本年最後の投稿になりました。予定では百番近辺までと考えていたのですが大分遅れました。俊恵法師、あまり馴染のない人ですが、71経信-74俊頼に続く三代目とくれば興味もわいてきます。家を潰すと言われる三代目。三代続けての百人一首入撰は何より一家の誉でしょう。
85.よもすがら物思ふころは明けやらぬ閨のひまさへつれなかりけり
訳詩: 夜ごとわたしはまんじりともせず
つれない人をまちつづける
物思いに更ける夜の なんという長さ
早く白んでくれればいいのに
ああ戸の隙間よ そなただけでも白んで・・・・
作者:俊恵法師 1113-1191頃 79才 74源俊頼の子 東大寺の僧
出典:千載集 恋二766
詞書:「恋の歌とてよめる」
①俊恵法師
・71源経信 ― 74源俊頼 - 85俊恵 と三代に亘る百人一首入選歌人
祖父-父-本人(俊恵)の生年を調べてみるとびっくり!
1016 経信生まれる
1055 俊頼生まれる(この時経信40才)
1097 経信死去(この時俊頼43才)
1013 俊恵生まれる(この時俊頼58才!)
1129 俊頼死去(この時俊恵17才)
1191 俊恵死去 79才
→祖父・父とも相当な高齢出産。俊恵は経信の死の16年後に生まれている。
お祖父ちゃん(経信)のことを知らない俊恵
物心ついたとき父俊頼は60才を越えていた
→前回の顕輔-清輔の15才違いにも驚いたがこちらの方も普通でない感じ。
(現代の核家族をベースに考えるのは妥当でないのかも)
・父俊頼が17才の時死去、後ろ楯をなくし東大寺の僧になる。
→元服はとっくにしてたろうに17才まで官途についてないのはどうしてか。
俊頼も年老いて授かった息子のことをもう少し考えてやればよかったのに。
・東大寺で30年ほど僧を務める。
何故東大寺なのか。東大寺でどれほど熱心に仏道修行に励んだのか。よく分からない。
→肩書きもないしあまり熱心な僧侶だった感じはしないがどうか。
・歌を始めた(出家前13才の時父主催の歌合に出詠した記録はあるようだが)のは40才以降。1160清輔朝臣歌合から作歌活動に熱が入ってきた。
→6-70才から始めた道因法師に似ている。
・東大寺を辞して最初洛西の福田寺の住持を務めここで和歌サロンを始める。
その後洛北白河に自坊を築き「歌林苑(かりんえん)」と称するサロンを運営。
階層・年代・男女を問わず多くの歌人たちが集まり歌を詠み合ったり、論じ合ったり、身の上を慰め合ったりするたまり場(サロン)であった。騒乱の世、20年も続いた。
集ったとされる歌人
82道因法師、84清輔、源頼政、90殷富門院大輔、92二条院讃岐、87寂蓮、鴨長明など
→これはすごい。官(政治)の世界に関係なく僧侶として生きた俊恵だからこそできたことだろう。俊恵の面倒見のよさ、人柄、公正さがうかがわれる。
→世の中、保元~平治の乱・平家の台頭没落・源氏の世へ、、、と大混乱。歌林苑に癒しを求めて集った文化人たちの気持ちが分かる気がする。
→月例(月次)の歌会、都度の歌合。みなウキウキと馳せ参じたのであろう。ホストとしてみなを迎える俊恵の嬉しそうな笑顔が浮かんでくる。
②歌人としての俊恵
・40才過ぎから始めたが残されている歌は千首を越える。
詞花集以下勅撰集に83首 選集に「歌苑抄」「歌林抄」、家集に「林葉和歌集」
・歌道に熱心、ひたむきで評論家として他人の歌を見て様々なたとえをあげて論じている。百人一首一夕話には無名抄にある俊恵の他人歌への評論が数多く載せられている。
・鴨長明1155-1216(勅撰集22首入撰)は俊恵を歌の師と仰いだ。
長明の歌論書無名抄に俊恵のことがしばしば書かれている。
無名抄による俊恵の自讃歌
み吉野の山かき曇り雪ふればふもとの里はうちしぐれつつ(新古今和歌集)
→これが私の一番歌だと後世にしっかり伝えてくれと長明に頼んだようだ。
→僧侶らしい自然詠でいいと思いますよ。
・俊恵の歌の中から
けふ見れば嵐の山は大井川もみぢ吹きおろす名にこそありけれ(千載集)
君やあらぬ我が身やあらぬおぼつかな頼めしことのみな変りぬる(千載集)
→俊成とは違った幽玄を表していると。
→俊成も俊恵は買っていたようで千載集に22首採っている。
③85番歌 よもすがら物思ふころは明けやらぬ閨のひまさへつれなかりけり
・よもすがら=夜通し中 よもすがら秋風聞くやうらの山(奥の細道 全昌寺)
・明けやら「ぬ」、明けやら「で」
千載集も定家も「ぬ」を採っているが「で」の方がいいとの説も多い。
→私も「で」の方が歌のリズム的に繋がりやすい感じがする。
・今夜も来てくれない男を恨む女ごころの歌。
歌林苑での歌合での歌。俊恵が女性になって詠んだ歌。
→21素性法師「今来むと」と同じ。歌意もよく似ている。
俊恵は17才にして出家、法師として一生を過した男。恋に縁はなかった筈。
(出家とは精神的にも肉体的にも女性を断つことだと思うのだが)
→若い頃華やかな官職にあり女性も知っていただろう素性とは違う。
→歌林苑での歌合で「俊恵さん、あなたにも詠めますよ」とけしかけられたのだろうが、どうもいただけない感じがする。
・閨のひまさへつれなかりけり
悶々としていると何もかもが自分に冷たくあたるよう被害妄想的に考えてしまう。
→確かに歌語としては新鮮な感じがする。
・夜離れを嘆く歌で、53道綱母の歌に通じるのではないか。
嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る
・本歌
冬の夜にいくたびばかりねざめして物思ふ宿のひま白むらむ(増基法師 後拾遺集)
④源氏物語との関連
・男の夜離れが一番堪えたのはプライド高き元東宮妃六条御息所であろう。藤壷の身代わりを求め言い寄ってきた源氏に身を委ねたものの、御息所のあまりの高貴さ故に源氏の足は遠のいてしまう。
正妻葵の上が妊娠、車争いでボコボコにされる六条御息所。そんな物思いに乱れる御息所を源氏が訪問。ぎこちない夜を過した翌日源氏からの後朝の文に対する御息所の嘆き節。
袖ぬるるこひぢとかつは知りながら下り立つ田子のみづからぞうき(@葵)
→物語中第一の歌(細流抄)とされる。
15歳で父になった人もいれば年老いて父になった人、様々ですね。
それだけフリーセックスの時代だったのですね。
海外では70代で父になった人もあるらしいし。
今では20数人も子を持てる人なんていないですものね。
さて、
よもすがら物思ふころは明けやらぬ閨のひまさへつれなかりけり
歌はどのように詠むのか、どうすれば佳作が得られるのか現代にも通じるテーマである。
この命題に一家言を持っていたのが俊恵法師である。
「五尺のあやめ草に水をいかけたるやうに歌を読むべし」というのがそれである。歌の家、源家(六条源家)に生まれ祖父は大納言経信(71番)父は源俊頼(74番)王朝和歌史に三代にわたり大きな足跡を記した。十代後半、父と死別し東大寺に入った。後に平安京の郊外白河に歌林苑を主宰し藤原隆信(偽絵で有名、又健礼門院右京大夫の恋人でもある)や寂連法師ら個性的な歌詠みが出入りし開放した。老若男女、身分を問わず誰もが気兼ねなく出入りできるサロンには俗世間の動静よりも芸術に引かれる数奇人たちが集った。挫折を味わい人生に苦悶する鴨長明も熱心な会衆の一人で俊恵を歌の師と仰ぎ弟子入りするほどであった。
夜もすがら物思ふころは明けやらぬ閨のひまさへつれなかりけり 千載集
夜どおしあの人を思って悩む夜は耐えられない、早く明けてほしいのになかなか白んでこない寝室の隙間までもが薄情でつれない。
自讃歌は
みよし野の山かき曇り雪ふれば麓の里はうち時雨つつ(新古今集)
なんらの技巧も用いず淡々と風景を描写しながら背後には冬を迎えた人々の暮らしぶりまでがイメージされる。
春と言へばかすみにけりな昨日まで波間に見えし淡路島山 (新古今集)
ながめやる心のはてぞなかりける明石の沖にすめる月影 (千載集)
作がら大きく風格のある叙景歌にすぐれた才能を発揮した。(以上小林一彦)
鴨長明の無明抄に俊成の歌の評論「俊成自讃歌事」は先の83番俊成の所で述べたとおりである。その中で俊恵の自讃歌は
み吉野の山かき曇り雪降れば麓の里はうち時雨つつ
もしも後の世に俊恵の代表歌はと聞かれたらこの歌だと言ってほしいと鴨長明に伝えたとの事。「風情もこもり素直なる姿」がよい歌である。少しばかり評判をとっても天狗にならず初心を忘れずに精進しなさい。そう俊恵から教えられたと長明は書き残している。
ここまでの出家した歌人に精神的にも肉体的にも女性を断ちひたすら厳しい仏道修行に励んだ人はあまりいないようですね。
あえて言えば66番の大僧正行尊ぐらいじゃないでしょうか?
もろともに哀れと思へ山桜花よりほかに知る人もなし
・「五尺のあやめ草に水をいかけたるやうに歌を読むべし」
俊恵、色々譬を使って歌論を展開しているようですが、その譬がけっこう難しい。五尺って1.5Mですよね。そんなに背丈の高いあやめ草ってありますかね。ススキみたい。水をかけるってそもそもあやめ草は水辺にあるものだし。引き抜いてきた草に水をかけたってねぇ。
→よく分かりません。勢いよく瑞々しくっていうのは分かりますけどね。和歌が瑞々しいとはどういうことなんでしょうね。
・自讃歌
みよし野の山かき曇り雪ふれば麓の里はうち時雨つつ
吉野山の麓の里、山を見ると雪になっている。麓の里はまだ雪ではないが冷たい時雨。冬は着々と迫ってきている。さあ、冬支度を急がなくっちゃ、、、。という感じが伝わってきます。
→28番歌「山里は」は人気(ひとけ)を感じないがこちらは里人の姿が浮かびます。
・66番の大僧正行尊は吉野で荒修行でしたもんね。生臭坊主と揶揄するつもりはありませんが、恋歌はどうかと思ってしまいます。
82 思ひわびさても命はあるものをうきにたへぬは涙なりけり 道因法師
85 よもすがらもの思ふころは明けやらで閨のひまさえつれなかりける 俊恵
86 嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな 西行法師
87 村雨の露もまだひぬまきの葉に霧たちのぼる秋の夕暮 寂蓮法師
法師の歌が続きます。目崎徳衛氏によれば、
この四人には 慈円のような身分の制約はなかった。末代の乱世を脱出し我が道を行く自由を心ゆくまで享受しえた。ある意味では幸福である。定家が前の三人の作としてわざと恋歌を選んだのは、身に僧衣をまといながら恋歌を含む”数奇”の道に自由に身を任せた境涯を 羨望したのかも知れないとあり、納得であるが、これでは法師といわれても困るのである。遁世者が正しいと思ったが、爺のコメントと年譜を見て考え直した。
父俊頼が17歳で死去、その後東大寺で30年ほど僧を務め、その東大寺を辞して
最初洛西の福田寺の住持を務めここで和歌サロンを始める、とある。一方、歌を始めたのは40歳以降、1160年清輔朝臣歌合せ(俊恵 48歳)から作歌活動に熱が入るとある。とすれば、俊恵が歌を本格的に始めたのは、東大寺の僧だったころ(前後)と思われ、熱心な僧侶だったかはわからないが,恋の歌を詠う俗僧のようなイメージではなかったのではと考え直したしだい。
ところで、”歌林苑”をWEBで調べていたら、小倉百人一首あら・かるた BY 京都せんべいおかき専門店 ”小倉山荘”なるサイトに巡り合った。お煎餅やさんの作成している百人一首の解説サイトで、メールマガジンを発信し、バックナンバーがなんと270まである、驚きのサイトです。
その24番のタイトルが”歌林苑の歌人たち”その内容を要約して下記します。
祖父が、公任と同じく三隻の才をうわれた 源経信(71番)、父が金葉集を編纂した源俊頼(74番)、その息子東大寺の僧となった俊恵は、京都白川に僧坊をつくり歌林苑と名づけ、歌会や歌合せを催して多くの歌人を集め、やがて歌壇の一大勢力を形成していきます。
保元の乱の頃から20年ほど続いたといい 歌の研鑽だけでなく、生活上の相談もしていたそうです。歌林苑はまさに乱世の歌人生活共同組合?
歌林苑に集まった歌人の歌
思ひわびさても命はあるものをうきにたへぬは涙なりけり
(82番 道因法師)
夜もすがらもの思ふころは明けやらで閨のひまさえつれなかりける
(85番 俊恵法師)
ながらへばまた此の頃やしのばれむ憂しとみし世ぞ今は恋しき
(84番 藤原清輔)
そして女流歌人
見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず
(90番 殷富門院大輔)
山たかみ峯の嵐に散る花の月にあまぎる明け方の空
(新古今 春 二条院讃岐)
そして男
山めぐる雲の下にやなりぬらむすそ野の原にしぐれすぐなり
(千載集 春 源頼政 讃岐父)
咲きまじる花をわけとや白雲の山をはなれて立ちのぼるらむ
(玉葉集 春 源仲綱 讃岐の兄)
ほととぎすしのぶるころは山びこのこたふる声もほのかにぞする
(千載集 夏 賀茂重保)
もろともに見し人いかんなりにけむ月は昔にかはらざりけり
(千載集 雑 登蓮法師)
以上が、24番目メルマガの要約で、これがなんと270もある。
2-3覗いて見たが、なかなか良くできていて、面白い。天晴れ!!
立派というよりほかはない。
以前にこのブログで紹介されたことがありましたっけ?
https://www.ogurasansou.co.jp/site/karuta/index.html
興味ある方は、是非見てください。
小生は、おせんべいでも買ってみようかと思っています。
なお、年明けはいつからこのブログが再開されるのか、教えておいてください。
では、皆さん、よい年末年始をお迎えください。
このお店「小倉山荘」といいます。「百人一首あられ」(そういう名だったような?)もあって、小袋に百人一首のそれぞれの歌が書いてあり、多人数の会なんかに持参すると話が弾みますよ。お孫さんなんかは自然にそれを読んで歌をおぼえるかもしれません。
日本橋高島屋地下にもお店があります。(ネットの方が楽かな?)
私は時々買い求めます。
そうでした。いろんな種類があって面白いですね。
百合局さんからプレゼントされたのも和歌が書いている小袋の可愛いものでした。
その節はありがとうございました。
お店でプレゼントされる小さめのカレンダーは季節に合わせた和歌がかな文字で流麗に書かれており参考になります。
八麻呂さん、是非お買い求めになってみてね。
昨日早速、高島屋日本橋の小倉山荘に出向き、百人一首 あられ十菓撰 ”かるたあそび”ほかを買い求めました。おかき一つ一つに百人一首の歌が一首づつ書かれて包装されていて、おっしゃるように勉強にもなり楽しい、かつ美味しきあられです。
高島屋のお店は、規模もそうとう大きく、驚いたことに10名以上の買い物客の列ができていました。
知りませんでしたが、かなりの有名店なんですね。
実は、昨日歌舞伎座に行き、坂東玉三郎の”二人椀久”と”京鹿子娘五人道成寺”を観てきました。セリフの無い、玉三郎の踊り中心の舞台でしたが、まるで新年公演のように華やかで綺麗でした。
昨日は今年の歌舞伎座最終日で、かつ最終部でしたので、玉三郎はじめ舞台から客席に手ぬぐいが投げ込まれ、いい締めくくりができました。
ということで、歌舞伎座の前に、高島屋にも立ち寄れました。ご紹介ありがとうございます。
歌舞伎座の今年最後の舞台、観られてよかったですね。かるたあそびのあられも手に入ってなによりでした。楽しい一年の締めくくりとなりましたね。
私は国立劇場の新春歌舞伎公演「通し狂言 しらぬい譚」を1月6日に観ます。尾上菊五郎・菊之助等の出演です。筋交いの宙乗りや屋体崩しもあり、華やかな初芝居を楽しみにしています。
えっ、早速にあられゲットですか。すごい行動力ですね。恐れ入ります。それに今晩は我らがカラオケのホームグラウンド(今年で閉店)に歌い納めに行くって言ってましたね。心置きなく歌ってきてください。みなさんによろしく。
・定家は歌人としての法師たち(8喜撰、21素性、47恵慶、69能因、70良暹、82道因、85俊恵、86西行、87寂蓮)をどう見ていたのか。
→なるほど、俗世間に縛られず数奇な道を自由に生き、恋歌なんぞもひねり出す奔放な生きざまにある種羨望感を覚えていたのかもしれませんね。何せ官位・家格を保ちつつ歌道に精を出さねばならないという重荷を背負って生きた定家ですからね。
上記法師連と12僧正遍昭、66大僧正行尊、95前大僧正慈円とは明らかに違いますね。僧侶といっても出自・身分も僧としての地位も違いますから。この3人は自由な身というより「官の世界」に生きたひとたちなんでしょう。
・「小倉百人一首あら・かるた」HP紹介ありがとうございます。ほんと百人一首に関するサイドディッシュのアラカルトですね。「あられ+かるた」ですか、なるほど。ネイミングも素晴らしい。あられ、百合局さんからもらって食べたことあります。ビールのつまみにもいいですね。
・年明けは1月9日86番歌西行から始める予定です。お正月ゆっくり楽しんでください。
源経信・俊頼・俊恵の三代に亘る歌人は当時から高い評価を得ており、「新古今和歌集」のパトロンで事実上の編集者であった後鳥羽院は、歌論集『後鳥羽院御口伝』で、3人を近き世の歌の上手として、夫々を次のように評しています。
・俊恵の祖父・源経信については、「大納言経信、殊にたけもあり、うるはしくして、しかも心たくみに見ゆ」と評し、新古今和歌集に経信の歌を19首採用しています。
・俊恵の父・俊頼については、「俊頼、堪能の者なり、歌の姿(すがた)、二様(やう)によめり。うるはしくやさしき様も殊に多く見ゆ。又、もみもみと、人はえ詠みおほせぬやうなる姿もあり。…」と、これ以上はないと思われる評価を与えています(新古今和歌集に俊頼の歌を11首採用)。
・俊恵については「俊恵法師、おだしきやうに詠みき。五尺のあやめ草に水をいかけたるように歌は詠むべしと申しけり。…」と評すとともに「優美である」との藤原俊成のコメントを添えています(同和歌集に俊恵の歌を12首採用)。
俊恵を歌の師と仰いだ鴨長明は、百々爺の解説にあるとおり、歌論書「無名抄」で俊恵のことをしばしば取り上げています。その内、次の2つを現代語訳で紹介します。
1)和歌の師弟の契りを結んだ時に俊恵は長明に次のように強く釘を刺した。「歌という物はこのうえなく昔からの心得のうえになりたっているので、私を本当の師と頼むのであればまずこの点をまちがえないようにしてもらいたい。あなたはいずれ、必ず歌人として名を成す人であるうえに、私と師弟の契りを結ばれるのであるから申しておきますが、将来ひとかどの歌詠みになったとしても、わかったような気になって、我こそは歌の上手と思いあがった気持ちで歌を詠むようなことは絶対絶対、ゆめゆめなさるな。」その上で、次を付言した。81後徳大寺大臣藤原実定は優れた歌人であったが、今は「歌を極めた」との慢心があるからか、歌に少しも心がこもらず、どうしても秀歌が生まれない。自分(俊恵)は今も初心を忘れず歌に向かい、自分の思いは二の次にして多少訝しく思っても人が褒めたり批判したりすることを取り入れてきている。これは先人から受け継いだ教えであり、これらを常に保ってきたおかげで、さすがに老いてはきたものの、この俊恵を歌詠みとしてなっていない、と謗(そし)る者がいない。(無名抄第50話「歌人は不可証得事(=悟ってもいないのに、悟ったとうぬぼれないこと)」より)
2)俊恵が83五条三位入道(藤原俊成)のところへ参上した折に、「(入道様の)お歌の中では、どれが優れているとお思いですか。ぜひお聞きしたいと思います。」と申し上げたところ、次の歌が代表的な歌だとおっしゃった。
・夕されば野辺の秋風身にしみて うづら鳴くなり深草の里
このことについて、(俊恵法師が鴨長明に対して)内々で申したことには、「あの歌は『身にしみて』という第三句が非常に残念に思えるのだ。これほど優れた出来になった歌は、具体的な景色や雰囲気をさらりと詠み流して、ただなんとなく身にしみたのだろうな、と思わせるのが奥ゆかしく優れているというものだろう。それなのにたいそう言葉を重ねていって、歌の大切にするべきところ(「身にしみて」というところ)をそのままあっさりと言い表してしまっては、ひどく趣が浅くなってしまった。」(無明抄第58&59話「俊成自讃歌事」&「俊恵難俊成秀歌事」)
上記の1)を読むと、智平は「初心忘れるべからず」という謙虚な心構えの重要性を再認識します。2)については、俳句の選評で魚水宗匠から「それを言っちゃおしまいだ」としばしば言われたことを思い出します。いずれにせよ、真摯かつ熱心に歌道に取組む俊恵の姿勢を示す良い話だと感じました。
最後に、85番歌については、「ひとり寝の寂しい気持ちをユニークに表現した」(吉海)とか「プロ歌人の技巧の歌」(田辺)といった好意的な評価はあるものの、真面目な僧侶でもある俊恵が詠むのに相応しい歌とは思えません。定家には俊恵らしい風景と心情が重なり合った奥ゆかしい秀歌を選んでほしかったと思います。
・後鳥羽院は源経信・俊頼・俊恵の三大歌人を高く評価してたのですね。天皇にこのように褒められるのはそれこそ身に余る光栄でしょうね。勅撰集(新古今)にも選ばれ歌論集(後鳥羽院御口伝)で誉め言葉が後世に残る。してやったりですね。六条藤家(顕輔-清輔)、御子左家(俊成-定家)と藤原が歌道の家元を二分していくような感じですが宇多源氏の末裔たる経信流は一派を立てられなかったのでしょうかね。
→後鳥羽院に誉められるのはいいが私的サロン「歌林苑」主宰者というだけでは一派をなすには権力面で足らないところがあったのでしょうか。
・実定は歌人と言うより権門の貴族、81後徳大寺大臣藤原実定に秀歌が生まれなかったのは慢心というより、歌どころではなかったと言うのが実情ではないでしょうか。平家から源氏へ、世の中は目まぐるしく動く。藤原公卿として世の表に立っていくには日夜情勢分析に必死。
近臣と世を徹して平家か源氏かを論じ合った朝、疲れてボンヤリしているとほととぎすの一声。それが81番歌かもしれません。
ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる
・「さみしい」を「さみしい」と言ってしまっちゃ、おしまいよ。
そうなんですねぇ。
「身にしみて」をどう直せばいいのでしょう。
「そよとして」なんてのはどうでしょう。陳腐ありきたりですかね。
・定家は無明抄読んでいたでしょうにねぇ。何故俊恵自讃の「み吉野の」を百人一首に入れなかったのでしょうね。八代抄にも採ってないし定家は俊恵の自讃歌、無視してますね。ちょっと疑問。
俊恵と長明、俊成と定家、二組の師弟の関係(一組は親子でもある)に興味があります。
年末に長明の「発心集」を終え来年から三カ月かけて「無明抄」に入ります。
講師は貴重な資料をお持ちのようで授業では変体仮名も学びます。
取りあえず小林一彦校注の「無明抄」が明日アマゾンより届く予定です。
来年9日から86番西行法師、楽しみにしています。
それでは皆さま良いお年をお迎えください。
えっ、無明抄ですか。すごいですね。ウチら百人一首やってるから無明抄にも馴染がありますが普通の人(古典愛好者でも)ならおよそ遠い本だと思うのですが。鴨長明の全的分析という観点からなんでしょうね。頑張ってください。そして何か面白い話あれば教えてください。
俊恵法師は歌道に熱心であったこと、20年もの長きにわたって「歌林苑」というサロンを続けて、歌仲間に集いの場を提供したこと、これらを大いに評価したいです。
僧として歌人として、まことに好ましい人物だったような気がします。
これは今の世も変わらない人間の理想の在り方の一つであり、我らが百々爺もその種の人間の系譜に入るのではと、私は思っています。
年末なので一年の感謝をこめて、ありがとうと百々爺に伝えます。
85番歌に関して安東次男は「定家は俊恵の歌に春の夜の余情を読んだのではないか」と書いていますが、そうかなと思いつつ、俊恵法師自身にとっては自讃歌の自然詠の歌が百人一首に入っていた方がよかったように感じます。
後世からみると、新古今集を読む人は限られていますが、百人一首のなかに入っている歌なら馴染みが深いですからねえ。
作った歌がのちのちまで、大勢の人に親しまれてこそ歌人冥利でしょうからねえ。
みなさまどうぞ良いお年をお迎えください。
来年もよろしくお願いします。
・百合局さんにほめられて本当に嬉しいです。やってる甲斐があるというものです。
歌林苑を20年。これってすごいですね。俊恵の人柄を慕い次から次へ人が集まって来て大きな輪となっていく。俊恵のサービス精神、おもてなし、大したものです。歌林苑での月例歌会は参加者にとって何にも増して楽しい集まりだったのでしょう。
→そうそうたるメンバーが集う歌林苑ですがそういう有名歌人たちだけでなく階層を問わず色んな人が集まったとのこと。歌林苑が舞台の小説でもあっていいですね。
・85番歌は春の夜の余情ですか。そうですね、「ねやのひま」という音の響きがなんとなく艶めかしいですもんね。
→花宴の余情につながるのかもしれません。
→私も百人一首には俊恵自讃歌の「み吉野の」の方がよかったと思います。
夜もすがら物思ふころは明けやらで閨のひまさへつれなかりけり
この歌は千載集に「恋の歌とて詠める」となっていて、女性の立場になって詠んだ歌とされる。現代では、この歌を詠むと誰も恋の部にいれないんじゃないか。輾転反復するような「もの思い」は恋のほかに、金策に悩む人、いじめに弱っている人、病苦、人間関係に思い患う人、ストレスの種類も多様なのだ。(田辺聖子)
だが、「妻問い婚」の当時にあっては、「もの思う」は恋の歌とされるのが定石で、恋以外のテーマで読まない。詠むと異端児とされたのかも。
21番 今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな
54番 嘆きつつひとり寝る夜の明くるまはいかに久しきものとかは知る
俊恵は出家して40歳ごろから歌を習い始め、後には歌林苑の中心的人物となる。
歌林苑の会衆は六条家から御子左家への交代期にあった歌壇に一大勢力をなした地下(じげ)の歌人集団で、「五尺のあやめに水をかけたるように歌は詠むべし」(後鳥羽院御口伝)と示されるように、余情に富んだ平明の美を理想とし、実際の歌風もそれを裏付けるものであった。
コメントに取り上げられているように、自然詠にいい歌が多い。千年万首に俊恵の歌として、
春といへば霞みにけりなきのふまで波間にみえし淡路島山(春)
今ぞ知る一ひとむらさめの夕立は月ゆゑ雲のちりあらひけり(夏)
花すすきしげみが中を分けゆけば袂をこえて鶉たつなり(秋)
竜田山こずゑまばらになるまゝに 深くも鹿のそよぐなるかな(冬)
み吉野の山かき曇り雪降ればふもとの里はうちしぐれつつ(冬)
ついでに、
埋れ木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける(源頼政、平家物語)
頼政は歌林苑会衆の一人で、俊恵に師事した。頼政は以仁王と結んで平氏打倒を目指し挙兵したが、六波羅の大群に敗れ自害する。辞世の歌で、宇治平等院にその歌碑が立つ。
・なるほど、85番歌を現代短歌として読むと恋の歌と思わない方が普通なのかも。恋なんてそんな悶々としてするものでないし、逆に悩まなければならないことは仕事上もプライベートもいっぱい。悩み事に堂々めぐりをしている内に夜が明けかかるってことだってあるでしょうし。
→さはさりながら若者たちには真剣に燃える想いの恋をしてもらいたいものですが。
・源三位入道頼政も娘二条院讃岐ともども歌林苑に出入りしてたのですね。平家物語に書かれた辞世の歌の紹介、ありがとうございます。
該当部分抜粋しておきます。
平家物語 巻四 宮御最期
三位入道は、渡辺長七唱を召して、「わが頸うて」と申しければ、「まことにも」とて西にむかひ、高声に十念となへ、最後の詞ぞあはれなる。
埋れ木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける
これを最後の詞にて、太刀のさきを腹につきたて、うつぶさまにつらぬかってぞうせられける。其の時に歌よむべうはなかりしかども、わかうよりあながちにすいたる道なれば、最後の時も忘れ給はず。その頸をばとなふって、泣く泣く石にくくりあはせ、かたきのなかをまぎれいでて、宇治川のふかき所にしづめてげり。
(@宇治平等院 頼政享年76才)
定家の百人一首撰定の基準とは。
もちろん多角的に総合的に判断したのであろうが、一つのヒントが先日、日経夕刊の「あすへの話題」(2016.12.10)欄に取り上げられていました。目にされた方も多いと思います。歌人水原 紫苑曰く。
なぜこの歌人のこの歌を採ったのか。他に名歌があるのに、と思われることもあるのだが、選ばれた歌と比べると、明らかな違いを見出すことが多い。それは韻律、調べである。
百人一首の歌は、同じ歌人の歌の中でも、とりわけ調べが流麗で美しいのである。意味の上ではほかにもっと素晴らしい歌があっても、調べを口ずさむと納得する。
私は、短歌にとって、韻律は生命とも言うべきものだと思う。意味だけなら、詩や小説に到底太刀打ちできないが、韻律の美しさによって、それ以上のものを伝えることが出来るのだ。
定家は百人一首でそのことを教えているに違いない、と。
さて、85番歌
夜もすがら物思ふころは明けやらで閨のひまさえつれなかりけり
定家自身、最初はこの歌をほとんど評価していなかったようで「八代抄」以外の秀歌撰にはない。そもそも俊恵は「詞花集」が初出の歌人であるし、自讃歌は
み吉野の山かきくもり雪ふればふもとの里はうちしぐれつつ
(新古今集588番・無名抄)歌であった。しかし最終的に俊恵を百人の歌人の中に加えたとき、定家は俊恵の特徴たる穏やかな歌(自然詠)を捨て、あえてこの(もの思ふ)歌を撰んでいるいるのである。(吉海直人)
そしてわれらが阿刀田氏は以下のようにのたまわっておられる。
お坊さんだって恋のもの思いを歌うのであって、俊恵法師の歌は悲しく辛い。
もっとも、これは法師自身の心情ではなく、男性が女性の心を推察して歌ったものだ。「夜もすがら」は一晩中、である。あれこれもの思いをしているのに、夜はいっこうに明けないで・・・閨はベッドルームで「ひま」は戸のすきま、そのすきまから朝の光も入って来ず、男は来ないし、朝は来ないし、まったくどいつもこいつも薄情なのねぇー、である。そういう女性心理を坊さんが歌ったわけだ。俊恵法師の歌の場合は・・・現実感がないでもないが、パターン通り、可もなく不可もなし、ではあるまいか。子供のころは、この歌の場合、取り札のほうが、「ねーやのひまさへ つれなかりけり」とあって、はい、「ねぇーやがひまなのかな」だった。とは阿刀田氏の弁。
私なんぞは「閨で暇になんぞしていてはそりゃあつれないわなあ」なんて同情していたものです。
追伸
日本列島をsmap旋風が席巻した昨26日、心配された小雨をものともせず、ここ宝塚・ベガホールは400余名の観客で満員となりました。
そう、第25回 夢のまち宝塚「第九を歌う会」コンサートです。
まあ2~3失敗はありましたが何とか感動の渦の中、フィナーレを迎えることが出来ました。スポットライト、拍手、ロビーでの交歓、この一瞬、役者や、歌手の気持ちがなんとなくわかったような気になります。会場での軽い打ち上げ、河岸を変えての二次会等、何処までが現実でどこからが夢なのか、定かでない中、感謝感謝の多寡秀でありました。
皆様良いお年を。来年もよろしく。
・「定家の百人一首撰定の基準は韻律の良さである」
なるほどそれは説得力ある説ですね。読みなれているせいもあるんでしょうが百人一首の歌は何れも引っかからずにすんなり出て来るように思います。まさか定家が百人一首が歌かるたとして使われるとは思ってなかったでしょうが結果的にそうなった訳ですからねぇ。
→定家は百人一首を一種の口承文学として字の読めない人への浸透も考えたのかも。
→後白河院の今様、梁塵秘抄も頭の中にあったのかも。
・俊恵の自然詠の代表として自讃歌と85番歌、両方並べて口遊むと韻律の良さはどっちもどっちと思いますがねぇ。
→定家が「閨のひまさえ」の方を選んだのはやはり法師に「恋歌を詠ませよう」というある種屈折した心理があったのかもしれませんね。
・400余名の大観衆の喝采を浴びての大合唱、お疲れさまでした。達成感でいっぱいのことでしょう。ゆっくり疲れを癒しまた来年に向けて頑張ってください。
コンサート風景、facebookにupしました。御覧ください。
見せてもらいました。ステージなんて小学校の学芸会を最後に立ったことありません。誇らしかったことでしょうね。大拍手を送ります。
→定家は百人一首を一種の口承文学として字の読めない人への浸透も考えたのかも。
→後白河院の今様、梁塵秘抄も頭の中にあったのかも
あっ!!百々爺さんのこの新説、すごい!!
朝から感動です。
確かに文字の読めない人にも口承で伝わる。
歌う様に口ずさむ・・・それが文学として成り立つ。
アフリカには「口承文学」の分野がありますものね。
遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん
歌謡曲の原典かもしれません。
とすればボブディランのノーベル文学賞も納得です。
・後白河院の今様狂いは何だったのでしょうね。和歌に対する反発心みたいなものかもしれません。
・当時の和歌も歌合なんかで披講されるのは朗詠からでしょうが、作品としては文字になりますからね。口承文学という訳にはいきません。
→人間、先ずは文字より音声と身振り。ウチの小学生もピコ太郎、あっという間に覚えうまいものです。
山奥では大鹿もその角を解(おと)している師走です。
来年は72候の移ろいをもっと味わいながら過ごしたいと思います。
皆様この一年間ブログ楽しませて頂きありがとうございました。
どうか良いお年をお迎えくださいませ。
こちらこそ、有情風百人一首絵を楽しませて頂きありがとうございました。正に百人一首には色々な楽しみ方があるということがよく分かりました。
72候の移ろい、いいですねぇ。歳時記なんかも手元において参考にすれば更に季節に敏感になれるんじゃないでしょうか。そして俳句をひねり始めたりして。道因法師にならって70才から俳句、、、、なんてのもいいかもしれませんよ。蕪村に倣い俳句+絵でいかがでしょう。
来年もよろしく。良いお年を!