40番 右方 平兼盛 ~~忍ぶれど~~

39番歌は賜姓源氏(源等)そして40番歌は賜姓平氏(平兼盛)。源平が「忍ぶれど」でつながっています。それにしても「平兼盛」っていかにも武将の感じ、恋を詠む歌人となかなか思えませんでした。

もう一つ40番歌と41番歌(壬生忠見)は天徳歌合で勝負を争った歌として有名。どの解説書でも二つの歌はセットとして述べられている。定家が隣り同士に並べたのも歌合からでしょう。

晴儀歌合の典型で後世の模範になったとされる歌合についてまとめておきましょう。
【天徳内裏歌合せ】=天暦の御時の歌合とも呼ばれる
・時:天徳4年(960年)3月30日 16:00~夜を徹して
・場所:内裏 清涼殿
・主催者:村上帝(当時35才 インテリで芸術を愛好し歌も詠んだ) 
・題目:霞、鶯2、柳、桜3 、山吹、藤、暮春、首夏、郭公2、卯花、夏草、恋5 計20番
・登場歌人:
 左方:藤原朝忠(7番)壬生忠見(4番)大中臣能宣(3番)源順(2番)坂上望城(2番)少弐命婦(1番)本院侍従(1番)
 右方:平兼盛(11番)中務(5番)藤原元真(2番)清原元輔(1番)藤原博古(1番)
・判定者:藤原実頼(忠平の長男当時左大臣)その補佐に源高明(大納言)
  (※源高明 醍醐帝の第十皇子(村上帝の兄)歌人(後撰集10首 勅撰集22首)
    969安和の変で失脚 大宰府に配流 光源氏のモデルとも目される)
・結果: 左方の11勝4敗5分 
    (平兼盛は4勝5敗2分、壬生忠見は1勝2敗1分)

・天皇、后、公卿たちが全員衣裳をこらし見つめる中での歌合せ。歌人は勿論、読みあげ人も判定者も単なるお遊びを越えて必死だったはず。 

 →題は1ヶ月前に示されたとのことだが誰が決めたのだろう。
 歌人のラインアップはどう決められたのだろう。兼盛は11番も出ている。いくら何でも偏り過ぎではないか。左右両陣営で予選でも行われたのであろうか。
 →疑問点は多々あるものの天暦の聖代を象徴する大国家イベントであったことに間違いはない。

さて、前置きが長くなりました。40番歌です。
40.忍ぶれど色に出でにけり我が恋は物や思ふと人の問ふまで

訳詩:    胸のうちに秘め隠し 忍びに忍んできた恋なのに
       あわれ面にまで出てしまったか
       「恋わずらいをなさっておいでか」
       そう人から興味ありげにたずねられるほどに

作者:平兼盛 生年未詳~991 光孝天皇系 五位 三十六歌仙 後撰集時代の代表歌人
出典:拾遺集 恋一622
詞書:「天暦の御時の歌合」

①平兼盛 光孝帝の玄孫(やしゃご=曾孫の子)臣籍降下し平姓を賜与される
 受領階級 最終官位は従五位上駿河守 80才近くまで生きた
 →卑官に甘んじたと言われるがまずまず公平な所ではなかろうか。 

 兼盛のエピソード
・例によって官位役職を得ようと申文で朝廷に訴えている。
  一国を配する者は、その楽しみ余りあり。金帛蔵に満ち、酒肉つくえにうずたかし。況や数国に転任するをや。諸司に老ゆる者は、その愁ひ尽くる無し、、、、、。
   沢水に老い行くかげを見るたづの鳴く音雲井に聞こえざらめや

  →これで70才にして駿河守を手に入れた。受領の役得の程が知れる文章である。

・59赤染衛門(やすらはで)は平兼盛の娘との説あり。
 兼盛のモト妻が赤染氏と再婚し赤染衛門を生んだ。兼盛はモト妻は離婚したとき既に子を孕んでおり父親は自分だと訴えたが認められなかった。
 →どっちなんでしょう。まあ父親の実感を信じ兼盛の子と考えておきましょう。

②歌人としての平兼盛
・後撰集時代の代表歌人 後撰集2~3首 拾遺集38首 勅撰集計約90首 三十六歌仙
 漢文にも通じていた。

・大和物語によると平兼盛は何人もの女性に歌を詠みかけている。
 第56段 藤原兼成の娘に
  夕されば道も見えねどふるさとはもと来し駒に任せてぞ行く(後撰集恋)
 第57段 平季長の娘に
  をちこちの人めまれなる山里に家居せむとは思ひきや君(後撰集恋)
 第58段 陸奥の娘に
  みちのくの安達の原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか(拾遺集雑)
 →官位は低かったが皇室に繫がる風流貴公子であり女性にはもてたのだろう。

・他に兼盛作とされる歌 後撰集より
 けふよりは荻の焼け原かきわけて若菜つみにと誰をさそはむ(後撰集春 大和物語第86段)
 雨やまぬ軒の玉水かずしらず恋しきことのまさる頃かな(後撰集恋)

③さて肝心の40番歌 忍ぶれど色に出でにけり我が恋は物や思ふと人の問ふまで
・じっと胸に秘めて隠していた恋心が顔色に出てしまった。
 →歌合のために一ヶ月もかけて考えてきた訳で実話に基づく歌ではない。
 でもよく思いが込められた歌だと思う。現実感あり、体験に基づくものだろうか。

・技巧の歌と言われるが調べはいいしリズミカル、好きな歌である。

・天徳の歌合 20番勝負の20番目 左方が忠見の41番歌
 この時の判定の模様はどの解説書にも詳しい。
 判定者(藤原実頼、源高明)は迷ったが村上帝の顔色を伺い40番兼盛の勝ちとした。
 →兼盛は雲にも昇る気持ちであったとか。
 →でもそれまでに兼盛は既に10番戦って3勝5敗1分け、既に負け越している。
 →忠見は3番戦って1勝1敗1分け。それこそ勝ち越しをかけて大一番だった。

・40番歌の本歌とされている歌 
 思ふには忍ぶることぞ負けにける色にはいでじと思ひしものを 古今集恋503 よみ人知らず 

④源氏物語との関連
・「忍ぶ恋」源氏物語では一に藤壷との恋、次いで朧月夜との恋でしょうか。

 源氏 逢ふことのかたきを今日にかぎらずはいまいく世をか嘆きつつ経ん
 藤壷 ながき世のうらみを人に残してもかつは心をあだと知らなむ
  →寝所に忍び入る源氏、必死に逃れる藤壷(官能シーンです)(賢木16)

 朧月夜 木枯の吹くにつけつつ待ちし間におぼつかなさのころもへにけり
 源氏 あひ見ずてしのぶるころの涙をもなべての空の時雨とや見る
  →源氏の訪れを促す朧月夜からの歌。積極的だった朧月夜。

・天徳歌合をモデルとした「絵合」については41番歌のところで。

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9 Responses to 40番 右方 平兼盛 ~~忍ぶれど~~

  1. 小町姐 のコメント:

    源平の「忍ぶれど」つながりですか。
    この歌は次の41番と対になっており歌の良し悪しよりもそのエピソードの面白さで有名になっているようですね。
    その元になった帝主催の「天徳内裏歌合せ」の解説ありがとうございます。
    数々の映画を見ていますが時代劇でも「歌合せ」の場面は見たことがないので勝手に華やかで真剣勝負の場面を想像しておりますがそうそうたるメンバーですね。
    題も一か月前から示され歌合せはいやがうえにも盛り上がったことでしょう。
    登場する歌人たちも最高のお洒落をして我こそはと張り切ったのではないでしょうか。

       忍ぶれど色に出でにけり我が恋は物や思ふと人の問ふまで
    この気持ちはよくわかります。誰しもが大なり小なり経験のあることではないでしょうか?
    老若、恋の成就にかかわらずその思いは表情や態度に表れるものです。
    たとえ海千山千の恋の達人であろうと初心な素人であろうと恋のときめきは純情そのもの。
    恋患い、人間らしくていいですね。
    プレイボーイ光源氏だっていつもときめいていたし「色に出でにけり」でしたよね。
    表情どころか源氏の場合はもう黙っておれれなくて云わずもがなの事まで打ち明けるのでした。
    兼盛像がおぼろげながらも色々浮かんできます。
    ルーツは光孝天皇、官位は低いがさらに上を目指す上昇志向の恋多き男。
    80歳の長寿、歌も多く勅撰集に多数入首している。
    逸話も多くとてもエネルギッシュな男が見えてきます。
    何より次の41番歌との「天徳歌合」でのエピソードが印象的です。
    どちらの歌が好みであるかよく問われる所ですが皆さんの好みをお聞きしたいものです。
    次の41番歌で比較してみたいですね。

    • 百々爺 のコメント:

      ・天徳内裏歌合の記事はどこに載ってるのでしょう。よく分からないことが多いのですがこれだけの大イベント、裏に表に相当な人間ドラマがあったことでしょう。映画化できないですかね。主役は兼盛、忠見、朝忠として女性陣は中務もいるし本院侍従もいる。判定役の実頼と源高明も重要。坂上是則の息子で後撰集撰者の坂上望城がいるのも面白い。村上帝の妃たちや女房たちの彩りも添えて。三谷幸喜さんあたりにやってもらえませんかね。

      ・ほんとに光源氏は正直な男でしたね。おっしゃる通り我慢ができない。恋すればすぐ「色にでてしまい」すぐ行動に移す。空蝉・夕顔・末摘花・朧月夜。そして藤壷の場合も慎重ながらチャンス到来(1回目は物忌みの日、2回目は病気で里に下がった途端)とあらば即行動。源氏の辞書には「忍ぶ」という言葉はなかったのかもしれません。
       →一つ明石の君に対しては即日乗り込むようなことはせずけっこう我慢して恋の駆け引きをしてましたけどね。

      ・そうですね、40番・41番何れに軍配を上げるのか41番のところで判定をくだしてもらうことにしましょう。

  2. 浜寺八麻呂 のコメント:

    歌合わせでの即興歌とばかり思っていましたが、一ヶ月間考え抜いてできた歌なんですね。知りませんでした。技巧的で熟考した歌の感がありますが、それでも非常にうまく恋思いの気持ちを歌っており、調べも心地よいものがあります。

    この歌のこと、また作者については、爺がうまくまとめてくれており、書き足すことがありませんので、爺が最後に書いている

    ④源氏物語との関連
    ・「忍ぶ恋」源氏物語では一に藤壷との恋、次いで朧月夜との恋でしょうか。

    について;

    今週爺から、”東京女子大で講義を聞いている若菜は、どこまで進んでいますか”との質問を頂きました。明石の入道が、明石の女御の男子出産を知り、明石の君に手紙を送り、明石の尼君・君・女御が泣きあい、源氏もこの手紙を読み、過去の因縁を知るという名場面をやっており、来週から六条院の蹴鞠に話が移ります。

    4月から若菜上が始まり、18回目で、イントロなどもありましたので、実質15回でここまで来ました。わりとゆっくりした進行のため、自分でも読み直し、今井 久代先生の熱のこもった話を聞き、源氏物語の面白さを改めて噛み締めています。

    2週間前の講義で、丁度、源氏と藤壺、朧月夜の話となり、

    泥の中に咲くから蓮は美しい  (宣長)

    源氏の栄光は、周囲を傷つけて成り立つ、源氏自身も傷つきつつ  (学生感想)

    の紹介が先生よりあり、蓮の話を出典を含めもう少し詳しく知りたいと質問ボックスに入れたところ、昨日講義冒頭で、詳細を講義してくれました。

    泥の中の蓮
       本居宣長 源氏物語玉の小櫛 おおむね

     さて物語りは、もののあわれを知るを旨としたるに、その筋にいたりては、儒仏の教えには、背けることもおおきぞかし。
     そは、まづ人の情の、ものに感ずることには、善悪邪正さまざまある中に、ことわりに違へることには感ずまじきわざなれども、情は、我ながら我が心にも任せぬことありて、自ら忍び難きふしありて、感ずることあるものなり。源氏の君の上にて言はば、空蝉の君・朧月夜の君・藤壺の中宮などに心をかけて逢ひたまへるは、儒仏などの道にて言はぬには、世に上もなき、いみじき不義悪行なれば、他にいかばかりのよきことあらむにても、よき人とは言ひ難かるべきに、その不義悪行なるよしをば、さしてたてては言はずして、ただその間の、もののあわれの深きかたを、かえすがえす書き述べて、源氏の君をば、旨とよき人の本として、よきことの限りを、この君の上に取り集めたる、これ物語の大旨にして、そのよき悪しきは、儒仏などの書の善悪と変はりあるけぢめなりけり。
     さりとて、かの類の不義をよしとするにはあらず。その悪しきことは、今さら言はでもしるく、さる類の罪を論ずることは、自らその方の書どもの、世にここらあれば、もの遠き物語を待つべきにあらず。物語は、儒仏のしたたかなる道のように、迷ひを離れて悟りにいるべき法にもあらず、また国をも家をも身をも修むべき教えにもあらず。ただ世の中の物語なるがゆゑに、さる筋の善悪の論はしばらく差しおきて、さしも拘わらず、ただもののあわれを知れる方の良きを、取り立てて良しとはしたるなり。この心ばえを物に喩えて言はば、蓮を植ゑて愛でむとする人の、濁りて汚いくはあれども、泥水を蓄ふるがごとし。物語に不義なる恋を書けるも、その濁れる泥を愛でてにはあらず、もののあわれの花を咲かせん料ぞかし。

    以上ですが、爺など先刻ご存知とは思いますが、小生は、是も初めて読み、実に良い解説だと、目からうろこ的に、感心しています。
    従い、長くなりましたが、ご存知ない方に紹介させていただいています。

    この文を読んでの小生の感想;

    源氏物語を読み終え、クールダウンで人物評価をしました。
    その際、源氏物語は、大好きで特秀、源氏は秀、と小生も皆さんと同じ見解であったと思っています。でも好き嫌いでは、大好きという皆さんとは異なり、好きにしかなれないと書いたと思います。自分自身が源氏になりたいとまでは思えないからでした。
    宣長の小櫛のこの文を読み、泥の中の蓮とは、けだし名言。自分が源氏を大好きにまでなれないのは、こういうことか、そのように評価する人間もいてよいのかなと思った次第です。

    • 百々爺 のコメント:

      ・源氏物語に浸っているようですね。素晴らしい。
       若菜上は「源氏四十の賀」「女三の宮降嫁」「朧月夜との再会」と来て「明石物語の謎解き」が終わったところですか。これから蹴鞠の「柏木物語」となると3月までには若菜上下は終わりませんね。まあじっくり精読するのもいいのでしょう。若菜はなんぼ時間をかけてもかけすぎることはないと思います。また「柏木物語」に入ったらレポートしてください。

      ・玉の小櫛 泥中の蓮 ご紹介ありがとうございます。この文は初めて読みました。宣長先生のもののあはれ論、さすがいいこと言ってますねぇ。

       源氏物語での光源氏の行状のハチャメチャは多分どの時代においても頭から肯定できるものではないでしょう。特に儒教やら朱子学やらが主流を占めた江戸の武士社会にあっては許すまじき書であったと思います。貞女二夫にまみえずの世の中、不倫などもっての他だったことでしょう。明治になると皇統の紛れを扱った源氏物語は一部禁書扱いになる。

       現代は性倫理が大分おおらかになったとは言え勿論「悪いものは悪い」のであって不倫など許されないと思う良識派が大多数でしょう。

       そんな中「もののあはれ」を持ち出しどんなに制約のある社会でも「人の心に戸は立てられない」ことを論じたのが宣長ということでしょうか。

       縛りを超越し心の赴くままに行動する源氏、そしてそのつけも一人で受け止めなければならない源氏、、、好きと嫌いが交錯するのが光源氏だと思います。

  3. 百合局 のコメント:

    安東次男は次のように書いています。一つの見方としてあげておきます。
     しゃれた技巧の歌であるが、古今集に「おもふには忍ぶることぞまけにける色にはいでじと思ひしものを」という読人しらずがあり、また奥儀抄が盗古歌証歌として引く「恋しきをさらぬがほにて忍ぶれば物や思ふと見る人ぞ問ふ」(集・作者とも不明)があってみれば、それらを小手先でつなぎ合せたにすぎないようにも見える。

     世評とは異なりますが、どう考えるかはそれぞれ自由ですからねえ。

     百々爺が書いていますが、大和物語56、57、58、86段に兼盛の話や歌があります。それを読むと兼盛の人柄がほの見えて面白いです。

     謡曲『定家』にある「人の契りの色に出でけるぞ悲しき、包むとすれど徒し世の徒なる中の名は洩れて」は拾遺・恋一、平兼盛の「忍ぶれど色に出でにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで」に基づいています。

     謡曲『江口』にある「わが宿の梅の立ち枝や見えつらん思ひのほかに君が来ませる」は、拾遺集、春の平兼盛の歌を引いています。

     謡曲『羅生門』にある「陸奥の安達が原にあらねども籠もれる鬼を従へずはふたたびまた人に面を向くることあらじ」は拾遺、雑下、平兼盛の歌「陸奥の安達が原の黒塚に鬼こもれりといふはまことか」に基づいています。

     謡曲『黒塚』にある「陸奥の安達が原の黒塚に鬼籠もれりと詠じけん」は、同上の歌によっています。

     謡曲『二人静』にある「見渡せば松の葉白き吉野山、いく重積もりし雪ならん」は拾遺、平兼盛の歌「見渡せば松の葉白き吉野山幾代積れる雪にかあるらん」によっています。

    • 百々爺 のコメント:

      ・そうですか、安藤次男は評価していないんですね。40番41番は歌合せのエピソードの方が喧伝されそれを快しとしない見方があるのでしょうか。本歌取りに文句をつけてしまったら王朝和歌などみな盗古歌になってしまうのではないでしょうか。つなぎ合わせかもしれませんがどうつなぎ合わせるのかが匠の技だと兼盛を弁護しておきましょう。

      ・兼盛の歌、謡曲に人気があるようですね。陸奥のむすめを鬼に例えた文を贈ったりユーモアにも富んだ面白い男だったのかと想像されます。

  4. 源智平朝臣 のコメント:

    天徳歌合は和歌をマスゲーム(集団遊戯)にして勝ち負けを競って楽しもうという試みですね。これもオランダの歴史学者ホイジンガが唱えた「遊戯を楽しむのは人間の本質であるというホモ・ルーデンス(遊戯人)の人間観」の妥当性を証明する一つの証左かもしれませんね。実は源智平は今日ビリヤード・トーナメント2回戦の試合があり、ホモルーデンスとしてその練習や戦略検討で百人一首どころではなかったため、またもや時期遅れのコメントになってしまいました。そう、源智平はビリヤードに加えて、ゴルフ、ブリッジ、そして俳句でさえも勝ち負けや点数を競って楽しむというホモルーデンスの人間観に沿った生活をしているため、あれこれと忙しいのです(但し、俳句の方は参加が大切というオリンピック精神で続けているといった方が正確ですが・・・)。

    平兼盛は百々爺の解説のとおり、三十六歌仙の一人で、勅選集に約90首も選ばれているという当時の代表的な歌人だったようですね。ネットで「平兼盛伝記考」(藤岡忠美)という論文を見つけましたが、彼は(37番歌で解説がある)「梨壺の5人」の一員に選ばれて良いほどの歌人であったものの、職業歌人に没し切れない異質性や多様性(例えば、歌物語の主人公になった、沈思苦吟して他を憚らない型の歌人だった、リアルで楽天的な個性の持ち主であった)のために、梨壺には入らなかった旨の分析がありました。彼は陸奥にも下向しており、爺の解説にある大和物語第58段「陸奥の娘に」の歌に出て来る「みちのくの安達の原の黒塚」は、かつて読書会でやった「奥の細道」の「浅香山」にも登場したことを懐かしく思い出しました。

    最後に、百々爺and/or百合局さんによる説明を期待しての質問があります。平兼盛は駿河守に任命される前も無役ではなく、任命直前まで大監物(だいけんもつ)という中務省の役職に14年間も就いていたようですが、こうした京官の収入(報酬)はどの程度のものだったのでしょうか。受領の収入よりは格段に少ないにしても、「荊棘庭に生へ、煙火炉に絶ゆ」(平兼盛)のような貧しい生活を余儀なくされるほど少ない収入だったのでしょうか。

    • 百々爺 のコメント:

      ホイジンガと来れば「中世の秋」でしょうが智平どのには「智世の春」を満喫されているようで誠にけっこうです。ビリヤードってその場その場の対策かと思ったのですが戦略検討もあるのですね。どうぞ競い合いに疲れたら談話室で疲れを癒してください。

      ・何故兼盛は梨壺の五人(後撰集撰者)に選ばれなかったのか。論文の紹介ありがとうございます。お説の通り兼盛の個人の資質に問題があったのでしょうね。後撰集の勅が出たのは951年、兼盛が圧倒的な主役を務める天徳歌合せは960年ですからその間名誉を挽回したのでしょうか。

       梨壺の五人の天徳歌合の出番数&成績は、

       兼盛 11番 4勝5敗2分
       
       能宣  3番 1勝0敗2分
       源順  2番 2勝0敗
       望城  2番 0勝1敗1分
       元輔  1番 0勝1敗

       圧倒的に兼盛の方が上(それだけ買われていた)ですから。

      ・奥の細道安積山の所ご指摘ありがとうございます。
       芭蕉は兼盛のこの歌も知っていたのですね。大したものです。

      ・京官の収入(報酬)はいかほどであったか。源氏物語関連でけっこう関連書読みましたが京官の収入・受領の収入に焦点をあてたものは記憶にありません。私も知りたいところであり宿題にさせてください。官位により相当の傾斜があり一位・二位なんてのは破格だったのだと思います。例えば兼盛が従五位上で大監物についてたとして同じ位階で駿河守になったら収入はどうなるのか興味あるところです。多分受領としても地方勤務の場合、どの国によるかでも違うし受領本人の蓄財に対する心構え・やりかたなんかでも違ってきたのでしょう。それと京と地方では使う経費が違うでしょう。地方へ行ったら何事も安いし使い道も限られているから蓄財はできたでしょう。一方京では上司への貢物やら付き合いやらでえらくお金がかかったのではないでしょうか。
       →単なる想像でありますが。
       →それにしても兼盛も晩年駿河守になって喜んでるし、42清原元輔は79才で肥後守(熊本ですぞ)。そんなもの望みますか。ホモ・ルーデンスの人間観からは遠い生き方じゃないでしょうか。

  5. 文屋多寡秀 のコメント:

    週末にかけて三重に行ってました。22日の津の同窓会コンペ「紫陽花会」にも参加してきました。いつの間にやら参加者が増え、6組24名参加の予定が2名程体調不良やらなんやらで不参加。それにしても盛況この上ありません。初参加にしてシングルハンディとか強兵増で、またしても入賞のチャンスは遥かな状態。まあ年に2回ほどですが19番ホールの賑わいは何時もの通り。来春・鳥羽のアラコキ同窓会にゴルフをくっつけるかを検討しているようです。

    さて40番歌と41番歌を比較した場合、貴方はどちら派か?
    それぞれに意見の分かれるところでありましょうが、多寡秀としましては?
    詳しくは再開後に。皆様のご意見を楽しみにしています。

    暫らくは「あるじ」不在の談話室ではありますが、投稿諸氏のフリーな会話がはずめばなおよいのかなと思ったりしています。入院中の百々爺の慰みになるかもしれません。

    以上は身辺雑感ですので、百々爺のコメントも一切無用ですので、入院最優先で対処願います。 

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