血統的には宇多帝の甥であり醍醐帝の従兄弟にあたる源宗于、官位には恵まれず冬の寂しい歌を詠んでいます。華やかな寛平・延喜の世をいささか恨めし気に生きた人かもしれません。
28.山里は冬ぞ寂しさまさりける人目も草もかれぬと思へば
訳詩: 山里の冬の
さびしさはまた格別
おとなう人の往き来は間遠に
草も枯れてしまったと思うにつけて
作者:源宗于(むねゆき)朝臣 生年未詳~939 光孝天皇の皇子の息子 賜姓源氏 歌人
出典:古今集 冬315
詞書:「冬の歌とてよめる」
①父は15番歌光孝帝の皇子是忠親王。即ち源宗于は光孝帝の孫。光孝帝は皇子を全員臣籍降下させ源氏とした。是忠親王も源氏となった。宇多帝も光孝帝の皇子で一旦臣籍降下したが皇族復帰し皇位についたこと15番歌の所でみたとおり。
→即ち源宗于は宇多帝の甥にあたる。
父は源氏のままであったが叔父(宇多帝)は皇族復帰し天皇になった。
→父も宗于も思うところあったであろう。
【余談】
百人一首に天皇は8人(1,2,13,15,68,77,99,100)
天皇の子(皇子・皇女)は3人(14融,20元良,89式子内親王)
天皇の孫は4人(12遍昭,16行平,17業平,そして28源宗于)
年令的・世代的には藤原定方・忠平・兼輔と同じくらい。宇多・醍醐・朱雀朝の時代である。
官位は正四位下・右京大夫とまり(公卿になれず)。受領階級として地方官を歴任。
そこで官位昇進を宇多院に訴えた逸話が大和物語に出ている。
源宗于 沖つ風ふけゐの浦に立つ浪のなごりにさへやわれはしづまむ
宇多院はこれを見て「何のことやら、、、」ととぼけたらしい。
→甥といっても特別の関係でもなし、まあ仕方のない所か。
→官位をおねだりした卑しい男との評もあるがそれは当たらないだろう。色んなチャンスに手を変え品を変え訴えるのは当然である。
②官人としては四位どまりだが歌人としては三十六歌仙であり古今集に6首、勅撰集に計15首入集。宗于集(私家集)あり。
寛平歌壇の中堅であった。伊勢・紀貫之らとも交流あり。特に貫之とは昵懇。
源宗于・藤原興風(34番)・清原深養父(36番)は寛平歌壇(宇多帝)で活躍したが時代は宇多帝から醍醐帝に移り(宇多帝は風流三昧から仏道三昧に生活を転じた)古今集編纂は醍醐歌壇の新進歌人たちに委ねられてしまった(目崎)
→これも人生の綾か。運・不運は常につきまとう。それにしても宇多さんって皇位が転がり込んできたのに早々と引退し上皇として30数年も好きに暮らす、、、結構なお人であったようです。
③さて、28番歌
・古今集冬の歌
百人一首に冬の歌は6首
(4田子の浦に・6かささぎの・28山里は・31朝ぼらけあ・64朝ぼらけう・78淡路島)
・「山里」=山中で人の住んでいる所、平地(村)の里に対する言葉
→通常の暮しをしていると言うより隠遁生活の場と考えたほうがいいのだろうか。
・「冬ぞ寂しさまさりける」
春は桜、秋は紅葉で賑わうが冬は人足も途絶え寂しくなってしまう。
→その通りだが通常寂しさと言えば秋であり、冬は寂しさを通り越した感情だと思うのだがどうだろうか。
百人一首で「寂しさ」は2首 いずれも秋の歌である。
47 八重葎しげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり(恵慶法師)
70 さびしさに宿をたち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮(良ゼン法師)
・「かれぬ」=草木が枯れ、人足が離れる(掛詞)
「かれる」(草木が枯れる・声が嗄れる・水が涸れる・若さ、潤いがなくなる)
→いずれも頂点から落ち目に入るイメージの言葉である。
離る・夜離れ(よがれ)、、、男の足が遠のく、通い婚の当時女性にとっては死活問題である。
→結局宗于は冬の山里を何もないけどそれはそれでいいと賛美しているのか、何もないのはかなわないと訴えてるのか。宗于が自分の不遇を冬の山里に例えた歌と考えるのは考え過ぎか。
因みに冬の山里を詠んだ歌として白洲正子は西行のこちらの歌を絶賛している。
さびしさにたへたる人のまたもあれないほり並べむ冬の山里
・28番歌を本歌として定家が詠んだ歌
夢路まで人めはかれぬ草の原おきあかす霜に結ぼほれつつ
→定家は山里・山家に憧れていたのであろうか。正に「紅旗征戎は吾が事にあらず」は定家の正直なる願望だったのかもしれない。
28番歌の派生歌
秋くれば虫とともにぞなかれぬる人も草葉もかれぬと思へば 藤原興風
→でもこれは秋の歌である。
④さて源氏物語で山里と言えば、
1.上京を促された明石の君が京中までは行き得ず一旦寓居した大堰の山里(嵯峨野)
松風~薄雲 ここで幼い明石の女御との子別れがある。
身をかへてひとりかへれる山里に聞きしに似たる松風ぞ吹く(明石の尼君@松風)
2.夕霧が柏木未亡人女二の宮(落葉の君)を訪ねた小野の山里
山里のあはれをそふる夕霧にたち出でん空もなき心地して(夕霧@夕霧)
3.薫・匂宮と宇治の姫君の恋の舞台、宇治の山里
山里のあはれ知らるる声々にとりあつめたるあさぼらけかな(薫@総角)
最後に浮舟が匿われたのも小野の山里である。
→宇治十帖には「山里」が詠みこまれた歌が11首も出てくる。
宇治十帖は山里の物語と言えるだろう。
28.山里は冬ぞ寂しさまさりける人目も草もかれぬと思へば
まあ!!なんて侘しく寂しげなお歌でしょう!!
作者は源宗于様とやら、余り聞いたことなのないお人ですが心に何かありまして?
この歌からは我が故郷の冬の景色が二重移しになります。
色に例えればモノトーンの世界でしょうか?
侘しい孤独が見えてきますが私には何とはなくその孤独にさえ懐かしみが感じられます。
この気持ちは誰にでも経験のあることで理解できるものではないでしょうか。
官位の昇進もさしてなくその孤独と不満が背景にあるのでしょうか?
作者は一体どういう人物でしょうか、百々爺さんの解説から探ってみましょう。
源宗于の父は光孝天皇の皇子是忠親王。つまり宗于は天皇の孫で宇多帝の甥にあたる。
叔父は皇族復帰したものの父は臣籍降下のまま、ここが運命の分かれ道か?
藤原定方・忠平・兼輔らと同世代にありながら彼らの華々しい活躍の元、陰に隠れた存在と言えそうです。
その鬱屈がこの28番歌を詠ませたのでしょうか。
宇多院に官位昇進を訴える所を見れば並の出世欲もあり気骨もあったと見える。
官人としては四位にとどまるも歌人としては三十六歌仙であり古今集に6首、勅撰集に計15首入集、私家集もあるとの事、大したものじゃありませんか。
源氏物語の山里と言えばもちろん宇治十帖。
宇治の山里、最後の場面、小野の山が印象に残ります
最後の小野の山里の唐突な幕切れ。
孤独に耐え自身の生き方を見つめる浮舟を思い出し、朝からしんみりしている小町姐です。
よく降りますねぇ。それだけでしんみりしてしまいます。
1.ほんま侘しい、寂しい歌ですね。世を恨む歌、わが身をかこつ歌などは他にもありますが総合的に考えれば百人一首中28番歌が一番寂しい歌ではないでしょうか。この歌平安朝では山里の寂しさを詠んだ秀歌として評価されていたようで定家もそれに倣って入選したと言うことでしょうか。
どうも人物的にも暗いイメージですね。古今集の他の歌ピックアップしましたが概ね侘しい寂しい感じです。もっとパッと明るい恋歌でも詠めば女性も寄ってきたでしょうに。
ときはなる松のみどりも春来れば今ひとしほの色まさりけり(春)
今はとて 別るる時は 天の河 渡らぬ先に 袖ぞひちぬる(秋)
つれもなくなりゆく人の言の葉ぞ秋よりさきの紅葉なりける(恋)
逢はずして今宵明けなば春の日の長くや人をつらしと思はむ(恋)
忘れ草 枯れもやすると つれもなき 人の心に 霜は置かなむ(恋)
2.浮舟の小野の山里、最後の幕切れのところ、茫然としましたね。紫式部から「アンタ、浮舟ってこれでいいの、よく考えなさい!」と突きつけられたような気がしました。普段忘れてますが時々こうして思い出すと身震いします。
山と嵐、山と渓をこよなく愛する多寡秀としましては、28番歌のテーマは正に「山里」でしょうな。
源宗于。名前からしてなかなか読めません。「ムネユキ」なんですな。この宗于さん、実際に山里にわび住まいされたんでしょうか。いえいえそうとも思われません。まあしかし歌が、表現された結果を味わうべきものとすれば、この言葉の醸し出すムードとか技巧の巧拙とかを評価すべきなんでしょう。作者が冬の歌を読もうとしたときに、浮かんだイメージは、満目荒涼たる山里であった。その山里にわが身を置いてみたらどういうことになるだろうかと、頭の中に描いてみた結果がこの歌になったというところでしょうか。
さびしさにたへたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里(西行・山家集)
の心境でしょうか。「山にいて人を想う、里にいて山を想う」。これ人間自然の情でしょうね。そういう心情を考慮に入れてこの歌を読み直してみますと、山里の冬という限定された場所と時間との中に、身を浸してさびしさにじっと耐えている人間の、ほのぼのとした温かさが感じられてきます。だからこそこの宗于さんの歌が多くの人の鑑賞に堪え、いつまでも愛誦されているんでしょうな。(出典:橋本武・解説百人一首)
そして山里が多く歌に詠まれるようになったのは「古今集」の時代からで、「万葉集」には詠まれておりません。山里は平安朝の人々にとって一種の理想郷で、だからこそ歌にも詠まれ続けられたのでしょう。その場合、わびしい冬の世界として構築されると思われがちですが、むしろ春の用例が多く「後拾遺集」のころから秋になり、「千載集」以降冬の用例が増大したとのこと。山里詠が冬の景物として定着したことと、この歌が百人一首に撰入されたこととは、大いに関係がありそうです。(吉海直人・百人一首で読み解く平安時代)
「官位をおねだりした卑しい男との評もあるがそれは当たらないだろう」とは百々爺のご指摘、ごもっとも。
そういえば最近、太宰治が当時の権威、佐藤春夫に宛てた手紙が見つかったそうですね。「切々と芥川賞受賞を訴える」内容とのこと。あの太宰にして「偉大なる名誉」が欲しかったんだなと納得した次第。太宰も宗于さんもなんと人間らしいことではありませんか。
「山」と聞くとビクリと反応し血が騒ぐようですね。会社の先輩に根っからの山男がいてゴルフ場でも必ず上に打ち込んで嬉々として登っていってたこと思い出しました。
私自身は海辺(津市)で育ち普段山が見えない関東平野(流山市)に住んでるので山に対する実感はあまりありません。時々低山に行ったり那須の山荘(友だちの)に行ってなんとなく感じるだけです。
山をこよなく愛する多寡秀どのの28番歌解釈よく分かりました。
序でに百人一首で「山」が出てくる歌ピックアップしてみました(固有名詞あり、単に「山」が入ってるだけのもありますが)。
2 天の香具山
3 山鳥
4 富士山
5 奥山
7 三笠の山
8 うぢ山
13 筑波嶺
16 いなばの山
22 山風
24 手向山
25 逢坂山
26 小倉山
28 山里
32 山がは
42 末の松山
58 有馬山
60 大江山
69 三室山
73 外山
74 山おろし
83 山の奥
94 みよし野の山
実に22首ありました。さすが日本は山国であります。山は生活そのものなんでしょう。
百人一首を覚えようと苦戦していますが、とりあえず62番まで覚えました。
この中でいつもスーと出てこないのが、この28番歌、作者もあまりしられておらず、歌も特徴が薄いのか、すぐ突っ掛かってしまいます。
この歌そのものは嫌いではないのですが。
ところで、とりあえずと書いたのは、いったん覚えても、少し時間を置くと悲しいかな忘れてしまうためです。ここが一番の問題。
でも、今年中には、100番まで何とかたどり着きたいと思っています。
皆さんも是非。
本歌に戻って、爺が書いてくれていますが、
28 山里は冬ぞ寂しさまさりける 人目も草もかれぬと思えば
この他
百人一首で「寂しさ」は2首 いずれも秋の歌である。
47 八重葎しげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり(恵慶法師)
70 さびしさに宿をたち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮(良ゼン法師)
小生は、恵慶法師の47番歌とこの28番歌は、非常に似通った、やり場のない寂しい心情を詠んだように思えます。
ともに、さびしさと人と歌われているためかと思っています。
あとは、”さびし”ではないが、似た気持ちの”かなし”を詠った歌が2つあります。
5番 奥山に紅葉ふみわけなく鹿の声聞くときぞ秋はかなしき 猿丸大夫
23番 月見れば千々にものこそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど 大江千里
合計で、やはり秋が4首 冬は1首、28番歌はあえて”冬ぞ”と打ち出し”まさりける”と締めたため、えもいわれぬ寂しさの効いた歌になったと思っています。
62番清少納言まで行きましたか。相当先行してるじゃないですか。大したものです。百合局、源智平朝臣、九代目仁王さんらは子どものときにやったから覚えられたし、今でも覚えている。一方(私もそうですが)この年になって「暗誦しようとするとすぐ暗礁に乗り上げてしまう」、、、、。つくづくやるべきことはやっておかなきゃと思います。どうぞお経だと思って毎日唱えてください。
「わびし」「さびし」と「かなし」を拾い上げて比較鑑賞する。これぞ百人一首を縦横無尽に楽しむことであります。是非百首を自分の頭の中に整列させてください(私は背番号とともに百マスの中に入れてます)。
→完読の暁には何も持たずに百人一首談義やりましょう。
安東次男の説では、生身の憂さを押しやる工夫が掛詞の中に現われているところが28番歌の見どころだそうです。「人目も草もかれぬとおもへば」と繰り返し言っているうちに、枯れ離れの心が生気を吹き返すとのこと。どうでしょうか?
この宗于の歌を本歌としたとまでは言わなくても、それがなければ生まれるはずもないのが、西行の「さびしさにたへたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里」の一首であると述べられています。
「大和物語」30話、31話、32話、80話などに右京の大夫宗于の短い話がありますが、心楽しまないと訴える歌が多いようですね。
32話の歌「しぐれのみふる山里の木のしたはおる人からやもりすぎぬらむ」
謡曲『砧』に「鄙の住まひに秋の暮、人目も草も離れ離れの契りも絶え果てぬ、なにを頼まん、身の行くへ」とあるのは、この28番歌の「山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば」からとっています。
1.「生身の憂さを押しやる工夫」ですか、なるほど。確かに繰り返していれば一時は憂さも消えるかもしれませんが、また倍返しで憂さが募ってくるような気もします。
→宇治の山里で雪降る頃大君を失くしそのまま喪にこもる薫の心情もかくありなんかもしれません。
2.大和物語の紹介ありがとうございます。宇多院に官位を訴える歌、30段「沖つ風」の歌だけかと思ってましたが32段もそうなんですね。
32段
亭子の帝に右京の大夫のよみて奉りたりける、
あはれてふ人もあるべく武蔵野の草とだにこそ生ふべかりけれ
また、
しぐれのみふる山里の木のしたはおる人からやもりすぎぬらむ
とありければ、顧み給はぬ心ばへなりけり。「みかど御覧じて、『何事ぞ、心得ぬ』とて僧都の君になむ見せ給ひけると聞きしかば、かひなくなむありし」と語り給ひける。
何度も繰り返している。ちょっと愚痴っぽい感じですね。
28番歌と作者の源宗于についての解説はいろいろな本とかネット情報を見ても似たり寄ったりで、百々爺の解説以上のものは見当たりませんね。その中で、小生が敢えてコメントしておきたいのは源宗于が官位に恵まれなかった理由と背景です。源宗于の父親は光孝天皇の第一皇子である是忠親王ですが、同母弟で第七皇子の定省親王が天皇(宇多天皇)に選ばれたために、是忠は天皇になれませんでした。もし、父親の是忠が天皇になっていたら、源宗于の出世は思いのままだったでしょう。では、なぜ是忠でなく、定省が選ばれたのか。Wikiによれば、その理由は定省が実力者であった藤原基経の異母妹である尚侍藤原淑子の猶子(養子)であり、後宮に強い影響力を持っていた淑子が定省を後継にするように基経に強く推薦したからとのことです。あるいは、光孝天皇自身も定省を可愛く思い、後継者に相応しいと考えたのかもしれません。
いずれにせよ、自分の父親が天皇に成り損なったのなら、きっぱりと大出世は諦め、恨みなど抱かずに楽しく生きる途もあったと思いますが、そう行かないのは男の性(さが)でしょうかね。宗于のように寂しく暗い歌を蜀山人先生はどう狂歌として処理しているかを見てみたら、次のとおりでした。小生も賑やかな市中の方が楽しくて良いですね。
山里は冬ぞさびしさまさりける矢張(やはり)市中がにぎやかでよい
そうですね、「人生何が起こるか分からない」の裏返しみたいな話ですね。
ここでも事の発端は陽成帝の譲位(884年、この年号覚えておきましょう)。ここから様々な悲喜交々劇が始まるわけですよね。鍵を握ったのが「藤原基経の異母妹である尚侍藤原淑子」ですか、なるほど。この人経歴見ると根っからのキャリアウーマンですね。淑子が定省を養子にしたのはいつなんでしょう。多分光孝帝が(まさかの)天皇になる前でしょうね。定省が優秀だから養子にした。そしたら光孝帝が天皇になり淑子は尚侍(懐かしい、朧月夜・玉鬘を思い出す)になった。淑子が我が養子を天皇にしようと基経に強引に働きかけたのも道理ですね。基経は積極的にではなくむしろ消去法で残った感じでオーケーを出したのかもしれません。
何れにせよ叔父定省が天皇になり父はそのまま、宗于自身も正四位下・右京大夫に甘んじる。宗于の気持ちとしては「別にオジサンが天皇になってもかまへんけどオレだってちょっとはええ目見みせてもらってもええんとちゃう?」、、、それで恨み節の歌を奉ったということでしょうか。分かりますねぇ。
蜀山人、ものごとよく分かってますね。アッパレな切り返しだと思います。
山里では冬になると草木が枯れ、動物は地中に籠り、移動する。生物の騒ぐ音はなくなり、水流れる音も雪の中に消える。そして人の往来も寂しくなる。
源宗于は、遠く離れた寒々とした山里で、冬眠している動物のように孤独に耐えるわが身を詠んだのか。早く都に戻りたい!
冬の歌としてはこれが三つ目で、先の4番はしんしんと雪降る富士山を見て、6番は寒気せまる宮中で夜空をみて詠んだ。作者それぞれの心情があり、おもしろい。
日本には四季があり、自然が変化して風景は移ろい、応じて人々の営み、人心も移ろう。日本の自然を詠う和歌、叙景歌は好きですね。
今朝は集中豪雨の被害状況がテレビで放映されています。栃木、茨城では山郷が壊され、今も線状降水帯は去らずに東北地方で暴れている。
時に自然は季節の変化を待たずに景色を一変させ、人々は慌てふためき悲嘆する。自然を取り戻すには多くの年月を要する。
古来、暴れる自然、被災に落胆する人心を詠む、そんな歌はあるやなしや。百人一首には見当たらない。
日本国=「海に囲まれた四季のある山国」でしょうか。今回の洪水を見ていてもつくづく日本は山国なんだと思います。
山笑う春、山滴る夏、山粧う秋そして山眠る冬。
四季それぞれに味わいがあると言うのでしょうが冬の山里は侘しさ、寂しさより厳しさで身がすくみます。
28番歌は想像の産物でしょう。片や西行の「さびしさにたへたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里」は自身の山里生活に根ざしているから迫力があるんでしょうね。
宗于の三男が博打で叱られて家出し帰って来ないという話が大和物語第54段にあります。
右京の大夫宗于の君の三男にあたりける人、博奕をして、親にもはらからにも憎まれければ、足の向かむかたへ行かむとて、人の国へなんいきける。さて思ひける友達のもとへよみておこせたりける、
しをりしてゆく旅なれどかりそめの命知らねば帰りしもせじ
→「アイツ、帰れないって今ごろ山に籠っているのかも、、寒いだろうな」とバカ息子を案じて詠んだのが28番歌かもしれません。