30番 暁の別れはつらし、壬生の忠岑

次は古今集撰者二番手の壬生忠岑です。

30.有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし

訳詩:    あの夜明け 空にはすげない有明の月が
       心乱れて帰る私の上にかかっていました
       あの朝から 逢う瀬もなくて日は過ぎゆき
       暁ごとに私は心をかきむしられます
       あなたと別れたあの朝のことが思い出されて

作者:壬生忠岑 生没年未詳(860-920説あり 61才) 41番忠見の父 古今集撰者
出典:古今集 恋三625
詞書:「題しらず

①壬生氏は大化前代の親衛軍を構成していた氏族でその証拠に宮城十二門の一つに壬生門の名が付けられていた(目崎)
 →壬生門(後の美福門)を造進したのが壬生氏
 →「壬生」「壬生寺」と聞くと新選組、何となく血なまぐさい感じがする。

 平安初期には没落豪族で忠岑は衛門府関係の低級官職についているのみ。
 歌人としては高評価を受ける。三十六歌仙 古今集に35首 勅撰集に82首
 寛平御時后宮歌合にも登場。

 逸話(大和物語第125段)
 忠岑が泉大将藤原定国の随身(SPみたいなものか)の時、定国が酔っ払って帰途夜中にもう一杯やろうと左大臣時平の所へ押しかけた。時平は迷惑顔に「どこに寄って来た帰りでしょう」と問うたのに対し随身忠岑少しも騒がす当意即妙に歌を詠んだ。

  かささぎのわたせる橋の霜の上を夜半にふみわけことさらにこそ
  →誰もが知っている6番歌からのパクリである。

 藤原定国は定方の兄貴、即ち醍醐帝の叔父にあたる。定国はこのこともあって忠岑を歌人として目をかけ時平→醍醐帝に古今集撰者として推薦した。

 →よくできた話ではあるが忠岑の歌の才はただものではなかったのであろう。
 →古今撰者4人の中では友則に次ぐ年長、躬恒とはほぼ同年齢か。年下の貫之を立てて補助したらしい。まじめな正直な男である。

 壬生忠岑の秀歌
 風吹けば峰にわかるる白雲の絶えてつれなき君が心か(古今・恋)田辺聖子絶賛

 春立つといふばかりにやみ吉野の山も霞みてけさは見ゆらむ(拾遺・巻頭歌)

②30番歌
 後鳥羽院が定家と家隆に「古今集」の最優秀歌を問われた時二人ともこの30番歌をあげた。定家はまたこの歌を「これ程の歌一つ謡出でたらむ、この世の思ひ出に侍るべし」と絶賛している。
 →すごい誉め言葉。歌人・俳人は皆そう言われたい思いで励んでいるのではなかろうか。

 ・「有明の月」については21番歌の項参照。

 ・「あかつき」=夜を三つに分けた第3番目 夜が明けようとする時
  「しののめ」=東の空がわずかに明るくなる頃
  「あけぼの」=夜明けの空が明るんできた時
  「あさぼらけ」=朝がほんのりと明けてくる頃
  以上広辞苑より。あかつき→しののめ→あけぼの→あさぼらけの順で明けていく。
  即ち「あかつき」はまだ暗い、夜の終わりである。

 ・「実事後の後朝の別れ」か「実事に至らなかった無念の朝の別れ」か。二説に分れる。
  
  1.古今集の部立てからすれば「逢わずして帰る恋」
  (古今集で30番歌の前にあるのは28源宗于の、
   あはずしてこよひあけなば春の日の長くや人をつらしと思はん

   即ち女性につれなくされ無念にもすごすご帰る時有明の月が出ていた、、ということ。

  2.定家&現代の解説本は圧倒的に後朝の別れ説
   即ちつれなく見えたのは有明の月で、愛する女性との逢瀬も朝が来たら帰らなければならない。その切なさを詠んだとする。
   →素直に読んで後朝の別れ説でいいでしょう。
   →和歌も俳句も詠者の手から離れれば解釈は読者に委ねられる。定家は確信に基き敢えて古今集から離れて解釈したのであろう。

   (それにしても通い婚の習慣、当時の男性は大変だった。やっと訪ねて情熱的な夜を過した後も明るくなるまでに帰らなければならない。風俗店へ行ったでもあるまいにちょっとやるせない習慣ではないか。愛する女性に寄り添って安らぎの眠りにおちる。この方が男女とも気持ちいいでしょうに)

  現代の「別れの朝」
  ♪別れの朝 ふたりは さめた紅茶 のみほし
   さようならの くちづけ わらいながら 交わした

   言わないで なぐさめは 涙をさそうから
   触れないで この指に 心が乱れるから~~

④源氏物語から「逢わずして帰る恋」と「逢っての後朝の別れ」をピックアップすると、
 ・「逢わずして帰る恋」
   1.つれなかった落葉の君
    山里のあはれをそふる夕霧にたち出でん空もなき心地して(夕霧@夕霧)
   2.かたくなだった大君
    山里のあはれ知らるる声々にとりあつめたる朝ぼらけかな(薫@総角)
   →いやあ、夕霧&薫のご両人には疲れました。

 ・「逢っての後朝の別れ」
   1.あやにくの源氏、方違えの夜空蝉と契る
    つれなきを恨みもはてぬしののめにとりあへぬまでおどろかすらむ(源氏@帚木)

   2.源氏、六条御息所との最後の逢瀬 野宮の別れ
    あかつきの別れはいつも露けきをこは世に知らぬ秋の空かな(源氏@賢木)

   →名場面が蘇ります。 

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15 Responses to 30番 暁の別れはつらし、壬生の忠岑

  1. 小町姐 のコメント:

    毎回、百々爺さんが逸話も含め余すところなく懇切丁寧に解説して下さっているのでとてもわかりやすいです。
    私はもう純粋に和歌を楽しむことだけに没頭しています。

    30  有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし
    この歌、定家も絶賛しているのですから良い歌に違いないのでしょうね。
    二説あるようですが私は当然、後朝の歌だと思っていました。
    インスピレーションを信じたいと思います。

    いやあ~日本語って素晴らしいですね。
    あかつき→しののめ→あけぼの→あさぼらけ。
    夜明けだけでもこれだけの表現、外国語では類を見ないですよね。

    「逢わずして帰る恋」光源氏にはあったでしょうか?
    遂げられない恋はあったにしても・・・(朝顔の宮、玉蔓)

    歌が進むにつれ人物関係が複雑に絡み合いその場ではなるほどと理解できてもすべての人物相関図が繋がるかと言えばこれまた難しく記憶が長くは続きません。
    百人の歌の背景にはに百人の人物がいてその時代背景を探り記憶にとどめておくのは至難の業です。
    サブタイトル「600年のアンソロジー」ですものね。
    何せその期間たるや600年に及ぶとなるともうこれは限りなく果てしない歴史の流れにお手上げ状態です。
    今のところはまだ30首(30人)なのでおぼろげながらも和歌からそれぞれの人物像が浮かび上がりその関係や繋がりも何とはなく理解できてきた感じです。
    今後のことはわかりませんが・・・

    さて話変わりますがプロアドベンチャーレーサーの田中陽希さんは昨年の日本百名山に次いで二百名山の百座に挑戦中、現在すでに50数座を踏破。
    我々は山ではなく「百人一首」に挑戦、山で言えばまだ3合目あたりと言ったところですね。
    まだまだこれからです。

    最近感じることはコメンテイターの顔が見えていることが大きいですね。
    源氏物語の時は顔の見えない相手と会話しているような気がしました。
    それでも同じ文学的嗜好のメンバーとあって気心は相通じ合うものがありそれを頼りにコメントしていたように思います。
    今回は皆さんの顔が見える分その都度コメントする方々のお顔を思い浮かべながら読んだり書いたりしています。
    それはとても素敵なことで、皆さんの事をよりよく知り理解することにつながっているからです。
    いつかまたお逢いする日が訪れるのも楽しみで老後がこのような楽しいものになるとはゆめゆめ思いもよらなかったことです。
    その意味では百々爺さんはじめ皆さんには感謝の思いでいっぱいです。

    • 百々爺 のコメント:

      毎度素早く丁寧にコメントいただき本当にありがたく感謝申し上げます。
      思いつくまま箇条書き的に項目をあげているだけなので後はみなさまそれぞれに整理していただくしかありません。どうぞよろしくお願いいたします。

      1.30番歌、確かに姿はいいと思いますが百首中ナンバーワンかと言われるとちょっと違和感ありです。いわば後朝の歌の定食メニューのような感じで女性の姿も季節の背景もましてや二人の間の固有の事情もさっぱり分からない。感情移入のしようがないように思えるのですがいかがでしょう。
       →これが古今調なんでしょうね。

      2.光源氏に「逢わずして帰る恋」はあったのか。思い返してみました。
       (女性の所へ忍んでいったけど目的を果たせなかったということで考えると)
       ・空蝉が忘れられず再び侵入するが逃げられ代りに軒端荻と結ぶ(空蝉)
        →ちょっと微妙ですね。それにしてもよくやるもんです。

       ・源典侍との逢瀬の最中(多分事後)頭中に踏み込まれて途中で止める(紅葉賀)
        →源典侍57才、源氏19才 よくやるもんです。

       ・里帰りの藤壷のところに侵入するも塗籠の中に逃げ込まれて果たせず(賢木)
        →まさに狂気でありました。

       朝顔の宮と玉鬘はおっしゃる通り「遂げられなかった恋」だったと思います。

      3.田中陽希くん、先日の放送見損ないました。再放送待ちです。もう御在所は行ったのでしょうか。

      4.そうですね、以前からの顔見知りは智平どのだけでしたもんね(文屋どのは除いて)。今やメンバーが大体お互いの顔が見えたのではないでしょうか。その内また機会みつけて楽しい集いをやりましょう。

  2. 百合局 のコメント:

     定家が称讃している歌なのですが、そこまでの良さが私には理解できません。
     心にじーんと響いてこないのです。時代が違う?暮らしのありかたが違う?恋のありかたが違う? 恋の本質をとらえていないのかな? 百人一首の中にも、今の世にも通用して切々と訴える歌もありますよねえ。名歌、名人、必ずしも読み手の心をつかまないのですね。

     謡曲『花筐』にある「有明のつれなき春も杉間吹く」は、この30番歌「有明のつれなく見えし別れより~」を引いています。

     謡曲『班女』にある「夏果つる扇と秋の白露と」は新古今、夏、壬生忠岑の歌「夏果つる扇と秋の白露といづれか先づは置かんとすらん」からとっています。

     謡曲『班女』にある「春日野の雪間を分けて生ひ出で来る草のはつかに見えし君かも」は古今、恋一、忠岑の歌「~末句、見えし君はも」を引いています。

     謡曲『春栄』にある「今の心は獣の雲に吠えけんここちして千々の情有難き」は、古今19、忠岑の長歌「~これを思へばいにしへも薬けがせるけだものの、雲に吠えけんここちして、ちぢの情も思ほえず、一つ心ぞほこらしき」からとっています。

     謡曲『二人静』にある「春立つといふばかりにやみ吉野の山も霞みて白雪の」は拾遺集、忠岑の歌「~下句、山も霞みてけさは見ゆらむ」を引いています。

     謡曲『鶴亀』にある「千代の例の数々になにを引かまし姫小松、緑の亀も舞ひ遊べば丹頂の鶴も一千年の齢を君に授け奉り」は、拾遺集、春、忠岑の歌「子の日する野辺に小松のなかりせば千代のためしに何を引かまし」によっています。

    • 百々爺 のコメント:

      恋の本質とは? さすが百合局さん、いいテーマを出していただきました。
      若い時(独身時代)恋愛小説・恋愛論など読みまくり友人と「雨夜の品定め」張りの議論をしたことを思い出します。思えば純情だったものです。

      平安王朝と現代では社会制度・通念も生活環境も全く違いますから「恋のやり方・あり方」も違うのは当然でしょう。でも恋とは異性の相手を愛おしく思い遣る心であることは変わらないでしょう。

      後朝の別れ(男が夜になって女性の所に出かけ一夜を過ごした後明るくなる前に女性と別れて帰る)、平安時代特有の恋愛行動様式なんでしょうが何とも非人間的ですね。本人たちも不満や未練が残るでしょうし周りの者たちも迷惑な話だと思うんですが。。

      30番歌もそんな後朝の別れの歌でしょうがおっしゃる通りじ~んと来ませんねぇ。何か型どおりの(「当代恋愛作法ハンドブック 後朝の歌の作り方」にあるような)歌でこんなのもらっても女性は嬉しくないんじゃないでしょうか。もっと生々しく女性に訴えなくっちゃ。

       →尤も「逢わずして帰る恋」だとすると見方は変わるのかもしれませんが。

  3. 枇杷の実 のコメント:

     有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし
     逢わずしてこよい明けなば春の日の長くや人をつらしと思わむ(源宗于)

    古今集で続けて配列されるこの二首は、逢うことを許さない相手の「つれなさ」を主題としている。
    「つれなく見えた」のは何(誰)かということで、月か、女か、それとも両方か。
    「月がつれない」という場合は、後朝のケースで後ろ髪をひかれる思いの男に対して、有明の月が平然と空に残る。朝方には去らなければならない男には残る月が恨めしい。この場合、男女の関係は良好と取れ、三日の餅へと進む可能性あり。
    一方、「つれない」のは女、又は両方と解釈する場合は、逢いに行ったが冷たくあしらわれ、追い返された。その日以降、「暁ほどつれなく辛いものはなくなった」というほどの男の気持ちからすると、不発の恋で、薄情な女だと羨む。
    ここは後者の方で古今集の部立て通りに「逢わずして帰る恋と」だと見るほうが良いのでは。
    この歌は第一等の名歌とされ、後世にいろんな解釈が分かれる。どっちでも良い話でそれに拘るのは何だか滑稽に思えるが、歌自体は綺麗だと思う。

       掛けことば 恋の行方を 謎掛ける

    • 百々爺 のコメント:

      おっ、「逢わずして帰る恋」説を採られましたか。なるほど。

      折角手段を尽し(何度も凝った恋文を認め、お付きの女房にプレゼントを贈っててなづけ、当夜は高価な香をたきしめた一張羅の衣服を着て)万感の思いで出かけたのに女性は冷たい。何度もはぐらかされやっとのことで御簾の所まで近寄ったが「ハイ、それまでよ」。。。

       →私がこの男から相談されたら「恨み節なんてやめなさい。縁がなかったのでしょう。引きずらず他を当たりなさい。女なんて星の数、、、、、」と言って慰めますけどね。

  4. 源智平朝臣 のコメント:

    29番歌の凡河内躬恒、30番歌の壬生忠岑とも古今和歌集の撰者に抜擢され、没後には三十六歌仙にも選ばれたほどの一流の歌人であるのに、官位は六位止まりで低い官職にしか就けなかったというのは何だか可哀想な気がします。和歌は平安貴族の重要な知識・教養のバロメーターで、勅撰和歌集が編まれたほか、天皇が主催する歌合もあったにも拘わらず、彼らに高い官位や官職が付与されなかったのは不思議とすら感じます。現在でも和歌がそんなに重要だったら、政府(文部科学省)は歌の名人に文化庁の幹部や大学の学長・教授といった役職とか文化勲章とそれに伴う年金などを与えて、社会的にも経済的にも厚遇したのではないでしょうか。これは、百々爺が指摘するように、当時は漢文・漢詩が上位で、新興分野の和歌はまだ位置付けが定まっていなかったためでしょうか。

    百々爺の解説にあるように、壬生忠岑は藤原定国の随身(SP)を勤めていました。この定国は25番歌の藤原定方の兄です。彼らの両親は(25番歌の解説とコメントに登場する)あのロマンティックな出会いと再会の末に結ばれた藤原高藤と宮道列子です。高藤と列子の間には2人の娘もいました。その一人は既に登場した宇多天皇女御で醍醐天皇の生母となる長女の胤子で、もう一人は次女の満子です。生まれた順に整理すれば、胤子、定国、定方、満子ということになります。

    末っ子の満子は姉の胤子同様に天皇のお妃候補にもなれるかもしれない高い身分のため、自由に恋することもできない境遇にありました。以下はネット情報で真偽のほどは不明ですが、杉田圭作の漫画「超訳百人一首 うた恋い」によれば、そうした我が身を嘆いた満子は「一夜で良いから恋をしたい」と思い詰め、身分を隠して忠岑に文を送りました。察しの良い忠岑は相手の素性も分かった上で、満子の誘いを受け、しっかりと恋人役を演じて、満子が欲した以上の素晴らしい時間を与えたとのことです。ちなみに、漫画では忠岑は超イケメンでカッコ良い男性として描かれており、満子との一夜の恋物語もそれはロマンティックで素敵なお話になっているようです。やはり、あかつき時の別れは憂きものだったでしょうね。

    後半はゴシップ週刊誌の記事のような投稿で済みません。最後に、これは本当の話ですが、その後、満子は醍醐&朱雀天皇に尚侍として仕え、女官として一生を終えたとのことです。

    • 百々爺 のコメント:

      1.古今集編纂時代(900年ころ)の和歌の位置づけはまだ漢詩・漢文ほどではなかったのだと思います。これは平仮名の発展・定着と軌を一にしているのじゃないでしょうか。大和ことばを平仮名を使って書く、これで和歌が確たるものとして地位を得るようになっていった。平仮名が最初に公的文書に現れたのは勅撰集である古今集だったとのこと(wiki)。そして和歌の地位を決定づけたのは紀貫之の古今集仮名序だったと思います。あの格調高い和歌論(それも勅命による)があって誰しも「これからのリテラシーは和歌だ」と思ったのじゃないでしょうか。

       →和歌ができる人が尊ばれる。何か英語ができないとボロクソに言われる現代と似てる気がしませんか。別に算数ができなくても何も言われないのにねぇ。

      2.藤原満子と壬生忠岑のお話、ありがとうございます。「ゴシップ記事の中に真実あり」でしょうから。何せ満子もワイルドロマンスで結ばれた両親の娘、作り話にしても面白いと思います。こういう説話があっての30番歌なら心にじ~んと来るんでしょうが。

       →満子は醍醐・朱雀朝で尚侍ですか。当然お手もついたのでしょうね。

  5. 文屋多寡秀 のコメント:

    世間の意見が分かれるというのは、神代の昔から世の常ということでしょうか。今国会で、国論を二分している「安保法案」ほどではないにしろ、30番歌も意見が大きく分かれておりますな。

    「実事後の後朝の別れ」か「実事に至らなかった無念の朝の別れ」か。つれなく見えたのは人か、月かあるいは両方か。
    当ブログでさえも、重きの置き方に差があるようです。
     1.古今集の部立てからすれば「逢わずして帰る恋」・・枇杷の実 説。(人)
     2.定家&現代の解説本は圧倒的に後朝の別れ説・・百爺説。(月)

    「六百番歌合」(暁恋題四番)を見ると、右方が人説・藤原有家。左が月説。判者の俊成は人説で見ており「ひとのつれなかりしより、暁ばかり憂きものは無しと云へる也」と述べ、この当時、月説は劣勢であったとのこと。
     しかし定家は父俊成の説には従わず、六条家の月説を支持していた。
    定家は後朝の別れの哀愁(人事)と無情の月(自然)とを対比構造としてとらえ、かえってその月に中性的官能美(浪漫と妖艶と余情)の世界を感じ取っていたのではないでしょうか。勅撰集の配列意識とは異なる百人一首の歌としては、このように解釈したい。とはいつもの吉海直人氏(百人一首で読み解く平安時代)。

    さて貴方はどちら派(説)?

    「白鳳展」以来、月光菩薩像の「中性的官能美(浪漫と妖艶と余情)」に、日夜うなされております多寡秀としましては、文句なしに「後朝の別れ説」をとります。

    • 百々爺 のコメント:

      色々よく読み込まれており感心します。解説本を読み歌を何度も復誦し自分で考え自分の感性を信じる、、、これだと思います。安保法案じゃあるまいしどちらでも自分の納得する=自分が好きな方を採ればいいんじゃないでしょうか。

      古今集の並びから言って詠者の意図は「逢わずして帰る恋」にあったのでしょう。俊成までの解釈がそうであったのは当然として頷けます。それを敢えて定家は違う解釈「逢っての後朝の別れ」説を唱えた。日本歌道の家元を自負する定家の敢然たる挑戦ではないでしょうか。更に言えば自分を高みにおいやる一種のスタンドプレーかもしれません。
       →家元のカリスマ性を形つくるには恰好の歌だったのでしょう。
       →なんぼなんでも「これ程の歌一つ謡出でたらむ、この世の思ひ出に侍るべし」は言い過ぎ。違和感を感じます。

      (余計なお節介ですがそろそろ月光菩薩の腰のひねりは忘れた方がいいんじゃないでしょうか)

  6. 浜寺八麻呂 のコメント:

    久しぶりに読み直した”揺れ動く貴族社会”(川尻秋生)によれば、古代では漢文が文章であり ”国を納め、家を治めるは文より善きはなし”といわれ、漢文・漢詩はまぎれもなく政の一環であったと書かれています。また百々爺や源智平さんが述べているように、29番歌の凡河内躬恒、30番歌の壬生忠岑の時代は、移行期とはいえ、いまだ漢文・漢詩が公的には中心の時代であったと言えます。

    そんな中、爺が書いているが、

    平仮名が最初に公的文書に現れたのは勅撰集である古今集だったとのこと(wiki)。そして和歌の地位を決定づけたのは紀貫之の古今集仮名序だったと思います。

    と。その通りまさに時代の転換期であったと思います。

    そのような時代に生きた、躬恒や忠岑が、歌の名士であり歌壇で大々的にもてはやされながら、政治的・身分的評価が伴わず、経済的にも恵まれず、世を悩み落胆していろいろ書いていることも、評価のGAPが大きかったこの時代のなせる業であったのだと思います。

    躬恒の嘆きは29番歌でコメントしましたが、忠岑も老境に入り、内裏の一番外まわりの警護を担当する右衛門府生に転任されたのを左遷と感じ、

    かくはあれども てる光 近き衛りの 身なりしを 誰かは秋の くるかたに あざむき出でて みかきより 外の重もる身の みかきもり おさおさしくも おもほえず 

    と心の打撃を告白している、と目崎徳衛氏が述べている。

    古今和歌集の選者二人の心の嘆きを聞くと、歌壇で華々しく生きた二人の、切ない声が聞こえてき、歌の影に隠された生き様があることに気づかされます。

    • 百々爺 のコメント:

      緻密な分析ありがとうございます。

      万事が身分社会であった当時、皇族やトップ貴族の藤原家にしてみれば漢詩・漢文の菅原家、大江家や和歌の躬恒、忠岑らは所詮はある種特殊技術の専門家に過ぎないという位置づけでしょう。和歌の技術は尊ぶし勅撰集の撰者にも任命したがそれは所詮プロフェッショナルスタッフとしてであり、トータルとしての身分(官位)を上げさせるほどのものではない。そういうことかと思います。躬恒や忠岑が不遇をかこつのも分からないではないですが甘くはないのです。
       →そして結局は和歌リテラシーを藤原北家が取り込み政治の道具にさえして行ったという図式でしょうか。

  7. 小町姐 のコメント:

    余談12 (飛鳥ハイキング)

    降り続いた雨も何とか止みハイキング日和である。
    「彼岸花咲き誇る飛鳥 古代文化の里へ」キャッチフレーズに魅かれてのフリーハイキング。
    思えば飛鳥にあこがれたのはNHKの朝ドラ「あすか」が始まった時、あれから15年もたってようやく念願がかなったわけです。
    先ずはは飛鳥歴史公園館がスタート地点、資料収集と予備知識を仕入れて高松塚古墳へ。
    こんもりした丘のような緑に覆われた大規模な古墳を初めて見た。
    壁画館には古墳からの出土品や鮮やかな壁画が展示されている。
    文武天皇陵を脇に見ながら「天上の虹」の珂瑠皇子を想う。
    頼りない皇子で母や祖母をやきもきさせたが父、草壁皇子の血を引いたのか?
    でも大宝律令を制定したのだからやはり立派な天皇だったのだろう。

    コースの道標マークを見逃さないよう注意しながら歩く。
    結構アップダウンのきつい朝風峠を抜けて稲淵の棚田に到着。
    棚田の畦道を演出する彼岸花の群生を見ながらおにぎりをほおばりしばしの休憩をとる。
    棚田の稲はまだ青々としているがちゃんと稲穂をつけている。
    両脇には大小さまざまな案山子ロードが続く。
    工夫を凝らした案山子たちがユニークな表情で迎えてくれる。
    巨大な案山子もお目見えしちゃんと作品名と作者も表示されているのが面白い。
    案山子のオンパレードなんて初めて見るのどかな光景である。
    奈良には棚田が多い、やはり盆地と言う地理的条件から平野のようにはいかないのだろう。

    飛鳥川にそって石舞台古墳を目指す。
    玉藻橋を渡ると大きな芝生広場が現れその中心にあるのが石舞台古墳である。
    石室の中に入ってみたがこの巨大な石を古代人はどのようにして運んだのだろう
    まるで日本の原風景にタイムスリップしたような錯覚にとらわれる。
    道路の所々に万葉歌碑があるが風雨にさらされて文字が石と共に風化して読みにくい。
    竹林と林道を通り抜け岡寺を眺め坂を下ればゴール地の飛鳥寺迄はもう一直線。
    途中ふと瀟洒な建物を見つけ覗いてみたら犬養万葉記念館とあるではないか。
    今回のコース外ではあるがラッキー。
    時間に余裕があったので立ち寄り館内の方と話が弾んでしまう。
    犬養先生の資料が豊富である、元南都銀行の建物が町に寄贈されこの記念館になったとの事。
    なかなか落ち着ける空間で長居してしまった。
    「天上の虹」が全巻そろっていて読みたくなったがあきらめ次の「酒舟石」を見るため坂を上る。
    間もなく最終ゴール地点飛鳥寺へ、バスが待機している。
    曽我馬子が築いたとされる日本最古の寺院で本尊飛鳥大仏が見られるという。
    そこで思いもかけない出会いが待っていた。
    Hodakaさん、こと万葉さんである。大きなサプライズの再会であった。
    さすが奈良在住ですべてに詳しく飛鳥寺周辺を案内していただいた。感謝、感謝。
    首塚を見て大化改新に思いを馳せ、飛鳥中に鳴り響くようにい思いっきり鐘を撞いてみた。

    「飛鳥」まるごと歴史の大舞台であったのが嘘のようにのどかな田園風景が広がっていた。
    百々爺さんが春に行かれた飛鳥とほぼ同コースである。
    hodakaさんのブログ、奈良暮らし「一日一句」に詠まれてきた風景や名前の一部が現地を訪れてようやく一致した感じがする。
    甘樫の丘から大和盆地の全貌を眺めてみたかったが時間が足りなく残念ではあったが長年の思いと憧れが叶った8キロのハイキングは心地よい疲れと思い出を残してくれた。
    まだまだ奈良は見どころがいっぱい。
    「やまとしうるわし」である。

    • 在六少将 のコメント:

      昨日はお疲れさまでした。
      朝風峠、稲渕、岡寺とアップダウンのきついコースをよく歩かれましたね。電動自転車で回ってもかなりきついコースです。とくに朝風峠は急で長いしいきなりでは大変でしたね。
      前日のコメントで飛鳥へいらっしゃると知ったので、バスハイクなら駐車場の関係で最後はきっと飛鳥寺だろうとにらんで境内に入ったらドンピシャで、自分ながら驚きました。お声を掛けたときのキョトンとされているお顔がいまでも思い出されます。
      お疲れだろうと思ったので、甘樫丘には無理にお誘いしませんでした。次回はぜひお声をかけてください。じっくりご案内させていただきます。

    • 百々爺 のコメント:

      詳細なる飛鳥ハイキングレポートありがとうございます。

      飛鳥の地図で行程を見せていただきましたがすごいコースですね。体力もさることながら小町姐さんの情熱に敬服です。まだ青い稲の穂波を背景にした彼岸花の鮮烈な赤はさぞ見事だったことでしょう(「一日一句」のヘッド写真が素晴らしい)。

      自然も愛でながら歴史散策をする、飛鳥はその最たるところでしょう。東京近辺にそんなコースがあったらウチのハイキング幹事も楽なんでしょうがねぇ。

      小町姐、飛鳥で在六少将と再会! よかったですねぇ。
      (ひょっとしたら17在五中将は9小町と飛鳥で逢ってたのかもしれません)

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