8番 ♪都の東南 喜撰の杜に~~

6番家持、7番仲麿は実在確かな人物でしたがまた8番から10番まで訳の分からない人が続きます。そこが百人一首のいいところでして、、、。

8.わが庵は都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり

訳詩:   庵はどこかとおたづねですか
      都からは東南にあたる
      そうそうその宇治山 澄んだ泉の湧くあたり
      心澄まして住みついておりますのに
      なんですか世間では 失恋でもして
      世を憂し山と引込んだように噂しているとか・・・・

作者:喜撰法師(生没年・伝未詳) 六歌仙の一人
出典:古今集 雑下983
詞書:「題しらず

①喜撰法師、例によって生没年・伝未詳。喜撰の歌として残されているのはこの8番「わが庵は」一首のみ。その喜撰を貫之は六歌仙に選出し、古今集仮名序で次のように論評している。

 宇治山の僧喜撰は、言葉かすかにして、初め終り確かならず。
 いはば、秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。
 よめる歌多く聞こえねば、かれこれを通はしてよく知らず

 それにしても「一首のみで六歌仙とはこれいかに!」そして上の仮名序の評もいい加減で褒めてるのかけなしているのかよくわからない。百人一首に撰ばれたことよりも古今集に載せられ六歌仙として崇められたことが摩訶不思議である。

②喜撰法師「世を憂しと思い宇治の山中で心静かに過ごした遁世者」としておきましょう。
 しかぞすむ=このように心を澄まして、鹿といっしょに、、掛詞

 →遁世者が世を嘆く歌というより機智・ユーモアの歌と解釈するのでいいのでは。
  川柳「お宅は?と訊かれたように喜撰よみ」

③宇治の山に鹿はいたのか。源氏物語宇治十帖椎本の匂宮・大君の歌の贈答に出てくる。

  (匂宮) 牡鹿鳴く秋の山里いかならむ小萩がつゆのかかる夕暮
  (大君) 涙のみ霧りふたがれる山里はまがきにしかぞもろ声になく

 →宇治の姫君に秋波を送る匂宮、頑なに心を閉ざす大君

④宇治山=喜撰山(416M) 三室戸寺から少し入ったところ。それでも随分と山深かったのであろう。そこに庵を作って喜撰は世を忍んで過した。

 この「都のたつみ」の歌を定家が撰んだ理由、「絢爛たる暗号」によると、
  後鳥羽院が流された隠岐からみると「たつみ」は京、即ち定家自身がいるところ。
  この歌は後鳥羽院に対し自分は京で世を愁いながら過ごしていますよ、、、というメッセージだった。
  
  →なるほどよく考えたものですね。さて地図を見てハタと思いました。
   隠岐 の東南は 京 の東南は 宇治 の東南は 津 ではありませんか!
   (別にどうってことありませんが)

⑤宇治と言えば源氏物語宇治十帖、何故紫式部は光源氏亡き後の物語の舞台を宇治に設定したのか。宇治は京にほど近く宇治川の南岸は高級貴族の避暑別荘地帯、北岸はひっそりした遁世隠遁者が庵を結ぶ土地柄であった、、、というのが定説です。

 →爺は紫式部はこの8番歌を拠り所として宇治=憂しのイメージから宇治を舞台に撰んだと思ってます。そして喜撰法師に倣って宇治の阿闍梨を登場させた。ただこの阿闍梨、人情・ユーモアを解さない堅物のみの偏屈法師だったですねぇ。。

 →更に言えば源氏物語宇治十帖によって宇治は「憂し」土地柄と規定づけられたのであろう。

昨年末源氏物語完読記念旅行で訪れた三室戸寺、花のお寺、つつじ・あじさいの時が最高とのことだった。さぞかし今ごろはつつじで賑わっていることでしょう。

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20 Responses to 8番 ♪都の東南 喜撰の杜に~~

  1. 小町姐 のコメント:

    喜撰法師、この人もよくくわからない人とは!!
    百人一首中、はっきりした実在の人物はどのくらいでしょうね。
    時代的にも後に行くほど実在の人物が多いのは当然でしょけど・・・
    そのわけのわからない人の歌がたった一首しかないのに六歌仙に選ばれている。
    一首しかないからこそ価値があるのかなと勘ぐってしまいます。

    「然」と「鹿」 「憂し」と「宇治」 源氏物語でも頻繁に掛詞や縁語が出てきました。
    今朝ウオーキングしながらふと思ったこと。
    ひょっとして今に至る川柳やダジャレ等のルーツはこれらにあるのでは?
    立位置や質は違うかもしれませんが何となく通じるように感じるのです。
    そうすると百々爺さんの「遁世者が世を嘆く歌というより機智・ユーモアの歌と解釈するのでいいのでは」がとてもしっくりと腑に落ちるのです。
    私はユーモアのセンスに欠けるので即興的に当意即妙な対応ができる人が羨ましいのです。

    確かに宇治の東南は津、津は隠遁や憂しとは程遠い海に拓けた大らかなイメージですね。

    三室戸寺、思い出しますね。きれいなお庭を散策しました。
    あれは晩秋でしたからその山深い庵と憂しのイメージはぴったりでした。
    今頃は花々の競演でしょうね。
    わが庵は都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり」は遠くなりにけりじゃないでしょうか?

    • 百々爺 のコメント:

      よく分からない人の登場、もうちょっとご辛抱ください。10番までは続きますがそれからは全て実在人物になりますから。

      川柳、ダジャレのルーツは正に掛詞と縁語でしょう。同音異義語がこんなに多い言語は他にないんじゃないでしょうか。でも言語としてのそんな弱味を逆に利用してユーモア・諧謔の世界を生み出す。これも日本人の素晴らしい知恵だと思います。時事川柳、どこの新聞にも載ってます。それだけ意味があるのでしょう。作る方も読んで考える方もニンマリしながら。私も毎日楽しみにしています(これはと思うの覚えておくと会話にも生かせるし)。

      おっしゃる通り津は「隠遁や憂しとは程遠い海に拓けた大らかなイメージ」だと思います。穏やかでオープンで明るい。およそ暗いイメージはありませんものね。

  2. 浜寺八麻呂 のコメント:

    百々爺がこの8番歌のタイトルに”♪”マークをつけてくれ、当に納得。小生には、和歌の内容は解りやすく良いには良いが、すばらしいとまでいえるのか?ですが、歌いやすい口調で、メロディーがついてくる感じが親しみやすく、当に”♪”であります。

    源氏物語完読旅行で昨年12月宇治に行き、今でも山は奥深さを感じました。宇治といえば、まず思い出されるのは、川、次にこの宇治川から鵜飼、平等院そしてお茶と源氏物語、その源氏よりも約150-200年?も前の宇治”山”を思えば、この歌のようなおっとり感がない、さぞ人里離れたさびしい山奥であったろうと想像されますが、そこをさらりと詠んだところが、すばらしいとまでいえるのかと評しましたが、やはりこの歌の良さなのかと感じる次第。

    • 百々爺 のコメント:

      確かにすばらしいかどうかは素人が考えても疑問がつきますね。

      歌を口ずさむと響きとして暗さはあんまり感じられません。世をはかなんで今にも絶え入りそうな悲壮な感じ、、、と言うよりむしろ山での隠遁生活をエンジョイしているような響きすらします。

      「余を宇治山と人は言うなり」
      大岡信の訳詩も「世を憂し山と引込んだように噂しているとか・・・・」で切れていますがその続きは「でも実はそんなことないんだ、気楽な一人住まいを楽しんでいるのさ、、、」かもしれません。

  3. 百合局 のコメント:

    この歌には六歌仙時代の大らかな感じがあって、暗さはないですね。
    宇治に対するイメージに憂世を厭う心がひきだされたのは後のことですよね。
    源氏物語「橋姫」の巻の八宮歌「あとたえて心すむとはなけれども世をうぢ山に宿をこそかれ」などからみても、平安中期の「うぢ山」のうけとり方の変化がわかります。
    これは紫式部歌ですから、このころ既にニュアンスがかわってきていたのを、その後は源氏物語の影響を大いに受けて宇治=憂しと定まったのかもしれません。
    宇治といえば喜撰法師のこの和歌が条件反射的に人々の心に浮かんで、日本人の共通認識となっていったのでしょうかね?
    謡曲『頼政』では「喜撰法師が庵は、我が庵は都の巽しかぞ住む世を宇治山と人はいふなり」と使われています。
    謡曲『浮舟』では「今もその、世を宇治山の道出でて」と使っています。
    歌舞伎舞踊『六歌仙客形(ろっかせんすがたのいろどり)』では喜撰法師は登場人物の一人です。

    • 百々爺 のコメント:

      宇治十帖の八の宮&姫たち、暗かったですよね。何でそんなに暗くなる必要があるんだ、過去はさておきもっと前向きに生きたらどうかとつくづく思ったものです。そこに暗い過去を背負った薫が登場する。正に暗の2乗みたいなお話でありました。

      私も「宇治=憂し」の強烈なイメージが作り上げられたのは源氏物語宇治十帖のせいだと言う見方に賛成です。宇治の人たちにとっては迷惑な話かもしれませんが。

      「頼政」って源三位頼政でしょうか。一時平氏に与しながら反旗を翻し宇治平等院で壮絶な自害。そしてその娘が92番二条院讃岐ですからね。本人も歌人として有名だったみたいだし、、。またその辺は源平争いのところでやりましょう。

  4. 枇杷の実 のコメント:

    猿丸に次いで得体の知れない喜撰法師。
    世間には煩わしい日常から逃れて出家し、ゆうゆうと隠遁生活を過ごしている者がいる。そういう身を羨んでこの歌を読み、喜撰という遁世者を宇治に登場させた。
    すなわち、紀貫之の演出という説に真実味を感ずる。
    紀貫之は「男もすなる日記というものを、女もしてみむ」と仮名文字を使って土佐日記を著わし、女性に仮託して第三者の視点から主人公(自分のこと)を書いているとか。通ずるものがあるように・・。
    喜撰という変名で「その名聞こえたる歌人6人」に何食わぬ顔して、己を加えている。そうであるなら御立派というしかない。
         時雨庵 都の西北 小倉の森に

    • 百々爺 のコメント:

      えっ、紀貫之が喜撰法師と言う人物&この8番歌を捏造した、、、なんて説があるのですか、びっくりです。7番仲麿歌(天の原)も紀貫之作者説があるし、随分なものですね。

      貫之とするとあの古今集序の「よめる歌多く聞こえねば、かれこれを通はしてよく知らず」なんてのは何とも白々しいですね。

      色んな推理をするのはいいですがここは重要なところですから学問的にも解明して欲しいですね。

      そうですね、時雨庵は都の西北。と言うことは隠岐-時雨庵-内裏も一直線上に並ぶことになりますね。面白いもんです。

      • 枇杷の実 のコメント:

        確かに、紀貫之は古今和歌集・仮名序で喜撰をして「詠んだ歌も多く知られていないため、あれこれの歌を通して、良く知ることができない」とわざわざ論評していることから、貫之=喜撰はちょっと考えられないですね。
        謎の人物ということで喜撰をWeb検索してみたら”紀貫之の変名であるという説”とか”実は紀貫之のペンネーム”の文言から、その一点に注目して、つい悪乗りしてしまいました。
        昨日のコメントは邪推の域にあり、貫之の名誉にかけて撤回します。

        • 百々爺 のコメント:

          そうでしたか、紀貫之説は枇杷の実さんのオリジナルでしたか。失礼しました。それならいいのです。素人の我々が何を言おうと勝手ですから。確かにおっしゃる通り紀貫之は日記文学(土佐日記)・仮名文字のやまと歌(古今集)など文学史上の巨匠ですからそういう風に想像を広げるのもいいじゃないでしょうか。これからもドンドン広げてください。

  5. 小町姐 のコメント:

    遅ればせながら今、気付きました。
    タイトルは早稲田の校歌をもじった・・・ やはり才能有りですね。

    お休み前のひと時
    【余談4】
    日本百名山ひと筆書き(グレートトラバース)の田中陽希さんに会って来ました。
    列島7800キロを人力で前人未到の踏破。

    私が通っているカルチャーセンターでの講演会です。
    直接会ってみると体格がテレビで見るのとは全然違いました。
    筋肉質でかた肥り(体重80キロ)
    映像を交えての語り口は真面目で適度なユーモアがあり魅力的な男性でした。
    伴う危険は山の責任ではなく人間が招いていることなど、エピソードやハプニングを交えての興味深い話題が次から次へと。
    山はもちろんそれよりも人との出会いの妙に重きを置いた内容でした。
    ひと筆書きのひとは人と一を掛けたものだそうです。
    シーカヤックを始めテントの装置、はきつぶした16足の靴、30キロのザック等々の登山グッズなど展示されそれぞれの説明もありました。

    次なる冒険は200名山でプラス100が5月から始まるそうです。
    心から応援したくなる人間、田中陽希を間近に感動の2時間半でした。

    • 百々爺 のコメント:

      1.貴重なる余談、ありがとうございます。陽希くんに会った、そりゃあよかったですね。感激したことでしょう。今をときめく陽希くんを引っ張り出すカルチャーセンターもすごいですね。

       一筆書きが何度も放映されるのを見る度、あれを企画・実行したNHKプロデューサー、スタッフにアッパレ!をやりたい思いです。企画はしたものの計画通り実行できるかどうか見通しは立たなかったのでしょう。だって何か起ったらそれで終わりですから。やり初めの頃は放映時間枠もひっそりとまあ様子を見ながらやってみよう、、ぐらいだったでしょうか。それが見事に大フィーバー、一躍陽希くんは大スターに。さあそれからのNHKの売り込み方がすごい、手を変え品を変え徹底的に売りまくる。正しくこれぞヒット商品を生み出すビジネスモデルじゃないでしょうか。一筆書きは今やNHK史上でも最重要コンテンツの一つと言っていいでしょう。

       →それにしても陽希くん、よくやりました。ここは山男各位(文屋どの、枇杷の実どの、仁王どの)のコメントをお聞きしたいところです。

      2.早稲田の「都の西北」は歌人相馬御風の作詞。恐らく彼の頭にはこの8番歌があったのじゃないでしょうか。そして今や「都の西北」は早稲田の登録商標ですもんね。
       →さすがに明治の時代「都の戌亥」とは言えなかったのでしょう。

       早稲田の校歌、2番がいいのです。その前半を引くと、
         東西古今の 文化のうしほ
         一つに渦巻く 大島国の
         大なる使命を 担ひて立てる
          われらが行手は 窮り知らず

       これは大東亜帝国思想に繋がるものでなくあくまで極東アジアの島国日本も文化交流を持って世界にはばたけと謳い上げたもので、爺が財団に居たとき司法界の重鎮三ヶ月章先生が若き司法家への講演・挨拶でよく引用されてました。
        →余談の余談ですみません。。

    • 枇杷の実 のコメント:

      そうですか。陽希くんは又、挑戦ですか。
      ちょうど一年前になりますね。最初にテレビで視た時は、とんでもない事をする青年だ、と驚きました。大成功のNHKは今回も放映するでしょうね。かみさんは早くも録画取りの構えです。
      久し振りにHPを覗くと100名山踏破後は引く手あまたの売れっ子ですね。
      こちとらも百人一首ひと筆書き(イン メモリー)と行きたいですが・・。

  6. 小町姐 のコメント:

    余談の追記を少々
    講演前に質問票が配られ私も2、3質問しました。
    映像の企画実行はNHKですがこの計画はNHKからの提案ではなく陽希さん自身が宣言したのがきっかけでNHKの協力(ディレクター2名、世界でも屈強なアスリートの撮影班6名)があったそうです。
    NHKからの金銭的な支援サポートは一切なし、あくまでも黒子とのこと。
    従って移動、宿泊、食料、装備等すべて自前だそうです。
    命の危険があった場合を除き一人旅をドキュメンタリーとして追う。
    資金の一部として陽希さんの書籍やグッズの販売があり私も協力しました。
    アドベンチャー仲間や所属チームのサポート、通りすがりの見知らぬ人からの励まし、応援が何物にも代えがたい最大の力だったこと。
    ファンからの差し入れのポテトチップは塩味(塩分補給)が多かったそうですが実はコンソメパンチ味が好きだとのこと。一番の差し入れは夏の山頂でのアイスクリームだそうです。
    いくつかの山は私も登りましたがそんな時は気持ちを共有することができました。
    特に白馬の不帰剣は名前の如く危険な個所と指摘されましたが私は何の恐怖も感じずに歩きました。
    恐いもの知らず、若気の至りでした。映像を見て今更のように恐怖を感じました。

    次なる一歩、宗谷岬から佐多岬を目指す旅の安全を祈って止みません。
    陽希、がんばって!!!

    • 百々爺 のコメント:

      そうなんですか、よく分かりました。私はNHKが主体になってやった(或いは少なくとも陽希くんと共同でやった)プロジェクトだとばかり思っていました。と言うことは陽希くんの活動を写したドキュメントですから取材費は払うにしても著作権はNHKにありなんですね。まあ陽希くんもあれだけ映像露出させてもらって有名になったのだからウインウインでめでたしめでたしですかね。

      今度は北から南ですか、どういう趣向になるのでしょう。楽しみですね。

  7. 文屋多寡秀 のコメント:

    この多寡秀、ここ数日都のたつみ、すなはち伊勢の津にしかぞすんでおりまして、百々爺からの呼び出しの掛かっておること露知らず、本日の登場と相成りました。

    昨今の津の山間部はまさしく、鹿の住む世界でありまして、私の友人などはこれを捕獲し、血抜きしてさばき、燻製にまでしております。これは得も言われぬ珍味でありまして最近は猪にも挑戦しております。昨今の田舎暮らしは隠棲どころか大変アグレッシブなのであります。

    さて陽希くんでありますが、すごいの一語であります。世に百名山完登者は数ある中、文明の利器のお世話にならず、自らの足のみでこれを成し遂げたのはギネスものでしょう。単独行の加藤文太郎も冒険家植村直己もびっくりでありましょう。

    私の師匠も百名山はおろか三百名山まで完登し、それで飽き足らず今度は水平移動よろしく、四国八十八か所参りを高野山で打ち上げ、現在は中仙道を歩き続けております。もちろん文明の利器を百パーセント利用してですが。私なんぞは三千M峰完登などとほざいておりますが足元にも及ばない世界なのであります。

    8番歌に関して派生を三首

    あとたえてこころすむとはなけれども世をうぢ山に宿をこそかれ(源氏物語)
    河霧のみやこのたつみふかければそこともみえぬ宇治の山里(大江匡房)
    わがいほは都のいぬゐすみわびぬうき世のさがと思ひなせども(寂連)

     

    • 百々爺 のコメント:

      ご登場ありがとうございます。

      えっ、津の山間部で鹿・猪の燻製ですか。それに雉でも加われば正しくイノシカチョウ(猪鹿鳥)じゃないですか。草を食み夜露で渇きをしのぐ隠遁者と丸っきり違う、狩猟肉食人間ですね。びっくりです。
       →枇杷の実さんが言ってた鹿の増えすぎなんですね。

      三千M峰、いくつあるのでしょう。がんばってください。

      8番歌派生の三首紹介、ありがとうございます。
      三首とも8番歌の本歌取りですね。

      源氏物語のは宇治十帖の始まり橋姫の巻で八の宮が詠んだ歌。この歌から宇治の重っ苦しいお話が始まるのです。

      大江匡房は73番歌(高砂の)の作者ですね。こう言う歌得意なんですね。64番歌(朝ぼらけ宇治の川霧絶えだえに)にも通じていますね。
       

  8. 昭和蝉丸 のコメント:

     (源氏の時の様に、また、遅れがちに・・・。
     でも、ここに来て、本文は元より、投稿各位の談話が
      俄然面白くなってきて、感心したり裏付け(?)したりするうちに
      益々遅れそうです。)

    ◆ 百々爺が「宇治と言えば源氏物語宇治十帖、何故紫式部は
    光源氏亡き後の物語の舞台を宇治に設定したのか・・・」と
    宇治十帖を取り上げていましたが、新潮社のPR冊子に
    古川日出男さんの『女たち三百人の裏切りの書』が紹介されていました。
    まだ読んでいませんが 解説によると、紫式部が或る少女に憑りつき
    「世に流布している宇治十帖は偽物で。ここに正しい物語を語る」と
    宣言し 話が進む由。
    読みたくなりますね。

    ◆ 小町姐が田中陽希さんに会ってこられた、と。
    私も、今は昔、大学三年の時、大学が封鎖されたこともあり、
    年間100日間程、山登り、山籠もりをしていた事がある、”元”山男の端くれで、
    「100名山・ひと筆書き」は初映の際、しっかり見ました。

    でも印象に残っているのは山々の厳しさや陽希君の超人的な体力ではなく、
    確か尾瀬の至仏に登っている時、下りてきたファンが
    「遅かったですね。頂上で四時間も待っていたんですよ」と言ったことで、
    しばらくして一人になった陽希君が雄叫びを挙げたシーン。
    関東の百名山は低くて楽な山が多く、番組を見たファンと言うかギャラリーが
    多数頂上で待つ現象が起きました。それに応えなければいけないプレッシャーに、
    陽希君が「切れてしまった」瞬間を写し出していました。
    このシーンを見てすっかり陽希君のファンになりました。

    以上、余談の余談ですが、一言二言。
    それにしても、今日(5/1)の横浜は夏、暑かったですね。

    • 百々爺 のコメント:

      ご登場お待ちしてました。遅れても構いません。余談の余談の余談、大歓迎です。何でも書き込んでください。

      1.『女たち三百人の裏切りの書』紹介ありがとうございます。興味あります。チェックしてみます。ただこの手の本よくありますが要は著者に源氏物語をキチンと読んでどれだけのベースがあるかに掛ってますからね。ともすると源氏に乗っかった上っ面のお話しでがっかりすることも多いものですから。

      2.おっ、そうでした。元山男でしたね。失礼しました。陽希くんが雄叫びをあげるシーンありましたね。なるほどそういうことでしたか。ああいう殆ど「100名山・ひと筆書き」LIVE中継みたいな状況になると陽希くんもギャラリーから元気をもらう一面ギャラリーに煩わされる面も多いのでしょう。またやるそうでフィーバーはいやが上にも高まる。誰かメンタルアドバイザーでもつけた方がいいかもしれませんね。 

      • 小町姐 のコメント:

        昭和蝉丸さんお久しぶりです。
        きっと10番歌(蝉丸)のときはお越し下さるだろうと辛抱強くお待ちしていました。
        次回です、よろしくね。

        あのシーン印象的でした。日光から男体山に向かう時です。
        陽希さんの気持ちが痛いほどわかりました。
        「俺は何のために登っているんだ」と自問自答した心の叫びが爆発した瞬間でした。
        誰もいない山頂を見てホッとしたこともあったと正直な気持ちを吐露していました。
        丹沢から筑波山に向かう途中の通りすがり「若い人ちょっと助けてくれませんか」と頼まれてチェーンソーの扱いを教え木を倒してあげたことをとても喜び楽しい出会いだったと。
        この「日本百名山ひと筆書き」はそれこそいろんな出会いがあり人間田中陽希を大成長させた30才の大きな人生の節目となる旅だったと思います。
        最後は本当に本当に本当にありがとうございましたと心からの感謝の気持ちを述べておりました。

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