寛平歌壇から醍醐朝延喜歌壇に移り古今集編纂の栄誉に輝く歌人たちの登場です。先ず読みにくいけど覚えやすい凡河内躬恒(おうしこうしのみつね)から。
その前に【古今集の位置づけ】をざっと復習しておきましょう。
・醍醐天皇の勅命で編纂された最初の勅撰集
(勅命が下ったのは905年、完成は917年くらいか。十数年かかっている)
→905年が勅命が下っただけか既に撰を終えていたのか説が分かれる。古今集序もちょっとあいまい。
・編纂を命じられたのは33紀友則・35紀貫之・29凡河内躬恒・30壬生忠岑
何れも醍醐朝で登場した身分低き新進歌人、専門歌人
4人で始めたが友則が死亡(905年)その後貫之がリーダー、残り2人が補助
【若干の考察】
何故4人の撰者は藤原氏(兼輔・定方)でなく何れも没落氏族である紀・凡河内・壬生だったのだろう。
→当時はまだ和歌の位置づけが定まっていなかった。漢文・漢詩が上位で和歌は新興分野。いくら勅撰集と言えど専門職としての身分低き専門歌人に任せる方が無難であったということか。
→それにしては古今序の貫之の六歌仙評は辛辣である。特に時代はちょっと前、身分はずっと上の僧正遍昭への評はよくそんなこと言えたものだと感心するのみである。
僧正遍昭は歌のさまは得たれども、まこと少し。
たとへば絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。
・全20巻 1111首 入選ベストテンは、
貫之102、躬恒60、友則46、忠岑36、素性36
業平30、伊勢22、遍昭18、小町・興風・深養父17
・和歌の分類 春・夏・秋・冬・賀・離別・羈旅・恋・哀傷歌・雑歌・雑体
→分類、詞書、作者の書き方など貫之が考えた。以後勅撰集はこの方式を踏襲する。
・仮名序、真名序がつけられている。歌論としても重要。大和歌とは何たるかから始まり歌の様式、歌聖(人麿、赤人)・六歌仙についての論評、古今集編纂の経緯に及ぶ。
→仮名序は貫之が書いた。貫之の高揚した文章が印象的。
・詠み振りは万葉集の「ますらをぶり」に対し古今集は「たをやめぶり」と言われる。
・古今集を暗誦することが貴族の教養であった。
→村上帝の芳子女御は全20巻全て暗誦していた(枕草子21段)
・明治に入り正岡子規が古今集・古今調を徹底排撃。
子規曰く:万葉集は男性的で、率直な力強い調べである
古今集は技巧に走り、弱々しく女性的である。
【参照】「子規の『古今集』批判をめぐって ─日本文学にみる美的理念」寺澤行忠
(これを打ち込んで検索してください。偏りのない納得できる論文と思います)
→子規の糾弾の矛先は個別の歌或いは歌の詠み振りと言うより公家の家元が作り上げてきたがんじがらめの歌の世界・歌道そのものではなかろうか。
長くなりました。ここから29番歌です。
29.心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花
訳詩: 朝まだき 庭の一面に ああ今年の初霜
白菊を折ろうと下り立ち 私はとまどう
霜の白菊が菊の白とまざり合って ―
折るならば 当て推量に手をのばそうか
霜にまじって所在不明の白菊の花
作者:凡河内躬恒 生没年未詳(859-925説あり67才) 古今集撰者 三十六歌仙
出典:古今集 秋下277
詞書:「白菊の花をよめる」
①凡河内氏は摂津・河内・和泉地方の古代豪族
→躬恒以外は著名な人物は出ていない。没落豪族だったのだろう。
地方官(国司ではない)を歴任、六位とまり。
身分は低かったが歌は抜群に上手かったのだろう。貫之とともに兼輔邸に出入りし歌人として頭角を現す。宇多帝、醍醐帝の行幸に供奉し歌を奉っている。専門学者と同じように「和歌の専門職」(お抱え歌人)だったのだろう。
醍醐帝の一大国家事業古今集の編纂(撰者の一人)に抜擢される。
三十六歌仙 古今集入選は貫之に次いで2番目に多い60首 勅撰集196首
「躬恒の歌は軽快さと機智を特徴とする」(田辺聖子)
お抱え歌人だけあって当意即妙、これを詠めと言われればすぐ対応している。
→正に延喜歌壇&古今集を代表する歌人と言えよう。
(追記)
大和物語第132段 同じ帝=醍醐帝
同じ帝の御時、躬恒を召して、月のいとおもしろき夜、御遊びなどありて、「月を弓張といふは何の心ぞ。そのよし仕うまつれ」と仰せ給うければ、御階のもとにさぶらひて、仕うまつりける、
照る月を弓張としもいふことは山べを指していればなりけり
禄に大袿かづきて、又、
白雲のこのかたにしもおりゐるは天つ風こそ吹きて来つらし
→帝に召されて即座に歌を詠んで奉る。帝も喜んだことであろう。
②29番歌
・正岡子規の酷評については前述。
→子規が本当に言いたかったのは「和歌という業界」批判であり、その一例として挙げられたのが29番歌、23番歌などであった。それだけ著名・有名だったということだろう。
・「心あてに」 当て推量に、、実感を直叙しないところが古今調
(源氏物語関連については次項参照)
・白菊と初霜 白の競演
菊は奈良~平安初期に中国から入ってきたものだがまだ万葉集には出て来ない。当初は白か黄色の小菊。菊が普及し皇室の御紋になるのは菊を愛した後鳥羽天皇の時から。
→源氏物語では頻出。六条院冬の町(明石の君の町)に植えられている。
冬のはじめの朝霜むすぶべき菊の籬、我は顔なる柞原、をさをさ名も知らぬ深山木どもの木深きなどを移し植ゑたり。
私はこの歌は良くも悪くも古今集を代表している歌だと思います。庭の白菊をさして何か詠めと命令されて即座に詠んだようであまり実感が感じられません。当意即妙に詠むということは恐らく何百何千もの用例を頭に入れていたのでしょう。そこから引き出して来て組み合わせて作る。専門職たる所以でしょうか。
もう一つ古今集から躬恒の秀歌をあげておきます。
春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる
→29番歌(秋の朝の白い菊)と春の夜の赤い梅で見事に対になっている。
③源氏物語へのこじつけ
・「心あてに」
心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花 夕顔@夕顔
→源氏に所望された夕顔を扇に載せて差し出す。その扇に書かれていた歌。
→「夕顔」の巻の冒頭シーン、この辺から源氏物語が止められなくなるのです。
・「折らばや折らむ」 花を折るは女性を手に入れることの比喩
つてに見し宿の桜をこの春はかすみへだてず折りてかざさむ 匂宮@椎本
→匂宮が「今年こそは貴女をいただきますよ」と中の君に贈った歌。露骨である。
→それを実行し愛を尽すところが匂宮のエライとこ。
・「おきまどわせる、、、」
冬の寒々しい霜にまどわせられた、、、ということから源氏が仲人口(大輔命婦)に乗せられて末摘花と契った場面が思い浮かぶ(上坂信男)
→そうでしたね。でも末摘花って棘のある紅花ですからね。ちょっと白菊からは遠い感じがするのですが。。。
【本日から那須へ一泊ゴルフに行ってきます。返信、水曜日になります。ご容赦ください】
古今集仮名序、何度読んでも名文ですね。
その後に続く六歌仙への批評は辛辣かつ、よくぞ言ってくれた感、無きにしもあらず。
面白く読ませてくれます。
かけた年月もすごいけどこれは政治色の無い専門歌人だからこそできたことではないかと素人判断で考える次第です。
万葉集以後の最初の勅撰和歌集と言う事で編纂に携わった紀貫之はじめ4人はその栄光にさぞや誇りと自信をもって張り切り高揚感に満たされたことでしょう。
又その責任、重圧、喜色、意気込み、入り混じった心境だったのではないでしょうか。
万葉集の時代に比べると和歌の分類もかなり増え様式も多様になっていると感じます。
万葉集の「ますらをぶり」に対し古今集は「たをやめぶり」とは言い得て妙ですね。
数十首の暗誦にも四苦八苦している身からすれば村上帝の芳子女御は全20巻全て暗誦したとは驚異です。
「子規の『古今集』批判をめぐって」の論文、後でゆっくり読んでみます。
凡河内躬恒の29番歌
心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花
初霜の白と白菊の白の珍しい取り合わせ。
白の美しさの競演と思えばなかなか面白い発想だと思います。
古来純白の美しさは美の象徴。
白雪 白菊 白百合 白無垢、世に白の美しさを讃えた言葉は数えきれません。
この歌、誰もができる歌ではない所に作者のユニークさ、機知を感じます。
それに覚えやすいですね。
源氏物語「夕顔」と感覚がちょっと似ている気がします。白露と夕顔の白
心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花
思い出しますね。扇に乗せられた夕顔の花とこの和歌。
何とも心憎い優雅な所作です。
子規が「歌よみに與ふる書」で一文半のねうちも無事駄歌に御座候云々と批判していますが
それほどまでに駄作とは思えないような気がしますがいかがでしょう?
折しも重陽の節句(9月9日)も過ぎたところ。
長寿を願い菊を愛でその花びらを酒に浮かべて祝う。
今では白菊と言えば葬送の花のイメージですが当時は珍しい花だったのでしょうね。
イメージを想像力豊かに即興で謳いあげるのも才能の一つでありそれこそ想像の翼を広げることではないでしょうか?
写実ではなく想像で詠むのも当時の流行だったのかもしれません。
歌は理屈じゃないですものね・・・
追記
論文「子規の『古今集』批判をめぐって ─日本文学にみる美的理念」寺澤行忠
言いたいことが存分に伝わる論述で大いに納得できました。
著者同様
「短歌沈滞の現状を打破するための方便だった」というなら、理解できるし短歌革新への情熱が言わせたとすればこれも子規の権威への批判と合わせて納得できます。
この当時の歌風が中国文化の影響を受けていることも大きいですね。
「歌は世につれ世は歌につれ」という言葉もありますものね。
百々爺さん、今日明日絶好のゴルフ日和。
大いに楽しんでリフレッシュしてください。
(2日間存分に楽しんできました。私は1日目はまずまず、2日目は例によって前日飲み過ぎでメタメタでした。智平どのが進境著しく両日ともトップの成績でした)
1.古今集時代は未だ(身分の低い)専門歌人中心のものだった和歌がトップ貴族のステイタスシンボルになっていったのは藤原公任(966-1041)の頃からでしょう。公任は和漢朗詠集の編纂で知られるように漢詩・漢文の達人であると同時に和歌をも能くする歌人であり歌学者であった。彼の時代(正しく源氏物語の時代)になって和歌は上流貴族=藤原家のものになっていった。そしてそれを歌道というまでに高めていった(特殊化していった)のが俊成・定家である、、、という図式でしょうか。
→和歌が藤原家の独占分野になってくると身分低きものは歌に近寄りがたくなる。独占を維持するには秘伝伝授とか言って段々閉鎖社会になっていく。それが900年も続き子規の大喝をくらったと言うことでしょうか。
2.藤原俊成が源氏物語「花宴」の巻を絶賛し「花の宴の巻は殊に艶あるものなり。源氏見ざる歌詠みは遺恨の事也」と言ってます(花宴6)。源氏物語は古今集の世界そのものだと思います。文章中に縁語・序詞をふんだんに使い古今の歌を引用し季節を表す定番の言葉を必ず入れる。そして795首の歌が詠みこまれる。定家が源氏物語に没頭し源氏物語の地位の向上に腐心したのも当然でしょう。
心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花
で始まった夕顔との恋物語。源氏が夕顔を荒れた某の院に連れ込み一夜を過ごした後、「心あてに」の歌を引用して歌を詠み合っています。
源氏 夕露に紐とく花は玉ぼこのたよりに見えしえにこそありけれ
夕顔 光ありと見し夕顔の上露はたそかれ時のそらめなりけり
誠に優雅なやりとりであります。そしてその晩悲劇が起こるのでした。
古今和歌集の概説、ありがとうございます。改め、おさらいができましたが、研究不足の小生には新たな発見が二つありました。
万葉集を、ますらを(益荒男)振り、古今集を、たをやめ(手弱女)振り、風よみ振りと言うのですね。両和歌集とも一部かじった程度なのですが、なるほどまーそのとおりかなと感じます。
WEBを見ると、手弱女振りは女々しいと万葉集を高く評価したのが、賀茂真淵、いや手弱女振りのほうが真情に近いと評価したのが、本居宣長らしいです。正岡子規以前にも評価が割れていたようです。
小生には、個人的な歌の好き嫌いはありますが、それはさておき、両方におもしろい歌が沢山あるように思います。
もうひとつが、古今和歌集、仮名序。
六歌仙の評価をはじめ、ここからいろいろ引用されている話はいろんなところで読んできましたが、恥ずかしながら全文は今始めてWEB検索で読みました。なかなか格調ある興味深い文章ですね。意味が解らないところもあるので、午後図書館で本を借り読み直します。
「子規の『古今集』批判をめぐって ─日本文学にみる美的理念」寺澤行忠
(これを打ち込んで検索してください。偏りのない納得できる論文と思います
これも後で読んでおきます。
さて、29番歌、古今集選者の始まりです。
目崎徳衛氏によれば、躬恒ははなはだ身分も低く、諸国の役人を務めたが、内裏の御厨子所に出仕し、宮廷の文雅にふれる機会を得、歌を作った宮廷歌人で、当時紀貫之をもしのぐ花形であったらしい。
低い身分と高い名声のギャップに身を憂い
いづことも春の光は分かなくに またみ吉野の山は雪振る
かれはてんことをば知らで夏草の ふかくも人をたのみけるかな
と嘆き、友人の紀貫之に頼み兼輔に名簿を伝えさせる際、貫之に添えた歌
人につくたよりだになし大荒木の 森の下なる草の身なれば
また、宇多上皇にすがった歌
たちよらん木のもともなきつたの身は、ときはながらに秋ぞかなしき
がある。
ともに、出世ができぬ吾身を嘆き、歌の世界との落差に泣いた歌で嘆願でもあったが
当時はまだまだ歌人の地位は名誉的で、実収が伴わなかったのであろう。
目崎氏が、万葉の人麻呂にも同様な点がみられると思うと、さらに、古代における宮廷歌人の宿命であろうかとも書かれているのが、印象的である。
小生も
「子規の『古今集』批判をめぐって ─日本文学にみる美的理念」寺澤行忠
をいま興味深く読みました。
氏の言われること、むべなりです。
1.例の小学館版日本の歴史「揺れ動く貴族社会」は第一章を「『古今和歌集』」の時代を考える」として古今集に焦点をあて漢詩に続き和歌が公的性格を持ち政(まつりごと)の表舞台に躍り出てくる経緯を述べています。歌人たちの活躍もさることながら宇多帝・醍醐帝が和歌を重要視し保護したのが大きい。大規模歌合せを催し歌枕各地に行幸を繰り返し大勢の歌人たちを供奉し歌を詠ませる。そして初めての勅撰集として古今集を編ませる。
→古今集は平安王朝の政治そのものだったと思います。
【全くの余談】
上記「揺れ動く貴族社会」を読んでいて唖然としたのは貴族の生活で出産は死をかけたものだったということを述べてる箇所で「源氏物語でいえば、紫の上が当てはまる」と書かれていた(p241)。この先生源氏物語を読んでないなあと思った次第。源氏物語をキチンと最初から最後まで読むのは2年はかかる(爺の自説)。歴史学者がそんな時間とれないことは当然でしょう(忙しい歴史研究の中そんな時間とるべきでもないでしょう)。それにしても誰か校正の段階で気付いてもいいでしょうにねぇ。
2.凡河内躬恒、歌作りは抜群の腕前だったのでしょうね。お抱え歌人ですから題を与えられると即座に詠みこなしていたのでしょう。写実とか実感に基くというより観念的・想像的なものが多くなるのは仕方ないところ。話題のエンブレム作者じゃないですが歌のパーツを全部覚えていて繋ぎ合わせて歌を作る。そしてそれが段々と歌の道になっていったということでしょうか。
→兼輔や宇多上皇に訴えた歌はうそのない切実なものと思いますが。
百々爺お勧めの「子規の古今集批判をめぐって~日本文学にみる美的理念」読みました。 文字が見難かったけれど、何とかざっと目を通しました。わかりやすく中庸にまとめられた論文だと思いました。
日本民族が千年つちかってきたものには当然よいものがあるはずで、それを子規の思いだけで変えてしまうのは無理があると思います。
万葉集も古今集も、いいものはいいのです。
最後は、その和歌が好みか、そうでないかの違いだと思います。
謡曲『隅田川』にある「白雪の道行き人に言伝てて行くへをなにと尋ぬらん」は、古今集、春上30、躬恒の歌「春来れば雁帰るなり白雲(異本、「白雪」)の道行きぶりにことやつてまし」からとられています。
謡曲『関寺小町』にある「年待ちて逢ふとはすれど七夕の寝る夜の数ぞすくなかりける」は古今集、秋上179躬恒の歌からとられています。(初句、「年ごとに」)
謡曲『松虫』にある「松も響きて沖つ波の聞こえて聲ごゑ友誘ふ」は古今集、賀360躬恒の歌「住の江の松を秋風吹くからに声うち添ふる沖つ白波」によっています。
さすが百合局どの、達観されてますねぇ。そうです、いいものはいいのです。自分の好みで良し悪しをつける。自信がないとできませんよね。でも私たちアラコキまで生きてきた身、自信を持っていいものはいいと言いましょう。でも逆に大したことないなあと思っても世間の評判がいいとつられていいのかなあと思ってしまう。
→私には29番歌「心あてに」はまさしくそんな歌であります(子規がボロクソに言うほどでもないがさしたる名歌とも思えません)。
寺澤行忠氏の評論を興味深く読みました。
子規が古今集を批判のターゲットにしたのは、まさしく百々爺の言われるとおりそれまでの閉鎖的な歌道、歌道界だったのだと思います。
現代の俳句界においても、お嬢様芸、奥様芸に堕してあたかも有閑階級の遊びのごとく自分たちだけで固まっている風もあり、さらに師の気に入るような句を詠み、師もまた弟子をおだてて、これを良しとする閉鎖的な風潮があります。
誰にも阿ねず自分の俳句を詠みたいと願っているものですが、と言って現代俳句風の難解な詩の世界には到底入れませんし。伝統俳句の範疇で自分らしく。
所詮17文字しか使えない短詩において、いわば一言で言い止めるには技巧を超えた一発勝負、真剣勝負みたいな面があります。子規が短歌よりむしろ俳句において作品を残したということは、かれもまた武士であったということでしょうか。自分の死をも徹底して客観視した絶筆三句に彼の真髄が見えるようです。
俳句への論考ありがとうございます。さすが毎日作句に勤しんでおられる少将どのの言葉説得力があります。
新聞の投句案内に撰者を指定する欄がありますもんね。撰者が変われば評価も変る。仕方がないことでしょう。そんな中で自分の立位置をみつけて自分に納得いくように詠む。後は他人に気にいられなくても気にしない、、、そんな風にできればいいなあ。。。というのが願望であります。
在六少将 、昭和蝉丸御両人、強力ご推奨の「白鳳展」を昨日訪れてきました。
白鳳とは七世紀半ばから平城京にうつった710年までということですから、ちょうど百人一首と同時代の仏教美術展です。
こちらも天智、持統天皇が絵巻物の始まりです。今の薬師寺が既に藤原京に端を発し、かなりの部分が移築されたとのこと。勿論、仏像もその可能性が高いとのこと。そして配置の位置まで踏襲されたなど、いまだ仄聞せぬ話の連続でした。
それ以上に、御両人御推奨の、薬師寺の「水煙」と「月光菩薩像」には圧倒されました。飛天と云い、菩薩と云いその生々しさ・艶めかしさは、今にも動き出しそうな気配です。これを二句の俳句に見事に詠み切る在六少将もさすがです。
さて29番、躬恒はんのこの歌、子規のせいであまり評判良くないみたいですな。でもそれは子規独自の批判であり、少なくとも「古今集」に撰入されて以降、中世にいたるまでの享受史を見ると、この白艶の境地が非常に高く評価されていたことも事実ですな。
まあそうは言うもののこの歌が躬恒はんの代表歌でもないらしい。
我が宿の花見がてらに来る人は散りなむ後ぞ恋しかるべき(古今集67番)
公任等はこちらを、より評価しているみたいです。
晩秋の早朝の初霜と白菊の競演は妖艶かつ耽美。それも現実の風景ではなくあくまで幻想的な見立て。同趣向の歌に、
月影に色わきがたき白菊は折りても折らぬ心地こそすれ
いづれをか分きて折らまし梅の花枝もたわわに降れる白雪
いづれをか花とは分かむ故郷の春日の原のまだ消えぬ雪(三首とも躬恒集)
と出ています。
平安初期から登場する「菊」。当時はそのほとんどが白か黄色。漢詩には黄、和歌には白がこのまれているよう。清澄な晩秋の朝の印象を、写実によってありのまま表現するのではなく、主観的に誇張して詠じることにより、かえって霜と白菊の透き通るような白いイメージを喚起させることに成功しているとは、吉海直人氏の見解。(百人一首で読み解く平安時代)
こうしてみると、このころすでに後の西洋絵画の印象派、近代彫刻におけるロダンに通じる理論が芽生えていたような気もします。
昨夜は夢にまで「月光菩薩」が出て参りまして、その艶めかしさに寝苦しい一夜を過ごし、誠にメモリアルな一日に終始いたしました。
1.「白鳳展」訪問記ありがとうございます。
飛鳥文化と天平文化の中間が白鳳文化、教科書に載ってる仏像を見てみました。薬師寺金堂薬師三尊像(薬師如来像・日光菩薩・月光菩薩)、薬師寺東院堂聖観音像、法隆寺夢違観音像、法隆寺阿弥陀三尊像、興福寺仏頭それに薬師寺東塔の水煙と飛天が載っていました。間近に見られて感動されたことでしょう。
→日光菩薩・月光菩薩の腰のひねり、カミさんと見てて思わず「すげえな」と叫んで顰蹙をかったものでした。
2.躬恒はん、やっぱり普段は河内弁しゃべっていたのでしょうか。
「おんどりゃあ、何さらしてけつかるんじゃ」なんてね。
躬恒の恋歌あるんでしょうがあまり取り上げられませんね。花(白や黄色)や雪・霜といった自然を詠んだものが多いんでしょうね。これぞ古今調そのものだと思います。