月を詠んだ歌の代表作の登場です。分かりやすいし覚えやすい。折しも晩秋、ぴったりです。藤原顕輔は俊成-定家の御子左家と相並ぶ六条藤家を確立した大歌人。どんな歌か、どんな人物か見ていきましょう。
79.秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ
訳詩: 澄んだ秋風は夜空を渡る
たなびく雲の輪郭は浮き立つようだ
その切れ目から
ひと筋洩れて輝き出る
月の光のさやけさ
作者:左京大夫顕輔(藤原顕輔)1090-1155 66才 六条藤家の始祖顕季の子 正三位
出典:新古今集 秋上413
詞書:「崇徳院に百首の歌たてまつりけるに」
①藤原顕輔 76忠通(1097-1164)とほぼ同年代 六条藤家の二代目
・先ず父の顕季から見てみましょう。大歌人です。
父藤原顕季1055-1123 正三位修理大夫
出自は中流貴族であったが母(藤原親国の娘)のお陰で大出世する。
顕季の母 従二位親子(ちかこ)(女性の二位はすごい!)白河院の乳母だったから。
即ち顕季と白河院は乳兄弟(白河院が2才上)、幼馴染。
→白河院の覚えめでたく顕季は大国の国主を歴任、しこたま財をなし六条烏丸に豪邸を構え六条家と称される。
→当然白河院にも貢ぎまくったのであろう。
この顕季、歌人としても活躍
→受領で貯めこんだ財を惜しげもなくつぎ込み風流に打ち込んだのであろう。
勅撰集に48首 宮中他での歌合 自邸でも歌合開催
74源俊頼、75藤原基俊と同世代で白河・堀河歌壇で名をなし、六条藤家の始祖となった。
柿本人麻呂の画像を奉じ「人麻呂影供(えいぐ)」として崇め奉る。
→白河院の権威も借りて。これで和歌の家元(六条藤家)の地位を築き上げる。
→百人一首に撰ばれててもいいような歌人であった。
*人麻呂影供【ひとまろえいぐ】(wikiより)
1118年,藤原顕季によって創始された,歌聖柿本人麻呂を祭る儀式。歌人たちは人麻呂を神格化し,肖像を掲げ和歌を献じることで和歌の道の跡を踏もうとした。
・この顕季の子が顕輔。父のコネで11才で白河院の近臣に。
その後昇進していくがある時、白河院の勘気を被り(讒言の由)挫折
白河院の死後復帰、崇徳院の中宮聖子(忠通の娘)に仕える(中宮亮)。
→崇徳院、藤原忠通とも親しくなり父の威光もあって歌壇に君臨していく。
・崇徳院の命で詞花和歌集(415首)を撰進(1151)
*詞花和歌集
曽禰好忠17首、和泉式部16首 平安中期の歌人を重視 百人一首には5首
→勅撰集の撰者になる。この上ない栄誉である。
父の影響もあろうが一世代年上の74俊頼、75基俊とも親しく交流。歌壇の権威になっていく。
・顕輔の子が84藤原清輔 他にも重家、季経。 何れも有名勅撰歌人である。
六条藤家は栄えて行くが、一方の雄俊成-定家の御子左家が冷泉家となり現代まで和歌の家元を任じているのに対し、六条藤家は南北朝期に途絶えてしまう。
→どうしたのだろう。和歌道を伝承していくのも並大抵ではないのだろう。
→顕輔-清輔の親子関係は冷たかった由。これは84番歌でやりましょう。
②歌人藤原顕輔
・金葉集(14首)以下の勅撰和歌集に84首、私家集に「左京大夫顕輔卿集」
・79番歌とともに顕輔の代表歌とされている二首
葛城や高間の山のさくら花雲ゐのよそに見てや過ぎなむ(千載集)
高砂の尾上の松に吹く風のおとにのみやは聞きわたるべき(千載集)
→73番歌 高砂の尾上の桜を思い出す。
・白河院から不興をかっていた時の歌、判者基俊は誉めた
難波江のあし間に宿る月見れば我が身一つも沈まざりけり
→挫折の時、月を見て明日の復活を思う。基俊に誉められて嬉しかったことだろう。
・種々解説書を読んだ限りでは顕輔の女性関係やらエピソードやらは出て来なかった。
→何か面白い話あれば聞かせてください。
③79番歌 秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ
・崇徳院の久安百首に詠まれた歌。顕輔61才、最晩年期の歌。
・平明で技巧がない。
→覚えやすい好きな歌である。
・月の影のさやけさ
晴天の明々とした月ではない。雲間から漏れてくる光。
→チラリズム。ちょっとだけがいい。
「月光というのは人の心をときめかせる」(田辺聖子)
「漢詩の風韻に通う趣」(島津忠夫)
・百人一首に月は12首(7.21.23.30.31.36.57.59.68.79.81.86)
79番歌は月を詠んだ歌の代表作であろう。
79番以外に「月影」はないが紫式部の57番歌は紫式部集では「月影」となっている。
めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月影
・顕輔の月を詠んだ一首
秋の田に庵さすしづの苫をあらみ月と共にやもり明かすらむ(新古今集)
→天智天皇の1番歌が思い出される。
④源氏物語との関連
月は平安王朝にあって夜の主役、至る所に登場するが79番歌に照応する場面は宇治十帖の冒頭巻「橋姫」で晩秋に宇治の八の宮山荘を訪れた薫が月の光に照らし出された大君・中の君姉妹をかいま見るシーンであろうか。ここから薫・匂宮と宇治の姫君たちとの物語が始まる重要場面でした。
源氏物語 橋姫10「薫、月下に姫君たちの姿をかいま見る」
、、、月をかしきほどに霧りわたれるをながめて、簾を短く捲き上げて人々ゐたり。、、内なる人、一人は柱にすこし隠れて、琵琶を前に置きて、撥を手まさぐりにしつつゐたるに、雲隠れたりつる月のにはかにいと明くさし出でたれば、(中の君)「扇ならで、これしても月はまねきつべかりけり」とて、さしのぞきたる顔、いみじくらうたげににほひやかなるべし。、、、
→月しか明かりがない。月が雲に隠れてしまうと真っ暗、何も見えない。それだけに雲間から月が出て来て姫たちの姿が浮かび上がったとき薫は息をのんだことだろう。薫の姫たちへの想いが動かぬものとなった瞬間であろう。
秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ
秋の夜の叙景歌として大和心をくすぐる。
何の説明もなく素直に読み取れ共感できる所がいいな~と思う。
この歌は私にとって田舎でよく見られる風景を写しているようで実感としてせまる。
新古今集には「たなびく雲」が「ただよふ雲」となっているらしいが素人目にもたなびくのほうがずっと素敵だと思う。
文句なしにわかりやすく平明な所が良くしかも覚えやすい。
技巧などさらさらないのも好もしい。
父、顕季は白河院の乳兄弟という立場で側に仕え近親団の筆頭として院の別当につき権勢をふるい84番の清輔は顕輔の次男である。この家筋を六条藤家という。
父、顕季から人麿の絵像を与えられ六条藤家を継いだ。
百々爺さんの説明で六条藤家のルーツそして「人麻呂影供」の意味がよく解りました。
崇徳院から六番目の勅撰和歌集(詞歌集)の撰者を命じられたのは既に77番で触れている。
和歌の故実や知識学問を息子、清輔へと伝え六条藤家を盤石のものとした。
あふと見てうつつのかひはなけれどもはかなき夢ぞ命なりける(俊頼激賞)
難波江の蘆間にやどる月みればわが身ひとつは沈まざりけり(自讃歌であり俊成絶賛)
79番 秋風にたなびく雲のたえまよりもれいずる月の影のさやけさ
定家も高く評価し百人一首に採った。
これに対し折口信夫(釈迢空)は名高くて感じは悪くないがこの程度の風景の詩ならいくらもある、明治以降の写生歌にはいくらもある、と手厳しい。
しかし顕輔の時代と近代では読みっぷりにも変化があるし素直にいいと思う。
そうそう「源氏物語」と言えば今週末から徳川美術館で恒例の源氏物語絵巻が始まります。
今年は「関屋」 「絵合(詞書)」「東屋一」です。
薫が筝の琴と琵琶を合奏する大君、中の君の姉妹を垣間見る。
思い出しますね~、昨年全点公開された時の「橋姫」の場面です。
国宝源氏物語絵巻、残存する20点 その全点が一挙公開された昨年の徳川美術館を訪れたときのことを、修復された作品を含め全てすばらしかったことを、小生も思い出しました。
今年も楽しまれると良いですね。
・そうですね、田舎でよく見られる秋の夜の風景って感じですよね。月の光(明るさ)を感じるためには回りが明るくてはダメ、電灯も何もない真っ暗の中で唯一の明かりとして月の光が漏れてくる、、、そりゃあ感動的でしょうね。今ではそんな状況はどこに行ってもないでしょうが田舎の方がよりリアルに感じられるでしょうね。
・あふと見てうつつのかひはなけれどもはかなき夢ぞ命なりける
「未だ逢はざる恋」でしょうか。夢に見て恋焦がれているけれど現実はそうはいかない。今は夢が私の命。純情一途でいいじゃないですか。柏木もこの辺でとめておけばよかったのに、、。
・折口信夫、手厳しいですね。確かにこれだけ素直に詠まれるとコテコテの技巧を旨とするプロ歌人には物足りないのかも。いや逆にこんな素人っぽい歌が評価を得てしまうと立場がなくなるという意味合いもあるのかも。
・源氏物語絵巻、毎年見られていいですね。
「絵合」は詞書だけですか、残っていないのが残念ですね。
須磨・明石で手すさびに画いた絵を函から取り出して紫の上に見せるシーン、絵巻見たかったですね。
TV・新聞で報じられていますが、今日は、68年ぶりの大きな満月が見られるスーパームーンと。68年といえば、我らが人生とほぼ同じ年月、今夜は雨模様と聞いたので、昨晩観ておきました。少しもやっていましたが、きれいな大きなお月様が現れれていました。実は一昨日も観ましたが、これはくっきりきれいな晩秋の月でした。
熱海にて、澄み渡った夜の海に光が走ったブルームーンを観たことを、以前ここで書きましたが、昨日のスーパームーン前夜の月といい、79番歌のもれ出ずる月といい、また趣向ががらりと変わりますが、春の朧月といい、月は四季を通じて良いです。
顕輔に絡んだ月の歌、まずは爺からの引用(整理)で
79.秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ
・白河院から不興をかっていた時の歌、判者基俊は誉めた
難波江のあし間に宿る月見れば我が身一つも沈まざりけり
・顕輔の月を詠んだ一首
秋の田に庵さすしづの苫をあらみ月と共にやもり明かすらむ(新古今集)
千人万首より
暮の秋月の姿はたらねども光は空にみちにけるかな(顕輔集)
・お聖さんからの引用で、顕輔から更に一首と、親交のあった76番歌忠通から一首
むらむらに咲ける垣根の卯の花は木の間の月の心地こそすれ
風吹けば玉散る萩の下露にはかなく宿る野べの月かな (藤原忠通)
派生歌
もれ出づる今ひときはのさやけさに空こそ月の光とは見れ(後水尾院)
・68年ぶりの超満月、雲隠れでお出ましせず残念でしたね。
まあ超満月だけでなく十六夜・立待超月・居待超月もありますからみてみましょうよ。
過去に投稿いただいた記事「ブルームーン」「スーパームーン」で検索してみてください。23番歌・32番歌(蝉丸さんの写真もあり)・36番歌参照
・お聖さんが良しとしている月の二首、いいですねぇ。
卯の花と木の間の月・・・・夏
萩の下露に宿る野べの月・・・・夏~秋
月はどの季節でも絵になります。
79番歌、おおらかで爽やかで好きな歌です。秋の夜の清澄さが誰にも感じとれるわかりやすさも好ましいです。
家集「左京大夫顕輔卿集」によると、無実のことを讒言されて白河法皇の勅勘をこうむったとき、一尺ほどの唐鏡を鋳てその裏に「身をつみて照し治めよます鏡たがいつはりも曇りあらすな」という歌を書きつけて北野天満宮に奉納したとか。 専制君主の逆鱗に触れることのこわさを身に染みて知っていたようです。
顕輔は淡路という女房にたびたび恋文を送ったが、女は返事もよこさなかった。
彼は「いかにせん飛ぶ火も今は立てわびぬ声も通はぬ淡路島山」と吐息をもらしたとか。(日本文学の歴史より)
うまくいかなかったようで・・
個人的理由であげてみたい歌 (千載集 1166)
「あづまぢの野島が崎のはま風にわが紐ゆひし妹がかほのみ面影に見ゆ」
5、7,5、7、7、7 ですが、歌枕「野島が崎」は、外せなくてね・・
智平の推測によれば、百合局さんが旧姓の野島和子を名乗っていた青春時代の楽しい思い出を忘れられないということではないでしょうか。
不思議に思い「野島が崎」を調べてみましたが安房国の歌枕とありまた近江路や淡路にも同名の歌枕があるとのこと。
ウン、なんだろう?と思っていましたが智平さんのコメントに納得です。
男性にはちょっとわかりづらいかも知れませんが女性は旧姓に対する思い入れがあります。
未だに旧姓で読んでくれる友人も多くすぐに反応したりしますね。
・「身をつみて照し治めよます鏡たがいつはりも曇りあらすな」
ひたすら恭順に終始し勘気の解けるのを待つ、専制君主の怖さですね。結局顕輔が陽の当る場所に復帰できたのは白河院が死んでから。
→心の中では「早く死んでくれ」と願ってたのでしょうかね。
・「いかにせん飛ぶ火も今は立てわびぬ声も通はぬ淡路島山」
そうか、相手が陸続きでない淡路島だと飛んで行かねばなりませんもんね。私の心は火と燃えて淡路島まで飛んでいきたいんだけど声が届かない、、。
→そりゃあ恋文は「千鳥」に結びつけなくっちゃねぇ。
・「あづまぢの野島が崎のはま風にわが紐ゆひし妹がかほのみ面影に見ゆ」
そうでしたね。五十数年前、伊勢路の野島が崎には貴公子たちが押しかけ大変な盛況だった、、、。智平朝臣が見て来たように語り継いでいます。
えっ!!ただの旧姓の話じゃないみたい。
五十数年前、伊勢路の野島が崎に何が起きたのですか?
好奇心旺盛な小町姐は「貴公子が押し掛けた」に興味津々です。
真面目なお勉強ばかりじゃ退屈すると思って、話題提供しただけです。楽しめましたか?
貴公子なんていたっけ? 記憶にありません。
まあ、人間、思い出はいろいろあった方が人生を深く生きられるかな?
よくよく考えるに、今の仲間が一番です。
みんな良き友(いい男)です。
これこそ70歳の贅沢な幸せです。(本当ですよ・・)
ホント、ホントみんな「色好み」のいい集団です。
これってホント、光源氏じゃないけど褒め言葉なんですよ!
そりゃあ五十数年前はみんなお姫さまと貴公子でした。偶に思い出してみるのもいいじゃないですか。
さて、今日はハリルジャパンの大一番。ジョーカーは本田じゃなくて浅野です。やってくれるでしょう。
「人麻呂影供」ですか。3柿本人麿で登場しましたが、懐かしいですね。これに使われた人麿の肖像は、もともとは藤原兼房という歌人が良い歌を詠みたいと心に人麿を念じていたら、夢に人麿が現れたので、覚めてから絵師に描かせた人麿像でしたね。その絵は白河院に寄贈されていましたが、顕季は院に願って模写を許され、それが影供に使われていました。
六条藤家は人麿影供を代々受け継いで、歌壇の最右翼として君臨してきましたが、後鳥羽院歌壇以降、ライバルであった御子左家に歌壇の中核勢力としての地位を奪われ、南北朝期には家としても断絶しました。その原因は六条家の家風が万葉集を尊重し過ぎて、訓詁・注釈に拘泥して衒学趣味に堕することが多かったため(Wiki)のようですから、人麿に拘り過ぎて、時代の流れにうまく乗れなかったためと言えそうです。
顕輔の父である顕季は白河院と乳兄弟としてコネのお蔭で、国司を歴任して財力を蓄え、歌人としても和歌の家元である六条藤家の始祖となりました。顕輔は白河院の勘気を被り挫折したものの、院の死後、別のコネで復活したようです。そのコネというのは、姪の藤原宗子(もとこ)が関白藤原忠通の正妻になったこと。そのお蔭で忠通の知遇を得、忠通の娘聖子(きよこ)が崇徳天皇の中宮になると中宮職の亮(次官)となって聖子に仕え、忠通や崇徳院と親密な関係を築けたわけです。言うまでもなく、顕輔は歌才にも恵まれていましたが、正三位に昇り、詞花和歌集の撰者になれたのは、こうしたコネによるところも大きかったと思われます。
さて、79番歌ですが、とても分かりやすくて素直な歌ですね。「爽やか」や「さやか」は俳句では秋の季語ですが、79番歌を見ると昔から秋は爽やかさが相応しい季節と見做されてきたのだと納得しました。八麻呂さんのコメントにもあるように、今夜は所によってはスーパームーンが楽しめるとのことですが、スーパームーンの影もさやけしでしょうか。
・「人麻呂影供」
元々人麻呂の夢を見て絵師に人麻呂の絵を描かせた藤原兼房。76忠通の十男。才覚・見識に乏しく出世できなかったらしい。和歌も志してたようで「元祖人麻呂影供」保持者としてそちらで名を立てればよかったのに。
・「六条藤家」と「御子左家(冷泉家)」
そうか、「六条藤家」没落の影に「人麻呂」ありですか。なるほど。
確かに万葉集は古いかもしれないけど「古今伝授」だって衒学趣味そのものだと思いますけどねぇ。
→まあ正岡子規まで待つしかなかったということですかね。
・順調~挫折~復活~再挫折~出家~死亡
王朝貴族たちはこんなことの繰り返したっだのでしょう。権力者に気に入られるか嫌われるかは紙一重。一番効いたのはコネ、次がカネでしょうかね。一家あげてのコネ。特に家中の女性が天皇・トップ貴族の玉の輿に乗ったりしたらそりゃあ一家をあげてドンチャン騒ぎでしょう。
→顕輔もいい姪を持ちましたね。
→何度も話してますが、玉の輿の一番は25藤原定方の姉胤子でしょう。胤子の嫁いだ源定省が宇多天皇になる。そして胤子が産んだ男の子が醍醐天皇になる。定方もびっくりしたことでしょうね。
79番歌 秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ
取りたてるほどのそえ書きもないままに左京大夫顕輔こと藤原顕輔の歌。
これは明快、すんなりと意味がわかる。何百年も昔の日本語が今、すんなりとわかるというのも私たちの言語のユニークなところである。その長い歴史の中で多彩な言葉をいつくしんできたことを忘れてはなるまい。(阿刀田高)
いつもは饒舌な阿刀田さん、79番歌については言葉少なです。
そこで三木氏の言を引いてみます。曰く。
技巧をこらさないでさわやかな秋の夜を詠いあげる。清涼な秋風に、流れる雲の動きを感じ取りながら、こうこうと輝く月光とは異なった、雲のかなたに隠れがちな月を想起させる。
「詞花集」の選者である顕輔は、旧風に属して物静かな歌いぶりであるが、定家も「麗様」の例歌とするように、これは格調の高い一首である。(三木幸信)
もう一つ、吉海氏からの引用です。
顕輔の代表作とした、俊成は「難波江の葦間に宿る月見ればわが身ひとつも沈まざりけり」歌を絶賛していた。それにもかかわらず定家は、その歌を「八代抄」にすら入れておらず、代わりに「秋風に」歌を撰んでいる。
この「秋風に」歌の調べには、六条家の旧風から離れた流麗で平明清澄な余情が漂っており、だからこそ定家は流派を越えて積極的に評価しているのかもしれない。但し同時代的には「かづらきや高間の山の桜花雲ゐのよそに見てや過ぎなむ」歌の方が、顕輔の代表歌として認められていた。あえて「秋風に」歌が撰ばれたのは、晩年の定家の変容ということになる。(吉海直人)
「歌は世につれ世は歌につれ」。さすがの定家も歳もとれば変りもする。今どきのはやり歌でも歳を重ねて歌い方まで変えている例も多い。79歌の神髄は「シンプルイズベスト」ということでしょうか。
・「秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ」
よくぞおっしゃってくれました。千年前の日本語と今の日本語、変ってない部分が多い。すんなり通じるのです。「79番歌を現代文に書きなおせ」なんて問題は意味がないですもんね。一つだけ「月の影=月の光」ですけど。
→意味が分かりやすいので若い人にもこの歌は人気があるのではないでしょうか。
・「こうこうと輝く月光とは異なった、雲のかなたに隠れがちな月を想起させる」
そうですね、ここがポイントなんでしょうね。月が煌々として眩しいばかり。それは道長の歌ならいいが日本人の心に響く歌にはならないのでしょうね。
・そうですか、一般的には79番歌は顕輔の代表歌とは思われてなかったのですか。それを百人一首に抜擢した。定家の心に響くものがあったのでしょうね。
→流派を越えてライバルグループの方からも「私撰勅撰秀歌撰」たる百人一首に歌を選ぶ。定家の自負のほどが思いやられます。
・「シンプルイズベスト」老後生活の要諦であります。
町にあっても、また田舎道、山頂でその場の月を見て「ああ美しい」と思ったことは多々あったと思うが、それも場が移ればそれまで。これからはこの歌を想起して、もう少しの風雅を感ずることでしょう。これも談話室に立ち寄ったお陰かもしれません。
秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ
小倉百人一首に「月」は12首も採られているとか。ネット上では各々の歌を要約して、7番 天の原・・(故郷の月)、21番 今来むと・・(この嘘つき)、23番 月見れば・・(孤独な月見)、30番 ありあけの・・(薄情な人だ)、#31 朝ぼらけ・・(月か否雪だ)、36番 夏の夜は・・(月隠す東雲)、57番 めぐりあいて・・(もう帰るの)、59番 やすらわで・・(来んのかよ)、68番 心にも・・(逆境も人生)、81番 ほととぎす・・(鳥見逃した)、86番 嘆けとて・・(月のせいさ)、そして79番 秋風に・・(雲と月明り)とありました。
「月に雲」の取り合わせで自然のみを詠じて、余計な情感を挿まないこの歌は良いと思いますね。79番歌が月を詠んだ歌の代表作とする百々爺に同感です。
江戸時代の歌人、戸田茂睡は「この歌感情の深き歌とはいうべからざれども、歌のがら高く、眼前の景色を詞のつづきおもしろく、かようなる歌を上上の歌と云」と褒めた。歌の品格を感じるし、目前の情景を流れるような美しいい言葉で歌い上げるのは、簡単なようでいて実は相当な腕前が必要だ。玄人好みの渋い一首である。(板野博之氏)
この歌とは対照的な歌があるとして
この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば
摂関政治の頂点を極めた道長が詠んだ事で有名なものだが、完全なる満月があたりを明々と照らす様子は権力の象徴ではあっても平安王朝の貴族文化の風情ある情緒とはほど遠いと書く。
今夜のスーパームーンの大きさは68年ぶりですか。あいにく当地では雨で、TV報道の鑑賞でした。18年後に同等の満月が望めるらしいが無理ですね。
・「月」は当時、生活のかなめだったのでしょうね。
三十日毎に満ち欠けを繰り返し、季節・日時の目安になる。夜は唯一の明かり。そんな月も顔を出してくれるかどうかはその日の風まかせ。当てにすると外れる、、、厄介な代物だったのでしょうね。
百人一首に詠まれた月の列記、ありがとうございます。
月を心の友として月に心を寄せる歌が多いですよね。その中でこの79番歌は月が主役で人事は一切入り込んでない。珍しい歌だと思います。顕輔も誉められて喜んでいることでしょう。
・「この世をば、、、」やはり道長にはこれでしょうね。
もし道長が「秋風にたなびく雲の絶え間より、、、」などと詠ったら「殿、どこかお加減でも、、、」と近習は真っ青になったのじゃないでしょうか。
・スーパームーン、18年後ですか。ちょうど米寿の記念年じゃないですか。無理などと言わず挑戦しましょうよ。
→18年待って「また雨かよ」となると目も当てられませんけどね。
夢の途中、明け方のスーパームーン楽しみました。
月々に月見る月は多けれど月見る月は今宵この月の月
でした。
虚構の月で印象的なのは1Q84の蒼白き2つの月でした。青豆、ふかえりとか空気さなぎとか読んで不思議な世界を感じたものです。
ひと昔前のアニメ『AKIRA 』にも月が一部破壊される場面がありましたよね。
毎度皆さんの投稿楽しんでいます。
私も今日のあかつき時、朝刊を取りに出て十六夜の有明超月を見ました。いいもの見たなあと得した気分になりました。
1Q84の蒼白き二つの月、不思議な世界でしたね。ストーリーはすっかり忘れましたがこんな幻想もあるんだろうなと思ったものでした。いまだに子ども連れで宗教勧誘に来る人見かけるとちょっとかなしい気持ちになります。
次回絵、楽しみにしています。よろしくね。
目の前に「真鶴」という川上弘美の文庫本があります。
読み始める前に先ずは解説を読みます。評論家の三浦雅士です。
文学は幽霊を扱うはずのものだったんじゃないかとつぶやいたのは村上春樹。
そんなの当たり前じゃんと応じたのが川上弘美。
川上は「センセイの鞄」の作者。
有情さんと百々爺さんコメントから「1Q84」の蒼白き二つの月を想像してみました。
私、村上春樹を完読したのは「スプートニクの恋人」のみで他の作品は皆途中で投げ出しています。
以前「源氏物語道しるべ」の時、青玉の名でコメントしていたので有情さんから名前の由来は月二つの1Q84でしょうか?と聞かれた事がありました。
ああ、懐かしい!!久しぶりに「あおたま」で変換してみました。
1Q84はやはり幽霊でしょうか?更に三浦氏曰く。
幽霊ならぬ怨霊と言う事では「源氏物語」が素晴らしい先駆だ。
紫式部が天才だったのはその怨霊を幽霊の次元まで洗練させたことでそれが「宇治十帖」に描かれた三角関係の意味だとしている。
いずれ川上は「宇治十帖」の現代語訳を試みるに違いないと・・・
にわかに目の前にある「真鶴」そして「1Q84」に興味がわいてきたのです。
「真鶴」はともかく果たして大長編「1Q84」を読む根気があるだろうか?
幽霊・怨霊、、、何なんでしょうね。
私は根っからの現実主義で神や仏の存在もピンと来ない性分なんですが、人間には思い込み・妄想みたいなものがあるのでしょうね。源氏物語の平安時代は「占いは科学」でしたし、最近になって超自然的な怪奇現象(オカルト)もあるのかなあと思うようになりました。
文学も人間の心の奥に行けば行くほど理屈では語り尽くせない部分に到達するのでしょうか。
→その先駆者が紫式部だと思っています。