56番 天性の情熱歌人 和泉式部 いまひとたびの逢ふこともがな

53番~62番に9人並ぶ女流歌人を野球のラインアップと考えると、要の3番バッターの登場です。ポジションは華麗に動き回るショートストップ。「小野小町と並んで、平安時代の女流歌人の双璧」(白洲正子)とされる和泉式部。球場の盛り上がりは最高潮に達してることでしょう。

56.あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな

訳詩:    私は死ぬかもしれません こんどこそ
       死んであの世に ただ魂魄となって生き
       この世のことを思い出すばかり---
       ああそのとき きっと思い出すために
       いまひとたび あなたにお逢いしたいのです

作者:和泉式部 978ころ- 父は大江雅致 中宮彰子女房の一人
出典:後拾遺集 恋三763
詞書:「心地例ならず侍りけるころ、人のもとにつかはしける」

①和泉式部(和泉は最初の夫橘道貞の和泉守から、式部は父大江雅致の式部省勤務から)
・父大江雅致(まさむね)越前守 典型的な受領階級 官位も高くない
 大江氏(古代豪族、土師氏から、学者家系)については23番歌大江千里を参照
 →越前守と言えば紫式部の父為時も越前守だった。紫式部も同道している。面白い。 

・母越中守平保衡の娘(朱雀帝の娘昌子内親王の近くに仕えた女房だった)
 →和泉式部も幼少時母と宮中暮らしだったか。御許丸(おもとまる)と呼ばれた女童だったとも。

・和泉式部の生涯
 978 @1  誕生
 995 @18 橘道貞(和泉守)と結婚 和泉へ 997小式部内侍誕生
1001 @24 為尊親王25才(冷泉帝第三皇子=母は兼家の娘超子)と交際始まる
1002 @25 為尊親王死去
1003 @26 敦道親王23才(冷泉帝第四皇子=母は兼家の娘超子)
      4月交渉始まる 12月敦道親王邸へ召人として入る この間が「和泉式部日記」
1007 @30 敦道親王27才死去 宮邸を去る(1006 敦道親王の子を生む=岩蔵宮→永覚)
1009 @32 中宮彰子に出仕
1016 @39 この頃藤原保昌と結婚(保昌 平安武者の原点 四天王の一人) 
1020 @43 保昌丹後守に 同道して丹後へ
1025 @48 小式部内侍死去29才
1027 @50 詠歌の記録あり これ以降消息不明 没年未詳

 橘道貞 - 弾正宮為尊親王 - 帥宮敦道親王 - 藤原保昌

 →男性遍歴、二子の出産、娘の若死に、宮中出仕、地方暮らし。これぞ波乱万丈。
 →感想・評定はコメント欄にお願いしましょう。

 (一つだけ、為尊親王25才没、敦道親王27才没。死因は書かれてないが何でだろう。疫病にでもかかったとしか思えないのだが)

②歌人としての和泉式部
・中古三十六歌仙 拾遺集以下勅撰集に246首!! 後拾遺集は67首でトップ

・奔放華麗な生涯を映した情熱的、哀切な歌。強引破格な詠みぶり 独自の世界 天才歌人
 →各解説書には過激な評語が並ぶ。何れも肯定的な賛辞である。

・既成の歌語やら形式にこだわらない天性のほとばしりを少し並べてみましょう。
 有名歌 
 黒髪の乱れもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞこひしき(後拾遺集)
 白露も夢もこの世もまぼろしもたとへていへば久しかりけり
 暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月(拾遺集)
 物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂たまかとぞみる(後拾遺集)
 津の国のこやとも人を言ふべきにひまこそなけれ葦の八重葺き(後拾遺集)

 和泉式部日記冒頭
 式部 薫る香によそふるよりはほととぎす聞かばや同じ声やしたると(千載集)
 帥宮 おなじ枝になきつつをりし郭公声はかはらぬものとしらずや

 敦道親王を悼んで詠んだ歌122首(帥宮挽歌群)より
 なき人の来る夜と聞けど君もなしわが住む里や魂なきの里
 捨てはてむと思ふさへこそ悲しけれ君に馴れにし我が身と思へば
 思ひきやありて忘れぬおのが身を君が形見になさむものとは
 なけやなけ我がもろ声に呼子鳥よばばこたへて帰り来ばかり

 娘小式部内侍を悼んで
 留めおきて誰をあはれと思ひけん子はまさるらん子はまさりけり
 この身こそ子のかはりには恋しけれ親恋しくは親を見てまし

  (残された孫に呼びかけた歌、涙が出てくる)
 もろともに苔の下には朽ちずして埋もれぬ名を見るぞ悲しき(金葉集)
  (娘が亡くなった翌年彰子が贈ってくれた衣服へのお礼の歌)

 道長に「うかれ女」と戯れかけられて 
 越えもせむ越さずもあらむ逢坂の関守ならむ人な咎めそ

 →随分と歌を並べてしまいました。題詠やら歌合せやら形式的なものでなく何れも自分が感じたままに自分の言葉で歌を紡ぎ出している。正に生身をぶつけた歌。稀代の天才は間違いないでしょう。

・紫式部日記の和泉式部評
 和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されどけしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見えはべるめり。歌はいとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわり、まことの歌詠みざまにこそはべらざらめ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠み添へはべり。それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらんは、いでやさまでは心は得じ、口にいと歌の詠まるるなめりとぞ、見えたるずぢにはべるかし。恥づかしげの歌詠みやとはおぼえはべらず。

 →理知の人紫式部は「口惜しいけど男のことと歌のことは勝てないわ」と呟いたのでは。

・「和泉式部日記」は自作か藤原俊成作か其の他作か?
 和泉式部日記ざっと読んでみましたが正直怪しいですね。
 「日本文学史」小西甚一は「藤原俊成の作であろうといわれる『和泉式部日記』は頽廃的な愛欲生活を描きながらも、文章にはそれに適わしい情熱が乏しく、ほとんど文藝精神の閃きが認められない」とバッサリ切り捨てている。
 →ヤヤコシ問題です。有識者のコメントをお待ちしたいと思います。

③56番歌 あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな
・私は死んでしまう、死後の思い出のためにもう一度逢いたい。。。
 →歌の時期は? 相手は?
 →男性依存症気味の作者の観念的妄想(実際に病気ではなかった)による歌かもしれない。

・こんな歌を詠みかけられたら相手の男は何をおいても駆けつけるのではなかろうか。
 →「あら、来てくれたの、ありがとう」女はしてやったりとウインクして迎えたりして。

・独創的、独走気味の和泉式部の歌にしては比較的穏やかで理解しやすい歌との解説もあった。
 →百人一首中でも人気ランキングは高いのでしょうね。

・下句(いまひとたびの)が大山札
 26番歌  小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ

④源氏物語との関連
・紫式部と和泉式部は同時期に彰子中宮のサロンに勤めている(紫式部の方が3-4年先輩)。
 →「散華」では幼い頃からの馴染になっているがそこは作ったお話し。

あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな
 重篤の床にいた柏木、女三の宮に何とか最後の想いを伝えたい。最後の力を振り絞って柏木が贈った歌は、
  行く方なき空の煙となりぬとも思ふあたりを立ちは離れじ

  →でも柏木が一番贈りたかった歌こそ正にこの56番歌ではなかったろうか。
   あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな

カテゴリー: 51~60番 パーマリンク

24 Responses to 56番 天性の情熱歌人 和泉式部 いまひとたびの逢ふこともがな

  1. 小町姐 のコメント:

    「三舟の才」の後に来るのが「うかれ女」の和泉式部。
    好きになれないタイプの公任に対してうかれ女、乱倫と言われようがなぜか小町姐、まんざら嫌いになれないのです。
    好きか嫌いか聞かれればやはり好きと答えておきましょう。
    情熱、かつ奔放に生き抜いた和泉式部がちょっと羨ましいのです。
    現代版で言えば誰に当てはまるかいろいろ想像してみたが特筆すべきは思い浮かばない。
    今の世ならいざ知らずこの時代には珍しく先進的な女性であると思う。
    いや、むしろこの時代だからこそ自由奔放な生き方が許されたのかもしれない
    今ならばもっぱら週刊誌沙汰で、あることない事、叩かれ噂と批判の嵐であろう。

    「散華」杉本苑子の小説(紫式部の生涯)の中で和泉式部は紫式部の少女時代からの友人(御許丸)として頻繁に登場する。あくまでも小説上のことである。
    紫式部からは「されど和泉はけしからぬかたこそあれ」と手厳しいがまた「そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見えはべるめり」とその文才を褒めているし歌才では彼女に叶わないと認めていたようである。。
    いささか思慮に欠けるものの己に正直な生きざまは積極性を遥かに超えて強靭な生命力にあふれている。
    彼女の生き方は一概に否定できるものでもなくそのひたむきさに嫌悪感はない。
    もしこのような友人がいれば翻弄されるかもしれないが退屈しないし毎日が新鮮でハラハラドキドキ面白いとさえ思う。
    紫式部は天才、その比類なき才能には憧憬も尊敬も崇拝もするが友人にはなれない。
    正直に言えば内向的で深刻型の道綱母や紫式部よりも開放的な明るさは私好みかも知れずどちらかと言えば和泉式部や清少納言のほうに親しみを感じるのである。
    まだ紫式部や清少納言が登場していないので今後気持ちが変るかもしれない。
    多情多才、悲恋をも糧にしてしまう逞しさ、恋多き魔性の女、和泉式部も晩年は不幸に終わったとか。
    それでも思うがままに生きた和泉式部に後悔はなかったと私は思いたいしあっ晴れとも褒め言葉を贈りたい心境である。
    娘、小式部内侍に先立たれたのは母として最も不幸、痛恨の極みだったろう。
    百々爺さんが挙げてくれた三首の和歌は悲痛、恋多き和泉も母なればこそです。

    ある時、女物の扇を持っていた男に道長が誰の扇か尋ねた。
    そこの女です・・・和泉式部が持ち主と知りそれなら名前を書いてあげようと彼女の目の前で「うかれ女の扇」と書きつける。
    越えもせむ越さずもあらん逢坂の関守ならぬ人なとがめそ」即興に返したという。
    親王兄弟と短期間に熱愛、死別を繰り返した和泉式部。
    歌人としての才能に惚れ込み失意の彼女に生きる場を用意した道長。
    公任が「一条朝文化人ナンバーワン」とすれば道長は「一条朝文化の総合プロデューサー」かつパトロンであったと言えよう。
    道長いなくば日本の古典はひどく痩せたものになっていただだろうと小林一彦氏は言う。
    百々爺さんおっしゃる通り
       あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな
    源氏物語「柏木」にぴったりの歌ですね。
    ほとばしる詩心を自由自在に操る才能の豊かさ、凄みさえ感じる式部に小町姐は圧倒されている。
    少々長過ぎましたのでこの辺で。

    • 百々爺 のコメント:

      とにかくただ者ではない和泉式部、みなさんからどんなコメント・評価が寄せられるのか興味津津でしたが、果して熱っぽいコメントが殺到。嬉しい悲鳴です。やはり情熱には情熱で応えなくっちゃいけませんからね。

      ・その先頭を切って、いや、すごい誉め言葉を寄せていただきました。小町姐さんの熱い想いが伝わってきます。和泉式部も喜んでいることでしょう。自由奔放、己に正直、明るく開放的、、、現代女性のあらまほしき生き方に通じますね。

       →今「あさが来る」で明治時代を舞台に新しい女性の生き方が論じられてますが、千年前の王朝社会にも時代の殻を破ろうとする先駆者はいた。蜻蛉の君(道綱母)が問題を提起し、和泉式部が身をもって実践したということでしょうか。

      ・敦道親王と死に別れた後、彰子中宮の後宮に入った経緯については色々言われてますが、おっしゃる通り道長の意図が働いたことは間違いないでしょう。道長にすれば紫式部に次いで和泉式部を招来し、これぞ両手に花と悦に入ってたのでしょうか。「堅物」と「うかれ女」、「物語作りの名人」と「情熱の天才歌人」。寛弘年間(1007-1011)はすごい時代でありました。
       
       →これと思った者は金に糸目をつけずよそのチームのエースまで引っこ抜く。とあるチームも道長の貪欲さを見倣ってるのでしょうか。

  2. 浜寺八麻呂 のコメント:

    小野小町と双璧をなす平安王朝の女流歌人、恋の無常を知りつつ恋に生きた女性、専門的なことはわからないが、爺が挙げてくれた歌のように、情熱的な歌が多く、今回いろいろ調べてみて、好きな歌人となった。

    NHK放送大学”和歌文学の世界”で、渡部泰明 東大院教授が”和泉式部の抒情”として講義された内容から、恋の歌、無常の歌とそれらの話をいくつか拾ってみたい。

    1)室町時代に作られた短編物語である”御伽草子”に、”和泉式部”と題された話がある。和泉式部と言う遊女が、十四歳の時、橘保昌との間に子を設け、この赤子を五条の橋の下に捨てる。成長して比叡山で修業して道命阿闍梨となったこの子は、ある時垣間見た三十歳ほどの女性を、実の母とは知らず契った。形見の守り刀と産着からわが子と悟った和泉式部は、発心して書写山に上り、性空上人の弟子となった、という話。----------
    物語の主眼は狩奇趣味にはない。むしろ罪深い女人が救済される安らぎをもたらす。
    ーーーーーーーーーー
    こうした話が生まれる要因の一端は、やはり彼女の読んだ和歌にあると思われる。
    和泉式部は好色で名高く、数多くの恋の歌を詠んだ。しかしまた、死や信仰にまつわる歌も多い。

    この御伽草子の末尾、紫式部は次の歌を書写山円教寺の柱に書きつける

    暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月

    罪深い和泉式部もこの歌によって、極楽往生を遂げることができたとも、のちに語られている。

    2)”ひとたび”という願い、一度だけでも逢いたい、といういい方はそれほど特異ではない。

    いかなる人にてか、いかでただひとたび対面せんといひけるに

    世々を経てわれやは物を思ふべきただひとたびの逢うことにより(和泉式部集)

    出でて聞こえさす

    山を出でて暗き道にをたづねこし今ひとたびの逢うことにより(同上)

    3)思ひでという言い方

    ただにかたらう男、なほこの世の思ひでにすばかりとなん思うと、言いたるに

    かたらふに甲斐もなければおほかたは忘れなむとぞいふとこそみれ(和泉式部続集)

    心地いと悪しうおぼゆるころ

    我にたれあわれをかけん思ひでのなからんのちぞかなしかりける(同上)

    4)無常

    住み慣れし人影もせぬわが宿に有明の月の幾夜ともなく(和泉式部集 新古今集)

    外山吹く嵐の風の音聞けばまだきに冬の奥ぞ知らるる(和泉式部集 千載集)

    世間はかなき事を聞きて

    しのぶべき人もなき身はある時にあはれあはれと言いやおかまし(和泉式部集 後拾遺集)

    彼女には、爺が小式部を亡くした時の歌を載せてくれているが、死や無常を詠った歌も多い。単に恋の歌に終わらないところが、人間としての深みを覚えさせてくれ、好きな歌人となった。

    • 百々爺 のコメント:

      和泉式部のこと八麻呂さんも好きな歌人になりましたか。和泉国の国府は現在の和泉市にあったようですが浜寺にも近いですもんね(関係ないか)。

      NHK放送大学での講義内容紹介いただきありがとうございます(トンデモナイ番組見てますね)。

      ・”御伽草子”にある”和泉式部”の話、ありがとうございます。有名な「暗きより」の歌から発せられたお話でしょうが、強烈ですね。橘保昌=(橘道貞+藤原保昌)÷2ですか。和泉式部の夫遍歴を如実に表してますね。人間、自由に振舞えば必ず何らかの罪を得る、その罪はどうすれば救済されるのか、、、宗教に通じる問題ですね。

       →姫路の書写山は先年訪れました。そんな話があるとは知りませんでした(ラストサムライの撮影現場だったなんてことだけ覚えています)

      ・無常観を詠った歌も多いのですね。正に命を懸けて愛した二人の親王に相次いで死なれ、続いて最愛の娘も若くして亡くなってしまう。和泉式部は罪深い自分のせいでかけがえのない人たちを死なせてしまったと自責の念に駆られたこと少なからずであったのでしょうか。

  3. 在六少将 のコメント:

    この歌は、男の歌として読んでも何の違和感もありませんね。
    何より発句がいい。そして、誰宛とも分からぬ詠み方は、特定の人をさしてというより、かえって奥深さを与える普遍性に富んだ歌として大変好感がもてました。
    こういった深い詠みというのは、浜寺八麻呂さんが仰られているように、ただの奔放な生き方からは生まれては来ず、死生観にも裏打ちされているのだと思えばさらにとてつもない歌のようにも思えてくるから不思議です。この歌こそ柏木に相応しいとの百々爺の見立てもむべなるかな。
    彼女が三番バッターだと言うなら、いったい誰が四番バッターなのでしょうか。

    • 百々爺 のコメント:

      さすが俳人在六少将どの、解読に重みがありますね。
      私もこの歌、何度も繰り返し読むごとに「いいなあ」→「いいぜ、これ」→「こりゃあすごいんじゃない」と好きになってきています。

      相手は特定せず普遍的に考えるのがいいと思いますが、もし特定させるとしたら柏木→女三の宮をおいて他にないんじゃないでしょうか。

  4. 文屋多寡秀 のコメント:

    そうですか百々爺、野球のラインアップで迫りましたですか。しかも要の3番バッター。ポジションは華麗に動き回るショートストップとね。「小野小町と並んで、平安時代の女流歌人の双璧」(白洲正子)とされる和泉式部。言いえて妙ですな。

    小町姐は現代になぞらえると、思しき人見当たらずですか。じゃあ、もう少し遡って女性が時代に挑戦した時期の、「柳原白蓮、与謝野晶子」でどうでしょうか。小野小町と和泉式部組みとの勝負になりますでしょうか、どうでしょう。

    56番は、才女、和泉式部の歌

     あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな

    後拾遺集には病気の時の歌とある。未練を残したままの男がいる。人の命の短さを想い、こういう心境になることはある。月並みではあるがその月並みな心境をどう美しく切実に訴えるか。この歌はその点、実に切々と迫ってきます。名歌と評する声が高いのもうなずけます。情熱の歌人、和泉式部の面目躍如といったところか。

    この式部の娘が小式部内侍は良いとして、如何にも早逝。母親に先立っていたとは知りませんでした。詳しくは60番歌まで待ちましょう。紫式部、大弐三位と共に、母娘で百人の中に名をとどめるとはさすがといおうか、時代といいましょうか、いやはや大変なものです。

    さて何時までも寒い2月晦日。阪神他、8球団がキャンプを張る沖縄なら多少は暖かかろうと、月初行ってまいります。但しキャンプレポートはありません。念のため。

    • 百々爺 のコメント:

      ・「柳原白蓮・与謝野晶子」対「小野小町・和泉式部」ですか、なるほど、これは面白い。「花子とアン」の時の白蓮さん駆け落ちの新聞記事、凄かったですもんね。世をあげてのスキャンダルという意味では和泉式部といい勝負かもしれません。また与謝野晶子の情熱歌人ぶりも王朝の二人に肉薄するんじゃないでしょうか。

       晶子自身も多分に先人歌人たちを意識していたのだと思います。
        寛弘の女房達に値すとしばしば聞けばそれもうとまし(晶子)

      ・56番歌、何よりも素直な気持ちをストレートに表しているのがいい所だと思います。題詠で頭の中でひねくり回した歌とは違い心にズンと来るものがありますよね。

      ・沖縄ですか、いいですね。どうぞ楽しんできてください。ところで、阪神まだ沖縄にいるんですか、ジャイアンツはもうドームでオープン戦やってまっせ(待てよ、ドラゴンズもまだ沖縄だったかも)。

       →球春近しでワクワクしています。例年通りプロ野球とJリーグの選手名鑑を購入し開幕に備えているところです。

  5. 百合局 のコメント:

    和泉式部は直情型の正直な優しい女性だったと思います。
    「あはれ」「うし」「はかなし」の三要素のある華麗な恋愛遍歴の歌、死や無常の歌は、私には痛々しく感じられますし、みなさまがしっかり書かれているので、和泉式部の日常的な実生活面からの雑詠について書いてみます。

     女流歌人との交流について詞書から
    赤染がもとより
     ゆく人もとまるもいかに思ふらん別れて後のまたの別れを
    道貞去りて後、帥の宮に参りぬと聞きて 赤染衛門
     うつろはでしばし信田の森を見よかへりもぞする葛の裏風
    返し
     秋風はすごく吹くとも葛の葉のうらみ顔にはみえじとぞ思ふ

     わが宿を人に見せばや春は梅夏は常夏秋は秋萩
    これを見て、一品の宮の相模
     春の梅夏のなでしこ秋の萩菊の残りの冬ぞ知らるる

    祭主輔親が女の、花に雉をつけていひたる
     春の野の風は吹けども (以下欠文)和泉式部集上 501
    かへし
     鶯のねぐらの花とみるものをとりたがへたる心地こそすれ  502

    同じ日、清少納言
     駒すらにすさめぬ程に老いぬれば何のあやめも知られやはする 504
    かへし
     すさめぬにねたさもねたしあやめ草ひきかへしても駒返りなん 505
    五月五日、菖蒲の根を、清少納言にやるとて
     これぞこの人の引きけるあやめ草むべこそ閨のつまとなりけれ 538
    かへし
     閨ごとのつまに引かるる程よりはほそくみじかきあやめ草かな 539
    また、かへし
     さはしもぞ君は見るらんあやめ草ね見けん人にひきくらべつつ 540
    おなじき人のもとより、海苔おこせたりければ
     まれにても君が口より伝へずは説きける法(のり)にいつかあふべき 541

    これを読むと和泉式部と相模はかなり気が合っていたようです。
    清少納言と和泉式部の間にはすっかりうちとけた軽口や冗談がそのまま挨拶となるような気の合うところがあったようですね。
    紫式部との間ではこうはいかなかったでしょうね。

    「源氏物語」関連から。
     「和泉式部日記」の始めの方で「いざたまへ、こよひばかり。人もみぬ所あり。心のどかにものなどもきこえん とて、車をさしよせて、ただのせにのせ給へば、我にもあらでのりぬ。 ~ やをら人もなきらうにさしよせて、おりさせ給ぬ。~~」とあり、この部分を参考にして、「夕顔」のあの箇所がつくられたのかもしれません。

    他に石蔵の宮に粽を奉る506とか、「石蔵より野老(ところ=とろろいも)おこせたる手箱に、草餅入れてたてまつる」526とか「僧都の母、糸乞ひたる、やるとて」535とか「二月ばかり、味噌を人がりやるとて」1086とか「又、尼の許に、たらといふ物、蕨などやるとて」1087とか「十二月ばかり、雪のいみじう降りたる日、野老のあるを、親のがりやるとて」1257とか「ほかなる子の、撫子の種すこし給へといひたる、やるとて」1274のところを読むと家事、俗事にも気を配っていたことがよくわかります。天性の歌人、大いなる浮かれ女だけではないところもいいですよね。

    • 百々爺 のコメント:

      「和泉式部は直情型の正直な優しい女性だった」さすが、百合局どの、核心をついていると思います。私が百合局さんを評するとしたら同じ表現になるんじゃないでしょうか。

      ・恋歌意外にも随分色々な分野で多くの歌を詠んでいるのですね。そりゃあ恋に生きた女と言っても年がら年中恋人と同衾してた訳ではあるまいし、日常生活があったわけでそれを詠うのは考えれば当たり前ですね。

       →和泉式部の勅撰集入撰は246首、貫之の435首には敵わないもののベストテンには入るのでしょうね(また後で調べてみます)。

      ・相模、清少納言と親しく交流ですか。私の推測では相模は和泉式部の20才下、清少納言は和泉式部の12才上です。上下幅広い交流があったのでしょう。

      ・清少納言とのやりとり興味深く読ませていただきました。「駒もすさめぬ」男に顧みられなくなった女の嘆きの常套句ということで源氏が訪れを
      受けても閨を共にしない花散里がさりげなく詠っていました。

       その駒もすさめぬ草と名にたてる汀のあやめ今日やひきつる(花散里@蛍)

      ・なるほど、和泉式部日記の誘い車に乗るところを参考にして夕顔の巻ですか。そうかもしれませんね。逆に夕顔の巻を参考にして俊成が作ったのかもしれませんが。

  6. 百合局 のコメント:

    和泉式部の続きです。後の世の人々にも愛され、謡曲にも幾つもとりあげられています。
    謡曲『誓願寺』では、「わらはが住処はあの石塔にて候」「不思議やな あの石塔は和泉式部の御墓とこそ聞きしに、おん住処とは不審なり」「掬ぶいづみのみづからが名を流さんも恥づかしや よしそれとても上人よ わが偽りはなき跡の いづみ式部はわれぞとて」「われも仮なる夢の世に いづみ式部と言われし身の 仏果を得るや極楽の歌舞の菩薩となりたるなり」とあります。

    謡曲『俊寛』にある「後の世を待たで鬼界が島守となる身の果ての暗きより暗き道にぞいりにける」は拾遺の和泉式部の歌「暗きより暗き道にぞ入りぬべき遙かに照らせ山の端の月」を使っています。

    謡曲『玉葛』にある「焦がるるや身より出づる魂と見るまで」は、後拾遺の和泉式部の歌「物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞみる」によっています。

    謡曲『鵺』にある「暗きより暗き道にぞ入りにける遙かにに照らせ山の端の~ 月と共に」は和泉式部の歌「暗きより暗き道にぞ入りぬべき遙かに照らせ山の端の月」によっています。

    謡曲『羅生門』にある「けふも暮れぬと告げ渡る声も淋しき入相の鐘つくづくと」は新古今の和泉式部の歌「暮れぬめり幾日をかくて過ぎぬらん入相の鐘のつくづくとして」によっています。

    謡曲『花月』にある「身は さらさらさら さあら さらさら さらり 恋こそ寝られぬ」は詞花集の和泉式部の歌「竹の葉に霜降る夜はさらさらにひとりは寝べき心地こそせね」によっています。

    謡曲『鉄輪』にある「悪しかれと思わぬ山の峰にだに思はぬ山の峰にだに人の嘆きは生ふなるに」は詞花集の和泉式部の歌「悪しかれと思はぬ山の峰にだに生ふなるものを人の嘆きは」によっています。

    謡曲『鉄輪』にある「われは貴船の川瀬の蛍火」は後拾遺の和泉式部の「男に忘れられて侍りける頃、貴船に参りて御手洗川に蛍の飛び侍りけるを見て詠める  物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る」からとっています。

    謡曲『東北』も和泉式部の植えた梅の木がらみのお話です。

    和泉式部は説話伝説が多い人です。書ききれないので、書名だけ記します。
    『栄花物語』『大鏡』『宇治拾遺物語』『古今著聞集』『古本説話集』『沙石集』などに出ています。
    小野小町と人気を二分するような和泉式部です。長く人の心に残る女性像だったことがうかがえます。

    • 百々爺 のコメント:

      和泉式部、広いジャンルでの有名な歌が多数あるのだから謡曲に幅広く引用されるのは納得ですが、それにしても大したものですね。謡曲を聞く方も「おっ、和泉式部だ」と各人それぞれに持つ和泉式部のイメージを膨らませたのでしょうね。

      ・和泉式部伝説、全国各地に広まっている。墓所も色々ある由。伝説説話を伝えて歩く人がいたらしいですね。「あのなあ、京に和泉式部というものすご~い、美人の歌詠みがいてなあ、親王さまとも恋を重ねたんだが、その後落ちぶれてどうもこの辺りに流れて来たんだとさ、、、」
       →正に小野小町伝説といっしょ、平安の双璧とされるのも宜なるかなです。

      物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る

       和泉式部の代表的な歌とされますが蛍を情熱に見立てて詠んだいい歌だと思います。

       思い出すのは、
       -源氏物語 蛍の巻 蛍火に浮かぶ玉鬘のシルエット
        声はせで身をのみこがす蛍こそいふよりまさる思ひなるらめ(玉鬘)

       -先年みんなで行った中津川市加子母の蛍狩り

       -森進一の「北の蛍」(阿久悠作詩)
        もしも私が死んだなら 胸の乳房をつき破り 赤い蛍が翔ぶでしょう
        ホーホー蛍翔んでいけ 恋しい男の胸へ行け

      (昨晩のなでしこ、心配してた通りになってしまいました。あの戦い方では何度やっても勝てないでしょ。もっと情熱的に体当たりしていかねば)

      • 百合局 のコメント:

        千葉の館山市にある「那古寺」(那古観音)には、和泉式部、小式部の供養塔があり、和泉式部供養塚の縁起もあるようです。那古山自然林があり、式部夢山道と名付けられているようです。那古山頂から鏡ケ浦を一望できるとのことです。
        もちろん、仁王門、多宝塔、那古寺観音堂もしっかりお参りしましょうね。

        内房線の那古船形駅下車、徒歩20分。
        少し不便な場所ですが、機会をつくって、ハイキングがてら出かけてみませんか? 愛すべき和泉式部を偲びに。

        • 百々爺 のコメント:

          へぇ~っ、安房館山にも和泉式部ですか、びっくりぽんです。ネットで観光案内見てみました。面白そうですね。でも同じ千葉の「山」でも、流山からは3時間くらいかかりそう。機会作って行ければいいですね、今度話ししましょう(九代目がいたら「そんなの簡単よ!」って言うでしょうけど)。

  7. 源智平朝臣 のコメント:

    さすがに要かつ人気の3番バッターだけあって、和泉式部に対しては早くも皆さまからのコメントが殺到していますね。出遅れた智平としては、百人一首本やネットで読んだものの中から、重複は避けつつ、なるほどと思った2つの見解を紹介することにします。

    第1は、和泉式部はなぜ「浮かれ女」と呼ばれるほど男性遍歴を重ねたのかについての見解です。彼女と関係のあったと思われる男性を日記や歌集から拾ってみると、夫となった橘道貞と藤原保昌、それに為尊親王と敦道親王に加えて、源俊賢、源雅道、源頼信、藤原頼宗、道命阿闍梨などが挙げられ、そのほかに名前を明記していない何人かの男性もいたようです。こうした男狂いとも言える男性遍歴の原因として、大岡信は和泉式部の歌には、どんなに恋をしてみてもついに埋めることのできない孤独な渇きがいつも心に潜んでいるのが感じられると指摘しています。この孤独な渇きを埋めようと次の恋に走るものの、埋められずに再び孤独な渇きに陥ってしまう。この悪循環が和泉式部を男なしには生きられない女性にしたという大岡信の見解を読んで、智平はなるほどそうか、原因は男依存症とも言うべき病気だったんだと感じました。それにしても、恋をするには相手が必要なところ、ひきもきらずに男たちが言い寄って来たのは和泉式部がよほど魅力的な女性だったのでしょうね。コケティッシュな容貌に加えて、男を感動させる歌詠みの才を初めとする男を魅了するさまざまな恋のテクニックも備えていた女。智平はまさに魔性の女であったと想像しますが、いかがでしょうか。

    第2は、和泉式部の歌の抜きんでた凄さとその理由ついての見解です。保田與重郎によれば「和泉式部の歌は、紫式部・清少納言・赤染衛門、相模などという當時の希代の才女、天才の中にあって、容易に抜き出るものであった。當時の人々の思った業(ごふ)のやうな美しさをヒステリックに歌い上げ、人の心をかきみだして、美しく切なくよびさますものといへば、いくらかは彼女の歌の表情の一端をいひ得るであらうか」とのことです。そして、近藤潤一の分析によれば「恋を歌い、母性を歌う和泉式部の歌には、女性の身体のあり方と結びついた女性特有の心が炸裂している。古代女性の教養や賢慮、政治・社会・宗教によってさえ差別され、自己否定を強要される女性の心性・分別とはかかわりなく、和泉式部は、女性の生理に根ざす生のあり方を純直に追求した。女性であることによって、女性であるための制約を乗りこえる精神の自由を、彼女は花咲かせた」とのことです。女性の身体のあり方や生理に結びついた心の底からほとばしる歌と言われると、智平はなるほど紫式部や清少納言にはそんな歌は詠めそうもない、だから、和泉式部の歌は凄いんだと納得してしまいました。

    最後に、和泉式部のような女性と出会ったら、どう対応するか。智平は上記のような見解を知った後では、怖くて逃げ出したい気持ちになりますが、実際には、そんな女性は男に恐怖感など微塵も感じさせず、男を甘くやさしく包み込んで虜にしてしまうのでしょうね。そして、男は56番歌のような歌を送られたら、どんなことがあっても彼女のもとに飛んでいくことでしょう。

    • 百々爺 のコメント:

      ・何故和泉式部は男性遍歴を重ねたのか。

       大岡信の見解の紹介ありがとうございます。大岡信の解説、通常は2-3頁、長くても4頁ですがこの56番だけは5頁に及んでます。それだけ力説したい所があったのでしょう。孤独な渇きによる悪循環ですか、なるほど。そうなると智平どの謂われる病気ですね。病気は健康の反対、即ち正常じゃないってことです。和泉式部も娼婦じゃあるまいし一度に何人もの男性を相手にしたわけではない。とすると次の男に行くってことは前の男を捨てる、忘却するってことですからね。通常の神経だとそんなに次から次へは行けません。病気と言われても仕方ないかもしれません。

       →最初に源氏物語を読んだとき13人もの女性と関係していく源氏を「こりゃあ病気だぜ」と思いました。まあ源氏は一度に何人もの女性の面倒をみて、一人として見捨てたりはしませんでしたが、和泉式部は女性ですからねぇ。結局は自身が不幸になってしまったということでしょうか。保昌を「最後の止まり木」として愛し尽くしたらよかったのに。。

      ・「女性の身体のあり方や生理に結びついた心の底からほとばしる歌」ですか。なるほど。その辺には疎い爺なのでコメント不能ですが(言い出すとあらぬこと言いそうなので自重しておきます)、男女それぞれの社会的制約の中にあって性差別の不当さを訴えたのが53道綱母だとすればトコトン女を追求し女の良さを高らかに謳い上げたのが56和泉式部ということでしょうか。

       →百人一首の女性陣21人の中で一番「女っぽい女」は和泉式部かもしれませんね(オッとまだ後に控えておられるので決めつけはできませんが)。

      ・和泉式部と出会ったらどうするか。おっしゃる通り「恐怖感など微塵も感じさせず、男を甘くやさしく包み込んで」くれる女性だと思います。そのタイプ爺は苦手なので顔を合わせず早々に退散することになると思います。別に君子危うきに、、、ではなく、、、単なる意気地なしであります。

    • 百合局 のコメント:

      55番歌公任と和泉式部に関して、大岡信の「公子と浮かれ女」を一読したので、面白い見解部分を抜粋します。

      平安文化の最盛時、公任はその最高教養階級の趣味と美意識の結晶ともいうべき人物。
      和泉式部の歌才を高く買っている。男出入りのうわさの絶えないこの美貌の女には公任自身も男心をそそられることがある。自分が懸想の文を贈れば、和泉はおそらく一も二もなく受け入れるだろうとも思う。和泉は好奇心のつよい女だし、公任は多くの才媛たちの好奇心が自分に注がれていることも知っていた。しかし、公任が和泉に恋をしかけないのは、自分の歌の過不足ない優美さが、和泉の歌の奇妙に理屈ぽい – しかし、その理屈ぽさを必然たらしめているのは和泉の稀れにみるほど濃密な生命の渦巻きの衝迫であることが、少なくとも自分にはありありと感じとられるゆえに、何とも及びがたく感じられる –

       あの野性味の前では、おそらくひとたまりもなく色あせてしまうだろうという不安があるからだ。恋の贈答歌に負けるようなことは、公任にとって耐えがたい恥辱であった。
      公任は、自分が和泉に恋をしかけるのをためらった理由が深くこの問題とかかわっていたらしいと気付く。

      この分析も面白いですね。和泉式部に群がった男たちのほとんどは、そこまで考えず、かりそめの愛や表面的な雅や好奇心だけだった、と言えましょうか。

      • 百々爺 のコメント:

        大岡信の「公子と浮かれ女」、ご紹介ありがとうございます。

        ・そうですね、公任は自分の歌を最高のものと自負していただけに歌風が違うとは言え名うての歌の達人、和泉式部と恋歌の贈答をすることには憚りがあったのでしょうね。
         
         →本来和歌は恋をするための手順である筈で、和歌のために恋を諦めるというのは本末転倒でしょうけどね。
         →そんなことには無頓着で和泉式部に群がった男たちの方が
        正直かもしれませんよ。

        ・和泉式部の歌って理屈っぽいですかねぇ。理屈(道理)と言うより直情のほとばしり(これぞ野性味)だと思うのですが。何れにせよ形を重んじる公任は型破りの和泉式部との恋歌の贈答をためらったということですね。よく分かりました。卓見だと思います。

  8. 小町姐 のコメント:

    大岡信の「公子と浮かれ女」の分析、興味深く読ませていただきました。
    和泉式部を一言で現わせばどんな女性か、この分析からようやく思い浮かびました。
    まさしく「野性の女」そのもの、ぴったり当てはまります。
    公任にとってこの女の前にひれ伏すことは屈辱以外の何物でもなかったことでしょう。
    さすがは公任です。やはりただ者ではないですね。

    • 百々爺 のコメント:

      「野生の女」、私もぴったりだと思いました。「本性の女」と言ってもいいかもしれません。

  9. 枇杷の実 のコメント:

    和泉式部は、当時の散文作家たる紫式部や清少納言と相対し、韻文作家として中古女流中の第一人者である。しかも鬼才を衒うような作家ではなく、殉情によって一貫した真の本質的歌人であり、後世にもこれに比肩する人を見ない。(萩原朔太郎)
    情熱的な生活をおくったが、その情熱を表現するには、在来の歌風は余りにも狭すぎた。彼女の表現意欲はしばしば時代の良識を無視する。(小西甚一)
    二度の結婚と離別、二度の恋愛(不倫)と死別を経る間での父兄弟との絶縁、宮邸でのいじめ、中宮サロンへの出仕、名だたる女流作家との交流、そしてあまたの浮いた噂。50年余りの人生は波乱万丈の生涯で多情奔放な歌詠みに生きた。解説、コメントで取上げられた歌は其々にストーリーがあって、いずれも味わい深いですね。
     暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月
     などて君むなしき空に消えにけん淡雪だにもふればふる世に
     すさめぬにねたさもねたしあやめ草ひきかへしても駒返りなん 
     留めおきて誰をあはれと思ひけん子はまさるらん子はまさりけり
     物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂たまかとぞみる

    そして、56番の
     あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな
    一途な情熱を伝える詠歌として百人一首に採られたとされるが、上句の「あらざらん・・」は「To be or not to be」の名セリフに迫るものがある。もう一度会いたいと言われている相手は、誰なのか。それが問題。夫橘道貞か、恋人敦道親王か、娘小式部内侍か。
    晩年、病葉の式部が波乱の生涯を様々に思い出しながら口にした、特に相手を指定しない感慨の歌、辞世の歌ともみれる。
    最愛の娘を失って以降、式部は出家し尼となって、道長没後に密かに生涯を閉じる。
    その墓は京都のスポット、賑やかな新京極の一角、誠心院の境内にある。

    • 百々爺 のコメント:

      ・小西甚一の評は客観的冷静ですが、萩原朔太郎の評はすごい、最高級の讃辞ですね。「真の本質的歌人」ですか、なるほど。逆に言うと他の歌人たちはいささかなりとも「真の本質的歌人ではない」ということですね。

       →和泉式部の歌は「芯を食っていた」ということですか。「芯を食う」って難しいですもんね。

      ・いつもながら要を得た総括的コメントありがとうございます。
       みなさんから数多くの熱っぽいコメントをいただきました。それぞれに好意的なものばかりで和泉式部も「やった! 心の赴くままに正直に詠んでよかったわ!」と喜んでいることでしょう。王朝和歌史に燦然と輝く数々の絶唱に、我が談話室も「あっぱれ!!」を差し上げることにしましょう。

  10. 小町姐 のコメント:

    【余談21】 映画今昔
    昨日、今日とmyシネマday
    昨年も数えはしなかったが100本近くは観ていると思う。
    一番多く通う映画館のサービスが今月で終了する為ポイントを無料招待券に引き替えしておきたいこともある。
    昨日は公開されたばかりのドラえもんを孫と見る。
    子どもから孫へ引き続き何本のドラえもんを見たことか。
    連日の世界卓球で睡眠不足のため不覚にも半分くらい寝入ってしまった。
    男子卓球に期待したいところであるが結果はどうか?

    さて今日の映画は小津安二郎の「東京物語」
    小津作品を見るのは初めて、デジタル化したとはいえ昔懐かしいほぼ正方形に近い白黒画面。
    世界的な評価を受けた日本映画の最高傑作で世界の監督が選ぶ最も偉大な映画一位にも輝いたという。
    なるほど、何の変哲もけれんもない日常の戦後東京の風景と暮らし。
    広島から上京した老夫婦を軸にした家族の関係を問う。
    老夫婦(笠智衆と東山千栄子)の穏やかな会話に老いと死を暗示させる。
    昭和のミューズと呼ばれた原節子の美しさも初めてスクリーンで見ることができた。
    それにほとんどが亡くなった昔の俳優の若かりし頃。
    最新の3Dや4Dの映画も良いがたまにはこういった日本映画も悪くない。
    何より疲れない、静かな余韻と感動と涙で締めくくられる。
    「小津安二郎青春館」が松阪にあるというので機会があれば訪ねてみたい。
    19日からは、漫画「ちはやふる」を映画化した前篇が公開される。
    海街diaryの広瀬すずがどんな千早役を演じてくれるか楽しみである。
    4月からは映画館の新企画「午前十時の映画祭7」が始まるので又せっせと私の劇場通いが続きそうである。

    • 百々爺 のコメント:

      すごいですね。毎年100本だとするともう何千本もいってますね。
      最新作のアニメから古典作品のリメークまで。何でもござれがいいのでしょうね。あれはイヤ、これもちょっとと思ってると足が遠のいてしまいます。

      小津安二郎は郷土の偉人、中高生の時大人ぶって見に行ったがちっとも面白くなかったこと覚えています。やはり大人の映画なんでしょうね。

      「ちはやふる」3、4月に連続で来るとか。女優さんはさっぱりわかりませんが、「畳上の格闘技」見てみたいと思っています。

小町姐 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です