さて式子内親王、百人一首中に内親王はこの人だけ(女帝は2持統帝の一人)。平安→鎌倉の激動期に残した数々の恋の名歌。取分け89番歌は百人一首中一二を争う人気歌(田辺)とされる。定家が恋い慕ったとも取りざたされ謡曲など文藝作品で後世に名を残した皇女。どんな人、どんな人生だったのでしょう。
89.玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
訳詩: わが命よ 玉の緒よ ふっつりと
絶えるならば絶えておくれ
このままこうして永らえていれば
心に固く秘め隠しているこの恋の
忍ぶ力が弱まって 思慮が外に溢れてしまう
作者:式子内親王 1149-1201 53才 後白河天皇第三皇女 賀茂斎院
出典:新古今集 恋一1034
詞書:「百首の歌の中に、忍恋を」
①式子 漢音で「しょくし」、呉音で「しきし」
→どちらでもいいようだが業界では「しょくし」らしい。それでいきましょう。
・式子内親王 父は後白河天皇 母は藤原成子(閑院流季成の娘)
→父の母(璋子)の父=公実 母の父(季成)の父=公実
→閑院流の浸透ぶりがよく分かる。
【皇女と内親王】
天皇の娘が皇女。その中で親王宣下を受けたのが内親王。皇女でも母の身分が低いとかの場合内親王にはなれない。
・同母姉に亮子内親王(殷富門院)、同母弟に以仁王、異母弟が高倉帝
→何せ怪物・大天狗と畏怖された後白河院の子ども。それぞれに波乱の人生
亮子内親王は安徳、後鳥羽、順徳帝の准母、以仁王は平家に抗し挙兵、敗死。
・11才~21才 丸十年 賀茂斎院 病を得て退下(式子は病弱だった)
→俗世間から離れ神の妻となって神に奉仕する。
但し洛中賀茂神社の斎院は伊勢斎宮ほどの隔絶感はなかったようだ。
紫野斎院御所では女房・貴族たちの歌宴・楽宴もしばしば。
(一方同母姉妹3人は伊勢斎宮に出仕している。ここは大変)
・斎院退下後は親族の御所御殿に住んだが概ね後白河院の庇護下にあった。
この間住居は変わったが式子内親王家は姉の亮子内親王家(殷富門院)に次ぎ力を持つ存在であり、俊成は娘たちを女房として出仕させ、定家も家司として出仕させた。
→御子左家と式子内親王との関わりである。
・親族を呪詛したと疑いをかけられたりで苦悩、浄土宗法然を戒師として出家。
1191@43才 死去は1201@53才
→経済的に豊かだったからこそ色んな騒動に巻き込まれたのだろう。
→法然の教えは心に響いたようで法然を慕っていたとの説も見られた。
→少女~青年期は神に仕え、晩年は仏に仕える。朝顔の姫君もそうだった。
②歌人としての式子内親王
・現存する和歌は400首に満たないがその内157首が勅撰集に入集(新古今集は49首)
私家集に「式子内親王集」(他撰) 歌合には出てない。百首歌が中心。
・俊成に師事。式子は大変な勉強家だったようだ。
→俊成も全力投入で式子に歌を教えたのであろう。
俊成の歌論書「古来風躰抄」は式子に差し上げたもの。
・式子は後鳥羽院には叔母にあたる。後鳥羽院は歌人としての式子を高く買っていた。
後鳥羽院御口伝
近き世になりては、大炊御門前斎院(式子)、故中御門の摂政(良経)、吉水前大僧正(慈円)、これこれ殊勝なり。斎院は、殊にもみもみとあるやうに詠まれき。
→「もみもみと」、、心を砕き言葉を考え尽して必要にして十分な様に詠むということか。叔母とはいいながら大変な誉め言葉であろう。
・式子の歌 百首歌 即ち題詠の歌が中心だが実生活に基くものもある。
いつき(斎院)の昔を思ひ出でて
ほととぎすその神山の旅枕ほのかたらひし空ぞ忘れぬ(新古今集)
斎院に侍りける時、神館にて
忘れめや葵を草に引き結び仮寝の野辺の露のあけぼの(新古今集)
・91良経との贈答 九条家歌壇が政変で逼塞していたとき
式子 ふるさとの春を忘れぬ八重桜これや見し世に変はらざるらん
良経 八重桜折知る人のなかりせば見し世の春にいかであはまし
・各解説書に載せられている式子の歌。恋歌が中心。何れもすばらしい。
はかなしや枕さだめぬうたたねにほのかにかよふ夢の通ひ路
我が恋は知る人もなしせく床の涙もらすな黄楊の小枕
見しことも見ぬ行末もかりそめの枕に浮ぶまぼろしの中
生きてよもあすまで人もつらからじこのゆふぐれを訪はば訪へかし
忘れてはうち嘆かるる夕べかな我のみ知りて過ぐる月日を
我が恋は逢ふにもかへすよしなくて命ばかりの絶えや果てなん
恋ひ恋ひてそなたになびく煙あらばいひし契りのはてとながめよ
あはれあはれ思へば悲しつひの果て忍ぶべき人誰となき身を
しづかなる暁ごとに見渡せばまだ深き夜の夢ぞ悲しき
→こういう詠み方を「もみもみと」と言うのであろうか。題詠とは言え心に迫るものがある。
・定家は二十年にも亘り式子内親王家の家司として仕え、病気がちだった式子の見舞に過剰すぎるほど訪れている(式子は定家より13才年長)。ここから定家と式子内親王の恋愛説が生まれ、否定肯定入り乱れている。
→謡曲「定家葛」
→公平に見て定家が内親王と情を通じたなんてことはなかったであろう。
→ただ定家が内親王に憧れ恋愛幻想を抱いていたことはあったのだろう。
③89番歌 玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
・「玉の緒」=玉(魂)を繋ぎ止めてる緒、即ち命
万葉集に多出
玉の緒の絶えたる恋の乱るれば死なまくのみぞまたも逢はずして
恋ふることまされば今は玉の緒の絶えて乱れて死ぬべく思ほゆ
「玉の緒」を詠んだ先行歌
緒を弱み絶えて乱るる玉よりも貫きとめがたし人の命は(和泉式部)
絶え果てば絶え果てぬべし玉の緒に君ならんとは思ひかけきや(和泉式部)
→いかにも和泉式部が好みそうな詞である。
・百首歌 「忍恋」
題詠であり観念的な歌なのだが実際にあった現実の恋のような響きである。
→繰り返し唱えていると実にビビッドな感じが伝わってくる。
「忍恋」 漏らしてはならない秘めねばならない禁忌の恋
→我慢しなければならない絶えねばならない辛い恋とは違うのだろう。
・百人一首中の「忍恋」とされるのは40番歌
忍ぶれど色に出でにけり我が恋は物や思ふと人の問ふまで(平兼盛)
→でもこれは漏れてはいけない度合いが89番歌ほどではない感じがする。
・派生歌
思ふことむなしき夢のなかぞらにたゆともたゆなつらき玉の緒(定家)
→式子内親王への「忍恋」に耐えていた定家。
→定家は万感の想いを持ってこの歌を百人一首に撰んだのであろう。
・89番歌は式子が男になり代わって詠んだ男歌だとの指摘もあった(田淵句美子)。
→他解説書には男歌とは書かれていない。
→確かにこういう禁忌な恋は男がするものだと思う。
→定家の式子への想いはまさに89番歌そのものだったのかも。
④源氏物語との関連
・皇女の結婚について
皇女は特別な存在で中々結婚は容易ではない。式子内親王の時代にあっては皇女の結婚の例はないのではないか。平安中期も皇女は不婚が原則だったと思うのだが(63道雅が三条院の皇女で前斎宮の当子内親王との密通事件を起こし三条院の逆鱗に触れたことが思い出される)、源氏物語では皇女も結構結婚している。
→先帝の皇女藤壷は桐壷帝と結婚。桐壷の妹大宮(皇女だろう)は左大臣と結婚
→朱雀帝の皇女女二の宮(落葉の君)は柏木と結婚。そして女三の宮が源氏に降嫁してくることで六条院がひっくり返るのでありました。
平安中期以降入内は藤原摂関家からというのが定例になり、皇女は不婚が原則になったということか。
・89番歌 忍恋の心情
これぞ源氏の藤壷への想い&柏木の女三の宮への想いそのものであろう。
特に「あはれ衛門督」柏木は玉の緒をつなぎとめられず身罷るのでありました。
式子内親王と言えば勿論真っ先にこの歌が思い浮かぶ。
玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
玉の緒よ(我が命よ)という呼びかけが好きで昔から私好みの一首である。
いつもこの歌で思い出すのが中村玉緒さんである。
イメージは相当異なるが「玉緒」という名前、良い名前だなと思っていた。
(以下長文になりますが小林一彦氏の解説を紹介します)
玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
秘めた恋人をこれ以上隠し通せそうにないから私の命よいっそ絶えてしまっておくれ。
娘盛りの時代を斉院、いわば神の嫁として過ごす内親王には生身の男性との恋愛は許されなかった。彼女は病弱でもあったという。
この歌もそういった実人生を重ね合わせてつい解釈してしまいがちである。
ところがこの歌は「忍恋」の題で作られた題詠作品。
片思いに懊悩する男の立場で詠まれた虚構の一首という先人の指摘もある。
題詠はテーマの美的本質をいかに純粋に、しかも質感や実感をともなって可視化できるかが腕の見せ所。
そして彼女はしなやかに虚構から花をつかみ出してくれるのである。
式子内親王は後白河院の皇女であり源平の動乱を生きた。
院には平滋子という清盛の義妹に当たる寵妃がいた。
式子の母も院に愛され皇子二人皇女四人をもうけたが平氏の出身でなかった為、式子と姉や弟妹たちは早くに宮中から遠ざけられた。すぐ下の弟は幼くして出家し仁和寺に入る。
末弟は親王になれず王のまま不遇をかこち諸国の源氏に平氏追討の令旨を発した以仁王である。宇治で戦いに及び流れ矢に当たって敗死した。
当時の皇室には未婚の女子を最高の巫女として伊勢神宮と加茂社に遣わす制度があった。
伊勢は斎宮、加茂は斉院と呼ばれた。姉二人そして式子も11歳の時に斉院に撰ばれるも病を得21歳で退下するまで加茂社に仕え洛外に住まいした。
忘れめや葵を草に引きむすび仮寝の野辺の露の曙(新古今集)
祭事の為に斉館に籠もり迎えた朝の感慨を詠じた歌である。
ほととぎすその神山の旅枕ほのかたらひし空を忘れぬ
斉院の時代を回想しての一首。
往時を意味する「その上に」に加茂社の御神体「神山」が掛詞となって連接する。
これらは詠作事情を記した詞書から実人生を背景にした折々の歌であることが確かめられる。
彼女は俊成を師と仰ぎ、歌は清冽にしてたおやかな調べが魅力。
読みあげたり朗唱した時「何となく艶にもあはれにも聞こゆる」それが歌なのだとは師の教え。
俊成は王朝恋物語に「もののあはれ」を見出し詞でたやすく言い表せない情緒こそ大事にすべきだと説いて次世代の新古今集の歌人たちを導いた。
新古今集に49首の入集は女流第一位を誇る。
山深み春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水
窓ちかき竹の葉すさぶ風の音にいとど短きうたたねの夢
桐の葉も踏み分けがたくなりにけりかならず人を待つとなけれど
声に出して読むとせつなさが快いまでに沁みとおる。
いずれも白楽天の漢詩句「松門暁に到るまで月は徘徊す」「風の竹に生る夜窓の間に臥せり」
「秋の庭掃はず藤杖を携へて閑かに梧桐の黄葉を踏んで行く」からの影響が喧伝されている。
だが自然の移ろいに心情をふくませ流水のごとく和文脈によみなす確かな技は彼女ならこそ。
翻案の域を超え他の追随を許さない。
たとえば桐の葉も」の歌。
桐は一枚ずつ静かに大葉を落とす、秋の夜まだ枝に残る葉から葉へとすがりつくようにゆっくりと落ちて行くのだ。ひとしきり続くカサコソという摩擦音は誰かが落ち葉を踏み分けて訪れてきたかと紛うばかり。
しぐれつつ人めまれなるわが宿は木の葉の散るを誰かとぞ思ふ(曽禰好忠)
の先例もある。
踏み分けがたく積もる桐の葉は一枚散るごとに誰か尋ねてきたのかと驚かされた夜の重なりそのもの。
式子が数えた誰も来るはずのないいくつもの夜を想う時、下句「かならず人を待つとなけれど」の哀感はひときわ深まる。
以上ちょっと長い解説です。
(おまけ)
前回88番で百々爺さんがAI(人工知能)に触れていましたが小林一彦氏曰く。
データの中から類歌の典拠らしいものを突きとめて良しとする検索競争に明け暮れる昨今の研究はいずれ人工知能に取って代わられるだろうと述べていました。
・小林一彦先生の熱のこもった解説の紹介ありがとうございます。
89番歌、この強烈な恋歌を内親王(皇女)が詠んだというところに大きな重みがあるんだと思います。百人一首に女性は21人ですが、2番の持統帝は謂わば大和時代を象徴する形式的な存在。その後の9小野小町以下は貴族の妻ないし宮廷・貴族に仕える女房に過ぎない。ここに来て雲の上の存在の皇女が登場し詠んだ歌が「えっ、すげぇなぁ!」と驚く強烈な恋歌だった。これぞ百人一首の人模様絵・歌模様絵に極彩色をもたらした一首だと思います。
→皇女と言えばおっとりとしててあまり自我を出さないイメージだが強烈な恋歌。その落差がいいのかも。
・賀茂の斎院として丸十年。百人一首に唯一登場する斎院・斎宮経験者。
これも和歌(取分け恋歌)の世界では式子内親王の持つ大きな勲章でしょう。
→式子内親王に歌を詠みかける定家はさぞ自分を在原業平になぞらえていたのではないでしょうか。
・「新古今集に49首の入集は女流第一位を誇る」
後鳥羽院&藤原定家、この二人がそれぞれに内親王に想いをよせて強力に推し進めたのでしょうか。でも式子内親王の歌は誰がみても圧倒的な存在感を持った秀歌。誰も文句をつける人はいなかったでしょう。
買い求めた”広辞苑”によれば、”もみもみ”とは、”あっさりと表現せず、曲折をつくすこと”とあり、爺の解説の通り。
この式子内親王は、63番歌以降では、西行と並び大好きな歌人となった。
これは有名な歌で、少しは頭に残っていたが、今回89番歌を調べ、式子内親王の解説を読み、千人万首で100首読み、初めて知ることになったことではあるが、このブログをやって来てよかったと今回も思った。こういう、発見と感激があるのは、なんとよいことか。
72番歌以降の女歌は、”生活機能から遊離した詠歌が技術的・専門的にだけ深まって行った”と目崎徳衛氏は厳しいが、この89番歌は”もみもみ”とすばらしいことは勿論として、爺が引用してくれた式子内親王の恋の歌9首は、詠歌とはいえ、実体験に基づく心の叫びのようなものが響いており、西行と同じく訴えかけてくる力が非常に強い。
爺も書いてくれているし、また小町姐さんが引用してくれた”小林一彦氏の解説”にもあるとおり、極めて優れた歌だと思う。
千人万首より、
「彼女の歌の特色は、上に才氣溌剌たる理知を研いて、下に火のやうな情熱を燃燒させ、あらゆる技巧の巧緻を盡して、内に盛りあがる詩情を包んでゐることである。即ち一言にして言へば式子の歌風は、定家の技巧主義に萬葉歌人の情熱を混じた者で、これが本當に正しい意味で言はれる『技巧主義の藝術』である。そしてこの故に彼女の歌は、正に新古今歌風を代表する者と言ふべきである」(萩原朔太郎『戀愛名歌集』)
とあるが、いいえて妙なり。
恋歌のほか、彼女の四季の歌もすばらしい(恋がらみも多いが)ので、千人万首より、書き抜きます。
梅が枝の花をばよそにあくがれて風こそかをれ春の夕闇
百首歌たてまつりし時、夏歌
かへりこぬ昔を今と思ひ寝の夢の枕ににほふ橘(新古240)
秋きぬと荻の葉風のつげしより思ひしことのただならぬ暮
題しらず
風さむみ木の葉はれゆく夜な夜なにのこるくまなき庭の月かげ(新古605)
・「もみもみと」
広辞苑に後鳥羽御口伝がそのまま引用されてるんですね。なるほど。これって後鳥羽院の造語でしょうけどねぇ。
→「式子内親王」=「もみもみと」と覚えておきましょう。
・西行と式子内親王。新古今集入撰ランキングの男女トップですね(西行が94首、式子内親王が49首。これも覚えやすい)。
→私もこの二人の歌はすんなり心に響いてきてすばらしいと思います。
→なんでしょうね。歌の持つ肌触りみたいなものでしょうか。
・「式子の歌風は、定家の技巧主義に萬葉歌人の情熱を混じた者」
なるほど。いくら技巧を尽しても内に盛り上がる情熱がなければ薄っぺらい小手先の歌になってしまう。でも実際の体験もあまりないでしょうによく心の中に情熱を造り出せたものだと感心します。
→これぞ天性の感受性なんでしょうか。
謡曲『定家』の素材
① その恋
② 式子内親王亡きあとの定家の執心
③ 時雨亭の由来
定家とすれば式子内親王は、かけがえのない理解者、憧れの人。
式子内親王にすれば若き定家の絢爛たる才を愛し、眩しい思いでみていた。
後世、そこに恋情を思い浮かべて、能に脚色され伝えられてきたようです。
謡曲『定家』のなかにある「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱るなる」は新古今、恋一、式子内親王の歌「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」を引いています。
式子内親王の母は、守覚法親王、以仁王、四皇女を擁し、本来なら後宮にも重きをなすはずなのに、平家全盛の蔭で三位局の地位にとどまったようです。それも内親王の内面に影響したと思われます。
式子内親王の内攻する激情があらわれていると思われる歌
日に千たび心は谷に投げはててあるにもあらず過ぐる我が身は
89番歌の世界は式子内親王の主題と作風を代表していて、きびしい抑止の情であるゆえに、いっそう読む者の心に激しさとなって伝わってきます。抑えきれない苦しみと悶えを歌ではきだすしかなかったように感じます。
契沖は本歌か、として「恋しとはいはじと思ふに昨日今日心弱くもなりぬべきかな」(古今六帖第四、32829)をあげていますが、調べの強さ、言葉の使いかたなど比較になりません。89番歌は素晴らしい歌ですよね。ずっと人気があるのが理解できます。
歌才に恵まれ、精進し作品を残したことで、どの内親王より愛され続けられてきて、良かったなと思います。
・定家と式子内親王の恋、能に脚色されて今に残り二人の想いは人々に広く思いめぐらされる。これも文藝の力、伝統芸能の力でしょう。
→定家蔓で式子内親王の墓が覆い尽くされるなんていうと何となくストーカーみたいに感じてしまいますが、人間の心の奥底には確かにそのような感情もあるのでしょうかねぇ。
→「玉の緒よ」の歌を介して二人の想いについて語り合う。いいじゃないですか、今度やってみましょうか。
・そうですか、式子内親王の母(藤原成子)は三位どまりだったのですか。wikiによると典侍で女御にもなれなかったようですね。ちょっとかわいそうですね。待賢門院の力も及ばなかったということですかね。
平家の摂関家への道を開いたのが後白河院の寵姫となった平滋子(清盛室時子の妹)。滋子の生んだ皇子が高倉帝になり、高倉帝に清盛の娘徳子が入内し安徳帝を生む。
→短くも儚い平家の摂関政治。驕る平家の影で生きざるを得なかった藤原家の代表みたいな人ですかね。
・日に千たび心は谷に投げはててあるにもあらず過ぐる我が身は
すごい迫力ですね。とても内親王の歌とは思えない。でも89番歌とかを知った後から読むと式子内親王にぴったりの歌だと感じます。
ネットで式子内親王を検索すると、「式子内親王の忍ぶ恋の相手は誰か」を推測する記事がいろいろと掲載されています。かつては、相手は藤原定家というのが定説だったようですが、石丸晶子氏が1994年に「式子内親王-面影びとは法然」という本を出してから、法然説も注目されているようです。ということで、以下では、式子の忍ぶ恋の相手探しに挑戦したいと思います。
石丸氏が唱える法然説の根拠は、①式子が出家した際に法然が戒師を務めたほか、死の床にいた式子が(手紙で)訪問を請うたのに対し、「弥陀の本願にすがり、念仏を称えさえすれば極楽浄土において再び会うことができる。仏の国の蓮の上で、過去の因縁や未来世のこともこもごも語りあおう」と諭す長文の返書を送った、②式子の歌の多くが法然への想いを詠ったものと解される、というもののようです。
しかしながら、①の返書は主に南無阿弥陀仏を称えれば往生できるという他力本願の教えを記したものに過ぎない、②も、例えば、式子の「生きてよも明日まで人はつらからじ この夕暮れをとはばとへかし」の歌を、式子が臨終の際に詠んだものと解し、「あなたよ、私は明日まで生きられないでしょう。訪ねて下さるのは今日の夕暮れしかないのです。どうか、一度、いらして下さい」といった牽強付会な現代語訳を記しているようです。法然はその当時の仏教界のリーダーの一人だったので、式子が憧れたかもしれないが、忍ぶ恋の相手と言うのは強引過ぎると、智平は思います。
では、定家説はどうか。百々爺が記しているように、「定家は二十年にも亘り式子内親王家の家司として仕え、病気がちだった式子の見舞に過剰すぎるほど訪れている」ことに加えて、①定家は日記「明月記」に、式子の病状を詳細に記しながら、薨去については1年後の命日まで一切触れない、といった思わせぶりな書き方をしている、②式子と定家は贈答した形をとって呼応するような歌を数多く作っている、③式子の薨去後、定家の作歌意欲がとみに衰えた等から、両者の関係は相当深いものであったと、智平は思います。
ここで、②の式子と定家が詠んだ贈答歌の如く呼応する歌をいくつか挙げれば、
・恋ひ恋ひてそなたになびく煙あらば 言ひし契りのはてとながめよ 式子
・恋ひ恋ひてあふともなしに燃えまさる 胸のけぶりや空にみゆらむ 定家
・ながめつるけふは昔になりぬとも 軒端の梅よわれを忘るな 式子
・我のみやのちもしのばむ梅の花にほふ軒端のはるの夜の月 定家
・忘れめや葵を草にひきむすび 仮寝の野辺の露のあけぼの 式子
・思ひやる仮寝の野辺の葵草 君を心にかくる今日かな 定家
そして、
・玉の緒よ絶えなばたえねながらへば しのぶることのよわりもぞする 式子
・片糸の逢ふとはなしに玉の緒の 絶えぬばかりぞ思ひみだるる 定家
呼応する歌はまだまだありますが、この辺で止めておきます。
式子と定家の贈答歌は恋人の語らいのように息が合っていますが、それでは二人は恋愛関係にあったかと言われると、①定家は式子内親王家の家司であり、身分の差を考えれば、両者が恋愛談のごときは伝説に過ぎない、②13歳の年齢差からみても恋愛関係はありえない等の有力な否定論もあり、智平もそうとまでは言い切る自信はありません。しかし、少なくとも定家は式子に恋愛感情に近い憧れを持っていたと言えると思います。
他方で、式子については、内親王で約10年間斎院を務めたので結婚は禁じられているに等しい運命を背負っており、そうした女性がそもそも恋愛感情を抱くのか、智平にはよく分かりません。しかし、89番歌を始めとする忍ぶ恋を詠った彼女の真に迫る感動的な歌を読むと、式子は、①秘めてはいるが、(恐らく定家を相手とする)強烈で情熱的なプラトニックラブに陥っている女性、②空想力や想像力でもって、歌の世界だけで感動的な忍ぶ恋を創作できる天才のどちらかであろうと、智平は考えますが如何でしょうか。
「式子内親王の忍ぶ恋の相手は誰か」
さすが在五中将への憧れ深い智平朝臣、気高い内親王の恋の相手探しとなると力が入るようですね。推論ありがとうございます。
・法然、浄土宗の開祖と目される当時第一の宗教者。
そもそも僧侶って恋の対象になり得るんですかね。というか、では「恋」とは何ぞや。やはり相手を独占する、当然肉体的につながる、のが「恋」だと思うんですがねぇ。
→式子が出家したのは43才(この時法然は59才)、亡くなったのが53才(法然69才)。とても恋愛年令とは思えません。
→然も尼さんと僧侶。この二人が情を交し合ったとしたら仏さま、頭をかかえて寝込んでしまうのではないでしょうか。
・生きてよも明日まで人はつらからじこの夕暮れをとはばとへかし
この歌は定家に式子が届けた歌とされ、定家-式子恋愛説の根拠となったものだと思っていました。臨終に際し法然に贈った歌とは驚きですね。
→まあ色んな説が飛び交うことは楽しくていいと思いますがね。
・式子と定家はそんなに恋の歌を贈答し合ってるんですか。何れも式子が定家に詠みかけてるんですね。女性の方から働きかけるってやはり当時においても勇気が要ったことなんでしょう。情熱歌人と謂われる所以ですね。
では両者が恋愛関係にあったのか。分析と推論、私も智平朝臣説に賛成です。定家・式子ともにお互い憧れを抱き合う存在だったということだと思います。
→定家は式子の和歌の先生でもあった。式子が定家に歌を贈る、その歌に定家が批評を添えて歌を返す。
→式子と定家は様々な恋の題(取分け「忍ぶ恋」)を詠み交す内に二人とも疑似恋愛関係に陥ったのではないか。
→二人は長年「忍ぶ恋」の相手を演じ続けたのではないか。
・式子は①②どちらのタイプであったのか。②でしょうねぇ。
内親王で10年間斎院を務めてきた。もうこの時点で式子には恋愛も結婚も全く頭からなかったと思います。感動的な忍ぶ恋を創作できたのは想像の賜物。想像を逞しくして「忍ぶ恋」の世界を追及する。これこそ式子の生きがいだったのではないでしょうか。
89番歌 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
新古今集には「忍ぶ恋」とあって式子内親王(1149~1201年)の一首。
内親王といえば皇女であり、父は後白河天皇。身分からいえば90点はかたいところだろうが、やっぱり女はせつない恋に悩むのである。
この内親王は(何しろ後白河の時代のことだから)変転する政情に乱され、幸薄い生涯を送ったが、歌道に関して俊成や定家と親交が深く、実際、歌は滅法うまかった。密かな恋もあったろう。みずからの心情を託すべき歌作りの才には恵まれ、それが大きな慰めであったろう。
まったくの話、浮き世の生活がままならなくなったとき、身心を癒してくれる趣味を持つことがどれほどのよい慰めとなってくれるものか、式子内親王も歌道の才により逆境をずいぶんと慰められたに違いない。(阿刀田高)
「玉の緒よ」歌は、内親王という高貴な身分に似合わず、非常に激しい調べとなっている。もちろんこの歌は題詠であるから、成立状況としては決して現実的な式子の忍恋を詠じているわけではあるまい。類歌も多く、既に「万葉集」に「玉の緒の絶えたる恋の乱るれば死なまくのみぞまたも逢わずして」(2799番)があるし、和泉式部も「緒を弱み絶えて乱るる玉よりも貫きとめがたし人のいのちは」と詠じている。だからこの歌の背後に特定の男性(恋人)の存在を想定する必要はあるまい。
定家の式子内親王との恋愛幻想は、現実には叶わぬ業平的恋愛を、せめて虚構の中に具現しようとした晩年の文学営為だった。(吉海直人)
読後の多寡秀の関心事は
①源氏物語における柏木の苦悩
②謡曲「定家」における定家と式子の悲恋物語
でありましたが、百々爺初め、百合局、智平朝臣殿の見事な解説により目からうろこであり一気に氷解しましたが、特に智平朝臣殿の引用部分のように「年齢差からみても恋愛関係はありえない」なんて言われると、今をときめく海の向こうのカルタ、いやトランプ某(なにがし)などが想起されて甚だ心穏やかでないのでござりまする。
・考えてみると皇女って窮極の出自ですよね。天皇の后(皇后・中宮)には誰だってなれる(あの明石入道の孫、田舎生まれの明石女御だって)。でも皇女の身分は天皇の女子だけのもの。そこに様々な制約が生まれる。恋愛できない結婚できないがその最たるものでしょう。そんながんじがらめの生活を癒すには趣味が必要。そして式子内親王がみつけた趣味が歌道であった。
→源氏物語の女三の宮を見ていると(彼女は源氏と結婚し密通もし波乱万丈の一生だったのだが)自己主張もなくいつも所在なげにボンヤリしているだけで気の毒になります。皇女の日常ってつまらないものだったのでしょうねぇ。
・「定家の式子内親王との恋愛幻想は、現実には叶わぬ業平的恋愛を、せめて虚構の中に具現しようとした晩年の文学営為だった」
枇杷の実さんのコメントでも引用されてますが、さすが吉海先生、いいこと言いますね。そしてこれはそっくり「式子内親王の定家との恋愛幻想は、、、、」と読み替えることができると思います。
→定家にとっては御子左家歌道の確立発展に様々な責務があったのでしょうが、式子にとっては幻想恋愛の追及こそが晩年の唯一の生きがいだったのかもしれません。
玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
忍ぶ恋、百人一首を代表する抑えた恋の激情を感じさせる歌とされる。「玉の緒よ絶えねば絶えね」の二句切れのあと、「ながらえば」と仮定し「忍ぶることの弱りもぞする」と溜息ともつかぬ弱音を吐く。強弱のバランスが絶妙で、しかも前半の叫びは、実は限界まで耐え忍んだものだったと分かる仕掛けになっているとか。
Wikiにある式子内親王の歌に対する評価では技巧的 (定家的)- 自然観照的(西行的)の両極端に分かれる傾向が指摘され・・・、生活や振舞に制約の多い中、作品のほとんどが百首歌という創作環境において、虚構の世界に没入していく姿勢が式子の歌の背景にある。
式子の生きた時代は平安末期の激動の時代。多感な少女時代を賀茂斎院として神に仕え、病気退下のあとは肉親の死、事件が相続く。この世の無常を若くして数多く経験して、悟りの境地に至っていても不思議ではない。
そんな式子に定家は、ただただ尊敬し、慕っていた。20年に及ぶ交際の中で親密化し、度重なる病気見舞いと歌の贈答、また守成親王(順徳院)を式子の猶子に迎える
ことに定家が大きな期待をかけるといった、通常の関係以上の、いわば親身の人に対する献身があった。
織田庄吉(絢爛たる暗号)は「百人一首」撰歌の謎解きで、百首は連鎖しており、#89歌へつながりから、定家に(一方的な)激しい恋があったと断言する。そして、「百人一首」の下の句(第四句)の初めに「ひと」という文字が異様に多く目につく。それは「百人一首」にある人を隠していることを暗示するもので、その「ひと」とは定家の心にもっとも大きな痕跡を残した後鳥羽院と式子内親王だと書く。
また、吉海直人は「玉の緒よ」の歌について、定家の個人的欲求を満足させるものとして、式子の没後に百人一首にとられたものである。定家はこれを踏まえて、
思うことむなしき夢のなかぞらにたゆともたゆなつらき玉の緒
と詠んでいる。式子内親王との恋愛幻想は、現実に叶わぬ業平的恋愛を、せめて虚構の中に具現しようとした晩年の定家の文学的営為だったと述べている。
式子内親王は智平朝臣が指摘する、②空想力や想像力でもって歌の世界だけで感動的な忍ぶ恋を創作できる天才だと思う。閉ざされた世界にあって、激動する社会に感応し、多くの名歌を世に残した、驚きの中世の才女なのだ。
・「玉の緒」は万葉からの歌語で多数の歌が詠まれており謂わば凡庸な始まり。この歌の命は下句「忍ぶることの弱りもぞする」なのかもしれませんねぇ。
→本来の歌道ではもう少しぼやかした方がいいのかもしれないが、非常に直接的な言い方で自分をさらけ出している。こんな風に詠みかけられると男はまいるでしょうね。
・式子内親王は歌合には出詠せず、百首歌がほとんど。
内親王ですからね。顔をさらけ出すことはできない。歌合に出るとしたら御簾で隠した席を造らなければいけない。主催者側も面倒だしお誘いしなかったのかも。
→臣下の者と番えとなって恋歌を詠み合うなんて、そりゃあ無理というものでしょう。
・同母弟以仁王が宇治で討ち死にしたのは1180年、式子が32才のとき。ショックだったでしょうね。定家は同年の明月記に「紅旗征戎は吾が事にあらず」なんて記して騒乱から離れたところにいるが(定家の一族が源平争乱で命を落としたなんてなかったでしょう)式子は騒乱にまともに巻き込まれた。
→歌道への没頭は紅旗征戎から逃れるためだったのでしょうか。
・「ひと」から下句が始まる歌は9首ありますね。
11ひとにはつげよ、25ひとにしられで、28ひとめも草も、
38ひとの命の、41ひとしれずこそ、44ひとをも身をも、
47ひとこそ見えね、63ひとづてならで、92ひとこそしらね
他に「ひと」が詠みこまれている歌はざっと数えて13首、即ち100首中22首に「ひと」が含まれている。これって異常かもしれません。
→定家の97も「来ぬ人を」、後鳥羽院の99も「人もよし人もうらめし」
→定家が百人一首を編んだのは式子内親王没後35年ほどしてのこと。
定家は内親王の面影を思い浮かべながら百首を選定したのでしょうか。
(でもそもそも内親王のお姿って定家はまともに見られる立場じゃない。御簾の陰から一生に一度か二度チラリと見たんでしょうかねぇ)
たまたま今月号の「山茶花」雑詠鑑賞欄(主宰評)に関連する話がありましたので紹介します。
(私は今月五句中三句しか採用されず不調です)
(略)
この句は、事実を述べただけのように見えるが、定家の伝説を頭に置いているのであろう。藤原定家は式子内親王に恋をしたが、それが叶わなかったので、死後、葛となって、式子内親王の墓にまつわりついたという、謡曲「定家」の物語である。死してなお残った恋の妄執を描いたこの能は、なかなかの難曲である。作者は金春禅竹と思われるが、実際には式子内親王と定家は実年齢からして、恋に陥ることはあり得ないので、この伝説がいつ生まれたのか、典拠はよく分からない。あるいは、禅竹の創作かもしれない。が、この曲によって、定家伝説はまことしやかに流布していった。
「色づいて」は紅葉したことを言っているのだが、恋を連想させる措辞としても働いている。伝説の通りに這いまつわっている定家かづらを見た瞬間にできた一句であろうと思う。
(以上)
古典文学、芸能にうとい私にはなかなかこういう鑑賞は及びません。
おっ、定家葛を詠んだ句がありましたか。グッドタイミングでの句と鑑賞の紹介ありがとうございます。
「色づきて」がいいですね。定家葛、見かけているんですが紅葉に目を止めたことはありません。白い花がまつわりついているのもエロチックですが、恋の炎に燃え上がった紅葉がまわりを覆い尽くすというのも強烈ですね。
新古今がバイブルであった能作者にとって恋の物語の主役は定家と式子内親王、この二人をおいて他になかったのでしょう。謡曲「定家」は89番歌が百人一首に入ったことも相俟って現代に至るまで生き続けることになった。
→「色づく」のと「枯れゆく」とは紙一重。まだまだ枯れたくはないですよね。がんばりましょう。