35番 トップ歌人貫之、 初瀬の梅を詠む

百首も三分の一を過ぎ爺の雑記ノートも2冊目に入りました。誰もが知っている大物歌人紀貫之の登場です。話に花を咲かせましょう。

35.人はいさ心も知らず古里は花ぞ昔の香ににほひける

訳詩:    あなたはさあ いかがでしょうか。
       あなたの心ははかりかねます
       でもこの見なれた懐かしいふるさと
       さすがに花は心変りもせず
       昔ながらに薫って迎えてくれていますね

作者:紀貫之 868-946 79才(長生き) 五位 古今集撰者(リーダー)
出典:古今集 春上42
詞書:「初瀬に詣づるごとに、宿りける人の家に、久しく宿らで、ほどへて後にいたれりければ、かの家の主人、かくさだかになむ宿りはある、といひ出して侍りければ、そこに立てりける梅の花を折りてよめる」

①紀貫之 
・父は紀望行(と言っても無名だが) 母は内教坊の妓女だった
 内教坊(朝廷内の舞踏音楽研修所、いわば国立の宝塚みたいな所(田辺))
 →母の芸能人の血は貫之の人格形成に少なからず影響を与えたのかもしれない。

・紀氏については33番紀友則&18番藤原敏行の項参照

・もう一つ、先日31番歌の項で源智平どのに紹介いただいた論文によると、
 「紀氏は坂上田村麻呂の坂上家と並ぶ部門の家で貫之の五代の祖船守は恵美押勝の乱に武功をたてた桓武朝の功臣であった」

 →整理すると紀氏は名門だが貫之の世代政界では既に没落氏族だったということか。

・紀貫之 中央では御書所、少内記、大内記といった文書官吏 地方官としては越前、加賀、美濃、土佐の諸官を歴任(最後の土佐は土佐守) 五位にまで出世
 →芸(歌)が身を助けたということであろうか。

②歌人としての紀貫之
・古今集に101首、勅撰集に435首
 →古今集撰者のリーダーだったとは言え古今集1111首の1割近い数はすごい。
  これでもかという感じ。貫之の強烈な自負が窺える。

・25藤原定方、27藤原兼輔の庇護のもと26藤原忠平にも認められ18藤原敏行、19伊勢、28源宗于、29凡河内躬恒、30壬生忠岑、31坂上是則、33紀友則、36清原深養父らとも交流を持つ。
 →和歌の絶対的権威者(wiki)として君臨した感があるがいかがでしょう。

・何と言っても古今集仮名序がすごい。
 (29番歌凡河内躬恒の所で議論しました)

 冒頭 やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。

 それにしても六歌仙(と後に崇められるようになった)に対するこきおろし方は強烈。一部だけだが、

 僧正遍昭は、歌のさまは得たれども誠すくなし。
 在原業平は、その心あまりて言葉たらず。
 文屋康秀は、言葉たくみにて、そのさま身におはず。
 僧喜撰は、言葉かすかにして、初め終りたしかならず。
 小野小町は、あはれなるやうにて、強からず。
 大伴黒主は、そのさまいやし。

 →女性の小町にはやや遠慮が見えるが他の5人にはまるで喧嘩売ってるみたい。

 貫之は自身の歌を評するとしたらどう書くんでしょうねぇ。
  貫之は、歌のさまよけれども心通はず。いはば依頼人に媚びる歌の売人のごとし。
  →なんて言ったら怒られるでしょうね。

・歌合せの題詠や屏風絵に添える屏風歌が圧倒的に多い(貫之集約千首の内半分以上が屏風歌とのこと)公的な晴れ舞台での歌やら個人的な慶賀の歌やら。
 →皇族や大貴族は争うように貫之に歌の注文をしたのではないか。
 →「貫之」と言うだけで歌は売れた。ブランドってそんなものでしょうね。

・土佐日記を著した。
 934年4年間の土佐での勤め(土佐守)を終えて京への帰途55日間の出来事を綴った紀行文(虚構も交えた)。57首歌あり。ほとんどが平仮名。日記文学の草分け。
 男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり
 →仮名文字で文章を書いたのは貫之の土佐日記が始まり。
 →女として書いている。「屈折した感情の持ち主だったらしい」(白洲正子)
 →まあそれほどでもないのでは。

・数えきれないほどある貫之の有名歌から列挙すると(何れも古今集)、
 袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらん
 霞たちこのめも春の雪ふれば花なきさとも花ぞちりける
 さくら花ちりぬる風のなごりには水なき空に波ぞたちける
 色も香も昔のこさににほへどもうゑけん人のかげぞ悲しき 
 吉野川いはなみたかく行く水のはやくぞ人を思ひそめてし

 →理知的・分析的・合理的・秩序整然、、、ということらしい。

③35番歌について 人はいさ心も知らず古里は花ぞ昔の香ににほひける
・長い詞書 
 宿の人は男か女か →まあ女(愛人ではないにせよ)とした方が面白いでしょう。
 宿は初瀬か奈良のどこかか →そりゃあ、初瀬の椿市でしょう。

・長谷寺の十一面観音 長谷寺信仰は当時から根強い。
 長谷寺の登廊入口に35番歌ゆかりの梅が植えられている。

・自然に比べての人の心の移ろいやすさを詠んだもの(通説)
 →女の心は「あら、お久しぶりねぇ、お変わりなくって」くらいの軽い気持ちじゃなかったろうか。軽い挨拶代りのやりとりでいいのでは。
   
・家人の返歌は(貫之集)
 花だにも同じ香ながら咲くものを植ゑたる人の心知らなむ

・梅 万葉集時代は花と言えば梅だったが平安時代では花と言えば桜になっている。
 百人一首で梅が詠みこまれているのは35番歌だけ。

④源氏物語との関連
・紀貫之は源氏物語に2ヶ所で実名で登場する。
 1.桐壷9.
  亭子院の描かせたまひて、伊勢、貫之に詠ませたまへる、大和言の葉をも、唐土の詩をも、ただその筋をぞ枕言にせさせたまふ
  →最愛の桐壷更衣亡き後、桐壷帝は伊勢や貫之の和歌や長恨歌で心を慰める。

 2.絵合6.「竹取物語」の絵が登場
  絵は巨勢相覧、手は紀貫之書けり
  →竹取物語の絵の詞書を貫之が仮名で書いたものが実在してたのだろう。

・初瀬椿市は右近が玉鬘に巡り合うところ(玉鬘7.)
 →源氏物語屈指の名場面

 二人の歌の贈答、喜びがほとばしる。
  ふたもとの杉のたちどをたづねずはふる川のべに君をみましや(右近)
  初瀬川はやくのことは知らねども今日の逢ふ瀬に身さへながれぬ(玉鬘)

 →長谷寺へ行かれたら「二本の杉」(登廊入口付近を右に)をお見逃しなく。

・時を経ての人の心の移ろいが話題となるのは、須磨・明石での謫居を経ての帰京後源氏が末摘花や花散里を訪ねる場面(上坂)
 →そりゃあそうかもしれないが、末摘花も花散里も源氏にはほったらかしにされてたわけで心変わりしてても仕方ないところでしょう。
 (勿論二人とも光源氏さま一筋なのですが)

松風有情さんから35番歌の絵をいただきました。
 http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2015/08/KIMG0222-2.jpg
 →有情さん、ありがとうございました。コメントもよろしくお願いします。

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16 Responses to 35番 トップ歌人貫之、 初瀬の梅を詠む

  1. 小町姐 のコメント:

    イエッ~イ、待ってました!! 古今集編纂のリーダー紀貫之の出番です。

    この談話室が始まるまでは紀貫之の名前は「土佐日記」の作者としか知識がありませんでした。
    従ってかの有名な古今和歌集「仮名序」さえ知らなかった小町姐です。
       難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花
    この歌も「ちはやふる」の漫画を通して談話室で知ったわけです。
    六歌仙に対する強烈な言葉もここまで来るとむしろ痛烈痛快さえ感じます。
    今ではすっかり古今集のファンになってしまいました。
    和歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなりける。に始まる仮名序を読んだ時は衝撃と感動で心が震えました。
    そして70歳になるまで紀貫之のことを何も知らなかったことに愕然としわが身を恥じました。
    紀貫之のことも追々知る事になり今回の登場に至った次第です。

    この35番、歌の良し悪しは別として古今集101首、勅撰集に435首も入首しているのは歌人多しといえども紀貫之がトップなのではないでしょうか?
    「人はいさ」という始まりはあっと驚くとても斬新な初句だと思います。
    物の本ではこの35番歌はあまり評価されていないようですが私にはそうも思えません。
    人の心はたえず変わるものであるが花はいつも変わらぬ姿で迎えてくれると・・・
    わかりやすくてこういう遊び心でもって歌の贈答をする王朝人の風流はおっとりと和ませてくれます。
    移ろいやすい人間に対していつもそこに存在する自然、「人は変われど我は変わらじ」凛とした存在は日常的にも理解できます。
    私の中では故郷の象徴の山、矢頭さんとイメージがダブるのです。
    両親亡きあとの故郷は時に空しく感じるのですが常に変わらぬ堂とした姿に慰められます。
    ちょっとオーバーな受け止め方かもしれませんね・・・

        花だにも同じ心に咲くものを植ゑたる人の心知らなむ
    家人の返歌も粋で洒落ていてこういうやりとりは素敵です。
    そしてここは絶対奈良の初瀬で花は梅と信じたいですね。
        色も香も昔の濃さににほへども植ゑけむ人の影ぞこひしき
    これも宿の主を偲んだ挽歌のように私には聞こえ、初瀬の海柘榴市そして長谷寺に続く参道の景色が鮮やかに浮かび上がってくるのです。
    と同時に源氏物語、二本の杉や玉蔓、右近へと続いていくのです。

    松風有情さま
    貫之と梅の花、拝見しました。冴えていますね。
    和歌絵本源氏物語 玉蔓の場面と背景が二重写しになります。

    • 百々爺 のコメント:

      きめ細かい読後感想ありがとうございます。

      1.改めて考えるに、古今集を編纂し(古今のやまと歌を精選、カテゴリー別に並び替え、詞書をつけ)序文で和歌論を展開した紀貫之の功績はとてつもなく大きいと思います。古今集のお蔭で和歌は文学として教養として人格表現そのものとして不動の地位を確立した。やはり貫之が長生きしたのが大きい。長らく和歌の大家として君臨しやがては絶対的権威、カリスマ的教祖にまでなっていった。教祖はフラフラしていてはダメ、自信を持って範を垂れる必要がある。かくして古近序の論調は過激なまでになったのではないでしょうか。

      2.35番歌&貫之集で見る貫之と初瀬の家人(女性でしょう)とのやりとりは一編の短編小説を思わせますね。古今集にしては詞書が随分長い。この長い詞書のお蔭で色んなストーリーが想像できる。詞書をつけたのも勿論貫之自身、これも編纂者の特権でしょうね。

      3.故郷は変わらないものの象徴、正しくそうですね。それは心の中でずっと生き続けているからでしょう。津へはほんの時々にしか帰りませんが帰る度、街並みは変わっても万事何も変わってない津を感じ安らかな気持になります。

      4.私も昨年末ご一緒に訪れた雨の長谷寺を思い浮かべています。

  2. 松風有情 のコメント:

    http://100.kuri3.net/wp-content/uploads/2015/08/KIMG0223.jpg

    次は35番歌貫之と決めていましたが、今回私事に何かと忙しくギリギリ間に合いました。
    ふるさとは故郷ではなくひらがなにすれば良かったかなと思いましたが、『古里』とはなかなかいいですね。

    川柳は我が家の母と猫を詠みました。

    母はいさ お歳も知らず
    幼少期

    猫はいさ ニャ~しか知らず
    意味不明

    追記
    名古屋での結婚式に参列し、熱田神宮に立ち寄りましたが、宝物館には時間外で間に合いませんでした。残念!

    • 百々爺 のコメント:

      お目出度ごとでお忙しいようでけっこうですね。絵、ありがとうございます。

      詞書の通り梅の花を折って手に持ってるところがいいですね。段々と腕を上げているように思いますよ。もっともっと画いて腕を上げてください。お願いします。

      川柳もなかなかいいじゃないですか、母上も猫ちゃんも大事にしてあげてください。

  3. 百合局 のコメント:

     安東次男は、35番歌について「世故に長けた人をそらさぬ贈答歌であろう。おまえの色香もまだ抜けていないと、女あるじを適当にからかっている。達者な軽口である。作者はそれをたぶん小町の『いろ見えでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける』という恋の歌を下に敷いてさりげなく四季の歌に移してとぼけて見せる」と書いています。

     謡曲『養老』にある「袖漬ちて掬ぶ手の影さへ見ゆる山の井の」は古今、春上、貫之の「袖ひぢて掬びし水の氷れるを春立つ今日の風や解くらん」からとっています。

     謡曲『蟻通』にある「逢坂の関の清水に影見ゆる月毛のこの駒を引き立て見れば」は拾遺、秋、貫之の「逢坂の関の清水に影見えて今や引くらん望月の駒」からとっています。

     謡曲『烏帽子折』にある「逢坂の関路の駒の後に立ちて」も同じ歌からです。

     謡曲『芦刈』にある「雨に着る田蓑の島もあるなれば露も真菅の笠はなどかなかるらん」は古今、雑上、貫之の「雨により田蓑の島を今日行けど名には隠れぬものにぞありける」からとっています。。

     謡曲『親任』にある「わが宿の物なりながら桜花散るをばえこそ留めざりけれ」は新古今、春下、貫之の歌をそのまま引いています。

     謡曲『羽衣』にある「春霞棚引きにけりひさかたの月の桂の花や咲く」は後撰集、春上、貫之の「春霞棚引きにけりひさかたの月の桂も花や咲くらん」からひいています。

     謡曲『龍田』にある「年ごとにもみぢ葉流る龍田川湊や秋の泊りなる」は古今、秋下、貫之の「年ごとにもみぢ葉流す龍田川湊や秋の泊りなるらん」を引いています。

     謡曲『融』にある「君まさで煙絶えにし塩竈のうら淋しくも見え渡るかな」は、古今、哀傷、貫之の歌をそのまま引いています。

     謡曲『桜川』にある「桜花散りにし風の名残りには水なき空に波ぞ立つ」は古今、春下、貫之の「桜花散りぬる風の名残りには水なき空に波ぞ立ちける」を引いています。

     謡曲『昭君』にある「散りかかる花の木蔭に立ち寄れば空に知られぬ雪ぞ降る」は拾遺、貫之の「櫻散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける」を借りています。(昭君の身の上を散りかかる花にたとえてなげく)

    • 百々爺 のコメント:

      1.貫之は868-946 79才まで生きましたが35番歌は何才で詠んだのでしょうね。古今集が905年ですからまあ30台でしょうかね。まだ若い時で、昔を懐かしんでのことではないでしょう。男女ともまだまだお盛んなりしころの歌だと思うのですが。。。
       →この歌の贈答のお蔭でまた縒りが戻ったのかもしれませんね。

      2.貫之の歌、そんなに謡曲に引用されていますか。さすがですね。逆に貫之の歌を題材に、貫之の歌から発想して作られたお話もあるかもしれませんね。
       →35番歌「人はいさ」は引かれてないのですか、面白いものですね。

  4. 浜寺八麻呂 のコメント:

    松風さん、梅と貫之の絵、なかなかいいですね。特に、貫之が後ろ姿で歌を詠んでいるところが、この歌にピタットきて決まっていますね。

    さて、いよいよ紀貫之、古今和歌集選者のリーダー登場。29番歌にてコメントしましたが、その後直ぐ図書館で”古今和歌集”を借り、WEBでの原文に続き”仮名序”の解説を読みました。小町姐さんと同じく、 小生も今回が”仮名序”とのとても遅い初の出会い、いや興味深い面白い歌論にて、紀貫之の偉大さに感じ入りました。これぞ、談話室に参加していないと味わえなかった、醍醐味ですね。

    ”百人一首の作者たち”(目崎徳衛)によると、

    三条右大臣(藤原定方 25番歌)、中納言兼輔(藤原兼輔 27番歌)と、この二人の庇護を受けた貫之、身分のへだたりを越えた三人の交わりとして、”後撰集”巻3に以下贈答歌があると紹介している。

    やよひのしもの十日ばかりに、三条右大臣、兼輔の朝臣の家にまかりて侍りけるに、
    藤の花さける遣り水のほとりにて、かれこれ大御酒たうべけるついでに、

    限りなき名に負ふ藤の花なれば、そこゐも知らぬ色の深さか  三条右大臣
    色深くにほひしことは藤浪の たちも返らで君とまれとか   兼輔朝臣
    さほさせど深さも知らぬ藤なれば、色をば人もしらじとぞ思ふ  貫之

    琴・笛などして遊び、物語などし侍りけるほどに、夜ふけにければまかりとまりて

    昨日見し花のかほとてけさ見れば、ねてこそさらに色まされけり 三条右大臣
    ひと夜のみねてしかへらば藤の花、心とけたる色見せんやは   兼輔朝臣
    あさぼらけしたゆく水はあさけれど、深くぞ花の色はみえける   貫之

    ”聖代”と呼ばれた時代に相応しい、王朝文化全盛期の華やかさと穏やかさと和みを感じさせる風情・やり取りがあり、”源氏物語”もこういう時代の風流を何十年か後に思い浮かべて、道長の時代に重ね合わせて書いたのではないかと思わせられる場面である。

    しかしその後、菅原道真が大宰府に左遷され、死後怨霊が出る世の中となり、貫之が
    土佐に赴任中、宇多法皇、醍醐天皇、三条右大臣、中納言兼輔が相次ぎ世を去り、
    26番歌の藤原忠平の時代へ、土佐より帰任した老境の貫之(爺が書いてくれているが長生きした)は、官給はらでと嘆き、忠平に

    思うこと心にあるをあめとのみ、頼める君にいかで知らせん

    と詠っている(これも、目崎氏)と。
    これで、24番・25番・26番・27番・35番歌が完全に繋がりました。

    今年6月はじめ、比叡山延暦寺を訪れたとき、偶然、紀貫之のお墓を見つけたことは、このブログにも書きましたが、紀貫之は比叡山が気に入っていたようです。
    調べてみると、

    比叡に登りて、帰りまうで来てよめる

    山たかみ見つつわが来し桜花 風は心にまかすべからず
      (古今集 87番)

    があります。

    爺が貫之の代表歌を挙げてくれていますが、小生は

    春の野に若菜つまむと来しものを 散りかう花に 道はまどひむ (古今集 118番)

    も、なんだかいろんな歌を繋ぎ合わせたようではあるが、好きです。

    最後に、初瀬、長谷寺、小生も一回きりしか行っていないのですが、この紀貫之といい、源氏物語がらみといい、賛同が得られれば、談話室打ち上げ会でぜひ皆さんといってみたいところです。

    • 小町姐 のコメント:

      浜寺八麻呂さまの提案に大賛成!!
      頃は長谷寺の牡丹の見ごろ、丁度談話室が終了する時期ではないでしょうか?

      • 百々爺 のコメント:

        八麻呂さん、小町姐さん 早くも「談話室完了記念旅行」へのご提案ありがとうございます。候補地の一つとしておきましょう。

    • 百々爺 のコメント:

      すぐに図書館へ行き本を取り寄せ勉強する。ドンドン拡がっていく筈ですね。素晴らしい。

      1.本当に次々と人物が繋がっていくところが楽しいですね。それにしてもさすが和歌の絶対的権威者(wiki)として君臨した紀貫之、人物相関図の幅広さは群を抜いていますね。長生きしたことも大きいでしょうね。

      2.後撰集にある主(兼輔)客(定方)従(貫之)の歌の唱和、ご紹介ありがとうございます。二人の藤原が藤の花を愛でお互いに慶賀し合う。従の貫之はそつなく藤原の二人を持ち上げる。
       →おっしゃる通り王朝絵巻たるべき一場面だと思います。

      3.そうですか、友則が時平に官職を訴えたように貫之も忠平に訴えたのですか。でも友則の時は40才ちょっとでまだ職がなかった、一方貫之は(土佐から帰任した後だとすると)既に70才近いですよ。
       →和歌の絶対的権威者でいいじゃないですかねぇ。でも貫之の年譜を見ると確かにその後官職も得て位も従五位上に上っています。やるものですね。

      4.紀貫之と比叡山ですか。覚えておきます。

  5. 在六少将 のコメント:

    閑話休題、雑談という感じで聞いてください。

    33番紀友則で触れておけばよかったのですが、紀氏の話です。
    ルーツは名の通り紀州にあるわけですが、その後奈良の北西部平群(へぐり)にも一族が棲みついたと言われています。
    話変わって、65番能因法師の歌にある「三室の山」はいわゆる「三室」「三諸」「御諸」「神奈備」の山で神が宿る場所をさします。この三室の名を冠した山が竜田川の畔にこんもりとした丘を形成しています。頂には法師供養の五輪塔があります。
    さて、本題ですが、この丘から大和川にかけての南部一帯の字が「神南(かんなみ)」となっています。ある日散歩してたら、山裾のどこの家の表札も「紀」なのです。
    斑鳩町の中でも竜田川西岸から自宅のある辺りに欠けては平群氏の本貫地だったので、紀氏の流れを組む一族がその南部、竜田川西岸の一画に暮らしていたようです。昔ならこの辺りは大水が出るとすぐに冠水するような場所で、僅か2,30メートルの丘の裾にしがみついていたように見えます。

    • 百々爺 のコメント:

      興味深い紀氏の話ありがとうございます。ヤフーの拡大地図で見ていたら三室山(82M)のふもと竜田川のほとりに紀工業所というのが出ていました。なるほど、紀さんばかりですか。

      当地あたりにも古くからの地主・農家で独特の苗字の家(大作とか酒巻とか)がかたまっているところありますが、せいぜい江戸時代くらいからでしょう。1300年も前の奈良時代から続いている家なんて本当に気が遠くなります。まさに感動的ですね。

  6. 枇杷の実 のコメント:

    人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける
    美しい花に寄せて人情の機微を巧みにとらえ、平明に読んでいる、と古今和歌集の解説にある。人の心と花を対比的にとらえ、あてにならない前者に対して後者は不変であると言って、相手の恨みごとをひねりかえすような機知をはたらかせた、当意即妙の挨拶歌だとか。
    この有名な歌、最初に読んだ時には「人はいさ心は知らず」で、人間の心は変わる、年を経れば男はなおさらと・・・、人とは貫之自身のことで、相手のやっかみをサラリとかわしたものと解釈しました。
    花だにもおなじ心に咲くものを植ゑたる人の心しらなむ」(貫之集)の返歌が有ると知って、やはりこの人とは宿の主(女)で、中年男女の応酬(田辺聖子)と見るべきだとか。この返歌も貫之の作かも知れないが。

    力も入れずして、天地を動かし、眼に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり」と仮名序に書くように、貫之は歌作に絶大な自信がある。
    貫之の歌は勅撰集に435首も入集されており、人生の大半を歌詠みに励んだ。
    「屈折した感情の持ち主だったらしい」(白洲正子)というが、日本最初の歌論「仮名序」、最古の和文日記「土佐日記」を著わした平安の大文豪的存在で、たんなる和歌おたくではない。

    故里となりにし奈良の都にも色はかわらず花はさきけり(古今集、奈良の帝)
    平城天皇が退位後、嵯峨天皇と不和になり、奈良に移ってからの歌で、貫之が参考とした。

    阿古久曽の心も知らず梅の花(芭蕉)
    貫之(阿古久曽は幼称)のように「人の心はいざ知らず」ということはなく、伊賀上野では梅の香は言うまでもないが、人も幼友達もみな昔のままに暖かく迎えてくれる。貫之の古歌と芭蕉の俳諧の際立った対称性がおもしろいとの説明書きにあり。

    • 百々爺 のコメント:

      色々と読み解いていただきありがとうございます。

      ・時が経つと「人間は心変わりをする」けれど「花(自然)は変わらない」
       心変わりをする人間はけしからん、、、という論調でしょうか。
       逆説的に考えるとそんなの当たり前かもしれません。人間と花とが同じわけはない。人間と人間との関係は時に応じ場合に応じ変わっていくのがむしろ自然でそれこそ人間の人間たる所以。いつまでも同じでは成長がないし窮屈になるだけ。お互い気持ちを変えることができるのが人間のいい所かもしれません。
       →あくまで反論のための反論ですが。。。

      ・芭蕉の俳句、面白いですね。北村季吟を師匠に俳諧を学んだせいか芭蕉には古典(源氏物語、平家物語、百人一首等)に因んだ俳句が多い。これなどもそうですね。「つらゆきの」と言わず「あこくその」言ったところがミソでしょうか。
       →でもこれって俳句でしょうかね。ためいき会に投句したら1点も入らないと思います。

  7. 源智平朝臣 のコメント:

    古今集の編纂者で、平安歌壇のスーパースターである紀貫之の登場というのに、ケニア時代の友人との泊り掛けゴルフを始めとする諸々の予定に追われて出遅れてしまい、先ほど(10/7夜7時)漸く35番歌についての手元の解説書と百人一首談話室の記事を読み終えました。皆様の関心が35番歌から36番歌に移りつつある時なので、コメントの投稿を止めた方が良いのではとも思いましたが、談話室の記事で触れられていないものの、皆様に知ってもらいたい事柄が2つほどありますので、簡単にコメントしたいと存じます。

    第1は紀貫之が当時は中国文化の影響下にあった日本の文化を国風文化に転換する先導役を果たしたことです。紀貫之が活躍したのは宇多・醍醐両帝の時代(887-930年)ですが、この約40年間は天皇親政の時期で、「宇多・醍醐両天皇のいちじるしく文化主義的な傾向が、結果として、中国文化の強い影響下にあった日本文化に大きな転回点をつくったといえるのであり、その要の役を果たしたのが、『古今集』の成立という出来事だった」(大岡)のです。古今集は紀貫之が中心となって編纂したものであり、彼が国風文化への転換の先導という歴史的な役割を果たしたと言っても過言ではないでしょう。

    第2は紀貫之が(特に老年期に)大いなるフラストレーションを抱いていたと推測されることです。橋本武は「紀貫之は文学史上不朽の名声をとどめているのに、在世中の官位は低迷していた。このアンバランスが常に彼の心の『しこり』となっていたに違いない」と指摘し、その根拠として土佐日記に出て来る「影見れば波の底なるひさかたの空漕ぎ渡るわれぞわびしき」という歌を挙げています。歌の意味は「水に映る影を見ると波の底にも空がある。その空を漕ぎ渡って浮かび上がれない私は本当にやりきれない」という不遇を嘆くものであり、この歌は確かに「生活に満足している人の詠む歌ではない」(橋本)という気がします。「屈折した感情の持ち主」(白洲)という指摘もこの辺から来ているのかもしれません。

    紀貫之が官位の低迷に対してフラストレーションを抱いていたにしても、日本が誇る和歌文化の礎を築くという大仕事を成し遂げたのですから、彼が偉大な人物であることには間違いはないと言えます。最後に、明治政府は紀貫之のフラストレーションに同情したのか、明治37年に従二位を贈った(Wiki情報)ので、天国にいる彼は今やフラストレーションを感じることもなく、百人一首談話室を楽しんでいるのではないかと思われます。

    • 百々爺 のコメント:

      色んな仲間と好きなゴルフを楽しむ(楽しめる)、いいですねぇ。智平どのが現役時代頑張ってきたご褒美でしょう。ますます腕に磨きがかかりますね。次回対決が楽しみです。

      お忙しい中、コメントいただきありがとうございます。この生真面目さこそが智平どのの真骨頂でしょう、、、(と持ち上げて、談話室への参加を強要する、、。爺もワルですねぇ)

      2点のコメント、さすがにポイントをついてますね。起き抜けで余り調べもせず直感で返信させていただきます。

      1.国風文化への転換の大立役者
        なるほど、古今集=貫之をそういう位置づけで評価することができますね。納得です。嵯峨帝の系統とはいえ傍流だった光孝-宇多-醍醐が(結果的とはいえ)唐風化→国風化へのかじ取りをやったことになるわけですからね。そうすると立役者は漢学者でありながら遣唐使の停止を提案した菅原道真と古今集を編纂した紀貫之ということになりますかね。
       
       →イフですが、遣唐使を続け唐との国際関係を重要視し唐風化政策を続けていたら日本はどうなっていたのでしょう。考えてみるのも面白いかもしれません。

      2.官位の低迷によるフラストですか。厄介なことですね。貫之が古今集を編纂したのはまだ若かりし30代。土佐守を終えて帰京したのが66才、亡くなったのが79才。う~ん、ちょっと長生きし過ぎましたかね。頭も老化してたのかもしれません。学者の道真が右大臣にまで昇った例はあるにせよ、また若くして成し遂げた古今集編纂が大偉業だったにせよ、当時の官位制(能力主義でなく家柄世襲制が原則)からすれば五位がせいぜいだったのでしょうか。
        →人間、欲をかけばきりがない。ほどほどがいいのかもしれません。
        →明治政府がいきなり従二位を贈ったってのは何か特別な理由があるのでしょうかね。飛び級にしてもちょっと不思議です。

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