50番、前半のトリは21才で夭逝した超イケメン藤原義孝です。それにしても一条摂政太政大臣45藤原伊尹の三男なのに何故百人一首の呼称は官職も朝臣もなく「藤原義孝」なんでしょう。ちょっと不思議です。
50.君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな
訳詩: きのうまでは思っていました
あなたのためなら死んでもいい
一度だけでも逢えるならと・・・・
今はちがいます 幸せでいっぱいになって
私は願う いつまでも生きていたいと
作者:藤原義孝 954-974 21才 45伊尹の三男 五位 右少将
出典:後拾遺集 恋二669
詞書:「女のもとより帰りて遣はしける」
①藤原義孝 正五位下 右少将 青年武官である。
・父は45藤原伊尹 母は醍醐帝の孫にあたる恵子女王
→師輔-伊尹-義孝 本来なら藤原摂関家の表の王道を歩む男である。
・幼い頃から仏教への信仰心厚く、殺生はせず、専ら精進食
超美男子でファッションセンス抜群(香をたきしめた高貴な白色を好む)
女性にモテモテ、右少将、若き武官である。
→何となく宇治十帖の薫中将が思い浮かぶがどうであろう。
大鏡による義孝評
「御かたちのありがたく、末の世にもさるべき人は出でおはしましがたからむ」
→光源氏、薫、匂宮みたいな感じ。
・十代で妻(源保光の娘=醍醐帝の孫)を迎え19才の時に長男行成が誕生
→行成は能書家(世尊時流)、三蹟の一人であるあの藤原行成である。
→義孝には出家願望があったが行成が生まれ思いとどまった。
・前途洋々の義孝、だが972年義孝19才の時に父伊尹が49才で死亡(45番歌の項参照)
そして2年後の974年義孝も天然痘で敢え無く早死にしてしまう。
義孝の兄拳賢(たかかた)も同じ日に天然痘で亡くなる。
「一日のうちに二人の子を失ひ給へりし母北の方のおん心地、いかなりけむ、いとこそ悲しくうけたまはりしか」(大鏡)
→2年前に夫伊尹を失くしこの日は二人の息子を同時に失くす。哀れの極みである。
【疫病について】
奈良~平安時代 干ばつと長雨による洪水などで都市の衛生状態は劣悪で疫病(赤斑瘡=はしか、疱瘡=天然痘)の流行が繰り返され庶民は勿論皇族貴族もその犠牲になる人が少なくなかった。
奈良時代 737年 天然痘大流行 藤原不比等の四兄弟相次いで死亡
平安時代 974年 天然痘大流行 藤原拳賢、50義孝兄弟同日死亡
(52藤原道信も994年 天然痘で死亡している@23才)
(995年には麻疹の大流行で道隆、道兼ら公卿8人が死亡している)
→疫病は疫神の仕業とされ仏教、神祇、陰陽道による祈祷くらいしかなす術がなかった。
・かくて一条摂政家は伊尹の五男義懐のみが残ったが一人では兼家流に対抗しえず没落してしまう。これも疫病のなせる所が大きかった。
→義懐は花山朝で奮闘したが兼家の謀略にはまり花山帝もろとも出家に追い込まれてしまう。
②歌人としての藤原義孝 拾遺集に3首 勅撰集計12首 中古三十六歌仙 義孝集
・早熟、歌才があり12才の時宮中の連歌の時言いよどむ人々を差し置いて秀逸な下の句をつけた。
秋はなほ夕まぐれこそただならね(出された上の句)
荻の上風はぎの下露(義孝がつけた下の句)
→義孝12才というと965年、村上帝の時。百人一首一夕話には道長や彰子、中務まで登場するが不審。
→萩に置かれる露とくれば、、
おくと見るほどぞはかなきともすれば風にみだるる萩のうは露(紫の上@御法6)
これも「荻の上風萩の下露」からの発想であろう。
・義孝の歌から
夢ならでゆめなることをなげきつつ春のはかなきものおもふかな(義孝集)
しかばかり契りしものを渡り川かへるほどには忘るべしやは(後拾遺598)
→死後母の夢に出て詠んだとされる歌。義孝は火葬をしてくれるなと遺言していた。
夕まぐれ木しげき庭をながめつつ木の葉とともにおつる涙か(詞花集396)
→父伊尹が亡くなった時の歌。
朝に紅顔あって世路に誇れども
暮に白骨となって郊原に朽ちぬ(和漢朗詠集)
→正に早逝の我が身のことを詠った歌ではなかろうか。
・義孝は42元輔や源順ら梨壺の五人との歌の交流がみられる。
→父伊尹は梨壺の五人の統括者、若い義孝は梨壺の五人たちに可愛がられたのだろう。
③50番歌 君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな
・出典は後拾遺集から
【後拾遺集について】
1086年成立 勅は白河帝 撰者は藤原通俊 百人一首には14首
この時の歌壇の重鎮は71源経信 経信は撰者になれなかったので通俊撰に異を唱えている。
・歌意に異論は見当たらない。後朝の歌。
逢うまでは死んでもいいから逢いたいと思っていたが逢って恋の喜びを知ってみるといつまでも生きて逢い続けていたいと思う。
→事前と事後の心境の変化。素直な気持ちを詠んだ歌であろう。
→43番歌(逢ひみての)に通じると思うがいかが。
→歌の相手はこれも素直に正妻源保光の娘でいいのではないか。
→自分の早逝を想定したような読み振りにも思える。
・先行歌 命やはなにぞは露のあだものを逢ふにしかへば惜しからなくに
(古今集 紀友則)
類歌 昨日まで逢ふにしかへばと思ひしを今日は命の惜しくもあるかな
(新古今集 藤原頼忠)
派生歌 君がため命をさへも惜しまずはさらにつらさを歎かざらまし
(藤原定家)
・「君がため」大山札である。
15番歌 君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ
④源氏物語との関連 (ちょっと無理やり気味ですが)
・「君がため惜しからざりし命さへ」
あなたに逢えるなら(恋を成就できるなら)死んでもいい、破滅してもいい
→藤壷への源氏の想い、女三の宮への柏木の想いでしょうか。
見てもまたあふよまれなる夢の中にやがてまぎるるわが身ともがな(源氏@若紫13)
いまはとて燃えむ煙もむすぼほれ絶えぬ思ひのなほや残らむ(柏木@柏木2)
・50番歌を「今となってはずっと生き続けていたいのに私は死んでしまうんです」という辞世の歌と詠むと、
かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり(桐壷更衣@桐壷4)
→3才の行成を残して21才で亡くなった義孝、同じく3才の光源氏を残して若くして亡くなった(20才前だろう)桐壷更衣。死んでも死にきれぬ思いだったのではなかろうか。
君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな
この歌の気持ちわかりますね~
願いが叶えられればもういつ死んでもいいと思っていたのにその願いが叶った途端に死にたくない。もっと長生きしたい!!
身勝手かもしれませんが正直な気持ちだと思います。
なるほどおっしゃる通り43番歌(逢ひみての)の権中納言敦忠と歌も人物も通じる物がありますね。
それなのに流行り病であっけなく一夜にして亡くなってしまった。何という皮肉でしょうか。
父は藤原伊尹45番(謙徳公)祖父は師輔、曽祖父は忠平26番(貞信公)
45 あわれともいふべき人は思ほえで身のいたずらになりぬべきかな
すごい出自、それに加えて父譲りの美男で歌上手だったという。
天縁二年(974)疱瘡の病で朝に兄(挙賢)夕に弟義孝が倒れたと言う悲運の少将、宇治十帖の薫中将ともだぶりますね。
天然痘の猛威さえなければ歴史は大いに変わっていたかもしれませんね
子の行成は世尊寺を築き能書家系、世尊寺流を築いた有名な書家である。
親子ともども道心深く仏法に帰したという。
藤原の主流となれなかった敗者である貴族の家系が後の伊行、建礼門院右京大夫と繋がっていくのだから歴史は面白い。
にもかかわらず百人一首に一族曽祖父、父、子三人も採られ後の世に受け継がれているのですから何とも運命の皮肉。
そしていま読んでいる杉本苑子小説「散華」もこの時代に触れているのだから興味は尽きない。
紫式部(小説名、小市)が丁度彰子に出仕するところまで読みなるほどと思われます。
源氏物語への構想が手に取るようにわかりよく出来た小説であたかも史実のような錯覚を起こしますが作者は丁寧に調べ上げよく描写していると感じます。
百々爺さんがここで挙げている伊尹の五男義懐、つまり義孝の弟になりますね。
義懐は紫式部の姉(小説の中では草逝した大市)の愛人として登場しています。
歴史の巡り合わせ、運命の皮肉をひしひしと感じさせる百人一首も50番まで来ました。
ゆっくり楽しみたいですね。
後半から女流歌人がずらりと並び「散崋」でも実名で登場する女性陣、ますます楽しみになってきます。
・50番、義孝の恋歌、素晴らしいと思います。
王朝の恋歌は大体がひねったもので相手への恨み辛み、皮肉、あてこすりなどを詠ったものが多いですね。私は生来性善説で恋はあくまで前向きにお互いが信じ合い愛し合うことこそ重要と考えているのでこういう正直で素直な歌には拍手を送りたくなります。こんな歌をもらったら女性も嬉しいでしょうし相手の男性に「長生きしてもっともっと私を愛して欲しい」と思うのではないでしょうか。
→「命を懸ける恋」、古今東西永遠の文学テーマであります。
・忠平-師輔-伊尹-義孝-行成-・・・・-伊行-建礼門院右京大夫
これが世尊時流の系譜なんですね。義孝は若くして亡くなったが行成という書道の始祖を残した。しかと覚えておきましょう、義孝のために。
・「散華」私も読みました。みなさんのお勧めだけあって面白かったです。蜻蛉日記、和泉式部日記、紫式部日記、紫式部集、枕草子は勿論先行の伊勢物語、伊勢集まで逸話の類が満載されてますね。源氏物語の解読は勿論百人一首の人物像を考えるにも非常に参考になると思いました。じっくりと読んでください。
→紫式部が播磨生まれ育ちとあったのでホントかいなと思いましたが父為時は968年播磨権少掾になっているようですからあながち根拠のない話ではなさそう。式部が播磨生まれなら須磨・明石が舞台になるのは大いに納得できます。
この歌の解説を読む前は、一体何歳のときに義孝はこの歌を読んだのであろうか、生き先がなんとなく見えてきた晩年になってからか、それにしては恋の激しさを詠った歌であり若いときの歌にきこえると思っていたが、なんと21歳で夭折したことを知る。従い、この歌は20歳ぐらいの若さで読んでいる。しかも、余命が長くないことを知っているかのごとき歌である。
父 謙徳公の45番歌と似通った内容の恋の歌で、田辺聖子さんが言っている様に、”芸術家の率直奔放”なひびきがある。
哀れともいふべき人はおもほえで身のいたづらになりぬべきかな
法華経を好み、極楽浄土に行った人と言われている、千人万首に以下歌が掲載されているので、引く
時雨とは千草の花ぞちりまがふ何ふる里の袖ぬらすらむ(後拾遺500)
この歌、義孝かくれ侍りてのち、十月ばかりに、賀縁法師の夢に、心ちよげにて笙をふくと見るほどに、口をただ鳴らすになむ侍りける。「母のかくばかり恋ふるを、心ちよげにていかに」といひ侍りければ、立つをひきとどめて、かくよめるとなむ、言ひ伝へたる
【通釈】現世の貴方たちは私の死を悲しんで時雨のように涙を流していらっしゃるのですか。しかしこの極楽浄土では、時雨とは、さまざまの花が散り乱れる様を言うのです。どうして袖を濡らしなどなさるのでしょう。
【補記】亡くなった翌月、義孝は再び賀縁という名の法師の夢にあらわれる。心地よげに笙など吹いている様子なので、法師はいぶかり、「母君があれほど恋しがっておりますのに、なぜそのように心地よげなご様子でおられるのです」と問うたところ、義孝はまた歌でもって思いを伝える。彼は極楽浄土に往生していたのであった。
上記で ”父 謙徳公の45番歌と似通った内容の恋の歌”と書いたが、舌足らずでした。45番歌は失恋、50番歌は恋の絶頂期を詠ったものであるが、ともに恋心を素直に詠んだ歌であり、男らしさには欠ける女性的優しいさの残る歌で、似通った響きを感じた次第。
・「率直奔放」ですか、なるほど。義孝は権門の御曹司であり眉目秀麗、幼い頃から大秀才、歌才もピカいち。女性との恋にも積極的で数々の恋歌を残す。そんな眩しいばかりの若者が突如として疱瘡で亡くなってしまう。
→世間はさぞ疫神を憎み義孝の死を惜しんだことでしょう。
→ただでさえ美化されがちな死者、義孝は死して益々カリスマ的な偶像になったのでしょう。
・一方若くして仏道にも興味を抱き、仏教に帰依していた。
何故でしょう。出自に疑問を抱く薫が仏道に近づくのは分かるのですが万事一点の曇りもなく人生の表街道をひた進めばいいような義孝が仏道に。
→性格なんでしょうかね。45伊尹も権力の人ではなかったが子の義孝はもっと優しい心根の男で権謀術数の世の中が生理的に合わなかった、それで仏道に逃避した、、、のかも。
・死後、人の夢枕に立って歌を詠みそれが勅撰集に入っているなんて鷹揚と言おうかいい加減と言おうか。
→他にも例はあるのでしょうかね?
義孝は「大鏡」「栄花物語」「今昔物語」などに説話が多く、いずれも誉めまくっています。きっと誰にも愛された人間だったのでしょう。
特に「大鏡」第三巻、伊尹・義孝のところ、とても詳しく述べられています。他の説話はここから派生したのかもしれません。
『今昔物語』三、第十五の42「義孝ノ少将往生語」や『今昔物語』四、第二十四の39「藤原義孝朝臣、死シテ後讀和歌語」なども「大鏡」と同じような話です。
『源氏物語』の中の義孝の引歌をあげてみます。(「源氏物語道しるべ」で使用した小学館版から)
よそへつつ見るに心は慰まで露けさまさるなでしこの花(紅葉賀10)
よそへつつ見れどつゆだに慰まずいかにかすべきなでしこの花(義孝の母の恵子女王作となっていますが、似通った歌が義孝にもあります。?)
「時雨うちして荻の上風もただならぬ夕暮に~」(少女11)
秋はなほ夕まぐれこそただならね荻の上風萩の下露(義孝集)
忘れなむと思ふもものの悲しきをいかさまにしていかさまにせむ(藤袴7)
忘るれどかく忘るれど忘られずいかさまにしていかさまにせん(義孝集)
「風の音さへただならずなりゆくころしも~」(幻13)
秋はなほ夕まぐれこそただならね荻の上風萩の下露(義孝集)
連歌の下の句「荻の上風萩の下露」、上東門院彰子はそれを知って「人麿、赤人の生まれ変わり」と褒めた件、時代が合わないので、後にそれを知って褒めたことにしましょう。彰子に仕えた紫式部が引き歌として使ったのも頷けますよね。
『枕草子』三巻本、224段も義孝の「あやしくも我ぬれぎぬを着たるかな三笠の山を人に借られて」に基づいた話です。定子中宮と清少納言との才気溢れるやりとりが面白いです。解説が長くなるので省略します。
定家の派生歌をもうひとつ。
をしからぬ命も今はながらへておなじ世をだに別れずもがな
・義孝のことは説話集も歴史書も挙って褒めちぎっているのですね。まあ死者(それも余りにも若くして)は美化されるということでしょうか。それと兼家-道長と流れる本流には行けなかった敗者の系譜ということもあるのでしょうね。日本人の判官贔屓意識でもあるのでしょう。
・義孝の歌がそんなにも源氏物語に引用されているのですか。驚きました。紹介ありがとうございます。義孝が亡くなったのは974年、源氏物語が執筆されたのは1000年~くらいでしょう。義孝集は死後すぐに世間に知れ渡っていたのですね。まあ新鮮な旬な私歌集だったのでしょう。
①「よそへつつ」の歌、似てますねぇ。
恵子女王の歌、「なでしこの花」と例えた義孝が若死にしてしまったことを思うと痛切な歌ですね。源氏が不義の我が子冷泉帝を「なでしこの花」と見たのも表立って父子の名乗りができない哀しみを藤壷に訴えた歌、ぴったりだと思います。
②「いかさまにしていかさまにせむ」
面白い言い方なので印象には残っていました。これも義孝の歌からの引用ですか。近江の君の滑稽場面に出て来た言葉かと思いましたが玉鬘への求婚者の歌なんですね。
③連歌の下の句「荻の上風萩の下露」を道長-彰子-中務 & 紫式部で褒め合った件、なるほどそうしましょう。これも源氏物語の引用から話題が義孝の歌に転じて「荻の上風萩の下露」が出て来たのでしょう。
→紫式部は源氏物語の主演男優(光源氏・匂宮・薫)を紡ぎだすのに藤原義孝を相当意識したのだと思います。義孝集は諳んじるほど読んだのでしょうね。
・「枕草子」の定子と清少納言の機智の応酬にも義孝歌が使われているのですね。そんなにまで義孝の歌は有名だったということ。驚きです。
→224段(講談社学術文庫版223段)読みました。多分以前に二人で義孝の「あやしくも」の歌を話題にしたことがあったのでしょうね。「あやしい」「ぬれぎぬ」、人の色恋沙汰を噂するにはよく使われる言葉ですもんね。
藤原義孝は申し分ない出自に恵まれ、超美男子で、歌才に優れた青年貴公子でした。その上、人柄は真面目・誠実で、仏教への信仰心も厚かった。百合局さんが指摘しているように、いろいろな文献は彼を誉めまくっており、誰にも愛された青年だったのでしょね。思うに、義孝はきっと神様や仏様にも愛されるほど素晴らしい青年だったに違いありません。神仏に気に入られるほど好青年だった故に、21歳という若さで早くも天に召されたのでしょう。
義孝は法華経を誦したい宿願を果たすべく必ず戻ってくるので火葬に付さないように母親に遺言したにもかかわらず、母親は兄弟二人の死に気が動転していたため、これを忘れてしまいました。このため、彼は生き返ることができなくなり、一時は母親の夢枕に立って嘆きましたが、暫くすると友人の夢に現れて、極楽往生を遂げ、あの世で楽しくやっている旨、語っているという話がいろいろな文献に記されています。
例えば、浜寺八麻呂さんから紹介があった「時雨とは千草の花ぞちりまがふ何ふる里の袖ぬらすらむ」は故義孝が極楽浄土の美しさを歌った歌です。もっとストレートに極楽を楽しんでいる旨を故義孝が語った話として、日本往生極楽記や今昔物語に次の話が出てきます。
「藤原高遠(大鏡では藤原実資)が夢で義孝が楽しそうにしているのを見て、義孝に『君は何(いづ)こに御するぞ』と問うたのに対し、故義孝は『昔契蓬莱宮裏月 今遊極楽界中風=昔は契る蓬莱宮の裏の月 今は遊ぶ極楽界の中の風』(注)と答えた。」 このように義孝が極楽界でも楽しく生きることができたのは、彼が神仏にこよなく愛されていた証左であり、また新しい環境に柔軟に適応できる彼の素直な人柄のお蔭であろうと思いますが、如何でしょうか。
(注)現代語に訳せば、「生前私は蓬莱宮のような宮中にいて貴方と月を楽しみました、今は極楽浄土の風に吹かれて楽しく遊んでいます」といった意味。
義孝は夭折したものの、既に19歳の時に正室との間に行成が誕生していました。行成の誕生により、義孝のDNAが後世に伝わったことはとても良かったし、少しは救われる思いもします。行成がいたお蔭で、書道の世尊寺流が生まれたほか、我々は後程、行成と51番歌の藤原実方や62番歌の清少納言とのエピソードを楽しむことができます。また、小町姐さんが指摘されているように、藤原伊行や建礼門院右京大夫もこの世に生まれ出ることができました。
最後に、50番歌ですが、この歌は何ら技巧を施さず、誠に素直で真情のこもった歌であると思います。正に、真面目で誠実な若者であった義孝にふさわしい一途な恋の歌で、百々爺の云うように、歌の相手が正妻源保光の娘であると素直に信じたいと思います。この歌から死の予感も窺え、彼の夭折と考え合わせるとしみじみとした哀れも感じられます。
義孝についての逸話を分かり易く紹介いただきありがとうございます。義孝も喜んでいることでしょう。
・義孝が幼い頃から帰依していた仏教について考えてみました。百人一首歌や源氏物語からは窺い知れませんが平安時代は貴族が華やかな生活を送る一方大変な時代だった。自然災害(地震・津波・洪水・火山噴火)、火事、略奪強盗そして疫病。人々は常に社会不安の中で生きていた。その不安を救うのは宗教、取分け仏教だった。貴族も庶民も何かあると(自然災害を鎮めるにも病気を退治するにも)僧侶を呼び仏教に縋るしかなかった。仏教の教えは人々の心の支えであり生活の規範であった。
仏教がそんな位置づけであれば秀才であればあるほど仏教をありがたく思いのめり込むのは自然かもしれません。義孝が仏教に熱心になったのも分かる気がします。
→宗教のありがたさと恐ろしさについては正に今日的問題だと思います。
・この時代法華経を講じるのが一番尊かったようですね。法華八講については源氏物語では至る所に出て来るし枕草子でも小白河で藤原済時が行った法華八講の様子が詳しく述べられています(「散華」で繰り返し引用されている部分)。
→義孝は片時も忘れず法華経を念じていたのでしょう。
・それにしても義孝の生き振りは若くして死ぬことを前提にしていたように感じます。50番歌の響きにはおっしゃる通り死の予感が窺えます。真面目で繊細、そんな男に疫神は魅せられたのでしょうね。
→仏神をも畏れぬワイルドな男たちでしか政治の表舞台に立てないと言う図式なんでしょうか。
百々爺さん提供の百人一首リストを活用していますが、その暗誦も#70まで来たところ。一首一首の正確な解釈はこの談話室にアップされる都度、その説明を読み、手持の解説本を参照にしています。
頭に叩き込む最初の解釈はおうおうにして早合点で、特に恋の歌の誤解・曲解が多い。この#50義孝の歌もしかり。
「君がため」は次の句「惜しからざりし」でなく下句「長くもがなと思ひぬるかな」に掛かり、願望の助動詞「もがな」が分からないと正確な歌意は読めない。
この歌は典型的な後朝の歌で、#43逢見ての・・(敦忠)と殆ど同じで身分、性格も、そして若くして死んだことも。
義孝は摂政・伊尹、敦忠は左大臣・時平の権門の御曹司して育ち、ともに家柄良く、そのうえ容姿端麗で、歌才にも恵まれていた。 しかし、悲運にも天然痘に罹り義孝は21歳、血筋(又は祟り)で敦忠は37歳で早世する。
それこそあと10年の「命さえ長らえ」ば豊かな才能は政治の場でも発揮され、藤原栄華のかげに置き去りにされる事はなかったろうに。
#50、#43ともに純情率直な気持ちを、調べも良く詠う恋の歌。
君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな
逢ひみての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり
現代にも純情率直な歌があります。「学生百人一首」(東洋大学)の入選作に
黒板にうっすら残る日直欄あなたが書いた私の名前 (高校2年生)
・枇杷の実さん、真面目ですねぇ。感心します。70番まで先取りされましたか、結構結構! 毎日の復誦が大事です。どうぞ続けてください。
→その熱心さでやればゴルフの方も大丈夫、こちらも頑張ってください。
・50番歌&43番歌、素直な歌ですよね。心に響きます。
こんな素直な歌が詠めるのは義孝・敦忠が専門歌人ではないからでしょう。専門歌人だと何か技巧を凝らさないと評価されない。歌合の題詠ではこんな素直な歌は一顧だにされないでしょう。
→「和歌のゲーム化」この辺が良くも悪くも平安王朝歌の問題点でしょう。
・「学生百人一首」(東洋大学) 紹介ありがとうございます。
東洋大学も粋なことやってますねぇ。素晴らしい。
HP見せてもらいました。中高校生の分、恋の歌って殆どありませんね。もう少しあってもいいかと思うのですが恥ずかしいんですかね。
→私は丸刈りズック靴で硬派を任じていましたので恋の歌など及びもつきませんが。
直近の入選作から他に四つみつけました。いいですよね。
ストローが君のものだと分かっても恋の予感を飲んでみたいの
淡白でぶっきらぼうな言の葉は君の一つの恋愛表現
本当は待てぬ返事を「待ってます」口にするのは僕の弱さか
僕が見る半月君が見る半月二つ合わせて満月にしよう
純愛を告白した歌と言おうか、このまっすぐさが、この歌の命でしょう。きぬぎぬの歌の代表作でしょうね。それに義孝君、若くして仏教に帰依して、抹香臭いというか、生ぐささの無い真面目ちゃんだったのでしょう。その真面目ちゃんが素敵な女性と夜を共にして、-やっぱり生きていたい。この世って素晴らしい-と悟った。
間に合ってよかった。もう少しで、人生の宝物を味わうことなく逝ってしまうところでした。
恋ってなんでしょう。
”情熱的な恋をしたことのないものには人生の半分がまだ隠されたままだ。それも素晴らしいほうの半分だ”なんてフランスの作家スタンダールが言ってます。義孝君は大切な半分を知らないまま”命なんか別に惜しくもない”と思っていたところ素敵な半分を見出した、というわけですね。めでたしめでたし。
ついでに恋愛について、幾つかの箴言集を覗いてみましょうか。
イギリスの小説家ロバートスティーブンソン。
”ライオンは百獣の王であるが、平穏な生活のペットとしては適当ではない。それと同じように恋愛はあまりにも激しい情熱なので平穏な生活にふさわしくないのだ”
フランスの文人スタール夫人
”女にとって恋愛は生涯の歴史であり、男にとってはエピソードにすぎない”
そしてわれらの阿刀田高氏は
”女性は恋のプロフェッショナル、男性はアマチュアだ”
ついでにアメリカの映画俳優ジョン・バリモア
”恋愛とは、美しい女に出会うこと、そしてその女が豚に見えてくることとの中間にある甘美な時間のことである”
ドイツのハインリッヒ・ハイネは
”はじめてなした恋ならば片思いでも神である。けれど二度まで恋をして片思いなら馬鹿である”
日本人から芥川龍之介
”われわれを恋愛から救うものは理性よりも寧ろ多忙である。恋愛も又完全に行われるには何よりも時間を待たねばならぬ。ウェルテル、ロミオ、トリスタン-古来の恋人を考えてみても彼らはみな閑人ばかりである”
最後に、ロシアの箴言では
”イワンは恋を論じたが、恋はしなかった”
理論より実践が大切とのこと。
さて貴方は何派?
(概ね、阿刀田高:恋する「小倉百人一首」より)
恋愛についての箴言集の紹介ありがとうございます。何れも意味深長でそれぞれ議論し合えば面白いでしょうね。
恋愛について肯定的・積極的な思いを持つか否定的・消極的な思いを持つか、その辺が大事なところだと思います。ちょっと若い人と話してみましたがどうも最近の若い人たちは醒めた感じで恋愛・結婚に積極的ではなさそう。恋愛しても結婚してもロクなことはない、煩わしい、面倒くさい、、、そんな気持ちの人が多いようです。私たちが若い頃は結婚するのが当然でいかにいい女性にめぐり合い自分のものにするか、、、、それで頭の中いっぱいだったのに。時代は変わるとはいえどうも理解できません。
→箴言集見ると恋愛はコインの裏表みたいなのが多いですね。でもそれはやってみるから分かること。やりもせず見送りの三振では余りにも勿体ないじゃないですかねぇ。
訂正お願いします。
49番 大中臣能宣のコメント欄の短歌
初かるた大和言の葉伝えまじ永久にあれよと祈りてやまぬ→
初かるた大和言の葉伝えまし永久にあれよと祈りてやまむ
既に百々爺さんはお気付きだとは思います。
伝えまじの「じ」は否定、打ち消しの助動詞。
伝えましの「し」は願望の助動詞。
濁点があるとないでは意味が全く逆。
すごく気がかりになっていて今日カルチャーの講師に確認しました。
願望の言葉がわからなくて講師に教えていただきました。
勉強不足、文法をおろそかにした報いです。
言葉の使い方、難しいですね。
了解です。修正しておきます。古語難しいですよね、だって普段使ってない昔の言葉ですもの。
(「祈りてやまぬ」→「祈りてやまむ」も「祈りつづけます」と言う意味ですよね)