さあ居並ぶ女性陣のトリは「トリの空音」、かの枕草子の「清女」であります。爺が敬愛する「紫女」のライバル。さてどんな論調で書きましょうかね。
62.夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ
訳詩: 夜も明けないのに鶏の鳴きまねをして
関所の門を開けさせようとなさるのですね
函谷関ならいざ知らず
逢坂の関の関守はだまされませんよ
逢おうったって 私の関所はとてもとても
作者:清少納言 生没年未詳 42清原元輔の娘 36清原深養父は曽祖父
出典:後拾遺集 雑二939
詞書:「大納言行成、物語などし侍りけるに、内の御物忌にこもればとて、いそぎ帰りて、つとめて、鳥の声にもよほされて、とひおこせて侍りければ、夜深かりける鳥の声は函谷関のことにや、といひつかはしたりけるを、たちかへり、これは逢坂の関に侍る、とあればよみ侍りける」
①清少納言 生没年不詳では不便なので通説とおぼしき966-1025 60才と考えましょう。
父 42清原元輔(42番歌参照)元輔59才の時の子(お父さんガンバッたものです)
清原氏は天武帝の皇子舎人親王(日本書紀編纂者)を始祖とする一族(36番参照)
清少納言
966 誕生
974 父元輔周防守 4年間周防(国府は現防府市) 清女は9-13才を周防で過す。
981 @15 橘則光(後に陸奥守)と結婚 翌982年長男則長誕生
数年(3-4年とも)にして離婚、則光が武骨だったとも
→則光、普通の男だったのでは。普通の男には清女の夫は難しいのかも。
でも離婚後も仕事仲間として宮中で接触したり普通に付き合っている。
さっぱりしたものである。
その後
藤原信義(歌人)と結婚とも。子がなかったせいかあまり書かれていない。
その間
藤原頼忠(公任の父)次いで藤原為光(52道信の父)に出仕
→父の聞こえもあって引く手あまただったのか。
宮仕えがきちっとできる才女であったということ。
991-993ころから1001(定子崩御)まで中宮定子に仕える。
→清女 26-8才から35才まで。万事を弁えた分別女房だったのだろう。
この定子中宮サロンで交流があったのが(枕草子に登場)、
51藤原実方(恋愛関係)、藤原斉信、藤原行成、源宣方、源常房ら
→中宮居所となれば一条帝の官房たる蔵人所の貴人たちが日々訪れる。
彼らとの取り計らいを清女が行った。種々関係ができるのは当然である。
(この間に枕草子が書かれる→後述)
(定子・中関白家の悲劇については次回63番藤原道信で考えましょう)
1000 定子崩御 翌年清女致仕
→その後定子の生んだ脩子内親王・媄子内親王の養育に関ったとも。
清女は本当に定子を尊敬し崇めていたのであろう。枕草子の定子誉めはやらせとは思えない。
その後 藤原棟世(摂津守)と再婚し娘・上東門院小馬命婦(勅撰歌人)を儲ける
→娘小馬命婦は彰子中宮に仕えている。彰子も可愛がったのであろうか。
晩年は元輔の山荘のあった東山月輪(定子陵の近く)に住み、55公任、56和泉式部、59赤染衛門らと交流があった。その後のことは不詳で例によって有名人を陥れるような落魄説話が横行している。
→小野小町も紫女も清女も。何でそう死者に鞭打つようなことするんだろう。
②歌人としての清少納言
・後拾遺集以下勅撰集に15首 清少納言集42首
紫式部も源氏物語の作者である面が強すぎて和歌はあまり評価されてないように、清少納言も枕草子の方が有名で歌は苦手だと言われている。
・曽祖父に36深養父、父に42元輔という大歌人を身内に持って清女は委縮していた。
枕草子93段(講談社学術文庫)
定子とのやりとり
定子 元輔が後といはるる君しもや今宵の歌にはづれてはをる
清女 その人の後と言はれぬ身なりせば今宵の歌をまづぞよままし
→やはりプレッシャーはあったのでしょう。でも快活な清女のこと、そんなこと気にせず「下手かま精神」でドンドン詠めばよかったのに。
・51実方への送別歌
実方の君の、みちのくにへ下るに
とこも淵ふちも瀬ならぬ涙川そでのわたりはあらじとぞ思ふ(清少納言集)
→昔の恋人実方が歌枕を見に陸奥に下ったのは991年 清女が定子に出仕し始めた頃。
・清少納言代表歌(吉海)
よしさらばつらさは我にならひけり頼めてこぬは誰か教へし 詞花集316
・「枕草子」について
断片的にしか読めていないが間違いなく源氏物語に次ぐ王朝文学の傑作であろう。
.成立は出仕時の995くらいから出仕を終えて1010ころまで断続的に書かれた。
.類聚、随想、回想章段 合計約300段
一口に随筆と言われるが内容は多岐に亘っており諸々雑文集と言った方がいいかも。
短文あり長文あり。時代も前後している。誰か整理してくれないだろうか。
→日々の感想が主体だがそれだけに終ってる感じがする。勿論それでも文学性は高いと思うが。
.小西甚一「日本文学史」の枕草子評(抜粋)
清少納言の傑作「枕の冊子」はまことにふしぎな作品
こんな種類の作品はこれまでに無かったことは確か
些末的リアリズムを出るものではないけれど、瞬間的な印象の把握においてはじつにすぐれた感覚を示す。その感覚には生の「日本人」が躍動しており共感させるがあまりにも日本人すぎてしみじみとした真実の深みにとぼしい。
→定子・中関白家礼讃が目的であることは間違いあるまい。でも強制されて書いたのではなく清女の本心を綴ったものだと思う。歴史に沿って回想章段をつぶさに読めば面白いのではないか。ただ礼讃ばかりで悲劇の場面はわざと書かれてないので一面しか見れないだろうが。
③62番歌 夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ
・作家事情は詞書&枕草子128段(講談社学術文庫)に基き解説本にも詳しく書かれているので詳細は省略
行成(50藤原義孝の長男・三蹟の一人・道長の寵臣)とのやりとり。
題材は清女お得意の漢籍 「史記」の孟嘗君、函谷関の故事
行成とは恋人関係だったのか、単なる友人関係だったのか。
→この歌のやりとり自身は恋歌の贈答ではなく単なる教養のひけらかしゲームだと思うが、行成と清女そりゃあ一度や二度はあったでしょうね。
・歌の鑑賞、評価としてはいかがでしょう。
→「あなたには許しませんよ」恋歌の体裁をとりながら実は教養ひけらかしゲーム。
→大体恋をしかけられても「よに逢坂の関はゆるさじ」なんて断り文句はないでしょうに。
→あくまでおふざけ。勅撰集に入る歌かはチト疑問。後拾遺集も「恋」でなく「雑」の部に入れている。
・62番歌に対する行成の返歌もレベルが低い(62番歌と同レベル)。
行成 逢坂は人越えやすき関なれば鳥鳴かぬにもあけて待つとか
④源氏物語との関連について
紫式部vs清少納言 これぞ永遠・宿命のライバルである。
実に沢山の小説がこの二人の対立対比を材料として書かれている。書きやすいからであろう。
・紫式部の清少納言への酷評(紫式部日記)
清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり かく 人に異ならむと思ひ好める人は かならず見劣りし 行末うたてのみはべれば え心になりぬる人は いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ をかしきことも見過ぐさぬほどに おのづからさるまてあだなるさまにもなるにはべるべし そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ
→いくら何でも酷すぎる。そのまま「紫式部こそ、」と読み替えても通じるのではないか。
→末摘花、源典侍、近江の君。筆を極めての描写を思い出す。男性に対しての酷評は思い出さないが。
・枕草子を読み込んでないので単なる感覚に過ぎないが清女はなかなか「いい女」だったのではないか。枕草子は自分誉め、自慢話が多いが清女の人となりはひょうきん爺さん元輔譲りで機智とユーモアに富む愉快な女房だったと思う。
→自慢話をする時も明るくあけっぴろげに「私ってすごいのよ、こんなことも知ってるし何でもできるわよ、あなた知らないなら教えてあげるわ」って調子で嫌味を感じさせなかった。。。と思うのですがいかがでしょう。
清少納言という大題材に気後れして長いだけで雑然とまとまりのないものになりました。清女、ごめんなさい。
松風有情さんの62番絵です。ありがとうございます。解説をお願いします。
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マスターズいよいよ最終日佳境です。
実況見ながら、、
今日はツキがない松山ガンバレ!!
人物画を一旦離れます。
鳥の空音ではなく実音(本音)だったら面白いかなと思い尾長鶏の原種を選びました。
元々、日本固有種らしく現在の産地は土佐が有名です。海外ではフェニックスとも言われマニアには珍重されているとか。
尾の長さが10メートルを超える記録もあり。
しかし平安時代、改良前の尾長鳥ならこれくらいかなと控え目の尾長にしてみました。
そらネ!今、、
鳥鳴いたよね
、、ほらネ、また!
・なるほど鳥(尾長鳥)の本音ですか。面白い。空音を間違えて門を開けたということは付近に鳥がいたということですもんね。二人で夜を過した恋人たちにはつくづく鶏の声はやるせないものに聞こえたのでしょうね。
・松山くん、頑張りましたね。折角のチャンスだったのに惜しかった。一つだけ言うともう少し強気のパットをして欲しかった。バックナイン、今一つ強めに打ててないように思いました。それにしてもスピースは可哀そうでした。95年のノーマンの悲劇の再現。正にアーメンコーナーには魔物が棲んでいるのでしょうね。
寛弘女性のトリを担うこの人も「枕草子」の作者として超有名人。
特に冒頭は知らない者がないほどに有名で友人は書道展で春の部分を書に出品している。
やはり清少納言の本質は「枕草子」を読まねば見えてこないであろう。
現代語訳を途中までしか読んでいないが軽妙な筆致で「ああそれってあるある」と共鳴する部分も多いのでいずれ原文もさらってみたい。
なぜ62番にあるのだろう?ちょっと不思議。
紫式部よりもずっと早くに「枕草子」を著わしているのに百人一首では後に来ているのはやはり王朝を代表する屈指の才媛であるからか、または定家に何らかの意図があるのか?
中宮定子に仕え全幅の信頼を得、彼女自身も「中宮様命」であったのだろう
勝気で博学、打てば響くような手応えのある女、男と対等に応酬。
機知に富み男をやりこめることに快感を感じていたのであろうか?
でもさらりとして底意地の悪さも感じないし遊び感覚を楽しむ「いい女」と見受けます。
紫式部のように陰にこもるタイプではないように思われますが如何でしょう?
夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ
思わせぶりに故事を踏まえ博学の藤原行成と対等にわたりあった折の歌である。
長い詞書き、更に枕草子に詳しくなければさっぱり何の事やら私などは到底理解できない。
函谷関だって箱根八里の歌でしか知らないのですもの。
個人的にはこれまでの女性歌人の歌に比べて好まない。
一瞬にして意味がわからないので???と言う感じ、やはり歌は即座に共感と理解が伴わないと私など素人目には評価しがたい。
と言いながら自分にも言い聞かせている、本人はわかっていても相手にはさっぱりなんてあり得る話です。
枕草子には同時代の女房の手になる散文作品とくらべ和歌が少ない。
優れた有能な女流歌人を傍目に居心地が悪く劣等感にさいなまれ極力歌を読むことを避けていたともいわれる。(小林一彦氏)
とあるように有名な曾祖父、父を持つあまり名を汚す事を避けたのであろうか?
出自は天武帝ですか、そしてかの「歌枕見てまいれ」の実方はじめ男性との交流も結構多いのですね。
中宮さまお気に入りの仕事のできる賢い花形女房なら当然でしょうね。
さて一条天皇の世、寛弘の女房達の大活躍を目のあたりにしてきました。
教養の高さ、知的レベルは厳しい競争社会を勝ち抜いてきた現代女性勝ち組と言われる女性達でさえ太刀打ちできないのではと思われる。
まあ時代背景、較べる基準が全く違うし比較するのがどだい無理な話かもね。
躾、教養(和歌、書、管弦、漢籍等)を身につけるための努力は相当なものだったと思われます。
以前百々爺さんの解説で古今集をすべて諳んじていたという女性(女御?)の話がどこかにありましたよね、誰だったかしら?
小説「紫式部の生涯」でも古今集を一生懸命覚える場面が出てきました。
当時の一般庶民の知的レベルはどの程度であったかは知る由もありませんが。
皆さ~ん、この居並ぶ女性歌人9名の歌を味わってみていかがでしょうか?
どの女性が自分好みかまた歌は?人物と歌が一致するわけでもないでしょうが・・・
私の好きな女性は断然、和泉式部、崇拝する女性は紫式部、嫌いな女性は道綱母。
好きな歌もやはり和泉式部
あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな
先ごろ最終回を迎えた朝ドラの主人公ではありませんが優秀な頭脳と柔かな心が大事、おなごはんはおとこはんに決して引けを取らしません、の言葉が印象的でした。
そうですとも、決しておとこはんに引けを取るものではありませぬ。
それを千年も前のおなごはん達が証明してくれているではありませんか。
ねえ~おなごはん達、そう思いませんか?
むしろ今の世ではおなごはんの方がどちらかと言えば力をつけているような気がしますがおとこはん方いかがでしょうか?
ところで私にとってはもう一人忘れられない女性がいます。
鸕野讃良皇女、第41代天皇として57歳の生涯を閉じた持統天皇である。
半年以上待った予約本「天上の虹」最終巻をやっと読み終えました。
国づくりに命を捧げた持統天皇の物語、歴史の真実に迫りつつ万葉のロマンにあふれる23巻の完結である。
実在、架空の人物に限らずいろんな意味で多くの人物の影響を受けている自分自身を発見している。
女性に生れて実に良かったと実感する今日この頃の小町姐である。
ダラダラと長くなり読みづらいコメントになりましたが最後に松風有情さん62番歌の絵ありがとうございます。
逢坂の関で雄鶏は高らかに鳴いたのでしょうか?
やはりこの場面は関と鳥ですよね・・・
・清少納言は和歌(五七五七七)が苦手というか性に合わなかったのだと思います。枕草子のものづくしを読むと字数に拘らず短く歯切れよくキラキラと輝く言葉が並べられている。字数を指折り数え序詞・掛詞を考え縁語を並べて型にはめ込むという和歌はむしろ嫌いだったのかもしれません。現代の自由詩の原型みたいなものじゃないでしょうか。
和歌は勿論、源氏物語などはゆっくりと京ことば或いは大阪弁で読むのが合うのでしょうが枕草子は逆に現代の標準語でハキハキと読む方がいいと思います。「はるは~~あけぼの~ぅ」なんて朗詠したらさぞ清少納言は「やめて!」というでしょうね。
・東西を問わず箴言集みたいなもの多いですがその走りかもしれません。枕草子に書かれた様々な事柄をデータとして集積すればこれも平安王朝の百科事典になるでしょうね。
・古今集を全て諳んじてたというのは村上帝の芳子女御の話です(29番歌の項参照)。確かに後宮の女御・女房たちは身につけるべき教養がいっぱいありすぎて大変だったのでしょうね。でも教養とは単なる知識や技だけでなくそれを使いこなす全人格的なものでしょうからオタクっぽく漢籍は全部知ってますなんてのは却って疎んじられたのかも知れません。
→その点清少納言は知識をひけらかすことはあってもちゃんとTPOを弁えて相手に不快感を与えるようなことはなかったのでしょう。
・「天上の虹」読破おめでとうございます。1年がかりでしたね。天皇の母を国母と言いますが持統天皇は文字通り「日本国の母」と言う意味での「国母」と言えるのでしょうね。強くしっかりした女性こそが国の支えだと思います。
→男って所詮女の手のひらで働かされる工夫みたいなもんでしょうよ。それでいいのです。
「枕草子(枕冊子)」の301段(笠間書院)に跋文があります。そこには「この冊子、目に見え、心に思ふことを、人やは見むとすると思ひて、つれづれなる里居のほどに書き集めたるを ~ 」とあり、これから何物にも拘束されることのない自由、個性を発揮できる随筆文学であることがうかがえます。
『枕冊子』の章段の立て方、段数は諸説あって諸本まちまちなのが読みづらいところですが、それもまた面白いと考えましょう。
物語と歌の世界に共通しているのは「あはれ」という叙情的な要素です。それに対して随筆には俳諧の世界に通じる「をかし」といった機智的な要素があります。
多くの日本人の心は、文学においても芸能においても、情「あはれ」の方に傾いた感じがあり、それ故か『枕冊子』が後代文学、芸能その他に及ぼした影響が小さく、少ないのは残念です。
謡曲の中に清少納言関連を探すのは、そういうわけで大変で、なんとか『枕冊子』107段の「関は逢坂、須磨の関、鈴鹿の関、くきたの関、白河の関 ~ 清見が関 ~ 」の部分に、謡曲『羽衣』の中に出てくる「清見潟」(古代は関所があった)をみつけ、少々こじつけたくらいです。(今後、何か見つけたら追記します)
62番歌は行成とのかかわり。実方とのかかわりは51番歌で書いた通りです。
斉信とのかかわりは『枕冊子』78段「頭の中将のすずろなるそら言を聞きて~」のところで「蘭省花時錦帳下」(あなたはみなさんに囲まれて大変にぎやかに明るくすごしていらっしゃいますね)と書きて「末はいかに、末はいかに」とあるを ~ 「草の庵をたれかたづねむ」(公任卿集に連歌の一句としても見える)と書きてとらせつれど、また返りごともいはず。このやりとりから『草の庵』が清少納言の綽名になったとか。
この話の続きに清少納言の最初の夫、橘則光もでてきます。武人で歌は不得意なのですが、元妻の活躍、評判の良さはうれしくて、得意らしいのが好人物らしくていいですね。
公任とのかかわりは『枕冊子』102段「二月つごもりごろに風いたう吹きて空いみじう黒きに、雪すこしうち散りたるほど ~ 」公任から「すこし春あるここちこそすれ」とあったので清少納言は「空寒み花にまがへて散る雪に」と上句をつけた話。
自画自賛ですが、嫌味は感じなくて、いい歌になったと思います。
紫式部とのかかわりでは『枕冊子』115段に、御嶽精進の時の藤原宣孝(紫式部の夫)のカラフルな衣装の件や闊達な性格を記述したことが、紫式部が清少納言に腹を立てる理由の一つだったとか・・・
定子中宮(皇后)と清少納言との間柄は羨ましいほどいいですねえ。定子サロンにおいて才ある女房たちはおおいに輝けたことでしょう。
皇室ゆかりの寺「泉涌寺」に62番歌の歌碑があり、清少納言は晩年をこの付近ですごしたといわれています。今熊野南の山頂にある定子陵、鳥辺野陵に近いから、定子死後もお仕えしている気分だったのでしょうか。
道長の時代となって廃れゆく皇后宮での明るい機知に富んだ応酬、「をかし」の心意気こそ『枕冊子』であり、それは作者清少納言の心意気なのです。いい女です。
・枕草子は「をかし」の世界で俳諧に通じる。成程言い得て妙だと思います。俳諧は形式的には和歌、連歌の発句からということで和歌から生まれたものと思うのが普通なんでしょうが「情」(「あはれ」)から生まれたものではないということですね。
王朝和歌・源氏物語→情念→「あはれ」→伝統芸能・文学
枕草子(随筆)→機智諧謔→「をかし」→俳諧
という図式でしょうか。
・源氏物語を通じて私は紫式部は「理系女」だと思ってるのですが、そうすると機智諧謔の清少納言は論理理屈より一瞬の閃きを重視する「文系女」。和歌が苦手だった清少納言、きっと俳句は上手だったのでしょうね。いや、川柳の方がもっと得意だったのかも。
逢坂の鳥の空音やサクラチル
・一条朝の四納言藤原斉信、「頭の中将」なんですね。華やかなポジション、清少納言の筆も躍っていますね。序でに元カレを登場させてちょっとおのろけ気味の叙述、「別れても好きな人」だったのでしょうか。
→この元カレ、爺の息子の名前です。付けたとき清女の夫の名前とは知りませんでしたが。
・彰子中宮には有名女房がズラリといますが定子中宮の女房は清少納言が一人で代表している。それだけの輝きと人望を持った人だったのでしょう。死しても定子中宮に仕える、、、アッパレ清少納言!じゃないでしょうか。
枕草子は断片的に読んだだけですが、好き嫌いを独断で言い切り、恥かしげもなく自慢話を書き連ねているエッセイ集であるという印象を抱いていました。それに加えて、百々爺が敬愛する紫式部が清少納言を手厳しく扱き下ろしているため、智平は「清少納言は才女かもしれないが、軽薄で得意顔した嫌な女性」であると思っていました。
しかし、今回いろいろ調べてみると、彼女は父親譲りの機知とユーモア、そして豊かな教養を兼ね備えた愉快で賢い女性で、明るく前向きに生きてきたことが分かりました。今や、智平の清少納言に対する印象や評価はうなぎ登りで、「いい女」であるという百合局さんの評価に全面的に賛意を表します。以下では、智平が清少納言に対する印象・評価をマイナスからプラスに大きく修正した主な理由を記したいと思います。
第1は、清少納言を良く知る周りの人々が彼女に深い信頼を寄せ、高い評価を与えていたことです。彼女が仕えた中宮・定子とは女性同士でありながら、相思相愛とも言える親密な仲になり、定子は彼女が2,3日里帰りしただけでも、寂しがって手紙や歌を送っています。一条天皇時代に活躍した四納言と呼ばれる4人の優れた公卿(源俊賢・藤原公任・藤原斉信・藤原行成)と清少納言は62番歌の詞書や百合局さんのコメントにあるように知的な交流を楽しんであり、四納言は彼女を高く評価していました。例えば、行成は宮中の他の女房たちと異なり、清少納言が彼の知的魅力を理解しているので、彼女に対して、中国では「女はおのれのよろこぶ者のために顔づくり(化粧)す。士はおのれを知る者のために死ぬ」と言われていると伝えました。このように男女に拘らず、その時代の一流の人々と深い信頼関係を築けたのは、清少納言の才女ならの魅力と人柄の良さのためであると信じます。
第2は、清少納言は例えば、枕草子26段「心ときめきするもの」に記されているように、歳を取っても若い感性を持っていたことです。26段で挙げられている心をドキドキとさせるものは、①雀の子を飼うこと、②赤ん坊が遊んでいる前を通る時、③上等の香を薫いて一人で横たわっている時、③髪を洗い、お化粧をして、香を薫き染めた着物を着た時、④恋人の訪れを待っているような夜、などです。これを読むと、彼女の心はいつまでも乙女ようだったと言えるのではないでしょうか。
第3は、清少納言は枕草子で後宮生活の明るく華やかな面を描き、敢えて悲しく暗いことは取り上げなかったことです。百々爺が解説しているように、定子・中関白家には定子の父である藤原道隆が死去した後に大きな悲劇が襲います。でも、枕草子には138段に「世の中に事出で来、さわがしうなりて」としか記されていません。これは明るさを貫く清少納言のけなげな矜持の表れと考えられます。人はその生涯で嬉しいことや悲しいこと、幸運や不幸、満足感や惨めな思い等、いろいろな出来事に遭遇し、いろいろな思いに捉われます。でも、智平は、周りの人や世の中を暗くしないために、できる限り、明るくて楽しい表情を保ち、愉快で前向きな話をするという気配りや心構えが大切と信じています。自分自身もそのように心掛けていますが、必ずしも実践できていない場合もあります。清少納言が枕草子の執筆にあたって見事にその方針を貫いていることに敬意を表し、高く評価する次第です。
ちょっと理屈っぽくなってきましたが、ということで、清少納言はとても魅力的でいい女。彼女のような女性を付き合うと楽しいでしょうね。尤も、彼女がお相手をしてくれるほどの知識と教養を身に付けるのは大変かもしれませんが…。
最後に、松風有情さん、いつも楽しい絵をありがとうございます。尾長鳥の鳴き声が聞こえてきましたよ。小町姐さん、ある解説書によれば、定家は上東門院(彰子)に仕えた女房を最初に並べ、次に定子に仕えた清少納言を置いたので、年齢の割には、順序が後になったとありましたよ。
・マイナスからプラスへの評価修正も理由をつけて理路整然と述べる。これも朝臣どのが長らく従事した宮仕えで沁みついた「さが」というものでしょうか。実は私もこの談話室で勉強して「嫌いから好き」に転向した者でして、朝臣どのの理由づけ取り入れさせてもらおうと思っています。
・枕草子をチラ読みすると一条帝と純愛カップルであった定子中宮の後宮にあって官房たる蔵人所の若き公達との取り次ぎを専ら行っていたのが清少納言。定子の信頼厚い清少納言の機嫌を損ねては仕事もスムーズに進まない。当然貴公子たちは清少納言を大事に扱い清少納言もその期待に応える。程度の高いいい関係が作られてたのでしょう。
→そういうパイプ役を上手にこなす女性ってほんと貴重だと思います。
→虎の威を借りて横柄に振舞うお局さんは困ったものですが。。
・「心ときめきするもの」読んでみました。なるほど、若いですねぇ。それに素直。こんな気持ちを持ち続けている女性と話をしてれば楽しいでしょうね。次から次へと話が進み、お酒も進むことでしょう。
→「じゃあ、お前の心ときめきするものは何だ」と聞かれたら?何か気の利いた答え持ってなきゃいけませんね。「ミドルホールでツーオンした時」ではバカにされるでしょうね。
・枕草子の「世の中に事出で来、さわがしうなりて」は定家の明月記「紅旗征戎は吾が事にあらず」に通じるのかも知れません。権謀術数の争いごとには関与しない、正に清少納言の矜持と言えるでしょう。
● 智平さん
番外 平安中期女流歌人 年令推定表でも触れられましたが歌の順序は必ずしも時代順ではなく統一されていないと言う事ですね。
中宮彰子に仕えた順であればこれも納得です。
●百々爺さん
清少納言は和歌が苦手と言うより型にはめられた物が嫌いで自由を好んだと言うのが一番わかりやすいですね。
●松風さん、座布団一枚です。
そらネ!今、、
鳥鳴いたよね
、、ほらネ、また!
ありがとうございました。
座布団ありがとうございます。
でも小町姐さんの旧姓青玉さん関屋の一句
あふさかの関を越えしぞ幾歳や
逢うも別るも宿世のならひ
味わい深く、懐かしです。
また#10句蝉丸も逢坂の関でした。
これやこの行くも帰るも別れては
知るも知らぬも逢坂の関
七年に一度の天下の大祭、信州諏訪の御柱祭に行ってきました。
春宮一の柱を曳く私の友人は、星を仰ぐ夜明けに曳行の安全を祈願し、午前七時に曳行開始、午後九時半までかけ、山出し最終地点の注連掛けへ曳きつけました。途中の、世に名高い木落とし坂、最大斜度三五度、距離100mを氏子が御柱にまたがり、一気に坂を滑り落ちます。地元の方の思い入れ、感動が伝わってきます。生涯忘れることのできない素晴らしい瞬間でした。
ところでこの御柱は樅の木が使用されます。諏訪の地では神聖な木、お守りの木でもあります。東京「代々木」の地名は樅が由来とか。「ダイダイの木」とも読め、子孫を継ぐ木・残す木とされてます。
旅の土産は、信州諏訪の幻の酒「高天」、ビンテージワイン「甲州」、美濃・岩村の生酒「女城主」。終わってみればお酒ばかりがやけに目につく、今回の駆け抜け旅でありました。
さて62番歌
夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ
夜のうちに鶏の鳴きまねをしてみたけれど、逢坂の関は通してくれません。「コケコッコウ、朝が来ましたよ」とやってみても関所のほうは騙されませんでしたよ、という情景。
つまらない歌という評価。
男から「昨夜は鶏の声にうながされて帰ってしまい、失礼しました」
清女「函谷関ならともかく逢坂の関は鶏の鳴き声で開けてはくれませんよ」と
男に軽~いジャブを飛ばし、自分の学の深さをほのめかし、ついでに「私の関所も固いですよ」と男の意のままにならないことも匂わせている。
故事に因んで歌を詠むのは、よく実践されていたことではあるけれど、知識自慢の女がこれをやると鼻持ちならない。と大変厳しい阿刀田さんであります。
「砂子の中より青き草(宮木あや子著)」なんかに描く清少納言像は、源智平朝臣氏ご指摘の如く、「清少納言はとても魅力的でいい女」であり、式部からこっぴどく非難されても「少しもめげない明るい性格」というのが私のイメージ。
歌もこれだけ詠めれば恩の字というのが平成の凡人・多寡秀の評価であります。
・御柱祭見聞記ありがとうございます。興奮が伝わってきます。どの柱を曳くかは抽選とのこと。一の柱とはご友人もしてやったりだったのでしょうね。今年は事故もなくよかったですね。まさか中学校の組み立て体操じゃあるまいし怪我人くらいじゃ騒ぎにならないでしょうが、大事故でも起ると色々な議論が出てくる世の中ですからねぇ。
→「高天」か「女城主」か。爺は天に昇る前に女城主をいただきたいと思います。
・四代目江戸屋猫八が若くして亡くなりました。ものまね芸、貴重な伝統芸能、惜しいことしました。平安時代でも宴会の席上では声帯模写とかものまねとかあったのでしょうか。能書家行成がかくし芸で鶏の鳴き声でもやったら受けたでしょうね。
・阿刀田さん厳しいですね。源氏物語を読まれた阿刀田さん(『源氏物語を知っていますか』新潮社)、是非枕草子も本にして欲しいと思います。清少納言像も変るのではないでしょうか。
・「砂子の中より青き草(宮木あや子著)」
清少納言像はいいのですが紫式部像(式部の君)はいかがなものでしょう。物申したいところであります。
→清少納言と定子の兄伊周が恋仲だったというのは面白かったです。
枕草子/あらすじをキーにネット検索すると、枕草子は随筆ですので全体像をあらすじとして把握する性質の作品ではありません、と出た。なので~、図書館から「枕の草紙」(日本古典文学全集)を取り寄せ、皆さんがコメントの章段を読んでみました。他に、177段(宮にはじめてまゐりたるころ)では才女・清少納言が10才年下の中宮定子や大納言伊周の前で緊張、うろたえる様子、#98(中納言まゐりたまいて)の立派な扇子はくらげの骨の話、ものづくしの章段では#23(すさまじきもの)、#26(にくきもの)#39(鳥は)など面白い。
それにしても、古文は丁寧語・尊敬語・謙譲語が多くて、下段にある現代語訳を読んでも、誰が誰に話しているのか混乱する。
「枕草子」には教条的な部分が全くなく、男と女の性愛やすれ違い、人間関係のありがたさや難しさ、庭先でふと見つけた自然美など、日常の中の出来事と人間の正直な本音です。本音だからこそ、時代を超えた普遍性と説得力があります。それが大きな魅力となっています。もう一つの特徴は、清少納言の観察力の鋭さと明るさです。清少納言は才女でしたが、「法師はイケメンがいい」と言いきるミーハーなタイプでした。また容姿にコンプレックスを持ち、家柄も誇れるものではなかったのですが、機転がきくため宮中の男たちにもてました。頭でっかちであれば、人の心を描けません。地位も美貌も兼ね備えた女性であれば、世の中を客観的に見つめることができなかったかもしれませんね。彼女の生い立ちと性格が、「枕草子」を名作にしたのです。(NHK、百分で名著・序詞)
夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ
この歌、歌そのものより詠まれた事情、130段(頭弁の職にまゐりたまゐて)がおかしで、そこで初めて何を詠っているのかが分かる。
道綱母から続いた女流歌人の9首、その中では#58(有馬山~)、#60(大江山~)、#61(いにいえの~)などが各々に説話がからみ、即興の歌とあって印象深い。女流歌人たちの歌も清少納言をトリに一区切りといったところか。
600年のアンソロジー。時代は天智天皇から400年が過ぎ、11世紀へ。はたしてこれからどのような人物が登場し、どのような歌は詠んでくれるのでしょうか。
・あらすじがあるストーリーがいいのか、区切りのあるエッセイがいいのか。私も随分本を読んできましたが現役で時間がない時には長いストーリーは読めなかった。それで30~50代は小説は敬遠し専ら新書版を中心に実用書、ノンフィクション、エッセイの類ばかり読んでいました。一段落ついて「ローマ人の物語」にとりかかってからストーリーの面白さに目覚め、ついには源氏物語に到達し得たという経緯です。
作り事のストーリー(源氏物語)がいいのか実際の見聞に基くエッセイ(枕草子)がいいのか、これはどちらもいいというのが正解でしょう。
・「めざましきもの」「すさまじきもの」「にくきもの」個人個人にとって違うのでしょうね。こんなのを教材に国語の授業をやって欲しいものです。
・法師はイケメンがいい。
こんなこと言ったら仏教界から総スカン食うのではないかと心配してしまいますね。源氏物語の中で紫式部はけっこう法師に辛辣だと思いましたが、清少納言もけっこうドライに考えてますね。現代的と言えるでしょう。
31段(講談社学術文庫) 説教の講師は
説教の講師は、顔よき。講師の顔をつとまもらへたるこそ、その説く事のたふとさも覚ゆれ。ひが目しつれば、ふと忘るるに、にくげなるは罪や得らんと覚ゆ。
・AKBじゃないですが53~62番に居並ぶ平安王朝の才女たちを対象に「総選挙」をやったら面白いかもね。歌で決めるのか、人品で決めるのか、容貌で決めるのか。いずれにしても好き嫌い。
→勿論私は57番の単勝一本買いですがね。。
女性歌人9名、面白かったですねぇ。
とりわけ連チャンになった56和泉式部~62清少納言の七連弾。
『女房七名の間には一人の男性の割り込む隙もなかった(目黒徳衛)』、と
圧倒的でした。
最後は清少納言。
“彰子女房6人を並べたので、最後は定子女房の清少納言”、
ではなく、定家さんの好みと言うか世論の反映みたいなものを
感じます。枕草子にこんな文があります。
ただ過ぎに過ぐるもの、
帆かけたる舟、人のよわい、春、夏、秋、冬。
今年も桜の季節が終わりました。
桜の落下と共に花粉症も消えていきます。大好きな新緑の季節が到来です。
大学時代、その新緑と、草原の野焼きを辿り、阿蘇の外輪山を一周するのが
WV部の学年末の恒例山行でした。
その懐かしい景色が無残にも崩れ落ちるシーンを見て
ショックを受けています。
お久しぶりじゃないですか。さすがワンダーフォーゲル(今や死語かも)、渡り鳥のごとくどこにいつ出没するか分かりませんねぇ。お元気でけっこうです。
・定家はこの女性歌人9人衆(取分け7人衆)をどう考えていたのでしょうね。やはり一番買ったのは56番和泉式部なんでしょうね。それからのラインアップは悩みながらもエイヤーで決めたのでしょう。そして最後は「しょうなごん~~~しょうなごん~~~」のシュプレヒコールに応えて清少納言を登場させた。まあ、アンコール・カーテンコールの類かもしれません。
・ただ過ぎに過ぐるもの、
帆かけたる舟、人のよわい、春、夏、秋、冬。
こういう歯切れのいい短文を見ると気持ちがスカッとしますね。
紫式部に書かせるとこうなります。
(源氏が柏木をいびる場面 若菜下38)
過ぐるよわいにそへては、酔泣きこそとどめがたきわざなりけれ。衛門督心とどめてほほ笑まるる、いと心恥づかしや。さりとも、いましばしならむ。さかさまに行かぬ年月よ。老は、えのがれぬわざなり。
じゃあ、、またの登場をお待ちしてます。
「枕草子」三冊読み終えました。
杉本苑子、大庭みな子共に現代語訳そして原文は訳注(石田穣二)角川ソフィア文庫上下です。
混乱に陥りました。
石田本では100段に、淑景舎春宮まゐりたまふほどのことなど・・・次の63に登場する左京大夫道雅(幼名松君)が登場しました。
大庭本ではこの部分が104段にさらに杉本本では飛ばされていて104段には五月の御精進のほど・・・なのです。
大庭本では99段が御精進、石田本では95段に、百々爺さんの講談社学術文庫では93段とそれぞれみな章段が異なるのです。
当初何も分からず読み始め、比べるうちに全く章段が異なることにあれっ?でした。
石田氏の解説を読んで底本により違うことが納得できました。
現在伝わる枕草子の諸伝本には「三巻本」「能因本」「堺本」「前田家本」の四系統に分類されており章段の配列、本文共にそれぞれ異なる様相を呈しているとしそれぞれの評価の問題にまで触れていました。
この石田穣二の枕草子は三巻本を底本として語釈と補注と現代語訳を付けていました。
百合局さんからも【「枕冊子」の章段の立て方、段数は諸説あって諸本まちまちなのが読みづらいところですが、それもまた面白いと考えましょう】とありました。
枕冊子(笠間書院)の底本は三巻本のようです。
古典を読む場合、本の選び方の難しさを感じた次第です。
改めて清少納言の洗練された感覚、美意識、歯切れのよいリズミカルな文体に魅了され好感度が増し和泉式部の次に好きな女性の一人です。
さすが小町姐さん、枕草子3冊読破とは、すごい集中力です。
枕草子の章段がバラバラなの何とかなりませんかね。やっぱりガラガラポンで統一してもらわなくっちゃ。学者さんの論争は大いにやってもらえばいいのですが我々一般の古典愛好家には一つにしてもらいたいものです。清少納言もそう願ってることでしょう。
枕草子300段を類聚、随想、回想章段にカテゴライズし時代順に並べ定子中宮の去就に照らして解説を施す、、、なんて本ができませんかね。若い学徒に挑戦してもらいたいものです。