百人一首の歌はどこで詠まれたのか或いはどこが詠まれているのか、地理的舞台を考えてみました。
・平安時代京都に住む人たちが詠んだ歌が中心なので地方性はあまりなかろう。
・当時京都人たちが地方へ行くような機会はめったになかっただろうし。
・京都に近い所はけっこう詠まれているかもしれない。
これが一般的考えでしょう。予想通りでもあり意外に広がってるなあとも思います。
1.先ず日本最古の歌集万葉集をみてみました。
万葉集(770年ころ成立)での歌の地理的分布(「万葉の旅」犬養孝より)
奈良897 大阪218 滋賀145 兵庫142 京都127 和歌山126 (上位6県)
→当然大和が圧倒的に多い。まだ京都は少ない。
ゼロは北海道・青森・秋田・山形・沖縄
→逆に言えば宮城以南は九州四国まで万遍なく詠まれている。
→この頃までに東北以北を除き日本国家ができあがっていたことが分かる。
(万葉集4500余首中地名の出てくる歌は約2900首に及ぶ)
2.百人一首で地名が詠みこまれているもの或いは背景に土地があるもの
・大和(奈良)12
天の香具山(春過ぎて)・三笠山(天の原)・竜田川(ちはやふる)
手向山(このたびは)・(吉野)朝ぼらけあ・(初瀬)人はいさ
奈良(いにしへの)・大峰山(もろともに)・(三室山竜田川)嵐ふく
初瀬(うかりける)・(興福寺)契りおきし・(吉野)みよし野の
・京都近辺 10
宇治(わが庵は)・逢坂(これやこの)・逢坂(名にしおはば)
泉川(みかの原)・志賀の山越(山がはに)・由良(由良の戸を)
大江山(大江山)・逢坂(夜をこめて)・宇治(朝ぼらけう)
比叡山(おおけなく)
・近畿 10
住の江(住の江の)・難波(難波潟)・難波(侘びぬれば)
高砂(誰をかも)・伊吹山(かくとだに)・有馬山(有馬山)
高師浜(音に聞く)・淡路島(淡路島)・難波(難波江の)
松帆の浦(来ぬ人と)
・その他(北から)10
雄島(見せばやな)・末の松山(契りきな)・信夫郡(陸奥の)
佐渡(百敷や)・筑波山(筑波嶺の)・鎌倉(世の中は)
富士山(田子の浦に)・稲葉山(立別れ)・隠岐(わたの原や、ひともをし)
・観点は違うが7番歌(天の原)は外国(唐土)で詠まれた唯一の歌ということで憶えておきたい。
歌枕とは古歌に詠みこまれた諸国の名所(広辞苑)。この名所が繰り返し詠まれるにつれ俳句の季語同様歌枕そのものが意味を持ち歌の雰囲気を醸し出すことになる。
百々爺の感想
①100首中42首が歌枕関連、思ったより多い。京都の貴族たちも自分が行ったことはないにせよ地方(歌枕)への興味は高かったのであろう。
②でもやはり万葉集と比べると畿内を除く地方は圧倒的に少ない。特に西国はゼロ。道真の「東風ふかば」でも入っていればよかったのに。
③当時辺境というと配流の場、左遷の場というイメージでもあったろうか。
隠岐(小野篁、後鳥羽院)佐渡(順徳院)讃岐(崇徳院)
陸奥(実方)須磨(行平)
④爺は茨城に近い千葉なので筑波山にはなじみが深い。13番の歌は大事にしたいと思ってます。
→みなさんそれぞれ所縁の歌枕が出てきたら思いをこめてコメントしてください。
→奈良在住の在六少将には忙しくなりそうですね。
(追記)平安中期の国勢について(源氏物語で調べたもの)
日本 総人口 (諸説あるが) 400万台
行政区画 畿内 & 七道
大国13 上国35 中国11 下国9 計68国だった(格差あり)
平安京 人口 十数万人 内貴族(五位以上)200人前後 家族入れて約1000人
文屋です。ご先祖康秀と朝康は親子のようですね。100首の作者には親子兄弟も何組かいらっしゃるようです。紫式部と大弐三位も親子とか。さてその大弐三位の歌
有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする
有馬山が出てきますね。百々爺が筑波山ならさしずめ多寡秀としては有馬山でしょうね。今週初めにも芦屋川~最高峰~魚屋道~有馬温泉と歩いてきましたが冬場の運動不足がたたりまして足にマメができる始末。温泉の効用は抜群ですね。翌日は完全回復でした。有馬山と猪名とは組でよく出てくるそうですね。「どうしてあなたのことを忘れたりするものですか」なんて一度でいいから言わせてみたいものです。
ご登場ありがとうございます。山男、文屋どの、どうぞ山歩きの合間に談話室で身体と心を癒してください。
親子関係、多いですね。17組(18組説も)もあり、狭い世界だったことがよく分かります。人間模様書いていたのですがあわてて親子関係書き足しました。
有馬山、有馬温泉昔から有名だったようですね。爺も娘が姫路に居たとき二度ほど有馬温泉に行きました。六甲高原の羊や牛のいる公園とかアップダウンの多いフィールドアスレチックとか。あのあたりホント海から山まで急ですね。びっくりです。さて今年は六甲颪吹き荒れるんでしょうか。
平安中期の日本の人口が400万人程度とはへーエと驚くほど少ないですね。平安京で10数万、これも意外と少ないですね。近畿で100万人ぐらいでしょうか。当時の長安はどのくらいかも興味ありますね。
ウイキイペデイヤによると、1600年ごろで日本の人口は1200万人、江戸時代に人口が増えて江戸中期で3000万人ぐらいだったそうです。
歌枕といえば、歌枕を尋ね紀行文”奥の細道”を書いた 芭蕉が2-3年住んでいたという、関口(早稲田近辺)にある”芭蕉庵”を先般偶然発見し、今日行って来ました。
こじんまりとした庭があり、あまり手入れが行き届いていませんが、それなりの雰囲気は感じられました。すぐ近くに、細川家の文化財を収集した”永青文庫”や近代日本画を集めた講談社の”野間記念館”があり、すぐ隣が”椿山荘”で緑も多く、”芭蕉庵”とここらあたりをぐるっと廻ると悪くないと思いました。神田川沿いでもあり、桜の時期がベストかも。
小生が屋号をもらった”浜寺”の由来、72番歌”高師が濱”は歌枕ですか。
小生が小さいころは、浜寺から高師が濱まで浜辺に松林が延々と続き、小生の目には、三保の松原や虹の松原よりもきれいで、世界遺産ものでした。
”百人一首今昔散歩”によると、江戸時代に新田開発が進み、松がきられたそうです(上述江戸の人口増に符合)。明治に入り、今度は宅地化が進み、松が伐採されそうになったとき、内務卿 大久保利通が高師が濱を訪れ嘆いたため、松は伐採を免れ残ったと書かれています。知りませんでしたが、大久保利通が好きになりました。
しかし、松林は残っていますが、肝心の浜辺がなくなって、臨海工業地帯になっていますので、如何ともしがたいです。
松といえば、 松島がやはり一番きれいです。ずっと残したいものです。
色々な話題をありがとうございます。
1.確かに日本の総人口400万人程度というのは驚きですね。400万人は越えているが500万人には達していない、、ということのようです。乳幼児死亡率も高く疫病や災害も多発で人生短かったのでしょうね。そんななか俊成91才、定家80才は長生きですね。
2.関口芭蕉庵、去年秋の高校仲間とのハイキングで行くことになっており門の前まで行ったのですがスズメバチ発生で駆除のため臨時休館となってました。そんなばかなと皆ブーイングでした。椿山荘-永青文庫(爺は入らなかった)-野間文庫―鳩山会館-学習院大学と回りました。桜のころはいいでしょうね。
3.高師が濱の話、面白いですね。大久保もやるものですね。
大久保が72番歌を本歌取りして詠んだ歌がいいじゃないですか。
音に聞く高師浜のはま松も世のあだ浪はのがれざりけり
(百人一首今昔散歩より)
当時(奈良~平安)の人口について。
①全国で400万人台というのはいかにも少ない感じ。律令制定(それこそ持統朝)とともに戸籍も作られ(租税徴収のために)人口が把握されたのだろうが畿内・七街道の範囲内で陸奥は入っていないし戸籍に載らなかった(逃れた)人たちもいたのではなかろうか。実際にはもっと多かったかも。
②平安京の10数万というのも少ない感じだが当時は都会と言っても食べてける職業も少なく大半は田舎で農業(米作り)をするしかなかったのだろう。とすると京の人口が少ないのも分かる気がする。
・・・・いかがでしょう。
人口の話が出ましたが、五世紀のころ半島からの移住がピークだったそうです。その数は百万人は超えると聞いていますから、ヤマト民族の構成に与える影響度合いがしのばれますね。
さて、萬葉集のみならず百人一首でも大和の歌が一番多いとは驚きです。その分歌枕が多いということでしょうか。
とりあえず、自宅から近い歌枕「竜田川」「三室山」に関わる二首を挙げておきます。
半島からの移住、そんなに多数だったのですか。渡来を伺わせる苗字がいっぱいありますもんね。日本民族も決して単一でなく混血だということでしょう。
歌枕に近いというより歌枕の地に住んでるみたいなものですね。羨ましい。業平の弟分として百人一首の旅、楽しんでください。
万葉集には故郷三重(伊勢)を詠んだものが9首あります。
その内の一首は私の好きな額田王と大海人皇子の間に生まれた十市皇女を詠ったものです。彼女こそ「常処女」の元祖です。
それに比べ百人一首では42首が歌枕関連だというのに三重は一首も詠われていません。
小町姐としてはちょっと寂しいですね。
歌枕の地にゆかりがあれば思いも格別深まることでしょう。
その意味では在六少将さんの出番は多くなりそうですね。
【余談2】
今日は豊田市のトヨタ本社と元町工場の見学に行ってきました。
ロボットのヴァイオリンの演奏とアシモくんに迎えられズラリと並ぶ高級車。
「ミライ」はじめピカピカの運転席に片っ端から座ってみました。
3,500万クラス~300万クラスまで目もくらむような展示でした。
その中でも私が気に行ったのはトヨタ86です。
最新鋭の工場で車ができるまでの製造行程、帰宅すれば百人一首の千年以上もの世界に逆戻り、この落差は快感です。
おやっ小町姐さん、クルマにも興味がおありでしたか。クルマに関しては在六少将(元世界有数のクルマメーカー勤務)は当然でしょうが、僕も興味を持っております。トヨタ元町工場での86製造ライン面白かったでしょうね。トヨタ、ホンダ、日産、マツダなどいろいろな工場を見学(取材?)した頃を思い出しました。工場見学もいいけど、博物館もいいですよ、トヨタで言えば、トヨタ博物館(長久手)、産業技術記念館(名古屋西区)、ホンダのコレクションホール(栃木もてぎツインリンク内)なんかもいいですよ。日産は……ないねぇ、在六少将?
あの会社には対外的な文化活動、メセナといったものに関心が低く、情報発信も熱心ではありませんでした。ブームに便乗することはあっても飽きやすいし継続性がない。テレビの番組スポンサーとしても文化の香り高いものなどありませんしね。企業文化醸成の専門部署もなく、センスのない部署が全社ににらみを効かせているので内向き企業風土に浸されています。工場勤務時代対外折衝に当たっていたときは地域貢献のしようもなく随分情けない思いをしたものです。
およそ企業の文化レベルというのは社内報を見れば一目で分かるもんですよね。今もOBにはまとめて2,3か月分送られてきますが、あいかわらず数字ばかりで従業員の顔が浮かんでこないのが寂しいかぎりです。
仁王さんに振られたので、とんだ愚痴をば披露してしまいました。
そうか、三重県(伊勢・志摩・伊賀)が一首もない!歌人に19番伊勢がおり61番伊勢大輔がいますのにねぇ。定家卿にクレームつけたくなりますね。
万葉集では9首もありますか。「万葉の旅」引っ張り出しておっしゃる歌探しました。正に一志の波瀬、小町姐さんの故郷なんですね。
河上のゆつ岩群に草生さず常にもがもな常娘子にて 吹芡刀自
(かはのへのゆついはむらにくさむさずつねにもがもなとこをとめにて)
十市皇女、父に夫を殺され、、、壬申の乱、日本国を誕生させる大乱だったとは言え酷いものでした。
因みに源氏物語では六条御息所・斎宮の伊勢群行もあり伊勢は重要地として登場しましたよね。
鈴鹿川八十瀬の波にぬれぬれず伊勢まで誰か思ひおこせむ
(六条御息所)
伊勢談義はこれくらいにして、トヨタの工場見学よかったですね。私も財団のころアジアの研修生と工場見せてもらいました。日本トップのものづくり集団ですもんね。案内している私も誇らしく思ったものです。
工場見学というと先日源智平どのの斡旋でこれもまた高校仲間で西ケ原にある印刷局東京工場に伺い1万円札製造現場を見せてもらいました。いかに偽造不可能な紙幣を作るのか縷々説明を聞いた後現場、さすがにセキュリテイの厳しさにはびっくりしました。そして本物そっくりの模造紙幣で1億円パック(1万円札1万枚)を持たせてもらいました。重量12キログラム、ずっしり重かったです。3億円となると36キロなわけで力持ちじゃないと運べないなあと思いました。。
歌枕の中で、さすがに当時の人の「先見の明」は凄いと思わせるのが「末の松山」(契りきな)ですね。ご承知のように、末の松山は宮城県多賀城近くの高さ10mくらいの丘ですが、東日本大震災に伴う津波も末の松山の麓まで浸水させたものの、この丘を越えることはついにありませんでした。「契りきな」の歌を知っていた地元の人が大震災の時に末の松山に避難して、事なきを得たとの話もあります。
末の松山はマグニチュード8.3以上と推定されている貞観大地震(869年)に伴う大津波も越えなかったようですが、その時の天皇は56代の清和天皇。当時の朝廷メンバーには、皇太子として「貞明親王(陽成院)」(筑波嶺の)や中納言として「源融(河原左大臣)」(陸奥の)という百人一首の作者が2人も名を連ねています。Wikiによる知識ですが、こんなことを調べ出すとキリがないから、百人一首は面白いですね。
ちなみに、末の松山はいろいろな歌に詠まれているし、奥の細道にも登場しますが、源氏物語の和歌にも2首詠まれています。
「うらなくも思いけるかな契りしをまつより波は越えじものぞと」(明石、詠者は紫の上)
「波こゆる頃とも知らず末の松待つらむとのみ思いけるかな」(浮舟、詠者は薫)
いずれも怨み節といえる歌ですが、42番の「契りきな」の際に、百々爺から詳しい解説があるでしょうから、にわか調べによるコメントはこの辺で。
お忙しい所毎度ご登場、ありがとうござんす!
多賀城が築かれたのも律令国家統治の一環としてで奈良時代ですからね。6番大伴家持が晩年赴いたとの説もあるようで。。
末の松山の本歌は、
君をおきてあだし心をわがもたば末の松山波もこえなん
(古今集 東歌)
末の松山、万葉集には入っていないので歌枕として定着したのは奈良末~平安初期なのでしょうか。こんな辺境がよくぞそんな昔から歌枕として詠まれていたのだなと感心します。
源氏物語からの引用ありがとうございます。
波こゆる頃とも知らず末の松待つらむとのみ思いけるかな
薫のこの歌はないですよね。この歌に続いて「、、人に笑はせたまふな」とある。薫のこの歌この文で浮舟は入水を決意したのだと思っています。かわいそうに、、。
→「源氏物語 道しるべ」浮舟25.
あまり書くと42番で書くことなくなるのでこの辺でやめます。。