15番 延喜聖代の祖 光孝天皇 若菜つむ

55才にして皇位が舞い込んで来た光孝天皇。もしこの即位がなければ平安の歴史は大きく変わっていたかも。ターニングポイントに位置する天皇であります。

15.君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ

訳詩:    あなたにさしあげようと
       早春の野に立ちいでて
       若菜をつむとき
       私の着物の袖に
       雪は散り 雪は散ります

作者:光孝天皇 (830-887)58才 第58代天皇 即位 884-887 3年間
出典:古今集 春上21
詞書:「仁和帝、親王におはしましける時に、人に若菜たまひける御歌」

①父は仁明天皇 親王時代の名は時康親王。父に似て温和、秀麗、学問・和歌・音曲にも通ずる。ただ皇位は仁明→文徳→清和→陽成と文徳系で占められ時康親王の目など全くなかった。

 そこへ降ってわいたのが13番歌でみた陽成院の廃位。基経は考えた挙句55才の時康親王を抜擢(時康とは従兄弟どうし=母が姉妹)。

 即位した光孝天皇は基経に敬意を表し一代限りの証しに多数いた皇子を全て賜姓源氏にしてしまう。政務も全て基経を介して行う(関白の始まり)。

 やがて退位するにあたり光孝天皇は一大決心、一度臣籍降下させ源定省と名乗っていた皇子を皇籍に戻し宇多天皇として即位させた(基経も同意させられた)

 →温和な光孝天皇、一世一代の大博打だったのかも。

 これが宇多系の始まり。即ち光孝→宇多(寛平の治)→醍醐(延喜の治)→朱雀→村上(天暦の治)と聖代が続いて行く。

 →もし光孝天皇の即位なくば醍醐天皇もない、古今集も編まれてなかったかもしれない。
  光孝天皇は平安和歌隆盛の大恩人である(吉海直人)

②親王時代が長かった時康親王。聡明・秀麗・温和なことから光源氏のモデルだとも言われる。
 親王時代に謁見した渤海国の使者は時康親王を見て、
  「この皇子至って貴き相おはしませば天位に上ぼり給はん事疑ふべからず
 と言ったとの記録がある。

  →桐壷の巻で高麗人の観相が7才の光源氏を見て言った言葉に通じる。
  
  「国の親となりて、帝王の上なき位にのぼるべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることやあらむ。朝廷のかためとなりて、天の下を輔くる方にて見れば、またその相違ふべし

  →源氏物語はこの高麗人の見立てに従って展開していくのです。

 もう一つ、徒然草第176段は光孝天皇が天皇になっても昔のことを忘れず煤けた黒戸をそのままにしていたという逸話を語っている。

  黒戸は小松御門(光孝天皇)位につかせ給ひて、昔ただ人におはしましし時、まさな事せさせ給ひしを忘れ給はで、常に営なませ給いひける間なり。御薪にすすけたれば、黒戸といふとぞ

③歴史・人物が長くなり過ぎました。すみません。肝腎の歌です。
 若菜 春の食用草、邪気を払うとして正月の宮中行事になっていった。

 この歌は春の明るさを優しく詠んだ歌であろうか。親王自身が若菜を摘んだ訳ではなかろうが雪に袖を濡らして苦労して摘んだのですよ、私の心を分かってくださいね、、という優しい感じがする。

 ・「若菜」と言えば源氏物語。当然定家はそれを意識して撰に入れたのであろう。
   源氏四十の賀を玉鬘が六条院で行う。
    小松原末のよはひに引かれてや野辺の若菜も年をつむべき(光源氏)
     →この翌月女三の宮が六条院に降嫁してくるのであります。

 ・1番歌が天智系の祖 天智天皇 「、、、、、わがころもでは露にぬれつゝ」
  15番歌が宇多系の祖 光孝天皇 「、、、、、、わが衣手に雪は降りつつ」 
 
     →これも意識した対比でしょうか。かるた取りには厄介ですねぇ。

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17 Responses to 15番 延喜聖代の祖 光孝天皇 若菜つむ

  1. 小町姐 のコメント:

    この歌から先ず思い浮かぶのはやはり「源氏物語」
    若菜  源氏四十の賀に玉蔓が若菜を進上する場面です。
      小松原末のよはいに引かれてや野辺の若菜も年をつむべき
    もう一つは早蕨  山の阿闍梨が中の君に蕨を贈った
     この春はたれにか見せむなき人のかたみにつめる峰の早わらび(中の君)

    親王時代に謁見した渤海国の使者は時康親王を見て、
      「この皇子至って貴き相おはしませば天位に上ぼり給はん事疑ふべからず
    これって源氏物語の「桐壺」そっくりですね。
    物語や主人公の中に和歌や実話などが上手く吸収され輝いているように感じます。

    一度臣籍降下させた皇子を皇籍に戻して即位させたなんて大胆不敵、およそ温和な天皇とは思えませんが、それだけ実力もあったのでしょうね。

    天皇がまるで自らのお手で摘まれたような初々しく新鮮で美しい歌だと思います。
    この歌1番の天智天皇「わが衣手は露にぬれつつ」と下の句が似ていることからカルタ取りではよくお手つきをしてしまいました。
    得意げに「ハ~イ」と取った札がもう一人の天皇のお歌だったりしてがっかり。

    皆さんどちらの天皇さまのお歌が好き? わたしは15番歌(光孝天皇)のほうが好き。
    でも光琳かるたの天皇さまの絵は断然天智天皇がハンサムで素敵です。

    詞書きには「仁和の帝、親王におはしましける時に、人に賜ひける御歌」とありますが
    光孝天皇にとっての「人」は誰だったのでしょうね。
    相手がだれかは不明だそうですが若き親王にとって密やかに恋した姫君がいたのではないかしらと私は想像力逞しくしています。
    素直な真っ直ぐな気持ちが伝わり言葉通りわかりやすい歌ですね。
    この天皇さま、温和なだけではなくとても好感が持たれて好きです。

    • 百々爺 のコメント:

      若菜上下、長い長い物語でしたね。女三の宮の降嫁問題で六条院が揺れ動く中、玉鬘がさっさと源氏四十の賀を主催する。髭黒との間の幼子を連れて参上した玉鬘を2年ぶりかに見て源氏も感慨深かったことでしょう。挙げていただいた源氏の「小松原」の歌から「若菜」が名づけられているのですから、この場面紫式部も力を入れて書いたのでしょう。

      早蕨の中の君の歌、大君が亡くなった年が明けての正月の話でしたね。茫然とした中にも春は廻ってくる。中の君は生きなければいけない、、。そういう感情の歌でしょうか。

      光孝天皇の15番歌、春の歓び、初々しい恋心が感じられていいと思います。私も光孝天皇は人間的にもよくできた人だと思っています。

  2. 浜寺八麻呂 のコメント:

    早春の若菜の初々しさが、ささげる君そのものであり、また若菜を摘む自分の気持ちでもあり、清々しい良い歌だと思います。
    源氏物語でも春秋争いみたいなものがありましたが、天智・光孝の春秋争い、小生も春の歌、光孝天皇のほうが好きです。

    東女の武蔵野市公開講座で今、源氏物語”若菜”を一年かけ勉強中(すでに書いています)で、来週がちょうど”源氏四十の賀で、玉鬘が源氏に若菜を献じる”ところです。

    もうひとつ、今週月曜日にも改め書きましたが、放送大学で”和歌文学の世界”を見ています。
    実はこの番組、三浦しおんさんが絶賛されている(読売新聞)番組で、小生は去年途中から見出し、この4月から再放送で去年見れなかった前半を今見ています。
    来週月曜日 5月25日 13:45-14:30放送が第6回でちょうど”藤原 定家の方法”と題し、東大(院)教授の渡部泰明の講義です。
    第4回 ”伊勢物語の和歌” 第5回”源氏物語の和歌” 第6回”西行の恋歌”でした。
    興味があれば、来週一緒に見ませんか。

    • 百々爺 のコメント:

      そうか、天智天皇vs光孝天皇の春秋争いですか。なるほど。下の「わが衣手」がいっしょですからね。ひょっとすると定家もその辺頭に入れていたのかもしれませんね。まだどの解説書にも指摘されてない新説じゃないですかね。
       →私も春の方が好きです。

      東京女子大での「若菜」講義、順調に進んでいるようですね。名場面に来たら感想など聞かせてくださいよ。

      放送大学講座ご紹介ありがとうございます。「藤原定家の方法」一度聞いて(見て)みます。

  3. 百合局 のコメント:

    15番歌は古今集春上21の歌ですが、古今集のその二つほど前に読人知らずの歌で「春日野のとぶひののもりいでてみよ今いくかありてわかなつみてん」があります。
    この二つの歌を考え合わせると
    謡曲『野守』の中の「春日野の飛火の野守出でてみれば今幾程ぞ若菜摘む」に関連づけられるように思います。
    謡曲『和布刈』には「又あらたまの年の始めを、祝ふ心は君がため春の野に出でて摘む若菜、生ひ行く末の程もなく年は暮るれど緑なる和布刈の今日の神祭、心を致し様々に君の恵みを祈るなり」とあります。

    15番歌もいいですが、光孝天皇の御製でもう一つ好きな歌は
     仁和の御時、僧正遍昭に七十の賀たまひける時の御歌 「かくしつつとにもかくにも永らへて君が八千代にあふよしもがな」(古今集、賀347)です。
     光孝天皇と遍昭は竹馬の友のようであったらしく、技巧もなく心情あふれるいい歌だと思います。

    • 百々爺 のコメント:

      新年-正月-初春-若菜を採って長寿を願う。春の七草粥の行事は今も綿々と続いていますもんね。どんな悲しいことがあっても新しい年がくれば気分も新たに心機一転を図る。日本の正月のいいところだと思います。
       →日本全体の話ですが、この頃なぜか季節感が薄れ年中正月みたいな気分でメリハリがなくなってるのは問題ですね。

      僧正遍昭への贈歌の紹介ありがとうございます。天皇に七十の賀を祝ってもらうなんて遍昭も幸せ者でしたね。乳母兄弟、二人はよほど信頼しあってたのでしょう。「とにもかくにもながらへて」その通りですね。

  4. 百合局 のコメント:

     余談です。
     先日(5月19日)のテレビのニュースで、淡路島の松帆地区で、弥生時代の銅鐸が7個出てきたと報じていました。
    「まつほ」と聞いて、すぐに百人一首の97番歌、定家の歌を思い出しました。
     「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ

     「松帆の浦」が淡路島の北端の歌枕であるということは知っていましたが、弥生時代から栄えた場所であったとは、初めて知りました。
     この定家の歌は覚えていたので、すぐにニュースと地名がつながりました。
     百々爺の言うように、歌を暗唱することも大切ですよ~。(できる範囲でね!)

    • 百々爺 のコメント:

      ありがとうございます。私も考古学かじってきたこともあってニュースにピンときました。定家の「松帆の浦」は淡路島北端ですが新聞に載ってた発見場所は大分南でしたね。ちょっと時間なくて詳しくチェックできてませんが。。

      • 百合局 のコメント:

         実際に見つかった所は、淡路島各地の残土を集積してあった場所で(これをブルドーザーを運転していて見つけた人すごいなーと思いました。素人でもやっぱりピンとくるものがあったのでしょうねえ。)、研究者が探った結果「松帆地区」とわかったのだそうです。

        • 百々爺 のコメント:

          飲み会から帰ってきました。いい気分です。
          そうですか、そりゃあ何が出て来るかわかりませんね。淡路島が交通の要所だったことが分かります。

      • 在六少将 のコメント:

        この銅鐸は砂の中から見つかったので、漂流船とかどこからか漂着したものかもしれないですね。志賀島の金印のように。

  5. 源智平朝臣 のコメント:

    光孝天皇は聡明・秀麗・温和な上に、謙虚で慈愛に富み、気配りができるという素晴らしい人柄の持ち主だったようですね。大岡著の本に「光孝天皇が時康親王の時代に、基経の養父藤原良房の大臣就任の宴が催され、その席で主賓の膳につけるべき雉の足が給仕役の手違いから、その膳にのっていなかった。その時給仕役はあわてて時康親王の膳から雉の足をとり、主賓の膳に添えた。しかし時康親王は、自分の傍らの灯をそっと吹き消して給仕役の失態を見ないようにした」という逸話と基経はこの逸話を理由として時康親王を次帝に推したとの話が記してありますが、誠に心温まる話であると思います。

    15番歌も光孝天皇の温和で優しい人柄を反映した素敵な歌で、小生も天智天皇の1番歌より好きですね。謙虚な性格の光孝天皇は政務一切を基経に任せきりだったのですが、退位するにあたり一大決心をして、基経の同意も取り付けて、臣籍降下させ皇子を皇籍に戻し宇多天皇として即位させた。小生の勝手な推測ですが、光孝天皇がこうした決心をした理由は皇位を自分の血統に継がせようという利己的な思いだけではなく、自分の後の最有力候補であった貞保親王は狂気の陽成天皇の弟でもあるので皇位を継がせるには国にとってリスクがあるとの懸念を抱いたからではないかと思うのですが、如何でしょうか。

    いずれにせよ、百々爺の指摘のとおり、光孝天皇の一大決心のお陰で「寛平の治」、「延喜の治」、「天暦の治」と聖代が続き、古今集も編まれたのだから、「めでたし、めでたし」でした。

    • 百々爺 のコメント:

      大鏡の逸話の紹介ありがとうございます。素晴らしい話ですね。雉の足は主賓だけへのものだったのでしょうね。時康親王が表ざたにしたりすれば主賓の良房は不快に思うだろうし主催者基経も面目丸つぶれ。基経はよほどこの時のことで時康親王に好印象を覚えていたのでしょう。

      貞安親王のこと知りませんでした。wikiによると870年生まれだから皇位問題の時18才(因みに宇多天皇は21才)、年令的にちょっと若い気もしますがまあ男盛り年ごろじゃないでしょうか。行状も悪いところは見当たらないし、管弦の無双の名手だった由。基経にとっても甥だし既定通り光孝はワンポイントで第一候補の貞安親王でスンナリが自然だったのでしょうね。スンナリいかなかったのは悪い兄を持った弟の不幸ですかね。確かに聖代が続きめでたしだったと思いますが、「もし貞安親王が皇位に就いていたら」これも面白かったかもしれません。

  6. 文屋多寡秀 のコメント:

    「せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ」の七つの若菜。御承知の通り、現代でも1月7日に春の七草として食べる習慣が残っています。
    起源を辿ればながい歴史をもってるんですな。この歌に詠まれている若菜摘みは、中国の古典にもとづく様です。それは「踏青」と言って、春の野に出て、自然清浄の大気の中で、野の緑を摘んで団欒行楽する一種の宗教的行事であったとのこと。現代風にいえばピクニックといったところしょうか(出典:解説百人一首 橋本武)。自らの手で、若菜を摘むようなことがあったとすれば、なかなかの庶民的な天皇様だったようですな。

    さて「大鏡」は第55代文徳天皇から第68代後一条天皇までの歴史がつづられた歴史書ですが、ここに光孝天皇のことがつづられています。有名なエピソードとしては、ある宴の席で、世話をする係りの人が、一番主とすべき客の料理に、雉の足を入れ忘れたときのものがあります。この時世話をする係りの人は、光孝天皇の料理の中から、雉の足をとり、客の料理へ入れたそうです。ところが光孝天皇は係りの人を叱るどころかその人を気遣い、その場の灯りを消し料理を見えないようにしてあげたということです。(出典:百人一首新辞典 監修 深谷圭助)賢明で優しい性格と伝えられるゆえんでありましょうか。

     なにぶんにも遠い昔のエピソード、真実はいかがでしょうや。

    秋は露春は雪にて御衣がぬれ(俳風柳多留71)
     天智天皇の御製「わが衣手は露にぬれつつ」と対比します。

    いざつまむわかなもらすな籠の内(捨女)
     万葉集冒頭の「籠もよ み籠持ち・・・菜摘ます児 家聞かな 告らさね」を踏まえ、「わかなもらすな」は「若菜漏らすな」と「吾が名漏らすな」をかけています。

     お後がよろしいようで。

    • 百々爺 のコメント:

      若菜摘みは皆で正月を祝う宗教的行事だった。なるほど。ちょっと寒いけど男も女も老いも若きも装い新たに野に出て若菜を摘む、「せりを採っよぞ」「わたしはなずな」「じゃあ、取り替えっこしようか」、、、なんてことで恋も生まれる。いいですねぇ。現代の婚活サークルもやったらいいのにね。

      大鏡の話、智平どのからも紹介ありました。いい話だと思います。こういういい話は本当だったと思うことにしています。

      「いざつまむ」の川柳、難しいですね。江戸の文人は解説なしで分かったのでしょうか、大したものです。

  7. 小町姐 のコメント:

    今、カルチャーセンター午前、午後の授業を終えて帰宅しました。
    頭がぼお~っとしています。
    午後の授業は食後なのでつい居眠りがでます。
    この所、天皇さまの行状が色々取りざたされているので専門家のお話を聞いてこようと思います。
    倉本先生の過去2回の講義は都合がつかずに断念したのですが残りの三回は何とか出席できそうなので今日問い合わせてみました。
    途中からでもOKで3席空きがあるとの事で申し込んできました。
    一回の授業料は一コマ90分、大体税込で三千円弱になります。
    次回は陽成天皇の行状説話と光孝・宇多皇統の確立です。
    新しい情報を得ることができれば又報告したいと思います。

    • 百々爺 のコメント:

      午前と午後続けてですか。お疲れさまです。頭も労わってあげてくださいね。倉本先生の講義、高いですね。まあそれだけ値打ちがあるのでしょうが。「陽成天皇の行状説話と光孝・宇多皇統の確立」正に今ここで論じられている部分ですね。智平どののコメントも併せ質問を一点に絞ると「光孝の次の第一候補だった貞安親王は皇位に相応しい人物でなかったか否か」。この辺り興味あります。

      明日楽しみにしています。どうぞ気をつけていらしてください。

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