55番 一条朝文化人ナンバーワン 公任 滝の音は

さて、一条朝の並み居る女性歌人たちにただ一人で立ち向かうのが大納言公任。思わず「ガンバレ、ガンバレ、キントーウ!!」って声援を送りたくなります。

55.滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ

訳詩:    嵯峨の帝にゆかりある滝殿の滝
       群れつどい ありし日の詩の宴を思う
       滝の音はすでにとだえて久しいが
       その名は今も人々の耳に流れ
       胸に響く 昔日の面影のまま

作者:大納言公任=藤原公任 966-1041 76才 藤原頼忠の子 四条大納言
出典:拾遺集 雑上449
詞書:「大覚寺に人々あまたまかりたりけるに、古き滝を詠み侍りける」

①藤原公任
・実頼(関白太政大臣)-頼忠(関白太政大臣)-公任
 従兄の実資と並ぶ小野宮流の重鎮 
 →政治的に九条流(師輔-兼家)に敗れたのは頼忠が外戚になれなかったため。
 (円融帝の外戚争い、公任も妹女御vs詮子女御(兼家娘)との間で舌禍事件を起こしている)
  父頼忠が実権を握っていた時は円融帝の手で元服させられ正五位下に抜擢されるなど異例の扱いであったのに後には道長の後塵を拝するようになる。

 公任の長男が64定頼 公任をスケールダウンした感じの王朝文化人 64番をお楽しみに

・道長966-1028とは同年生まれ。道長が実権を握ると政治的に争ったりせず道長に随従する道をとる。藤原斉信(なりのぶ)、源俊賢、藤原行成とともに一条帝-道長を支え「一条朝の四納言」として讃えられた。
 →これはこれで賢明な道だったと言えよう。

・そして公任が目指したのが風流文雅の頂点。
 道長が平安王朝政治人のトップなら公任は平安王朝文化教養人のトップであった。

 大鏡に見える「三舟の才」の逸話が有名
 道長による大堰川での風流イベント。和歌、漢詩、管弦の三つの船を仕立てそれぞれに腕に自信のある者を乗せて競わせた。何でもござれの公任、どの船にしようか(どれが一番受けるだろうか)迷った挙句和歌の船に乗って「をぐら山嵐の風の寒ければもみぢの錦着ぬ人ぞなき」と詠み人々の喝采を浴びた。だが本人は漢詩の船の方がより名声を上げられたのではないかと悔やんだ、、、との話。

 →当時の和歌と漢詩の位置づけを暗示するようなエピソード(まだ本家本流の教養としては漢詩の方が重みがあったということか)
 →その後和歌の方が上位になった訳で公任の選択は結果的には大成功だったということだろう。だって漢詩の船に乗ってたら逸話も伝わってはいるまい。

 「公任が平安朝以後の詩歌管弦の世界に及ぼした影響はきわめて大きいものがあった」(大岡信)

・世をときめく風流男児だったろうに女性関係の逸話はあまり見当たらない。
  公任は生得色を好まざる人にて、その妻も先に尼になられたれば、この度僧となりても独居して常に閑寂を楽しみ、長久二年に七十六歳にてみまかられたり。(百人一首一夕話)
 →何故だろう。余りに勉強好きで「女は敵」とでも思ってたのだろうか。

②歌人、歌学者としての藤原公任
・自ら歌人としては拾遺集以下勅撰集に合計88首 屏風歌 歌合出詠など多数
・歌学者、歌論者として
 私家集「大納言公任集」、私撰集「金玉和歌集」、歌論書「新撰髄脳」「和歌九品」
 「拾遺集」は花山帝の親撰とされるが公任撰の「拾遺抄」が母体になっているというのが通説、即ち拾遺集も公任によると考えるのが妥当か。
 三十六人撰(後三十六歌仙と呼ばれる)の選定

 古今調が行き詰ってたのを打開しようとしたのが公任であり46曽禰好忠であった。
 46番歌 曽禰好忠の和歌史上における位置づけについて(「日本文学史」小西甚一より引用)の項参照

 →単なる歌人というより和歌の文藝的地位、社会的地位を高めた人物と言えようか。
  「王朝和歌は貫之が生んで公任が育て定家が完成させた」(百々爺の目下の仮説)

・公任の和歌から
  朝まだき嵐の山のさむければ紅葉の錦きぬ人ぞなき(拾遺集210)
  →三舟の歌に類似。三舟の歌も即興というより準備された歌のように思えるがいかが。

  春きてぞ人もとひける山里は花こそ宿のあるじなりけれ(拾遺集1015)
  →定家は八代抄に入れている。こちらを代表歌と考えていたか。

  彰子入内を祝して詠んだ屏風歌
  紫の雲ともみゆる藤の花いかなる宿のしるしなるらむ
  今はただ君が御かげをたのむかな雲隠れにし月を恋ひつつ(続拾遺集1302)
  →道長讃歌 追従も甚だしい。

・「和漢朗詠集」1018頃成立 公任撰 道長の娘威子の三条帝への入内の贈物
 漢詩588首(唐人234首・日本人354首) 和歌216首 合計804首
 (漢詩:唐人では白居易が135首で断トツ、日本人は菅原文時44首 菅原道真38首)
 (和歌:貫之26首 躬恒12首 人麿・中務8首 兼盛7首 素性・忠岑6首 宗貞・伊勢5首)
 上巻に春夏秋冬、下巻にその他雑全般あらゆるジャンルに亘っている。
 
 →これぞ王朝文化人が日々口遊んでいたアンソロジー。「三舟の才」公任にして初めてなしえた快挙ではなかろうか。

 50藤原義孝の漢詩も載せられている。
   朝(あした)に紅顔あって世路に誇れども
   暮(ゆうべ)に白骨となって郊原に朽ちぬ 
(794 義孝少将)

③55番歌 滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ
・舞台は嵯峨 大覚寺 嵯峨帝時代は離宮で滝殿があった それを懐旧して詠んだ歌

・拾遺集では「滝の糸は」となっている。千載集にも採られこちらは「滝の音は」
 →出典を拾遺集としながら百人一首で「滝の糸は」でないのは何故だろう。
 →まあ「滝の音は」の方がいいと思うが。

・平凡な駄作として評判が悪い。
 定家は八代抄には入れていない(八代抄になく百人一首に入れたのは55番と82番のみ)
 →公任としては「オレにはもっといい歌がある!」と定家を恨んでいるかも。

・嵯峨野-小倉山荘つながりという点からもこの歌は必要だったのだと思う。
 類想歌  赤染衛門
  大覚寺の滝を見てよみ侍りける
  あせにけるいまだに懸る滝つせの早くぞ人は見るべかりける
(後拾遺集)

・永六輔の「女ひとり」3番は55番歌をベースにしている。
  京都 嵐山大覚寺 恋に疲れた 女が一人
  塩沢がすりに 名古屋帯 耳を澄ませば 滝の音

・嵯峨野と言えば大覚寺、滝殿 光源氏もこのあたりに御堂を造らせている。
  造らせたまふ御堂は、大覚寺の南に当たりて滝殿の心ばへなど劣らずおもしろき寺なり。(松風2)
  →嵯峨大堰に呼び寄せた明石の君に逢いに行く口実にこの嵯峨御堂参詣を使っていた。

 55番歌、爺としてはコテコテの女性艶歌に囲まれて一服の清涼剤あるいはお茶漬けの感じで悪くないと思うのですがどうでしょう。

④源氏物語との関連
・源氏物語が既に書かれていたことを証明する文献として「紫式部日記」の叙述が挙げられるがそこに登場するのが左衛門督公任。

 道長邸(土御門邸)では彰子が生んだ敦成親王の誕生祝いが延々と続く
 「紫式部日記」1008年11月1日
  、、、左衛門督、「あなかしこ、このわたりに、若紫やさぶらふ」と、うかがひたまふ。源氏に似るべき人も見えたまはぬに、かの上は、まいていかでものしたまふと、聞きゐたり。

 →これをもって2008年は源氏物語千年紀となり、11月1日は「古典の日」と定められた。

・序でに枕草子に現れる公任
 第100段(講談社学術文庫版) 二月つごもり頃に(996年の叙述)
 公任が定子後宮を訪れ少し春めいた時季を詠んだ下の句を渡し上の句をつけろと持ちかけた。これに対し清少納言が上の句をつけてそれが誉められた(聞きつけた四納言の一人俊賢は「清少納言を内侍に推挙しよう」と言ったとかで清少納言は嬉しかった、、、という話)

  公任の詠みかけ(下) すこし春ある心地こそすれ
  清少納言上付け    空寒み花にまがへて散る雪に

  →定子後宮でも彰子後宮でも公任の存在感は大きく、女房たちは公任の一挙一動に目を凝らしていたのであろう。

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15 Responses to 55番 一条朝文化人ナンバーワン 公任 滝の音は

  1. 小町姐 のコメント:

    滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ
    この歌で真っ先に思い起こすのは一昨年の暮のこと、源氏物語のメンバーと大覚寺大沢の池の近く、なこその滝跡を見に行きましたね。
    歌の通りで音は絶えて久しくどころかその痕跡さえも見当たらなかった。
    風情も何もあったものではなく昔をしのぶよすがもなくただ石のみが残り懐旧の歌としか思えない。
    公任の時代でさえ百数十年も経っているというからなおさらのこと。。
    ありし日の華やかな歌会の栄華を偲んで想像力逞しくするだけである。
    歌の良し悪しはともかく「名こそ流れてなほ聞こえけれ」歌のしらべはとても良い。
    この歌の前後には寛弘女性陣の恨み嘆きの恋の歌が連なるので少し異色である。

    有名な三船の才、源氏物語のどこかにも出ていたような?
    この逸話から公任と言う人間が見えてくる。
    一条朝の四納言の中でも名高く摂関家小野宮流の嫡男として博学多才、自信過剰ともいえるほど鼻持ちならない男ではあるがその能力、才能の豊かさは認めざるを得ない。
    自信満々に大口をたたき時に舌禍事件を起こすのも無理ない。
    台頭する道長の政治力には及ばずながら文化的貢献度は大であると思う。
    公任により和歌の歴史は大きく動いた。
    およそ歌は、心深く姿清げに、心にをかしき所あるをすぐれたりといふべし
    一筋にすくよかになむ詠むべし」等々、知性よりも感性を、また調べを重んじる方向性を導いた功績は大きいと小林一彦氏は述べる。
    能ある鷹は爪を隠すと言いますがこの男は余りにも自己顕示欲が強過ぎ、軽率にも思え好きになれないタイプではあるがその能力、仕事の功績は大きく貴族の理想像であることは間違いないところであろうか。

    「王朝和歌は貫之が生んで公任が育て定家が完成させた」百々爺さん巧く言いましたね。

    紫式部日記の有名な「あなかしこ、このわたりに、若紫やさぶらふ
    まさにこの時期に源氏物語が書かれていた証拠になり文献上からもこの日記は価値がありますね。

    やはり公任は今日のタイトル通り、一条朝文化人ナンバーワン だったようですね。

    • 百々爺 のコメント:

      ・大覚寺、思い出しますねぇ。嵯峨菊はまだ少し残っていましたっけ。大沢池は枯れ蓮でした。「なこその滝跡」ちょっとねぇ。「名こそ流れて何もなかりけり」なんて感じでした。

      ・源氏物語少女29に「放島の試み」というのがありました。カンニングできないよう一人一人別の船に乗せてお題の歌を詠わせる。冷泉院への行幸で夕霧が見事に歌を詠い試験に合格した。
       
       →和歌・漢詩・管弦、専門家同士を集めて天皇の御前で競わせ聖代を演出する。これにならって道長も自らの権威を世に知らしめるべく「三舟の才」なんて催しを行ったのでしょう。

      ・「好きになれないタイプ」ですか。ごもっともです。ちょっとオタクっぽいですかね。「これこれの女性を一途に愛した、、、」なんて逸話でもあれば親しみを感じるんでしょうが。

  2. 百合局 のコメント:

    55番歌を技巧的な歌、和歌の「頭韻」の代表例としながら、「調律師の芸の冴え、滝殿をしのんで詠まれためでたい歌であり、その名滝にあやかって歌名をのこしたい心を詠んだ歌と考えれば、これはこれでよいのだろう ~ 数ある公任歌の中から定家がとりあげたのは、これが同じ嵯峨野にある山荘の障子に貼る歌であったという特殊事情による」と、安東次男は書いています。 さもあらんと頷ける見解です。
     公任は、新しく「姿」という基準をもちだし、歌に余情を求め、それが後の新古今風へとつながっていったのでしょう。

    「今昔物語集」四の33は、多くの歌人たちが苦吟する折、人一倍遅れて座に着いた公任は「ムラサキノクモトゾミユルフジノ花イカナルヤドノシルシナルラム」の名吟を得て、満座を感嘆させた話です。
    「今昔物語集」四の34は、公任が白川の邸に、父の死後に、雲隠れの月に、大井川の舟遊びに、雪の朝に、八重咲きの菊に、また紅葉につけて多くの名歌をのこした話で、「極タル和歌ノ上手ニテ御座ケルトナム語リ傳ヘタルトヤ」と締めくくられています。

    謡曲『土蜘蛛』の中の頼光の「ここに消えかしこに結ぶ水の泡の憂き世に巡る身にこそありけれ」は千載集、1202釈教の部の巻頭歌、公任の歌を引いています。

    公任はまた「和漢朗詠集」の編者でもあり、謡曲にはその「和漢朗詠集」の詩句を引いた章句が数多くあり、謡曲においても大きな影響を与えています。

    後世の様々な芸術、芸能にとって、公任の才はありがたいものです。

    • 百々爺 のコメント:

      ・安藤次男の「百首通見」、普通の解説書とは一味違った観点からの指摘があり新鮮に感じます。これも彼の天性なんでしょうね。

       →そうです、「小倉百人一首」ですから何としても小倉山と嵯峨野は百首になければならない。それで先ず26番に忠平の「小倉山峰のもみじ葉」を入れた。さて、嵯峨野はどうするか、、、「おっ、公任の滝の音があった!」定家は膝をたたいて55番歌を選んだ。「名こそ惜しけれ、、」と呟きながら。

      ・「姿」を重んじた公任。こういうのって哲学なんでしょうね。誰か教祖的な人が唱えてそれが時代の流れでだんだん高まっていく。和歌に関しては貫之が先発投手で公任が中継ぎ定家が抑え投手だった。。。なんてね。

      ・専ら和歌に傾倒してますが漢詩もやり出すと面白いんでしょうね。九代目仁王さんが「漢詩、やろうぜ」っていつも言ってたの思い出します。

  3. 源智平朝臣 のコメント:

    藤原公任は和歌・漢詩・管弦ともに優れた才能を示し、百々爺の言う通り「一条朝文化人ナンバーワン=平安王朝文化教養人のトップ」でしたが、小町姐さんが指摘するように、プライドが高く、自信過剰で鼻持ちならない人物でもあったようですね。それに加えて、官人としての自らの地位や出世には敏感で、不満を抱くことも少なくなかったようです。

    例えば、ライバルであった藤原斉信が自分より出世した時は、半年間宮中に出仕せず、
    官位を上げてもらってから公務に復帰したという話が残っています。有名な「三舟の才」逸話での、「漢詩の舟を選んでおけば良かった」と悔やんだのも、当時は、官人としての出世を考えるなら漢詩で名声を高める方が有利だったからという見方もあります。また、同じ歳で政界のナンバーワンにのし上がった道長に対する追従が度を過ぎるので、従兄弟の藤原実資は公任に批判的で、不快感を持っていたようです。

    公任がこうした嫌な性格の人物になったのは、彼の出自が道長などよりも良かったからではないかと考えられます。即ち、公任の場合は、祖父・実頼、父・頼忠ともに関白・太政大臣を務め、母は醍醐天皇の孫の厳子女王なのに対して、道長は、父の兼家は摂政・関白・太政大臣を務めたものの、母の時姫は受領階級の娘に過ぎません。藤原北家の中で、最高の貴種として生まれたというプライドを持つ一方で、それにも拘らず、政治的な権力がなく、出世が遅いことに対する大いなる不満が公任の性格を歪めたのではと、智平は考えますが、如何でしょうか。

    55番歌については、公任にしては魅力がない歌として、古来から評判が悪いようですが、智平は「タ」音と「ナ」音が続いて口調が良いこともあり、そんなに悪い歌だとは思いません。小町姐さんから紹介のあった「なこその滝跡」を訪れたので、親しみも感じます。それに加えて、公任が「滝は枯れて、その音も聞こえないけど、その名声だけは未だに人々の間に語り継がれている。自分も名歌・名詩を残して、文化教養人としての名声も後世に伝えられように頑張りたい」という自らの決意や志を詠んだ歌と解すれば、公任が真摯な努力を誓う前向きな人物でもあったという好意的な評価もできると思われます(図らずも、百合局さんから紹介のあった安東次男も同じ考えのようです)。

    今日はこれから三重に行って、津高時代の友人とゴルフや会食を楽しみながら旧交を温めてきますので、これで失礼します。

    • 百々爺 のコメント:

      ・道長の後塵を拝した後の公任の出世への未練がましい態度はいただけませんね。拗ねたりおもねいたり。世間の人も風雅の道では崇め奉りつつ人間的には首をひねっていたのかもしれません。

      ・何故公任が嫌な性格になったのかの分析、ありがとうございます。その通りだと思います。「身分出自が全てであった」当時、公任は道長よりはるかに上であるべきだった(特に母の出自は公任が数段上)。然るにいつの間にか逆転され同年生まれの道長に追従して生きていかねばならないハメに陥ってしまった。公任の性格が歪んだのも無理ないところかもしれません。

       「身分出自が全てであった」これは確かでしょうが、それを活かしきらねばならない。政権争い、武力は用いられず天皇の権威をかつぐしかない。それには外戚(娘を入内させ皇子を生ませ東宮にする)となることが必須。公任の父頼忠はそれができず兼家にしてやられた。

       そして外戚の地位を得た後それを存続させるにはどんなアクドイ手も厭わないこと。兼家が強引に花山帝を引きずり下ろし孫の一条帝を皇位につけたこと、道長がとんでもないイチャモンをつけて本来の敦康親王でなく娘彰子の皇子敦成親王を東宮にしたこと。

       →こういう権謀術数に敗れ小野宮流は九条流の下風に立つ。実資は少し斜に構えて自己主張を続け、公任は露骨に追従して文化教養の道に救いを求める。まあちょっと嫌な性格になるのも仕方ないところでしょうか。

      ・三重での懐かしの交流、いいですね。また話聞かせてください。
       

  4. 浜寺八麻呂 のコメント:

    百々爺・小町姐・百合局さんが、多方面から要領よくすべて書いていただいたので、公任のこと、55番歌のこと、よく解りました。

    百人一首は和歌文学の歴史的KEY PERSON 貫之ー公任ー定家が生み出し、育て、完成させ(百々爺説)、その真ん中にいるのが公任、そして100首中ほぼ真ん中の55番歌に載り、しかもこの歌の舞台が嵯峨野大覚寺、平安の王朝時代全盛期に生きた秀才女性歌人たちの歌に混じって割り込み堂々と載った、これだけでも凄いが、加えて藤原摂関家最盛期道長とともに生き、源氏物語を書いた紫式部に、「あなかしこ、このわたりに、若紫やさぶらふ」と、うかがひたまふ存在であった、まさに王朝文化全盛期の象徴的存在ですね。

    少し話が変わりますが、この王朝文化全盛期に係わる文化記事が2月13日に日経新聞の夕刊に載っていました。小生は見逃したのですが、妻が教えてくれました。飛ばし飛ばしの一部ですが、興味を覚えたので、抜粋します。

    平安貴族が残した記録を読み解く研究が広がりを見せている。藤原道長の日記”御堂関記”に続き、道長の子、頼通を支えた藤原実資の日記”小右記”の現代語訳が始まった。また道長の側近,藤原行成には既に”権記”があり倉本一宏氏の現代語訳もあるが、これに続き近年、宮中の儀式をまとめた儀式書の”新撰年中行事” ”日中行事”の写本が見つかり、儀式に時間をとられる平安貴族のリアルな姿が浮かび上がる。

    ”道長、実資、行成と同時代の貴族3人の日記が現代に伝わったのは、この時代の政治・文化が傑出して充実していたから”(日文研 倉本一宏教授) (公任して然りと思うーー八麻呂)
    そして、平安貴族というと優雅に暮らしていたと思われがちだが、儀式は連日深夜に及び、意外に働き者だったようだ。

    貴族は宮中の出来事を日記に残すことで、儀式の進め方などを子孫に伝えようとした。”政治・文化の根幹にも関わるが、日本では記録=文化=権力という考え方がある”(倉本氏)ことも日記が受け継がれた背景にあろという。

    以上参考まで、

    • 百合局 のコメント:

      私もこの記事興味深く読みました。切り抜いてあります。
      「小右記」(藤原実資の日記)の現代語訳(全16巻、吉川弘文館)も、昨秋刊行が始まったそうで、われわれが少し深堀したい時には、大いに役立つでしょうね。
      「御堂関白記」「権記」「小右記」と現代語訳が揃って、巷の素人研究者は、わくわくしますよねえ。

    • 百々爺 のコメント:

      ・分析していただいたようにやはり公任の55番歌はこの位置にこの内容で載せられるべき必然的理由があったということでしょうね。
       
       →「漢詩一辺倒でなく和歌をやっててよかったなあ、、名こそ残れり、、」きっと公任も満足してることでしょう

      ・日経新聞記事、紹介ありがとうございます。いい奥さま持ってよかったですね。

       「御堂関白記」「権記」「小右記」、全部漢文ですからね。普通の人では手出しができない。学者先生の翻訳が必要なんでしょうね。倉本先生、講演会などひっぱりだこで嬉しい悲鳴なんでしょうね。

       特に道長も煙たがってたという実資の「小右記」の現代語訳は面白そうですね。百合局さんによると全16巻とのこと、これは私にはチト長過ぎます。またその内倉本さんのダイジェスト版でも出るでしょう。

      ・貴族の一日、結構忙しかったのでしょうね。朝は明るくなったと同時に内裏での実務が始まったようですし。源氏物語も内裏での仕事そのものは出て来ませんが忙しそうな様子はけっこう伺えますもんね。
       

  5. 文屋多寡秀 のコメント:

    先日20日の土曜日は、朝からイベント「安井牧子のちょっとお茶でも一杯いかがですか!!」の準備等でボランティアスタッフ一同、会場準備から、備品の用意、お土産の準備まで、てんてこ舞いの一日でした。講師の手当て、会場予約は3か月前から始動しますから、当日のお天気までは読めません。あにはからんやと言おうか、案の定と言おうか、天気予報は最悪の雨模様。しかも御昼過ぎから激しくとのこと。しかし「案ずるより産むがやすし」。思ったより小雨で60名の整理券はほぼ満員。売れっ子のタレント講師さんにも喜ばれたことでした。(詳細はFBご参照)

    さて55番歌は、道長の子分筋で、再従兄弟(はとこ)に当たる大納言公任。道長配下の一人として羽ぶりよく活躍した。「三船の才」という言葉を生んだほどの脳味噌の持ち主。その脳味噌が詠んだ歌。

     滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ

    「名こそ流れて」なあ~んていうから、浮き名でも流してるのかなあと思いきや、さにあらず。拾遺集の添え書きでは「大覚寺に人が大勢集まったときに古い滝を見て詠んだ」とある。

    立派に造られた池には滝がかかっていたが、今はもう枯れて水音も聞こえない。昔の噂だけが残っている。そう詠みながら、「人間も同じことよ。いのちには限りがあるが、英名は何時までも残る。誉れ高く生きたいものよ」と暗示している。恋の歌とするのは適切でないようですね。

    かように小倉百人一首では物思いにふけることはあっても考える方は少ないようです。「思う」と「考える」についていえば、もっぱら「思う」方ばかり。いにしえの貴人たちだって充分に考えたろうけれど、雅の常として「考える」などといういかめしい表現を好まなかったからでしょう。和歌には確かに物思いにふけっているのがよいようで。(原典:恋する「小倉百人一首」)

    • 百々爺 のコメント:

      ・お忙しい中コメントありがとうございます。山あり、野(百姓仕事)あり、第九の合唱あり、それに地域イベントのボランタリですか。色んな活動やっておられますね。感心します。俳句や百人一首鑑賞もどうぞ息抜きの一つに続けてください。

      ・「名こそ流れて」
       公任が浮き名を流したなんて話はきかないのですが、本当の所はどうだったのでしょうね。wiki見ても「正室:昭平親王の娘」とあるだけで他にいない。プライドが高く中の品の女性たちに言い寄る気分ではなく逆に高位の女性たちからは敬遠されてたのかもしれません。その点ちょっと味気ない(色気ない)人生だったのかもしれません。

      ・「思う」と「考える」ですか。なるほど。首をひねって「考える」のは和歌にはなじまないんでしょうね。「思う」は文科系、「考える」は理科系的な感じがします。源氏物語には「勘ふ」という漢字で物事を「調べる、判断する」の意味と「罪を問い質す」意味で出てきます。固い言葉と感じました。

  6. 百合局 のコメント:

    味気ない(色気ない)とばかり思われたのでは、公任先生が少しお気の毒なので、いろいろ読んでいたら、ほんのちょっと見つけましたよ。
    「和泉式部集」に、帥の宮と白河院司左衛門督公任と和泉式部との贈答歌七首。(長保6年2月の花盛りの一日、帥宮は和泉式部を伴って洛北白河院に二人だけの花見に赴いた。院には院司公任が参じていた。)「公任集」にもあるそうです。
    その中の人間関係は「花ぬす人」「山里の主」「花」という比喩によって示されており、読み方によってはどうとでもとれるような・・・
    大岡信「公子と浮かれ女」の一文が『うたげと孤心』の中に収められているそうで、見つけたら読んでみたいと思っています。
    公任先生もほんのり桜色なんてことがあったとしたら、楽しいですよね。

    • 百々爺 のコメント:

      おお、さすが気配りの局どの、公任先生も顔を赤らめてお喜びのことでしょう。

      私もその話「百人一首の作者達」(神田龍一)の和泉式部と藤原公任の交流録の中でみました。「えっ、うかれ女と三舟の秀才、そんなのありかよ」と思いましたが話としては面白いかも。それで定家は55番公任の後56番に和泉式部を配したとか、、。また何かみつけたら教えてください。

       →そう言えばジョンFケネディとマリリンモンローの例もあるし、公任と和泉式部だって満更ない訳ではないかもしれません。

  7. 枇杷の実 のコメント:

    藤原公任、名こそ聞こえ知るがどういう人物なのか。
    調べると、藤原氏のなかでも特に家格の高い名門の小野宮流の出自。清涼殿、すなわち天皇の御前で元服するやいきなり正五位下に叙される。だがそれ以降は政治家としては不遇で、九条流(藤原道長)に移った政界の中で泳ぐことになる。政治権力からは離れるが名門の血統と漢文学や和歌についての深い教養や鋭い批判眼を武器に芸術文化の主導者、中世の雅文学の中興の祖として、宮廷で自らの立場を確立していく。
    コメントに有る様に、公任を知る三つのエピソードが伝わる。
    「大鏡」大堰川の舟遊び、「枕草子」二月つもごり頃に、そして「紫式部日記」あなかしここの辺りに若紫や・・。道長、清少納言、紫式部といった平安文化を代表する三人がそれぞれ公任を特別な存在と見ていたわけだ。
    漢詩や和歌を詠むが、道真や貫之のような職業的な文人や歌人でなく、むしろ本領はこれらの文人や歌人の秀作を選び出し、それを用いて多くの詩歌集を創り上げていく、いわばプロデューサーとしての仕事にあった。
    中でも漢詩文佳句と和歌とを統合した詩歌集「和漢朗詠集」は当時の宮廷貴族の美意識を示すもので、朗詠によって広い階層に浸透し、中世の軍記物語や謡曲などの詞章に採られて仮名文学にも大きな影響を及ぼす。。(三木雅博、和漢朗詠集・解説)
    これほどの作品が、小西甚一の「日本文学史」に記述がないのは不思議だが。

     滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ
    この歌、縁語、掛詞、対義語ありで技巧の歌だが、意味は深読みもなく簡潔だ。なんといってもリズムが良い。 「た」 と 「な」 の音の繰り返しで、リズムよくどこか現代にも通じるラップ調だとか。たたななな・・、確かに、一度覚えれば忘れない、間違うこともない。
    「た」 きのおとは
    「た」 えてひさしく
    「な」 りぬれど
    「な」 こそ
    「な」 がれて
    「な」 おきこえけれ

    • 百々爺 のコメント:

      55番歌、総括的に見事にまとめていただきました。ありがとうございます。

      ・円融帝自らの手で元服の儀式をしてもらい14才にして正五位下に叙せられる。身分高き者の子はそれだけで官位を与えられるという制度(蔭位制)はあった訳ですが公任の場合はちょっと度が過ぎていたのでしょうかね。
       
       →源氏物語。皇子であった源氏の場合子息の夕霧は文句なしに四位くらいはもらえたのであろうが、源氏は敢えて夕霧を文章生として大学にたたきこみ官位も六位からスタートさせる。源氏の教育論が語られる所でした。
       (公任と夕霧、両極端でしょうね。この蔭位制、極めて日本的だと思います)

      ・「和漢朗詠集」、朗詠がいいんでしょうね。斎藤孝先生じゃないですが「声に出して読む(歌う)」のがいいんだと思います。804首の和漢朗詠集、爺のカラオケ千曲リストに伍する貴重なものだったのでしょう。
       
       →「日本文学史」に記述がありませんでしたか。小西先生は和歌においては公任の功績を評価してますが和漢朗詠集は漢詩(唐の漢詩も含め)が多数を占めているので「日本の文学史」の観点からは注目しなかったのかもしれません。分かりませんが。

      ・「ラップ調」ですか、いいですね。人間生活において言葉がポンポンとリズミカルに聞こえてくるとウキウキと楽しくなりますもんね。歌舞伎・浄瑠璃の語りから落語やしゃべくり漫才まで抑揚・テンポ・リズムが生命線だと思います。55番歌、後半の「な」の4連発は正にラップの感じがします。

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