84番 父顕輔15才の子にして歌学の大成者 清輔 長らへば 

79番藤原顕輔のところで息子の85番藤原清輔とは仲が悪かったとありました。その辺さぐってみましょう。

84.長らへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき

訳詩:    ままよ この捨て果てて悔いないいのち
       とは言うものの 生きながらえてみればまた
       今この時が恋しくなるのは必定さ
       つらかった昔のことがこんなにも懐かしい
       人間とはまたなんという奇妙ないきもの

作者:藤原清輔朝臣 1104-1177 74才 79顕輔の子 正四位下太皇太后宮大進
出典:新古今集 雑下1843
詞書:「題しらず

①藤原清輔朝臣、父は「左京大夫顕輔」として登場するが清輔には官名が附されていない。正四位下太皇太后宮大進では役不足だったのか。
 →何か定家の意図が感じられてならない。

・清輔1104生まれ。俊成1114、俊恵1113より10才ほど年長。
 まあほぼ同じ年代と言うことだろうが83俊成、85俊恵の間に挟まった84番というのが面白い。

・父顕輔1090-1155については79番歌で詳しく書いたので参照。
 (六条藤家の始祖、人麻呂影供継承者→エリート歌人一家の長)
  
・顕輔の次男が清輔 顕輔15才の時の子!(然も次男)
 →平安貴族の結婚が早かったとは言えこれは驚き。
 (源氏物語では朱雀帝の皇子(後の今上帝)が東宮時代15才で明石の中宮13才との間に若宮を生んでいる。いくら何でも幼すぎると思ったが正に事実は小説より奇なりであります)

 「顕輔と清輔は父子ながら不和であった」と言われているが本当のところどうだったのでしょう。
 →たった15才差の息子への感情、そりゃあ普通の父親とは違うでしょう。
 (息子もさることながら自分自身だってまだ成長過程ですからねぇ)
 →若い顕輔も自分の処世(立身出世)に精一杯でとても息子の面倒まで見れなかったでしょう。

 清輔が歌人として頭角を現してからは父子ながらライバルとしての感情もあったのかも。

・そんな家庭で官位は低位にとどまっていたが52才の時父顕輔死亡。
 ここから上昇気運で53才で従四位下太皇太后宮大進に昇任。藤原多子(81実定の妹、二代后)に仕えた。
 →15才差の父とは共存共栄できなかった、、、不幸な父子だったということですかね。

②歌人としての藤原清輔
・千載集以下勅撰集に89首(wiki)或いは96首(千人万首)。私家集「清輔朝臣集」
 父顕輔の死際に人麻呂影供を継承、六条藤家の当主となり歌学を確立させた。
 実作よりも歌学の方が得意分野で「袋草子」(和歌の百科全書とも)、「奥義抄」「和歌字抄」を著す。
 →平安時代歌学の大成者。歌合の判者 歌壇の牽引者。

・六条藤家系図=人麻呂影供の継承者
 藤原顕季(始祖の始祖)―79顕輔(始祖)―84清輔(確立者)-重家(清輔の弟、勅撰歌人)
 →御子左家(俊成・定家・為家)としのぎを削るが南北朝期に六条藤家は途絶してしまう。

・崇徳帝の久安百首に参列 崇徳院の側近くにいた歌人だった。
 二代后多子に仕えてたこともあってか二条帝の勅を受け続詞花集を撰定したが奏覧直前に二条帝は退位死去。
 →父顕輔は崇徳院勅の詞花集の撰定者。
 →顕輔も勅撰集撰定者になり父に並びたかったろうに。運不運、辛いねぇ、キヨスケさん。

・歌合で俊成ともども判者を務め、歌の判定でしばしば意見が食い違った。
 「このかも」論争
 総じて10才年長の清輔の方が優勢であったようだ。
 →そりゃあ覇権争いですから論争するのは当然でしょう。お互い挑発したりされたり。 

・清輔の歌から
 清輔主催で長寿の歌人を集めて催した歌会(尚歯会)で詠んだ歌(82道因法師で出て来た)。
  散る花は後の春とも待たれけりまたも来まじきわが盛りかも
  →歌壇の牽引者として長老歌人に敬意を表したのであろう。

 恋愛模様は語られていない。八代抄に採られた恋歌も下の2首のみ。 
  難波女のすくもたく火の下こがれ上はつれなき我が身なりけり(千載集)
  逢ふことは引佐細江(いなさほそえ)の澪標深きしるしもなき世なりけり(千載集)
  →想像だが学究肌で真面目一辺倒の男だったのではなかろうか。
  →だって「清」のつく人ってそんな感じでしょう。

③84番歌 長らへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき
・どうも人生の述懐歌が続きますねぇ。
 これから先、生きていけば今の辛さも懐かしく思いだすことだろう、、、。
 「さらりと詠んで人の共感を誘う歌」(田辺聖子)

 →生きてさえいればいいことあるさ。楽観的な歌ではないか。

 「すきま風」 杉良太郎(作詞:いではく)
    ・・・・・・
    いいさそれでも 生きてさえいれば
    いつか しあわせにめぐりあえる
    その朝 おまえは すべてを忘れ
    熱い涙を 流せばいい

・昔を懐かしむ。誰にでもある感情。
 同窓会も会社のOB会も昔の苦労話で延々盛り上がる。

・84番歌は清輔何才の時に詠まれたものか?
 私家集所載の詞書の解釈から30才説と60才説があるらしい。
 →苦労人清輔のこと。30才の時既にそんな心境だったのだろう。そしてそれ以降ずっとお経のように本歌を唱え続けていたのではないか。

・使用された言葉の類似性から68番歌との比較もされている。
  68心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな(三条院)
  →68番歌には救いがない。翻って84番歌は前向きな歌でしょうよ。

・白居易の白氏文集によったとする説もある。
  老色日上面  老色、日に面に上り
  欲情日去心  欲情、日に心を去る
  今既不如昔  今、既に昔に如かず
  後当不如今  後、当に今に如かざるべし

  →古今東西普遍的な詩情であろう。
  →でも我ら現代の年寄りにはまだピンと来ませんがねぇ。

④源氏物語、奥の細道との関連
・82「思ひわびて」で宇治十帖、八の宮・大君・中の君の気持ちを忖度したが、彼らも気分のいい時には「生きてみよう、いいことあるかも」と84番歌の心境になったかもしれない。

・藤原清輔は奥の細道、白河の関に登場する。

  此の関は三関の一にして、風騒の人心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣裳を改めし事など、清輔の筆にもとどめ置かれしとぞ。
   卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良

 →清輔が「袋草子」で69能因法師が「秋風ぞ吹く」と詠んだ白河の関を後の歌人が能因に敬意を表し正装して通ったと書いていることを引用している。
 →何度読んでもいい。名文であります。

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30 Responses to 84番 父顕輔15才の子にして歌学の大成者 清輔 長らへば 

  1. 源智平朝臣 のコメント:

    藤原清輔は父の顕輔に疎んじられて、随分と苦労し、昇進も遅れました。その理由は、百々爺の解説のとおり、顕輔自身が一人前の大人になるのに精一杯で、清輔を可愛がる気持ちや余裕を持てなかったからでしょうね。この父子関係と対照的なのは藤原俊成と息子の定家。定家は俊成が48歳の時に生まれた子なので、孫のように可愛いがり、定家にしっかりと歌を教えるとともに、直情径行型の定家が起こしたトラブルの尻ぬぐいを懸命に行いました。

    藤原清輔と言えば、清少納言が「枕草子」の巻頭で「秋は夕ぐれ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに」と書いたのに対して、次の歌を詠んで、秋の面白味は決して夕ぐれだけにあるのではないと反論したことが知られています。
    薄霧のまがきの花の朝じめり 秋は夕べとたれかいひけむ

    清輔は古来より歌枕として有名で、奥の細道にも登場する「武隈の松(たけくまのまつ)」について、奥儀抄に次のとおり由来を書いて、藤原元善が国司に任じられた時に、初めて植えた松であることを明らかにしました。
    武隈の松は何れの代より有りける物とも知らぬ。 人はうへし時と詠まれたればおほつかなくもやとて書いて侍るなり。此の松はむかしより有るにあらず。宮内卿藤原元善といひける人の任に舘の前に始めてうへたる松なり。陸奥の舘は武隈といふところに有。此の人ふたゝびかの国になりて後のたひ(旅)よめる歌也(元善の歌は下記のとおり。以下、省略)。

    武隈の松は古くから幹が二本に分かれているため、「二木(ふたき)の松」とも呼ばれています。この松は、藤原元善が植えてから、野火・伐採・烈風による倒伏などで何度か消失したものの、その後に新たに植えられ、今は7代目の松が聳えています。その間に、藤原元善、藤原実方、橘季通、西行、能因法師などにより和歌に、そして芭蕉により俳句に詠みこまれています。少しわき道にそれますが、ここで武隈の松を詠んだいくつかの和歌と俳句を記せば次のとおりです。
    うゑし時ちぎりやしけむたけくまの松をふたたびあひ見つるかな(藤原元善)
    武隈の松はふた木を都人いかがと問はばみきとこたへむ(橘季通)
    武隈の松はこのたび跡もなし千歳を経てやわれは来つらむ(能因法師)
    桜より松は二木を三月越し(芭蕉)

    84番歌はとても意味深な人生詠嘆の歌であると思います。過去の経験に照らし、長く生きていれば、今の時代だって、また恋しくなるだろうと気を取り直す。智平も含めた多くの人々にとって、成程と納得できる人生の生き方であり、長生きを目指す上での前向きな考え方ともなるので、大いに共感を覚える秀逸な歌ではないでしょうか。

    最後に、今頃と言われそうですが、先週TUTAYAで映画「ちはやふる」のDVDを借りて、上の句&下の句の両方を一気に観ました。智平の感想を記せば、「競技かるたに懸ける少女の情熱・夢・恋を描いた青春映画」というPRのとおりの映画で、深味には欠けるものの、それなりに面白い映画でした。主人公である千早役の「広瀬すず」やかるたクイーン役の「松岡 茉優」(真田信繁の正室「春」役も演じている)は魅力的で可愛い。特に印象に残ったのは映画終盤の舞台となる近江神宮です。社殿は近江造りといわれる立派な建物で鮮やかな朱塗り。近代神社建築の代表として、国の登録有形文化財になっています。この神社の御祭神は1番歌の天智天皇で、毎年、この神社でかるた名人位・クイーン位決定戦や全国高等学校かるた選手権大会(いわゆる「かるた甲子園」)が開催されています。百人一首談話室ブロ終了記念旅行の有力な行き先候補と感じましたが、如何でしょうか。

    • 小町姐 のコメント:

      智平朝臣殿。
      お早いお出まし、てっきり夜型人間だと思っていました。
      私は夜9時には就寝、子ども並です。

      「ちはやふる」御覧になりましたか。
      青春映画そのものでしたね。
      記念旅行はもちろん真っ先に近江神宮を候補にあげていただきたいです。

      今年も映画鑑賞100本を優に超えました。
      私の映画の原点は子ども時代の芝居小屋。邦画の原点はS49年制作の「砂の器」
      この頃は子育てまっ最中で映画、舞台などは全く見る余裕などなく私からこの時代の情報は抜け落ちている。
      数年後テレビで「砂の器」をみていつか劇場でと・・・
      その「砂の器」を40数年後の昨日観てきました。
      脚本が橋本忍、山田洋二だった事に改めて驚きました。
      原作以上の出来栄えの一本だと今なお思っています。

      • 源智平朝臣 のコメント:

        ほんの少しですが、小町姐さんより先にコメントを投稿してしまい失礼しました。遅筆の智平が一番先に投稿できたのは、今日も明日も予定が詰まっていてコメントを書けそうもなかったので、事前にコメント案を準備しておいて、それを多少修正して投稿したというだけのことです。

        今年も映画鑑賞100本以上って、凄いですね。智平は「ちはやふる」以外では、「君の名は。」、「シン・ゴジラ」、「スターウォーズ フォースの覚醒」、「ブルックリン」、「ブリッジ・オブ・スパイ」を観ただけです。「色々なことに手を出し過ぎて時間が無いから」というのが言い訳ですが、映画は楽しいし、視野が広がるのだから、もっと見るべきでしょうね。

    • 浜寺八麻呂 のコメント:

      2016・04・18のコメントで書きましたが、2016・04・15に石山寺を訪れた後、近江神宮に行っていますので、参考まで、それを再度引用します。
      石山寺ともども100番まで終了後、是非行ってみたいですね。

      次は、京阪 石山坂本線で近江神宮へ、百人一首完読旅行に残しておこうかとも思ったが、映画を見たばかりで、抑えきれず、訪問。石山寺発の2両編成の路面電車、車体外側全面に ちはやふるの漫画の絵を描いた電車に偶然に乗る。行き先が近江神宮と書いた電車とその車体が、ちはやふるの絵で埋まったところを写真に納める。また、広瀬すずの写真も載っていたので、思わすツーショット。

      解れば当然だが、近江神宮が天智天皇を祀る神社と境内に入り気づく。凄く立派なお社のある大きな荘厳な神宮、かるた取り大会はお社でやると思っていたが、当たり前だがそんなことはなく、近江勧学館という、別棟で行うと。29日からの ちはやふる 下の句 の上映が楽しみ。

      ちはやふる神代も聞かず竜田川 から紅に水くくるとは  17番歌

      競技会 序歌
      難波津に咲くやこの花冬籠もり、今は春べと咲くやこの花

      神宮のあと、直ぐそばの近江大津宮の遺跡を見る。ご存知、白村江の戦いに敗れたあと、天智天皇が667年に飛鳥から移し、壬申の乱で廃墟となった、5年5ヶ月の短い都。昭和49年ごろから、遺構が見つかっていると。

      秋の田のかりほの庵のとまをあらみ わが衣手は露にぬれつつ  1番歌

    • 百合局 のコメント:

      近江神社には行ったことがありません。
      百人一首談話室終了記念旅行で、行きましょう。
      まだ少し早いようですが、春になったらメンバーみんなが意見を出して行先の検討を始めましょう。
      わくわくする楽しい旅のアイデアを考えましょうね!

    • 百々爺 のコメント:

      忙しいのに真面目ですねぇ。感心です。ありがたいです。あっぱれ!です。

      ・そうですか、定家は俊成の48才の時の子でしたか。まあ何せ子ども二十数名ですからね。もっと驚きは次回の俊恵法師です。びっくりです。お楽しみに。

      ・清少納言と清輔の「秋は夕ぐれか朝か」論争。いいですね。紫の上と秋好中宮との「春秋」論争を思い出しました。勿論どちらにも言い分があり好みの問題なんでしょうが。そこをウジウジせず「秋は夕ぐれ」とキッパリ言い切るところが清少納言の気風の良さ。「秋は夕べとたれかいひけむ
       
       →「ワタシだわよ!何か文句あんの!」清少納言の声が聞こえます。

      ・「奥義抄」やら「袋草子」やら清輔の歌論書は話題の宝庫のようですね。「武隈の松」の由来よく分かりました。有名歌人が相次いで訪れ歌に詠むことで歌枕として盤石な地名となった訳ですね。

       「奥の細道 武隈の松」 を記載しておきましょう。

       岩沼に宿る。武隈の松にこそめ覚むる心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先づ能因法師思ひ出づ。往昔むつのかみにて下りし人、此の木を伐りて名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、「松は此のたび跡もなし」とは詠みたり。代々あるは伐り、あるひは植え継ぎなどせしと聞くに、今将千歳のかたちととのほひて、めでたき松のけしきになん侍りし。
        「武隈の松みせ申せ遅桜」と挙白
       と云ふものの餞別したりければ、
        桜より松は二木を三月越シ

       →「奥義抄」に依ったのでしょうが橘季通の歌も能因法師の歌も見事に書き込まれています。

      ・「ちはやふる」見ましたか。それはよかった。あれは格闘技系体育会の青春部活映画ですね。それはそれでいいんでしょうが、折角日本の文化遺産「百人一首」を扱うのだからもう少し、「へぇ~っ百人一首ってそんなんなんだ!」ってとこ織り込んで欲しかった。まだ完結編はあるようですから是非その時にでも。

    • 百々爺 のコメント:

      完読記念旅行で近江神社は外せない!一つ結論が出たようですね。近江京、壬申の乱→1番2番歌に繋がるところですもんね。是非行きましょう。

      百合局さんご提案とおり年が明けたら時期・場所・企画、、、楽しいこと考えていきましょう。よろしくお願いします。

  2. 小町姐 のコメント:

       長らへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき
    「さらりと詠んで人の共感を誘う歌」(田辺聖子)
    こういう感覚って誰にでも何となくわかる気がします。
    この先どんな世になるのか・・・
    「ながらえば」なんていうほどには生きていませんがあれほど悩み苦しんだ過去が今は懐かしく感じられることってありますよね~。
    清輔の憂しが親子関係であり、どの程度のものであったのか・・・
    そうですか、顕輔15歳の子ですか。今でいえば中3~高1ですよね。
    子どもが子どもを作った感じですね。
    平安後期に袋草紙(歌学書)を著わし二条天皇に献上した。(二条天皇は後白河の第一皇子である)
    六条藤家の家祖である顕季、その子顕輔は家の象徴「人麿影」を与えられ六条藤家を継いだ。
    顕輔の次男に生まれたのが清輔であるが父にうとんぜられ若いころは憂悶の日々を送ったという。
    その苦悩を詠ったもので新古今集には「題知らず」となっている。
    親子関係の確執はその内容にもよるが過ぎこし後に振り返って見れば今はそれも恋しく懐かしく思われると言う事か。

    過ぎ去った恋が懐かしいと言う訳ではなくキヨスケさん、その名の通りまさに清く正しく美しく生きたのですね~。

    奥の細道、白河の関に登場する清輔、忘れていました。
    PCの脇に積んである「おくの細道」調べてみたらありました。
    改めて芭蕉さん、曽良もすごいですね。
    狭いPCスペースに「私の百人一首」や「歳時記」はじめ十数冊の資料が積み上げられて時にひっくり返ったりしますが便利です。

    82番道因法師の時、智平朝臣殿のコメントに藤原清輔が7人の老人を招いて和歌の「尚歯会」を催したとありましたがそのうちの一人が道因、他の老人は誰なんでしょうね。
       散る花は後の春とも待たれけりまたも来まじきわが盛りかも(清輔)
       待てしばし老い木の花に言問はむ 経にける年は誰かまされる(道因)
    いって見れば我々も敬老会談話室を楽しんでいるグループと言えなくもありませんね。

    • 百々爺 のコメント:

      ・顕輔15才の時の子ですがこの15才は数え年ですからねぇ。満年齢では14才。中二ですよ。それに清輔は次男ということなので長男は(母が同じなら)満年齢13才(中一)の時の子。新聞沙汰でしょうね。今の核家族家庭とは比べようもありませんが、ちょっと極端・異常でしょうね。まともな親子関係にならないのが当たり前でしょう。

      ・清輔、結婚はしてるようですが女性との浮ついた話は出て来ません。八代抄に定家は清輔の歌を16首採ってますが恋の歌は上に載せた二つのみ。それも崇徳院百首歌の題詠であまり面白くもありません。

       →やはり父親のオマセサンぶりに恐れをなして女性に対しては委縮してしまったのかもしれません。

      ・小町姐さんのお勉強振りもすごいですね。資料がいっぱい積まれている様子がよく分かります。私の身の回りも雑然そのもの。小町姐さんから譲り受けた八代抄、重宝させてもらってるのですが先ほども八代抄に清輔の歌は何首あったのか調べようとしたら、つい数日前に見た八代抄が見当たらない。探し出すのに5分もかかってしまいました。危うくロストボールならぬロストブックになるところでした。

  3. 浜寺八麻呂 のコメント:

    爺が紹介してくれたが、”顕輔の次男が清輔 顕輔15才の時の子!(然も次男)”とは、知りませんでした。親子仲がよくなかったというが、幼いころは兄弟よくけんかをしていた程度という方が近いのかも。小生が読んだ解説書にはこのことはどれも書いておらず、これは、しかとコメントすべき事柄ではと思ったしだい。

    爺が探している清顕の恋愛事情を詠った歌が、千人万首にあったので、引用します。
    どうも、振られてしまった恋の嘆きで冴えませんが。

    恋の歌とてよみ侍りける

    いかに寝てさめし名残のはかなさぞ又も見ざりし夜はの夢かな(新勅撰833)

    【通釈】どのように寝て目覚めたゆえの、今も残る余韻のはなかさなのか。再び見ることのなかった夜の夢よ。

    【補記】『清輔集』の詞書「しのびてただ一夜物申して後、心ならずかきたえける女のもとへ」に拠れば、「夢」はたった一夜の逢瀬を言う。

    そして、爺が紹介してくれた”藤原清輔は奥の細道、白河の関に登場する”の件、智平朝臣さんの”清輔は古来より歌枕として有名で、奥の細道にも登場する「武隈の松(たけくまのまつ)」について、奥儀抄に次のとおり由来を書いて”や”藤原清輔と言えば、清少納言が「枕草子」の巻頭で”ので始まる解説、小生は全く気づかなかったこと、百人一首を読むことの深みとこのブログに参加する喜びを改め痛感させられましたが、ご両人とも大したものと改め認識もさせられもしました。

    ということで、袋草紙も調べてみましたが、いかが一番解りやすい解説でした。

    日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

    袋草紙
    ふくろぞうし

    平安後期の歌学書。著者は藤原清輔(きよすけ)。「袋草紙」と通称される上巻と、「和歌合(あわせ)次第」または「袋草紙遺編」と称される下巻がある。成立は、上巻が1157年(保元2)か翌58年、引き続き下巻が成った。内容は、上巻が和歌会における細かな作法や故実、『万葉集』以下歴代の勅撰(ちょくせん)集の諸事情や問題点の紹介、歌人の逸話を収める「雑談」、神仏の歌や誦文(しょうもん)歌を集める「希代(きたい)和歌」からなる。下巻は、歌合(うたあわせ)の進行や撰者・判者の故実を論ずる「和歌合次第」、歌合における難陳(なんちん)・難判の例をあげる「古今歌合難」、和歌に対する非難の先例を集めた「故人和歌難」からなる。貴重な和歌研究資料であり、和歌説話集の先駆けともなり、和歌故実の百科全書といえよう。[藤岡忠美]

    • 百々爺 のコメント:

      ・清輔の恋歌の紹介ありがとうございます。これは題詠でなく実際あった恋に基くものですね。事情はよく分かりませんが振られた歌のようですね。でも清輔はこの女性の所へ一夜忍んで行ってコトを成し遂げたんでしょう(女性は清輔を拒まなかった)。それなら続けて通えばいいじゃないですか。「又も見ざりし夜はの夢かな」なんて他人事じゃあるまいし。

       →清輔朝臣、恋への情熱が薄いというか、あきらめが早いというか。

      ・日本大百科全書の「袋草紙」の解説、ありがとうございます。
       (袋草子じゃなくて袋草紙なんですね)

       正に和歌故実の百科全書ですね。折しも時代は保元の乱1156~平治の乱1159、清輔50才代。一番脂の乗りきった年代の産物。騒乱の世に目もくれずライフワークの歌論書に取り組んだのでしょう。それでこそ歌学家元の勤めであります。

       →「袋草紙」内容を簡潔にまとめたダイジェスト版でもあればいいんでしょうに。

  4. 百合局 のコメント:

    清輔と父顕輔との不和の原因の一つに歌に対する意見の相違があったようです。
    日本文学の歴史(角川)の「院政期の歌壇」にあったものを次に記します。

     藤原顕輔の子清輔はなぜか父の不興をこうむっていたが、『詩花集』撰進の院宣が父に下ったのち許されて、父の請うままに撰集についての自分の意見を述べた。しかし、父はそれに同意せず、以後は息子に相談しようともしなかった。~ できあがってみると、清輔の歌は一首もはいっていなかった。~

    清輔は六条藤家として六条家歌学をうちたて『袋草紙』を記し、次の顕昭(顕輔養子)も『袖中抄』(歌語の詳注)を書いています。
    歌学が発達したということは、歌の実作にも批評にも一つ一つのことばの用例に精通している必要性があったからでしょう。しっかり勉強しないと歌も作れなかったということで、なんだか面倒な感じになってきましたね。心のおもむくままに言葉にするのとは全然異なる世界ですね。
    この84番歌はわかり易い歌で、かつ人生の真理が込められていますよね。

    謡曲『頼政』にある「水の水上尋ね来て 宇治の里にも着きにけり」や「宇治の橋守り年を経て」は、新古今集、賀、清輔の歌「年経たる宇治の橋守言問はん幾代になりぬ水の水上」に拠っています。

     

    • 百々爺 のコメント:

      ・顕輔が「詞花集」を撰進したのは1151、顕輔62才、清輔48才の時。
       既に清輔も歌人として相当重きを置かれていた時でしょう。それまで冷たかった顕輔も清輔に声をかけていっしょに撰進作業を始めたのだからそれをきっかけに仲直りすればよかったのに。きっと撰進の過程で路線が食い違い決定的な対立があったのでしょうね。肉親(それも親子)だけにお互い冷静さを欠いてしまった。

       →それにしても六条藤家を継がせる息子清輔の歌を一首も入れなかったというのはどうなんでしょう。勅を受け公正を以て撰歌すべき大歌人の振舞とは思われませんねぇ。

      ・歌学が発達し「詞」「姿」「心」にうるさくなればなるほど歌は実体から離れたものになる。「雅」一辺倒になって「俗」が失われてしまう。この辺が和歌の形式化、衰退化に繋がっていくのでしょうね。

       → ♪ありのままの 姿見せるのよ
          ありのままの 自分になるの
          何も怖くない 風よ吹け
          少しも寒くないわ

  5. 文屋多寡秀 のコメント:

    「勝てた試合」
    誰もが一時はそう思った。サッカークラブワールドカップの決勝。鹿島とレアルの戦いは延長戦にもつれ2-4の惜敗。

    「真田丸」
    三谷幸喜版では、こちらも一時はそう思った。
    だが潮の流れは微妙に変化した。その変化を的確にとらえて攻撃するが肝要。

    なあ~んて勝手に余韻に浸っていたら、な~んと今日は談話室の日。

    早速、事にあたりましょう。

    84番歌 長らへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき

    藤原清輔朝臣(1104~1177)の一首には小説を彷彿とさせるところがある。
    この先長く生きたならば今日この頃が懐かしく偲ばれることもきっとあるんだろうな、だって以前に「いやな世の中だなあ」と思った時が、今、恋しいのだから。思案の構造がわかれば、むしろわかりやすい歌である。今を基準にして未来と過去のことを比較しているのだ。昔の×印が今○印にし見えるのだから今の×印も将来は○印になるかも、と、まことに論理的な判断である。その通りかどうかはわからないけれど・・・。この論理が小説にもときたま用いられているような気がする。きっと名作のなかにある。私(阿刀田)の作品の中にもある。藤原清輔さんもそういうことを、自分の人生に照らしあわせてもっと重々しく読んだわけですね。
     藤原清輔その人について触れておけば、そこそこのエリート、すぐれた歌人、むしろ歌学において秀でていた。長生きをしたので「憂しと見し世」を充分に懐かしく想い出したことでしょうね。短命ではこういう心境にはなかなかなれません。(阿刀田氏)

    年末の足(あっ)しい君は、おいそがしい。向こうからお声がかかっております。
    本日はこのあたりで。

    • 百々爺 のコメント:

      高齢の、いや元へ、恒例の大音楽祭は終えられたのでしょうか。お忙しい中毎度のコメント、ありがとうございます。

      ・日曜日の夜は大興奮でしたね。アントラーズ、やってくれました。全日本よりはるかに上、誰もが口憚らず言ってましたね。金崎(津市東観中→滝川二高へサッカー留学)も男をあげました。一点取って欲しかったですね。(真田丸はまだ見てません。今晩にも見てみます)

      ・「藤原清輔朝臣の一首には小説を彷彿とさせるところがある」
       なるほど、時の流れを物語風に詠うということですかね。9番歌「花の色は移りにけりな」みたいな感じでしょうか。
       
       →小説もいいけどやはり短詩形のあるべき姿は一幅の絵ではないでしょうか。特に俳句では小説は詠むべき姿ではないでしょう。

      ・70番台以降の歌人たちは総じて長命ですね。40~50番台は疫病もあり気の毒なほど短命の歌人が多かったのに大違いです。

       →一度各歌人の寿命リストでも作ってみようと考えています。

      アッシー稼業、ご苦労さまです。がんばってください。

      • 文屋多寡秀 のコメント:

        <高齢の、いや元へ、恒例の大音楽祭は終えられたのでしょうか。>

        さすが百々爺、良いとこ、ついてきますね。まさしく高齢合唱団です。ただ地域のコーラスなんで、老いも若きも集う結果、孫との共演等もありです。お孫さんと、爺ちゃん、婆ちゃんが一緒に歌うことになるわけです。

        来週の月曜日、26日、5時開演です。まあ多寡秀何ぞは顔演技が中心なんで、一部には口パクではとの噂も立っております。

        機会があればDVDなんぞでお楽しみください。

        • 百々爺 のコメント:

          そうだ、26日でしたね。風邪など引かぬよう体調管理に気をつけて臨んでください。お孫さんといっしょに「涙そうそう」なんていいですねぇ。

           →歌詞忘れると口パクも難しい。いや、歌詞は見ながら歌うんですね。それなら老眼鏡も忘れないこと。余計な心配、失礼しました。

  6. 枇杷の実 のコメント:

      長らへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき
    (これから先、生きながら得たならば、今のつらさが懐かしく思い出されるのだろうか。この世をつらいと思った昔が今は恋しく感じれれるのだから。)こういう歌をいい歌だなあと思うのは齢、古希を過ぎたせいか。百人一首にはしみじみと人生の奥深さを味わう歌は他にもあるが、この歌が一番いい。
    この歌は清輔が30代に詠んだという説と、60歳前後に詠んだという説があるという。若き日に父と対立し、出世も出遅れた不遇な状況下で、あえて前向きな気持ちを奮い立たせて詠んだのか、それとも年をとり、ようやく歌人としても政治家としても報われ、過去の困難も今では恋しいと思って詠んだのか、どちらともとれる。こういう心境は誰にでもあるものではないだろうか。(板野博行)

    すでにコメントされていますが、清輔が主催した尚歯会の説話が面白い。「尚」は尊ぶこと、「歯」は「よわい(=齢)」とおなじ意味で、まさに敬老会。これは唐の詩人白居易が創始者ともいわれ、平安時代初期には日本に伝わっていたそうだ。七叟(しちそう=七人の老人)を中心に仲間が集まり、漢詩を作ったり音楽を奏でたりして楽しむというもので、赤いちゃんちゃんこは無いが、杖や衣装等それなりの敬老グッズを身につけたり贈られたりしていたようです。ふつうは漢詩の会を催すのに、清輔たちが開いたのは和歌の尚歯会だったからで、殆ど前例がなかった。
    「古今著聞集」巻5-203にある七叟の歌とは(ネット記事)
     ちる花はのちの春ともまたれけり又もくまじきわがさかりかも(藤原淸輔)
     まてしばし老木の花にことゝはんへにける年はたれかまされる(藤原敦賴)
     年を經て春のけしきはかはらぬにわが身はしらぬおきなとぞなる(藤原顕広)
     なゝそぢによつあまるまで見る花のあかぬは年はさきやますらん(藤原成仲)
     いとひこし老こそけふはうれしけれいつかはかゝる春にあふべき(藤原永範)
     むそぢあまり過ぬる春の花ゆへになをおしまるゝわがいのちかな(源賴政)
     年ふりてみさびおふてにしづむ身の人なみにたちいづるかな(大江維光)

    • 百々爺 のコメント:

      ・「百人一首にはしみじみと人生の奥深さを味わう歌は他にもあるが、この歌が一番いい」

       そうですか、枇杷の実さんの今の心境にピッタリ来ますか。古稀の重みと言おうか達成感と言おうか。爺は古稀まで3カ月弱ありますので、まだ「長らへば」の心境には至っておりません。

       →今度のなごみ会(3.13)には古稀になっている。「長らへば」のご褒美に入場税免除になるのが楽しみです。

      ・清輔が本歌を詠んだ年代、30代説と60前後説。わたしもどちらともとれると思っています。と言うか60前後なら当たり前、30代の若さで本歌が詠まれたと考える方が味わい深いのではないでしょうか。

      ・尚歯会での老人ソング、小町姐さんの質問に答えていただきありがとうございます。そうか、中国(唐)伝来の催しだったのですね。漢詩を和歌に仕立て直して清輔が発案した。やりますねぇ。道因法師は藤原敦頼の名前で載せられてるのですね。

       →それにしても「年寄りの歌」そのものですね。「なゝそぢによつあまる」とか「むそぢあまり」とか具体的ですねぇ。

       →我らが「六十五句会」「なごみ会」というネイミングもまあそれに近いんじゃないでしょうか。

       

  7. 小町姐 のコメント:

    枇杷の実さん
    尚歯会の説話と和歌、並びに七叟の紹介ありがとうございます。
    白居易が創始者とは知りませんでした。
    七叟で思い出したのはどこかの絵画展で七人の老人がそれぞれに楽しんでいる絵を見たことがあります。
    いずれも立派な老人だったような記憶があります。
    やはり八麻呂さんじゃないですがこのブログはすごいです。
    知らなかった情報、知識満載です。
    我々も百々爺を筆頭に源智平朝臣、枇杷の実、浜寺八麻呂、松風有情、在六少将、文屋多寡秀、昭和蝉丸と唐の七叟を上回る頼もしい八叟、そして百合局、小町姐の姫二人、長寿をあやかりたいものですね。

    • 百々爺 のコメント:

      白居易、白楽天→白氏文集、長恨歌なんですね。繋がってますね。

      我らが談話室、集うは八叟と二姫ですか。姫もいいですが(私はそう思っていますが)、或いは「チョイ待ち」っていう輩もいるかもしれません。「叟」に対する女性の呼び方はないようだし、「叟」は男女両方に使ってもいいんじゃないでしょうか。

       →「百人一首談話室に集う十叟」で行きましょうよ。

  8. 小町姐 のコメント:

    悠久の歴史をさかのぼり果てしなく繋がっていく百人一首の世界は魅力的ですね。
    今から百首完了時の事を思うと「百人一首ロス」にならないかと案じられます。

    正直、姫二人は?・・・の心境でした。
    「百人一首談話室に集う十叟」に入れていただいてうれしいです。
    誇り(埃)高く行きましょうよ。

    • 百々爺 のコメント:

      「百人一首ロス」、そうですねぇ、私も源氏物語を終えたあとしばらくボオーッとしてましたから。今度もちょっと心配です。でもこちらは俳句だのハイキングだのゴルフだの色々やってるからまだいいのですが、小町姐さん、文屋さんとは離れてますもんね。

      折角十叟で楽しくやってきたのだから、この(文藝サロン的)集いを何とか続けたいですね。ちょっと考えて相談させてもらいます。

       →それはともかくキチンと100番順徳院までやり遂げること。それが一番であります。

  9. 百合局 のコメント:

     雑談です。
     シネマ歌舞伎「阿古屋」が1月7日から全国公開されます。
     実際の舞台で御覧になった方もいらっしゃると思いますが、坂東玉三郎の表現力、美しさ、いいですよ。お勧めです。
     シネマ歌舞伎なので、お財布にもやさしいのです。               当日2100円、前売り1800円です。
    私は2枚、前売り券を買い、連れ合いへのささやかなクリスマスプレゼントとしました。 (気持ちが大事なんですよ・・)

    • 小町姐 のコメント:

      雑談、続きです。
      私も先日今年最後の映画を見た時シネマ歌舞伎「阿古屋」の前売り(百合局さんと違い一枚だけ)を買いましたのでお正月明けを楽しみにしています。
      最後と言いながら智平朝臣さんがアニメ「君の名は」を観られたと知り急きょ観てきました。
      評判ほどには感動がなく理解できない部分がありました。
      確かに映像は美しく発想も今風ですがやはり古い人間なのかしら?
      以前若いお嬢さんから「君の名は」みた?と聞かれ「私は真知子と春樹のしか知りません」と言ったらきょとんとされました。
      我が家から最寄りのその映画館が来年2月閉館と知りショックでした。

      昭和蝉丸さんは近頃どんな映画を御覧になりました?「君の名」はいかが?
      そうそう「君の名は」で一番印象に残った部分は君の名は?
      誰そ彼 (たれそかれ)という「たそがれ」の語源です。
      その他にも(かたはれどき) という言葉もありこれも 「彼は誰」を語源とするらしい。
      これも百人一首の影響かしら?

    • 百々爺 のコメント:

      雑談がはずんでますねぇ。シネマ歌舞伎、まだ見たことがありません。坂東玉三郎、なんぼのものか一度見てみなくっちゃね。近所の駅でやるようなのでトライしてみます。

      「君の名は」はついに見る機会がなさそうです。孫娘とウチのカミさんは共に2回目で(孫娘は面白いから2回目、カミさんは1回目よう分からんかったから2回目)誘われたのですがゴルフコンペ日。残念でした。

      また色々書き込んでください。

  10. 小町姐 のコメント:

    【余談35】  斎王 幻の宮の皇女
    2016年3月から12月まで10回にわたる三重テレビ特別番組が昨夜終了しました。
    この番組は確か伊勢志摩サミットを記念して制作された番組だったように記憶する。
    初回見た時はさほど感じなかったが二回目「斎王の群行」以降はなかなか良くできた番組であった。
    「斎王」の題字は大河ドラマ「清盛」でお馴染みの書家、金澤翔子による。
    途中「斎宮歴史博物館」の学芸員の講演やカルチャーセンターでの催しなども功を成しかなり内容も充実していた。
    特に「斎王群行」は身近な場所でもあり想像力を逞しくした。
    「斎宮の都市計画」では甦る斎宮跡から、古代都市、王朝文化を再現し正院 中院 外院の都市計画の成立。
    「恋する斎王」では和歌を通して斎宮たちの恋物語。
    業平と恬子内親王もこの地を踏んだのであろうか・・・
    「もうひとつの斎王」では伊勢神宮と斎宮との関係、又加茂社の斎王が何故都にも天皇の名代として皇女が送られたか、その原因になった「薬子の変」との関係など興味深い内容であった。
    そして昨夜の最終回「斎宮の終焉と再生」も見応えがあった。
    初代斎宮大伯皇女に始まり南北朝最後の斎宮、後醍醐天皇の皇女祥子内親王に至るまでの経緯、何故斎宮制度が形骸化し終焉を迎えたか。
    保元の乱に始まる武士の台頭と共に朝廷の権威が薄れ財政がひっ迫していく過程。
    わが背子を大和へ遣るとさ夜ふけてあかとき露に我が立ち濡れし(大伯皇女)
    いすゞ川たのむ心はにごらぬをなどわたる瀬のなおよどむらん(祥子内親王)

    この番組により一層斎宮が身近なものに感じられもう一度斎宮を訪れたくなった。
    そして天上の虹、源氏物語、平家物語、百人一首の歌人や和歌などこれら愛読した日々が歴史の記憶と共に我が胸中に甦り繋がっていること。
    又故郷三重と重なり合う所も多くこの地に生まれた関わりに感謝する思いであった。
    もし伊勢出身の人間でなかったらこれほどの思い入れは無かったかも知れず番組は素通りしたに違いない。
    それとここ数年学んでいる古典文学との関わりも大いに触発された原因かもしれない。

    今後は各局での再放送があるかと思いますがぜひ皆さま機会があればご覧ください。
    第一話 斎王前夜
    題二話 斎王群行
    題三話 斎宮の都市計画
    題四話 御食国と斎宮
    題五話 器が語る斎宮
    題六話 恋する斎王
    題七話 神宮と斎王
    題八話 スピリチュアル斎宮
    題九話 もうひとつの斎王
    題十話 斎宮の終焉と再生
    余談ついでに記念旅行の候補地について近江神宮はすでに決定済みですが小倉山、時雨殿も欠かせない一か所じゃないでしょうか?
    ざっと見ても地理的条件を考慮しなければ逢坂の関、住吉さん、ちはやぶるの龍田川、天の香久山、初瀬等々まだまだいっぱいありそうですね。
    あれこれ考えるのも楽しい日々です。

    • 百々爺 のコメント:

      ・三重テレビ「斎王」シリーズの紹介&感想レポートありがとうございます。そうでした、今年は伊勢志摩サミットでしたもんね。三重県にとって特別な年だったのでしょう。その年に「斎王」シリーズ、好タイミングでしたね。

      「斎王」と聞くと「天皇の皇女(もちろん処女)が京から遥か離れた地でいつ帰れるかもしれず神に身をささげる」というイメージ。人々は畏れ多く無垢で神々しいと同時にちょっとお気の毒、、、そんな感じを持ったのではないか。それを行動に移したのが伊勢物語の業平でしょうか。

      ・来年 1月22日(日)15:00~ BSフジで毎週放映の予定とのこと。
       2ヶ月半の短期シリーズ。集中的に見てみます。

      ・小倉山時雨殿、前回時間なく前を通っただけでしたね。源氏物語完読記念旅行で宇治の源氏物語ミュージアムに行ったのだから今回は時雨殿に行くべきでしょうね。色々考えてみてください。

  11. 昭和蝉丸 のコメント:

    脱線しますが 小町姐さんから名指しで聞かれては
    「今年の映画」を語らずにはいられません。

    ◆今年の封切映画では、洋画では「ハドソン川の軌跡」がNO.1と言う評判ですが、
    ハドソン川に不時着するシーン以外は、クドクド・ウダウダ、
    日本では余りヒットしなかった筈です。
    米映画は収益重視でアメコミやPart2/Part3の氾濫、その究極が
    「バットマンvsスーパーマン」、見終わって悲しくなりました。

    邦画は何と言っても「シン・ゴジラ」と 2本のアニメー「君の名は」と
    「この世界の片隅に」が人気、興業的にTOP3。
    確かに優れた作品と思います。特にアニメ2本は宮崎駿に辟易していたアニメ好きや
    映画そのものをあまり見なかった若者に受けました。

    ◆封切作品ではなく 今年”見た”映画のTOP5 
    (minorなものや中国映画は除外しました。)

    洋画
    ① グラン・トリノ(米)
     → C・イーストウッドの最高作品、アメリカ人の恥部と素晴らしさを一気に味わえます。
    ② セッション(米)
     → 大好きな音楽映画、ジャズドラムのビートが暫く耳鳴りしていました。
    ③ サンバ(仏)
     → パリで料理人をめざすセネガルからの移民と移民相談所のカウンセラーが
       心を交わすたわいないけど、とてもハートフルなお話。
       よく似たのが「グッド・ライ~いちばん優しい嘘~」 これは南スーダンからの
       難民と職業訓練所の女性の、やはりハートフルなお話。
    ④ 黄金のアデーレ 名画の帰還(米/英)
     → 高額ベスト10に入るクリムトの名画を、アメリカに亡命した、持ち主の娘が
       オーストラリア政府を訴え取り返すお話(実話)。
       戦前、現代のウイーンがウットリするほど綺麗です。
    ⑤ ヒトラー暗殺 13分の誤算(独)
     → ヒトラー暗殺計画の映画はたくさんありますが、ドイツ人が懲りずに
       作り続けることに感心します。

    邦画
    ① 海街diary
     → 四姉妹を綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆、広瀬すずが演じます。
       それだけで劇場とwowowとで三回見ました。
    ② あん
     → 元ハンセン病患者が作ったあんを入れたたい焼き、「食べられますか?」
    ③ わが母の記
     → あんと同様、これも樹木希林の独り舞台。原作が井上靖の自伝的小説らしく、
       伊豆が美しく撮られています。
    ④ 岸辺の旅
     → なんとも不思議な映画です。最初のエピソードで亡霊を演じる、小松政夫。
       抜群に良かったです。
    ⑤ シン・ゴジラ
     → 語り尽くされているので略。 ただ一言、映像として、これ以上の映画は・・・。

    長くなって恐縮です。

  12. 小町姐 のコメント:

    昭和蝉丸さま
    返信ありがとうございます。
    評価の基準は人それぞれ、嗜好が大きく左右しますね。
    数だけは多いですがあまりに多すぎて印象に残らないのも確かです。
    つまり良い映画が少ないと言うことでしょうか・・・
    トップ5の中で蝉丸さんとかぶったのは「セッション」と「海街ダイアリー」「わが母の記」の三本。見逃したのは「あん」
    シン・ゴジラ単なる怪獣映画と思いパスしましたが・・・
    映画の三割は過去の名作をデジタルプリントしたリバイバル作品です。
    お勧めがありましたらまた教えて下さい。

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