43番 窮極の貴公子敦忠 、、昔は物を、、、

38番歌右近に対し神にかけて愛を誓ったとされる権中納言敦忠。惜しくも年若くして亡くなったものの歌に優れ管弦に長け業平の再来ともてはやされる美男子だった由。人となり人模様を覗いてみましょう。

43.逢ひみての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり

訳詩:    思いをとげるまでの苦しさ
       あんなにつらいことがあっただろうか
       それなのに 私は今胸かきむしられている
       あなたと一夜をともにしてからというもの
       あんなつらさの思い出など
       ものの数にも入らなくなってしまった

作者:権中納言敦忠(藤原敦忠) 906-943 38才 時平の三男 三十六歌仙
出典:拾遺集 恋二710
詞書:「題しらず」

①父 藤原時平 道真を陥れ天罰がくだり39才で早死にしたとされる藤原家筆頭
 母 在原棟梁(業平の孫)の娘 

【今昔物語の説話】 
 美貌の母は最初藤原国経(長良の長男、基経の兄)の妻だったが時平が国経邸に押し寄せ奪い取った。この時妻は既に国経の子を孕んでいた。即ち敦忠は時平の子ではなく実は国経の子である。
 →真偽の程はともかく敦忠自身は時平の子だと思っていたろうしそれでいいのでは。
 →大事なのは敦忠の美貌は業平の子孫である母譲りのものだったということ。

・時平一家は道真に呪われた若死にの一族と言われる
 909 時平死亡(時平39才 この時敦忠4才)
 923 時平の妹穏子が生んだ皇太子保明親王死亡 21才
 930 醍醐帝崩御 46才
 936 時平の長男(敦忠の兄)保忠死亡 47才
 →これで敦忠は自身も早死にするだろうと負の意識を持つ。
  「われは命短き族なり、必ず死なむず」(大鏡)

・さすがに権門の貴公子。順調に出世し従三位・権中納言にまで昇るが943年38才で死亡。
 →死因が書かれていない。流行の疫病だろうと思うのだが、、。
  死因は「道真公の崇り」と信じて疑われなかったのだろうか。

②敦忠の恋
・歌人としての敦忠 後撰集に10首 勅撰集に計30首入手 三十六歌仙  
 管弦も抜群であり「枇杷の中納言」と讃えられた。
 加えて母譲りの美貌、モテない筈がない。

・大和物語によると
 1 38番歌右近との恋(81、82,83,84段)
   右近 忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな

 2 左大臣仲平の娘明子(いとこ)との恋(92段)
   物思ふと過ぐる月日も知らぬまに今年は今日に果てぬとか聞く(後撰506)

    紫式部はこの歌を借りて光源氏に最後の絶唱を詠ませている(幻19)
    もの思ふと過ぐる月日も知らぬ間に年もわが世も今日や尽きぬる
    →読者はすぐ若くして亡くなった敦忠のことを思い出しただろう。

   もう一つ明子に贈った熱烈な恋文
   今日さへに暮れざらめやはと思へどもたへぬは人の心なりけり(後撰882)
   →この恋は成就し明子は敦忠の妻となっている。

 3 醍醐帝の皇女雅子内親王との恋(93段)
   敦忠が思い焦がれたが雅子内親王は伊勢斎宮になってしまう。
   (この時敦忠25才 雅子21才 斎宮にして敦忠から遠ざけたのかも)

   この時敦忠が雅子内親王に詠んだ歌 
    伊勢の海の千尋の浜に拾ふとも今は何てふかひかあるべき
    →斎宮になってしまえばもう逢えない。切ない歌である。

    そして後日斎宮から戻った雅子内親王は藤原師輔の妻になっている。
    →敦忠敗れたり。師輔が摂関家筆頭に上り詰めて行く一つのステップである。
    →師輔も右近と関係のあった一人である。

    【付記】藤原師輔=忠平の子即ち敦忠にとっては従兄弟(4才年下)
     師輔は好色だったのか内親王狂いだったのか、醍醐帝の内親王三人と密通し妻としている。先ず勤子内親王次いで雅子内親王そして康子内親王。
     臣下として内親王に降嫁された初めての男である。

 4 敦忠の本妻は藤原玄上女=保明皇太子の妻だったが保明の死後本妻に迎えた。
   →東宮に嫁いだが東宮が死亡した未亡人、六条御息所を思わせる。

   他に源等の娘(嵯峨帝につながる皇孫)も妻とし愛したとのこと。
   →敦忠の華々しい女性遍歴が窺える。
 
・敦忠は比叡山麓の西坂本に豪奢な山荘を持ち伊勢、中務(母娘)らを招いて歌宴を開いたとされている。44朝忠もこの山荘を訪れている。
  →敦忠の周りはいつも華やかで嬌声が絶えなかったのであろう。

③43番歌 逢ひみての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり
・歌の解釈として、実事の直後の後朝の歌と見るか逢った後しばらくたって逢えない思いや様々な心の悩みを詠んだ歌と見るかの説がある。
 →単純に後朝の歌でいいと思うがどうか。
 (定家はその後逢えない想いを詠んだ歌と考えているようだが)

・「ああ、貴女と逢えて本当によかった。今朝の歓びは昨日までとは比較になりません」
 こんな後朝の歌をもらったら女性は嬉しいのじゃないでしょうか。

・さて43番歌の相手は右近ではなく忠平の娘藤原貴子とも言われている。
 【藤原敦忠千人万首より】 
 『敦忠集』では「御匣殿の別当にしのびてかよふに、親ききつけて制すとききて」の詞書を付した「いかにしてかく思ふてふことをだに人づてならで君にかたらむ」に続けて載せている。これによれば、ひそかに関係を持ったものの、その後親に知られ、逢い難くなった状況で詠まれた歌になる。
  →ここでいう御匣殿は藤原貴子、忠平の娘で保明親王に嫁ぎ保明親王の死後宮中勤めをした。

  さすが美貌の風流子敦忠、女性関係は複雑過ぎてまとめられません。光源氏も一目おいたのかも知れません。
  →敦忠の恋については「百人一首の作者たち」(目崎徳衛)がp179-188に力を尽して述べている。

④源氏物語との関連
 この43番歌の心はやはり藤壷との逢瀬の後の源氏の心ではないでしょうか。
 逢ってよかった。やっと想いを遂げられた。歓喜の絶頂とともに忍び寄る不安。万が一にもバレたら自分も藤壷も身の破滅。
 →事前と事後では全く世界が異なって見える。
 →恋も(特に肉欲)そうだろうが何でも長年の目標を達成しえた後では歓びと同時に虚脱感を覚えるものだろう。

 源氏 逢ふことのかたきを今日にかぎらずはいまいく世をか嘆きつつ経ん
 藤壷 ながき世のうらみを人に残してもかつは心をあだと知らなむ

 里下がりの藤壷の寝所に源氏が侵入するが藤壷は塗籠に逃れて二度とは許そうとしなかった。(賢木16)

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17 Responses to 43番 窮極の貴公子敦忠 、、昔は物を、、、

  1. 小町姐 のコメント:

    一族揃いも揃って早死の系統ですね。
    この歌は「逢恋」「逢不逢恋」など歌の解釈には諸説あるようですが私は後朝の歌ととりたいです。
    そうだとすればこのお相手は38番歌の右近宛ではあり得ないですね。
    38 忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな
    43 逢ひみての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり
    文のお相手はいったい誰でしょう。新たな恋人?忠平の娘、藤原貴子が本命ですか?
    男を物思いさせるこのような後朝の歌を贈られた女はは天にも昇る気持ちではないでしょうか?
    もし仮にこの文を贈った相手が右近だとすれば百々爺さんじゃないですが返しは当然「あなわづらはし」といったところでしょう。
    敦忠は時平の三男ですが実の父は時平の伯父国経のようですね。
    大和物語のエピソード面白いです。
    方違で時平が国経邸を訪れた時、主が酔いつぶれた隙に北の方を奪って逃げた・・・
    北の方は国経の子を身ごもっておりその子が敦忠とのこと。
    伯父の妻を奪った時平、これも早死にと言う天罰の報いでしょうか。
    そして自身は醍醐帝の皇女雅子内親王との恋に破れ従兄弟、師輔に奪われいる。
    これも因果応報でしょうか?その師輔は右近とも関係?

    斎宮歴史博物館、歴史の道には敦忠と雅子内親王の歌碑があります、。
      伊勢の海の千尋の浜に拾ふとも今は何てふかひかあるべき(敦忠)
      伊勢の海のあまのあまたになりぬらんわれもおとらずしほをたるれば(雅子内親王)
     美しい母親似の敦忠は琵琶の名手で歌を能くし宮廷の寵児として一世を風靡したとの事。
    美人薄命ならず色男も薄命だったようですね。
    引く手数多、さすがの右近も恋の鞘当に勝てなかったようですね。
    百々爺さんじゃないですがあまりに敦忠の女性関係が複雑すぎて私も混乱気味です。
    色好み光源氏もびっくりぽんでしょう。
    源氏物語 幻
       もの思ふと過ぐる月日も知らぬ間に年もわが世も今日や尽きぬる
       物思ふと過ぐる月日も知らぬまに今年は今日に果てぬとか聞く (敦忠) 
    そっくりですね。気がつかなくて今「幻ー19」を読んでいます。
    脚注に後撰・冬 藤原敦忠とありました。

    ここまで来て38番右近と43番敦忠、右近関係の42番元輔、44番朝忠。
    そして40番41番の歌合せ、ずっと恋歌の連続性が一つの物語として構成されているようにも見えてきます。
    定家も考えたものですね。
    やはりこれは歌の良し悪しばかりではなく何らかの定家の意図があったとしか思えません。

    お知らせ
    11月26日(木)NHK BSプレミアム20:00
    国宝・源氏物語絵巻が放映されます。

    • 百々爺 のコメント:

      ・実は百人一首を初めてざっと通読した時、一番いいなあと心に残ったのが43番歌でした。貴女に逢えて(恋を成就できて)本当によかった。貴女を知らない時に比べると今は心満ち足りています。これぞ恋の歓びであります、、、という心を相手の女性に伝えた感謝の歌だと解釈したものですから。百人一首の恋の歌は何れも苦しい切ない気持ちを詠んだものですが、恋の歓びを詠んだ歌があってもいいかあなんて思っています。
       →少し曲がった解釈かも知れませんが勝手に考えているものです。

      ・雅子斎宮との歌の贈答(歌碑)が斎宮博物館にあるのですか、いいですね。斎宮となって伊勢に下る。皇女の中から選ばれる斎宮、選ばれれば京から遥か離れた伊勢の地で日々神にお仕えする身となる。重要なお役目とは言いながら実のところ選ばれたい、選ばれたくない、、、複雑な心境だったのじゃないでしょうか。

       六条御息所の娘が斎宮に卜定される。煩わしの恋に陥ったとは言えまだ燃え尽きてはいない六条御息所との別れの場面を思い出します(賢木7)。

       源氏 ふりすてて今日は行くとも鈴鹿川八十瀬の波に袖はぬれじや
       御息所 鈴鹿川八十瀬の波にぬれぬれず伊勢まで誰か思ひおこせむ

      ・そうです、38~45番までこれぞ「王朝の恋」という恋歌が続きます。後になればなるほど技巧に走って行く恋歌にあってこの辺りはまだまだ真剣味のある歌が多いと感じていますがいかがでしょう。

      (「源氏物語 絵巻」の番組紹介ありがとうございます。楽しみです)

  2. 源智平朝臣 のコメント:

    百々爺の解説にあるように、藤原敦忠は小生が憧れる百人一首作者の一人である在原業平の曾孫にあたります。こうした血筋のおかげで、敦忠には業平と似ている点がいろいろと見受けられます。

    まず、敦忠は業平同様、美貌に恵まれた貴公子で和歌の名人でした。そして、両者とも、色好みで女性にモテモテでしたが、プレーボーイというより恋多きロマンチストというタイプで、「一夜めぐりの君」と呼ばれた20番歌の元良親王のように女性なら誰でもOKではなかったようです。

    恋多きロマンチストという評価は、両者のファンである小生の好意的な見方によるものだけではく、両者の恋の多くが伊勢物語や大和物語といった物語や様々の和歌集の恋歌として残されていて、今なお人々を感動させていることから来ています。

    さらに、両者とも、禁断の恋に情熱を燃やし、世の中を騒がせたという点も似ています。業平については、既に17番歌で解説があったように、実力者藤原良房の娘で後に清和天皇の女御として入内した「藤原高子」並びに文徳天皇皇女で伊勢斎宮になった「恬子(やすこ)内親王」との恋がこれに当たります。敦忠については、醍醐天皇の皇女で伊勢斎宮に卜定された「雅子(がし)内親王」との恋です。

    ところで、43番歌の相手は右近でも、(目崎徳衛や爺の解説にあるように)藤原貴子でもなく、禁断の恋の相手であるが雅子内親王という見方もあるようですね。ネットを見ていると、雅子内親王説の方が有力のようですが、これは敦忠(和歌)集に百首にもなんなんとする雅子伊勢斎宮との歌の贈答が収録されているためなのでしょう。ここでも、美貌の風流貴公子敦忠の複雑過ぎる女性関係が混乱を招いているようだなと苦笑する次第です。

    爺の解説にあるように、斎宮から戻った雅子内親王は敦忠とは結ばれず、従兄弟で時平の死により政治の実権を握った忠平が父親である師輔の妻となり、敦忠の長い恋路は結局悲恋に終わる。この悲恋と39歳の早死により、敦忠は悲劇の貴公子として後世の人々の哀れも誘うが、里中満智子流に言えば、それがまた敦忠の人気を高めているのかもしれません。

    • 百々爺 のコメント:

      ・業平の曾孫とくれば智平どのが敦忠を相当な色目がねで見られるのも仕方ないのでしょうか。それはいいとしてちょっと元良親王を目の敵にし過ぎではありませんか。「一夜めぐりの君」も唾棄すべき女性の敵だった訳ではなく、けっこう「私の所へもめぐって来てくれないかしら、、、」って心待ちにしていた女性もいたのではと思うのですが。。

      ・43番歌の相手は雅子内親王という説もあるのですか。敦忠の女性関係、混乱の極みですね。

       ご指摘通り内親王との恋(それも斎宮がらみの)って禁断の恋だったのでしょう。身分血筋が全てであった当時、内親王(天皇の娘)はそれだけで禁忌、近寄りがたい存在であった。そんな内親王を妻にする、男として震えがくるのは当然かもしれません。何せあの光源氏でさえ朱雀院の内親王女三の宮と聞けば最愛の紫の上に不幸が訪れることを意識しながらも受け入れざるを得なかったんですもの。
       →そんな内親王を3人も我が物にした師輔って羨ましいと言おうか、、罰当たりメがと言おうか、、。

  3. 文屋多寡秀 のコメント:

    43番歌は究極の貴公子敦忠の女性への最大のリップサービスなのかもしれません。
    女性はきっと歓喜するでしょう。ここでの「逢い見て」はただ顔を見るだけではなく肉体関係を伴うランデブーですよね。そうでないと単なる餓鬼の歌でしかありません。敦忠の場合は若死をしてしまったので、「逢い見て」の後はそれほど長くなかったでしょうが。

    古来、犬が西向きゃ尾は東、親父俺より歳が上、朝が来たなら夜が来る、昔から当たり前と相場は決まっています。
    ですが、やっぱり朝が恨めしいのです。女性が絡んでくるとこうなるのでしょうね。いわゆるきぬぎぬの文、デートのあとの感想を手紙に託してるんですね。
    男は「ああ、終わった 終わった」ですが、女性は「私愛されているかしら」の性(さが)なのです。きぬぎぬの文は、このことへの慮り。要するに男女の仲を性の営みから心の営みへと昇華させようという典雅な試み、一つの文化でしょうか。これを一つの習慣、恋愛作法としたところは日本の王朝文化のすぐれて世界的なところでしょうか。

    夜が去って朝が来るのは毎日繰り返される自然現象ではありますが、それが人間の心、営みと無縁じゃないのが面白いところ。岩谷時子さんの作詞<夜明けの歌>なら「あたしの心に 若い力を 満たしておくれ」のように明るい朝には明るい希望がわいてくるのが通例ですが。

    敦忠の文学的フィクションも含まれているんでしょうが、きぬぎぬの文としての女性への最大のリップサービスと読めないでしょうか。

    とはいうものの、恋しい女性と一夜を過ごし、朝が白々と明けてくるのは、現実なら誠に恨めしい。「又すぐ夜になるよ」とは行きませんのも事実ではあります。(ベース:阿刀田高 恋する「小倉百人一首」)

    • 百々爺 のコメント:

      おお~、筆使いが軽快になってきましたね。ともすれば硬い調子になりがちなブログ、ありがたいです。

      ・後朝の歌(文)への考察、いいですねぇ。
       「後朝の文は男女の仲を性の営みから心の営みへと昇華させようという典雅な試み、一つの文化」

       その通りだと思います。男が女の元へ通い一夜を過し朝明るくなる前に互いの姿を見ることもなく愛情を確かめ合う暇もなく男は女の元から立ち去ってしまう(去らねばならない)。これで何もなければ女は不安でならないことでしょう。後朝の文の義務化、それは女性に対する礼儀であり更に愛を高めていく手段であったということでしょう。男女の間柄、性の営みだけに終わっていては高まりようがありません。心を伴ってこそ理想の男女関係へと進展していくのだと思います。

      ・リップサービスはいつの世にも必要です。源氏も閨ではいつもあることないことリップサービスに努めていたものです。

  4. 浜寺八麻呂 のコメント:

    高貴で美男な風流人、恋多き男で、もてもて君だったのですね。光源氏にも並び評せられる色男だったとは、つゆ知りませんでした。そんな男のやむにやまれぬ恋の歌だから、面白いですし。この歌をもらった女は、有頂点だったことでしょう。これを、光源氏と藤壺の関係に準えている爺の解説、その通りと感心しました。

    それにしても、藤原北家、敦忠といい師輔といい、さすがなかなかやるものです。

    38番から始まり45番まで続く恋の歌、背景・人間関係が解ってき、面白いです。

    小町姐さんが書いてくれていますが、

    ”ここまで来て38番右近と43番敦忠、右近関係の42番元輔、44番朝忠。
    そして40番41番の歌合せ、ずっと恋歌の連続性が一つの物語として構成されているようにも見えてきます。 定家も考えたものですね。”

    そして、目崎徳衛氏の本によれば、39番歌、参議等の女は、敦忠との間に助信という子をもうけているとのこと。恋多き敦忠にも誠実なところがあったという話で紹介されています。

    助信が母身まかりて後も 時々かの家に敦忠朝臣のまかりかよひけるに、桜の花の散りける折にまかりて 木のもとに侍りければ 家の人いひいだしける

    よみ人しらず

    今よりは風にまかせむ桜花 散る木のもとに君とまりけり

    敦忠

    風にしも何かまかせむ桜花 匂ひあかぬに散るはうかりき

    こうなってくると、44,45番歌が楽しみです。

    ≪雑談≫

    11月19日から22日まで、解禁になった越前・加能蟹を愛で、紅葉の温泉にゆくっり浸かる旅にのんびりと出かけてきました。
    でも、それだけではありません。

    19日

    朝一番の新幹線に乗り、名古屋へ行き、徳川美術館で国宝、源氏物語絵巻を見てきました。同じ日に小町姐さんも奇しくも訪れておられたよし、びくっりポンです。
    展示内容や雰囲気など、小町姐さんが熱のこもった詳細レポートをしてくれていますので、省略します。

    小町姐さんのお知らせ、ありがとうございます。

    11月26日(木)NHK BSプレミアム20:00
    国宝・源氏物語絵巻が放映されます。

    是非見ます。

    ところで小生は、9時45分ごろ到着、開門の10時まで待って、比較的最初のほうで入れたので、そんなに混雑する前にささーっと見て廻れました。書などは解らないので、どちらかといえば飛ばしながら鑑賞しました。
    今回は、別冊宝島 源氏物語絵巻 54帖でかなり入念に予習をしていきましたので、解説なども余り見ないで、生来のせっかちもあり、一時間強で廻りました。

    徳川美術館所蔵品は、補修をしたとのこと、五島美術館で昨年見たときは(五島所蔵品)、剥脱が激しく原型が解らなかった記憶がありますが、今回は結構色などはっきりしていた作品もあり、ものがたりの名場面を思い出しながら、楽しく見ることができました。いや、一見の価値あり、次回全点が見れるのは、10年先かも知れません。機会があれば、是非に。

    13時前には名古屋駅にもどり、新幹線ホームにある”住みよし”のきしめんを、これは並んで、初めて食べましたが、出汁がうまかったです。
    駅の立ち食いでもう一つうまいのは、新大阪駅の新幹線から在来線に移動した駅構内にある、きざみうどん、小生の大好物です。

    その日は、山代温泉泊。

    20日

    朝から、那谷寺へ、昨年?爺も訪れ、紀行文を書いてくれていますが、奇石のお寺、丁度紅葉の季節で、観光バスも来ており、予想に反し混んでいましたが、そこは大きな敷地(山)のお寺ですので、ゆくっり見ることができました。
    勿論、奥の細道、芭蕉の句碑の前で、記念写真を撮りました。
    西国33番札所の1番 那智山と 最後33番 谷及山 の一字を取り、このお寺にお参りすれば、33箇所巡ったご利益があるというありがたいお寺でした。

    石山の石より白し秋の風

    その後、小松に寄り、実盛の兜を祭るという 多太神社にお参りしました。

    むざんやな甲の下のきりぎりす

    ひっそりしたお社でしたが、記念撮影。

    金沢は出張も含め何回となく行っています。山中温泉、永平寺、福井も一回づつ行っていますので、奥の細道の北陸地方の場面はこれでそこそこ廻ったことになりました。

    能登 千里浜泊 ここも掛け流しの温泉

    21日

    羽咋から金沢経由で、北陸新幹線で飯山へ、初めて野沢温泉に行ってきました。
    源泉掛け流しの名湯、ゆっくり愉しんで、22日帰って来ました。これで、北陸新幹線も踏破できました。 

    • 百々爺 のコメント:

      ・敦忠が源等の娘を妻の一人として妻の死後も誠実を尽した。逸話の紹介ありがとうございます。この助信も含め敦忠の息子たちがどんな息子たちでどんな人生だったのか、、、その辺書かれていないようですね。どうも大した息子がいなかったのかもしれません。

       逆に言うと忠平-師輔ラインが敦忠の思うようにさせなかったのですかね。敦忠の妻は忠平-師輔ラインからは来ていない。本稿に書きましたが43番歌の相手かとも目される藤原貴子は忠平の娘でしたが忠平は邪魔をして貴子を敦忠から遠ざけている。保明親王未亡人で御匣殿を務めていた貴子と結ばれ息子でもできていたら敦忠一族ももう少し陽の当るところへ行けてたかもしれません。

      ・徳川美術館~秋の北陸路(奥の細道ふくむ)いい旅してきましたね。
       那谷寺は紅葉がすごかったのじゃないでしょうか(6月に行ったので秋は素晴らしいだろうなと思ったものです)

       今度会う時写真でも見せてください。楽しみにしています。

  5. 小町姐 のコメント:

    八麻呂さま
    何と同じ日に同じ場所にいたとはつゆ知らずでした。
    どこかでニアミスだったかもしれませんね。
    10年に一度とも言われる全点一挙の展示を観られて本当に良かったですね。
    合わせて蟹と紅葉の旅も楽しまれ何よりでした。

    あの日は私が所属していたASC(あいちシルバーカレッジ)22期生第7班の班活動で私が計画した月例会でした。
    丁度8名のメンバーと10時に待ち合わせ、私も開館10分ぐらい前には到着、メンバ^-を待っていました。
    前売券を持っていたのですぐ入館、もう4年ぐらい毎年通っているので第1から第5展示室はさっと流して第6~9展示室の国宝 源氏物語絵巻に絞りました。
    (詳細は余談の通りです)
    メンバーと12時にランチの約束があり美味し豆腐料理専門店(くすむら)で昼食後又美術館に一人で戻りました。
    その時には心ゆくまでじっくり鑑賞することができました。
    アートギャラリーで今回のために発行された「国宝 源氏物語絵巻」の図録(2300円)を買い毎日眺め読み余韻に浸っております。
    ギャラリーには智平朝臣さまがお持ちの「光琳かるた」も展示されておりました。
    これは桐箱入り(光琳のデザイン)で28万800円でした。
    担当の方が美術工芸品として価値の高いもので季節に応じた札を額縁などに入れて上の句、下の句をセットで飾ると素晴らしいですよと説明してくれましたがとても手が出ません。
    美術館を出た時は薄暗くなっていましたが徳川園のお庭も見る価値充分です。
    またの機会がありましたら是非ご覧ください。

  6. 百合局 のコメント:

     この歌を素直によめば貴公子の屈託なくおっとりと詠まれた歌のように思います。
     けれど敦忠の43番歌からすぐ心に浮かぶのは、やはり藤壺との逢瀬の後の源氏の心情です。
     源氏物語の作者の力で逢瀬のその場面が浮かび上がり、この歌が実際よりも苦しい恋の歌として迫ってくる感じになってきます。
     他の歌も含め、敦忠と紫式部は半世紀ほどの時代を超えて二人で協力しあっての相乗効果があるように思います。

     「大鏡」第二巻、左大臣時平(保忠、敦忠、文彦太子ノ諸妃)の項にこの一族の若死のことが詳しく出ています。 時平の子で一人、顕忠のみが右大臣までなり60余まで生きたことも書かれています。

     「今昔物語」第24「敦忠ノ中納言、南殿ノ櫻ヲ讀和歌語 第三十二」はその逸話の終近くで敦忠のことを次のように簡潔に伝えています。
     、世ノ思ヘモ花ヤカニテナム、名ヲバ敦忠トゾ云ケル「此ノ権中納言ハ~~年ハ四十許ニテ、形、有様、美麗ニナム有ケル。人柄モ吉カリケレバ

     謡曲『定家』にある「昔は物を思はざりし、後の心ぞ果てしもなき」は、敦忠のこの歌「逢ひ見ての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり」を引いています。
     

    • 百々爺 のコメント:

      私も43番歌と源氏・藤壷の逢瀬は表裏一体だと思います。源氏物語を読んでるとき藤壷との逢瀬の段になるといつもこの歌を思い出していました。おっしゃる通り紫式部もこの歌を繰り返し唱えながら物語を書いていたのではないでしょうか。

       藤壷の宮と逢えて(契れて)よかった。この歓びは無上のものである。でも事が成ったその日から苦悩が始まった。歓びは続いて欲しいでもその分苦しみはいや増す。。。

        →苦悩する源氏、この辺、源氏物語序盤のヤマ場でしたね。
        

  7. 枇杷の実 のコメント:

    恋シリーズが続いていますが、これまでの16個の恋歌の中でこの歌が一番良い様に思う。調子も良く、覚え易い。
    別に恋路でなくても、なにかを成そうとしたときにはある事、ない事、余計な事をいろいろ考え悩みますね。終わってみるとどうっちゅうことない。その頃の悩みはすっかり忘れて今ある世事に余念がない。案ずるよりも生むが易し、ちょっと違うかもしれないけど、この歌に通ずるところがあって親近感を覚える。
    両親の良い所のみを遺伝したのか、藤原敦忠は中納言にまで出世するエリート、業平の血を受継いだイケメン、和歌上手で36歌仙、おまけに源博雅をしのぐ管弦の名手。本人の努力もあったに違いないが、かなりの傑物のように書かれています。
    こうなると、当然女性(才女)との関係もかなりの場数を踏んでいるとは百々爺の仰るとおり。多くの女流歌人との贈答歌を残す。右近とは結ばれるとすぐに振ってしまい、恨みの歌を詠まれている。雅子内親王とは情熱的な情熱的な恋歌を何度もかわす仲だったが、雅子さまが伊勢斎宮に卜定された為、悲恋に終わる。
    又、源等の女子、藤原仲平の女子明子、藤原玄上の女子等ともそれぞれの恋物語があり自らの室とした。
    あまりにも多くの女性遍歴があって、忍恋、不遇恋、後朝恋、遇不逢恋、怨恋など、あらゆる恋苦労の結果か精魂も尽き果たし、その為の若死にではないでしょうか。道真の祟りなどでは決してない。

    ところで、雅子内親王で斎宮歴史博物館HPを見ていると、朱雀朝では雅子、斎子、徽子の三人の斎王があり、徽子内親王は斎宮女御と称され、36歌仙の一人。「源氏物語」の六条御息所・秋好中宮、母娘のモデルは、徽子斎王であるとされている。
    HPにあった記事の中に斎宮女御は定家の編纂した「新古今和歌集」には十二首が採られているが、百人一首にないのは不思議だとありました。やはり定家には撰歌に意図があり、それに合わなかったが為なのか。

    • 百々爺 のコメント:

      ・そうですか、今までの恋歌の中でナンバーワンですか。
       確かに分かり易い歌ですよね。恋も何ごとも事前と事後では気持ちが異なる。目標を立てて切磋琢磨努力する、そして目標を達成する。するとそれでは飽き足らずすぐ次なるステップへの挑戦が始まる。スポーツ選手なんかが典型でしょうが人生一般何ごとにも当てはまるでしょうね。次への挑戦意欲は大切ですがいつまでもきりがない。やはり程ほどのバランスが大事なのだと思います。(TVゲーム、私はやりませんがステップをクリアしたら次のステージへと駆り立てる。人間心理をついているのだと思います)

      ・おっしゃる通り敦忠の人生、あれこれ多彩ですね。出自は抜群、イケメンで歌を能くし管弦は抜群、女性遍歴多く、政治的にも一定の地位を占める。ちょっと多彩過ぎて焦点が定まらずまとまりがない感じがします。これだけバラバラだとまともな家族関係を築くのは難しかったのかもしれません。

      ・改めて斎宮博物館のHP見てみました。徽子内親王のこと勉強しました(wikiでよく分かりました)。歌も達者で三十六歌仙なんですね。定家も八代抄に新古今の歌を一首入れてます。

       わくらばに天の川波よるながら明くる空にはまかせずもがな(斎宮女御 新古近325)

       斎宮に出てその後村上帝の後宮に入り斎宮女御と呼ばれる。そして村上帝没後斎宮になった娘に同道して伊勢に下る。まさに一人で秋好中宮と六条御息所の二役をこなした人物なんですね。面白いです。

  8. 小町姐 のコメント:

    【余談17】   ブラボー!!伸行君
    2015年スーパークラシック最後の演奏はワレリー・ゲルギエフ率いるミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団。
    やっと念願が叶う。今夜の主役は辻井信行君。以前からずっと生で聴いてみたかった伸行君のピアノ。しかも今回はオーケストラとの共演。

    指揮者ワレリー・ゲルギエフはロシア、マリインスキー劇場新館を完成させバレエやオペラにも見識が深い。
    プーチン大統領も全幅の信頼と敬意をはらいソチオリンピックの開会式にはゲルギエフに五輪旗の旗手を務めさせた。
    ロシアの文化を支えるもう一つの力である
    指揮者、ピアノ、オーケストラ、曲目全ての好みが揃うのはめったにない。
    それが今夜実現した。今年最大の私のイベントは伸行君。
    そのゲルギエフと伸行君の協奏である。もう心躍りワクワク感でいっぱい。
    しわぶき一つない静寂な空間。会場の照明が落ち舞台が照らされる。
    一曲目は私の大好きなベートーベン ピアン協奏第5番「皇帝」
    ゲルギエフは伸行君を抱きかかえんばかりにして現れた。
    怒涛の拍手で迎えられる。
    伸行君も彼の背中に手を廻しまるで親子のように寄り添っていた。
    最初の重厚で特徴的な一音が鳴り響く、なぜかどっと涙があふれた。
    聴きなれた主旋律が何度も奏でられる。
    そのたびに伸行君の繊細かつ迫力ある澄んだ音がホールに満ちる。
    協奏曲の良い所はやはりさまざまな楽器のハーモニーだと思う。
    そしてピアノ協奏曲はピアノがオケの花形である。
    バルコニー席がすっかり気に入ってしまったのは指揮者や演奏者が上から眺められ音が立ち上がってくるように感じられる。
    おかげで伸行君の首をかしげる横顔も手の動きもよく見える。
    かしげる首の動きが「皇帝」のリズムと重なる。
    スタンディングオベーションこそなかったけど拍手の嵐。
    何度も指揮者と聴衆に応えてくれた。アンコール曲はリストの「ラ・カンパネラ」
    超技巧的な曲を感動的に弾き終え団員からも肩を叩かれた。
    更なる拍手に応えて二曲目の演奏にはホールがオ~ッとどよめいた。
    ベートーベンのピアノソナタ 「月光」
    幸せな二時間半を一人で楽しんでしまった。生きていることは素晴らしい!!
    こんな感動に出会えるのも生きておればこその喜びである。
    今日も一日が終わろうとしている。感謝と感動の夕べであった。

    • 百々爺 のコメント:

      スーパークラッシック、鑑賞記ありがとうございます。小町姐さんの感動の様子が手に取るように分かります。

      クラッシックのことはよく分かりませんがすごい取り合せなんでしょうね。ロシア人の指揮者がドイツのオーケストラを率い日本の天才ピアニストとともに名古屋のホールで演奏。すばらしいです。天才少年と言われた辻井くんももう27才なんですね。今後も世界を舞台にますます羽ばたいて欲しいものです。

      。。。逢ひみての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり。。。

       小町姐さん、今朝はまだ放心状態なのかもしれませんね。

  9. 昭和蝉丸 のコメント:

    そうですか、この43番は、すぐれた恋歌ですか。
    そう言えば、来月から「NHK趣味 どきっ」で『恋する百人一首』が始まりますが
    第一回で取り上げられるのが この43番、タイトルは何と「ベットイン」。
    思わず中身もろくに見ないでテキストを買ってしまいました。
    でも、恋歌で好いかどうかはさておき(そっちはNHKに任せるとして)、
    百々爺や投稿諸氏の話、今回も、関係人物と時代背景のお話し、
    実に面白かった。改めて谷崎潤一郎の「少将滋幹の母」を読み返しています。

    PS 辻井伸行コンサート、 小町姐さん、よくチケットをGET出来ましたね!

    • 百々爺 のコメント:

      「NHK趣味 どきっ」で『恋する百人一首』ですか。面白いかも。百人一首を敬遠している人たちに勧めてみようかなぁ。でも光源氏じゃあるまいし、いきなり「ベットイン」はないでしょう。「忍ぶ恋」あたりから始めなきゃ。

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