13番 陽成院 筑波山に託した真摯な恋情

さて、面白いところに入ってきました。若くして(17才)帝位を追放された13番陽成院、次の天皇に自薦するも無視された14番源融、55才にして皇籍に復帰し帝位についた15番光孝天皇、もし廃位なかりせば天皇になっていたであろう20番元良親王(陽成の第一皇子)。この四人の織りなす人生模様、じっくり考えてみましょう。
 →「百人一首の作者たち」(目崎徳衛)p60以下精読されたし。

13.筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる

訳詩:    思ってもみてください 東の国の筑波山の
       峰から細々おちてくるわずかな水も
       つもれば満ちて男女川ともなるというのに
       思ってもみてください 私の恋は
       つもりつもって 今ははや 深い淵

作者:陽成院 (868-949)82才 第57代天皇 父は清和天皇、母藤原高子(たかいこ)
   →母高子(二条の后)は業平と相思だったことで有名(また後程)
出典:後撰集 恋三776
詞書:「釣殿のみこに遣はしける」

①陽成院 9才で即位 母の兄藤原基経が摂政に
 15才で元服、脳の病気となり奇行・乱行(狂暴性あり)多く17才で退位させられる。
 →即位も退位も全て基経の手の内、藤原摂関政治確立へ向けての過程の一コマである。

 この奇行・乱行の様子が書かれているのは正史「三代実録」、その後「愚管抄」「神皇正統記」も厳しくフォローしている。近習を手打ちにしたり牛馬を虐待したり。
 →正史とは言うものの全て勝者の筆によるものでどこまでが真実か分からない。
 →確実なのは万事基経の権謀によるものだったということ。

 陽成天皇は退位後陽成院として82才まで生きた。
 →65年間にも及ぶ上皇暮らし、ストレスもたまったことだろう。
 →出家して仏の道に勤しむなんてことは考えなかったのだろうか。

②陽成院の歌で勅撰集に入っているのはこの13番歌一首
 →さしたる歌人ではなかった。定家の撰は人物撰である。

 13番歌、万葉集 東歌を本歌としていると言われている。
  筑波嶺の岩もとどろに落つる水よにも絶ゆらに我が思はなくに
   →東歌らしく豪快でなかなか良い。

 詞書「釣殿のみこに遣はしける」
   相手は光孝天皇の娘綏子(すいし)内親王 後に陽成院妃になる。
   →ストレートな恋情を切々と訴えている。
    (どこかに「凄みのある殺し文句的表現」との評があった)

   →院の鬱積した想い、77番崇徳院の「瀬をはやみ」にも通ずるか。

③筑波嶺、出ました! 筑波山です。男体(871M)女体(877M) やや女性上位
(低いながら百名山、山のない下総国(千葉北部)から見れば山の象徴なのです)
 
 筑波は東国の歌枕、特に年一回の自由結婚を認める歌垣の地として有名
 →有名であったが京の皇族・貴族はこんな辺境まで来たことなどなかったろう。

④筑波山のある常陸は大国、国府は石岡にあった。
 平安京から見れば一番遠い東国だったのではないか。源氏物語には常陸に赴いた常陸介が二人登場する。
  1. 空蝉の夫 空蝉も常陸に同道した。帰る途中で源氏と逢ったのが逢坂の関
  2. 浮舟の義理の父 浮舟も常陸で育った。
    →常陸帰りの浮舟が登場することから「東屋」の浮舟物語が始まる。
     
    東屋冒頭:筑波山を分け見まほしき御心はありながら、、、
    (薫が一度チラリと見た筑波山=浮舟をじっくり見たいと思っている、、、)

ゴチャゴチャ書きましてすみません。興味のあるところピックアップしていただけば結構です。
筑波山が出てくることもありますが爺はこの素直で率直な恋の歌、大好きです。

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22 Responses to 13番 陽成院 筑波山に託した真摯な恋情

  1. 小町姐 のコメント:

    13番歌の陽成院、話題尽きない人物のようですね。
    暴虐や狂気を以て語られる天皇の一人でその行状が数々の正史や説話で伝えられています。
    目崎徳衛「百人一首の作者たち」読んでみます。

    初めて恋らしい和歌が出てきましたね。
    恋は恋でも三番歌の山鳥とは違った意味の切なさ、素直な恋心が伝わります。
    詞書の「釣殿のみこに遣はしける」が良いですね。
    ちゃんと恋の相手を伝えていて若者らしい純粋さに好感が持たれます。
    この時代にしては82歳と言うのはえらく長命ですね。
    引退後?はどのような暮らしぶりだったのでしょうね。

    筑波山、象徴の親しき山が出ましたね。
    百名山中一番低い山で百名山の中では一年間に最も多くの人が訪れていると陽希君は言います。
    当時の山はどうだったのでしょう。
    もちろん東国の歌枕で陽成天皇は知る由もない。

    常陸介、いましたね。
    そんなに出番はなかったのにとても印象に残っています。
    特に浮舟の義父は面白く書けていましたよね。
    源氏物語とのつながりが結構ある事に気付かされています。

    • 百々爺 のコメント:

      少しは落ち着かれましたか。無理なさいませんように。

      そうですね、13番にして初めて恋歌らしい恋歌でしょうね。この歌を詠んだのは退位後でしょうが、天皇の恋とはどういうものだったのでしょう。皇位に居る間はあまり自由がきかなかったのでしょうね。摂関家のなすままに気に召さない女性が入ってきたり、所望する女性は遠ざけられたり。

      陽成院も退位して好きな女性(釣殿のみこ)を妻とできてよかったじゃないですか。9才で即位して17才で退位。自分では天皇として何もできなかった(させてもらえなかった)ということでしょう。それが摂関政治。

      筑波山は百名山中年間登山者ナンバーワンですか。低山ですからね。低山と言っても関東平野から眺めると独立峰ですからよく目立ちます。常陸の国と言えば筑波山だったのでしょう。

      浮舟の母(中将の君)と義父(常陸介)面白かったですね。白川庵での配役表では省略しましたが10年版では松坂慶子と長塚京三です。私はこれ気に入ってるんですが。。

  2. 浜寺八麻呂 のコメント:

    百々爺が毎日眺めている?筑波山、そこから流れ始める最初は水量もすくない男女川、その小さな流れがだんだんと積もって大きくとめられない流れとなっていく、”恋ぞつもりて、渕となりぬる”、なるほど爺が大好きな歌というのが、よく解ります。

    陽成院の若い時代、当時の歴史書などでは”暴虐天皇説”がもっぱらだったらしいですが、摂政・太政大臣・歴史上初の関白になった藤原基経による”作為説”のほうが、物語的には単純明快でよいと思います。

    9歳から17歳までの天皇時代、政治は藤原基経と、基経の同母妹で 陽成天皇の母后である 皇太后藤原高子が執り仕切り、藤原基経が藤原摂関政治を強固なものに築き挙げるため政略を図り、また基経・高子の兄弟間の政争にも巻き込まれた若き天皇であったと思えます。

    その後、不如意のまま、65年間も上皇の地位にあり(WIKIによれば、歴代1位で、2位が42年の冷泉院)、光孝・宇多・醍醐・朱雀・村上の5代にもわたり天皇を迎えたという、またかって臣下であった宇多天皇の行列が陽成院の前を通った際、”当代は家人にはあらずや、悪しくも通るかな”といい放ったという、豪快であり、でも鬱憤やるかたない、小生からすれば同情の念を禁じえないような、人物に思え、この人が、この純愛の歌を詠んだというのが、いや定家がこの歌を選んだというのがすごいと思います。

    • 百々爺 のコメント:

      私も陽成院には同情的です。自己主張のないお人形みたいな人であったらずっと天皇でいられたのかもしれませんが。おそらく気骨のあった人なのでしょう。ストーリーなんて何とでもでっちあげられますから。

      上皇としての生存期間65年、歴代1位ですか。若くして退位させられ長生きしたということですね。晩年どんな気持ちでどんな人生を送ったのかあまり書かれていませんが、若い時はカッカしたのかも知れませんが年老いて好きな女性(たち)と穏やかに暮らしたのじゃないでしょうか。

       →基経は陽成院より32才年長。天敵基経は陽成院が24才の時に亡くなる。以後82才まで陽成院は気楽だったのかも。

  3. 文屋多寡秀 のコメント:

    この多寡秀、故あって暫らく喪に服しておりましたが、本日より談話室に戻りましてございます。

     12番歌をもじって

     あまつ風くものかよひ路ふきとぢよ嫗の姿しばしとどめむ

    現在はこのような心境でありましょうか。

     さて13番歌でありますが、陽成天皇は、御脳のため、若い時から乱行絶えず若くして退位を余儀なくされたとのこと。この歌は釣殿の皇女にせつない恋心を訴えた歌で偏執狂的な方ゆえ却って良い唄が出来たよう。とは白洲正子女史の見解。しかし16歳で退位され65年も生きて81歳で崩御されたとして、その長い上皇時代はみじめなものであったでしょうな。筑波山は歌枕というよりは、実際に激しい川音が聞こえ暗い淵が見えてきます。純粋な、純粋すぎるが故に、報われることのない悲恋の歌としてとらえたいですな。

     からかいが川柳の命ですが、さすがに天皇の御歌をからかうことはけっしてありませぬ。したがって今回は川柳の引用はありませぬ。

    • 百合局 のコメント:

      お母上の心は最期まで「少女」のままだったのかもしれません。
      やはり元歌のまま、偲びましょう。 合掌。

      文屋多寡秀殿、お疲れがでませんように。

    • 百々爺 のコメント:

      ご愁傷さまでした。大変だったでしょう。疲れが出ませんように。

      おっしゃる通り純粋で激しい恋歌だと思います。でも結局后に迎え入れることができたのですから「訴え成功、やったぜベイビー!」の歌じゃないでしょうか。筑波山は男体山・女体山、男女川、、男女和合の山だと思うのですがいかがでしょう。

  4. 百々爺 のコメント:

    みなさん、コメントありがとうございます。

    本日は吉野へ行ってきました。シーズンオフでがらがら。麓の店のおじさんが元ボランタリーガイドで親切にアドバイスしてもらい車で奥千本(金峯神社)まで行ってきました。さすがに西行庵まではそこから片道20分ということであきらめましたが吉野山、ほぼ見所見てきました。帰りに東吉野(吉野宮跡・宮滝)&談山神社(鎌足)に寄ってきました。帰ったら感想などまとめて書かせてもらいます。

    明日は室生寺、長谷寺、三輪神社、石上神社(できれば)の予定です。

    • 在六少将 のコメント:

      奥千本まで通行可能だったですか。やはり花の盛りの頃とは大違いですね。
      長旅でお疲れでしょうから、明日はどうぞ気をつけてお帰りください。

  5. 枇杷の実 のコメント:

    贈った相手は後に后となっている事から、この歌にある誠実な愛情が伝わり、愛の言霊よろしく恋は成就した。相手は大叔父、光孝天皇の皇女、綏子内親王。
    陽成院は遊び盛りの幼少の時(7歳)に即位したため、ストレスからの反抗心で、いわば悪ガキの行為、奇行はあったが、本当は純情・無垢な少年だったと考える。
    江戸時代に至るまで、物狂いの帝、暴君と評価されてきたが、この退位劇は母・高子とその弟・太政大臣の藤原基経との対立が原因で、暴君説が後世広まったのは、不当に退位に老い込んだ基経の、自己正当化工作とする説も出ている。(百人一首今昔散歩)
    筑波山は関東平野に浮かぶ独峰で、その姿は美しい。我が家(8F)から北に眺望できる。海抜900m足らずの山で、何度か行ったが、1時間半の登山のわりにはキツイ感ずる山です。麓には筑波山を御神体とする筑波神社とその門前町がある。山頂は西の男体、東の女体の二峰に分かれる。間にある広場、御幸ヶ原では油売りの大道芸・口上が今でも見られ、昔名物のガマの油(軟膏)が売られる。
    余談ですが、「真珠湾攻撃を攻撃せよ」を命じる隠語は「ニイタカヤマノボレ(新高山登れ)」であったが、「直ちに帰投せよ」を表す隠語は「ツクバヤマハレ(筑波山晴れ)」であったとか(Wiki)。これが発令されていれば世界は変わっていた。
    男女川 どこにいるのか ガマガエル

    • 百々爺 のコメント:

      基経の自己正当化工作説、爺もそうだろうと思ってます。それにしても畏れ多くも天皇を事実に違えて悪しざまに言うなんてすごいですね。余程突出した政治力がなければできなかったと思います。フジワラはすごいです。

      お宅から筑波山が見えるのですか。いいですね。ウチの方では土手(江戸川ないし利根川)からでないと見えません。いつも行く江戸川の土手では近くに雑木林があって見えません。そんなものですね。

      流山の幼稚園は年長さんになると筑波山へお泊り遠足に行きます(江戸屋という旅館がある)。みな山頂まで一生懸命に登り見違えるようにたくましくなって帰ってきます。

      余談、ありがとうございます。そうだったのですか。何で筑波山は晴れなかったのでしょうね。

  6. 百合局 のコメント:

    この歌からは東国、歌垣のイメージが湧いてきます。素朴ないい歌ですね。
    陽成院は何度も歌合を催していますから歌の才能があったと思われるのに、この歌一首しか伝わらなかったのは不思議ですね。
    13番歌には派生歌が多いので、この表現は好まれたようにも思います。

    謡曲『鸚鵡小町』に登場人物として陽成院の名前のみが出てきます。「これは陽成院に仕へ奉る新大納言行家にて候、さてもわが君敷島の道に心を懸け、あまねく歌を撰ぜられ候へども、御心に叶ふ歌なし」 そして小町の、一文字替えの歌(鸚鵡返し)となります。

    落語には「陽成院」があります。

    • 百々爺 のコメント:

      私も歌垣のイメージを感じます。訴えなければ恋は成就しない。素朴にかつ情熱的に訴える。囀り、歌を唄う。求愛行為ですよね。

      陽成院、歌合せを主宰しているようですね。和歌が好きで和歌に一家言持っていないと歌合せなど開けませんものね。「さてもわが君敷島の道に心を懸け」ですか、そうだったのでしょう。

      落語の「陽成院」ですか。「崇徳院」のパロデイみたいなものでしょうか。

  7. 源智平朝臣 のコメント:

    どこまでが真実でどこまでがでっち上げかは不明ですが、陽成天皇は狂暴で評判の悪い天皇だったようですね。17歳で退位後の65年間もの上皇生活はさぞや欲求不満の多い年月だったでしょう。でも、この歌の贈り先である釣殿の皇女、綏子内親王と結婚できたのだから、それなりに幸せだったのではとも思います。また、本人は知らないままにあの世に行ったとはいえ、勅選集に入った唯一の自作の歌が定家によって百人一首に選ばれ、素晴らしい恋歌として後世に人々に愛されているのだから、歴史的&客観的には悪くない人生ではないでしょうか。

    ネットサーフィンをしていて気付いたのですが、この時代には陽成天皇(57代)の後も、奇行で評判の悪い天皇が何人か現れたようですね。
    具体例を挙げれば、最初は冷泉天皇(63代)。彼は、①蹴鞠用の鞠を梁に乗せようとして一日中毬を蹴り続け、足を負傷していても蹴ることを止めなかった、②父村上天皇への返書として陰茎の絵を送った、③突然大きな声であたりかまわず歌い始めたなどの奇行があったようです。

    次は一条天皇(66代)。彼は紫式部が源氏物語を執筆していた時の天皇ですが、無類のネコ好きで、①内裏でネコが出産すると左大臣・藤原道長らに命じて産養の儀を行い、一人の女房をネコの乳母に任命した、②中宮・定子の部屋近辺をうろついていた犬がこのネコに飛びかかり、これを目撃した天皇はネコを懐に入れ、その犬を島流しにしたと伝えられています。

    極めつけは花山天皇(65代)で、彼は自らの即位式の時に傍にいた気に入った女官を高御座(たかみくら、いわゆる玉座)に引きずり込んで交合(セックス)をしたと伝えられています。

    こんな天皇が出るのは、皇族の間で頻繁に行われていた近親結婚による劣性遺伝のためか、藤原氏に流れる狂気の血の発現か、藤原氏に実権を握られて(しばしば幼少の時から)飾り物の天皇にされている欲求不満の表れか。百々爺の見解や如何。

    • 小町姐 のコメント:

      おっしゃる通り日本史上奇行、乱行、狂気で名高い天皇が何人か存在します。
      特に平安朝創設期に在位した平城と摂関家政治の確立期に在位した陽成、冷泉、花山の各天皇はその狂気を含んだ行状が伝えられています。

      倉本先生が4月からカルチャーセンターで講義されている「平安朝皇位継承の闇」はこれらの各天皇を取り上げています。
      この13番歌を前にして大変興味あるタイトルですが時間的都合で受講できません。
      彼ら天皇のおかれた歴史的状況を調べるとある共通点がありいづれも皇位継承と政治的状況の問題が絡んでおり講座では5人の天皇に関する説話の史実性を読み解くそうです。
      「果たして本当に彼らが狂人だったのか、そうでないならばどうして彼らの「狂気」を語る説話が作られたのかを解明します」と講座内容に触れています。

      第1回 武烈天皇の暴虐と皇統
      第2回 平城天皇の治世と「薬子の変」の実態 以上はすでに終了
      第3回 6月からは陽成天皇の行状説話と光孝・宇多皇統も確立
      第4回 冷泉天皇の狂気説話と後期摂関政治の開始
      第5回 花山天皇の狂気説話と円融皇統・摂関政治の確立
      これらの講座を受講すればさぞや得るものは多いことでしょう。

      しかし、博学の皆さん、自らの力で解明出来れば無料講義を受けられるようなもの。
      それぞれが知識を披露して下さって倉本先生以上の濃い内容になれば最高ですね。

      • 百々爺 のコメント:

        さすが倉本先生、我らの興味にぴったりの講座ですね。談話室の顧問にお迎えしたい感じです。

        平城天皇も狂人だったのでしょうか。上皇になった後、嵯峨天皇ともめて薬子の変をおこす。平城天皇の第一皇子が阿保親王で在原行平・業平の父ですからね。16番・17番歌のところで薬子の変、考えてみたいと思っています。

        奇行、乱行、狂気の天皇の出現、一言で言えば摂関政治の歪みのなせる所ではないでしょうか。

    • 百々爺 のコメント:

      この時代奇行で評判の悪い天皇が多いのは何故か。ちょっと重いテーマですね。

      陽成・冷泉・花山天皇はよく言われているので分かるのですが一条天皇までですか。私は一条天皇は賢帝だと思ってるのですがねぇ。①②の話は枕草子「上にさぶらふ御猫は、、、」(翁丸という犬の話)でしょう。女房に猫にとびかかれとけしかけられて翁丸が本当にしてしまう。懲らしめに宮中払いとなる、、、。ちっとも残酷じゃない。ましてや奇行なんてものじゃないですよ。
       →枕草子通の百合局さん、見解いかがでしょう。

      極めつけは花山天皇ですか。即位式の時のご乱行、確かに強烈な話で私がポルノ映画のプロデューサーならこのシーン使いますけどね。大江匡房(73番歌)の談話を書きとめた「江談抄」なる説話集に載ってる話のようですが、多分ウソ(或いは悪意のある誇張)でしょう。風評被害の最たるものじゃないでしょうか。この種の話はドンドン面白おかしく伝えられていくものだと思います。厳粛な儀式で女官のお尻を触ったくらいのことはあったのかもしれませんがね。

      ということで、奇行・狂行などと言っても大半が風評ではないでしょうか。近親結婚故の劣性遺伝とも言われますが一夫多妻妾の時代ですからね、叔父・姪婚、従兄妹婚と言ってもけっこう雑多な血も交じってるのじゃないでしょうか。

      我ら正常人にしても人それぞれちょっと違った嗜好・性癖などあるでしょう。それを目敏く咎められて尾ひれをつけてばらまかれればたまったものではありません。TV・週刊誌による有名人へのリンチ的中傷、今もいっしょですよね。

      • 百合局 のコメント:

         この種の奇行、変人、狂人話は、もともとそれがどの書物に書かれていたかが重要です。
         公家の日記に書かれていることは公式記録とも合わせ、ほぼ実際にあったことだと思います。
         出典が説話集の類である場合、あくまでも作った「お話、ものがたり」だと考えた方がよいでしょう。
         一条天皇の猫好きに関していえば、現代でも大の猫好き、犬好きは大勢います。人間以上に猫、犬を扱っているような例も多く見受けられますから、そのことで一条天皇を責めるのは酷でしょうね。(時代と、生きている身分、環境の違いは別として)

         ①②の話は百々爺の言っているように枕草子の「うへにさぶらふ御猫はかうぶりにて命婦のおとどとていみじうをかしければ~」の章段の話です。
         この章段の最初の部分だけをとらえて一条天皇を奇人のようにいうのは間違いだと思います。全文を読んでくださいね。
         最後のほうでは「さて、かしこまりゆるされて、もとのやうになりにき。」となっています。

         源氏物語の女三宮と柏木の関係でも、話の展開上、猫は重要な位置をしめていましたよね。
         この時代、犬より猫の方が大切にされました。もともと唐猫は輸入書物のネズミよけとして、船に乗せられてきたのですから貴重でした。
         外国の犬猫を、猫可愛がりしている今の日本人と本質的には一緒ではありませんかねえ。

        • 百々爺 のコメント:

          1.説話集(今昔物語・古今著聞集が代表でしょうか)はあくまでお話、そう捉えるのがいいのでしょうね。

          花山天皇即位式でのご乱行の話、江談抄ではまことしやかに伝えられているものの即位式に出席した貴族の日記(「小右記」藤原実資)には一切触れられていない(日記に書けるような内容じゃないですけどね)。まあでっちあげられたお話ということなんでしょう。ところが逆に言うと火のない所に煙は立たない。「あの花山院ならいかにもやりかねない、、、やったんだろうか、、、そうだやったのだ!」ということで事実として捉えられてしまう。そういう図式なんでしょう。

          2.枕草子の解説ありがとうございます。弱い猫をかばい強い犬を挫く、でも最後には犬も許すという一条
          帝・定子中宮の微笑ましいお話じゃないですかね。

           猫の名前が「命婦のおとど」(命婦は五位以上の女官の称)、犬の名前が「翁丸」(単なる召使)。猫の方が重宝がられていたことが分かります。

           そうでした、若菜上の唐猫事件。紫式部は枕草子のこの段から猫を思いついたのかもしれません。

          • 小町姐 のコメント:

            「この時代、犬より猫の方が大切にされました。もともと唐猫は輸入書物のネズミよけとして、船に乗せられてきたのですから貴重でした」

            まことに説得力があり納得させられます。
            近頃のようにネズミ退治の薬品もない頃、猫がネズミ退治の主役。
            貴重な輸入書物がネズミにやられちゃたまりませんものね。

            「ネコはいつから日本にいたか」とか「世界に伝わる十二支の話」など調べていたら面白いのがいっぱいありました。

  8. 百々爺 のコメント:

    在六少将どのにヘッダーの写真をリニューアルしていただきました。

    藤原京跡にある万葉歌碑。夏草に覆われて初夏はとうに過ぎた感じとのことですが青々として瑞々しくていいじゃないですか。バックの人家のさらに後ろ方向が香具山とのこと。白い洗濯物が見えるような気がしませんか。

    在六少将どの、ありがとうございました。

    • 百合局 のコメント:

       今の季節にふさわしい緑あふれる写真ですね。
       持統天皇の御歌がヘッダーとは、談話室の格も上がるような感じがして、いいですね。
       香具山は見えるような見えないような・・・白い衣ともども、心眼で見ましょう!

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