さて大僧正に続くのは生涯キャリア女官として天皇四代に仕えた周防内侍。どんなお局さまだったのでしょう。しっかりした人? 賢い人? いやきっとそれだけではないでしょう。
67.春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ
訳詩: いずれ春のみじか夜のみじかい夢
そんなはかない浮気ごころに気をゆるし
あなたの腕を手枕にしたりすれば
ありもしない浮気のうわさが立つでしょう
せっかくのお志はありがたくとも
作者:周防内侍 生没年未詳 平安後期女流歌人 後冷泉・白河・堀河朝女房
出典:千載集 雑上964
詞書:「二月ばかり、月のあかき夜、二条院にて人々あまたゐあかして、物語などし侍りけるに、内侍周防よりふして、枕をがなとしのびやかに言ふを聞きて、大納言忠家、これを枕にとて、かひなを御簾の下よりさし入れて侍りければ、詠み侍りける」
①周防内侍 wikiに倣い1037-1109 73才で考えましょう。72紀伊とほぼ同年齢
→66行尊と同様順番がオカシイ。72・73番あたりが定位置でしょうに。
・父 桓武平氏 周防守平棟仲 (父の受領地周防が女房名に)
→周防の国府は防府。42清原元輔が周防守だった。清少納言も周防で4年ほど過ごしている。
→周防内侍が周防に住んでいたのか読み取れませんでした。
母 加賀守源正軄の娘、後冷泉朝で小馬内侍と呼ばれた宮廷歌人だった。
→母も内侍。周防内侍の歌才は母譲りのものであろうか。
・初め後冷泉帝に出仕、次いで後三条→白河→堀河と四代天皇に約40年仕える。
内侍 内侍司(天皇に近侍、奏請と伝宣、宮中の礼式等に関与、天皇の秘書役)
長官 尚侍(ないしのかみ)(源氏物語では朧月夜、玉鬘)
次官 典侍(ないしのすけ)(源氏物語では源典侍=老女、藤典侍=惟光の娘)
三等官 内侍(ないしのじょう)
→お側近くに仕えて万事諸々に対処する。気配りに長け機智に富み事務処理能力抜群、そんな人でないと務まらない。逆に長年務めると生き字引みたいになって余人を以て替えがたしだったのだろう。
→天皇のお手がついたという話は見当たらないが。。。
・栄花物語の前篇は赤染衛門で後編は周防内侍作との説もある。
→経歴と能力から言って大いにありうる話であろう。少なくとも何らかの形で関わっていたのではないか。何せ生き字引なんですから。
・百人一首女流歌人で内侍を務めたのは54儀同三司母(高内侍)と60小式部内侍
→儀同三司母は優秀だったとあるが、小式部内侍の勤務ぶりはよく分からない。
②歌人としての周防内侍
・後拾遺集以下勅撰集に35首 私家集に周防内侍集
・晩年堀河朝で数々の歌合に登場。一昔前(後朱雀・後冷泉朝)の相模みたいな存在か。
1102 堀河院艶書歌合では72紀伊とも同席している。
人知れぬ袖ぞ露けきあふことのかれのみまさる山のした草
・歌人との交流も当然多い。
73大江匡房(1才下)とは歌合せで度々同席
79藤原顕輔(詞花集撰者)とも親しく交流
・恋愛沙汰もあったのであろうが結局結婚せず独身で通している。
→恋に積極的でなかったのか。仕事一途であったのか。よく分かりません。
・晩年住み馴れた家を手放すことになり引越しに当たり柱に書きつけた歌
家を人にはなちてたつとて 柱にかきつけ侍りける
住みなれて我さへ軒の忍ぶ草忍ぶかたがた多き宿かな(金葉集)
この旧家は後世の歌人たちに有名だったようで西行も訪れ歌を詠んでいる。
周防内侍 我さへ軒のと書きつけける古里にて人人思ひをのべける
いにしへはついゐし宿もあるものを何をか今日のしるしにはせん(山家集)
真木柱の姫君(髭黒の長女、髭黒が玉鬘と結婚し母北の方とともに実家に戻る)の話にそっくりである。真木柱12
常に寄りゐたまふ東面の柱を人に譲る心地したまふもあはれにて、姫君、檜皮色の紙を重ね、ただいささかに書きて、柱の乾割れたるはさまに、笄の先して押し入れたまふ。
今はとて宿離れぬとも馴れきつる真木の柱はわれを忘るな
→長年住んだ家を去るのはつらい。柱には愛着がある。まさに「マイはしら」であります。
・周防内侍の代表歌とも目される1093郁芳門院根合歌。
恋わびてながむる空の浮雲やわが下燃えの煙なるらん(金葉集)
→この代表歌をおいて定家が67番歌を選んだ理由は?
③67番歌 春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ
・詞書にあるように宮中でのエピソードに基く当意即妙の歌。
当意即妙、60番、61番、62番、64番と同趣向の歌である。
・春、夜、夢、枕。いかにも艶めかしい。情事・閨房を連想させる。
手枕→腕(かいな)→甲斐なし うまい掛詞である。
・名こそ惜しかれ
65番相模に続く「名こそ惜しかれ」
→相手は大納言、まあそう言わなくてもいいと思うのですがねぇ。
・さて、どんな状況だったのか。
二月ばかり
→寒いでしょうね。夜通し文藝談義なんでしょうか。ようやりますね。
内侍周防よりふして、枕をがなとしのびやかに言ふ
→誰かあてがあったから言ったのでしょう。
すると大納言忠家が「これを」と言って自分の腕を御簾の内に差し入れた。
→忠家どんな体勢で差し入れたのでしょう。寝そべってでしょうか。
う~ん、けっこう無理があるようですがこれぞ王朝の雅なゲームなんでしょう。
膝枕ならともかく手枕、他人の手枕なんてあまり聞きません。
・藤原忠家=道長の六男、御子左家の祖、俊成の祖父、定家の曽祖父
これで本歌の謎が解けたように思います。
俊成、定家父子は先祖の忠家を歴史に残すべく詞書とともに千載集に入れ(俊成)、定家がそれを百人一首に入れた。これで67番歌とともに忠家の名は後代に語り継がれることになった。
・67番歌に対する大納言忠家の返歌
契りありて春の夜ふかき手枕をいかがかひなき夢になすべき
→周防内侍の当意即妙に比べ劣るとの解説が多いが、とにかく忠家は歌を返した。「返せなかった64定頼よりは立派でしょう、、、」そう定家は言いたいのではないか。
この歌、詠まれた状況をあれこれ詮索しながら読むとなかなか面白い。
当意即妙の歌としては61番歌と並ぶ傑作だと思いますが如何でしょう。
④源氏物語との関連
・艶めかしい春の夜の情事というとやはり花宴での源氏・朧月夜の密通でしょうか。
深き夜のあはれを知るも入る月のおぼろけならぬ契りとぞ思ふ(源氏 花宴2)
・手枕で横に臥せるというと、源氏が玉鬘に恋情をいだき篝火を焚かせ琴を枕に添い臥す場面が思い浮かぶ。ここでも賢い玉鬘は絶妙に源氏のアタックをしりぞけている。(篝火2)
秋になりぬ。荻の音もやうやうあはれなるほどになりにけり。御琴を枕にて、もろともに添ひ臥したまへり。
篝火にたちそう恋の煙こそ世には絶えせぬほのほなりけれ(源氏)
行く方なき空に消ちてよ篝火のたよりにたぐふ煙とならば(玉鬘)
・二条院、67番歌では関白藤原教通(道長の五男)の邸とのことだが源氏物語で二条院と言えば六条院に次ぐ重要・有名邸。桐壷更衣の里邸、源氏はここで生まれ紫の上を連れて来ていっしょに住む。紫の上は最後六条院から二条院に移りそこで息を引き取る。
百々爺の記述通り67番歌は、源氏物語の源氏の君と玉鬘の世界のようですね。
源氏物語では季節は秋、琴を枕に、でしたが、この歌は春の夜なので、源氏物語の朧月夜の世界の香りもしますよね。
御簾をはさんで取り交わす言葉と心の遊び、王朝貴族の雅が感じられます。
周防内侍の令名は高く、権中納言通俊が「後拾遺集」の撰をした時は、その原稿を清書以前に周防に下見させ、相談に乗ってもらったらしいことが「新古今集」の歌の詞書によってわかります。
周防内侍が人手に渡した古家はかなりあとまで文学名所的存在だったらしく、西行もそこへ行って歌を詠み(百々爺が記している歌)、藤原定家もそこで次の歌を詠んでいます。
世の中を思ひのきばの忍ぶ草いく代の宿と荒れかはてなむ
西行も定家も詠んだことで、歌人としての周防内侍の位置の高さがわかります。
周防内侍が病気で太秦の広隆寺に籠っていた時の歌
かくしつつ夕べの雲となりもせばあはれかけても誰か忍ばむ
のような個人的な心細さを詠んだ歌もありますが、宮廷女流として場を心得、どんな条件でも自分の力を発揮できたことが周防内侍の名誉であり、生きがいだったのだと思います。
・この場面から連想されるのは何と言っても「花宴」でしょうね。
「二月の二十日あまり、南殿の桜の宴せさせたまふ」
(朗読、さわりの部分聞かせてもらいました)
67番歌の場面も二月(但し月が明るい夜で朧月夜ではなかったようだが)、関白教通は自邸の二条院に女房・上達部を集め桜の花の宴を開いた。桜を愛で詩歌を詠み合う宴の後、夜は男女、局に同居して御簾越しに昼の名残の語り合いが延々と続く。夜が更けお酒も進むと話題もちょっと危なげなものになってくる。誰かが源氏物語を持ち出して「花宴」の所を読み始める。源氏の君と朧月夜の密通場面。みなシーンとして聴き入る。そんな夜、周防内侍は朧月夜になった気分で「枕をがな、、」とつぶやいたのかもしれませんね。
→爺の単なる妄想であります。
・そうですか、藤原通俊は後拾遺集の撰につき周防内侍に相談したのですか。それだけ周防内侍は宮中で一目おかれていたということですね。若い通俊は後拾遺集撰で先輩歌人たちから色々言われたようですから、力強い味方として周防内侍に頼ったのでしょうね。
・広隆寺に籠っていた時の歌切ないですね。住み馴れた家を離れ夫もいない子どももいない、晩年の孤独さを感じます。
軽いジャブを交わしあう大人の恋の語らいといったところでしょうか。王朝期が絶頂期を越え、下り坂に入ってきたときの歌でしょう、優雅さと円熟味と気だるさを感じさせられます。
心旅、日野正平は、”人生下り坂が最高”という。小生も人生下り坂、若かりし時に出来なかったことも気ままにやり、今は悪くない人生、でも最高といえるようになるには、世俗との距離感のあり方、あと一山越えなければならない気がしています。逆には、まだ若いところが残っているのでしょう。
周防の歌、千人万首を見ても、余り好きな歌が見つからなかったのですが、爺の解説を読み、周防のことがよく解りました。すばらしい解説です。
*なぜ、この歌が百人一首に選ばれたのか、この歌のお相手が 忠家
”藤原忠家=道長の六男、御子左家の祖、俊成の祖父、定家の曽祖父
これで本歌の謎が解けたように思います。
俊成、定家父子は先祖の忠家を歴史に残すべく詞書とともに千載集に入れ(俊 成)、定家がそれを百人一首に入れた。これで67番歌とともに忠家の名は後代に 語り継がれることになった”
知りませんでしたが、納得。家系図は大事ですね。
*源氏物語との絡み
”秋になりぬ。荻の音もやうやうあはれなるほどになりにけり。御琴を枕にて、もろともに添ひ臥したまへり。
篝火にたちそう恋の煙こそ世には絶えせぬほのほなりけれ(源氏)
行く方なき空に消ちてよ篝火のたよりにたぐふ煙とならば(玉鬘)”
春は手枕、秋は琴、夏は広辞苑を枕に昼ね、冬は膝枕ですかね。
真木柱・朧月夜の物語も納得。
*そして爺が引用している、千人万首にも載っている周防の歌
”晩年住み馴れた家を手放すことになり引越しに当たり柱に書きつけた歌
家を人にはなちてたつとて 柱にかきつけ侍りける
住みなれて我さへ軒の忍ぶ草忍ぶかたがた多き宿かな(金葉集)”
これには、次の詞書があると、
「もろともにありし母、はらからなども皆なくなりて、心ぼそくおぼえて、住み憂き旅どころにわたりて、仏など供養するに、草などもしげく見えしかば」。
・「優雅さと円熟味と気だるさ」ですか、なるほど。場面はちょっと頽廃的ですよね。現代で言えば銀座の高級クラブとかで男女がそれなりに(当意即妙で)知的な会話を楽しみ、それなりに(肩に手を回したりして)痴的な行動に胸をときめかす。そんな感じでしょうか。
→爺はそんな所好きでないので敬遠してましたが。。
・「人生下り坂が最高」ですか。そりゃあ自転車ならずとも上り坂はシンドイ、でも坂の上には白い雲が待っている。そうして人間努力してそれなりの到達点に達する。後は更なる上を目指し頑張るのではなく悠々と楽しみながら坂を下る。そうありたいものです。
→楽しみながら坂を下るにも一番大事なのは健康。最近つくづくそう思います。お互い健康に留意しましょう。
百々爺さんの解説により周防内侍の人物像が浮かび上がってきました。
春の世の夢ばかりなる手枕に?
えっ!!一体何のことやらと・・・
長い詞書きを読んで初めてふ~ん、なるほどと感じ入る。
もしこのような場面に出くわしたとしたらどうするか?
相手にもよるけれど・・・
男(忠家)はどんな気持ちで腕を差し出したか、本気かそれともお遊びか?
とても本気とは思えない、本気にして腕を借りたらとんでもない事になりそう。
こんな遊びにまんまと乗ってはそれこそ「名こそをしけれ」お~ くわばら、くわばら。
普通はとてもこのように才知ほとばしる歌など即興には返せない。
御簾の下から男がそっとかいな(腕)を差し入れ「どうぞ」なんて想像しただけでドキドキ。
なまめかしい春の世の夢かうつつの出来事のような場面。
王朝時代の男女の軽いジャブの応酬と思えば微笑ましくもある。
深刻感など、さらさらないですね。
取りようによっては意味深な当意即妙の歌とも思えます。
いにしへはついゐし宿もあるものを何をか今日のしるしにはせん
この歌まさに源氏物語の真木柱の姫君を思い出しますね。
今はとて宿離れぬとも馴れきつる真木の柱はわれを忘るな
まさか紫式部がこの歌を参考にするわけがないし、逆に周防内侍が源氏物語を読んでいたと考えれば納得ですがちょっと考え過ぎかな。
まあ我々素人だって長年住んだ家に対する愛着は同様ですね。
気持ち代弁してくれているようでよくわかります。
・王朝の人々は宮中の局や貴族邸宅に集まって様々な遊びをしたのでしょうね。趣味によって色々なサロンがあった。文芸(和歌・漢詩)、管弦、舞踊、韻塞ぎ・偏つぎ、囲碁、双六、、、それにスポーツ系としては蹴鞠、鷹狩、競射、、。男女は同居同席することはできないが簾越しにお互いを意識し合って。
67番歌の場面は何の集いだったのでしょう。「春の明るい月を愛でる会」だったのかもしれません。忠家も周防内侍もお互い意識し合って話のきっかけを探り合ってたのかもしれません。
→中々きっかけがつかめない、その内眠くなってきた。「枕をがな」はむしろ本音。それにやっと忠家が反応してきた。めでたし、めでたし。
・周防内侍は源氏物語を当然読んでいたと思います。周防内侍は花宴の場面も玉鬘の琴を枕にの場面もそして真木柱の場面もよく知っていて歌に詠みこんだり、会話の中に挟んだりしてたのじゃないでしょうか。
五月とはいえ真夏日の続く日々、春の歌を詠むにも限りがありそう。67番、周防の内侍は春の歌。春には違いないが、梅や桜の話ではない。
春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ
内侍は御簾の中にいて
「枕があれば良いわね」と呟くと、大納言忠家という男が
「これ、枕にしなよ」
御簾の下からスイと腕を差し入れた。
「あら」
そこで詠んだ、という事情。情景を想像すると、少し艶めかしい。いや、かなり艶めかしい。
内侍は「待ってました」とばかりに男の腕を枕にしたわけではない。まるで反対・・・。人の眼がある。軽く思われたらプライドにもかかわる。歌の意味は、春の夜の夢のように儚い手枕のために、つまらない噂を立てられたりしたら私の名がすたるわ、せっかくですが、お断りします。「あかんべえ」といったところか。大納言の方も返歌を創り、それは
契ありて春の夜ふかき手枕をいかがかひなき夢になすべき
と答えたようだ。
その後の二人がどうなったかはつまびらかではない。常識的には、これは当時の男女の軽いジャブの応酬、あまり本気で捉えてはいけない。勿論、そこからよい仲に発展することもあっただろうけれど、女性として軽々しく振舞っては、まったくのところ「名こそをしけれ」になってしまう。
しかしどうでもよいことだけれど、手枕って…女性に腕を預けて枕にしてあげるのって結構重いんですよね。男性が一時間もそのままにしていたら、「この人、私のこと、愛しているんだわ・・・」そう信じてよいかもしれないと阿刀田さんはおっしゃっておられます。
周防といえば山口県。防府もあれば山口、萩、津和野もある。その向こうには豊後、肥後もある。どう転んでも今週伺うべきは伊勢、志摩ではない。そうだ!!西へ行こう!!ってことで、明朝から西へ向かいます。
・そうですね、この場面の大納言忠家と周防内侍の体位(適当な言葉が浮かびません)を考えるに相当無理がありますよね。大納言は御簾に身体を預けながら下から腕を差し出す、内侍も御簾までにじり寄って来て頭を延ばす。
そんな状態で1時間も腕を出し続ける男も大変でしょうが頭を延ばし続けている女性も首がおかしくならないか心配です。
→我が源氏の君ならさっさと御簾をまくり上げ傍に寄り臥して「ささ、これを枕に」って腕を差し入れるでしょうけどねぇ。
・多寡秀版「西遊記」、聞かせてください。楽しみにしています。
周防内侍は25歳頃に後冷泉天皇の宮中に出仕し、以後、後三条・白河・堀河の4人の天皇に仕えました。彼女の出仕期間は45年間前後に及ぶと推定され、これは異例な長さでした。それを可能にしたのは、彼女の歌人としての才能を初めとする能力と宮中の慣例・内部事情等に精通した知識経験に加えて、当意即妙の頭の回転の速さや円満で社交的な人柄の良さであったと思われます。
周防内侍はその代表歌である「恋ひわびてながむる空の浮雲やわが下萌えのけぶりなるらむ」から、「下萌えの内侍」とも呼ばれていました。「下萌え」は「心の底でひそかに恋の炎を燃やすこと」を意味しますが、艶でエロティックな響きもあります。こんなニックネームで呼ばれたのは彼女がざっくばらんで男性貴族に人気のあった内侍だったからでしょう。
周防内侍は最初にお仕えした後冷泉天皇を偲ぶ気持ちがとても強かったようです。それを示す次のエピソードと歌が残っています。
「1068年春に後冷泉天皇が崩御し、周防内侍は実家に帰ってふさぎ込んでいました。その年は五月雨が6月に入っても降り続いていました。それを見て、周防内侍は先帝を思い出しながら、次の歌を詠みました。
五月雨にあらぬ今日さへ晴せぬは 空も悲しきことや知るらん
後冷泉帝の後を継いで、即位した後三条天皇からは7月7日に宮中に上がるように仰せがあり、彼女はその時に次の歌を詠みました。
天の川同じ流れと聞きながら 渡らん事のなほぞ恋しき →今上帝は先帝と同じ血筋と分かっていても、やはり先帝のことを思い出して悲しくなります」
後にはベテラン内侍になる周防内侍も、若い時は初めて仕えた後冷泉天皇の印象は強烈で、すぐには忘れられなかったのでしょうね。
徒然草138段「祭過ぎぬれば 後の葵不用なり」は周防内侍の歌「かくれどもかひなき物はもろともに みすの葵は枯葉なりけり」を引用して、葵祭が終わった後、母屋の御簾にかかっている葵を直ちに捨てるのは風情があるか無いかを論じています。長くなるので説明は省略しますが、周防内侍やその歌が良く知られていた証左だと思います。
最後に67番歌は周防内侍のとっさの才智を示すだけでなく、当時の王朝貴族の遊び心とか百合局さんの言う「雅」の一端を知ることができる面白い歌だと思います。それに加えて、百々爺が指摘しているように、詞書と合わせて、御子左家の祖の藤原忠家を歴史に残す歌としての役割を上手に果たしているとは、さすがに定家、なかなかやりますね。
・45年に亘り4代の天皇に仕えた周防内侍、万事に精通、皆から信頼され頼りにされる存在だったのでしょう。各時代、こういう存在の女房は自ずと居たのじゃないでしょうか。
周防内侍は「下萌えの内侍」と呼ばれてたのですか。キャリアウーマン、源氏物語の源典侍を思い出します。桐壷帝の信頼厚く、帝とも冗談を交し合い、光の君にもちょっかいを出す。この時、源典侍58才。
君し来ば手なれの駒に刈り飼はむさかり過ぎたる下葉なりとも
(源典侍@紅葉賀13)
・やはり最初に仕えた天皇(後冷泉帝)への思い入れが強かったのでしょうね。後冷泉帝は44才で崩御、この時周防内侍は32才、ショックだったのでしょうね。それを乗り越え強くなった周防内侍は宮中でかけがえのないウーマンに育っていく。それだけの資質を備えた逸材だったのでしょう。
・徒然草138段、紹介ありがとうございます。読んでみました。おっしゃる通り周防内侍のことは後の世までよく知られていた。特に百人一首67番歌と「我さへ軒のしのふ草」の話は誰もが知っている有名エピソードだったのでしょうね。
春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ(周防内侍)
契りありて春の夜ふかき手枕をいかがかひなき夢になすべき(返歌 藤原忠家)
詞書から春の歌で恋唄と思いきや出典では雑歌とされる。
如月の夜、二条院で女房達が夜更けまでガールズトークをしていて、周防が「眠いわ、枕が要るわね~」と囁くのを聞いて忠家がすかさず「これで御休み(ニタッ)」と御簾の下から腕を差し出しナンパをしかけた。その時の周防のとっさの詠作で「やめてよ、変な噂立つでしょ」と・・。
返しの忠家の歌も粋で、契りありて(前世の約束、縁)の事だよとして、キーワード「かいな」で繋げて「甲斐なき夢にするわけがないでしょうに」といなす。
小式部内侍vs定頼、清少納言vs行成のケースとよく似ているが、こちらの方は随分艶っぽく、熟年貴族のやりとり(おふざけ)といった感じ。
当意即妙な歌を定家が好んでの撰歌だと思う。そしてこの歌の引立て役として曾祖父・忠家を慕う。
また、ネットを見ると堀川院主催の艶書合(懸想文合)では
人知れぬ袖ぞ露けきあふことのかれのみまさる山のした草(周防内侍)
奥山のしたかげ草はかれやする軒ばにのみはおのれなりつつ(返歌 藤原俊忠)
と祖父・俊忠も贈答歌で同じく周防内侍のお相手をしている。
・そうですね、67番歌千載集の部立は「雑」なんですね。春の夜、祖父忠家がひと時でも心ときめかした恋歌、として分類すればよかったのに。源氏物語「花宴」の幽艶な情緒を尊び「源氏見ざる歌よみは遺恨のことなり」と言った俊成にしてはちょっと不思議な気がします。
・忠家の返歌「契りありて」(前世の約束、縁)
男が女に言い寄るときの便利な常套句ですよね。源氏は強引に女性に迫る時には誰彼かまわず「契りありて」を連発していました。「えっ、またかよ」と思いました。とにかく口から出まかせ「前から想っていた」「前世からの契り」エトセトラ、エトセトラ。寂聴さんは「源氏は口べっぴんさん」って言ってました。
源氏が空蝉と強引に契る場面(帚木15)
源氏→空蝉
「などかく疎ましきものにしも思すべき。おぼえなきさまなるしもこそ契りあるとは思ひたまはめ。むげに世を思ひ知らぬやうにおぼほれたまふなむいとつらき」
→前半はともかく後半は「生娘でもあるまいし、、」それはないでしょう。
・堀川院主催の艶書合(懸想文合)
これは有名なイベントだったようですね。1102年、男10人女11人。
先ず男から女へ恋歌、次に女から男へ返歌。今度は女から男へ恋歌、そして男から女への返歌。40首くらい。メンバーは男女とも熟年歌人が多かったようだが一人若手の気鋭が中納言俊忠29才。周防内侍は65才。
大納言忠家と67番歌で関わり、その息子俊忠と堀川院主催の艶書合で恋歌の贈答をする。周防内侍は俊成・定家親子にとって父祖を偲ぶよすがだったのでしょう。
尚、この艶書合で紀伊が詠んだ歌が72「音に聞く」
この歌は中納言俊忠が詠んだ歌への返歌であった、、、とのこと。
色々繋がってますね。これについては72番歌の所で。。