14番 源融 風流貴公子が詠む「しのぶの乱れ」

さあ、百人一首三大プレーボーイの先陣を切って智平朝臣どの推奨の源融の登場です。

14.陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに

訳詩:    陸奥の信夫のもじずり 
       黒髪おどろに乱したようなその乱れ模様
       それは今の私のこころだ
       あなたは私を疑っておいでなそうな
       なさけなや あなたよりほかの誰を思うて
       こんなにこころを乱すものか

作者:河原左大臣(源融)(822-895)74才 嵯峨天皇皇子 賜姓源氏 左大臣
出典:古今集 恋四724
詞書:「題しらず

①源融 嵯峨天皇の皇子、恐らく若くして賜姓源氏に。別に政治的敗者としてでなく大手を振って臣下になったのであろう。
 →光源氏のモデルと言われる所以。皇子などよりのびのびやりたいことができる。

 頭もよくやり手、左大臣にまで昇る。勿論権勢欲もあり62才の時陽成院廃位のことがあり誰を次期天皇にするかの場面で「いかがは。近き皇胤をたづねば、融らも侍るは」(大鏡)と自分を売り込んだが基経から一蹴される。
 →いきなりでは無理でしょう。基経に巨額の賄賂でも積んだらよかったかも。。

 遊楽を好み豪奢な生活をやりたい放題。
 河原院(源氏物語六条院のイメージモデル)は風流人のサロンであった。奥州塩釜の風景を模した庭園、池には難波から毎日二十石の海水を運ばせ海の魚介を飼育、塩焼きを行った。
 →毎日3.6トンの海水。凄いと言おうか馬鹿げたと言おうか。
 →伊勢物語第81段にそっくりこの話が載せられている。
 →死後100年経って荒廃した河原院を詠んだのが47番歌「八重葎」(恵慶法師)
 →源氏が夕顔を連れ込んだ「なにがしの院」はこの河原院がモデル

 宇治に山荘(後の平等院)、嵯峨に棲霞観(後に清凉寺)
 →こんな莫大な資金どこから出て来たのだろう。余程財テクに長けた大臣だったのか。

 面白いこと多く切りがないのでこの辺で人物像は終わりにします。

②歌の鑑賞
 「陸奥のしのぶもぢずり」「しのぶの乱れ」の歌語としての定着はこの歌から。
 女からの疑いを受けそれに応えて身の証しを詠んだ歌。

 やはり伊勢物語初段を引かない訳に行きません。

  昔、男初冠して、平城の京春日の里にしるよしして、狩にいにけり。その里にいとなまめいたる女はらから住みけり。この男かいまみてけり。おもほえず古里にいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。男の着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる。その男、忍摺りの狩衣をなむ着たりける。

 春日野の若紫のすり衣しのぶの乱れかぎり知られず
となむ、をひつぎていひやりける。ついで、おもしろきことともや思ひけむ。

 みちのくのしのぶもじずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに
といふ歌の心ばへなり。昔人はかくいちはやきみやびをなむしける

 →これを下敷きにしたのが源氏物語若紫 源氏、紫の上を垣間見のシーン
  (源融・在原業平、二人の好色貴公子が光源氏に重なる仕組みである)

 源融、歌人としては勅撰集に4首(古今集・後撰集各2首)。まずまずの歌人か。
  古今集に入ったもう一首は
   ぬしやたれ問へどしら玉いはなくにさらばなべてやあはれと思はむ(古今873)
   →五節の舞の翌朝かんざしの玉が落ちていたという歌。奇しくも12番歌「天つ風」の次に載せられている歌である。

③陸奥の信夫の里、福島市 信夫山(275M) 近くに文字摺石がある。
 源融、国司を勤めたことはあるようだが遥任であり陸奥など行ったことなかったであろう。

 さて、文字摺石と言えば奥の細道(信夫の里 新暦6月18日)

  あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋ねて、忍ぶのさとに行く。遥か山陰の小里に石なかば土に埋もれてあり。里の童べの来たりて教えける。「昔はこの山の上にはべりしを、往来の人の麦草をあらして、この石を試みはべるをにくみて、この谷につき落とせば、石の面下ざまにふしたり」といふ。さもあるべきことにや。

   早苗とる手もとや昔しのぶ摺

  →芭蕉も伊勢物語、源氏物語、百人一首を想い感慨にふけったことであろう。

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18 Responses to 14番 源融 風流貴公子が詠む「しのぶの乱れ」

  1. 小町姐 のコメント:

    百々爺さん、お帰りなさい。
    旅の疲れも取れないまま、いっきの返信お疲れ様です。
    でもさぞかし楽しく実りある大和路だったことが想像されてこちらも嬉しく思い出話を楽しみにしております。

    さて14番歌  陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに

    実家の玄関を開けると真っ先に目に入る色紙額。
      みちのくのしのふもちすり誰ゆゑに三た連そめにしわれならな久二
    亡き母が昔に書いたかな書。
    そういえば地域のクラブ活動の文化祭に出品するようなことを言ってたっけ。
    そのころさして和歌にも書にも関心がなくふ~んと聞き流して褒めもしなかった私。
    今になって聞きたいことがいっぱいある。
    この和歌が好きだったのか?なぜ書にしようとしたのか?他にはどんな歌が好きだったのか?今となっては詮なき事である。
    そんな訳でこの歌は忘れようにも忘れられない母につながる思い出の歌でもある。

    振り返ってみればこの「もじずり」は知らず知らず子どもの頃遊びに取り入れていた記憶があります。
    その遊びは石の上に染め草(露草や朝顔、ヨモギなど)を置きその上に白いハンカチを載せこすりつけて染める遊びです。
    そのころの田舎の少女の素朴な遊びでしたが知らずとは言え風雅な遊びをしていたものだと思います。
    今思えばいとおしく懐かしい思い出です。

    古典に親しむようになった最近では「伊勢物語」や「源氏物語」「おくの細道」を想像します。
      春日野の若むらさきのすりごろもしのぶの乱れかぎり知られず(伊勢物語初段)
      手につみていつしかも見む紫の根にかよひける野辺の若草(光源氏 @若紫)
    そして源融からは昨年末の平等院、清凉寺を思い出しています。

    • 百々爺 のコメント:

      そうですか、この14番歌お母さま所縁の歌でしたか。和歌や書に親しまれた素敵なお母さまだったのですね。小町姐さんも負けず劣らず、素晴らしいと思います。

      「もじずり」遊びなんてあったのですか。朝顔で色水を作ったりオシロイバナで化粧のマネをしたりの類でしょうか。素朴なものでしたね。

      挙げていただいた源氏の「手につみて」の歌、藤壷との密通の後、若紫を形代に(紫のゆかり)と願う源氏の切実な歌でした。

  2. 源智平朝臣 のコメント:

    源融は生まれが良く、有能で仕事ができ、教養があって風雅の心や美的センスにも恵まれていた。その上、莫大な富を有し、思うがままに風流で豪奢な生活を楽しみ、女性にはもて、最後は長寿を全うして一生を終えた。小生から見れば、何の不平不満もない羨ましい人生を送った憧れの人物です。

    彼にとっては、父親の嵯峨天皇が子沢山だったため、早くから皇族を離れて「自由」を得たのが良かったのでしょうね。このため、のびのびと政官界で才能を発揮できて、富を蓄えて次々と豪華な別邸を作ることも出来たのでしょう。小生が彼に憧れるもう一つの理由は、彼には女性を騙して怨まれたとか汚い手を使って地位や財産を得たという嫌な話が伝わっていないこともあります。

    そんな彼も権勢欲は強く、陽成天皇の廃位の後に皇位を望んで藤原基経に拒否されたとのことですが、源融びいきの小生の解釈では、彼は適当な後任候補がいないというので、ちょっと手を挙げてみたまでじゃなかったのでしょうか。いずれにせよ、代々権謀術策に長け、汚い手を使うのを躊躇しない藤原一族と争っても敵うはずがないので、彼が抵抗せずに諦めたのは正解だったと思います。

    百人一首の歌は、相手が誰かは不明ですが女性から心変わりを非難された時に詠んだ歌と言われています。これは実はプレイボーイ源融の開き直りの常套手段だったかもしれませんが、女性の恨み言の矛先をやんわりとかわし、逆に女性のつれなさを婉曲になじるという巧みな恋歌ですね。ねちねちとした厭らしさがないのが、源融らしくて良いと思います。

    最後に、あの松田聖子(本名 蒲池法子)が源融の子孫であることをご存知ですか。彼女の生家の蒲池家の祖は源融の流れを汲む嵯峨源氏で、一時は九州筑後国の柳川城主(大名)だったのですが、江戸時代は柳川藩の家老格の家柄だったとのことです。百恵ファンの小生も、聖子ちゃんが源融の子孫と聞くと一層親しみを感じます。

    • 百々爺 のコメント:

      憧れの人の登場で筆が弾んでいますね。ニンマリしながら書き込まれた様子がうかがえます。

      源融こそ賜姓源氏、光源氏的生き方をした人ですねぇ。智平どのが羨ましく思うのも納得です。基経が関白の時代ですが左大臣ですからね。仕事もよくできたのだと思います。

      確かに女性にまつわる嫌な話は聞きませんね。源氏のように皇妃、人妻、友人の元カノなど手当り次第に「色好み」を発揮した人ではなかったようです。女性関係ではまともと言うか控え目だったのかもしれませんね。

      おっしゃる通り陽成天皇の退位時の自薦は軽いジャブ、一応希望届は出しておいたということでしょう。

      松田聖子が子孫ですか。知りませんでした。九州の地元には源融ゆかりの名所でもあるんですかね。

  3. 浜寺八麻呂 のコメント:

    小生、中高生より始まる若き時代、百人一首が好きになれなかった訳ははっきりとは思い出せませんが、今想像するに、13番歌”筑波嶺のみねより落つるみなの川”とか14番歌”陸奥のしのぶもぢずり誰故に”とか、何か訳のわからない難しい言葉で始まる歌を、受験勉強として教えられるままに暗記し、筑波嶺は、男体山と女体山があり、”歌垣”の地であり、みなの川は男女川と書くことや、しのぶみぢずりは、信夫もぢ摺りで乱れ模様であることなど、歌の意味を深く考えようとしなかったため、面白くなくとっつけなかったのだと思います。思えば、真面目な受験生だったのですが、教え方にも問題ありと考える次第。
    今、NHK放送大学で”和歌の世界”と”日本古代中世史”を見ていますが、教授がスタディオで解説をするだけでなく、スタディオを飛び出し、実際に現場・現地を訪ね、専門家の意見も聞き、これらをビデオで流しています。小生が百人一首を学んだのとは、かなり違った講義内容で、より解りやすくなったなと評価しています。
    映像とかネット情報とかが浸透してきた時代背景があるのでしょうが、教育のやり方が良い方向に変わってきているなと思います。

    3年ほど前に、爺から、古典文学を薦められ、会社生活を終える時期だったこともあり興味がわき、これだけ読めば古典は充分という爺の言葉に従い、先ず”奥の細道”ついで2年かけ”源氏物語”そして今”百人一首”を読んでいますが、この14番歌は当に”源氏物語”や奥の細道”と繋がっており、かじり読みした”伊勢物語”にも源を辿れ、爺の解説や皆さんのコメントがすごいこともあり、楽しく古典が読めるようになり、感謝です。
    くだくだと書きましたが、昨日・今日とこの歌を読んだ率直な感想です。

    ところで、質問が二つ、何かサジェスションがあれば、教えてください。
    1)源融が色男たる由縁、百人一首の作者たちやWIKIを見ても、融の恋物語が出てこないので、源智平さんいかがですか。
    2)六条河原院、宇治の別荘、嵯峨の別荘まで持てた財源は何なのか(爺も書いています)、まさか女から貢がれたのではなかろうし?

    • 百々爺 のコメント:

      NHK放送大学までやってるんですか。いやあ、よく勉強されていますね。すごい、ドンドン興味が拡がってるようで結構だと思います。今デジタル教科書が話題になってますが時代の流れ、教師も生徒もデジタルをうまく使いこなすことが大事だと思います。問題は教師でしょうね。デジタルおたくも困りますがデジタルって何?というような人もいるでしょうからね。(すみません、脱線しました。教育のことになるとつい)

      おっしゃる通りこの14番歌は源氏物語(光源氏)-伊勢物語(在原業平)-奥の細道(芭蕉)の交差点みたいな歌だと思います。

      1.私も読む限り源融の浮いた話は記憶にありません。14番歌の信夫の里での地元女性(虎女)のことはあるようですが他にはよく分かりません。智平どのに推理も含め語っていただきましょう。

      2.左大臣を24年も勤めたようですから役得でしこたま貯めたのでしょうか。女性関係からくる財産もあったのでしょうがその女性関係が何とも分かりませんね。
       
       (源氏物語では源氏は母方から二条院、六条御息所から六条院の土地屋敷を引き継ぎ、葵の上(左大臣家)と明石の入道からの強力支援で莫大な財産を有していたのでしょうが)

    • 源智平朝臣 のコメント:

      1.女性関係については小生も思い浮かばないので、グーグルに「源融の女性関係」と入力して探したところ、次の2件が引っ掛かってきました。
      ①百々爺も指摘している信夫の里の虎女との悲恋物語。例えば「虎女悲恋」と入力してググれば詳しい内容を記しているサイトを見つけられますが、この物語によれば、14番の歌の贈り先は虎女ということになります。
      ②源融の死後、六条河原院で宇多法皇と京極御息所がイチャついていた所に、源融の怨霊が現れて、法皇に向かって「御息所をください」と言ったという話。

      ①は相思相愛の純愛物語だし、②は丹精込めて造った自慢の河原院でイチャつかれるのが気にいらないので怨霊になって意地悪しただけの話であり、特に女性スキャンダルとは言えません。でも、源融は生まれが良くて、地位も財産もある上、きっぷが良い美男子だったようですから、女性が放っておくわけはなく、モテモテだったと思います。にもかかわらず、女性スキャンダルが残されていないのは、源融は光源氏のように禁断の恋とか危険な恋には陥らず、また、相手となった女性にひどく怨まれるようなことはしなかったということではないでしょうか。

      2.源融の財源は一言で言えば「左大臣24年間の役得」でしょうが、その中身を推測すると、①左大臣としての報酬(幾らだったかは知りませんが)、②実力大臣ゆえの追加収入(例えば、受領などの地位を求める者からの貢物)、③陸奥出羽按察使(東北地方監督役)の追加収入(特に、塩や金の売上に伴う多額の収入があったとの見方がある)などがあったと考えられます。女性関係から来る収入もあったかもしれませんが不明です。怪しげな財源もあったかもしれませんが、源融が自らの才覚で稼いだものであり、皇子として税金で養われたよりは立派であったと評価できます。また、派手な生活で知られているものの、そのために汚い手を使って金を稼いだという悪い噂は残っていないので、当時の常識から見て、許される手段や方法で稼いでいたと推測されます。

      以上、源融の大ファンであるため、大甘の見解ですが、小生の回答とさせていただきます。

      • 百々爺 のコメント:

        左大臣24年(872-895年)というのは長いですねぇ。wikiのリスト見ると藤原頼通が40年(これはとてつもなく長い)、道長が21年などありますが源融の24年も突出して長いです。左大臣は右大臣より上の行政(恐らく立法・司法も)のトップ。この地位に24年いたのですから色々と役得があったのでしょうね。
         →実は源融左大臣と並んで872-881年藤原基経が右大臣を勤めている。この時期は右大臣ながら実権は基経にあったのでしょう。ただ源融も左大臣としての職責(役得)は全うしたのでしょう。

      • 浜寺八麻呂 のコメント:

        回答ありがとうございます。
        光源氏と同様に、業平も元良親王も禁断の恋、危険な恋、一夜めぐりの恋などを重ねたから、色々書き立てられたが、融は恋多き王子だが、許されぬ恋はしていないからエピソードも残っていないのだろうという話、納得です。
        融が左大臣を24年間もやっていた、長いですね。また、後の平泉藤原家のことも考えれば、陸奥の金や、貴重だった塩なども手にしていたのかも知れませんね。

  4. 百合局 のコメント:

     謡曲『融』は曲名そのまま、主人公河原左大臣源融のお話です。
     よく知られた二つの話題で成り立っており
    ①都六条わたりに築邸して陸奥塩釜の景を移した風流三昧で「古今集」や「伊勢物語」などで知られている話。
    ②その後日談として、融の没後、その邸を宇多院に奉り、河原院とよばれたところでの怪異譚。「今昔物語集」「江談抄」「古事談」などにある話。
    『融』は荒廃した河原院に現われた融の霊の塩釜の景の懐旧と、そこでの月下の遊楽遊舞に仕立てられた能で、ほとんど①の話題です。
     ⑭番歌はこの謡曲の中には取りいれられていません。
     「君まさで煙絶えにし塩釜のうら淋しくも見えわたるかなと貫之も詠めて候」と紀貫之の歌(古今集、哀傷)が使われています。
     また「眺めやるそなたの空はしらくものはや暮れ初むる遠山の~」とあり、これは源氏物語「浮舟」のなかの匂宮歌「眺めやるそなたの雲も見えぬまで空さへ暮るる頃のわびしさ」から取られているようです。

     『融』の中には、伊勢物語81段をふまえた記述もあります。

    謡曲『花筐』には「陸奥の阿積の沼の花がつみ、かつ見し人を恋種の、忍もぢずり誰故ぞ乱れ心は君の為」とあります。
    謡曲『錦木』には「陸奥の忍もぢずり誰故に、乱初めにし我からと」とあります。
    謡曲『小塩』には「春日野の若葉の摺衣、忍の乱れ限り知らずもと詠ぜしに、陸奥の忍もぢずり誰故乱れんと思ふ我ならなくに」とあります。

     河原左大臣源融を偲ぶには、渉成園(枳殻邸)に行くのも良いと思います。

    • 百々爺 のコメント:

      「融」というタイトルの謡曲があるのですか。面白いですね。
      「とおる」は今でも男の子の名前として通じますもんね。
      (男の子の名前人気ランキングの154位です。因みに「ひかる」は136位。今名前考えてるところでして、、、)

      陸奥の阿積の沼の花がつみ」ですか。51番実方に関係ありますね。芭蕉も訪ねていって結局分からなかった。またその時考えましょう。

      渉成園(枳殻邸)、よかったようですね。今度機会あったら行ってみたいです。

  5. 小町姐 のコメント:

    えっ!!ひょっとしてもしかして百々爺さん、何人目かのお孫さん誕生?
    しかも男子のようですね。
    早すぎるかもしれませんがおめでとうございます。

    • 百々爺 のコメント:

      はい、「あおい」の弟になります。6月末の予定です。爺は『「ひかる」もあるよな、、「かおる」はやめておこう、、「さとる」は友だちにいるし、、そうだ「とおる」もあるかな』なんてつぶやいているのですが全く耳に入らないようであります。。

  6. 昭和の蝉丸 のコメント:

    百合局さんの「謡曲」のお話が興味深く、謡曲入門本を買ってきました。
    (余談:今回の談話室のせいで(?)百人一首絡みで買った本が
     とうとう10冊を超えました!!)。
    謡曲とはなんぞや、ではなく謡曲の演目が紹介されている本です。

    「融」――ありました!(当然でしょうが)
    曰く『政治へのあきらめから、河原院でのケタはずれな
    風流生活へと溺れていく・・・表現の豊かな作品だが、
    その裏には優れた美学が息づいている。・・・
    世阿弥がこの作品に託したのは、二度と取り戻せない
    滅びの美学・・・』

    百合局のお話で知りましたが、14番歌を取りいれたら
    もう少し艶っぽいものになったと思いますが、
    貫之や源氏、それに伊勢物語をも踏まえた展開に、
    謡曲の凄さを垣間見る思いがします。

    それにしても、この談話室の世界、濃厚な上に、広がりもあり
    凄いですねぇ。歌を覚えるなんてどうでもよくなってきました。

    • 小町姐 のコメント:

      歌舞伎は時々鑑賞しますが能は一度も観たことがありません。
      歌舞伎の長唄もよく聞き取れなくいつもイヤホンガイドを借りています。
      一度能舞台を見たいとは思っているのですがどんな演目から始めるのが良いでしょうね。
      長唄と謡曲の違いもよくわかりません。
      亡き母は長唄もよく理解していました。
      一緒に歌舞伎や狂言の舞台を観て私が「何を言ってるのかさっぱり解らない」と言うとよく聴いていれば解るはずだと言うだけでした。
      その頃は私もまだ耳を患っていなくて母も若かったから耳は肥えていたと思います。
      次は思い切って能舞台に挑戦してみます。

    • 百々爺 のコメント:

      10冊を超えましたか。いいですねぇ。折角やるのですからドンドン範囲を拡げてください。そのためにはやはり本を読まなくっちゃね。本+ネットでしょう。

      謡曲(能)、謡ですから当然言葉(歌詞)が大事。歌詞が分かるためには古典の知識がないといけない。高尚な世界なんでしょうね。

      入門書、いいのあったら紹介してください。

      さて、歌を覚えるのどうでもよくなってはいけません。最悪歌そのものは全て覚えられなくても背番号と作者と上5句は覚えてください。必ず役に立ちますから。

  7. 文屋多寡秀 のコメント:

    以下は河原左大臣の独白です。

    私は、とあるお方に恋心を抱いていました。せつない気持ちを伝えるために、唄を送ることにしました。
     わたしが大切に思う人は、そのお方のみです。彼女のことだけを思って、どれほど心を乱れさせているのか、解ってもらいたい。そうだ、陸奥の信夫というところでつくられる乱れ模様の布「しのぶもじずり」に、私の心の乱れを例えよう。「陸奥で作られる、しのぶもじずりの模様のように、私の心は乱れています。ほかのだれかを好きになって、その人のために乱れはじめたのではありません。あなたのためなのですよ」ああ、どうか彼女に私の気持ちが伝わって、恋が実りますように。(出典:よんだ100人のきもちがよくわかる!百人一首 著/柏野和佳子他)

     実によくわかるじゃないですか。それもそのはず子供用の解説本です。このたぐいの入門書から入っておれば私のような誤解もなかったんでしょうけどね。小学生のころは、「われならなくに」など理解できるはずもなく、「私なら泣くことだろうに」と読んでおりました。作者は泣きたくなるほどの心情をたたえてはおりましたでしょうけれどね。

     しかしこの歌、相当な技巧をこらしてるんですね。第二句から直接「乱れそめにし」に続けないで、「たれゆえに」でリズムをちょっとかわし、「乱れそめにしわれならなくに」で余情を置き、まことに心憎いばかりの手法をこらしていますね。音調からいっても、上の句下の句が「み」の頭韻を踏んでおり、「みちのくのしのぶもじずりたれゆゑにみだれそめにしわれならなくに」とナ行音が響きあい実にリズム感に溢れていますね。(出典:解説 百人一首 橋本武著)

    これだけリズム感あふれる歌にして、私の記憶には三日ともたないんでしょうな。

    • 百々爺 のコメント:

      色んな本読んでおられますね。感心します。橋本武先生の解説本もあるのですか。(私は橋本先生の源氏物語現代語訳持ってます)

      「われならなくに」何となく分かったような分からないような響きですね。だって現代語にはこんな言い回しないですから。こういう歌を口遊んでいるといかにも古典通と思われるんじゃないでしょうか。

       →「われならなくに」これって伊勢のなあ言葉ですよね。友だちと泣けるような映画を見に行った会話で「あんたは泣かへんけどなあ、我れなら泣くにい~~」使えそうじゃないですか。

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