私の好きな女性、高階貴子の登場です。53番歌と54番歌は父子つながりでもあります。お分かりでしょうか、兼家の妻が53番そして兼家の長男道隆の妻が54番の高階貴子なのです。摂政関白父子の妻の歌が並べられています。偶然でしょうかね。
54.忘れじの行末まではかたければ今日を限りの命ともがな
訳詩: 「いつまでも忘れはしないよ 決して」
あなたはそうおっしゃいます
でもそんなことは信じられない
私はむしろこいねがいます 今日のその
うれしい言葉の絶頂で
私はいっそ死んでしまいたいのです
作者:儀同三司母=高階貴子 -996 道隆の正妻 伊周・隆家・定子(一条帝中宮)の母
出典:新古今集 恋三1149
詞書:「中関白通ひ初め侍りけるころ」
①儀同三司の母なんて呼ばず本名の高階貴子で行きましょう。数少ない姓名の分かる女性なんですから。
・父高階成忠923-998 文章生、大内記 学才に高く一条帝が東宮の時先生を務めた。
→受領階級だと思ってたが地方勤務はない。ずば抜けた学者官僚ということか。
→孫定子は後に一条帝に入内する。祖父成忠の取り持つ縁だったのかもしれない。
・高階氏 天武の長子高市皇子を始祖とする一族。
→例の「在原業平が斎宮恬子内親王と密通してできた子が高階家の養子となり高階家が続いて来ている」という噂の真相についてはコメント欄に譲っておきましょうか。
・母は紀淑光(学者紀長谷雄の子)の娘だったとの説あり。
→そうでしょう。父母ともの学者一家。貴子の学識が半端でなかったことが肯けます。
・貴子、円融朝に内侍として出仕。抜群の仕事ぶりは目を引いたらしい。
→スーパーキャリアウーマン「高内侍」と持て囃されたのだろう(「高」は高階の意)
当然一部では羨み妬みから揶揄もされたのだろう。大鏡でも良いことは言われていない。
女のあまりに才かしこきは、ものあしと人の申すなべに、この内侍、のちにはいといみじう堕落せられにしも、そのけとこそおぼえはべりしか。
・宮中で兼家の長子道隆に見初められ妻になる(道隆が通い始める)。
→結婚当初は兼家もまだ権門の長でなく道隆の将来も確約されていた訳ではなかった。
→兼家、道隆が貴子を買ったのはその学才&内侍としてのキャリアであった。この目の付け所はさすがである!
ある解説書の分析では道隆・貴子二人の結婚は藤原摂関家の品格・プライド・優雅さ・美貌・明朗さと国司階級高階家の庶民性・抜群の知性教養・自己主張・率直さが見事に結びついたものであった、、、とのこと。
・そして矢継ぎ早に三男(長男伊周974-1010)四女(長女定子977-1011)を生む。
→この子沢山が大きい。自ずと道隆の正妻と遇せられる(53道綱母と違うところ)。
兼家の後、道隆は摂政を継ぎ長女定子を一条帝に入内させる。
→母貴子も嬉しかったろう。定子15才、一条帝11才。葵の上と源氏を思わせる。
・ところが夫中関白道隆は権門の長としての自覚が今一つ。大酒飲みで軽挙妄動、ついには43才にして亡くなってしまう(死因は飲水病=糖尿病とも)。
→折角いい妻をもらいいい娘(定子)を授かったのに、勿体ない。酒の飲み過ぎ要注意!!
・道隆の死後息子伊周は道長の敵ではなく中関白家は徹底的に粉砕される。
→儀同三司の母の末路は悲しみに堪えない。
(道隆のこと定子・伊周のこといっぱいあってキリがないのでこの辺で止めます)
(定子の妹原子が三条帝(東宮時)に嫁いだが桐壷で突然変死している、これも道長派の仕業か、、、なんてのは後で話題にしましょう)
②歌人としての高階貴子
・勅撰集に5首(意外と少ない) 女房三十六歌仙 私家集なし
→歌はあまり詠まなかったのか、それとも伝わってないだけか。
・千人万首より
中関白かよひはじめけるころ、夜がれして侍りけるつとめて、こよひは明かし難くてこそなど言ひて侍りければよめる
ひとりぬる人や知るらむ秋の夜をながしと誰か君につげつる(後拾遺集906)
→情況は53番歌と類似だがこちらの方が優しい感じがする。
夜の鶴都のうちにこめられて子を恋ひつつもなきあかすかな(詞花集340)
→道長に敗れ明石に配流された子伊周を想う歌。中関白家の没落は哀れ極まる。
③54番歌 忘れじの行末まではかたければ今日を限りの命ともがな
・将来のことはさておいて貴方がいる今日は本当に幸せです!
→女性にとって結婚(男に身を委ねること)は不安で一杯であろう。そんな中男が「君のこといつまでも忘れないよ」と言ってくれた。これは嬉しいでしょうよ。
・恋の歓喜を詠った歌。恋の讃歌。(田辺聖子他)
→確かに女性の真摯な気持ちを素直に訴えていて好感が持てる。恨みや皮肉が感じられない。
・類想歌
今宵さへあらばかくこそ思ほえめ今日暮れぬ間の命ともがな(後拾遺集 和泉式部)
明日ならば忘らるる身になりぬべし今日を過さぬ命ともがな (後拾遺集 赤染衛門)
→「命ともがな」は流行フレーズであったのだろうか。
④源氏物語との関連
・国司階級の一族が学才に長けた娘をトップ貴族に娶せできた娘は中宮に上がり皇子を生む。
→源氏物語、明石一族の物語にぴったり当てはまると思いませんか。
高階成忠 - 高階貴子 - (藤原道隆) - 中宮定子 - 敦康親王
明石入道 - 明石の君 - (光源氏) - 明石中宮 - 東宮・匂宮
→明石入道の野心が絵物語だけのものでないことが分かります。
→現実と物語の差異は道隆と光源氏との政治力の有無だったと言えましょうか。
・忘れじの行末まではかたければ今日を限りの命ともがな
→これは正に源氏が通い始めた頃の明石の君の心境そのものではないでしょうか。
・「天皇の純愛は罪であった」
桐壷帝の桐壷更衣に対する純愛(偏愛)が源氏物語の始めであるが、一条帝の中宮定子への純愛もちょっと程度を越していたように思われる。
定子は第2子出産後24才で逝去 その辞世の句
よもすがら契りしことをわすれずは恋ひん涙の色ぞゆかしき(後拾遺集)
→百人一首の前身と言われる定家の「百人秀歌」にはこの歌が採られている。百人一首に採られなかったのは何故だろう。
これに対する一条帝の返歌
野辺までに心ばかりは通へども我が御幸とも知らずやあるらん
→一条帝、一条朝についてはじっくりと見ていきましょう。
えっ!父子のつながり?なるほどね~ 父の妻とその子の妻。
二首続いて母、好対照の歌ですね。これも意図的でしょうか?
忘れじの行末まではかたければ今日を限りの命ともがな(儀同三司母)
嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る(道綱母)
今でも幼い子を持つ母親を○○ちゃんのママなんて呼んだりして物議をかもしています。
れっきとした名前がありながらですものね。
54番歌の女性だって高階貴子と言う名がありながらなぜ儀同三司母なのか?
そもそも儀同三司って何のこと?私も高階貴子に賛成です。
懐かしい!!高階氏 高市皇子を始祖とする一族ですか。
「在原業平が斎宮恬子内親王と密通してできた子」
これに関して何も調べていなくて皆さまの興味ある面白いコメントを楽しみにしています。
貴子、曰く、今が一番幸せの絶頂よ、先のことなど頼りにならないわ。
この歌を詠んだ頃には後年の不幸など予想もしなかったであろう。
恋の絶頂にあった女の鋭い勘は当たらずとは言えず、栄華の絶頂から急激な中関白家の没落を誰が予想したであろうか?
それこそこんなに幸せでいいのかしら?幸せすぎて先の不幸を予感しての歌にも思える。
父母譲りの才、教養の誉れ高く中関白道隆との結婚、後に一条天皇の中宮となる定子、そして伊周の母でもある。
その伊周が儀同三司と言うことらしい・・・
幸せの絶頂にありながら後の不幸を思えば「今日を限りの命ともがな」の言葉が切なく響く。
人間の運命とはなんと過酷なものよと思わざるを得ない
道長からは夫道隆、子伊周、孫道雅(63番歌)にわたりうとまれている。
道長と中関白家の違いは男の能力(政治力)にあるのでしょうか?そうとばかりにも思えない。
男の執念、怨念、骨肉の政争は女の比ではないとさえ思われる。
それを思えば女の何と可愛い事よ!!
「源氏物語」私の好きな明石君は小説とは言え貴子のような運命を辿らずに良かった。
高階家(道隆、貴子)と明石一族の違いは何処にあったのでしょうね。
源氏の力もあろうが明石君の考え、生き方、身の処し方による所も大なのではなかろうか?
朝からPCの調子が悪くコメントを終わろうとして突然消えてしまいあわてました。
回復を待ちましたがフリーズ、止む負えず強制終了してやり直し、だましだましの最近です。
・そうですね、〇〇ちゃんのママですね。でもそれは間違いないですから。〇〇ちゃんのパパは厳密に言えばアブナイ。民法・戸籍法、、現代的問題でもあります。
それにしても今どき儀同三司の母なんて言われてもさっぱり分かりませんよね。伊周は取り上げられたとは言え最高官位は内大臣だったわけで(しかも後復権が許されたことだし)准大臣=儀同三司などと呼ばず「内大臣伊周の母」でもいいと思うんですけどねぇ。
・中関白家対道長、これぞ摂関の長をどちらが取るかの天下分け目の戦いだったのでしょう。敗者が無惨な目に合わされる、、、これも権力争いの結果致し方ないことなんでしょう。もし定子がお産で亡くなることがなかったら、一条帝の意向もあり、彰子も敦康親王の立太子に反対ではなかったとのことで道長もそう簡単に敦成親王立太子に漕ぎつけられなかったかもしれない。
→正に「散華」の世界であります。
・そうですね、明石の君は本当に分を弁えたよくできた女性でした。自らの娘なのに養母紫の上を立てて一切表に出ない。なかなかできないことだと思いました。私も明石の君が好きです(勿論紫の上も好きですが)。
(コメント、途中で消えてしまいましたか。ホント泣きたくなりますよね。気をつけてください、、、と言っても詮無いことですが)
二週間談話室をお休みし、暖かいシンガポールで孫とのんびり遊んだり、リゾート地ビンタン島で泳いだりマッサージを受けたり楽しんできました。帰ってくると庭の梅の花も満開に近く咲いており、昨日は春一番?で暖かく、いよいよ春の気配を感じる季節になりました。
シンガポールボケか花粉症の始まりか頭がいまいちすっきりしませんが、今日から復帰します。
百人一首ではここだけ女性歌人の歌が9首(55番の中断あるも)続くところ。なかなか楽しみなパートです。
そして、53番と54番は”母”の歌。
道綱の母、儀同三司の母といわれても、どこのお母さんか全くわからず、?でしたが、今回勉強して、よく解りました。
道綱の母は、蜻蛉の君、儀同三司の母は、高階貴子と呼ぶのがよいとの見解、ごもっともであります。兼家の女、妻とか、道隆の妻とか呼ばれれば、歴史的、家系図的には一番解りやすいのでしょうが、妻・妾が多かった時代ゆえ、個人の特定が難しいという問題が残るでしょうし、夫の従属物のような響きを感じあまり好きにはなれません。その点、だれそれの”母”は一人であり個人を指すには適しているし、母親は子を産み育てるという力強さと尊厳のようなものがあり、この呼び名もよいと思えます。親・夫・子を紐解けば、どの時代のどの家をなした女かも特定もでき、とっつきにくいが悪くはない呼び名のように思えます。
忘れじの行末まではかたければ今日を限りの命ともがな
田辺聖子さんは、王朝というより現代の感覚に近く、この歌の強烈な個性は、むしろ、万葉集に近いのではと、書いておられる。小生も同じ感覚を覚えるが、どちらかといえば、万葉集より現代の歌により近さを感じる。
恋焦がれる気持ちをスッキーと歌い上げ、今ここで燃焼してしまいたいという思いが伝わるよい歌と思う。
あと、源氏物語の明石一族との関連、言われてみれば、まさにそうですね。紫式部は
高階成忠 - 高階貴子 - (藤原道隆) - 中宮定子 - 敦康親王
の話を元に、源氏物語の骨格を成す明石物語を書いた、これ即ち源氏物語を書いたともいえますね。いやいや、深堀ができて、楽しいですね。
・お帰りなさい。真冬の日本を避けて常夏のシンガポールでお孫さんとのんびり遊ぶ。それこそリタイア者の特権、満喫されたことと思います。
・「〇〇の母」も良しですか。なるほど。特に平安王朝は通い婚(ないし婿入り婚)で母方の経済的後見が大事でしたからね。伊周も定子も高階貴子邸で高階成忠の財力で育てられたということでしょう(道隆は通ってくるだけ)。子(伊周・定子)から見たら父の道隆より母の貴子の影響力の方が大きかった筈ですから。
・54番歌、現代的ないし万葉的ですか。例の俗・雅論からすると俗っぽい歌ということですね。確かに古今調の技巧など何もないストレートな言い方ですね。スーパーキャリアウーマンだった高階貴子、ひねくり回した表現より現実的実際的な言い方が性に合ってたのかもしれません。
・私も明石物語との系譜に思い至りしてやったりと思いました。定子は抜群の知性教養を持つ中宮でしたが明石の中宮はそこまでは教養人に描かれていませんけどね。
高階貴子を語るには、まず「栄花物語」からとします。特に貴子に関する才能以外の記述を拾ってみます。
「栄花物語 ~ 様々の悦(兼家の子息たち)」から「北の方(貴子)など宮仕にならひ給へれば、いたう奥深なる事をばいと悪きものに思して、今めかしうけ近き御有様なり」「北の方(貴子)固より道心いみじうおはして常に経を読み給ふ」
「栄花物語 ~ 浦々の別れ」から「帥殿(伊周)今一たび見奉りて死なむ死なむといふことを寝ても覚めても宣へば・・・」とか、伊周配流の時、我が子の腰にすがりついて放さず、車に同乗して山崎に至ったり、の場面を読むと、かつての貴子の聡明さは何処へいったのだろうか?と残念に思いました。
息子を思うただの一人の母親になってしまった感じがして哀れでなりません。その時中宮定子は身ごもっていて大変なのに、それはどう考えたのか? また母の狂乱(わがまま)が伊周の身の上にとって好ましくない結果を生むとか考える気持ちの余裕もなかったのか?
子を思う心の闇とは本当に真実なんですねえ。
次に「枕草子」から二か所あげてみます。
「枕草子」(笠間書院)100段「淑景舎(道隆の二女原子)、春宮にまゐりたまふほどのこと・・・・・上(貴子)の御宿世こそいとめでたけれ」とあり、ここは栄華の記録です。
「枕草子」(笠間書院)262段の積善寺供養は長い章段ですが、儀式へ向かう日々に焦点をあてて書いています。関白道隆、妻貴子、中宮定子、伊周、隆家、他の子息、子女、孫の松君(63番歌の道雅)など出てきて華やかな章段です。
積善寺供養は道隆自らの権勢を誇示する一大行事なので、それを清少納言はしっかりと書きとめたのでしょう。
その中で貴子に関して「うえ(貴子)もわたりたまへり。御几帳引きよせて、新らしうまゐりたる人人(清少納言もこの中にはいっている)には見えたまはねば、いぶせきここちす」と記しています。
最後に安東次男のこの54番歌の評を少し記します。
54番歌の派生歌として、百々爺があげている和泉式部や赤染衛門の二首と比較して、「それらの歌とは一見同想に見えて、性質を異にする。和泉式部や赤染衛門の歌は、作者が恋の遍歴の中で自得した恋愛観であって、かりそめの恋をむしろ肯定さえしているところがあるが、儀同三司母にはそれがない。契った以上、行末の覚悟はできている、と告げているように読める。~ これは無常に裏打ちされた恋の歌だろう。」
時代を先取りした感のある、わかりやすくて、はっきりした良い歌だと思います。
・「栄花物語」からの引用ありがとうございます。
(私も栄花物語取り揃えてはあるのですがとても手が回っておりません)
確かに伊周が左遷させられた時の取り乱し方はちょっといただけませんね。まだ40代でそれこそ分別盛りであった筈なのにねぇ。おっしゃる通りスーパーキャリアウーマンらしさは全くない。子を思う心の闇に髪振り乱す老母としか見れません。そしてすぐ亡くなってしまう。伊周が一応復権して儀同三司になったことも見届けずに。そして何より定子のお産~子の皇位への可能性も考えることなく。まあそれほど道長のやり方が度を越して阿漕だったのかもしれませんが。
・枕草子、該当部分読ませていただきます。
コメントあればまた後程。
・安藤次男の所見、尤もだと思います。貴子には和泉式部のような奔放な恋は縁がなかったのでしょう。一途さを高らかに詠ったいい歌だと感じます。
枕草子、チラチラですが見てみました。両段ともえらく長い記述ですね。ここぞとばかり中関白家の栄光の日々を追憶している所のようですね。
・清少納言にとって「殿」は道隆(仕えている中宮定子の父だから当然そうなんでしょう)、そして「北の方」が貴子なんですね。この両段で中関白家の人々のこと、中宮定子サロンのことがよく分かる感じです(つぶさに読めてませんが)。
→中関白家の栄華について読むには「枕草子」を。但し「枕草子」には中関白家の没落のことは書かれていない、、、ということですね。
・100段「淑景舎(道隆の二女原子)、春宮に、、」
道隆の長女定子は一条帝中宮であり、二女原子は東宮(後の三条帝)に入内していた。このままいくと道隆こそが外戚として君臨していく図式であった。ところが定子は政争にまきこまれお産で亡くなり(1001年)、原子は宮中で突然血をはいて突然死(1002年)。
→明らかに何者かに一服もられたのでしょう。敵対勢力であることに間違いありませんね。
原子の御局は「淑景舎」即ち桐壷のこと。源氏物語桐壷の冒頭に、更衣のお住まいを述べるところで、「御局は桐壷なり」とあり。読者はドキッとして「えっ、あの忌まわしの事件がおきた桐壷なの!」と不安を感じたことでしょう。中関白家の悲劇は数え上げれば切りがありません。
ややこしや、ややこしや!!
父子つながりではあるが、母子つながりではない。浜寺氏御指摘のように妻・妾が多かった時代ゆえ、当然起こりえますわね。
兼家の妻(53番)と兼家の長男道隆の妻(54番)は摂政関白父子つながり。
しかし兼家さんには蜻蛉の君(妾)と時姫(妻)がいましたから、道綱の母と道隆、道長の母は違うということ。ここからが藤原家の全盛期が始まるとすれば、歴史的にも文学的にも最も興味の尽きないところでしょうか。定子(道隆の子、伊周の妹)、彰子、妍子、威子(以上道長の子)、清少納言(定子に仕える)、紫式部(彰子に仕える)とビッグネームがてんこ盛り。詳細はまたの機会に。
現代でも跡目争いは大塚家具、ロッテグループを挙げるまでもなくよくあること。
さて54番歌。儀同三司は、準大臣・藤原伊周のこと。その母というわけ。母も昔は若かった。新古今集からの採用で、「中関白が通い始めたころ」と付してある。中関白は道隆のこと。まさにビッグネーム。
忘れじの行く末まではかたければ今日を限りの命ともがな
貴子は偉い学者の娘で、教養もあるし美人の誉れも高かった。ここで通ってきた道隆とは結婚して、子供に恵まれた。因みに言えば道隆は道長の兄であり、藤原一族の権勢を誇って、
此の世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば
と詠んだ人。
貴子は道隆と結ばれ愛情の面では「忘れじの行く末」は、一応確保されたが、生臭い権力争いの面では夫・道隆が死ぬと、道長が一気に力を増し、息子の伊周は失脚、娘の定子は尼となり、貴子は家族の薄倖を前にして昔日の栄華を思い、あらためて「今日を限りの命ともがな」(もっと早く、良い時に死んでおけばよかった)と考えたかも。
我が阿刀田高さんは54番歌をして「ともあれ、九十点の女が九十五点の男に贈った、恋の喜びの歌」としておられる。(概ね:「恋する「小倉百人一首」阿刀田高」より)
ホント、ややこしややこしです。狭い社会だけに色々と繋がっている。ほじくり出せばキリがない感じです。自分なりに大胆に整理していくのがいいと思います。
・骨肉の跡目争い、古今東西変わりませんねぇ。それが人間なんでしょう。北の王朝、どうなってくんでしょうね。そろそろだと思うのですが。
・「九十点の女が九十五点の男に贈った、恋の喜びの歌」
そうですかねぇ。確かに「身分出自が全てであった」点からすると男の方が上だと思います。でも私は貴子フアンですから、むしろ逆、「九十五点の女が八十点の男に贈った、男を立てる恋の歌」だと思いたい所です。
→少なくとも結婚当初は道隆はまだトップ貴族ではなかったですから。他にも将来性のある男はいたかと思います。。例えば公任だって。
閑話休題
「古今著聞集」によれば、貴子と道隆との関係に当初、父・高階成忠は乗り気ではなかったが、ある後朝のあさ、帰って行く道隆の後ろ姿を見て、「必ず大臣に至る人なり」といって二人の仲を許したという。
さて、ここで問題!!
90点の貴子のために、80点の道隆の将来を先物買いした父・成忠は果たして何点の男でしょうか?
なるほど。いい問題ですね。
・私も最初は乗り気でなかった成忠が道隆を見て結婚を許したという話を読みさすが貴子の父だけあるなと思いました。相対点で考えると私は貴子に95点与えているのですからその尊敬する父成忠は96点と言わざるをえないでしょうかね。。
・切り札の娘をどこに嫁がせるか(誰に入内させるか或いは誰を婿に迎えるか)は父としての最大の思案所だったのでしょうね。娘葵の上を東宮(後の朱雀帝)でなく臣下に下った源氏に嫁がせた左大臣の英断を思い出します。
→葵の上が夕霧でなく姫君を産んでおれば左大臣家の栄光が続いたのかもしれません。
百々爺から「在原業平が斎宮恬子内親王と密通してできた子が高階家の養子となった」という噂については、業平に憧れている智平から語ってほしいと要請されているような気配を感じるので、概略を記してみたいと存じます。
この噂の元は「伊勢物語」第69段の「狩の使い」と題する物語です。この物語に登場する「狩の使い」は業平で、「斎宮」は恬子内親王です。第69段の最後に「斎宮は水の尾の御時、文徳天皇の御むすめ、惟喬の親王の妹」とあるので、恬子内親王で間違いないと思います。物語の概略は次のとおりです。
『ある時、伊勢の斎宮のもとに都の親元から「近い内に狩のお使いがそちらに赴かれるが、大事な方だからいつもの使いよりもずっと丁重におもてなしなさい」という文が届いた。斎宮(女)は親の言うとおり、心を込めてもてなしたところ、使いの男は女に恋心を抱き、「二人で逢いたい」と言った。女も男に惹かれたが、人目が多くて、なかなか逢うことができなかった。だが、人々の寝静まった頃、女は女童を先に立たせて、男の寝所までやって来た。男は嬉しくて、女を寝所に招き入れた。そして、午後11時から午前に2時頃まで一緒にいたものの、何も語り会えない(思いを遂げられない)うちに、女は帰ってしまい、男は悲しくて一睡もできなかった。
翌朝、気がかりだが自分から使いをやれない男に、女から「君や来し我や行きけむ思ほえず 夢かうつつか寝てかさめてか(昨夜はあなたがいらっしゃったのでしょうか、私が行ったのでしょうか。あなたとの逢瀬も夢だったのでしょうか、それとも現実だったのでしょうか)」という歌が送られてきた。
男は激しく泣いて「かきくらす心の闇に迷(まど)ひにき 夢うつつとは今宵定めよ(私もあなたへの募る想いで惑ってしまいました。今宵こそ、夢か現実かを定めましょう)」と返歌した。しかし、その日の夜は、伊勢の国司で斎宮寮長官兼任の人が、狩の使いの一行を招いて一晩中宴を催したので、男は再び女に逢うことはできなかった』
このように、伊勢物語では二人は逢瀬を遂げられなかったことになっていますが、実は二人の間に禁忌に背く一夜の契りがあり、その契りにより女は懐妊したため、前代未聞の不祥事が発覚することを恐れた斎宮寮が、生まれた子供を伊勢権守で斎宮頭だった高階岑緒の子、茂範の養子とし、それが後の高階師尚であるという噂があります。この噂の真相は不明ですが、古くから流布されており、尊卑文脈を初めとする後世の各種系図にも高階師尚の実父は在原業平である旨の記載があるようです。また、藤原行成は一条天皇から立太子について、定子皇后腹の敦康親王と彰子中宮腹の敦成親王のどちらにすべきかについて意見を聞かれた時、「高氏ノ先ハ斎宮ノ事ニ依リ其ノ後胤為ル者ハ皆以テ和セザル也」と定子皇后の母が高階家出身ということを理由に敦成親王を立太子すべきと奏上したと権記に書いています。
コピペを活用しての噂に関する調査概要は以上ですが、在原業平ファンの智平としては、高階貴子が百々爺も好きな女性と言い切るほど、才女&美人で歌が上手いのは業平の血を引いているからに違いないと思います。多少こじつけを承知で付け加えれば、彼女が悲運な晩年を迎えるのも、高貴な血筋に生まれ、美男で勇敢で歌の上手であったにも拘らず、いまいち官位に恵まれなかった業平の生涯を思わせます。最後に54番歌については、高階貴子ほどの女性に「今日をかぎりの 命ともがな」と詠ってもらえる道隆は男冥利に尽きるのではないでしょうか。
さすが打てば響くの如くヤヤコシイ話を詳しく解説していただきありがとうございました(今後もヤヤコシイ問題出てきたら振りますのでよろしくお願いします)
・この話から改めて私が感じるのは高階成忠-高階貴子の存在感の大きさです。敦康親王を生んだ定子は「高階定子」でなく「藤原定子」ですからね。すんなり考えれば敦康親王の母方の父は藤原道隆=藤原家直系の関白内大臣。藤原家から見ても全く文句のつけようのないピカピカの「藤原の子」じゃないですか。それが母方の母(高階貴子)が問題になる。そんなこと言いだせば際限がなくなってしまう、正にイチャモンでしょう。
→安和の変で源高明が失脚してこれで藤原氏の他氏排斥は終わったと思いきや、今度は藤原一族の中での跡目争いに他氏の影がちらつく。気分悪い話です。
・「貴子は業平の血を引いているに違いない」
おっしゃる通り、そう思うことにしましょう。ということは定子も業平の子孫。一条帝が好きで好きで堪らなかったのも無理ありませんわね。
さすが智平朝臣殿、百々爺さんからの「在原業平が斎宮恬子内親王と密通してできた子が高階家の養子となった」という噂の問題提起については私もこれは学識豊かで調べ上手の智平さんからのコメント、必ずやあるだろうと予想していました。全て以心伝心。
少し前のこと、百々爺さんとほぼ同時進行で杉本苑子、小説「散華」(紫式部の生涯)を読んでいた時に私が個人的に百々爺さんに質問したことにもつながるようです。
小説の中で中宮彰子が父、道長に詰め寄る場面があります。
「伊勢物語」69段の最後の25文字のことです。
彰子の「いったいいつ何者が何を意図して25文字をこの段の終わりに加えたのでしょう」の言葉です。
古写本にはそのような文字は書かれていないとも・・・
25文字とは伊勢物語69段最後
「斎宮は水尾の御時、文徳天皇の御むすめ、惟喬の親王の妹。」
この部分が後から付け加えられたのかどうかということです。
実際に業平が伊勢に行って斎宮(恬子)と不義を犯しその結果恬子が業平の子を産んだのか?
そして以下、智平さんのコメントによれば
伊勢物語では二人は逢瀬を遂げられなかったことになっていますが、実は二人の間に禁忌に背く一夜の契りがあり、その契りにより女は懐妊したため、前代未聞の不祥事が発覚することを恐れた斎宮寮が、生まれた子供を伊勢権守で斎宮頭だった高階岑緒の子、茂範の養子とし、それが後の高階師尚。藤原行成は一条天皇から立太子について、定子皇后腹の敦康親王と彰子中宮腹の敦成親王のどちらにすべきかについて意見を聞かれた時、「高氏ノ先ハ斎宮ノ事ニ依リ其ノ後胤為ル者ハ皆以テ和セザル也」と定子皇后の母が高階家出身ということを理由に敦成親王を立太子すべきと奏上したと権記に書いています
25文字が後から書きくわえられたものかどうか?
実際のところは私にはわかりません。
この25文字が立太子にどのような影響を与え、高階家の血を退けたのか私には判断がつきませんがこのようなエピソードがあったことを知るだけでも面白い話だと感心しております。
杉本苑子も上手く小説に活用したものです。
岩波文庫「伊勢物語」大津有一校注を読んでみても書名、作者、その成立はさまざまです。
解説では和歌知顕集によれば伊勢物語の成立を二度に分け「狩の使」の本を初度本、初冠の本を再度本と区別 「狩の使」の本を厳撰伊勢物語とし現在流布している初冠の本を天歴以後に在原氏一門の人が粉飾したものと考えられる。
果たして業平の遺筆であったかなかったか伊勢物語厳撰の体裁であったかどうか疑問であると書かれています。
そして最後にはこれらの中に流れているのはみやびの精神であるとし、まことの色好みとして業平の像を恋愛生活の中に刻みあげようと試みた作品というべきであろうと締めくくられています。
結局真実は判らないまま我々はあくまでも想像力豊かに自分なりの像を作れあげればいいのではないかと思わざるをえません。
皆さんの考えをお聞きしたいと思います。
道長の政治にとってこの25文字は切り札となったのでしょうかね~。
面白い所ですよね。詳しいコメントありがとうございます。
・正に伊勢物語の成立とその後の加筆修正、名前の由来等等に関わる重要なところですね。伊勢物語には通常、登場人物の名前は出て来ない(出てくるのもあるが冒頭とか話の流れの中で自然に出てくる)。69段の最後の25文字は明らかに登場人物を特定するため後から付け加えられたものでしょう。誰が何ゆえにかは分かりませんが普通に考えれば「ああ、そうなんだ、さすが業平、斎宮にまで押しかけたんだ、、、」くらいのものでしょう。
・こんなものに目をつけ高階流排斥のごり押しを作り上げた行成。エライと言おうかご苦労さまと言おうか。でも道長は嬉しかったことでしょう。その後行成は正二位中納言(後権大納言)まで引き上げられてます(1028.1.3道長と同日に亡くなったというのはやり過ぎでしょうが)。
・伊勢物語69段。改めて伊勢斎宮・賀茂斎院が如何に神聖で男たちの憧れの的だったのかが思い出されます。何せ内親王で処女、日々神に仕える女性。男たるもの誰もが夢でも逢いたいと思ったことでしょう。
→その禁断のタブーを業平が成し遂げ、高階家にその血が流れる。63道雅は貴子の孫。斎宮だった内親王とコトを起す道雅はご先祖様業平にあやかって内親王に近づいたのでしょうか(63番の所で)。