隋使・遣唐使の守護神であり、津守氏は遣唐神主として遣唐使船に乗船した。遣隋使・遣唐使は、大社南部の細江川(通称 細井川。古代の住吉の細江)にあった仁徳天皇が開いたとされる住吉津(「墨江ノ津」「住之江津」すみのえのつ)から出発する。住吉津は、上代(奈良時代・平安時代初期)は、シルクロード[3] につながる主な国際港でもあった。
とのこと。
住吉津、そして安土桃山時代は我が故郷、堺も国際交易港、都にはなれませんでしたが、大阪がんばれ であります。
≪雑談≫
5月28日早朝発で熊本空港へ、レンタカーをして 天草 に行きました。天草は想像していた以上に大きな島で、空港から島の端まで行くと 3時間はかかります。
天草四朗や隠れキリシタンの記念館など見た後、世界遺産候補”長崎の教会群とキリスト教関連遺産”に入っている 大江天主堂・崎津教会を見学、これらの教会は、先日NHKプレミアムで放映された五島列島の教会に酷似しており、こじんまりした素朴かつローカルな教会で、穏やかさが漂っていました。
泊まりは、下田温泉”五足の靴”。五足の靴は、明治40年8月、与謝野鉄幹(35歳)が、当時学生だった文学仲間、北原白秋、吉井勇、平野万里、木下杢太郎を引き連れ、九州のキリシタン遺跡を巡り、天草にも四日滞在、それらの紀行文が新聞に連載され、有名だったとのこと。時間があれば、文庫本も出ており、読んでみようかと思っています。
翌日は、天草から車で阿蘇を突っ切り7時間かけ大分へ。府内城址を見た後、この4月24日にオープンしたばかりの大分県立美術館へ、有名な板 茂さん(小生知りませんが)の設計とのことで、立派な建築でした。
夜は、すし屋さんで、関アジやら地魚と大分の麦焼酎を頂く。美味しかった。
30日は、観光バスで 国東半島巡りへ、先ずは 宇佐八幡宮へ。例の道鏡事件と和気清麻呂で有名。725年創建、全国4万(すごい数です)の八幡宮の総本社だけあって、敷地も広く、お社も国宝で立派。京都で訪れた石清水八幡宮を忍ばせますが、宇佐は、上社と下社があって、規模も大きく荘厳な大社でした。
その後、平安時代大いに栄えたと言う六郷満山で有名なお寺巡り。富貴寺、両子寺、熊野磨崖仏など見学、宇佐八幡宮の影響もあり、神仏習合のお寺群。日本の石仏の9割は、大分にあると。以前臼杵の石仏も見ているが、こんな山深いところによく彫ったものと感心。
今回は久しぶりにバスガイドさんが同乗、流暢なガイド節で案内もしてくれ、懐かしさにも浸れました。
最後は、別府温泉泊、またまた関アジなどの舟盛りを頂貴、大変満足な旅でした。
これはまたデラックスな九州の旅ですね。北もいいけど南もあなどりがたい。そして最近の北陸も。しかし最近どこへ行っても外人の方が増えましたね。関空も最高の入国者とか。「大阪賛歌」心強い限りです。昨夜のタイガースどうしたんでしょうね。後一人コールからの満塁弾ですからね。今日からまた褌締めてグワンばりましょう。
さて18番歌は藤原敏行朝臣。 野球でいえばエースの登場。いぶし銀のような味のある人物ですね。そして器用にも女性の気持ちで詠んでみたりとなかなかの曲者ですな。それにしてもこの歌 なんてなだらかな声調なんでしょう。おそらく百人一首中トップクラスでしょうな。「よるなみ~よるさへや~ゆめ~かよひ~よく」と「よ」を主調とした「や・ゆ・よ」の響きあい、「よる波」から「よる」へ続ける序詞が、「すみ」から「澄み」への連想があって夢の通い路が展開される。作られた歌としてその御膳立ては完璧といってよく、だからこそ、わざとらしさが消去されるのであろうと。(出典:解説百人一首 橋本武)
住の江の岸に楽天よる気なり (俳風柳多留41)
伝説によればー白楽天は「日本の文化のほどを調べて参れ」と唐の帝の命を受けて日本の海岸までやってきた。船を浮かべて釣りをしている老漁夫と詩歌の問答をしたところ言い負かされて唐土へ帰って行った。この漁夫こそ和歌の守り神住吉明神の化身だったのだ。
謡曲白楽天には「花に鳴く鶯、水に住める蛙まで、唐土は知らず日本には、歌をよみ候ぞ」とあるらしい。(出典:阿部達二著 江戸川柳で読む百人一首)
なにぶんにも文屋康秀の一枚札の歌とともに「むすめふさほせ」の一首。
歌留多取では電光石火の如くこの札を目指しましょう。
全く9回2死ランナーなしからの逆転劇はいただけませんね。頭に来たおっさんが5人ばかり道頓堀に飛び込んだんじゃないかと心配しました。
そうですか、橋本先生もそうおっしゃってますか。何か目を閉じて歌を唱えていると夢見心地になるような気がします。「夢路いとし」「喜味こいし」おもろかったですね。
住吉大社が和歌の神さまである由来、そういうことだったのですか。白楽天という大物を持ち出して後付けで箔をつける、やってくれはりますなぁ。
1.住吉大社には5年ほど前に行きました。お目当ては勿論源氏物語との繋がりを感得できたらということだったのですが、残念ながら付近も海は見えず白砂青松も感じられず、神社内にもあまり源氏物語の匂いはなく、ちょっと拍子抜けだったことを覚えています。ただ「和歌の神様」とあったので「へぇ~っ、そうなんだ」と思ったものです。
住吉大社の創建、引用ありがとうございます。外交・航海の神さまであることよく分かります。古代から貿易・外交の港であった。後の堺自由都市に繋がっているのでしょうね。
太鼓橋、今でも渡れると思います。私も往復渡りました。革靴で少しこわいなという印象があります。
2.九州旅行記、ありがとうございます。色々見聞を広げられて結構ですね。天草から阿蘇を横切って大分までですか、すごいロングドライブでしたね。でも車で行くと土地鑑もできるし色々考えられていいですよね。踏破したぞって実感も湧きますもんね。それとガイドさん付きのバス旅行、、いいバランスでしたね。
天草のこと、国東半島のこと、来週会うとき聞かせてください。
この歌の「よるさへや」には、寄る波から夜へ、さらに夜から寄り合う男女へという流れが感じられて、歌人の工夫の跡がみられるように思います。
謡曲『景清』には「秋来ぬと目にはさやかに見えねども、風の音づれいづちとも~」とあり、これは古今集、秋上、藤原敏行の歌「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚ろかれぬる」からとられています。
百々爺が「能書家故の怖い逸話」と書いているのは
『今昔物語集、巻十四,第二十九』の話です。(宇治拾遺物語、102にも類話あり)
(以下文中「橘敏行」は「藤原敏行」の誤りという頭注あり)
「左近ノ少将橘ノ敏行ト云フ人有ケリ、和歌ノ道ニ足レリ。亦、極タル能書ニテゾ有ケル」とあり、お経の書写を依頼されたが、心起こさずして法華経を書写し、一旦地獄に堕ちた敏行は、四巻経供養の志を立てて、辛くも蘇るを得たが、誓を忘れて再び好色に耽り、命終後、塗炭の苦しみを受けたという話です。
本朝仏法部の話なので当然かもしれませんが、最後の一文は「然レバ愚ナル人ハ遊ビ戯レニ被引レテ、罪報ヲ不知シテ如此クゾ有ケルトナム語リ傳ヘタルトヤ」で締められています。
この話の三つ前の第二十六話にも「経ヲ書テ世ヲ渡ル人」の怖い話があり、写経中は慎むべきとの教えが流布されていたようです。
「能書家故の怖い話」、今昔物語の引用ありがとうございます。
それにしても能書家で人から頼まれ人のためと思って写経に勤しんだのに身を浄めて行わなかったから(魚を食べたり、女性を愛したり)地獄に落すというのは「あまりにご無体じゃござんせんか、閻魔どの!」って言いたくなります。藤原敏行朝臣どの、余程の達筆だったのでしょうね。定員オーバーで断られた者が妬みからあることないことでっちあげ物語に仕立てたのではないでしょうか。
藤原敏行は政官界の主流を占める藤原北家の生まれでないため、官位は従四位上・右兵衛督(皇居警備の長官)止まりでしたが、才能に富み、人柄が良い人物だったようですね。歌人として三十六歌仙に入っているのみならず、漢詩文学にも才があり、書に至っては小野道風が空海と並ぶ妙筆と評したほどの能書家だったというから凄い才人だったのでしょう。
それでいて、人柄はユーモラスな面もあり人間的で愛すべき人物だったようですから、寛平の治で知られる宇多天皇が彼の才能や人柄を評価して、寵臣として蔵人頭に取り立てたというのも理解できます。記録は残っていないけど、きっと女性にももてたでしょうね。
小生の推測では、こうした彼の芸術家としての才能や人に愛される人柄は権力志向の強い父方の藤原氏ではなく、多くの歌人を生んだ母方の紀氏の血を受け継いだものと考えられます。紀貫之・友則と縁戚で、17番歌の在原業平と相婿だったのだから、彼は華麗なる歌人一族の有力メンバーだったのでしょう。
藤原敏行も紀氏の多くの人々と同様、政治的な存在感は無きに等しいわけですが、権謀術策を巡らして権力争いに勝つより、百人一首18番歌や立秋頃に必ず引用される「秋きぬと…」の歌の作者として後世に名を残す方がずっと栄誉なことではないでしょうか。文屋多寡秀さんによれば、藤原敏行はいぶし銀のような味のある人物。目立つわけではないけれど、敏行のように凄い才能を持ったナイスガイがいることに平安王朝期の人材の豊かさを感じます。
那須でのゴルフ優勝おめでとうさんです。あくなき向上心ご立派です。
地味な(いぶし銀の)藤原敏行を冷静にキチンと分析していただき敏行ご本人も喜んでいると思います。誠に妥当な評価で異存ありません。こういった目立たない平安王朝の人材に焦点を当てられるというのも百人一首をじっくり読み込む醍醐味だと思います。
→18番歌と「秋きぬと」ホントこれはすごい栄誉だと思います。
今気づいたのですが、「住の江の岸に寄る波~」キチンと「きし=紀氏」が入ってるじゃないですか。敏行もうだつの上がらない藤原を名乗るより母方の「紀氏」に自分のルーツを求めてたのかも知れませんね。
「・・夢の通ひ路 人目よくらむ」(人目をはばかる必要のない夜の、夢の通い路ですら、貴方は人目を避けようとするのですか)
平安時代の貴族たちにとって、夢には特別の意味があったそうです。
自分の見た夢で吉凶を占うことも普通に行われており、、何より恋する相手が自分の夢の中にたくさん出てくるほど、相手が自分のことを好きなのだ、と思われていた。
要するに、夢は恋の深さを調べるバロメーターだったとか。
恋人が現れる夢についても、その恋人がどのように表れたのかによって夢の解釈が異なり、夢の中の行為によっては幸運の夢どころか、不幸な夢や要注意といった解釈になってしまう。
陰陽道の影響が大きい思うが、当時の貴族たちはいい夢見ようと就寝前にお祈りしたことでしょう。
皆さんのコメントでは、藤原敏行なる人物はいぶし銀のような、才能豊かな歌人で、ナイスガイ。
「秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」はまさに名歌で、
この歌からくる情感は、我々の年代には特にピッタリときますね。
会社の同僚にフジワラトシユキなるものがいて、そのイメージは和歌の世界からかけ離れますが、彼も名前負けせず、好ましい人物です。
占えば 密かな交際 夢かなう
夢・占い・陰陽道、、、これらは繋がって時には人を喜ばせ呪縛を与え、当時の人たちの生活そのものを支配していたのでしょう。
百人一首で「夢」が出てくるのは18番歌と67番歌「春の夜の夢ばかりなる手枕に」の2首。意外と少ないですね。
「夢」を使って物語の展開を図るのは作者の常套手段、源氏物語にもいっぱい出て来ましたし、現代の映画なんかでも多いですよね。
→私自身は色っぽい夢なんてみた覚えなし、実に無粋な男であります。