仏教界の大御所、大僧正どののご登場です。ちょっと順番がオカシイ。定家の勘違いか(それはあり得ないでしょう)何か意図があってのことか。見てまいりましょう。
66.もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし
訳詩: 深山にわけ入って見出でた山桜
春はすでに逝こうとするのに――――
花よ お前と私と二人きりのこの空のもと
ひっそり心を寄せ合っていよう
お前よりほか 私には心通わす人もないのだ
作者:大僧正行尊 1055-1135 81才 三条帝皇子小一条院敦明親王の孫 父は参議源基平
出典:金葉集 雑上521
詞書:「大峯にて思ひもかけず桜の花の咲きたりけるを見てよめる」
①行尊 父は賜姓源氏の参議源基平(行尊10才の時病死 享年39才)
・父の父は小一条院敦明親王(後一条帝の皇太子になるが道長の圧力で自ら退位)
父の父の父は68三条院(道長との軋轢で「心にもあらで」退位した悲劇の帝)
→68番で考えたいが道長に屈せざるを得なかった家系と言えよう。
・行尊 1055生まれ 生まれ年からすれば背番号は75番前後の筈。
→曾お祖父さんの68三条院より前では行尊も居心地が悪いのではないか。
・父の死後12才で出家、園城寺へ入る。
*園城寺(三井寺@大津)大友皇子を弔うため創建 天台寺門宗の総本山
三井寺の謂れは天智・天武・持統の三帝が使った産湯が湧き出た所の意
延暦寺(天台宗総本山)と犬猿の仲、宗教対立
・15才ころから18年間大峰・葛城・熊野の霊山で荒行を積む
命がけの精進、西国巡礼の霊場も行尊によって形式が定まった。
山伏修験の行者と言えば役小角(7世紀 修験道の開祖 呪術者)
行尊は仏教家として修験道を極めた。
→15才から18年間 霊山で荒行。これは凄い!百人一首にこんな人いない。
業平やら元良親王やら都の貴公子たちが夜な夜な女性との恋にうつつを抜かしている年ごろ。う~ん、できることじゃないでしょうに。
・下山後園城寺に戻り仏教家として上り詰めていく。
権少僧都→権大僧都→権僧正→僧正→大僧正(これが出世コースである)
・歴代天皇の護寺僧を勤める。
白河院、待賢門院璋子、鳥羽帝、崇徳帝(70番台の時代)
(璋子が鳥羽帝に入内する時とりついた物の怪を調伏している(今鏡))
皇室と深く結びつき験力無双の高僧と言われた。
→荒行修行の実績がものを言ったのであろう。
→源氏物語でもお産の場面、病気、臨終の場面には必ず芥子護摩を焚く僧侶が現れていた。
・1123 69才で天台座主に(比叡山との対立で7日で退位)
その後も仏教家として全うし1135 81才で没
→勿論終生独身、エライ人であります。
②歌人としての行尊
・金葉集以下勅撰集に48首(名だたる歌人である)
*金葉集 1126年 白河院宣 源俊頼撰 百人一首に5首
(行尊は金葉集に10首入っている)
・1089太皇太后宮寛子(後冷泉帝后)扇歌合から始め晩年まで宮中・貴族邸での数々の歌合に出詠。歴代天皇の行幸、寺社参詣などに供奉。
→大宗教家、超能力保持者にして一流歌人。崇高そのものだったのでしょう。
・千人万首見てみたがさすがに色っぽい歌は全くなかった。2首ほど。
1 熊野へ参りて大峯へ入らむとて、年頃やしなひたてて侍りける乳母(めのと)の許に遣はしける
あはれとてはぐくみたてし古へは世をそむけとも思はざりけん(新古1813)
2 病おもくなり侍りにければ、三井寺にまかりて、京の房に植ゑおきて侍りける八重やへ紅梅こうばいを「いまは花咲きぬらん、見ばや」といひ侍りければ、折りにつかはして見せければよめる
この世には又もあふまじ梅の花ちりぢりならんことぞかなしき(詞花363)
その後ほどなくみまかりにけるとぞ
→さすが大聖人。歌に品格が備わっているように感じる。
③66番歌 もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし
・歌意は明解、紛れがない。これぞ遁世修行者の素直な歌ではなかろうか。
・詞書の「思ひもかけず」には色んな受けとめ方があるようだが、これも一心不乱に修行に励んでいた若き行尊がふと見上げると遅咲きの山桜が目に入ってハッとした、、、ということでいいでしょう。
・行尊大僧正集では一連の3首が載せられている。
思ひかけぬ山中にまだつぼみたるもまじりてさきて侍りしを、風に散りしかば、
山桜いつを盛りとなくしてもあらしに身をもまかせつるかな
風に吹き折れても、なほめでたく咲きて侍りしかば、
折りふせて後さへ匂ふ山桜あはれ知れらん人に見せばや
もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし
→この3首、いいですねぇ。自分を卑下もせず過大評価もせず、自然体で詠んでいる。吉野の山は濁世など紛れ込む余地もなかったのでしょう。
・芭蕉は奥の細道月山で66番歌を引用している。
六月八日、月山にのぼる。。。。。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積む雪の下に埋れて、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊僧正の哥の哀れも爰に思ひ出でて、猶まさりて覚ゆ。
→新暦では7月24日、真夏である。にもかかわらず月山は雪が残り芭蕉は息たえ身こごえてやっと頂上に辿り着いている。出羽三山も修験道の山である。
・派生歌 藤原俊成 新古今集
いくとせの春に心をつくしきぬあはれと思へみよしのの花
・山桜を詠んだ有名歌
ささ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな 平忠度
敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花 本居宣長
④源氏物語との関連 ちょっと無理やり気味ですが、、。
・京の都の桜は散っても北山の山桜は見ごろ、そんな頃源氏は北山に僧都を訪ね、生涯の伴侶となる若紫を見つける。超有名場面です。
やや深う入る所なりけり。三月のつごもりなれば、京の花、盛りはみな過ぎにけり。山の桜はまだ盛りにて、入りもておはするままに、、、、寺のさまもいとあはれなり。峰高く、深き岩の中にぞ、聖入りゐたりける。(若紫1)
→3月のつごもり=4月末 鞍馬山鞍馬寺も天狗の出る山岳信仰、修行の地であった。
・吉野金峰山への御岳精進 参籠前には何日も精進潔斎するのが決まりであった。
明け方も近うなりにけり。鶏の声などは聞こえで。御岳精進にやあらん、ただ翁びたる声に額づくぞ聞こゆる。起居のけはひたへがたげに行ふ(夕顔10)
→下町五条の夕顔の宿で一夜を明かした源氏、早朝の庶民の町の様子が描かれてる貴重な場面。老人がひたすら潔斎のお経を唱えている。源氏は夕顔を抱いて近所の某の院へと誘う。(大聖人行尊についての締め括りにはちょっと似つかわしくない場面になりました。すみません、大僧正!)
松風有情さんの66番絵です。ありがとうございました。
http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2016/05/KIMG0270.jpg
大僧正行尊、12番僧正遍昭と違い大が付くから一番偉いお坊さんなのでしょうね。
さらに行尊とあるから余計に尊く感じる。
百人一首の男性の中で女性との浮名が全くないのはこの行尊ぐらいではなかろうか。
確かに百々爺さんおっしゃるように曾祖父である68番、三条院より前では変ですね。
加持行法にすぐれ歌道のみならず管弦、書にも秀でていた。
18年間も大峰、他霊山で厳しい修験行を積んだのであろうからその偉さは計り知れない。
行尊僧正の哥の哀れも爰に思ひ出でて、猶まさりて覚ゆ。
芭蕉もさぞかし感慨深いものがあったであろう。
そんな偉いお坊さんでも山桜をわが身に例えて哀れを請うたりするだろうか?
もしそうであれば大僧正さまに親しみを感じる。
いやいや、そんなはずがない。
これはきっと山桜と同化して悟りの境地と感動を詠ったのではなかろうか。
出家し俗世を捨て厳しい修行を積んだお坊さんの歌ですもの。
もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし
孤高の大僧正行尊さま、尊敬致しております。良いお歌を世に残されましたね。
源氏物語の夕顔の場面、印象に残っています。
唯一庶民の日常に触れた場面でしたね。
松風有情さん
66番絵ありがとうございます。
修験者の姿に山桜、ひと目見て行尊とわかります。
・百人一首で大僧正は66行尊と95慈円(この慈円も権門忠通の息子でエラそうです)。でも少~青年期18年を吉野~熊野で修験道に励んだ行尊には誰しも及ばないでしょう。
12才にして父を亡くしたことが全てでしょうか。これで出家して俗世と縁を切り三井寺での修行の後、霊山へですからねぇ。人の生き方それぞれでしょうがエライ道を選んでしまったものだと思います。
・修行時代に詠んだ66番歌、「あはれ」さも感じますがむしろ選んだ我が道を疑うことなくひたすら修行に励む青年の清々しさがにじみ出ているように思います。
→正に「行尊」、いい名前ですね。
・後年は歴代天皇の護寺僧を勤め、歌合に出たり行幸に供奉したり。
→行尊の放つオーラ、居るだけでその場が神々しく感じられたのでしょう。
http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2016/05/KIMG0270.jpg
当初は天上の虹&紫式部にゆかりの三井寺を描くつもりでした。しかし今昔散歩の本にあるカルタ絵に行尊の行者姿は違和感あり、それはないだろう。
修行時代は15歳から33歳までというから歌絵にするならもっと若々しくあるべしと思い描いてみました。
また山桜が、ソメイヨシノと大いに違い、花と若芽は同時期に見られるとあり
確かに春先の紅かなめや南天すら若芽は色鮮やかな春の息吹色なので納得。
伊勢神宮の森の大杉に芽吹いた有名な山桜があるやに聞きました。一度見てみたいものです。
諸共に 噛めぬイカタコ
ミンチ食
許すまじ 死なば諸共
黒い雨
(最近はマジで許す意味に解釈する若者がいると聞いて、、、あ~許すまじ)
松風有情さんの行尊、若々しくて美しい行者姿ですね。確かに「今昔散歩」の絵は違和感を感じますよね。修行の厳しさを表そうとしたんでしょうけれどね・・
昨日テレビで見ました。
伊勢神宮の森の大杉(樹齢2000年)の洞から芽吹いた山桜が咲き誇っていました。大杉と山桜とが合体している不思議な光景でした。
一般には人間の入れない森なので、映像で見られるのはありがたいです。
「さわやか自然百景」でやってましたね。松山くんと掛け持ちだったのでチラリとしか見れませんでした。もう少し詳しく見るべきでした。あの森、幾久しく大切にして欲しいですよね。
カラフルなイケメン修行僧でいいですね。こんな姿を見かけたら世の女性たちも放っておかなかったでしょうね。
→65番歌を詠んだのは修行中(青年期)とのことですからこの姿の方が正しい。大僧正もこれ見たらニンマリ微笑まれるのではないでしょうか。
今年は4月に吉野に行き、桜を愛でてきたことは、紀行記に書きましたし、西行の歌なども紹介しましたが、この行尊が吉野で荒修行をし、この歌に詠われている”山桜”も吉野の主峰”大峰山”に咲いた桜とは、露知らず、行尊さん大変失礼しましたであります。
この行尊の歌、田辺聖子さんも書いておられるが、西行の歌に似た響き・深みがあります。
吉野に詣で、西行庵を訪れた際、西行も人里を離れ、かなりの山奥に篭ったと思ったものですが、それでもまだまだ”大峰山”の入り口、行尊が詠った場所が大峰山と思えば、一人ひそかに咲く山桜と修験者行尊の出会いがくっきりと思い浮かび、松風有情さんの絵になるのだと思います。
この66番歌 優れた名歌と思います。この春に対し、秋を詠った
奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の 声聞くときぞ秋は悲しき 5番
も連想されます。
そして、行尊は、百人一首に入った
5 猿丸大夫 8 喜撰法師 10 蝉丸 12 僧正遍照 21 素性法師 47 恵慶法師 66 行尊 69 能因法師 70 良選法師 82 道因法師 85 俊恵法師 86 西行 87 寂蓮法師 95 前大僧正慈円
の14人の隠遁者の一人でもあるわけです。
これまでは、王朝絶頂期の女流歌人の恋の歌が中心をなしてきた百人一首も、これからは僧侶の歌が多くなる。これから読んでいかないと迂闊なことはいえないが、王朝末期の下り坂、数奇を好む歌が主流を成していくのであろう。
折口信夫先生は
”女房文学から隠者文学”
へと総括しているらしい。
最後に、千人万首から
修行し侍りける比、月の明(あか)く侍りけるに、もろともにあそび侍りける人を思ひ出でて
月影ぞむかしの友にまさりけるしらぬ道にも尋ねきにけり(玉葉1152)
・そうですね。66番歌、西行の歌と言われても違和感ありませんね。ということは年若き修験僧であった行尊はその年にして既に西行の精神域に達していたということかもしれません。大したものだと思います。
・14人の隠遁者、これから続々登場するのですね。「女房文学から隠者文学へ」ですか。確かに生々しい恋歌は少なくなりそう。ちょっと寂しい気もしますが、お互いいい加減な年具合ですから隠者の気持ちを推し量るのもいいかもしれません。
→確か隠遁生活に憧れを抱くようになってきたなんてことおっしゃってましたよね。
行尊のようなタイプが百人一首に入っていることで、全体がぴっしっと締まる感じがします。読む側の背筋も伸びそうです。
この66番歌は、すでに作者生前から喧伝されていたようです。行尊は晩年に至るまで、宮廷歌壇や専門歌人とも不即不離のかたちで接触し、数奇の風雅を楽しめたようですが、能力だけでなくその人柄によるところが大きかったのでしょう。
西行を敬慕した芭蕉が「奥の細道」で、行尊のこの歌に思い及んだことから、能因、行尊、西行と繋がる風雅の流れが感じ取れます。
謡曲『竹生島』にある「真野の入江の船呼ばひ」は新続古今和歌集、雑上にある権大僧都行尊の歌「舟呼ばふ真野の浦波はるばると月も夜渡る淀のつぎ橋」によっています。
・「行尊のようなタイプが百人一首に入っていることで、全体がぴっしっと締まる」。。。いい得て妙ですね。大僧正もお喜びでしょう。
→定家が順番を間違えた(勿論意図的に)のも恋歌やら当意即妙の戯れ歌やらが続いたのでこの辺でピシッと締めておかなきゃと思ったのかもしれませんねぇ。
・奥の細道で行尊が出て来たのにはびっくりしました。確かにこれで能因―行尊―西行と繋がります。
→う~ん、すると月山で遅桜のつぼみを見たというのは行尊を引っ張り出すための虚構かもしれませんね。でも月山は山岳修験道の場所。芭蕉が行尊のことを思い浮かべながら出羽三山を歩いたことは間違いないでしょう。
いま朝ドラ「トト姉ちゃん」が面白い。百人一首あり、漱石の逸話あり、この談話室関連のキーワードが結構出てきます。
「Ⅰ love you」を如何に訳するか?「月がきれいだなあ」とでもしておきなさい。なんてのも出てきましたね。今朝は遂に平塚らいてうのお出ましです。
そしてまるで私事なんでありますが、次男の嫁が浜松生まれの今、深川・木場暮らしで三姉妹の真ん中、背が高いときている。これがツインズのママであります。なんだか重ねて観てしまいます。
さて本論。阿刀田さんは「春から夏へ」とするテーマで66番歌を紹介しています。が、しかし、先立って35番歌を取り上げそのうえで、似たような心境を山桜の中で歌っているのが前大僧正行尊の歌としています。そのコメント僅かに4行、何ぼ行尊でもこれじゃ行損ですなあ。
35番、紀貫之の歌をおさらいしてみましょう。
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほいける
香りといえば桜ではなく梅ですね。人間の心はよくわからないけれど、古くから私が愛してきた故里の、この梅のほうは昔のまま素晴らしい香りを放って私を慰めてくれる、ということ。歌は美しいが、やや厭味を含んでいる。人間の心は(貴方の心も含めて)よくわからんけど、と言っているのです。人間の心は移ろいやすいけれど、
-花は何時も同じように香って、すばらしいなあー
普遍的な心情の吐露ととらえて鑑賞するのがよいでしょう。そう考えると過不足のない秀句であると私は思う。と、のたまわっていらっしゃいます。
一方66番歌は
もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし
心を通わせる友は山桜だけ、一緒にこの世のあはれを分かち合おう。偉いお坊さんであまり偉いと花よりほかに知る人もなくなるのかも。凡人は居酒屋で肩を組みあったりして、しあわせだなあ。と肴のつま程度にしか記しておられません。
何たることでしょうか、どうしたもんじゃろうのう。
・「月がきれいだなあ」が出てきたのにはびっくりしましたね。君子の「君がため」も15番光孝天皇の歌からでなく50番藤原義孝の歌からだと聞いてこの作者やるなあと思いました。今後が楽しみです。
→そうですか、それは面白いです。ひょっとすると鞠子はツインズの母になるのかも。
・35番歌との比較の紹介、ありがとうございます。改めて35番も復習させてもらいました。
→35番は山里とは言え初瀬の長谷寺、女人もいようし半分以上は俗世でしょう。対して66番は俗世とは全く離れた霊山。似た様な心境と言われるのは後の大僧正としては心外かも知れません。
→片や18年間霊山で修行、我ら18年どころか何十年居酒屋で肩組み合って飲んだくれ。ちょっと考えはしますが昔に戻って霊山に入りたいとは申し訳ないですが思わないのであります。ゴメンナサイ、大僧正どの。
2,3年前の初夏、東吉野で思わず山桜に出会ったときの感動を思い出しました。
いわゆる「余花」ですが、これを深山幽谷に逢うのは別格の趣があるものです。
山桜の三つの歌はどれも素晴らしいですが、行者場でひとり対峙して詠んだと聞けば、66番歌にはなおさらに奥行きを感じ取ることができますね。
ご登場ありがとうございます。
そうですか、少将どのも実際に咲き残る余花を見られましたか。やはり実体験が何よりですよね。66番歌も生の感動が伝わるからこそ名歌なのあって、歌合で「深山の桜」なんて題で詠まれたって興ざめでしょう。
宣長の山桜の歌は多分鈴屋で詠まれたのだろうと思ってたのですが、ちょっと調べると宣長は43才の3月吉野山の花見に吉野・飛鳥に旅してるんです(9泊10日、吉野には2泊)。西行庵まで行っている。するとあの「朝日に匂う山桜花」も吉野での実体験に基づいた歌、、、、なんでしょうね。
吉野での実体験もあずかっての歌なんでしょうね。
松阪からの旅は「菅笠日記」に詳しいようです。往路は伊勢街道、復路伊勢本街道の旅ですが、初瀬では「玉葛庵」の名付け親でもあるようですよ。
当地では3年前、「記紀・万葉ウオーク」の一環で、菅笠日記の道筋をたどる会が何回かに分けて行われました。こういうコースは健脚でないとなかなか参加できませんが。
9泊10日で松阪から吉野山(西行庵)まで往復。青山峠を初めアップダウンも険しく余程の健脚じゃないと楽しめませんよね。宣長先生、鈴屋で勉強ばかりしてた青瓢箪かと思ってたのですが意外とアウトドアもやってたのですね。
「玉鬘庵」の名付け親ですか。長谷寺詣ででは先生の頭は玉鬘・浮舟、専ら源氏物語のことだったのでしょう。
ルートは当然のことながら斎宮群行の道、六条御息所母娘のことも思いながら歩を進めたのでしょうか。
いやあ~!驚きですね。
宣長にこのような(菅笠日記)作品があったとはね。
まさに菅笠、草鞋姿で吉野への道中さぞかし難所もあったことでしょう。
今ネット画面で取りあえず「菅笠日記」上巻を宣長と一緒に旅する気持で読みましたが疲れました。
詳しく書かれていますね。
まさに斎王群行の一部じゃないですか。
むかしいつきの宮の女房の。言の葉をのこせる。忘井といふ清水は。すべていつきのみこの京にかへりのぼらせ給ふとき。此わたりなる壹志の頓宮より。二道に別れてなん。
先日の三重テレビ、斎王群行の「忘れいの井戸」(嬉野)の事じゃないですか。
伊勢から大和への身近な土地名が一杯でした。
清少納言や源氏物語にも触れており特に玉蔓をそらごとなれどいともいともをかしけれと書いています。
次は下巻、復路「伊勢本街道」美杉から松坂へを読んでみたいです。
さすが行動力抜群の小町姐さん、素早いですね。ネットで菅笠日記読まれましたか。長谷寺、二本の杉も出てきますね。雨に煙ってたあの風景を思い出しました。
TV斎宮シリーズ、第2回群行のこと見ました。続きが楽しみです。
所用で東京を離れていたため、出遅れました。ネットで行尊について調べたところ、行尊は歌人や能筆家として知られているばかりではなく、天台宗の内紛に巻き込まれて苦労しながらも、誠に立派な生き方を貫いた大僧正であることを知り、尊敬の念を抱くとともに、何だか嬉しく感じました。
天台宗の内紛というのは、一言でいえば、開祖の最澄が中国から伝えた天台の教えに忠実な一派と天台の教えに日本古来の修験道の教えを融合させようという一派との抗争です。前者は最澄が開いた比叡山延暦寺を本拠としたので山門派と呼ばれ、後者は比叡山を追い出されて園城寺(三井寺)に入ったので寺門派と呼ばれました。山門派は乱暴な僧兵を多数抱えており、しばしば寺門派を襲いました。例えば、延暦寺の僧兵たちによる園城寺の焼き討ちは平安~室町時代に大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めるに50回にも上ったそうです。
行尊は園城寺に入ったため、26歳と67歳の時に大規模な焼き討ちに遭いました。特に67歳の時は園城寺の長吏(トップ)で事態収拾の責任者の地位にありましたが、山門派に対する報復を唱えることなく、全国を歩いて喜捨を受け、ついには寺の再建に漕ぎつけました。69歳の時に朝廷から天台座主(天台宗のトップ)に任命されましたが、山門派の大反対したため、7日間で潔く辞任したことは百々爺の書いているとおりです。そして、71歳で僧侶のトップである大僧正に任命され、81歳で逝去しました。逝去の際、行尊はご本尊の阿弥陀如来に正対し、数珠を持って念仏を唱えながら、目を開け、座したままの姿であの世に召されたそうです。その凄まじいまでの気魄に打たれます。
行尊が若い頃の命がけの修行・精進により修験道を極め、験力無双の高僧として数々の霊験を表し、皇室や公家から高く評価されていたことは百々爺が記しているとおりですが、行尊はこのほか熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の検校(統括最高責任者)も務め、熊野詣でを盛んにするために多大な貢献をしました。行尊は白河・鳥羽上皇など超セレブを度々行幸に招いて熊野を浄土とする信仰を広めるとともに、参詣ルートや参詣作法を定めるなど熊野詣での基礎を築きました。そして、後世、熊野詣では「蟻の熊野詣」といわれるほど、多くの人々を集めるに至りました。その一部は三重県に属する熊野古道が世界遺産に指定されたのも、行尊が熊野詣での基礎を築いたお蔭ではと三重県人として感謝する思いです。
ところで、皆さまは修験道の修行を経験したことはありますか? 真似事みたいなものでしたが、智平は中学時代に役の小角が開いた伊勢山上の修験場に行って、鎖場を歩いたり、足を抱えられて谷底を覗かされたり、火渡りをしたりしましたよ。三重県出身の方々は帰省された時に、伊勢山上に行ってみれば、面白いのではないでしょうか。
最後に66番歌は孤独の中の修業中に思いがけず出会った人知れず山奥で咲く桜に共感を覚え、つい語りかけた素直で素敵な歌だと思います。作家・詩人の小池昌代は「66番歌は桜との交流を願った歌で、桜=仏or幻の女人と考えると、百人一首のどんな恋歌よりも生々しく色っぽく思われます」などと述べていますが、ちょっと考え過ぎでしょうね。
いつもながらお忙しい中、熱のこもったコメント、ありがたいです。
・行尊、嬉しく感じましたか。爺も全く同感です。百人一首の人間模様を調べるに兼家や道長のあくどさが目につき、一方では若公達・女房たちの奔放乱脈とも思える恋模様にいささか辟易気味でありましたが行尊のことを知り、日本人にもこんな偉い人がいたんだ、、、と誇らしくなりました。
→百合局さんじゃないですがピシッと喝を入れられ読む側の背筋も伸びた感じがします。
・天台宗、山門派・寺門派の確執について分かり易く解説いただきありがとうございます。古今東西宗教対立、宗派対立は絶えることがありませんね(三派全学連の内ゲバも同様なんでしょう)。
焼き討ちを受けた山門派に対し行尊は報復することなく問題を解決しようとした。偉いですねぇ。益々好きになりました。
・「熊野古道世界遺産登録の陰に行尊あり」ですか。熊野古道のパンフレットに役の小角の名前はあるのでしょうが行尊大僧正の尊名も是非入れて欲しいものです。
・えっ、嬉野中学ってそんな荒行やらされたのですか。ウチら都市部の中学では残念ながらそんなものありませんでしたよ。
・最後に、この崇高な66番歌に女性・恋を持ち込むのはいかがなものでしょう。やはりそれは「言わぬが花」ではないでしょうか。
詞書に「風に吹き折れても、なほめでたく咲きて侍りしかば」とあり、二首連作で
折りふせて後さへ匂ふ山桜あはれ知れらん人に見せばや
もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし
風に枝を吹き折られた山桜が、それでもなお美しく花を咲かせている。そのたくましい生命力に行尊は感動し、厳しい修行にひとり打ち込んでいる自分の姿を山桜に重ね「もろともにあはれと思へ」と呼びかけた。金葉集では春部ではなく雑部に配列されており撰者は単なる自然詠と解釈していない。桜を詠んでいるようだが、実際は修行僧としての心境を率直に詠じた歌なのだ。
誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに(#34)
を踏まえているとも(改観抄)指摘される。
定家はこの歌を大いに評価し、慈円歌(#95)同様、宗教的な崇高さにひかれて撰歌した。(吉海直人)
百人一首ではこの行尊歌を敢えて三条院、能因の先に置き、自然・人生の詠歌を後に続けた。配列の誤りではなく、定家あるいは為家の巧妙な手法なのかも知れない。
ネットにある巡礼の歴史をみると、古神道による原始的な巡礼はあったが、本格的なものとしては近畿地方における三十三カ所観音札所で、資料としては「寺門高僧記」に収録される行尊の「観音霊場三十三所巡礼記」が最初とされる。
行尊の巡礼は寛治4年(1060)の頃で、第一番長谷寺から始まり第三十三番千手堂(三室戸寺)までだった。その後同じ三井寺の覚忠が第一番那智山から巡る。いづれも番付は異なるが所属寺院は現行と同じ。今日の巡礼を決定づけた点で歴史的意味は大きく、時代が下るにつれて伊勢神宮参拝や熊野三山詣でと結びついて盛んになっていく。
お久しぶりです。お忙しい中コメントありがとうございます。
・そうですね、34番歌「誰をかも」に一脈通じるものがありましょうか。尤も34番歌は晩年の孤独を詠ってますが66番歌は若い修行時のもの。それだけ行尊が若くして悟りの境地に到達していたということでしょう。
・巡礼を形作ったのが行尊。巡礼を実施中の枇杷の実さんからすると大尊師ということになりましょうかね。長谷寺と三室戸寺、先年の源氏物語完読記念旅行の時よく知りもせず偶然この1番寺と33番寺を訪れました。中抜きとは言え最初と最後行ったのですから大したものでしょう。大僧正にも顔向けができようというものです。