百人一首の解説本には必ず成立について(いつ誰がどのように選んだか)の解説が載せられています。勿論それは重要であり知っておきたいところです。ところが大筋はともかく細かいところになると諸説紛々、未だ定説はないようです。まあ我々素人は細かいところなど気にせず気楽に大筋だけ捉えておけばいいでしょう。
ちょっとまとめると
「藤原定家(1162-1241)が鎌倉時代初期(1235以前)に勅撰集の中から一人一首づつ計百首を選んだ。その後、娘婿宇都宮頼綱の依頼で小倉山荘の障子絵を作りその百首を色紙に書きつけた。これが小倉百人一首である」(定家の日記「明月記」を信じて)
まあ、こんなところでしょうか。
①藤原定家については次項としますが、偉い人です。百人一首の産みの親、源氏物語の育ての親であります。
②100という数字がいい。百人一首の対象となっている古今集~続後撰集で収録歌数は12,170首。この中から100人100首を選ぶのは大変だったろう。でも後世に残ると意気に感じ嬉々として選定作業に没頭したのではなかろうか。
③百人一首に先行するものとして同じく定家撰の百人秀歌があるが顔ぶれが若干異なっている。百人秀歌の時は折しも承久の変(1221)の時であり政治的配慮から99番後鳥羽院、100番順徳院を入れることができず、ほとぼりがさめてから百人一首に入れられた、、、とされている。
→左様に百人一首は政治的産物であったと言えよう。
→勅撰集の重みは別途考えたいがその勅撰集からベスト100を選ぶなどどえらいこと。
→定家も大胆不敵な男である。
④定家はどのような観点から百人百首を選んだのか。先ず百人の人選、次いで何故その歌が選ばれたのか(有名でない歌も多い)そして順番。これらについては様々な疑問が投げかけられ謎解きも多く行われている(「絢爛たる暗号」織田正吉、「百人一首の秘密」林直道など)。
→爺も両方ざっと読みました。個人的な解釈としては面白いと思います。ただ押し付けられるのはゴメンといったところでしょうか。
→定家も真剣に撰歌したのでしょうが結構個人的好き嫌いで奔放にやったのではないでしょうか。
⑤百人一首が小倉山荘の障子絵とのパッケージで伝えられているところが面白い。歌と絵との取り合せ。これが後世プロの歌人だけでなく広く貴族・武家に広まり江戸時代に至っては諸々の異種百人一首なども作られた要因ではなかろうか。
→源氏物語が絵入りで作られたようなものではないか。
百人一首の成り立ち、改めて復習させていただきましてありがとうございます。
私自身も数日前ほどから白州正子の「私の百人一首」を寝る前にパラパラと読んだりしております。
そこでふと気付いたことがあります。この文庫本のカバー写真です。
読み札の歌が変態仮名で上の句だけになっています。
中の文章の写真もすべてが上の句のみです。
我が家の60年ほど前の古かるたでは読み札(絵札)は和歌の全文が旧仮名使いで、取り札には下の句がこれも旧仮名使いで印刷されておりいかにも安物の感じです。
更に白州本の序文を読んでみました。
白州正子のかるたはどうも由緒ある物のようです。
「読み札には奈良絵のような素朴な絵と上の句が、取り札には浅黄地に金で霞をひいた上に、下の句を書き裏には金箔が押してある。」 とありました。
どの時代から百人一首がかるたになったのかは調べてないのでわからないのですがこの文庫のカバーのように読み札が上の句だけしか書いてないとすれば読み手は全ての和歌を諳んじていなければなりませんよね。
更に変態仮名では素人にはお手上げです。
このかるたは実用的なものではないのかもしれませんが百々爺さんはどのように思われますか。
気になって仕方ないのです。~
朝っぱらからろくでもないことを考えている小町姐です。
どうかこの疑問を解決してください。
いい話題をふっていただきありがとうございます。
1.白洲正子の「私の百人一首」取り出してみました。この序文「六十の手習 序にかえて」はすごい格調の高い文章ですね。改めて感心しました。
「六十の手習とは、六十歳に達して、新しくものをはじめることではない。若い時から手がけて来たことを、老年になって、最初からやり直すことをいう、、」
→昔興味があったけど時間もなく深入りできなかった。そういう分野に没頭する、、これこそリタイア後の知的生活のあり方でしょう。
「歌と書は不可分のものであり、それに絵が加って、百人一首という一つの世界をかたちづくっていた」
→そうだ、書(習字)の大事さを忘れてました。書をされてる小町姐さん、変体仮名とすぐ気づかれましたか。さすがです。
2.かるたの由来、ちょっと調べてみました(ちょっとです)。まとめると、、。
①百人一首がかるた(読み札を読んで取り札を取る2枚一組のカード)として出はじめたは17世紀半ばくらいか。元禄頃には製本技術の発達で徐々に庶民まで広がっていった。
→まあ、芭蕉、西鶴の頃からと思っておきましょうか。
②最初は貴族、大名の嫁入り道具(飾りみたいなものか)。次いで大奥や遊郭などの教養、暗記カードとして普及してくる。読み札には絵と上の句のみ、取り札には下の句のみ。即ち全体を憶えていないと札が取れない、そういう遊びであった。
→大奥や遊郭での教養の競い合いみたいに使われたのでしょうか。
③それでは庶民までは行きわたらない。明治になって歌を暗記してない者も楽しめるようにと読み札には下の句まで書かれるようになった。
(「大まかな見分け方としては、読み札に上の句だけしかないものが明治以前で、一首全部あるのが明治以降のかるたということになります」-「百人一首への招待 吉海直人)
まあ、そんな所でしょうか。おっしゃるように白洲正子所蔵の歌留多では変体仮名だしとても実用的とは思われません。(絵を見ると天智も持統も平安衣裳ですね。絵柄についてもまた考えてみます)
開店早々、千客万来で喜ばしいことです。
更にお客様が増えて侃々諤々、百人一首談義ができるといいですね。
小学生のお孫ちゃんまで登場で子どもの目から見た百人一首に対する思いや考えを聴けるのも興味深いです。
60の年齢差を越えて語りあいたいですね。
さて私の疑問にさっそく解答して下さってありがとうございます。
納得です、スッキリしました。
明治以前、以降が目安と覚えておけばいいわけですね。
白州正子の本を読むまで全く気付きませんでした。
以前に読んでいるにも関わらずです。
源氏で精いっぱいだったのかもしれませんね。
今回少しは百人一首に関する興味が湧いてきた事の表れだとすればこれもうれしい発見です。
白州正子についてピンポイントです。彼女はエッセイストとして数々の著作を残していますが、「能面」「かくれ里」では読売文学賞を受賞するほどで、文章からは能などの古典芸能や文士との交流で培われた知性・感性に裏打ちされた品格を備えたかおりが漂ってきますね。
とくに「かくれ里」では四分の一が奈良の里に触れられていたので貪るように読んだものです。
また、以前に住んでいた所から武相荘には近かったのですが、未だに行ったことがないのが悔やまれます。
この辺りには「三輪」とか「奈良」という土地があり、昔に大和の人たちが移住してきた証だと指摘しているのも目から鱗の思いでした。この辺りから鎌倉街道などをハイキング、吟行するのもいいかと思いますよ。
白洲正子の作品、以前に何冊か読みました。
その時「武相荘」あたりを入れてハイキングと思ったのですが、好みの問題もあり、メンバーみんなに声かけするのはどうかなと・・
数人で出かけるのならいいですよね。確か小田急線の「鶴川」で降りればいいのですよね。
来週会うので聞いてみることにします。
この辺りのこと「一日一句」2012.3.11で応酬していますね。白洲正子の「鎌倉街道を歩く」読み直しておきます。
百々爺&皆さま
楽しみにしていたブログ開設、ワクワクしてきます。
源氏物語のときは、三ヶ月遅れで参加したため、ウオーミングアップは飛ばした形となりましたが、今回は初めからです。
爺の上記”百人一首”の成立の解説、小生には頭の整理もでき、改め勉強になりました。”読み進めについて”で16冊の百人一首直接の参考本を挙げていますが、歴史書など含め相当読み込んでいるなと思う次第です。
小町姐さんの疑問には小生では答えられませんので、爺の返事を待って頂くとして、骨董好きの友人から”文士と骨董”という本を借り読みました。武相荘という白州正子の旧家に先般行った時も心に通うものがある骨董品を置いているなと関心したのですが、この本によると青山二郎という超骨董好きの薫陶を受け、小林秀雄とかと骨董の勉強もし談義にも花を咲かせたそうで、大変な目利きのようです。
骨董とは、鑑賞するなどとは異次元の世界で、先ずは所有し(ここが大事)、我がものを愛しく抱きかかえる、使って愛するものとのことで、見た白州正子の収集品もすごいなと思い直しました。
鑑賞ではだめらしいのですが、それでも小田急線にある武相荘は、一見の価値ありです。
なお、メールで書きましたが、屋号は、小生が幼稚園から高校まで育った浜寺が高師の濱と同じところ(正確には隣?)なので、NBR72の歌より借りて命名しています。
浜寺八麻呂どの
ご登場お待ちしてました。高師の濱、万葉集来の歌枕の地ご出身でしたか。源氏の時よりもっと気楽に参加いただければと思います。
武相荘、HP見せてもらいました。白洲次郎・正子、大したご夫妻ですね。機会あれば行ってみたいです。
白洲正子は何冊か文庫本読みました。西行とか。円地文子と源氏物語の対談してるのも面白かったです(「古典夜話」新潮文庫)。それくらいなので白洲正子への話題は他のみなさんにお任せしたいと思います。
織田正吉「絢爛たる暗号」僕も読みました。百人秀歌と百人一首との違いなどもかなり書いてありましたね(今、手元に本がないので確実なことは言えないけど)。後鳥羽上皇、順徳院との関係(愛憎半ばするような感情、特に後鳥羽院に対して)についても詳しく述べられていたような。しかし、百人一首が定家の式子内親王への恋情をこめた暗号だったという結論はどうも眉唾的な……であります。皆さんが百人一首に初めて接した頃の話なども楽しく読ませていただきました。そのうち、僕の場合もお話しようと思います。
九代目仁王どの
馳せ参じていただきありがとうございます。何やら意味ありげの屋号ですね。爺は先日聞きましたがみなさんにはさっぱり分からないのではないでしょうか。先ずは説明責任を果たすようお願いします。
「絢爛たる暗号」お手元にありませんか?そりゃあそうでしょう。爺の手元にありますもん。もう5年も前になりましょうか、霞が関の中華料理屋で百人一首について論じ合いましたね。その頃爺の手元に移ったものです。愛用させてもらってます。
何でも知ってる(知らなくていいことまで)仁王どの、公序良俗に反さない限りコメントの自由は保障します。奇抜な仁王ワールドを展開してください。
屋号の謂れですか。九代目は九世代重なったで「九重」、仁王は「にほふ」、好きな歌の一つ61番 伊勢大輔「いにしえの 奈良の都の……」からです。百々爺とは高校1年で同級生になった時以来のお付き合い。爺は当時からもちろん秀才でしたが、すでに「こいつホントは中年なんじゃないか」と思わせるような落ち着いた大人の雰囲気でしたよ。
白洲正子なんて知らないから、調べてみたら、何と白洲次郎夫人なのですね。ご承知のように、白洲次郎は占領時代に吉田茂の側近として活躍した人物です。GHQ某要人が彼を「従順ならざる唯一の日本人」と評したように、彼はGHQに対しても主張すべきことは主張する勇敢な人物でした。また、真偽のほどは確かではないけれど、白洲次郎は「マッカーサーを怒鳴りつけた男」としても有名になったようですね。
などと、百人一首には関係のない与太話をしている内に、ためいき句会の選評結果の発表時間になったので覗いてみたら、何と三茶宗匠こと百々爺が断然トップで2015年2月例会の優勝を飾っていました。百々爺さん、重ね重ねおめでとうございます。この分では、来週のなごみ会ゴルフコンペの優勝も百々爺に持って行かれそうですね。
えっ、白洲正子なんて知らない、、、。ウソでしょう。白洲次郎夫人にして第一級の文化人ですよ。今すぐアマゾンで「私の百人一首」(新潮文庫)を取り寄せるようお勧めします。(1円中古はないようですが)。歌の各論もさることながら序文とあとがきだけでも十分値打ちがありますよ。
俳句の結果驚きました。でも句会の点数は他人任せ、ゴルフこそいいスコアを出したいものなんですが、、、。おてやわらかに。
初めまして。
皆様に倣いまっさんを改名し松風有情で参加致しますのでどうか宜しくお願いします。
ようこそ!
「松風有情」ですか、考えましたね。「松風」は明石の君だし蕉風にも通じるし、素晴らしい。
身をかへてひとりかへれる山里に聞きしに似たる松風ぞ吹く(明石の尼君)
源氏の時と同様、絵に挑戦されてはどうでしょう。百人一首絵。源氏は2年間で54枚でしたが百人一首は1年で100枚になりますから全部は難しいでしょうが、これと思ったものピックアップされたらいいと思いますよ。
確かカルタでは大半が人物画でしたのでちょっと苦手かな。
何か絵になる対象や色彩を感じる時あればトライ致します。
百人一首の絵札は詠み人の似せ絵ですがそうじゃなくて詠まれた場所(歌枕)なんかがいいのじゃないでしょうか。それこそお勧めいただいた「百人一首今昔散歩」なんかを参考にして。まあ、無理せず、気軽に楽しみましょう。
想い想いのハンドルネームで押すな押すなの大盛況!!百々爺 まずは開店おめでとうございます。皆様はじめましてというか、「ぶんやたかひで」と申します。今後ともよろしくお願いいたします。源氏の時はスタート早々つまずきまして、ついぞ再起叶わず、時々皆様のご活躍を陰ながら拝見しておりました。今回も、お江戸の春に我を忘れて遊び呆けておりましたら、皆さま満を持してスタートを切っておられました。周回遅れですがマイペースで付いてゆきたいと思います。
源氏名は一枚札の作者文屋康秀(No22)に、現役時代ゆかりの天皇(社長)名と本名隆からアレンジしたものです。今なお名前を聞くだけで背筋がまっすぐになります。
ようこそおいでいただきました、渓山どの、あいや、文屋多寡秀どの。爺は嬉しくてたまりません。
いい名前じゃないですか。康秀は六歌仙の一人で小野小町とも親しい。「吹くからに」なんて言葉遊びの歌が入っているのも百人一首のいいところです。
それに22番はあの六甲おろしの田淵くんだし、、、。彼のホームランは空高く見事なものでした(関係ないか)。
お江戸にも度々来られてる由、是非声かけてください。みなで歓迎しますよ。それじゃあ、どうぞ気軽にお付き合いください。
やっとお出ましですね。
今度は遅れても遅れても姐の後をついてきて下さい。
考えましたね、文屋と文箭をかけたのは。
お互い気楽に行きましょう。