7.天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも
訳詩: 大空ははてもなく東へかたむく
ふりあおげば夜空に円く
鏡のような月がかかって―――
ああふるさと 春日なる三笠の山 かの山に
さしのぼっている同じ月を
私は今この遥かな岸にみつめている
作者:安倍仲麿(701-770) 70才 遣唐留学生
出典:古今集 羈旅406
詞書:「唐土にて月を見てよみける」
古今集 左注
「この歌は、昔、仲麿を唐土にものならはしに遣はしたりけるに、数多の年を経て、え帰りまうで来ざりけるを、この国より、また、使まかりいたりけるに、たぐひてまうで来なむとて出でたりけるに、明州といふ所の海辺にて、かの国の人、むまの餞しけり。夜になりて、月のいとおもしろく出でたりけるを見てよめる、となむ語り伝ふる」
①百人一首中唯一海外から日本を詠んだ貴重な歌。この歌のお蔭で当時の国際情勢、日本の立ち位置に思いを馳せることができる。
②安倍仲麿の一生
701 @ 1 大和国で誕生 幼少より秀才 安倍氏は奈良朝に仕えた古代史族
717 @17 第9次遣唐使として唐、長安へ(同期生 吉備真備・玄昉)
科挙に合格、玄宗皇帝の寵を得て昇進を重ねる 唐の最盛期
→あの超難関の科挙に日本の留学生が合格!アンビリバボーである。
その間李白・王維らと親交を重ねる(すごい文化人である)
753 @53 遣唐使船で帰国を図るが遭難、ベトナムへ漂着
→この船で鑑真和上がやっと渡日を果たす
755 @55 長安に戻る 帰国はあきらめる
770 @70 没
仲麿の唐での私生活がよく分からない。結婚して妻はいたのか、子どもはいなかったのか。その辺が分かるともっと親しみがわくのでしょうが。
③遣唐使について
第1回は630年、以降894年菅原道真の建議により停止されるまで20回に亘り派遣された。
この意義は大きい。当時世界の最先端国として隆盛を極めた唐(長安)の文化・制度を学び、仏教が伝播した。
→山上憶良も701年、第7次遣唐使として渡唐している。
④歌の由来
帰国を前に同僚が開いてくれた送別会の席上で仲麿が詠んだ歌とされる(詞書より)が、誰がどのように日本に伝えたのは不詳であること、詠みぶりが万葉調というより古今調であることから仲麿が詠んだ歌ということに疑念をはさむ説もある。
→「もっとも可能性の高い人物は貫之であろう」(吉海直人)
→古今集のプロデューサー紀貫之なら納得である。
⑤歌の場所
春日なる=現在の春日大社のあたりであろう
三笠山は現在の若草山ないし御蓋山
遣唐使たちは出発に際し春日大社(創建768年)或いはその前身の神社に道中の無事を祈願した。奈良の春日は思い出いっぱいの場所であった。
⑥歌の鑑賞
この歌中学校の教科書にも出てきたのでは。超有名な歌である。
口に出してみると異国で遠い故郷を想う留学生の切ない心に胸打たれるものがある。
→年老いた親を日本において海外で駐在生活をしていたとき、「いい日旅立ち」の一節を聞くと涙がこぼれたものである。
あ~あ~、日本のどこかで~わたしを待ってる人がいる~~
→今では飛行機便も発達し行き来も簡単だしテレビ電話もある。でも20年前ですら大変だった。ましてや1300年の昔、命がけの渡航。想像を絶するものがある。
天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも
この歌、私の好き度ベスト5に入ります。
仲麻呂が遣唐使留学生として唐に渡るも帰国できずに没した。
望郷の思いが切々と伝わってきます。
和船の規模や航海技術はわかりませんがこの時代海を渡ることは死をも覚悟してのことでしょう。
留学生に推薦されるのも名誉でしょうが当時の知識人がどれほど海の向こうに憧れ又向学心旺盛だったかその気概に惚れますね。
今の宇宙飛行士にも匹敵すると思うのはオーバーでしょうか?
玄宗皇帝に仕え李白や王維とも親交を深めたというだけでも尊敬の念を禁じ得ません。
仲麻呂の心情に思いを馳せ望郷の念や如何ばかりかと偲ばれ、「たけたかく余情限りなしと」評価されたのも頷けます。
椰子の実(藤村)
海の日の沈むを見れば たぎり落つ異郷の涙
思いやる八重の汐々 いずれの日にか国に帰らん
藤村は仲麻呂を思ったか、椰子の実に仲麻呂の心境を託したか?ちょっと考え過ぎかな。
これほどのエピソードに満ちた歌が実際は仲麻呂の歌かどうか定かではないと言う事ですか?
帰国できなかった仲麻呂の歌を誰がどのようにと考えた時、疑問ですよね。
仲麻呂の心情を思いやり貫之が詠んだとしても不思議ではありませんが、でもこの歌はやはり仲麻呂と思いたいです。
話は変わりますが5・6年ほど前にアフリカを旅した時のことです。
ケープタウンの空を眺めた時に月の向きが逆になっていることに気がつきました。
南半球と北半球では見る月が満ち欠けの形は同じでも向きが逆になることを教わりました。
難しい理屈は説明できませんが地球の反対側から見ればなるほどと納得できました。
その時、ああ~このお月さまは日本の空でも同じように見えているんだなと当たり前のことに宇宙の森羅万象を感じました。
百々爺さんの「いい日旅立」ちの思いに通じるかもしれません。
私の想像は藤村を思いアフリカの空を思い果てしなく宇宙まで飛躍していくかのようです。
そういえばこの時代、月を詠んだ歌は多いですが星を詠んだ歌は見かけませんね。
当時は星よりも月が、桜よりも梅の時代だったのでしょうか?
もうすでに花と言えば桜だったのでしょうか。
7番歌からは限りなく壮大なイメージが広がっていきます。
どうも好きな歌は長文になってしまいいけません、ごめんなさい。
みなさんこの歌がお好きなようですね。ご尤もです。これほど望郷の念を伝えきった歌はないでしょう。
「たけたかく余情限りなし」ですか。いい評語ですね。小町姐さんのイメージが限りなく広がるのも無理はありません。名歌の名歌たる所以でしょう。
「椰子の実」、いい歌ですね。メロディ的にあまり悲壮な感じはしませんがしみじみと遠い故郷を想う情にあふれていると思います。
月と星ですか、太陰暦の稲作国日本では「月」は太陽同様大事だったのでしょう。一方星は方角測定に重要だった程度かもしれません。言われるように星をロマンチックに詠った歌はあまりないように思います。
奈良時代、花はまだ梅だったようですね。平安から桜になったという風に整理していますが。。
(またクールダウンで好きな歌ランキングやろうと思いますので各歌ランクをつけておいてくださいね。この歌、好き度ベスト5に入りますか、なるほど)
この歌、小生も好きですね。小生は1977-80年に留学&駐在のためアメリカで初めて海外生活を経験しました。百々爺の言うように、この頃の国際電話は極めて高額で不便。日本の親兄弟や友人への連絡が困難な中、時折、この歌のように望郷の念に駆られることもありました。
安倍仲麿は本当に大秀才ですね。科挙に合格して高級官僚になったのみならず、李白や王維といった一流の唐詩人とも親交があったというから、高い教養や詩才も有していたのでしょうね。Wikiによれば、この百人一首の歌の五言絶句形の歌碑が西安や鎮江にあるとのことです。それであれば、この歌はやはり仲麿本人が詠んだ歌だと小生は思いますが、どうでしょうか。
仲麿が仕えたのは玄宗皇帝。玄宗皇帝と言えば、すぐに楊貴妃や安氏の乱が頭に浮かびます。仲麿は果たして楊貴妃に会ったことがあるのでしょうか。歴史に残る絶世&傾国の美女、楊貴妃。彼女と知り合いになれたのなら、日本になんか帰らなくても問題なかったでしょう、なんて言っちゃたりして。
私事で恐縮ですが、今日から旧交を温めるために愛知県の津島方面に行って来ますが、その後、三重に下って墓参りをした後、久し振りに「伊勢参り」に行って来ます。恥かしながら、遷宮後のお伊勢さんは知らないので、とても楽しみです。
この歌の歌碑(漢詩の)が長安にあるのですか。そりゃあもうこの歌は仲麿本人が詠んだ歌ということにしてしまいましょう。源氏の物語論にも出てきましたが何でもかんでも歴史、史実がいい訳ではありませんもの。仲麿が「もろこしより愛をこめて」詠んだ歌、それ以上の詮索は無用でしょう。
そうか、楊貴妃(719-756)が居たんですね。玄宗皇帝が寵姫楊貴妃を臣下に見せびらかしたとは思えませんが、ひょっとして仲麿さん、どこかで楊貴妃を垣間見(覗き見)したのかもしれませんね。それこそ唐猫が楊貴妃の乗る輿の簾を引き下ろしたとかで、、、。それで日本に帰る意欲が薄れた、、。
→想像するのは自由ですもんね。
伊勢神宮、いいですね。ゆっくりして来てください。
何事のおはしますかはしらねども かたじけなさに涙こぼるる(西行)
この歌は、百々爺や小町姐さんがなるほどと思えることをいろいろと書いてくれており、面白く読ませてもらいました。
小生も好きな歌です。以前お話したことがあろうと思いますが、小生も南アフリカに5年ほど駐在したことがあり、日本を恋しくも思い、異郷の地で暮らすのも楽しいとも思った経験がありますが、これも年に一回程度は帰国し、また暫くすれば日本に戻ることが約束されてのこと、安倍仲麻呂の望郷の念とは比較にもなりませんが、当時のことを思い出しました。
そういえば、南アフリカでは、月に加え、水を抜くときにできる渦が日本とは逆回りだったことも思い出しました。
さて、爺が、遣唐使は630年から廃止決定の894年まで20回派遣されていたと解説してくれており、平均13年ぐらいおきに一回と相当の期間を置いて派遣されていたことになりますね。
昨晩 録画しておいた、ヒストリーチャンネル”まんが日本史#8”を見ましたが、ちょうど鑑真をやっていました。先般、唐招提寺を訪れたこと、6回目の試みで漸く鑑真が日本に来れたことなど書きましたが、この”まんが日本史”をみて正に死をかけた旅だったことを改め認識しました。鑑真は、遣唐使として派遣された栄叡と普照なるお坊さんに請われて、日本に来ました。
当時日本では、僧になれば税金を払わなくて良いため、自分で勝手に僧になってしまう”私度僧”が増え、仏教の戒律を守る僧を育成せねばと考えれれるように成っていました。WIKIによれば(長い引用で恐縮です)
”唐の揚州[要曖昧さ回避] 江陽県の生まれ。14歳で智満について得度し、大雲寺に住む。18歳で道岸から菩薩戒を受け、20歳で長安に入る。翌年、弘景について登壇受具し、律宗・天台宗を学ぶ。律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派であるが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされている。揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧・栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された。当時、奈良には私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かった。私度僧に対して差別的な勢力が、伝戒師(僧侶に位を与える人)制度を普及させようと画策、聖武天皇に取り入り聖武天皇は適当な僧侶を捜していた。
仏教では、新たに僧尼となる者は、戒律を遵守することを誓う。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、サンガ内での集団の規則を「律」という。戒を誓う為に、10人以上の僧尼の前で儀式(これが授戒である)を行う宗派もある。日本では仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する自誓授戒が盛んであった。しかし、奈良時代に入ると自誓授戒を蔑ろにする者たちが徐々に幅を利かせ、10人以上の僧尼の前で儀式を行う方式の授戒の制度化を主張する声が強まった。栄叡と普照は、授戒できる僧10人を招請するため渡し、戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れた。
栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、渡日したい者はいないかと弟子に問いかけたが、危険を冒してまで渡日を希望する者はいなかった。そこで鑑真自ら渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人も随行することとなった”
ーーーその後6回目の企てで漸く渡来。
阿部仲麻呂が唐にいたときと、鑑真が唐にいたころ、日本に渡来したころが重なり、興味深く、当時の文化・宗教交流(流れは唐から日本への一方通行がほとんどだろうが)の太さを感じる次第。
”百人一首 今昔散歩”によれば、当時長安の人口は100万人規模(ウオームアップで平城京は10万人規模)国際色の強い都市とあり、日本人、朝鮮人は勿論、ペルシャ、トルコ人なども多くいたようで、阿部仲麻呂が唐の高官になるなど、かなりオープンな許容量が大きな都市だったのだなと、よって大いに繁栄したのだと感じました。また当時の平城京にも、唐人、朝鮮人は数多くいたはずですね。
唐の長安(現在の西安)、私も一度出張で北京から飛行機で行きましたがとんでもなく遠いですね。北京や上海ならまだ沿岸なので近く思いますが長安となると果ての果ての感じ。よくもそんな所に遣唐使を派遣したものです。それだけ唐(長安)が世界の先端を行く中心地だったのでしょう。長安、当時100万人ですか。大国際都市ですねぇ、ペルシャや中央アジアから青い目の美人なんかも来ていたようですね。
鑑真に関するwikiの引用ありがとうございます。改めて鑑真の凄さに感心しました。それにしても既に高僧だった鑑真が何回も阻まれながら何故日本行に執着し続けたのか、、、。通常の感覚では理解しがたいですね。これはもう「仏が鑑真を日本に遣わしたかったから」と言うしかないですね。
→唐招提寺、今度初めて行ってきます。楽しみです。
皆さん仰る通りいい歌です。
昔から日本人にたいそう愛された望郷歌で、歌のすがたも大きく、しらべも美しく、望郷の悲しみを惻々とうたって余情が深い。とは田辺聖子さんの歌評。
ある本に、この歌の「出でし」の「し」は過去を表わす助動詞だが、過去は過去でも自分が直接経験した過去を表わすもので、この歌においては唐における三十数年の月日を一瞬にして超え、仲麻呂自身を故郷に連れ戻す役割を担っている。まさに万感の想いを象徴する一語が「し」なのだ。とありました。
たった一字でそこまで云う?大秀才の仲麻呂は偉大だが、大和ことばも偉いです。
753年、入唐した大使、藤原清河らと鑑真に会い、ともに日本を目指す。暴風に会い、鑑真はどうにか日本にたどり着くが、清河、仲麻呂の船は難破し安南(ベトナム)に流される。鑑真と同じ船に乗り込んでいたらと思えば儚い。
鑑真は大僧都に任ぜられ、下賜された唐招提寺で76才で死去。仲麻呂は唐に戻り、李白・王維らとこ交遊、楊貴妃?にも会い、最後は安南の節度使に任命され72才で没する。二人ともそれぞれの朝廷に請われ、その才能を遺憾なく発揮した。異国で没するが、さぞかし満足のいく人生だったことでしょう。
新天地 求めて決死の 地中海
「出でし」の「し」、そういう意味の助動詞ですか。なるほど、そう言われてみるとぴったりですね。「ああ~私が30年前大和に居たときに出てた月なんだ~~」ということですね。勉強になりました。今後「し」が出てきたら思い合わせることにします。
仲麿は日本に帰れず唐で没す、逆に鑑真は日本に渡り日本で没す。でもそれぞれ異国での人生は満足するものだった、、、。
→そういう評価にご両人とも大満足なことでしょう。
川柳はリビアなど北アフリカからイタリアなどへの難民移住のことでしょうか。何時になっても紛争の種は絶えない。人間界もまだまだですね。
初めての謡曲の稽古の時、『野守』のなかに「昔仲麿が我が日の本を思ひやり、天の原ふりさけ見ると詠めける、三笠の山陰の月かも」とあってハッとしました。
きっと他の曲でもあちこちに、美しい大和ことばだと謡曲作者に理解された様々な和歌やことば、文章が使用されているだろうと感じました。
おそらく謡曲にすることが多くの人々への普及に役立ったように思います。
『羽衣』にも「天の原ふりさけ見れば霞立つ、雲路まどひて行方知らずも、住み馴れし空にいつしか行く雲の羨ましき気色かな」というところがあります。
改めてこの歌の言葉を考えてみると本当に美しい大和言葉の連続ですね。
「ふりさけみれば~~」、いいですね。丁度七文字だし俳句の中七に使いたいところですがこの歌のイメージが強すぎて俳句にならないでしょうね。それほどインパクトある言葉だと思います。
→パロディ的に会話の中で使うのは面白いかも。
「出でし月かも」、これも何とも味のある表現ですね。枇杷の実さんの解説にあった「し」+詠嘆の終助詞「かも」 現代語に直すと陳腐になりますね。このまま口遊むのがいいのでしょう。
謡曲への引用の紹介、ありがとうございます。「天の原」の歌、誰もが持ってる強烈なイメージがあるのですらっと引用されるとそれだけで引き込まれる世界がある。謡曲作者の腕の見せ所なんでしょうね。
(謡曲のお稽古も進んでおられることでしょう。一度きかせてくださいよ)
コメントを投稿する諸氏もさることながら、そのすべてに目を通し誤字脱字を修正のうえ、歌の部分は太文字表示していただいておる百々爺 の日常を思いやる時、並々ならぬ情熱と努力に敬意を表しております。中でも多寡秀の文章は特に目をひからせていただいておるようで感謝感激であります。
さてそれにしても各々方、桐生君並みの、いやいやボルト並みのスタートダッシュですなあ。1日あけると概ね語られておりますねえ。
田辺聖子さんはすでに枇杷の実さんが取り上げておられますので白洲正子さんで行きましょうか。大筋で「たけたかく、余情限りなき歌」とされた伝統を重んじつつも、仲麻呂本人の作とすればたぶん安南に漂着した後のことではなかろうかとしています。故郷に帰る望みも絶え、老いた詩人の目に、南国の赤く熱い月が映った。その瞬間、昔大和で眺めた清らかな月を思い出し、懐かしさのあまり自然に口をついて出たと。しかし女史の本音は、どう見ても万葉最盛期の歌とは考えられず、「古今集」の調べに近いのを思う時、仲麻呂の作とすることは無理のようであるとの考えのようです。
が、談話室では、小町姐の「たけたかく、余情限りなき歌」論、源智平朝臣氏の「この百人一首の歌の五言絶句形の歌碑が西安や鎮江にあるとのことです。それであれば、この歌はやはり仲麿本人が詠んだ歌だと小生は思います」論、を踏まえると、百々爺の、「仲麿が「もろこしより愛をこめて」詠んだ歌、それ以上の詮索は無用でしょう」は、賢明な結論でしょうな。多寡秀も納得であります。
参考歌 間人宿禰大浦(まひとすくねのおおうら) 「万葉集」
天の原ふりさけ見れば白真弓張りて懸けたり夜路はよけむ
(大空をふり仰いでみると、白い真弓を張って空にかけたように月が照っている。夜路は良いことだろう。)
余談ついでに
白真弓といえば飛騨高山の銘酒「白真弓」が忘れられませんねえ。香り豊か、軽快ですっきりとしたのど越しは一度飲んだら虜になります。
いやいや、このブログは皆さまからいただくコメントで持ってるみたいなものでして。それぞれに本を読んでネットで調べて色んな角度から想いを語っていただいており、本当にありがたく思っています。
別に私の投稿日に遅れても構いませんので感じたこと思ったこと書き込んでください。過去の歌についても思い出したこと思いついたことあればいつどこにでもいいですからコメント寄せてください。
参考歌ありがとうございます。万葉集に「天の原ふりさけ見れば」という表現があるのですか。仲麿さんもこの歌知っていて借用したのかもしれませんね。でも今では「天の原ふりさけみれば」は仲麿さんの登録商標だと思いますけどね。
→「ふり酒みれば、、」仲麿さん、唐の強い白酒ばかり飲んでて「香り豊か、軽快ですっきりした」日本酒を懐かしんでたのでしょうか。
考えてみると仲麿も鑑真も長く異国に居て異国での地位も獲得しそれぞれに重要視され充実した人生を送った。故国は懐かしいとは思うものの今さら居場所もないし、、、という気持ちもあったのかも知れません。
恒例の江戸川柳どうしました? いっぱいあるようですが一つ。
一首にて和漢へ照らす三笠山
僕も大好きな歌です。これが仲麻呂作ではないと思いたくないですね。
wikiには「天の原……」の五言絶句がでていますね。
翹首望東天
神馳奈良邊
三笠山頂上
思又皎月圓
首を翹げて東天を望めば
神(こころ)は馳す 奈良の辺
三笠山頂の上
思ふ 又た皎月の円(まどか)なるを
唐詩版もいいですね。思えば仲麻呂も鑑真和上もそれぞれに異国の地で存分に才能を発揮してその点では満足な人生だったと思いますが、中国では故郷に帰って死を迎え故郷で葬られるのが幸せな人生の終わり方であって、異郷で没するのは非常に不幸な人生という考え方があるそうで、それが 「人間いたるところ青山あり」という言葉を生んでいるそうです。それを考えればやはり晁衡(仲麻呂の唐での名前)も帰りたかったのだろうなぁ……と。そのあたりの心情がよく伺える歌だと思います。まぁ、船が難破したのではしょうがないですが。
あまのはら~~ふりさけみれば~~かすがなる~~
これは間違いなくいい歌、心に響く歌だと思います。中国では故郷に帰って死を迎えるのがあるべき姿だったんですか。故郷と言うと自分を生み育ててくれた父母の土地。父母・祖先にみもられて眠りたい、、、そういう心境ということなんですかね。
五言絶句の紹介ありがとうございます。漢詩に強い仁王どの、また色々紹介してください。
日本側からすればこれだけインパクトのある仲麿。晁衡としての唐での生活の仕方、評価などはどうだったのでしょう。どれほど文献があるか知りませんが興味のあるところです。