17番 プレーボーイの神さま 業平 - ちはやふる

さて、源融に続く第二のプレーボーイの登場です。

17.ちはやぶる神代も聞かず龍田川からくれなゐに水くくるとは

訳詩:    ちはやぶる神の御代にも
       これほどの景観は未聞のさま
       川水をからくれないにしぼり染めして
       目もくらむ真紅の帯の
       龍田川の秋

作者:在原業平朝臣 (825-880) 56才 16番行平の異母弟 即ち平城帝の孫 六歌仙
出典:古今集 秋下294
詞書:「二条后の春宮の御息所と申しける時に、御屏風に龍田川に紅葉流れたる形をかけりけるを題にてよめる

①出自 行平とは母が異なる。業平の母は桓武天皇の皇女伊登内親王。
即ち父の父は平城天皇、母の父は桓武天皇
→これって凄い血筋、血統的には超一流ではないか。

生まれは父阿保親王が大宰府から戻った直後か。2歳にして臣籍降下。
兄が真面目に出世街道を目指すが弟は奔放に裏街道(放縦人生)を歩む。

②日本史上ナンバーワンの色男(プレーボーイ)にして歌も名人
逸話はいっぱい。伊勢物語は色男業平の逸話集ということだろう。

重要なところをおさえておきましょう。
・藤原高子(後の清和天皇妃=二条の妃)との恋 高子は842生まれ、業平より17才下。入内は25才の時。入内前に業平が恋をしかける。高子は基経の妹(藤原家の切り札)、当然藤原家は困惑、高子を隔離してしまう。
→伊勢物語3段~6段(伊勢物語の第一エピソードが高子との恋)これで東下りとなる。
→入内が決まっている娘を襲う。源氏と朧月夜(花宴)を思い出す。

高子は入内してまもなく陽成帝を生む。
→「陽成帝は業平の子である」(目加田さくを=国文学者)との説もある由、まさかね。

・恬子(やすこ)内親王=文徳天皇皇女 清和帝即位で伊勢の斎宮に
伊勢物語69段に「かの伊勢の斎宮なりける人」として登場
→神に仕える斎宮・斎院への恋、これは禁忌である。
→源氏物語、斎院(朝顔)・斎宮(秋好中宮) 源氏も手出しできなかった。

臣籍降下した色男が奔放に女性に恋をしかける。コンセプトとしては光源氏のモデルの第一は業平ということだろう。
→源融には女性との奔放なエピソードはない。あるのは左大臣としての政治性+莫大な財産。
→光源氏は業平+源融ということだろう。

③業平は歌人としても一流 六歌仙 三十六歌仙 勅撰集に計87首
古今集序 業平評
在原業平は、その心あまりて、ことばたらず。しぼめる花の、いろなくて、にほひのこれるがごとし
→貫之の評は例によって厳しい。業平は漢学ができなかった。まあ今の世の中で英語ができないから一段低く見られるのと同じか(偏見であろう)。

業平の秀歌(17番「ちはやふる」はボロクソだが)
月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして(俊成激賞)
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(公任激賞)
→「月やあらぬ」は伊勢物語4段、高子との恋の件。二首ともいいですねぇ。

④さて17番歌
古今集の詞書 「二条后の春宮の御息所と申しける時に、御屏風に龍田川に紅葉流れたる形をかけりけるを題にてよめる

伊勢物語106段 「昔、男、親王たちの逍遥し給ふ所にまうでて、竜田川のほとりにて、」

ちはやぶる神代も聞かず龍田川からくれなゐに水くくるとは

→屏風を見ての題詠というより伊勢物語の方がずっといい。
それにしても昔噂のあった男を呼んで題詠させるとは二条の后も大したもの。

「からくれないに水くくる」の解釈は「水を潜る」説と「水をくくり染めにする」説とがある。
→私は定家の「水を潜る」説でいいと思うのですが。

⑤竜田川&三室山、古来よりの紅葉の名所 69番歌はそのもの。
→在六少将さんのお住まいの近く。ここは少将どのに解説いただきましょう。

⑥「千早ふる」 落語あり。
→お相撲さんの話。先日百合局さんから紹介あった落語「陽成院」も相撲取りの話ですね。

「ちはやふる」 アニメ。これで百人一首は子どもたちにも大普及した。
→小町姐さん、読んでおられますか?

松風有情さんより17番「ちはやふる」の絵いただきました。ご覧ください。
http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2015/05/KIMG0159.jpg

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16 Responses to 17番 プレーボーイの神さま 業平 - ちはやふる

  1. 小町姐 のコメント:

    平安朝随一の色好み。光源氏のモデルともいわれる在原業平。
    「陽成帝は業平の子である」
    えっ!!これって三田先生が誰かは誰かの子であるなんてて言ったのと同じ?
    紫式部は業平と融をミックスして光源氏を仕立てたのでしょうか?
    百人一首の中でこの歌ほど世に知られた歌はないと思いますが・・・
    百々爺さんの解説からもこの歌から生まれた落語を始め語り草は数えきれないほどです。
    この訳詞(大岡信でした?)なかなか良いですね。
    二条の后高子とのスキャンダル、「伊勢物語」など業平の話題は尽きなく他にも優れた歌が多くあるのになぜこの歌が・・・
    「からくれなゐに水くくるとは」は水を潜ると絞り染めの括るの二説ありますがやはり括るの方がゆかしくて好きです。
    下の句はまるで女性が詠んだような想像力、感性共に豊かな人のような気がします。

    愛知県知立市にある無量寿寺の境内にはカキツバタを配した煎茶式庭園が造られ、境内には業平竹や杜若姫(業平を追って想い叶わずに自殺したという小野篁の娘)の供養塔などもあり在原業平とのかかわりが深いことをしのばせます。
    から衣 きつつなれにし 妻しあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ」、『古今和歌集』『伊勢物語』に登場する在原業平の歌である。
    業平が東下りの折に「かきつばた」の5文字を句頭にいれて歌を詠んだ八橋は、伊勢物語の昔から広く知られるかきつばたの名勝地であります。
    昨年かきつばたの見ごろの時期、凛々しく若々しい業平像と共に観てきました。
    シーズン中はカメラマンや吟行仲間で賑わいます。
    ちなみに愛知県の県花は「かきつばた」で県の建物にはかきつばたがあしらわれています。

    さて私が今読んでいる末次由紀の漫画「ちはやふる」(1~27既刊)
    現在19迄読みました。後は順番待ちで人気のようです。
    競技かるたを題材にした少女漫画で久しぶりに漫画の世界に首を突っ込んでおります。
    小学生の時初めて競技かるたを知り現在高校生、綾瀬千早(あやせちはや)が主人公です。
    物語は千早がクイーンの座をかけて争う場面から始まります。
    この漫画で初めて古今和歌集、仮名序を知りました。
       難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花
    その仮名序で在原業平は「その心あまりて言葉たらず」と評されています。
    でもちはやぶる・・・は豊かな表現だと思えるのですがいかがでしょうか?
    この漫画で競技かるたの世界を多少なりとも知ることができました。
    子どもの頃遊んだかるたとは全く違っていました。
    それはそうですよね、遊びではなくあくまでも競技ですからね。
    まるで格闘技の様な世界がリアルに描かれています。
    興味のある方は是非どうぞ。

    松風有情さん、「ちはやぶる」の絵ありがとうございます。
    龍田川を挟んで向かい合ってるのは業平と高子でしょうか?
    好きな人を自由に想像できて良いですね。

    • 百々爺 のコメント:

      何と言っても在原業平は伊勢物語ですよね。あの物語のおかげで色男・色好み・プレーボーイのイメージ(いいイメージ)ができあがる。歌物語としても伊勢物語の文学的地位は高いでしょうし、業平は得な男だと思います。(実際には悲劇の父を持った悲劇の息子でしょうが)

      そう言えば伊勢物語東下りのカキツバタの舞台は三河の八橋、愛知県知立市なんですね。愛知県の県花がカキツバタというのもきっと伊勢物語からでしょうね。「きつつなれにし妻」、、、いいですねぇ。

      「ちはやふる」の後は「天上の虹」に挑戦してください。

  2. 松風有情 のコメント:

    17番歌の絵です。
       http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2015/05/KIMG0159.jpg

    今回は在原業平を被写体とするつもりでしたが、モデルにできるようなものがなかなか見つかりませんでした。
    たまたま曲水の宴が寺社により季節はまちまちに行われていると知り題材にした次第です。誰をイメージするかは皆さんにお任せするしかありません。
    (実は今回私のスマホからは絵を開けませんでしたが、皆さんのPC でアッブできて良かったです。)

    • 百々爺 のコメント:

      曲水の宴ですか、なるほどいいじゃないですか。本歌も題詠ですし、昔愛した二条后を対岸に限られた時間で龍田川の紅葉を詠む、、曲水の宴みたいなもんですよね。また絵心湧かせてくださいね。お待ちしてます。

  3. 百々爺 のコメント:

    【浜寺八麻呂さんには本日より九州に旅行される由で下記コメントを預りました。例の三田先生の講義内容です】

    三田先生の講義内容を知りたいと爺よりコメントいただき、蝉丸さんからも、行平の話が面白いといって頂いていますので、長いのですが、下記どおりご紹介します。

     〈百々爺注、講義が口語調で分かりにくかったので少し手を入れました〉

    三田誠広先生 講座 ”古代ロマンの愉しみ”
    ”在原業平と藤原高子”編より 抜粋

    藤原房継という人はなんでもない人です。没落した藤原一族です。ただ多分すごいハンサムだったと思うんです。なぜかというと、娘の沢子と乙春というのが絶世の美女といわれていました。お姉ちゃんの沢子は仁明天皇の奥さんになりました。しかし仁明天皇には良房の妹の順子が皇后として君臨しており文徳天皇を生んでいます。

    沢子も仁明天皇との間に子供をいっぱい生んだんですが、全員仏門にいれる。でも一人だけあまりにも頭が良いので残しておこうということで、皇族として生きていた人がおります。実はこの人が大逆転で五十八代の天皇になります。光孝天皇です。ここに光という字があります。この人は光源氏のモデルではないかといわれています。そうするとお母さんの沢子さんは桐壺更衣のモデルではないか、それでこの人が絶世の美人だという噂がでてきたのかも解りません。前後関係はわかりませんが、すごい美人だったんだろうと思います。

    この沢子の妹の乙春が藤原長良の正妻になったんです。いきさつですが、、仁明天皇は順子さんとの子どもを文徳天皇にするのですが、ずっと沢子さんを愛していたんです。それで、美人の妹がいる。本来ならばその美人の妹も女官か何かで自分のものにする所なんですが、藤原長良という人はのんびりした人なんで、ちょっと良い人だなと思ったんですね。それで乙春を自分のものにはせず藤原長良の奥さんに斡旋したんですね。

    藤原基経と、藤原高子という娘ができました。藤原高子も絶世の美女です。おそらく在原業平は蔵人ですので、貴族の女の子は新嘗祭のときに天女の舞、五節舞というのがありまして、舞うのです。天女をやるのは、大体天皇の前に女官というか、奥さん候補として並べるのが天女なんです。

    僧正遍昭の詠んだ歌で 天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ 乙女の姿しばしとどめん。天女が空へ帰ったら困るので、帰り道をふさいでくださいということなんです。四人天女がいるんですが、天女の横に小さい女の子がついて踊ります。この小さい女の子の藤原高子を見て在原業平は、”おおっ”と思ったんじゃないですか。

    業平がこの女の子のことを聞いてみると藤原長良といううだつの上がらない人の娘だからというので、付き合い始めるのですね。絶世の美女と絶世の美男子です。非常に仲が良くて、そのままハッピーエンドに終わるかというような状況だったんです。

    良房の妹は順子なので、仁明天皇の息子の文徳天皇にとっては良房はおじさんです。だから良房の言うことは聞かないといけない。文徳天皇に良房は明子という自分の娘を嫁がせて、清和天皇が生まれるわけです。清和天皇はお母さんが明子で、そのお父さんが良房ですから絶対的な権力があります。これで天皇は良房の意のままになります。でも清和天皇の次の天皇になると、自分の権力はどうなるかと考えたときに、清和天皇は子どもだけれど奥さんのあてを考えないといけない。良房には子どもが明子しかいないのです。息子もいない。そうしたら弟の良相に娘がいる。一人を文徳天皇の奥さんにして、一人を清和天皇の奥さんにしちゃっている。このままそこに子どもができたら、今度は良相の天下になってしまうということで焦った。どうしようかと思って目をつけたのが、お兄ちゃんの藤原長良の所に基経と藤原高子がいて、これをもらちゃおうとなる。基経は親父がのんびりして、自分の出世が遅れていて、なんだかなと思っていたら、権力者の叔父さんから声をかけられて”俺の息子のなれ”と言われたんで”なります”となった。”妹も連れて来い”言われたんですね。狙いは妹のほうなんです。とりあえず妹を清和天皇に嫁がせる。養女にして清和天皇に嫁がせるということがポイントです。

    嫁がせるんだけど、藤原高子は在原業平とできてしまっている。在原業平が藤原長良の所にほぼ毎日通ってくるということは、誰もが知っています。それから在原業平は絶世の美男子なので、蔵人をやっていると宮中の女官としょっちゅう和歌を交換していてプレイボーイだった。いろんな話があります。小野小町とも書簡を交換したとか。

    どうするかというと、藤原高子を隔離するということで、順子が別邸を持っていたので、ここに藤原高子を閉じ込めるのです。清和天皇のお母さんの明子はノイローゼ気味で寝たきりだったのです。清和天皇はお祖母さんの順子さんに可愛がられて育っています。順子さんが別邸を持っておりますと、しょっちゅう清和天皇が遊びに来ますので、そこに藤原高子を置いておけば自然にできちゃうだろうということで、そこに入れたんです。そうしたら良相がそんなことをしたら藤原高子に子どもができてまずいということで、お姉ちゃんの順子に”あなたの住んでいる所は方角が悪いんで方違いをしなければいけない、とりあえずうちにきたらどうか”と言って、自分の屋敷に呼んだのです。

    順子は良相の家に行ってしまったので、順子の屋敷に一人ぽつんと藤原高子が住んでいたら、この館は古いので土塀が一部壊れています。それから藤原高子のお付の老女がこっそり教えてくれたんですね。

    それで在原業平が乗り込んでいきます。それで二人はよりを戻して付き合うんですが、人目がまずいだろうということになって、やがて堀の破れ目に番人が立つようになりました。それで入れなくなってしまう。伊勢物語にはその番人との歌のやり取りが書いてあります。恋路の邪魔をする野暮な番人はどこかへいけみたいな歌が残っています。

    やがて藤原高子は宮中に女官として入ることになります。ついに在原業平にとって手の届かない人になってしまいます。そういう誰もいない晩に一人在原業平が屋敷の中に入っていくと梅が咲いています。それから満月があります。去年の満月の日は梅が咲いていて高子と二人で梅見と月見を同時にしたという思い出があるんです。その一年後に今日も梅があり満月があるんだけど、藤原高子さんがいないということを嘆いた歌があります。

     月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして

    まだ続きますが、この辺でおしまいです。

    • 百々爺 のコメント:

      三田先生の講義の紹介ありがとうございます。多分に先生の文学的解釈が入っているかと思いますが業平と高子の恋、実態はそんな所だったのでしょうね。

      基経・高子は良房の直系でピカピカのエリートと思ってたのですがそうではなかったのですね。良房がうだつのあがらない兄の息子・娘を養女にして取り込んだのですか。なるほど。逆に言うと基経はできのいい弟の息子でなくうだつのあがらない兄の息子だったから良房の養子にもなれ天下を取ることができたわけですね。分からないものですね。

      もうひとつ言えば良房の狙いは絶世の美女高子だった訳で基経は序でみたいなもの、これも綾ですね。

      それにしても美女は得ですね。天皇妃として一本釣りされるのですから。
       →業平にはそれが不幸だった訳ですが。。

  4. 源智平朝臣 のコメント:

    源融とともに、小生が憧れるもう一人の百人一首作者「在原業平」の登場です。業平は超一流の血筋に生まれた上に、「体貌閑麗」(スタイルも容貌も抜群に端正で美しい)で、「放縦不拘」(自由気ままで何物にも縛られない)な性格で、「善作倭歌」(和歌を上手に作る)のとおり歌作りの才能に恵まれた人物というのだから、当時のスーパースターと言っても過言ではなく、彼を主人公とした伊勢物語はそうした憧れの気持ちで読まれたのではないでしょうか。

    「プレーボーイ」だとか「色好み」、「色男」というと、「女性を次々に誘惑してもてあそぶ男」というイメージあって小生は抵抗を感じますが、光源氏や業平に代表される「色好み」は「単なる好色とはちがい、心映えの深い、もののあわれを良く知った男」(大岡信p61)を表す言葉です。小生の解釈では、「色好み」は教養があって容貌・品性とも素敵な女性に魅かれて恋する男で、一生の間には様々な女性に恋するものの、恋する時は相手の女性に一人に対してのみ一所懸命に身も心も捧げる男であると思います。世の中には少なからず素敵な女性がいるので、恋愛遍歴を重ねるものの、恋している時は相手となっている女性のことしか考えていないという点が浮気男と違うところではないでしょうか。(これに対して、20番歌の作者「元良親王」は単なる浮気男ではないかと小生は疑っています)。

    伊勢物語に描かれている業平の奔放な人生は羨ましい限りだし、色々と素敵な歌も登場します。定家が選んだ17番歌は高子との熱烈な恋愛関係を念頭に置いて鑑賞しなければ、いまいちの出来の取り澄ました歌であると感じます。小生が好きな業平の歌は、百々爺が挙げた「月やあらぬ春やむかしの…」と「世の中にたえて桜の…」に加えて、伊勢物語の「東下り」に出てくる有名な次の一首です。

    名にし負はばいざ言問はむ都鳥 わが思う人はありやなしやと

    この歌から、名物の和菓子の「言問団子」、隅田川に架かる「言問橋」、東京の通りの「言問通り」などの名前が付けられているというのは、風流であるし、日本の古い歴史を感じさせてくれてとても良いですね。

    バタバタと忙しかったため、16番歌にはコメントできませんでしたが、業平の異母兄である作者の行平も素晴らしい人物ですね。この2人は「行平の剛直と政治性」と「業平の放縦と非政治性」といった風に、「真面目で民を思う良吏だった兄」と「自由奔放な遊び人だった弟」として対照的に描かれています。まるで小生の兄と小生のようでもありますが、実はこの兄弟は結構似ていたのではないでしょうか。と言うのは、行平には須磨に流された時に松風・村雨という汐汲みの女性と馴染んだという色っぽい伝説が残されており、晩年には在民部卿歌合を主催したという風雅な面があります。他方、業平には左近衛権少将・右近衛権中将などの武官を歴任し、花形ポストの蔵人頭も務めたという役人歴もあり、まあ、2人は似たような経歴、性格、好み、才能の持ち主ではなかったのでしょうか。

    この素晴らしい2人の兄弟で対して、父である阿保親王は全く運の無い不幸な人生を送った存在感の薄い人物ですね。父親の平城上皇夫妻が起こした薬子の変(810年)に連座して大宰権帥に左遷され、15年後の帰京を許されたものの、842年に謀反を持ちかけられ、悩んだ末、皇太后に密告して、未然に謀反を防いだ(承和の変)。しかし、その3カ月後、密告に伴う自責の念に駆られての自殺と推測される精神的な病のため51歳で死去した。要するに、他人がやったことに振り回された哀れな人生で、関西人なら「名前どおり、阿呆な人生を送りはった人やなあ」と一笑に伏すでしょう。    以上、長くなってスミマセン。

    • 百々爺 のコメント:

      超多忙にもかかわらず長文のコメントありがとうございます。そりゃあ神さまと崇める業平さまでしょうから筆が尽きないのも仕方ないでしょう。

      「色好み」の定義、なかなかのものですね。好きになったら手当りしだい同時重複も厭わない、、、これはダメ。付き合ってるときは一人を大切にし、次に移るときはキチンとけじめをつけて相手に恨まれないようにする。これを繰り返し遍歴を重ねる。。そういうことでしょうか。マメでないとできませんね。確かに我らが光源氏はそういうスーパーヒーローでしたね。匂宮はチト危なっかしいでしたが。

      行平・業平兄弟の総合分析、ありがとうございます。よく分かります。同感です。きっと似た者兄弟だったのだと思います。阿保親王は気の毒な人ですね。おっしゃる通り他人がやったことに振り回された人生ですが薬子の変は18才の時。父がやることになす術なかったのでしょうね。薬子の変で阿保親王の人生は事実上終わっているのでしょうね。

  5. 枇杷の実 のコメント:

    古今集の詞書から二条后に招かれ、新調された屏風絵を見て詠んだとされる。
    同じときに、素性も「もみぢ葉のながれてとまる湊には紅深き浪やたつらむ」を読んでいる。若かりし多感な頃、五節の舞姫、高子との一世一代の恋物語がこの歌を色彩感あふれるものにした。
    業平がこの歌を詠んだときは、既に齢50の頃、風流心を持ち、情愛に富む優しい男性になっていた。
    伊勢物語106段「むかし、男、親王たちの逍遥し給ふ所にまうでて、竜田川のほとりにて」とあるように、竜田川の実景を見て詠んだとみる方が自然と思われる。

    先週、日曜日に法隆寺/中宮寺を拝観した後、25号線で葛井寺(ふじいでら)に向かった際に、竜田大橋を超え、大和川に沿ってドライブしました。車窓から見た竜田川、つい徐行し、助手席からのスナップ写真を持ち帰る。
    ちなみに、向かった葛井寺(紫雲山)は西国札所の5番で、国宝の十一面千手千眼観世音菩薩坐像で有名。百済系の渡来人、葛井氏の氏寺として建立された古いお寺です。時代は下り、(この家系とは定かではないが)葛井藤子なる女御がいて、平城天皇に入侍し阿保親王を生む。つまり、行平、業平の御婆ちゃん。
     兄弟で 食べたか祖母の 葛井餅

    • 百々爺 のコメント:

      札所巡り、、いい趣味ですね。西国札所も是非やり遂げてください。

      藤井寺って昔近鉄パールズの藤井寺球場があったところですか。あの辺全く行ったことがありません。「葛井寺」って書いて「ふじいでら」なんですか。古いお寺なんですね。「ふじ」と言うと藤原氏かと思うと違うのですね。葛井藤子女御、美人だったのでしょうね。葛井藤子-阿保親王-在原業平ゆかりのお寺として葛井寺覚えておきます。

  6. 小町姐 のコメント:

    先週日曜日と言えば神楽坂の夜の翌日24日ですよね。すごい行動力ですね。
    関東から関西までそして奈良大坂の西国巡礼。
    葛井寺(ふじいでら)は大坂藤井寺にあるのですね。

    最近はお顔見知りの方が増えたので今までと違ってブログやコメントを読む時、お顔を思い浮かべながら読んでいます。
    「ふんふんなるほど」とうなずいたり「へぇ~、まさか」と驚いたり時にニヤニヤしながらそして思わず声をあげて笑うことも度々。
    みなさんの豊富な知識と語りを楽しんでおります。

    • 枇杷の実 のコメント:

      おはようございます。葛井寺にいったのは17日(日)でした。
      実家(亀山)での母三回忌法要の後、紀州を旅行した際の、西国5寺の一つです。23日に盛り上がった翌24日は音なしの構えで、自宅でジッとしていました。一方、小町姐さんにおかれては、親交を深めながら、芸術鑑賞とのことで充実の一日で良かったですね。お疲れ様でした。

  7. 文屋多寡秀 のコメント:

    昨今は、マンガ「ちはやふる」人気で、5月27日は百人一首の日とされ、静かなるブームとなっている模様です(NHKニュースより)。これは藤原定家の『明月記』の文暦2年(1235)5月27日の項に、定家が親友の宇都宮入道蓮生(頼綱)の求めにより和歌百首を書写し、これが嵯峨の小倉山荘(嵯峨中院山荘)の障子に貼られたとあって、これが百人一首の初出ではないかと考えられたことによるとのこと。

    さて18番、いや17番にしてエース登場ですね。現代の光源氏・源智平朝臣もおでましで、当談話室も百家騒乱の賑わい、何よりです。
     ここ2~3日三重に滞在しておりまして、ついでに地元同期のゴルフ会「紫陽花会」に参加してきました。席上、当ブログに言及しておきましたので輪が広がるかもしれませんね。ちなみに優勝はT(谷半)君、私は有り難くもないほうの賞をいただきましたが詳しくはもうしません。このコンペ、昔のお嬢さんの何人かが花を添えてくれておりまして、そういう意味では、私にして源氏、業平の遊び心は多少理解できるのでありますが、小野小町の例もありまして、加齢は全てにおいて状況を変えるようであります。

    小町姐御紹介の知立市でありますが、業平ゆかりの「かきつばた」とともに有名なのが「藤田屋の大あんまき」であります。これがまた絶品。仕事がらみで1号線を岡崎から安城にかけて良く行きましたが、岡崎城の桜、知立のカキツバタ苑と街道の松、安城(本店岡崎)・大正庵釜春の「釜揚げうどん」。どれもこれも企業戦士時代の懐かしくもあり汗と涙のつまった思い出の場所であります。

    本論は、皆様にお任せしまして、川柳を幾つか。

     業平は高位高官下女小娘(こあま)「末摘花初」
     
     芥川神代もきかぬ不埒なり「柳多留拾遺4」

     五畿内をしつくし東下りなり「末4」

     隅田川土地(ところ)の人はかもめなり「俳風柳多留2」

     問う人がただの人ならただの鳥「俳風柳多留154」

     東へ下り、お江戸に至ったようで。

     

    • 百々爺 のコメント:

      先日車のスイッチを押したら(ハイブリッドなんで)ナビが「今日は5月27日、百人一首の日です」というのでなんじゃいなと思いましたが、そういうことなんですね。明月記の日付でしたか。(宇都宮入道蓮生は定家の親友でもあり息子為家の嫁の父でもありました)

      紫陽花会へのご紹介ありがとうございました。「百家騒乱」、、おかげさまで談話室は大賑わい、ありがたいことです。ますます盛り上がっていきたいと思っています。

      「藤田屋の大あんまき」知りませんでした(「井村屋のあんまき」ってのはありませんでしたっけ)。企業戦士時代、、懐かしいでしょうね。いい思い出じゃないですか。トヨタに勤めていた友人が三河と尾張は全く違う、、、と言ってたのを思い出しました。

      五畿内をしつくし東下りなり
       →すごいなあ、、ただただ感嘆です。

  8. 百合局 のコメント:

     業平に関しては書くことが多すぎますよね。その存命中から今に至るまで長く愛され続けた超人気者だと思います。
     17番歌に関してはあまり書くことがないので、歌の中の「くくる」について安東次男の「百首通見」からの引用です。
     定家はこの歌を踏まえて、興味ある二首をのこしている。
    「ククル」の二通りの解釈を活かした?
     「龍田川岩根のつつじかげ見えてなほ水ククル春のくれない」→水潜る
     「龍田川もみぢながるる岩間より錦をククル水のしらなみ」→括ると読んで面白い

     「伊勢物語」が書かれてから、恬子内親王と業平との間には密通によって「もろなおまひと」が生まれ、それを育てたのが高階家であり、高階師尚となったという説が拡がりました。この噂を上手く利用したのが道長で、定子の生んだ第一皇子をさしおいて彰子の生んだ孫である第二皇子を東宮にする時の理由に使いました。
     道長から相談されてこの案を進言したのは行成です。
     定子の母は高階貴子です。そのような家系からの東宮はいかがなものか、ということで、一応段取りを踏んで第二皇子を東宮にたてたようです。始めに結論ありきの話です。面白いので書きましたが、どの本から得た情報なのか忘れました。数年前だとおぼえていませんねえ。

     謡曲の中には「伊勢物語」が何らかの元になって使われている例が数多くあります。
    謡曲『井筒』は「伊勢物語」23段を元にして作られているので引用は多いのですが、23段の歌と4段の歌のみ記します。
     「筒井筒井筒にかけしまろが丈生ひにけらしな妹見ざる間に と詠みて贈りけるほどにその時女も 比べク来し振り分け髪も肩過ぎぬ君ならずして誰か上ぐべきと互ひに詠みし」とあります。
     これは「伊勢物語」23段の歌 「筒井つの井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに」の「過ぎ」を「生ひ」とかえただけです。「くらべこし~~」の歌はそのまま引用しています。
     また「風吹けば沖つ白波龍田山夜半にや君がひとり行くらん」とあり、これは同じく23段の歌「風吹けば沖つ白波竜田山夜半にや君がひとりこゆらん」の「こゆ」を「行く」と変えただけで使用しています。
     また「月やあらぬ春や昔と詠めしもいつの頃ぞや」とあり、これは同じく4段、古今集恋747「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」からとっています。

    謡曲『隅田川』(角田川)には「かの業平もこの渡りにて、名にし負はばいざこととはむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」とあり、「伊勢物語」9段の歌がそのまま使われています。

    謡曲『卒塔婆小町』には「百歳に一歳足らぬつくも髪かかる思ひはありあけの」とあり、これは伊勢物語63段の「百年に一年足らぬつくも髪われを恋ふらし面影に見ゆ」からとられています。

    謡曲『源氏供養』には「おきもせず寝もせで明かすこの夜半の」とあり、これは伊勢物語2段、古今集、恋616の歌「起きもせず寝もせで夜を明かしては春のものとてながめ暮らしつ」からとられています。

    謡曲『高砂』には「われ見ても久しくなりぬ住吉の岸の姫松幾世経ぬらん 睦ましと君は知らずやみずがきの久しき代々の神神楽~~」とあり、これは伊勢物語117段の始めの歌そのままと、あとの歌の「むつましと君は白波瑞垣の久しき世よりいはひそめてき」からとられています。

    謡曲『竹生島』には「白雪の降るか残るか時知らぬ山は都の富士なれや」とあり、これは伊勢物語9段の「時知らぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらん」からとられています。

    謡曲『雲林院』には「年を経て住み来し里を出でて往なば」とあり、これは伊勢物語123段の歌、古今集雑下「年をへて住みこし里を出でていなばいとど深草野とやなりなん」からとられています。「月やあらぬ春は昔の春ならぬわが身ひとつは元の身にして」は、そのまま使われています。

    謡曲『融』には「大原や小塩の山も今日こそはご覧じ初めつらめ」とあり、これは古今集雑上871の歌「大原や小塩の山もけふこそは神代のことも思ひ出づらめ」からとられています。

    謡曲『熊野』には「さらぬ別れのなくもがな千代もと祈る子のためと」とあり、これは伊勢物語84段の歌「世の中にさらぬ別れのなくもがな千世もといのる人の子のため」からとられています。

    • 百々爺 のコメント:

      えっ、彰子の皇子(敦成親王=後一条天皇)の立太子にはそんな経緯があったのですか。始めに結論ありきで後付けでストーリーをでっちあげる。ひどいものですね。私は定子とその母高階貴子(54番歌儀同三司母)のフアンなのでちょっと憤っています。「もののまぎれ」って怖いですね。

      伊勢物語関連の謡曲ご紹介ありがとうございます。さすが伊勢物語、謡曲にいっぱい引用されていますね。
       →高子との恋を歌った「月やあらぬ」が一番人気でしょうか。

       →23段、筒井筒の話大好きです。引用いただいた男女の贈答歌、すばらしいと思います。

       男 筒井つの井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに
       女 くらべこしふりわけ髪も肩すぎぬ君ならずして誰かあぐべき

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