さて、時代は遡って66大僧正行尊の曽祖父、三条天皇。道長のあくどさを語るのもこれで終わりになるでしょうね。ちょっと寂しい気もします。
68.心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな
訳詩: 私の心は暗くとざされ 目もまたかすかだ
生きながらえることはもう望まない私だが
本意でもなくこののちもなお生きるのなら
ああそのとき 思い出の中で 今宵の月は
どんなに心にしみて恋しいことだろう
作者:三条院 976-1017 42才 第67代天皇 花山→一条→三条→後一条
出典:後拾遺集 雑一860
詞書:「例ならずおはしまして、位など去らむとおぼしめしけるころ、月の明かりけるを御覧じて」
①冷泉帝の第二皇子(第一皇子は花山帝)母は兼家の長女超子
外祖父が誰かという観点から皇統を辿ると、
冷泉(藤原師輔)→円融(師輔)→花山(藤原伊尹)→一条(藤原兼家)→三条(兼家)
・兼家は早く外戚になりたいため花山帝を引っ張りおろし7才の皇太子であった懐仁親王を一条帝として即位させている。この時皇太子になったのが一条帝より4才年上の居貞親王、これが後の三条帝である。
→年若い一条帝の皇位は25年も続く。居貞親王にとっては長い長い皇太子時代である。
・母超子は居貞親王が7才の時早逝、父冷泉帝は精神病で隠居生活。
頼みの祖父兼家も居貞親王が東宮時代の14才の時に亡くなる。
→後ろ盾(後見)のいない東宮。これは哀れ、この時点で摂関政治の構図が壊れている。
・1011年一条帝崩御、36才にしてやっと念願の皇位につく。そして東宮には一条帝の第二皇子敦成親王(母彰子、後の後一条天皇)が立つ。
→第一皇子敦康親王(母定子)との東宮位争いについては何度も出て来ました。道長のごり押しでありました。
・当然道長は敦成親王が一刻も早く皇位につくことを望む。三条帝は親政をめざし人事面でも道長に抵抗するが、三条帝へのいやがらせ、サボタージュ、パワハラはいや増すばかり。
→三条帝にとっては四面楚歌、貴族連中も皆勝ち馬に乗ろうと道長の方を向く。
→かくて体調を崩し長寿薬(仙丹=水銀を含む)を服用する。そして眼病を患う。
・道長は、「眼が見えないようじゃ公務もできないでしょう」とて露骨に退位を迫る。
→臣下である藤原が主上に退位を迫る。世も末である。
・眼病に加え、内裏が二度に亘り焼失する。この不祥事も三条帝のせいだとされる。
1016年5月、ついに退位を決意、息子敦明親王(母藤原済時の娘娍子)を皇太子とすることを条件に譲位、敦成親王が後一条天皇として皇位につく。
→道長の念願がかなう。
(63荒三位道雅が三条院の前斎宮当子内親王に通い始め三条院が怒り狂ったのもちょうどこの頃1016年のこと。これもストレスになったのであろう)
・退位後消沈の時を過し出家、ほどなく崩御42才。
皇太子についていた敦明親王も道長のプレッシャーに耐えきれず(身の危険も感じたのかも)自ら皇太子を辞退する。
以上三条天皇の一生を振り返ると、誠にお気の毒な天皇である。
百人一首に登場する8人の天皇の内1天智、2持統、15光孝を除く5人は何れも「心にもあらで」この世を過さざるを得なかった悲劇の天皇であった。
13陽成院、68三条院、77崇徳院、99後鳥羽院、100順徳院
②歌人としての三条院
・家集はなく勅撰集入撰は8首 歌人としてはさしたる実績もない。
偏に「天皇としての歴史性を重視しての撰入」と考えるべき(吉海)
→歌だけではない、歴史をも包含しようという定家の意志の表れであろう。
・三条院の和歌
秋にまた逢はむ逢はじも知らぬ身は今宵ばかりの月をだに見む(詞花集 秋)
あしびきの山のあなたに住む人はまたでや秋の月を見るらん(新古今集 秋上)
→三条院にとって月だけが心の友であったのだろうか。
・三条院の女性(妃)関係を見ておきましょう。
東宮時代先ず添臥として入ったのが兼家の娘(叔母にあたる)藤原綵子
(綵子は後、源頼定との密通事件を起こす)
次いで藤原娍子(せいし=藤原済時の娘)を女御とし、敦明親王(66大僧正行尊の祖父)や当子内親王(63道雅の密通の相手)が生まれる。娍子は美貌の女御であり三条院との仲は睦まじかった。
道隆の次女(定子の妹)藤原原子も女御として入ったが桐壷で突然の不審死をしている。
→三条院の東宮時代の後宮は何やら胡散臭い感じがする。
三条院即位後道長は次女妍子(けんし)を入内させ強引に中宮につける。三条院はこれに対抗し以前からの娍子を皇后として立后させる。一条帝の定子・彰子に次ぐ二后並立状態となった。
→道長の強引さ、まさに「この世をばわが世とぞ思う」振舞いである。
③68番歌 心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな
・後拾遺集の詞書に補足して栄花物語(玉の村菊)の該当部分を引用しておきましょう。
かかる程に、御心地例ならずのみおはします。内にも、物のさとしなどもうたてあるやうなれば、御物忌がちなり。御物怪もなべてならぬ渡りにしておはしませば、宮の御前(中宮妍子)も、物恐しうなど思されて、心よからぬ御有様にのみおはしませば、殿の御前も上も、是をつきせず歎かせ給ふ程に、年今いくばくにもあらねば、心あわただしきやうなるに、いと悩しうのみ思し召さるるにぞ、如何にせましと思しやすらはせ給ふ。十二月の十余日の月、いみじう明きに、上の御局にて、宮の御前に申させ給ふ。
心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな
中宮の御返し。(この返歌は伝わっていない)
・厳寒の師走の夜空、澄み渡る空に煌々と月が輝いている。
・「心にもあらでうき世にながらへば」=もう早く死んでしまいたい。
→何とも悲しい。生きていてこそ浮かぶ瀬もあろうものを。
→万民が見上げる偶像であるべき天皇がそんなこと言ってはならないのに。
・歌を詠みかけた相手は中宮妍子。「お前のお父さんは恨めしいがお前に罪はない」とて妍子のことも愛しく思ってたのだろう。
・この歌、三条院の悲劇を背景にして読むと実感がこもっている名歌だと思う。
どうにもならない憂き世、この時の三条院は既に俗世から達観し悟りの境地に入っていたのではないか。
・そして、68番から程なく(翌年か翌々年か)道長は娘三人を歴代天皇の中宮にしたとして喜びの歌を謳い上げる。
(一条帝中宮彰子・三条帝中宮妍子・後一条帝中宮威子)
この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば
→三条院はこの歌知らずして亡くなっている。知ってたら化けて出たのかも。
④源氏物語との関連
心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな
この歌の心境に近い人物を考えると、
・八の宮 政治的に敗北した上、二人の姫を残して北の方に先立たれ邸を火事で失う。
大君 父が亡くなり宇治で途方にくれる。父の遺言に縛られ結婚もできない。
浮舟 薫と匂宮、二人の狭間に立ち生きていく方途を見失う。
→何れも宇治十帖、「憂じ」の物語であります。
最後に浮舟の絶唱を(浮舟33)
鐘の音の絶ゆるひびきに音をそへてわが世つきぬと君に伝へよ
百々爺さんの解説を読んで不幸を絵に描いたような天皇さまであると感じた。
心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな
天皇の御製とも思われぬ嘆きのお歌ですが真実味に溢れ天皇も人間なのだとその眒吟に哀れを誘う。
道長が望月の欠けたるところなしと詠んだのに対しこの天皇さまの目に写った月はどんな月であったろうか・・・
月だけが唯一慰めであったなんて余りにも悲しすぎるではないか。
そんな天皇さまにとって当子内親王と通雅との許されぬ恋は失意の天皇にとって追い打ちをかける事件ではなかったろか。
63番通雅の禁断の恋の相手、当子内親王で斎宮を務めた皇女の父上である。
三条天皇在位四年の間に内裏が二度も炎上、健康もすぐれず御眼も患っておられ、世は道長の時代で何かと運の悪いお気の毒な天皇さまに同情を禁じ得ない。
13陽成院、68三条院、77崇徳院、99後鳥羽院、100順徳院
五人の天皇いずれも甲乙つけがたい悲劇の天皇ですね。
天皇が悲劇の象徴とは?一体天皇とは何ぞ?考えさせられます。
「NHK大河清盛」の中の崇徳院も映像を通して痛ましかったと記憶しています。
最後に源氏物語
宇治10帖は始まりから終りまで憂し物語でしたね。
鐘の音の絶ゆるひびきに音をそへてわが世つきぬと君に伝へよ
浮舟の悲嘆が聞こえてくるようです。
・三条院の悲劇を見るに摂関政治について考えさせられます。本来天皇と藤原氏の関係は権威と権力の両立。即ち藤原氏は天皇の権威を敬い、その権威を借りて国のため権力を行使するという仕組みであった筈。ところが娘を天皇に嫁がせて皇子を生ませその皇子(孫)を皇位につけることによって外祖父の藤原氏が権威・権力を独占する。天皇はたんなるお飾りに成り下がる。これが摂関政治でしょう。
→万世一系と言っても父親だけでは子は生まれない。母親が必要、その母親を藤原氏で独占する。実にうまい仕組みを考えたものです。
・三条院が道雅を許せなかったのはやはり彼が藤原だったからでしょうか。当子内親王のことも考え許してあげればストレスも昂じなくてすんだのかも。
→無理でしょうね。
・「心にもあらでこの世を過す」
人生全て心の持ち様。高望みして或いは欲をかいて不満たらたら人生を過すのは自業自得かもしれませんが、精一杯生きてそれでも流れに流されざるを得ないのは悲劇ですね。浮舟の歌の響きは切なすぎます。
なんとも哀しいお歌ですね。
肉体的にも精神的にも疲れ果ててしまった三条院にとって、月の光だけが(心の)闇を照らす慰めだったとは・・
『大鏡』の中の「六十七代 三条院」には、本紀(帝紀)、父母、誕生、立坊、元服、即位年月、在位年数、挿話などが記されていますが、御眼病の事等について、詳しく具体的に書かれています。
「御まなこなどもいときよらかにおはしましける。いかなるおりにか、時々は御らんずる時もありけり。『御簾のあみおのみゆる』などもおほせられて。一品宮(陽明門院禎子内親王)ののぼらせ給けるに、~ この宮をことのほかにかなしうしたてまつらせたまうて、~ わたらせ給いたるたびには、さるべきものをかならずたてまつらせ給。三条院の御券をもてかへりわたらせたまうけるを、入道殿御覧じて~」
この記述のなかの一品宮禎子内親王は、後朱雀天皇に入内し、後三条天皇を生んだので、あの世できっと三条院は喜んだでしょうね。
三条天皇の息子、皇太子の敦明親王は道長の圧力を恐れて自ら皇太子を辞退し、これによって逆に道長から手厚い待遇をうけ小一条院と称されましたが、争いから身を引いて異なる生き方を選んだことは賢明だったと思います。
藤原定家の歌
明けぬともなほ面影にたつた山恋しかるべき夜半の空かな
・大鏡の紹介ありがとうございます。
目を患って物の怪のせいだとして僧やら医師やらに荒療治をされてる様子も書かれていますね。占いが科学だった時代とは言え場違いな対処(そもそも体調不調とて飲んだ薬が水銀を含むものでそれが目にきた)で苦しむ。お気の毒であります。
・三条院が愛された禎子内親王が後朱雀天皇に入内して後三条天皇を生み、三条院の血をつなげる。これって藤原家(道長)のやってきた通りの道ですよね。
→後三条天皇妃は藤原公成の娘茂子で道長直系ではない。道長の望月も欠けてしまったということですかね。
いやはや日本列島、サミットで明け暮れた1週間でありました。伊勢志摩方面を避け西方浄土を目指した多寡秀でありましたが、オバマ氏が広島・岩国と西下するに及んで「これはもうどこまで行っても浄土は無理」と思った次第であります。
しかし、しかし、であります。久住連山(大分県)は初日、雨にけぶっておりましたが、法華院山荘で温泉三昧の中、呪文を唱えておりますと、何と翌日は朝から晴天に。見事なミヤマキリシマに浮き上がる平治岳を眺め、甘露のごとく美味しい坊ガつるの銘水にのどを潤すことが出来ました。極楽!極楽!!(詳細FBご参照)
さて、昨今はうつ病が増えているそうな。若い人だけでなく広い年齢層に。そして第68番、三条院の歌
心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな
三条天皇(第67代)から上皇へとなった人。しかし安穏な人生ではなく、その立場は絶えず藤原家の、とりわけ藤原道長の干渉を受けて揺らいでいた。生まれつき病弱で、眼病がひどかったとも。歌の意味は解りやすい。
心にもなく、つまり不本意ながら、私はこのままこの世に生きながらえていくのだろうか、そうであるならば、今夜のこの美しい月を恋しく想う時があるのだろうなあ、という大意。これはおそらく実感。やんごとない立場でありながら実権を揮うことが出来ない。体の不調が心身を悩ませてやまない。それでもしばらくは生きていくのだろう。
ーいやだなあー
せめて今夜の月の美しさだけは心に留めておこう。きっといつか思い出すことがあるだろうから。わかりますね。”心にもあらでうき世にながらへ”るときには、大自然の美しさがことさらに身に染みるものです。と、阿刀田さんはやさしく好意的に評されております。
温泉にでも入って美味しいものを食べ、呑み、美しい自然に身を任せれば、浮世のもろもろは消し飛んだであろうにあなあと、やんごとなききわにはない多寡秀は気楽に思うのであります。
・温泉三昧に美酒、美景。西方浄土へ行って来られたようでよかったですね。
・天皇のみならず王朝の貴族の方々はスポーツ系、アウトドア系でストレスを発散する術を知らなかった。そんな野蛮なこと、疲れることやれるかいな、、、という感じだったのでしょうね。運動不足は精神的によくない。動き回っておれば身体も心も健康を保てる。
→三条院も月を愛で月を心の友とする一方、お昼の太陽も友だちにして欲しかったものです。
何とも悲しい歌ではないか。天皇たるものがかかる御歌を詠われるのか、長年にわたり道長に追いやられ、追いこめられた一人の人間としての心の叫びが聞こえてくるし、道長の権力の凄さが浮かび上がってくる歌でもある。
源氏物語の光源氏と藤壺の禁断の恋の話といい、この68番歌といい、よくも書いたりだが、それ以上によくぞ世に公表したものだと、王朝文学のおおらかさを感じるし、情報統制など考えもしなかった時代なのか、また当時の倫理観からすると隠すべき事項でもなかったのか、天皇の社会性という意味でも考えさせられる歌でもある。
大学の講義などでかじった程度であるが、三条天皇と道長の抗争における道長評価については、
*”栄花物語”(赤染衛門)や”御堂関白日記”(本人)でのプラス評価と
*道長よりも血筋が上だと自負した実資が書いた”小右記”でのマイナス評価
の二つがあり、これも両存したところに、時代のおおらかさを感じる。
さて、三条帝には、爺が書いてくれた通雅が通ったという前斎宮当子内親王と、ご寵愛された禎子内親王という姫君がおられ、この姫(藤原摂関家の娘でない)が後朱雀天皇に入り、その皇子が後三条天皇に即位されている。これで、道長が完成させた藤原家による外威政治は終わったことになるが、三条の御名を継がれた名君といわれ、その後この家系が帝位を継いで行く。後三条天皇は、藤原氏に遠慮なく、藤原氏の財政基盤をなしていた荘園の整理令をだし、荘園を中央政府=天皇にもどす政治をなし、藤原氏摂関政治から武士が台頭する時代へと移っていった。歴史とはいかにも皮肉な面を持ち、なかなか面白いものと思う。
定子(道隆子)
--敦成親王
円融帝64ーー一条帝66
--後一条帝68
彰子(道長娘)--後朱雀帝69ーー後冷泉70
I
冷泉帝63ーー花山帝65 I
I--後三条帝71ーー白川帝72ーー堀川帝 I 73
I
--三条帝67 I
--禎子内親王
妍子(道長娘)
・平安時代の天皇像は他の時代に比べて特異かもしれません。天皇の権威・権力が確立されたのは飛鳥~奈良時代で、この時天皇は文字通り君臨する君子だった。時代が下り平安時代になると権力は摂関家の藤原氏が牛耳り、天皇は段々とお飾り的なものになっていく。そのピークが道長の時代ということでしょうか。天皇は近寄りがたい存在ではなく喜怒哀楽を持った生身の人間という感じに映ります。
→源氏物語で后が密通し不義の子を生む話も別に咎められないし、三条帝が我が身をこぼす愚痴っぽい歌を詠んでもそれが勅撰集に載せられる。おっしゃる通りおおらかだったなあと感じます。
時代が鎌倉~室町~江戸と下ると政治は将軍が一手に掌握し、天皇は京に居て権威だけの存在になる。でもそれはそれで犯しがたい権威を持っていたわけでそれが日本中世~近世の国体だった。天皇が神になったのは明治~昭和の戦前。最悪の国体でありました。
→私の勝手な国史観かもしれませんが。。
・後三条帝は聡明で行動的な帝だったようですね。当然祖父三条帝をないがしろにした藤原摂関家への対抗心もあったのでしょうね。
→後三条帝のこともっと調べると面白いかもしれませんね。
百々爺の解説のとおり、三条天皇は誠にお気の毒な一生を送ることを余儀なくされました。病気も災難も怨霊の仕業と考える時代であり、三条天皇の不幸は父である冷泉天皇以来、祟りを及ぼしている藤原元方・元子父娘の怨霊のせいであるという見方もあります。経緯を記せば、元子が村上天皇の更衣となり、第一皇子の広平親王を生んだので、元方・元子の広平親王に対する期待が高まりました。ところが元方のライバルである藤原師輔の娘安子が第二皇子の憲平親王(後の冷泉天皇)を生み、師輔の権勢により、憲平親王が生後2カ月で皇太子に立てられたため、広平親王の将来は閉ざされました。このため、元方は失意で悶死し、怨霊として冷泉の王統(花山・三条・小一条院)に祟ることとなりました。冷泉・花山天皇の精神病、三条天皇の眼病や二度に亘る内裏の炎上、小一条院の皇太子辞退といった一連の出来事もすべて元方・元子の怨霊の仕業と噂されたようです。
三条天皇は道長から譲位を迫られるというひどい目に遭いましたが、その理由の一つは天皇に即位した年齢が高過ぎたためであると思われます。摂関政治全盛の時代の摂関家と天皇家の関係は、①摂関家が娘を天皇に嫁がせる、②生まれた孫を子供の内に天皇にする、③天皇が大人になったら次の天皇に譲位させる、という基本的ルールで回っていました。②と③は摂関家が政治の実権を握るためであり、いくら外戚とはいえ、例えば30歳代の働き盛りの天皇は祖父の言いなりにはならないリスクが高いので、成人前の子供天皇に譲位させてしまう必要があったのでしょう。ちなみに、冷泉天皇から後一条天皇までの即位と譲位の満年齢を並べてみると次の通りです。冷泉17-19、円融10-25、花山15-17、一条6-31、三条35-40、後一条7-28。これを見ると、三条天皇の即位年齢は前後に比べて明らかに高く、これもあって道長は強く譲位を迫ったのではないでしょうか。
三条天皇の皇統は敦明親王(小一条院)の皇太子辞退によって絶えたように思われました。しかし、百合局さんや八麻呂さんがコメントされているように、娘の禎子内親王が後朱雀天皇に入内し、後三条天皇が誕生したため、以後の皇室に受け継がれるいくことになりました。生前は不幸続きで、誠に哀しい一生を送った三条天皇にも、天国に行ってからこんなにも嬉しいサプライズが待っていたとは! 曽孫である66番歌の行尊の大僧正就任も考え合わせれば、三条院は天国でそれなりに幸せな日々を送られていることでしょう。
・そうですか、藤原元方(南家)の崇りですか。大分前ですよね、執念深いですね。ちょっと経緯を見てみましたが確かに師輔のやり方はあくどい、子孫の道長もこれを真似たんでしょうかね。でも三条帝の宿敵は北家の道長だった訳で敵の敵は味方ということからすれば三条帝には好意的でもよかったのにと思います。
・摂関政治における天皇の即位年令(即位年間)の考察、ありがとうございます。全く同感です。幼き孫、年若き孫だからこそお祖父ちゃんの言うなりになる。即位年令が長じれば長じる程お祖父ちゃんと言えど言うなりにはならなくなってくる。三条帝は一条帝より年少の皇太子で即位したのは一条帝の崩御年令より上の36才(数え年)。お祖父ちゃんでもない道長の言うなりになどなる訳がない、と言うより反発心の方が強かったのでしょう。
→三条帝は既に一条帝の東宮になった時点から悲劇が始まっていたと言えるのかもしれません。
・三条帝の悲劇を顧みるに曾孫の大僧正行尊が若くして修験道に没頭した心情が拝察されます。
心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな(後拾遺860)
この歌を最初に見た時は。和歌の見栄えが良くロマンチックな歌とさえ感じたが、よく読むと詞書では「例ならず(病気で)」と退位を決意した時、明るい月の光を見てとあり生きていることの辛さを詠じた一首だという。
眼を病む三条院の歌は勅撰にとられた8首のうち4首に月が詠みこまれており、月を唯一の友とし、その月を眺めることで一時的にせよ世俗を離れ救済されていいた。
秋にまた逢はむ逢はじも知らぬ身は今宵ばかりの月をだに見む(詞花集97)
足引きの山のあなたに住む人は待たでや秋の月を見るらむ(新古382)
月かげの山の端分けて隠れなばそむくうき世を我やながめむ(新古1500)
古来、和歌と月は切り離すことが出来ない関係。百人一首にも「月」を主題にした歌が11首と多いが、この三条院の歌に定家の心には、政争に敗れて悲運の死を遂げた後鳥羽上皇が重なって感じられたのかも知れないとか。
三条院を譲位に追い込んだ道長は、この後栄華の頂点に昇りつめるが、その頃から健康も急速に衰え、浄土信仰にすがりつつ死を迎える。げにも病気と死は怨親平等に到来するわけで、「心にもあらで」の切なる響きは、そうした生の深淵を覗かせてくれる名歌ではなかろうか。(目崎徳江)
三条天皇はもともと病弱で治療に金液丹、仙丹を仙薬として服用していた。不老長寿の薬とされるが、成分は水銀かヒ素なので副作用で眼を痛めたといわれる。
憑りついた病(物の怪)を取り払うため、しきりに諸寺社に加持祈祷を命じたという。ところで、枕草子に「寺は壷坂、笠置、法輪・・・」と筆頭にある奈良の壺坂寺(南法華寺、6番札所)は眼病に霊験あらたかな寺で平安貴族達の参拝も盛だったとされる。三条天皇が訪れることはなかったのであろうか。
・月を詠んだ歌、30番を入れると12首になると思いますが多いですね。月は王朝人が挙って愛した友だちと言うことでしょう。色んな歌が詠まれてますがこの68番歌の月は哀れ極まりますね。挙げていただいた他の3首もみな同じような想いを詠んでいる。
→三条帝も若き東宮時代に匂宮みたいに奔放に振舞ったらよかったのに。宇治まで遠出するくらい活発だったら体調くずし仙薬などに頼らなくて済んだのかも、、。
・三条帝の譲位後しばらくが道長の最盛期、その後健康も優れず衰えていく。
→そりゃあそうでしょう。「望月の歌」を詠んでしまったらオワリ。
→「オッチャン、それを言っちゃおしまいよ!」寅さんの声が聞こえます。
・枕草子、「寺は」の筆頭が壺坂寺ですか。壺坂霊験記ですね。「妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ~」ラジオからのもの悲しい響きを覚えています。浪花節と言えば「旅ゆけば、駿河の国に茶の香り~~」と言うのもありました。
→6番札所ですか、枇杷の実さんは参詣されたんでしょうね。
【余談29】 御嶽山に祈りを
二年ほど前に体調を崩し登山からハイキングに切り替えた経緯がある。
その年は乗鞍や御嶽山、又熊野古道世界遺産登録10周年を記念する伊勢路を歩くことも実現しなかった。
これはもう警告に違いないと判断しその後は年齢と体力を考慮したハイキングを楽しんでいる。
今回は御嶽山麓に位置し抜群の眺望、木曽駒をはじめとする中央アルプス、乗鞍をはじめとする北アルプスと360度の大パノラマが広がるスポット。
木曽の秘境、倉越高原(標高1500M)普段は封鎖された何もない私有地で立ち入り禁止。
今回、木曽町の方のお世話で特別解放される機会に恵まれた。
二年前、御嶽山噴火で58人が死亡、5人が行方不明の犠牲者が出た。
その後ロープウエイで7合目の展望台へ。
御嶽神社へ犠牲になられた方々に祈りを捧げた。
ウッドチップで歩きやすく整備されたしらびその小径を散策し目の前にそびえる雄大な御嶽山(3067M)を仰ぎ見る。
山の稜線はくっきりと縁取りしたように青空に映えている。
新緑輝く残雪の御嶽山は家からたまに見える山の姿とはかなり異なり山裾は大きく横に広がりその面積は富士山に次ぐ広さらしい。
雲海こそ見られなかったが時々風の向きで雲かと思える白い噴煙が二筋上がっている。
当時映像で見たあの恐ろしい真黒な噴煙の山とは似ても似つかない落ち着いた堂々とした威容である。
現在は9合目まで登山が可能と言う。
梅雨入り前にもかかわらず風がさわさわと木々を揺らし空は澄み切って大満足の山行であった。
これからは楽をして眺める登山に徹しよう。
来週、陽希さんと低山を楽しみます。
山は当日までのお楽しみでミステリーです。
今日はその為のトレーニングにもなったかな?
・またまた凄い所へ行って来られましたね。昔からの体験・知識と人脈がなければとてもそんな所へ行けないし行こうとも思いつきません。つくづく若い時からの体験の貴重さを思います。多寡秀 どのともどもいい財産をお持ちでそれがこの年になって花開いているようで結構だと思います。
倉越高原ですか。せめてと思いグーグルのEARTHで見せてもらいました。なるほど360度のパノラマ、取分け御嶽山はバッチリだったのでしょうね(「今日の御嶽山」、画像で見ましたがきれいでした)。
・すっかり陽希くんの友だちになられたようですね。エンジョイしてください。ミステリー低山登山記、楽しみにしています。
道綱母から十余名の、ほとばしる才気と香華に満ちた女流歌人の華麗な作品が続き、すっかり酔いしれましたが、ここにきて、白洲正子さんに言わせると「凄まじき」天皇の御製歌が登場、いっぺんに目が覚めました。
時は道長権勢の頂点、どうやら平安朝の雅な宮廷劇も終わり、月だの風だの寂しい心象風景がチラついてきました。でも、現実はこれからがSUMMER-SEASON! 実際の季節の移ろいと若干食い違っているので、どこまで感情移入が出来るかなぁ。
それにつけても、三条帝の際どい即位と生々しい廃位の経緯、百々爺の説明は上手いですね、好いですね。歌の調べだけでなく、歴史の大きな歯車が回るキリキリと言う音が聞こえるようです。
キリキリと言えば、週末、次男坊の結婚式です。大学を出て少年サッカーチームのコーチで生業。この先、食っていけるのかと思いきや、「捨てる神あれば拾う神あり」、ツレを、それも学校の先生をしている、ツレを見つけてきました。小さな歯車ですが こちらでもキリキリ言う音が聞こえ始めました。
昭和蝉丸さん、おめでとうございます。
ご安心ですね。
今はどんな職についていようが先の事はわかりません。
好きなことで少年たちと関わっていけるのもいいじゃないですか。
それに引き換え我が家の長男坊、四十路も半ばになろうとするのに何と幼い事よ。
まあ仕事だけは勤続25年無遅刻無欠勤、褒めてやりましょう。
ご登場ありがとうございます。
・そうですね、華やかな宮廷女性たちの歌。恋があり花があり。機智に富んだ当意即妙のやり取りがあり。誠にキレイな世界、キレイ過ぎる世界でしょうか。暗い部分には触れない。それが流儀だったのでしょう。
それと比較すると68番歌の何ともやるせない落ち込んだ心象風景が際立ってます。人生落ち込んで暮らしていてはつまらない。偶にはパア~ッとドンチャン騒ぎでもやればよかったのじゃないでしょうか。
心にもあらで憂き世にながらへど楽しかるべき夜半の酒かな
・蝉丸家にもキリキリと快音が響き始めましたか。それはよかった。おめでとうございます。その内改名して蝉爺とでも名乗ったらいかがでしょう。