6.かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける
訳詩: 七夕の夜 かささぎが羽を連ね
思われ人を向うの岸に渡してやった天上の橋よ
今は冬 かの天の橋にも紛う宮中の御階に
まっしろな霜が降りている
目に寒いこの霜ゆえに しんしんと夜は深まる
作者:中納言家持(大伴家持)(718-785) 68才 大伴旅人の長男 歌人・政治貴族
出典:新古今集 冬620
詞書:「題しらず」
①この歌、古来百人一首の秘歌とされてきた(「百人一首」有吉保)。不思議な歌である。新古今集に家持作として載せられているが万葉代表歌人で万葉集の編纂者である家持なのに万葉集には載せられていない。そもそも家持の時代にあったのかも不明。。。。ということでこの歌は家持の歌ではないとされている。
→百人一首は歌が先ず大事、秀歌としてこの歌が選ばれた。
→詠者も大事(家持も入れておきたい)、ええぃ、家持作にしておこう!ということか。
②大伴氏は古代からの名門氏族。藤原氏の攻勢を受け徐々に勢力を削がれていく。家持も受領として全国を転々とした(左遷され戻されまた左遷される繰り返し)。
大宰府(父旅人と)-越中守-難波-因幡守-薩摩守-陸奥按察使
(大宰府には山上憶良もいて旅人と筑紫歌壇を作っていた。家持も参加していたか)
(難波で防人の事務に従事、この時防人の歌を収集した)
(最後は多賀城で没したという説もある)
→これだけ地方色豊かな歌人も珍しい。
③さて、歌の鑑賞。「かささぎの渡せる橋」について二通りの解釈。
1 地上(宮中)説。賀茂真淵以来主流。
2 天上(天の川)説。七夕伝説を踏まえたもの。
→平安王朝人は宮中に馴染があったろうから地上説かもしれないが我々としては天の川の方が現実味があるのではなかろうか。冬の寒空を見て七夕伝説に思いを馳せる。どうでしょう。
④この歌に関し正岡子規が「歌よみに與ふる書」で29番凡河内躬恒「心あてに」をボロクソにけなした後次のように褒めて?いる。
「鵲のわたせる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」面白く候。躬恒のは瑣細な事を矢鱈に仰山に述べたのみなれば無趣味なれども家持のは全く無い事を空想で現はして見せたる故面白く被感候。嘘を詠むなら全く無い事とてつもなき嘘を詠むべし
→6番と29番、どっちもどっちだと思うのですが、、。
⑤家持の歌は473首も万葉集に入れられている(というより自分で入れた)。柿本人麿が万葉前期の代表歌人なら大伴家持は万葉後期のトップ歌人であろう。
有名なのは、
うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば(万葉集巻十九)
新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(万葉集巻二十 4516番最後の歌)
→万葉歌人大伴家持も平安王朝歌人からは重きをおかれていなかった感じがする。
⑥余談 七夕伝説は源氏物語に頻出する。7月の記述があると喜びの場面でも悲しみの場面でも必ず七夕のことが言及されている。
紫の上の一周忌を前に故人を偲ぶ源氏(ああ、今年は共に星を見るひともいない、、、)
七夕の逢ふ瀬は雲のよそに見てわかれの庭に露ぞおきそふ(源氏@幻)
6番までのタイトルがとてもおもしろい!!次はどんな題かと興味津々。
特に「猿が聞く鹿の鳴き声」、今回のも良いですね。
6番歌までを見ると詠者もはっきりしないし和歌の評価も必ずしも秀歌ではない、勝手に表現も変えられている、まことにいい加減とも大らかとも言えそうです。
正岡子規は「百人一首」を悪歌の「巣窟」とまで激烈な批判をしています。
どうやら百人一首はお気に召さないようですね。
しかし家持の6番歌は以外にも好評価し、凡河内躬恒の29番歌は一文半文の値打ちも無き駄歌と喝破しています。
嘘を詠むならつまらぬ嘘ではなくとてつもなく壮大でありえない上手な嘘を詠めと言うことでしょうか?
しかも初の7、8首まではおしならして可なれど其れより後の方は尽く取るに足らずとまで言い、これが定家の撰なりや否やは知らず。・・・と過激なまでに大胆な発言です。
いづれにしても悪集は悪集なりと、万葉集、万葉歌人尊重の態度は一貫している。
さて、かささぎの歌
天の川の七夕伝説を想像させてロマンチックです。
かささぎがどんな鳥かは知らないけれど調べてみたらカラス科で腹のあたりが白い、ロマンチックとは程遠い。
昔の鳥と書いてかささぎ
宮中を天上になぞらえて、その階段に置かれた霜を天上のかささぎの橋に例えるのはいかにも平安朝らしい歌。
結構、古今調なのに子規はお気に召したようですね。
やはり評価は人それぞれと言うことでしょうか?
みなさん口々にタイトルを褒めていただき面はゆいです。まあ気張らず思いつくままやって行きます。詰らないのも出てくるでしょうがご容赦ください。
1.正岡子規の「歌よみに與ふる書」、ざっと読んでみました。すごい檄文ですね。当時子規は30才、既に喀血して闘病中(@根岸、子規庵)。34才で亡くなったのが4年後(2002年)のこと。論調が激しくなるのも仕方なかったのかもしれません。正しく先般議論した公家流和歌の形式性を徹底的に論破していますね。保守的な歌壇は大騒ぎだったことでしょう。
(余談)子規の母校、坊ちゃんが教鞭をとった松山中学が今の松山東。二十一世紀枠で出場した先般の選抜2回戦で、決勝戦まで行った東海大四に逆転負けした。惜しかった。もう少し勝ち進んでほしかった。
2.そうか、かささぎは鵲。昔の鳥ですね。辞書見ると17世紀に朝鮮半島から持ち込まれたとされている。ということは当時日本にはいなかった。中国の七夕伝説に基いた伝説上の鳥(鳳凰みたいな)であった、、、、ということか。全く観念的な話で写実のかけらもない。こういう大嘘ならついてもいいということですかね。よく分かりませんねぇ。
確かに”万葉集のトリ”なるタイトルは、爺的・演歌的でおもしろいですね。
でも、万葉集の最後の歌は聞いたことがありますが、家持の歌とは知りませんでした。また、473首もの歌が収められて居り、実に万葉集の一割以上が家持、詠まれた歌の中身はあまり知りませんが、少なくとも数はすごいですね。まさに万葉集を編纂したと言われる故ですね。それに政治家としていろんな政争にもかかわり、任地も薩摩から陸奥までと日本縦断、文武両道の活動家だったとは、全く知りませんでした。
爺が挙げてくれた
うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば(万葉集巻十九)
は万葉的で好きです。
最後に、正岡子規は、この歌は”家持の歌ではあるまい”という点には何もコメントしないでこの歌を褒めている?のですか、解れば教えてください。
想像ですがこの家持は相当な能吏だったのじゃないでしょうか。能吏故に中央(藤原)からは睨まれ結局地方回りに終始した。藤原氏への一極集中過程における大伴氏の悲劇に生きた男だと思います。
「うらうらに~~」いいですね。春の愁いにぴったりでしょうか。でもひばりって結構甲高く長調で歌うのでちょっとうら悲しい感じとは違う気もしないではないですが。まあ捉え方ということで。
「歌よみに與ふる書」では「家持のは、、、、、」として家持の作であることを前提に述べています。子規の論はあくまで歌そのものについてなので作者の詮議は二の次だったのでしょうか。まあ万葉歌人家持には嫌悪感は持っていなかったのでしょうかね。
百々爺のつけたタイトルを頭に入れて百人一首を覚えていけば、そこに流れがあって、一番歌から百番歌まで番号順に覚えやすいようになっているのではないかと思います。
一年後に全部覚えていたいものですね・・
「かささぎの渡せる橋」は中国の七夕伝説からきていると解釈した方が、仲麿の七番歌の唐(中国)にあって日本の月をしのぶ歌とうまくつながっていくと思います。
家持は越中の国に国守として5年間滞在、その時家持一行が作った歌として、万葉集巻19に藤の歌4首とあります。
4199番家持歌「藤波の影なす海の底清み雫石をも珠とぞ我が見る」
4200番次官内蔵忌寸(すけくらのいみき)縄麻呂歌
「多枯の浦の底さへ匂ふ藤波をかざして行かん見ぬ人のため」
謡曲「藤」には4200番歌が使われています。
富山県氷見市にある「田子浦藤波神社」が謡曲「藤」のゆかりの場所らしく、訪ねてみたいなと思いました。
是非100番まで全部背番号つけて覚えましょうよ。色々面白いお話ができますよ。
そうか、6番→7番は中国(唐)つながり、いいですね。越中国には有名人家持が駐在してくれたお蔭で色んな名所史跡が残されているようですね。まあ、越前武生の紫式部みたいなものでしょうか。
謡曲との繋がりのご紹介ありがとうございます。
「田子浦」というのもあるんですね。赤人さんに教えてあげたいですね。
田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ立山の高嶺に雪はふりけり
かささぎの評判が悪いようですが、かささぎはカラスより少し小ぶりで、尾が長く結構スマートな鳥ですよ。色はお腹や背の一部が白い上に、黒い羽には青い金属光沢があって、結構可愛くて美形です。これはかささぎを国鳥&吉鳥としている韓国で、何度もかささぎを見た小生が言うのだから間違いありません。ちなみに、韓国には、かささぎの羽はもともと真っ白だったのに、七夕の日に天の川に羽を並べて天上の橋を作り、牽牛と織女が羽を踏んで渡ったため、背中の羽が黒くなったいう言伝えもあるようです。
百々爺が解説しているように、大伴氏はかつては物部氏と共に朝廷の軍事を担当する名門貴族で、特に天皇の近辺を守る近衛兵的な役割を果たしていました。天皇に対する忠誠心は家持の「海行かば…」の歌(この歌の詠い上げているのはいつでも天皇のために命を投げ出す覚悟で天皇を守っているという強い忠誠心)で示されるように、どの氏族よりも強かったのではないでしょうか。
このように忠誠心が強く、多くの政府高官を輩出した上に、大伴安麻呂・旅人・家持・坂上郎女など少なからず万葉歌人を出すなど教養も高い一族だったのですが、というより、そうした一族だった故に、藤原氏による他氏排斥のターゲットとなりました。そして、代々、多数の処罰者を出す破目に陥り、徐々に勢力が衰えていきました。
729年の長屋王の変、757年の橘奈良麻呂の乱、家持が764年に薩摩の守に左遷された藤原仲麻呂暗殺計画、家持が首謀者とされ既に死亡していたのに除名の罰を受けた785年の藤原種継暗殺計画、そして、823年に大伴氏が伴氏に改名した後も、842年の承和の変、866年の応天門の変と大伴・伴一族から処罰される者が後を絶たず、ついに応天門の変による処罰で伴氏の公卿としての流れは断絶してしまいました。
上記の変や乱、暗殺計画のいくつかは(多くは?)は大伴・伴氏が関与したか否かが不明であり、藤原氏によるでっち上げに過ぎないとも言われています。多くの万葉歌人を出すような教養の高い大伴一族を排斥するのは、一族の生き残りと繁栄のためには手段を選ばず、冷徹に権謀術数をめぐらすマキアベリズムの権化のような藤原氏からすれば、赤子の手をひねるようなものだったのかもしれません。大伴氏の悲劇に哀れを催す一方で、改めて藤原氏(全員ではなく、政治的に主流を歩んだ人々)の凄さに感嘆する次第です。
1.そうですか、かささぎは韓国の国鳥・吉鳥ですか。やはり中国から伝わった七夕伝説があるのですね。正しく文化は大陸→半島→日本へと流れてきたということであります。韓国で何度も見ましたか、それはそれは。日本での生息地は限られているようで、、、今度動物園に行ったら探してみます。
→因みに日本の国鳥はキジで爺は毎日散歩で見かけています。
2.物部氏と並ぶ軍事の名門大伴氏がついには藤の下葉に落ちぶれてしまう過程を簡潔にまとめていただきありがとうございます。一挙に根絶やしにせず百年二百年かけて徐々に力を削いでいく。正に藤原氏のマキアベリズムですね。事を急ぎ過ぎては猛反発をくらい逆襲されるリスクが生じる。ゆっくりとゆっくりと。サバイバルゲームの極意みたいなものなんでしょうね。
書いていただいた866年の応天門の変を経て道真が左遷させられた901年あたりで藤原氏一族の一門独占が完成。以後は一族間の争い、道長の全盛、そして五摂家(九条・一条・二条・近衛・鷹司)に分れ実に千年も日本に君臨していく。大したものです。
かくて百人一首に藤原氏は25人を数えることになるのであります。
数多い家持の歌の中から、この一首を選んだのは、優艶美を求めた選者定家の好みのなせる技なんでしょうな。天上の星の恋の連想に始まって、冴えかえる霜夜の中に、地上の別世界である優雅な宮廷の人々の夜の息づきを思わせるからなんでしょうか。
さて難波のJR環状線「森ノ宮」駅近くに「森ノ宮神社」(鵲森宮神社)があります。創建は1400年も遡り、聖徳太子がご尊父用明天皇を弔うために造営されたとのことです。かつて大伴家持が兵部少輔として、勤務していた天平期(家持37歳)難波京朝廷の位置はこの神社から西に約500m程上町丘陵を上がったところになります(大阪マラソン時にはここを通過します)。神社の由緒書きに依りますと推古天皇の御代(592~628)新羅国より帰ってきた吉士磐金(きしいわかね)が鵲を献上し、この森に飼育されたことにより「鵲の森」となったとのこと。この神社に家持の百人一首歌碑があります。
鵲の渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける
家持が難波宮において防人の整理にあたっていたときに詠まれたものとされています。
恒例の江戸川柳より
かささぎの橋を越えると天の原(7番歌につづく)
中納言いえ持ちと読む新大家(つい いえ持ちと・・)
百人のうちに大家は一人なり(百人一首歌人で)
お粗末でした。
「森ノ宮神社」(鵲森宮神社)のご紹介ありがとうございます。さすがに浪花のオッサンですね。
神社のHP見てみました。これはすごいですね。私が読んだ百人一首本にはこの神社出て来なかったですよ(読みおとしかもしれないが)。日本書紀にも書いてあって(神社縁起通り)家持が難波に居たときに「鵲森宮神社」としてあったのなら正に家持はこの神社を意識して「かささぎの」歌詠んだのかもしれませんね。
→地図で見たら駅前に吸い込まれるように建ってますね。
森ノ宮と言うと日生球場でしたかね。大阪城や豊臣神社、難波宮跡には行きましたが鵲神社はねぇ。誰も行きませんよね。
江戸川柳、いいですね。考えてみると「家持」ってけったいな名前ですね。
浪花川柳、考えてみました。
大家はん 昔の鳥が 好きでんな
「かささぎの~」の和歌に関連したものを二首ほど。
住吉明神の神詠と伝えられる古歌
「夜や寒く衣や薄きかささぎの行き合ひの間より霜や置くらん」
百人一首90番歌人殷富門院大輔の歌でこういうのもあります。
「鵲の寄り羽の橋をよそながら待ち渡る夜になりにけるかな」
歌人たちは古歌からその生きた時代に至るまでたくさんの和歌を勉強したのだなと感心します。しっかりと身についていたから材料に事欠かなかったのでしょうね。
引出しの数多いですねぇ。色々教えていただきありがとうございます。
そうですか、「すみよっさん」は和歌の神さまでもあるんですね。
「かささぎ」って凄い歌語だったのですね。おっしゃるように類題歌をしらみつぶしに勉強したのでしょうね。今ならパソコン・ネットを駆使して検索・保存・並び替え万事自由ですが当時はどうしてたのでしょう。「かささぎ」を歌った歌を集めたような類題歌集があったのですかねぇ。
「かささぎ」と言えば「霜をおく」「橋を渡る」、類型的に詠むことこそ歌の道だったということですかね。末摘花が「からごろも」一本で通したのと何となく通じるような、、、。
わが身こそ恨みられけれ唐衣君がたもとになれずと思へば(末摘花)
唐衣また唐衣からごろもかへすがへすも唐衣なる(光源氏)
田辺聖子さんはこの歌の橋について「天と地の情景を一首のうちに詠んだものとして、地上の橋を指すのではないかと思う。作者は天を仰いでカササギの橋をを連想し、目を転じて地上の橋の霜をながめたのではなかろうか。凛冽たる寒気に身もひきしまる想いがする。」として天地両方の橋をカバーしている。
この歌を最初に読んだ時は、ただ普通の橋に霜が降りて、あ~寒い夜は侘しい・・の感想しか出ませんで、七夕伝説・天の川に思いがあるとはカササギを知らない小生には到底及ばないところです。なんでも万葉集には130首を超える「七夕」の歌が残っていて、その殆どは男女の恋の物語とか。
調べてみると日本の七夕伝説・行事には、中国から伝わった星伝説に日本古来の「棚機津女(たなばたつめ)」の信仰が習合したものらしい。「七夕」を「たなばた」と読むのはこの信仰からと知りました。
カササギは 翼を広げて 三日経ち
七夕伝説の解説ありがとうございます。
これも中国起源で半島→日本一体なんですね。七夕を何と読むか。日本人なら多分100%「たなばた」と読めるでしょう。このように誰もが七夕のこと織姫星・彦星のこと知っているのに現在の都会では星が見えない。夏の夜空で天の川をはさんだ大三角形を見ることができない。残念ですねぇ。今年から何とかしてこの目で確かめるよう努力したいです。
→七夕のことを「星合い」とも言うようで、そう言えば星合さんって人いましたね。
万葉集に七夕の歌が130首以上あるんですか。驚きですね。よっぽど七夕(7月7日)がインパクトある特別な日だったのでしょうね。今では幼稚園・保育園くらいでしょうかねぇ。