19番 情熱歌人伊勢が詠む難波潟

さて、女性歌手3番手、恋多き歌の達人伊勢の登場です。

19.難波潟短き蘆のふしの間も逢はでこのよを過ぐしてよとや

訳詩:    難波潟に茂る蘆の
       節と節のあいだの短さ
       その短いふしのまほどの逢う瀬さえ
       わたくしにはお与えにならず
       空しくこの世を終えてしまえと仰言るのですか

作者:伊勢 生年没未詳(875-938の説も)伊勢守の娘 宇多帝に寵愛さる 三十六歌仙
出典:新古今集 恋一1049
詞書:「題しらず
   伊勢集の詞書は「秋のころうたての人の物言ひけるに
           (心変わりしたつれない愛人に対して)

①生没年875-938として考えて行きましょう。宇多・醍醐朝ということになります。
 父は伊勢守藤原継蔭、まあ普通の受領階級でしょう。伊勢守ってのがいいですねぇ。
 受領階級の娘で才気あるものは宮中に仕えて或いはトップ貴族の妻になり出世していく。
 →紫式部、和泉式部、高階貴子(儀同三司母)、そして明石の君!

 13才で出仕、宇多帝の中宮温子(よしこ)に仕える。温子は基経の娘。
 →華やかな宮中、若き公達たちが競って顔を見せる。
 →温子の兄藤原仲平に見初められ恋人同士になる。
  他にも仲平の兄時平、「平中」と呼ばれた風流貴人平貞文とも。

 やがて宇多帝のお手がつき皇子を生む(皇子は8才で早逝、宇多帝も出家)
 →伊勢御息所と呼ばれる。
 次いで宇多帝の皇子敦慶親王と結婚し歌人中務を生む
 →何と激しい情熱的生き方でしょう。和泉式部の男性遍歴を思わせる。
 →紫式部も伊勢の生き方には感銘を受けていたのではなかろうか。

 【余談 伊勢の生んだ中務について】
  中務 912-991 三十六歌仙 勅撰集に66首 親王・トップ貴族と恋を繰り広げる。
  →20番歌元良親王とも関係あり。百人一首に撰ばれてもよかったのに、、。

②19番歌 伊勢集の詞書「秋のころうたての人の物言ひけるに
 「愛するあなたなしでは生きてはいけない、毎晩来て欲しい」激しい歌である。
 →相手は仲平か宇多帝か。天皇の夜離れは仕方なかろう。やはり仲平とみるべきか。

 「逢ふ」「見る」は男女が契ること。
 「この世」「世の中」は男女の関係。

 「短き蘆のふしの間」 蘆のふしの間は短くないとの異論もあるようだ。
 →そんな無粋なこと言わなくても。単に短いの例えですから。

 この歌新古今集まで勅撰集に採られなかった。
 →定家の好みにあった歌なのであろう。

 下句「逢はでこのよを過ぐしてよとや
 →これは激しい。こう言われたら男性たるものどうしますかね。ちょっと引ける男もいるかも。(爺はこんな風に言われないよう気をつけてお付き合いしたいと思います)

③難波潟 難波には難波京があった。古来瀬戸内海への出入り口
 難波は百人一首に3首も詠まれている。
 19番「難波潟」、20番「わびぬれば」、88番「難波江の」
 それにかるた取りの序歌「難波津に」18番歌「住の江の」も近くですし。

④19番歌の他の伊勢の有名歌は、
  春霞たつを見すててゆくかりは花なき里に住みやならへる(古今集 春)
  散り散らず聞かまほしきをふるさとの花見て帰る人も逢はなむ(拾遺集)
  →今昔物語にこの歌が詠まれた経緯が語られている。18番歌藤原敏行の息子(伊衡)が登場する。
  →伊勢は宇多・醍醐朝の女流歌人ナンバーワンであった。  

④紫式部は伊勢に傾倒していたのではないか。生き方や歌(伊勢集)を研究し源氏物語に活かしたと思うのだがどうだろうか。

 ・源氏物語桐壷の冒頭は伊勢集の冒頭と酷似している。   
  桐壷「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり

  伊勢集冒頭「いづれの御時にかありけむ、大御息所ときこゆる御つぼねに、大和に親ある人さぶらひけり

 ・桐壷9に宮中で帝が女房達と読んでいる書物のことが書かれている。
  長恨歌と伊勢(伊勢集)と紀貫之(古今和歌集)これが3本柱であった。
   →伊勢と貫之が実名で登場する。

 ・空蝉の巻末で空蝉が詠んだ歌
   空蝉の羽におく露の木がくれてしのぶしのぶにぬるる袖かな
   これは伊勢集の歌とそっくり重複している。源氏物語の歌は全て紫式部が作った歌であるがこの歌だけ例外。紫式部が拝借してきたのか、伊勢集の増補の時に源氏物語から採られたのか両説あり。
   →誇り高い紫式部がいくら敬愛するとはいえ先輩歌人伊勢の歌をそのままパクるなんてありえない、、、、と爺は思っています。

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14 Responses to 19番 情熱歌人伊勢が詠む難波潟

  1. 小町姐 のコメント:

    冒頭が難波津の、でも難波江のでもなく、いきなり「難波潟」と言い切っているのが気に入りました。
    貴女は今宵も来て下さらない、一人寝をかこつ淋しい私、このまま逢わずに夜を過ごせとおっしゃるの?
    なんて情熱的な伊勢。こんなふうに訴えてみたいですね。
    このような歌を贈られた男性の気持ちはどんなでしょう?
    殿方の正直な気持ちを聞いてみたですね。
    うっとおしい?それとも可愛い?
    18番は男性が女性の身になって詠んだ歌、19番はれっきとした才たけた美女が詠んだ歌。
    宇多天皇のお子を生み後に天皇の御子敦慶親王とも通じて中務を産んだ。
    父子共に通じたなんて信じられない。
    他にも多くの愛人がいて宮中の花形だったそうですが今なら大不倫ですよね。
    このような女性が当時としてはもてる女性のバロメーターだったのでしょうか?
    今とは全く価値観が異なるのでしょうね。
    とは言え、こんな情熱的で奔放な歌人に魅かれます。
    自分にないものを持った女性は私の憧れです。

    桐壷9 読んでみました。
    このごろあけくれ御覧ずる長恨歌の、御絵亭子院の書かせ給ひて、伊勢、貫之に詠ませ給へる・・・
    源氏物語の冒頭いづれの御時にか・・・よく似ていますね。
    そして空蝉の詠んだ歌は全く同じですか?それはないですよね。

    さて一つ疑問です。教えて下さい。伊勢物語の解説部分P93の成立の所です。
    「業平は元慶三年この物語を清書して、妻の伊勢に与えた。伊勢は・・・・」とあります。
    この伊勢は別人でしょうか?業平の妻も伊勢と言う名前?
    今日は伊勢が多く出てきて満足です。

    • 百々爺 のコメント:

      1.源氏物語を読んで宮中或いはトップ貴族に仕える女性たち(女房)が如何に性的にオープンだったのかを知ってびっくりしました。源典侍なんてすごい人もいましたね。お姫さまに近づくには先ず女房から。女房と懇ろになってお姫さまへの手引を頼む。紫式部自身はけっこう固かったようですが和泉式部は勿論娘の大弐三位だって。。その大先輩が伊勢だったのでしょう。光源氏のモデルが源融や在原業平らとしたら源氏物語に出てくる女君・女房たちのモデルは先ず伊勢だったのじゃないでしょうか。

       →女性からこのような情熱的な歌を贈られたら男性はどうするか。
        (光源氏や匂宮は何をおいても訪れるでしょう。夕霧・薫は先ず自分を正当化することから考えるでしょう)
        私自身はそんなハメになる自分が考えられません。ここは現代のプレーボーイ智平朝臣のご意見を伺うしかありません。

      2.伊勢物語の成立としてそんなこと書いてあるのですか。どの本ですか。在原業平(825-880)と伊勢(875-938)では時代が違うし19番歌の伊勢が業平の妻だったとは考えられません。業平の妻は紀有常の娘ですが名前は出てきません。別人で伊勢という名前の妻がいたのでしょうか。よく分かりません。
       →どなたか心当りありませんか。
       

      • 小町姐 のコメント:

        1964年発行、岩波文庫「伊勢物語」大津有一校注に以下のようにありました。
        和歌知顕集の説によれば伊勢は業平死後寛平三年に自分のことを記してあった段を抜き出し代わりに似た話を加えて世に送ったがこれが狩りの使いの本であり翌年反故の中から伊勢物語を見つけて世に出したのが初冠の本であると言うのである。この知顕集の説は平安末期に行われていた業平日記と伊勢筆作の両説、それに狩りの使いの本と初冠の本、すなわち「君やこし」の歌で始まり「わするなよ」の歌で終わる小式部内侍本と「春日野の」で始まり「つひに行く」の歌で終わる朱雀院本との両系統、これを説明しようとして提出されたかと思われる。したがって少し時代のずれている業平と伊勢の二人を無理に夫婦として結びつけたり・・・以下云々とあります。
        私にはややこしくてさっぱり理解できません。
        業平と伊勢の年齢差50歳、私にだってこんな計算は何でもありませぬ。
        少しの時代のずれどころじゃないですよねえ~

        • 百々爺 のコメント:

          詳しいご紹介ありがとうごじます。業平と伊勢は夫婦であった。業平の死後伊勢は伊勢集の部分も組み込んで伊勢物語を仕立てた、、、ということでしょうか。完全なでっち上げですね。でもそれだけこの二人は有名人だったということでしょう。どうも「伊勢集」そのものも怪しくなってきそうですね。

  2. 源智平朝臣 のコメント:

    伊勢は歌人として抜群の名声を博していた上に、美貌で気立てがやさしく、機転もきいた魅力的な女性だったようですね(大岡P65)。受領階級の娘に過ぎないのに、トップ貴族と恋愛遍歴を重ね、やがて宇多天皇の寵愛まで受ける。宇多帝退位後は帝の皇子に愛され、歌人として有名になる中務という娘も生む。何と華々しくてドラマティックな人生でしょう。女性であっても才能と美貌を活かして自由奔放に人生を送ることができたのは、平安王朝が進歩的なフェミニスト政権であったという証左ではないでしょうか。

    それにしても13歳で出仕というのは若過ぎて心許ないのではないかと思って調べてみたら、当時は13歳なら十分に社会に足を踏み入れられる年頃だったようですね。当時考えられていた女性の盛りは14, 5から23, 4歳で、平安末期の梁塵秘抄には「女の盛りなるは14, 5, 6歳、23, 24とか。34, 5になれば、紅葉の下葉に異ならず。」という歌が掲載されているとのことです(神田P42)。

    小町姐さんから「19番歌のような歌を贈られた男性の気持ちはどんなのか。うっとおしい?それとも可愛い?」という質問がありました。小生は「言うまでもなく、可愛いですよ。特に、伊勢のような魅力的な女性からだったら」とお答えしておきます。しかし、歌のやり取りは、いわば「男と女のラブゲーム」だったでしょうから、熊八中年のように「こんな歌をもろうたら、もうたまりまヘンな。生涯を棒に振っても、この女をえらびたい、とおもいますなあ」(田辺P101)と迄のめりこむとルール違反になったのではないでしょうか。

    最後に、百々爺ないし有識者に質問があります。小生の記憶に間違いがなければ、「天上の虹」(里中満智子)には「天皇の妻となった女性は他の男性と再婚できない」とのきまりがあったと記されていました。伊勢は宇多天皇の寵愛を受けた後に、その皇子の敦慶親王と結婚(?)して子供も産みましたが、これはきまりに反しないのでしょうか? それとも、既にこのきまりは変更されていたのでしょうか?

    • 百々爺 のコメント:

      読み込まれている本からの手際いい引用ありがとうございます。実によく分かります。

      1.「平安王朝が進歩的なフェミニスト政権であった」、、、その通りだと思います。別な面から考えてみると、厳重な身分社会といいながらけっこう開かれた部分もあった。女性においては要は上の男に認められればいいのでそれぞれの階級において(特に受領階級ではトップの玉の輿に乗るべく)娘の教育・躾けに最大限の努力を払ったのでしょう。
       
       →まあ当たり前の話かもしれませんが、美貌だけではダメで和歌・書・音曲など教養全般を習わせたというのが凄い。美貌+教養+人格、、、蝶よ花よと育てられたお姫さまではダメということであります。

      2.「天皇の妻となった女性は他の男性と再婚できない」とのきまりがあった。。。
       小町姐さんからもコメントされてますが確かにそのように書かれていましたね。天武・持統の当時どういうきまりだったか知りませんが、伊勢の時代(宇多朝)ではそんなに厳格でなかったのではと推測します。皇后とか中宮ならまだしも伊勢は女御ですからまあ許されたのでしょうか。勿論女御と言っても親王を生んで御息所になっているのだから一介の更衣・側女とは違うでしょうが。

       →どうやら今度里中さんとお話しする機会があるようですから、聞いてみてくださいよ。

      • 百合局 のコメント:

        どこかに実例があったはずだと思って調べていたら時間がかかりました。
        「大和物語」24段と120段の頭注に明記されていました。
        三条右大臣藤原定方の娘、能子は醍醐天皇の女御でしたが、天皇崩御後、敦実親王に嫁し、後さらに藤原実頼(太政大臣忠平の息子)に嫁した。

        他にも実例はあると思いますが、時間の都合上、ここまで。

        • 百々爺 のコメント:

          ありがとうございます。

          25番藤原定方の娘、能子ですか。なるほど同じような時代ですね。帝の後、嫁したのは伊勢が敦慶親王、能子が敦実親王、共に宇多帝の皇子ですね。

          能子の場合は醍醐帝の死後、伊勢の場合は宇多帝は出家はしていたがまだ生きていた時に敦慶親王に嫁し中務を生んでますね。まあ、出家したら縁は切れて当然ということでしょうか。

           →源氏物語若菜で朱雀帝が出家し朧月夜(尚侍だが女御扱い)が里に帰る。そこを狙って源氏がよりをもどしにかかる。結局朧月夜はそれを煩わしがって出家してしまう。。。

           →天皇の妻の再婚は崩御後とか出家後は許されることはあったがあまり推奨されることではなかった。。。ということでしょうか。

  3. 百合局 のコメント:

    伊勢は素晴らしい女性ですよね。最初の恋にがっくりしたあとは、知恵も分別もついて、持ち前の美貌と才気で、慕い寄る男たちを上手くいなしつつ、断りきれない相手か、好みの相手だけと付き合っていたのでしょうね。
    華やかな恋愛遍歴の中で生み出された秀歌も多いですが、屏風歌の詠進や依頼されて詠む専門歌人の面もあり、立派な自立した女性だったように思います。
    何となく、額田王に似通った人格を感じます。(私は両人とも好きです)
    和歌に生きる伊勢の真実が、後の平安女流文学にあたえた影響は大で「源氏物語」「和泉式部日記」などの作者は熱心に「伊勢集」を読み研究したのだと思います。
    百々爺の言うように紫式部は伊勢に傾倒していたと思います。

    百々爺の言うところの「今昔物語」の話は巻24第31話です。伊勢について書かれているところのみを以下に記します。「延喜御屏風ニ伊勢ノ御息所、讀和歌語
    ~ト云音ホノカニ聞ユ。気ハヒ気高ク愛敬付テ故有リ。伊衡、此レヲ聞ニ、世ニハ此ル人モ有ケリト聞ク」 飲みながら待つほどに伊勢の和歌ができ、それを持って御前に奉ります。「天皇、此レヲ披テ御覧ズルニ、先ヅ書様ニ微妙ジクテ、道風ガ書タルニ露不劣ラ、御息所此ク書タリ、チリチラズキカマホシキヲ、フルサトノハナミテカヘルヒトモアハナム 天皇此ヲ御覧ジテ、目出タガラセ給フ。~~然レバ、御息所、尚微妙キ歌讀也トナム語リ傳へタルトヤ。」

    謡曲『阿古屋松』には「同じ山に入らば同じかざしの木を橅れ」とあり、これは伊勢の歌「わが宿と頼む吉野に君し入らば同じかざしをさしこそはせめ」からとられています。(後撰集、恋四)
    謡曲『実盛』には「「もみぢ葉を分けつつ行けば錦着て家に帰ると人や見るらん」とあり、これは後撰集、秋下、伊勢の歌を使用しています。
    謡曲『三井寺』には「都の秋を捨てて行かば月見ぬ里に住みや慣らへると」とあり、これは伊勢の歌「春霞立つを見捨ててゆく雁は花なき里に住みやならへる」の応用です。(古今集、春上、31)
    謡曲『桜川』には「年を経て花の鏡となる水はちりかかるをや曇るといふらん」とあり、これは古今集、春上、44の伊勢の歌がそのまま使われています。

    • 百々爺 のコメント:

      1.なるほど。宮中で最も華やかであろう中宮温子の局に上がって以来、慕い寄る男は数えきれないほどだったのでしょう。その中で持前の美貌と才気で恋愛遍歴を重ねる。。。。

       →正に光源氏の女性版ですね。紫式部も和泉式部も伊勢先輩を崇め奉っていたのじゃないでしょうか。

      2.今昔物語の引用ありがとうございます。大事な屏風絵に桜の歌が抜けていた、すぐ誰かに詠んでもらわねばならない、伊勢に頼むしかない、遣いの伊衡(敏行の息子)が一杯飲まされて待つ間もなく伊勢は見事に「散り散らず」の歌を詠みあげた、、、ということでしたね。

       →醍醐帝も父宇多帝が愛した伊勢の才智に感じ入ったことでしょう。

  4. 小町姐 のコメント:

    百々爺さん、源智平さん質問に回答してくださりありがとうございます。
    他の方々もお聞きしたいですが代表回答として、受け止めさせていただきます。
    伊勢のように才長けて見目麗しき情熱的な歌人から和歌を送られたら大概の殿方は何をさておいても駆けつけるでしょうね。
    百々爺さんはそんな場面は考えられないとのことですが男の価値は相手たる女が判断するものですよ。

    ところで智平朝臣 さんの質問。
    今朝図書館から「天上の虹7」が届きました。
    壬申の乱後、大友亡きあと十市と高市の再婚話の場面で大海人の言葉です。
    十市は大友の正妃だった、いったん皇后になった女には再婚は許されていない、それが古来よりのしきたりだと発する場面、丁度今読んだところです。
    そこへ讃良が出てきて大友はまだ正式な手続きをふまえて天皇として即位していないから再婚は十市の自由だと言います。
    皇后がやみくもに再婚すれば再婚相手はどんな血筋の男であれ「皇后の夫」という権威をもつ・・・古来よりのしきたりはいたずらに権力争いを避けるための知恵だと言うことらしいです。
    となれば伊勢の場合当然?と私も思いました。
    でも伊勢の場合は親王だから許された?(皇族どうしということで血が乱れない)
    つくづく思うのはこの時代にして女性の自由恋愛を認めている、超最先端だな~と感心しております。
    それにしても「天上の虹」面白い!!壬申の乱がよく解り系図も絵を通して理解できます。
    読みだしたら止められません。続き読みます。

    • 百々爺 のコメント:

      智平朝臣の質問に丁度いいタイミングでしたね。回答ありがとうございます。「天上の虹」、いいところにさしかかってますね。どうぞ続きをゆっくり楽しんでください。

      「天皇の妻となった女性は他の男性と再婚できない」
       源氏物語ではどうでしたかね。桐壷-朱雀-冷泉-今上と続く物語中では再婚の例はなかったように思います(時間がなく調べきれてませんが)。まあそれだけ天皇の妻(皇后・中宮・女御・更衣どこまでを言うのかにもよるが)の貞操は守られるべきものだったのでしょう。
       
       →藤壷中宮とのもののまぎれ、、、異常さが分かろうというものです。

  5. 文屋多寡秀 のコメント:

    「天皇の妻となった女性は他の男性と再婚できない」

    大きなテーマに四苦八苦しておりましたら、既に有識者が見事に解明され、やっと投稿の気になってまいりました。

    大和歌の効用として古今集仮名序に「男女の仲をも和らげ」とありますが、百人一首の過半は恋の歌ですよね。 この19番歌はその最たるものと言えるのではないでしょうか。恋の逢瀬を葦の短い節にたとえ、募る情を詠じた内容で、ここの相手が誰であるかは定かではなさそうです。伊勢は中宮温子に使え天皇の寵を得て親王を生んだが、早世した。その後敦慶親王に愛され女流歌人の中務を生む。このくだりが、源智平朝臣氏による冒頭のテーマですね。回答は何か昔空白の一日を利用した「江川事件」のようでもありますね。

    親王との恋 幾つかありますね。19番歌が伊勢と敦慶親王。そして次の20番歌もそうですね。元良親王と京極御息所(時平の娘褒子)。詳しくは次回に譲るとして、
    56番歌の和泉式部がその次の次。相手は冷泉天皇の皇子為尊親王、敦道親王達。
    王朝時代の花形歌人のお二人は相次いで上記の親王達に愛されたようですね。

    宇多天皇の寵を得た伊勢、その宇多天皇なかりせば前述の元良が王位を継いでいたであろう歴史の絡み合い。本当に歴史は奥が深いですね。(出典:百人一首の歴史学 関幸彦)

    • 百々爺 のコメント:

      1.「男女の仲をも和らげ」、いいですね、その通りだと思います。男と女、二人の中を取り結ぶ潤滑剤の一つとして和歌があったのでしょう。「言葉は要らない、行動あるのみ」では男女の仲はしっくりしたものにはならないでしょう。

       「江川事件」が出てきましたか。思い出す度に不愉快になります。だってドラフトのルールに不備があったかどうかはさておき、あんなもの誰がどうみたって許される訳ないでしょう。それを許したのは結局仕掛けたのがジャイアンツだったからでしょう。みんなジャイアンツですから、まあ仕方ないなあ、、、、なんてなってしまう。中にはよくやったなんてヤツも出てきたりして、、。そして結果は結局ジャイアンツも江川も小林も不幸になった、、、。アホなことはやるべきじゃないのであります!!

      2.ホント百人一首の人間模様をみていると歴史のアヤみたいなものを感じますねぇ。将棋に「それも一局の将棋」という言葉あるじゃないですか。二六歩と指したけど二六角もあった。どちらもその時点では優劣不明、でも展開はガラリと変わる、、。人生も同じ、あの時彼女と出会っていなかったら、、、(よかったのに、、、とは言いませんけど)。まあ何ごとも覆水盆に返らず、現状肯定・前向き思考でいくのがベストウエイなんでしょうね。

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