さて王朝和歌の大御所、藤原俊成の登場です。俊成-定家、今に伝わる歌道を創り上げた大歌人父子。ポイントは91才の長寿にもあったようです。
83.世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
訳詩: ああ濁世 道はどこにもない
思いをひそめ分け入ってきたこの山奥にも
哀れ 鹿が鳴いている
妻問う声か さてはまた
現世の未練を問うか 鹿の声よ
作者:皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)1114-1204 91才 正三位 定家の父
出典:千載集 雑中1151
詞書:「述懐の百首の歌よみ侍りける時、鹿の歌とてよめる」
①簡にして要、広辞苑で「ふじわらのしゅんぜい」を引いてみました。
【(名はトシナリとも)平安末期の歌人、俊忠の子、97定家の父。皇太后宮大夫。法名、釈阿。五条三位と称。千載集の撰者。歌学を75藤原基俊に学び、74俊頼を尊敬、両者の粋をとり、清新温雅な、いわゆる幽玄体の歌を樹立した。御子左家の基を築く。歌は新古今集以下勅撰集に四百余首載る。家集「長秋詠藻」、歌論書「古来風躰抄」など、ほかに歌合の判詞が多い(1114-1204)】
・余談:名前の読み方 「トシナリ」が正しい、「しゅんぜい」は有職読み。業界用語。
「ふじわらの」と「の」をつけるのは源・平・在原・橘、それに藤原。天皇から苗字をもらった家柄のみ。「織田信長」「羽柴秀吉」「徳川家康」に「の」は入らない。
・家系 道長-長家-忠家-俊忠-俊成-定家・・・・藤原北家である。
長家が御子左家の祖
(御子左とは醍醐帝皇子兼明親王が左大臣になったことから。その御子左邸を長家が譲り受け邸宅としたので長家流を「御子左家」と呼ぶようになった)
祖父忠家:67周防内侍に腕を差し出した人(春の夜の夢ばかりなる手枕に、、)
父俊忠:歌合で72紀伊に歌を詠みかけた人(人知れぬ思ひありその浦風に、、、)
それに対する紀伊の返歌が72(音にきく高師の浜のあだ波は、、、)
俊成の母(藤原敦家娘)の母兼子は堀河院の乳母。本邦楽道の家系。
辿っていくと蜻蛉日記の53道綱母に繫がる。
・俊成の一生
1114 誕生
1123@10 父俊忠死去、葉室家の養子となり葉室顕広を名乗る
1140@27 述懐百首で83番歌を詠む。この時遠江守。この年西行23才で出家
1145@32 この頃美福門院加賀と結婚(加賀の鳥羽院繋がりから俊成の昇進が早まる)
1167@54 正三位 藤原に復帰、俊成と改名
1176@63 出家 法名は釈阿
1188@75 後白河院勅により千載集撰進(1288首 百人一首に14首)
1203@90 後鳥羽院、宮中で九十の賀(15光孝帝の12僧正遍昭への七十の賀以来)
1204@91 死去
→美福門院加賀を妻としたことが大きかった。加賀は定家を始め二男六女を産む。
→俊成と名乗った時期は短い(1167-1176)。百人一首名も釈阿がよさそうだが。
②歌人としての俊成
・若年期より74俊頼に私淑。ただ俊頼は亡くなり75基俊に入門(俊成@20、基俊@80)
・1140 堀河百首に倣い述懐百首を詠む。
→人生の不平・不遇を愁訴。愚痴・歎きの百連発。
いくらなんでも後向き過ぎないか。詠めば詠むほど落ち込むのでは。
・1142-44 崇徳院の久安百首 1400首の編纂(大役)を俊成が命じられた。
・1160-70年代 和歌の家元にどちらがなるか、六条藤家(藤原清輔)との壮絶な闘い。
→清輔は1177 74才で死去。ここから俊成の長寿が功を奏することになる。
・1188 出家後の75才にして勅を受け千載集を撰進。
歌論書 古来風躰抄 「あはれと幽玄」を和歌の基本とした。
・千載集以下勅撰集に418首
→定家465首 貫之435首に次ぐ歴代3位。親子で883首、すごい!
・弟子に97定家、98家隆、91良経、89式子内親王、99後鳥羽院
→正に御子左家、歌道家元の創立者と言えよう。
③俊成の和歌、エピソード
・俊成の自讃歌
夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里(千載集)久安百首
伊勢物語第123段よりの物語取り
昔、男ありけり。深草にすみける女をやうやうあきがたにや思ひけむ、かかる歌をよみけり。
年を経て住みこし里を出でていなばいとど深草野とやなりなむ
女返し、
野とならば鶉となりて鳴きをらむかりにだにやは君は来ざらむ
とよめりけるにめでて、行かむと思ふ心なくなりにけり。
→在五中将、いいですねぇ。俊成も業平に成りきって深草の里と詠んだのでしょうか。
・もう一つの俊成の自讃歌
面影に花の姿を先立てていくへ越え来ぬ峰の白雲(新勅撰集)
・平家物語の中の俊成
平忠度の懇請を受けて千載集に詠み人知らずとして入撰させた。
平家物語巻七 忠度都落
さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山ざくらかな
→古文の教科書にも載ってる超有名場面。読んでると涙が出てきます。
序でに忠度の最後 平家物語巻九
一の谷で源氏方(岡部六弥太)に討たれた忠度、装束に結んだ文から正体が分かる。
ゆきくれて木の下かげを宿とせば花や今宵の主ならまし 忠度
→「さざなみや」の歌ともども桜を詠んでいる。散りゆく平家の象徴として詠んだのだろうか。
③83番歌 世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
・不平・不満を愁訴した述懐百首の歌。27才青年期の歌である。
→父に死なれ葉室家の養子では思うに昇進できなかたのであろうが、愚痴の百連発はいかがなものだろう。
・世の中=太平から騒乱への過渡期、京では僧兵が暴れ回るような時代
(平安末期の世相の不安、無常思想とかの解説もあったが、ちと早いのでは)
道こそなけれ=そんな憂さから逃れる道はないものか。
→この年知人でもあった西行は23才にして出家している。ここで俊成が西行のように世を捨てて出家しておれば定家もおらず百人一首もなかった。
→歌でなんぼ愚痴っても我慢してればいいことあるってことでしょうよ。
・山の奥にも鹿ぞなくなる
5番猿丸大夫歌の本歌取り
奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき
→山の奥でも妻を恋求める鹿の切ない声が聞こえる。山の奥へ遁世しても所詮憂さからは逃れられない、、、。そう思えてよかったじゃないですか。
・歌としては5番猿丸大夫の二番煎じみたいで百人一首にはもっといい歌あるのでは、、、と思うのだが、定家はこれを一番として百人一首に入れた。
→愛する息子が決めたこと、俊成お父さんにも異議はなかったのでしょう。
④源氏物語との関連
・俊成は理知的なものより「心」「艶」「幽玄」を追及。
源氏物語「花宴」の巻の幽艶な情緒に言及し「源氏見ざる歌よみは遺恨のことなり」と述べている。
→和歌においても源氏物語の価値を唱え上げた重要な言であろう。
・山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
源氏物語で山里と言えば、
1 明石の君、明石の尼君が寓居した大堰の山里
身をかへてひとりかへれる山里に聞きしに似たる松風ぞ吹く
(明石の尼君 @松風)
2 夕霧が柏木未亡人落葉の宮を訪ねた小野の山里
山里のあはれをそふる夕霧にたち出でん空もなき心地して
(夕霧 @夕霧)
3 大君・中の君そして浮舟の宇治の山里
涙のみ霧りふたがれる山里はまがきにしかぞもろごゑになく
(大君 @椎本)
松風有情さんから83番絵をいただきました。ありがとうございました。
コメントもよろしくお願いします。
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百人一首生みの親とも言うべき定家の父俊成。
60歳過ぎて遁世し釈阿と名乗ったそうであるが百人一首の読み札を見ると坊主姿ではない。どうしてだろう?
広辞苑の俊成、さすがですね。まさに簡にして要を得ています。
そうですか道長に繋がる家系ですか。
「御子左家」のことよくわかりました。今の冷泉家に繋がるのでしょうか。
父俊忠は俊成が10歳の時に亡くなっている。
この時代父を早くに失うことは後ろ盾をなくし出世の道を失うことに久しい。
そういう例は俊成に限らず今までにもたくさん見てきた。
俊成自身は長寿を全うし後鳥羽院からは建仁3年、二条御所で九十の祝賀を催され法服の袈裟を贈られている。
その装束に和歌の刺繍をしたのが建礼門院右京大夫である。
ながらへてけさぞうれしき老いの波やちよをかけて君に仕えむ
この歌が俊成の立場から詠まれたものか?院の立場から詠まれたものならば
ながらえてけさやうれしき老いの波やちよをかけて君に仕えよ
となり、もとより院からの贈り物の装束ゆえこの2文字を刺繍し直したとは建礼門院右京大夫集に記録されている。
建礼門院右京大夫は後鳥羽院に二度目の出仕をしており俊成の九十の祝賀に立ち会ったのである。
鴨長明の歌論書「無名抄」には俊恵(85番)の『俊成自讃歌事』なる和歌に関する評論がある。
俊恵いはくに始まる文章の中で
鴨長明の和歌の師である俊恵法師が鴨長明に向かって、ある時お話しなさったことには、として俊成と俊恵の会話が紹介されている。
いわゆるどちらが俊成の自讃歌であるかとの問答である。
夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里
面影に花の姿を先立てていくへ越え来ぬ峰の白雲
俊恵はおもかげにの方をとっているが俊成自身は
夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里
という和歌が、わたくしの代表歌(おもて歌)であると思っておりますと答えたという話。
そしてなおも俊恵は長明に対して
み吉野の山かき曇り雪降れば麓の里はうち時雨つつ 俊恵
もしも後の世に俊恵の代表歌はと聞かれたらこの歌だと言って欲しいと鴨長明に伝えたとの事。
定家自身が俊成自讃歌の「夕されば」をとらず世の中よ」を選んだのは何か意図があるのだろうか?とても興味深い所である。
世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
若い時の鬱屈したやるせない心情としては理解できますね。
二首とも素晴らしいと思いますが私は百々爺さんが紹介された伊勢物語第123段よりの物語取りを読んでやはり俊成自身が選んだ
夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里
が自讃歌と思いたいです。
百々爺さんも挙げておられますが私が俊成の話で好きなのはやはり平家物語の「忠教都落」(忠度)の場面である。
忠度とは清盛の末弟で和歌の名手であった。数ある中でも私の好きな名場面である。
薩摩守忠教(忠度)は、いづくよりやかへられたりけん、侍五騎、童一人、わが身ともに七騎取つて返し、五条の三位俊成卿の宿所におはして見給へば、門戸を閉ぢて開かず・・・
生涯の面目に、一首なり共御恩をかうぶらうど存じ候に・・・・と勅撰集が編まれた際に俊成に頼んだ和歌が読み人知らずとして入れられている。
さゞなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな
歴史の狭間でいろんな歌人たちの交錯している姿に思わず引き込まれてしまうのである。
最後に松風有情さん
晩秋の鹿を背景に俊成の愁訴が伝わってきます。
・俊成の一生を見ると「藤原俊成」と名乗った時期は少ないのですね。
10才までの幼少時はともかく、
10才父俊忠死去で葉室家の養子となり「葉室顕広」を名乗る。
14才で美作守に任官、その後も官位につく。
葉室家の庇護は大きかった。
10才~54才 「葉室顕弘」(44年間)
54才~63才 「藤原俊成」(9年間)
63才~91才 「釈阿」 (28年間)
→千載集を撰じたのも「釈阿」だし。「釈阿」とするのが妥当でしょうにねぇ。
・御子左家は俊成―定家-為家と来て為家の子どもの代で二条・京極・冷泉と分流しその内の冷泉家が今につながる和歌の家元になるようです。
・後鳥羽院による宮中で九十の賀にまつわる話、ありがとうございます。建礼門院右京大夫が出てくるのですね。何年もかけて歌集を読まれたそうでなつかしいでしょうね。
建礼門院右京大夫、和歌も裁縫も得意だったようですね。「けさぞ」→「けさや」、「仕えむ」→「仕えよ」ですか。間違いが正せてよかったですね。
→ひらかな文字だったのでしょうが、刺繍って難しいでしょうねぇ。
・平家物語 忠度都落はいい話ですねぇ。俊成卿この時既に70才「釈阿」。千載集撰進過程だった。結局、百人一首には「平家」「平氏」の歌はないのでこの83番俊成卿の話から平忠度を思い出すしかないのでしょうね。
さゞなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな
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先月24日、東京の初雪は54年ぶりの記録であったとか。
我が家の周辺もまさに大雪銀世界。
その初雪を見ながら今回の構図を考え、鳴き声だけで見えないはずの山奥の鹿を見える化してみました。
元バンビだった鹿曰く
『ケモノ道 抜けて人里 踏み入れば
灯火洩れて 女ぞ泣くなり』
とでも謳うでしようか。
鹿の鳴き声はピーピーと鳥の声とも人の口笛とも似て非なるせつない声なんですね。
白い鹿も稀にいるとか奈良公園にも居るそうなので、一度見てみたいものです。
灘の白鹿はよく知っていますが。
チリ、アルゼンチンに生息する世界最小のシカ『プーズー』大きさ柴犬サイズ以下が埼玉の動物園に公開されているらしいので、チャンスがあれば見てきます。
今回シカ尽くしになりました、、ご免。
おまけにもひとつ
あの声は 鹿か?、、鴨かも、
アンッ!カモシカ ♪♪♪
〈ピコ太郎先祖〉
雪山に鹿、ユニークな発想ですね。素晴らしい。
思えば先日(11.24)雪の時、まだ関東の山々は紅葉の盛りでしたもんね。紅葉を踏み分けランラン気分で歩いていた鹿も突然の雪でびっくりしたことでしょうね。
それにしても和歌を絵にするってことは構図を考えなくっちゃいけませんもんね。私みたいに漠然と歌の意味を考えているだけでは絵にはなり得ません。大したものだと感心しています。
幽玄、艶を詠った歌風を築き、新古今調和歌の形成に大きな役割を担った大歌人、俊成。
”田辺聖子 小倉百人一首”によれば、短い詩形の和歌だが、深く入り込むと、その道は限りなく、どんな世界をも深く広く表現できると俊成は主張したと。
やまとうたは、ただ仮名の四十七字のうちより出でて、五七五七七の句三十一字とだに知りぬれば、やすきようなるによりて、口惜しく人にあなづらるるかたの侍るなり。なかなか深く境に入りぬるにこそ、むなしき空の限りもなく、わたの原、波のはたても、きわめも知らずは覚ゆべき琴には侍るべかめれ ”古来風躰抄”
千人万首より、実に百首も載っているが、好きな歌を一部鑑賞コメント付きでいくつか。
春
賀茂社へよみてたてまつりける百首歌に、やまぶきを
桜ちり春の暮れゆく物思ひも忘られぬべき山吹の花(玉葉270)
夏
入道前関白、右大臣に侍りける時、百首歌よませ侍りける時、郭公の歌
昔思ふ草の庵いほりの夜の雨に涙な添へそ山ほととぎす(新古201)
【鑑賞】「心としては、しみじみとした、即ちあはれなものであるが、詞(ことば)の続きの緊密さの上に、おのづから一種の艶(えん)があつて、荒涼のものとはなつてゐない。『涙なそへそ山ほととぎす』と言ふあたりは、むしろ艶であるとさへいへよう。あはれに艶のまじつたものである」(窪田空穂『新古今和歌集評釈』)
秋 爺、小町姐さんとかぶりますが、
百首歌奉りける時、秋歌とてよめる
夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里(千載259)
【補記】鴨長明の『無名抄』の一章「俊成自讃歌事」によれば、俊恵が俊成に「御詠の中には、いづれをか優れたりとおぼす」と尋ねた時、俊成は「夕されば…」の歌を挙げ、「是をなん、身にとりてはおもて歌と思ひ給ふる」と語ったという。
入道前関白太政大臣家に、百首歌よみ侍りけるに、紅葉
心とや紅葉はすらむ立田山松は時雨にぬれぬものかは(新古527)
【鑑賞】「心としては新しいものはない。しかし表現は、一句一句艶を含んで、粘りを持つた、落ちついたものとなつてゐる。力のある、優な姿の歌といふべきであらう」(窪田空穂『新古今集評釈』)。
冬
守覚法親王、五十首歌よませ侍りけるに
ひとり見る池の氷にすむ月のやがて袖にもうつりぬるかな(新古640)
恋
雨のふる日、女に遣はしける
思ひあまりそなたの空をながむれば霞を分けて春雨ぞふる(新古1107)
【鑑賞】「心を主とし、その心を、ありのままの自然によつて具象し、しかも余情のある具象にしようとすることは、俊成の庶幾してゐた歌風である。この歌は、正にそれに叶つたものである」(窪田前掲書)。
雑 世の中で始まる歌
崇徳院に百首歌奉りける、無常の歌
世の中を思ひつらねてながむればむなしき空に消ゆる白雲(新古1846)
【鑑賞】「実際に即した形をもつて詠んでゐる。『むなしき空に消ゆる白雲』は、実景で、同時に暗示的なもので、おのづから無常を思はせるものとなつてゐる。幽玄の趣を持つた余情である」(窪田空穂『新古今和歌集評釈』)。
そして、同じく千人万首より源氏物語絡みの歌
千鳥をよめる
須磨の関有明の空に鳴く千鳥かたぶく月は汝なれもかなしや(千載425)
【本説】「源氏物語・須磨」
友千鳥もろ声に鳴く暁はひとり寝覚めの床も頼もし
百首の歌めしける時、旅の歌とてよませ給うける
浦づたふ磯の苫屋の梶枕聞きもならはぬ波の音かな(千載515)
【補記】磯に寄せる激しい波音を聞く旅人の心細さ。源氏物語須磨・明石を始め、貴種流離の物語を想い浮かべつつ鑑賞してこそ哀れ深い歌であろう。
・世に王道はない。和歌の道も同じ。そうなんでしょうね。俊成は出家の道から戻り世俗・和歌の道を進みつつ、分け入れば分け入るほど深い境地におちいっていくさまを古来風躰抄にまとめあげたのでしょうか。
・須磨の関有明の空に鳴く千鳥かたぶく月は汝もかなしや(千載425)
浦づたふ磯の苫屋の梶枕聞きもならはぬ波の音かな(千載515)
→これは完全に源氏物語須磨・明石の世界ですね。源氏物語の中でも須磨・明石は都を離れての苦労話(貴種流離譚)。俊成の和歌ごころにマッチした世界だったのだと思います。
長寿について、かの佐藤愛子女史はかくおっしゃっておられます。
「九十歳。何がめでたい」。
かく言うものの、やはり長寿はそれだけでめでたいものですよね。談話室メンバーさんを倣って、古典の一つも紐とけばその例はたくさんあります。82番の平安の後期高齢歌人道因しかり。そして今回の俊成翁も。
83番歌
皇太后宮大夫と、いかめしい肩書がそえられているけど、当代きっての歌人・藤原俊成(1114~1204)の歌はどうだろう。この人は藤原定家の父であり、多くの歌人を育てている。
世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
世の中には道がない。快く生きる道。正義の道、前なる道、みんなが幸福に生きる道。逆にいえば、苦しさ、寂しさ、はかなさから逃れる道だ。そんなもの、ない、のである。そこでいろいろ思案を重ね、すべてを捨てて山奥深く入ってみても、ただ鹿が寂しく鳴いているばかりだ。
細々と鳴く鹿の声をどう聞くか。どうしようもないほど深い寂しさ。この世の不条理に思いを馳せなければいけない。この歌を聞いて、そう感じうるかどうか、逆にいえば歌人がそれを人々に感じさせられるかどうか。名人俊成はそれができた。それゆえに、これが名歌となるのだろう。
ややこしい知識に触れておけば、藤原俊成の歌は幽玄体と呼ばれ、息子の藤原定家の方は有心体と呼ばれている。この二つ、なにしろ親子であり子弟でもあるから、どちらも奥深く微妙で、容易に計り知れなくて、でも趣や情緒がひときわ秀でていること・・・。くらいの知識にとどめておこう。
それより巷間よく知られたエピソード(百々爺、小町姐と重なりますが)を改めて。
俊成の時代は源平あい争って、いよいよ平家が都を落ちていく。ある日、平家の武将が一人、俊成の家の門を叩き、
「私ども平家の命運はもう尽きてしまいました。せめて今生の思い出に、私の日頃詠んだ歌から一首でも、勅撰の和歌集に残されれば、これ以上の名誉はありません」と、勅撰の和歌集の撰者となることの多かった俊成のところに百余首を預けた。死を覚悟した落人の切なる願いであった。俊成は意気に感じ、千載集にその一つを選んだ。
さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山ざくらかな
この落人は薩摩守・平忠度。歌集が成ったとき平家は天皇の咎をうける立場に」あったから、この歌は「詠み人知らず」とされたが、背後には歌道に思いを馳せた武人の切実なエピソードがあった。
ついでにもう一つ。
キセル乗車の語源は、煙草具のキセル。両端だけ金属を使い、途中は竹細工など、金属を使ってないから。そしてさらにこれを「薩摩守」とも言う。薩摩守は忠度、つまり「ただ乗り」のしゃれである。歴然たる犯罪ですぞ。決してやってはいけません。(阿刀田高「恋する百人一首」)
お後がよろしいようで。
・「九十歳。何がめでたい」、、ですか?
言ってみたいですねぇ。佐藤愛子さんには本音なんでしょう。おそらくご本人は九十歳なんて意識はなく、きっとまだ青春時代の感覚ではないんでしょうか。つくづく老人格差を感じます。元気を出して若い気分で過せていければと思っています。
・「すべてを捨てて山奥深くに入る」
明石の入道の真直ぐで高潔な人生が思い浮かびます。播磨守を退き京へ帰らず明石で出家、娘明石の君が貴人に嫁ぎ一家の繁栄を取り戻すことを住吉大社に祈願しつづける。明石の君が源氏の娘を生み、その娘(明石の女御)が東宮に入内し若宮を生んだことを見届け、一切を捨て山に入る(その後登場して来ない)。
明石の入道最後の歌(@若菜上)
ひかり出でん暁ちかくなりにけり今ぞ見し世の夢語りする
・薩摩守平忠度
薩摩国って随分遠い。でもちゃんと薩摩守もあったのですよね。平忠度が薩摩守になったのは1180、恐らく一度も赴任はしなかったのでしょう。平家物語巻七の忠度都落が1183年7月、その半年後1184年2月が一の谷の忠度最後(巻九)。源平合戦のすさまじさにぞっとする思いです。
巻九 忠度最後
一の谷の西の大将だった忠度、岡部六野太忠純に討たれる。
六野太が童おくればせに馳せ来って、打刀をぬき、薩摩守の右のかひなを、ひぢのもとよりふつときりおとす。今はかうとや思はれけん、「しばしのけ、十念となへん」とて、六野太をつかうで、弓だけばかり投げのけられたり。其後西にむかひ、声高に十念となへ、「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」と宣ひもはてねば、六野太うしろより寄って、薩摩守の頸をうつ。よい大将軍うったりと思ひけれども、名をば誰とも知らざりけるに、箙にむすび付けられたる文をといてみれば、「旅宿花」といふ題にて、一首の歌をぞよまれたる。
ゆきくれて木のしたかげをやどとせば花やこよひの主ならまし
忠度、と書かれたりけるにこそ、薩摩守とは知りてげれ。太刀のさきにつらぬき、たかくさしあげ、大音声をあげて、「この日来平家の御方にきこえさせ給ひつる薩摩守殿をば、岡部の六野太忠純がうち奉たるぞや」と名のりければ、敵もみかたも是を聞いて、「あないとほし、武芸にも歌道にも達者にておはしつる人を。あったら大将軍を」とて、涙をながし袖をぬらさぬはなかりけり。
→都落の俊成卿との場面ともどもいいですねぇ。忠度、もう二十年早く生まれていればよかったのに。。
俊成の恋に焦点をあてて書いてみます。
新古今集にみえるふたりの贈答歌から、新鋭の歌人俊成の身を焼く恋。
女に遣はしける 俊成
よくさらばのちのもとだに頼めおけつらさに堪へぬ身ともこそなれ
返し 定家朝臣母
頼め置かむたださばかりを契りにて浮き世の中の夢になしてよ
この女性は藤原為隆(寂超)の妻。為隆に嫁いでは隆信(有名な源頼朝像を描いた肖像画の名手)らの子をなし、俊成にめとられては、定家をはじめ八人の子を産んだ。中世を代表する画家と歌人とをふたりながら我が子としたこの女性の血には、芸術的な資質が豊かに流れていたらしい。この恋は32歳前後に成就したようである。
この女が、この恋が、俊成の人生、人生観、さらには俊成の歌にいたるまで、より深く、より美しく練り上げたようです。
恋せずば人は心もなからましもののあはれもこれよりぞ知る
為隆は、俊成30歳の時出家し、俊成が為隆(寂超)の妻をめとったのちも、両者の交わりは絶たれていないようです。
日本文学の歴史からまとめてみましたが、いい恋ですねえ・・
83番歌は、恋鹿の声をきいて、あらためて煩悩の強さを知り、遁世を断念した歌であると、安東次男氏は書いています。また定家は父俊成が出家を断念したときの心の重さを見定めているらしいとも書いています。
謡曲『源氏供養』にある「梅が枝の匂ひに移るわが心藤の裏葉に置く露のその玉鬘かけ暫し朝顔の光頼まれず」は玉葉集、春、俊成の歌「色につき匂ひにめづる心とも梅が枝よりやうつりそめけん」によっています。
謡曲『善知鳥』にある「逃れ交野の狩り場の吹雪に」は新古今、春下、俊成の歌「またや見む交野のみ野の桜狩り花の雪散る春の曙」からきています。
謡曲『丹後物狂』にある「面影の花松かとて」は、新勅撰、春上、俊成の歌「面影に花の姿を先立てて幾重越え来ぬ峰の白雲」からきています。
謡曲『卒塔婆小町』にある「榻の端書き百夜までと通ひて」は千載集、恋二、俊成の歌「思ひきや榻のはしがきかきつめて百夜も同じまろねせむとは」によっています。
・俊成と美福門院加賀との恋歌の贈答、いいですねぇ。
加賀いつ生まれたのでしょう。藤原為経と結婚し隆信(似絵)を生んだのが1142ですからこのとき20才とすると1122生まれ、まあこのくらいでしょう。
為経が出家離縁(1143)、俊成(この時は葉室顕広、三河守)と結婚(1145)、そして二男六女を生み(定家は1162生まれ)、1193死去(72才)。
→すごい女性ですね。結構高齢出産だったんでしょうか。
俊成の加賀への歌は加賀がまだ人妻だった(為経出家前)頃のかもしれませんね。結果的には加賀あっての俊成だったわけで作戦は大成功ということかも。
・恋せずば人は心もなからましもののあはれもこれよりぞ知る
いいですねぇ。これも加賀を妻にしたお陰なんですね。
定家朝臣の母が元、藤原為隆の妻で、為隆に嫁いで隆信(似絵の名手)らの子をなし、俊成に嫁しては、定家をはじめ八人の子を産んだ。
この女性が美福門院加賀ということでしょうか?
この事、百合局さんのコメントで初めて知りました。
その隆信は建礼門院右京大夫の二人目の恋人(最初は平資盛)です。
そして建礼門院右京大夫の母、夕霧は「中院右大臣家夕霧」といい俊成との間に尊円をなし尊円を連れて伊行の元へ嫁し建礼門院右京大夫が生まれたと言われている。
と言う訳で定家、隆信、建礼門院右京大夫らはそれぞれ何らかでつながっている事に気づいたのであるが誠にややこしいですね。
ホント、王朝貴族って狭い世界とはいえ、相関関係は誠にややこしいですね。俊成には加賀の他に6人の妻が確認されていると書いてありましたが、「中院右大臣家夕霧」がその一人なんですね。その夕霧が伊行の元へ嫁し建礼門院右京大夫が生まれたということは、、、
定家と尊円は腹違いの兄弟(父俊成)
尊円と建礼門院右京大夫は胤違いの兄妹(母夕霧)
定家と隆信は胤違いの兄弟(母加賀)
まあ俊成には子どもが20数名いたそうですから、お互いの関係なんぞ気にとめておられなかったのかも。
→それにしても27才にして山奥の道に思い入ったこともあるなんて吹聴している俊成の艶福家ぶりにはあきれてしまいます。
藤原俊成は王朝和歌の大御所だけあって、ネットを見るといろいろな記事や情報が出てきます。その中で、智平が面白いと思ったものをいくつか紹介したいと思います。
1)鴨長明の「無名抄」に歌人顕昭が俊成と藤原清輔が歌合の判者を務めた場合の態度について、述べた話が出ているようです。顕昭が言うには、両者とも歌の判定に「偏頗(えこひいき)」が見られる場合があるが、そうした判定に文句を言われた時に清輔は血相を変えて論争し、自分の判定を正当化した。ところが、俊成は世間の習慣だからなどと曖昧な言葉で紛らわせて論争することは無かったとのことです。この記事の筆者は「俊成は前例のない表現や言葉遣いなども受け入れる柔軟な発想をできる判者でもあったので、息子の定家が代表する妖艶・絢爛・巧緻な新古今調と言われる新しい和歌を受容し、育てることができ、御子左家が六条藤家を凌ぐ歌道家元の地位を築けた」と推測しています。
2)百々爺の解説にある「源氏見ざる歌よみは遺恨のことなり」という俊成の言葉は有名な「六百番歌合」で、「枯野」を題にした女房作(実は後鳥羽院作)の次の歌を俊成が判じた時に使った言葉です。
・見し秋を何にのこさむくさはらの ひとへに変わる野辺の気色に
この歌に対して、相手方から「くさのはらききよからず」(「草の原」は聞きにくい、あまり聞いたことがない)との批判があったのに対して、判者の俊成は源氏物語の「花宴」に出てくる朧月夜の次の歌を念頭に置いて「紫式部は歌人以上に物語を書く能力が優れている。加えて花宴の巻は特に艶である。源氏物語を読まない歌人は残念で遺憾だ」と言って、女房の歌を勝ちと判定したとのことです。
・うき身世にやがて消えなば尋ねても 草の原をば問はじとや思ふ
3)「古来風躰抄」を研究して、俊成の和歌についての認識等を次のようにまとめた記事がありました。
・歌集は新古今和歌集、歌人は貫之・業平・人麿を最良の手本と考えていた。
・歌を評価する表現として「めでたし」「をかし」「ありがたし」の用例が多く、いずれも高い評価で用いていた。
・歌の要素を「詞」「心」「姿」ととらえ、「詞」は伝統的な美を担うものを選ぶように説く。「心」は歌の感動や着想をあらわすほか、詠作の意図をさすことが多い。「姿」は「詞」を選び「心」の感動を詠むことを本質と考えて、美しいものになるように構想を練るべきだと説いている。「詞」「心」「姿」はつながりが深く、切り離して考えるべきものではないと述べている。また、歌の品格を重視し、俊成は上品・優雅な美を求めていた。
4)最後に、Wikipediaにも掲載されている藤原俊成卿のとても立派な像ですが、制作者は文化勲章受章者で日本彫刻界の重鎮であった富永直樹氏です。この像が愛知県蒲郡市竹島園地に建立されたのは、俊成が32~36歳の時期に三河の国司であった時に蒲郡の竹谷・蒲形地区を開発したからだそうです。今や愛知県人の小町姐さんはこの像をご覧になったことがありますか?
智平朝臣殿、よくぞ聞いてくださいました。
数年前シルバーカレッジ班活動で蒲郡を訪れて俊成の像を眺めました。
俊成像は竹島橋のたもとに建ち仰ぎ見るような立派な像でした。
この事はどこかにコメントしたような気がします。
俊成は「蒲郡開発の祖」と伝えられています
竹島は周囲わずかな小さな島ですが観光都市蒲郡のシンボルであり、国指定の天然記念物にもなっています。
島全体が八百富(やおとみ)神社の境内地であり、「竹島の弁天様」として親しまれています。
毎年恒例の「俊成の里 短歌大会」も開かれています。
また蒲郡ゆかりの文学者の資料館「海辺の文学記念館」があります。
館内には蒲郡市出身の直木賞受賞作家「宮城谷昌光氏」や芥川賞受賞作家「平野啓一郎氏」の作品なども展示されています。
皆さま、機会があれば是非訪れて下さい。
そうですか、俊成は「蒲郡開発の祖」ですか。
蒲郡って競艇の町かと思ってましたが文学色豊かな町なんですね。失礼しました。
俊成の三河守は32~36才、丁度この頃美福門院加賀と恋愛~結婚してますね。新婚旅行を兼ねて加賀も蒲郡を訪れていたのかもしれませんね。
・「俊成は前例のない表現や言葉遣いなども受け入れる柔軟な発想をできる判者でもあった」
そうですか、柔軟な発想、これがいいんでしょうね。清輔は怒りっぽかったようですが、82道因法師には歌を負けとして大分恨まれ書状で抗議された際には冷静にいなしたとありましたけどね。まあ相手がライバル御子左家の俊成とあらば話は違ったのかもしれませんね。
・「源氏見ざる歌よみは遺恨のことなり」
俊成のこの言葉の背景の紹介、ありがとうございます。そういうことだったのですね。「草の原」で朧月夜の歌を咄嗟に思いだし、女房の歌を勝ちとした。いいですねぇ。
花宴、源氏がほろ酔い加減で「朧月夜に似るものぞなき、、、」と口遊みながらやってきた右大臣の六女(朧月夜)を抱きすくめコトに及ぶ官能場面でした。
源氏 深き夜のおはれを知るも入る月のおぼろけならぬ契りとぞ思ふ
とて、やをら抱き降ろして、戸は押し立てつ。あさましきにあきれたるさま、いとなつかしうをかしげなり。わななくわななく、「ここに人」とのたまへど、「まろは、皆人にゆるされたれば召し寄せたりとも、なんでふことかあらん。ただ忍びてこそ」とのたまふ声に、この君なりけりと聞き定めて、いささか慰めけり。
そして執拗に名前を尋ねる源氏に対する朧月夜の歌が、
うき身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問はじとや思ふ
(テキストの脚注)
源氏が執拗に名を問うのに応じた歌だが、贈答歌としては、異例にも女の方から詠みかけた贈歌。男に心を傾けてしまった女の相手の情愛を確かめようとする表現
→恋多かった俊成にはこの辺の女心の機微が分かったのでしょうね。
・「古来風躰抄」のまとめ(の紹介)、ありがとうございます。
貫之・業平・人麻呂ですか。順当なとこですかね。
「詞」「心」「姿」三位一体で歌の品格重視。
→やはりこの辺が歌道の家元たるべき所以なんでしょうね。
世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
「述懐百首」の中で鹿をテーマにした歌。27歳の若さで、このような悟りの境地を歌っている。ずいぶん年寄臭い、厭世の気分が横溢しているが、時代風潮であろう。(田辺聖子)ここでいう「道」とは世の中の辛さを逃れる道、方法ということで、世俗を離れてお坊さんになる、出家する事。
俊成が生きた時代は源平の合戦や火事、飢饉、旱魃などさまざまな社会不安が世を覆い、知識人の間には無常観、末法思想が蔓延していた王朝時代の終末期。そんな中、多くの知己が続々と出家し、親友の西行が妻子を捨てて出家したことにショックを受ける。自分も出家しようと山奥に入ったところ、鹿のなんともいえない哀しげな鳴き声が聞こえてきて、ハッと我に返る。「出家したとしても、生きている以上、どこにも逃げ場はないのだ」と気が付いた時の絶望感を詠んだものといわれる。
しかし鹿の一声で心に聞いて俗世を生き抜いて和歌の道を究める事を決意する。以降、歌壇に確実な地歩を固め、実際に出家して釈阿と号する頃には重鎮としての地位を不動のものとして、大器晩成型の人生を送る。
本歌とされる5番歌(猿丸大夫)は晩秋の奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿で哀しい。
松風有情さんの83番絵は寒さ厳しい冬山の雪に足跡を残し、ホワイトアウトする。まさに「幽玄」(姿なき奥深さ)の世界ですね。
現代で鹿といえば奈良公園。春日大社に祭られている神様は、鹿島神宮から白い鹿に乗ってきた武甕槌命(たけのみかづちのみこと)という神様とか。奈良公園の鹿はその鹿の子孫とされていて、大切に保護されている。ここの鹿はあまり鳴かずに、煎餅を求めて人懐っこく纏わりつく。
・全く俊成の生きた時代(1114-1204)はそれまで何百年も長く続いた太平平安な時代とは異なり社会不安の世の中でしたよね。取分け平家・源氏の台頭~源平の争乱と内乱状態に陥る。いくら「紅旗征戎は吾が事にあらず」(定家)を決め込んでも京の貴族たちは「何でこんな世の中になったんや、世が世ならなあ」という気持ちは拭えなかったことでしょう。
・西行の出家に心を動かされ出家を試みるが鹿の声に逃げ場のないことを悟る。
→27才時、俊成の出家願望はどの程度だったのか疑問ですが、もし出家していたら加賀との結婚もなく、定家も生まれていない。
→定家にとって「鹿の声」は「神の声」だった。何をおいてもこの83番歌は御子左家を存続させた歌として外せなかったのでしょう。
定家が俊成37歳頃の自讃歌「夕されば」をとらずに出家願望27歳の頃の「世の中よ」を百人一首に入れたのは深読みすれば自身の存在引いては御子左家の存続という考えも成り立ちますね。
定家がそこまで考えたかどうかはわかりませんけどね・・・
蒲郡は文学だけではなく海の幸も最高です。
更に早生ミカンは三ケ日ミカンに次いで美味しいです。
箱入り娘(温室ミカン)は日本一だと思います。
食いしん坊の小町姐でした。
蒲郡、文学に海の幸に早生ミカンですか。航空写真で見ると海に面しすぐ山もせまってますもんね。ミカン栽培にはうってつけなんでしょう。
何と言っても三河、この地域には住んでる人の誇りを感じます。。。。競艇は忘れます。
→三河、家康公だけじゃないよ。俊成卿もおはしたんだよ、、って覚えておきます。
白洲正子の「私の百人一首」で、83番の解説は6頁を費やし、
”俊成は あわれと幽玄を和歌の基本とし、その歌法は後世の
芸術の指針となった”と評しています (と言っても、この人らしく
末尾に”他の人々と比べて、それほど好い歌とも思えない”と
スカッペをかましていますが)。
確かに、新古今調の家元みたいな人ですね。
しかし一方で俊成は「桐火桶の体」と揶揄されるように、
考え苦しみぬいて歌を作ったようで それを思えば、
あの あわれと幽玄の歌が とても人為的と言うか作為的と言うか、
嘘臭く感じてしまいます。
あわれと幽玄が(和歌の)頂点なら、この辺が、和歌の限界の様な気もします。
王朝貴族から武辺者の時代に移る時に、王朝貴族の側から
極めて人為的なあわれと幽玄さを芸術性の高みと称し、
それ以降の日本文化の方向を決めてしまった。
そう考えると とても複雑な思いがします。
PS 百合局のコメント → 俊成の母=元藤原為隆の妻の話、
よくこんなこと ご存知ですね、
凄いですね。
お久しぶりです。相変わらず元気に飛びまわっておられるようで何よりです。そして時々は「談話室」へ。ありがたいことです。
そうですねぇ、古今調・新古今調と言われても「ああそうかなあ」というくらいしか鑑賞力のない私ですが、百人一首もこの辺りにくると「人為的」「作為的」に過ぎ、明らかに60番台くらいまでの「自然体」での詠み振りと違って来ている感じがします。
題詠(それも「月を隔つる恋」だの「雨中の恋」だの細かいことまで指定して)がそもそも不自然。何を詠むのか、歌の対象、が極めてバーチャルで想像して詠むしかない。「詞」「心」「姿」と言っても結局はあれこれ想像して頭の中で三十一文字を組み立てるという作業になってしまう。
→正に「桐火桶の体」が和歌づくりを象徴しているのでしょう。
(さあ、レアル・マドリード見なくっちゃ)