大分休みすみませんでした。40番を掲載してから半月も間隔が空きました。みなさまも(私も)試合勘を取り戻すのに時間かかるかもしれませんが、週一にペースダウンしましたのでそこは何とか乗り切りたいと思っています。中盤戦、張り切って参りましょう。
天徳歌合の大トリをかざる壬生忠見一世一代の絶唱です。
→解説書でも優劣が分かれる40番歌と41番歌。本談話室の皆さんの判定はいかがでしょうか。右か左か持(引き分け)か。一票を投じてください。
【本文は「百人一首 全訳注」(有吉保 講談社学術文庫)による】
41.恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか
【訳詩は「百人一首」(大岡信 講談社文庫)より転載】
訳詩: この私が 恋わずらいをしているという噂
人の口に戸はたてられぬ とはいうものの
なんということだろう
ひそかに ひそかに あのひとのことを
思いそめたばかりなのに
作者:壬生忠見 生没年未詳 30壬生忠岑の息子 卑官の歌人
出典:拾遺集 恋一621
詞書:「天暦の御時の歌合」
①壬生忠見 古今集撰者30壬生忠岑の息子
・壬生氏については30番歌の項参照。大化前代親衛軍を構成していた氏族だった。
父忠岑は無位であり家は貧しかった。
→古今集撰者だったのに。世渡りが下手だったのか。
・忠見は幼少時から歌が得意で宮中に召し出されることがあった。乗物がないと辞退すると竹馬に乗って来いとの仰せ。それに対して忠見が詠んだ歌。
竹馬はふしかげにしていと弱し今夕陰に乗りて参らん
→名歌人忠岑の子として有名だったのだろう。宮中からお迎えの車でも出してやればよかったのに。
・身分は低かったが歌の上手として村上帝は忠見がお気に入りで摂津国で身を沈めていた忠見を中央に戻し蔵人所に職を与えた(百人一首一夕話)。
帝 見しかども何とも知らず難波潟なみのよるにて帰りにしかば
忠見返し 住吉のまつとほのかに聞きしかば満ち来し汐やよるかへりけん
→村上帝の求めに応じしばしば歌を奉っている。それで天徳歌合でも左方のエースとして7番も勝負を任されたのだろうか。
・父は無位だったが忠見は正六位上・伊予掾まで上がる。
→大したもの、歌が身を助けたと言えよう。
②歌人としての壬生忠見
・後撰集に1首 拾遺集14首 勅撰集計36首 三十六歌仙
・村上朝歌壇を代表する歌人であったろうが卑官だったせいか歌人同士の交流は伝えられていない。
・詠み振りは素直で正直、実感がこもるとされる忠見の歌。天徳歌合に出た歌を挙げておきましょう(41番歌以外の3首)
みちとほみ人もかよはぬ奥山にさけるうのはなたれとをらまし
(卯の花 相手 平兼盛 負け)
さよふけてねざめざりせばほとゝぎす人づてにこそきくべかりけれ(拾遺集)
(郭公 相手 藤原元真 持)
夏ぐさのなかをつゆけみかきわけてかる人なしにしげる野辺かな
(夏草 相手 平兼盛 勝ち)
③41番歌 恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか
・「恋すてふ」恋をしているという。
→百人一首ではもう一つ、2番に「衣ほすてふ」がある。
・噂がたってしまった。貴人と姫君の恋は女房を通して行われる。女房たちのネットワークはすごい。たちまちにして都中に知れ渡る。
→この辺りの事情は源氏物語に詳しい。紫式部は女房を狂言回しにして物語を進める。
・この歌も40番歌同様題詠にしては実感のこもった素直な歌である。
・さて、歌合の判定は40番歌兼盛の勝ち。忠見は打ちひしがれてすごすご退出。
沙石集(鎌倉中期の仏教説話集)から -ネットからコピペ 信憑性不詳-
判者ども、名歌なりければ、判じわづらひて、天気をうかがひけるに、帝、忠見が歌をば、両三度御詠ありけり。兼盛が歌をば、多反御詠ありけるとき、天気左にありとて、兼盛勝ちにけり。 忠身、心憂くおぼえて、胸ふさがりて、不食の病つきてけり。頼みなきよし聞きて、兼盛とぶらひければ、「別の病にあらず。御歌合のとき、名歌よみ出だしておぼえ侍りしに、殿の『ものや思ふと人の問ふまで』に、あはと思ひて、あさましくおぼえしより、胸ふさがりて、かく重り侍りぬ。」と、つひにみまかりにけり。 熱心にこそよしねれども、道を執するならひ、あはれにこそ。ともに名歌にて拾遺に入りて侍るにや。
→村上帝は先ず忠見の歌を口遊んでいる。村上帝は忠見がお気に入りだったろうに。何故天気は左にありとしたのだろう。
→何れにせよこの歌合が単なるお楽しみのイベントではなく関係者(勿論第一は出詠歌人)には名誉と将来をかけた命がけの合戦だったことがよく分かる。
④源氏物語との関連
・紫式部は天徳歌合をモデルとして絵合(歌に代え古今の名画を左右二方に分けて勝負を競う合戦)を作り上げた。
第17巻「絵合」冷泉帝の後宮争い 源氏・藤壷・前斎宮vs頭中・弘徽殿女御
その日と定めて、にはかなるやうなれど、をかしきさまにはかなうしなして、左右の御絵ども参らせたまふ。女房のさぶらひに御座よそはせて、北南方々分かれてさぶらふ。殿上人は後涼殿の簀子におのおの心寄せつつさぶらふ。左は紫檀の箱に蘇芳の華足、敷物には紫地の唐の錦、打敷は葡萄染の唐の綺なり。童六人、、、、、右は沈の箱に浅香の下机、打敷は青地の高麗の錦、あしゆひの組、華足の心ばへなどいまめかし。童、青色に柳の汗衫、、、、
→冷泉帝御前での歌合、これに源氏方が勝って前斎宮は秋好中宮になる。重要なイベントでありました。
⑤さて、40番対41番の勝負。
爺は40番平兼盛に一票を投じます。
両方いい歌だと思います。迷いましたが10回づつ声に出して唱え、40番に決めました。好みの問題であります。
この歌が「天徳歌合」で先の兼盛と対になった有名な逸話からなる歌。
正直40番のほうが初々しくてときめき感があります。
41番のほうは仕方のない開き直りとでもいいましょうか。
秘かに温めている初恋なのに早くも噂になってしまったと言う嘆きがみえてきます。
歌の技巧から言えば兼盛に一分の利があるようにも思えます。
しかし私は「恋すてふ」という初句が好きなのです。
2番の持統天皇の「衣ほすてふ」も好きでしたもの。
「恋すちょう」や「衣ほすちょう」と読み手が声を発すればいかにも古歌の響きが伝わります。
と言う単純な好みの理由から私は
恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか
41番、忠見に軍配をあげたいのです
百々爺さんおっしゃる通り
「父は無位だったが忠見は正六位上・伊予掾まで上がる。
→大したもの、歌が身を助けたと言えよう。」
まさに「芸は身を助ける」の良い例ですね。
家が貧しくて晴れの舞台である歌合せに身につける衣装にも事欠いたとの事。
更に嘘か本当かわかりませんが兼盛に負けた落胆から病没したとなるともう同情を禁じ得ません。
歌の為に命を落としたという逸話を聞けば敗者への同情もあり勝たせてやりたかったですね。そうです、判官贔屓とでもいうのでしょうか。
いかにこの時代和歌というのもが重要視されていたかが偲ばれるエピソードです。
それぐらい歌人にとって和歌は命がけであったし又出世の道具であったのかも知れませんね。
引き分けの場合は「持」というのですか。せめて持にすれば忠見は死なずにすんだかもね。
さて我ら平成の判者はどちらに軍配を上げるでしょう。
百々爺さんは40番、兼盛派ですか。
今、命をかけるほどの価値があるものと問われれば果たして自分には何であろうと考えさせられます。
源氏物語では「歌合」に匹敵するものとして「絵合」がありましたね。
紫式部の発想の豊かさを感じます。
これも冷泉帝の妃を決める重要な行事でやはり命がけだったのかもしれませんね。
お休み中、暇にまかせて手持ちの百人一首かるた朗読テープを聴いてみました。
毎年近江神宮で行われる競技かるたでは冒頭に古今集仮名序のの序歌
「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」が詠まれると聞いていますが私のテープでは
「しのばれむものともなしに小倉山軒端の松に慣れて久しき」
と詠まれました。どうしてかな?疑問です。
琴の流麗な演奏と共にこの和歌が読まれたのでえっ!!と驚きました。
女性の読み手ですが流暢と言うよりは力強い読みっぷりでした。
かるた会の序歌はいろいろあるのでしょうか?
そして久しぶりにやっと「ちはやふる」20巻の漫画が図書館から届きました。
余りにも19巻からの空白期間がありすぎ前回までの内容を忘れる始末。
読み進めていくうちに千早の修学旅行の場面が書かれていて例の嵐山の時雨殿です。
私が時雨殿を訪れたのはいつだったのか?
忘れてしまったので5年日記と源氏物語のブログで確認してみました。
2014・5・8「京都そぞろ歩き」と題して歌合の再現場面に触れていました。
あれから一年半、すっかり忘れていました。
「ちはやふる」の漫画でも時雨殿の「天徳内裏歌合」の再現展示の場面が描かれていました。
時雨殿訪問当時まだ今のように百人一首を詳しく読んでいない頃でした。
「天徳内裏歌合」のことを何も知らなかったのでさらりと素通りしてしまったようです。
今ならもう少ししっかり見たはずなのに残念なことをしました。
今度行く機会があればじっくり観察したいものです。
漫画の様子から大体のイメージがつかみました。
この漫画に40番の兼盛、41番の忠見を置き換えてみると遥か天徳の時代が偲ばれ感無量のものがあります。
【追記】
日本2百名山ひと筆書き~グレートトラバース2
11月2日御在所岳登山の日記がアップされましたので興味のある方は是非ご覧ください。
雨をも前向きにとらえ楽しんでしまう陽希さんの姿が見られます。
私、何だか陽希さんの宣伝部隊みたいですね。
早速に熱のこもったコメントありがとうございます。元気が出ます。
・忠見の官位は正六位上・伊予掾とも六位摂津大目(958年)とも書かれていますが何れにせよ960年の歌合の時には六位の貴族でありみすぼらしい田舎人の身なりで歌合せに現れた、、、、なんてのは嘘っぱちでしょう。沙石集の逸話(負けを苦に拒食症になり遂には死んだ)も悪意に満ちた作り話だと思います。
→逆に村上帝の覚えもめでたい世をときめく歌人として一世を風靡した貴公子ではなかったでしょうか。でなきゃこの歌合で左方4番を任されしかもトリを取ることなどできなかったでしょう。
→平兼盛に比べると出自も官位も一ランク落ちる。どうせ試合のトータルは左方に決まってることだしここは最後兼盛に花を持たせておこうか、、、という空気が歌合会場にみなぎったのかもしれない。
・小町姐さんは忠見に一票ですね。いいじゃないですか、「こいすちょう、、」ですもんね。
・かるた会の序歌、色々あるようですね。私も「難波津に~~」だけかと思ってました。「しのばれむ~~」は定家の歌なんですね。「さあこれから定家卿が選んだ百人一首かるた取りが始まりますよ~~」と宣言する意味で定家の歌というのもいいと思います。
・陽希くんの日記見ました。雨に対する前向きな思い、彼らしくって素晴らしいです。どうせ愚痴っても仕方がない、それなら何事も前向きに考えなくっちゃ。
→「雨はいや」「土がつくのはいや」最近のお母さんは子どもたちが雨に濡れたり泥がついたりするのを神経質までに嫌がる。これじゃ、まともな大人になれないでしょうに、、。子どもたちが可哀そう。
「天徳内裏歌合」最終戦、40番が勝ちましたが、負けた41番歌の忠見は悔しくてものも喉を通らず死んでしまいます。本当に死んだかの真偽のほどはさておいて、歌合せの重要さ、歌にかける真剣さは、現在では想像できないようなものがあり、世を挙げての社会現象的なものがあったのでしょう。
同質とは言えませんが、現在のNHK紅白歌合戦でもトリ争いがあり、またチームとして紅白どちらがうまかったかと家族で話し、大晦日を終えますが、今の紅白は、お祭り騒ぎになっており、お酒も手伝いつい途中で寝てしまいます。小中学生のころは、幼かったせいもあるにせよ、もう少し歌そのものでの勝負にかける歌手が多くいたように思います。いまでも、真剣に歌う歌手がいるとつい拍手します。
合戦は戦いですから、この40番・41番歌のように、やはり真剣勝負が面白いですね。
さて、どちらが好きか、
”恋すてふ”という歌いだしは、流石にすばらしいと感心しますし、流れるような調べが好きですが、歌全体では40番のほうが好きです。小生的には、”色に出でにけり”と”人の問ふまで”の締めの言葉が決まっていると思います。
忠見も、卑官、”百人一首の作者たち”によれば、”忠見集”に
京の便りなかりければ、津の国に住まむとて行く道に、知りたるひとあひて、”なにしにかくは行くぞ”と問ひければ、
都にはありわびむれば津の国の 住吉と聞く里へこそゆけ
かれより京へ云ひおこす
津の国の我が頼みこし住吉も 便りなみこそ間なくたちけれ
かなりの年月を津で過ごしたらしいが、いつなのかは不明。
ざっとNETで経歴を調べてみたが、
953年 内裏菊合出詠
954年 御厨子所 膳部に
956年 麗景殿女御歌合に出詠
あさみどり春は来ぬやと み吉野の山の霞のいろに見ゆらむ
958年 摂津大目に叙任
960年 天徳歌合
とあり、それ以外、詳細はわかりませんでした。
・「天徳内裏歌合」京中あげての大イベント、何せ主催は帝、判者筆頭は左大臣。正に国家行事ですもんね。
→毎年やればいいのに余りにも大事(大変)過ぎたのかこれ程の規模のものはその後恒例になっていないようですね。関係者も懲りたのかも。
・戦後昭和の紅白歌合戦も国家行事さながらでしたね。世の中価値観がいっしょでしたから。個性だとか自由だとかが上位になるに及んで紅白歌合戦も衰退しましたね。
→爺の千曲リストに名残を留めていますけどね。
・壬生忠見の経歴ありがとうございます。摂津に行っていたのは別に左遷でもないでしょうに。摂津と言えば大国だし京から近いしそんな嘆くほどのところじゃないと思うのですが。地方で豪快にキャリアを積んで蓄財もして後に備えるといった骨太の生き方ができる人じゃなかったのかもしれません。
再開そうそう軽快なテンポで何よりです。
昨日やっと住吉さんに行ってきました。
阪堺電車にも初めて乗って「鳥居前」下車、雨で滑りやすそうな反橋を注意深く渡ってお参りしてきました。
住吉の神が降臨した場所がパワースポットだとされて、砂利に「五」「大」「力」と書かれた小石を拾ってお守りにすると五大力を得られるとか。ワンセット探すのにえらく時間がかかってしまい、吟詠どころではありませんでした。
さて、40番、41番、どちらが好きかという問題でしたら、文句なく41番に一票を投じます。40番は嘆く振りして実は自慢したい下心が透けて見えるうえ、やや技巧に走っている感じが鼻につきます。その点で41番は作者の心情に心を寄せたいものがあって好印象です。
俳句は自分をどこまでも殺して普遍化し、余白部分で勝負する文学ですが、31文字も使える歌は下手すると多弁、饒舌に陥りがちです。惻隠の情でというか、読者にも共感させていただく余地のあらまほしく。
住吉大社、行かれたんですね。私も10月に行って「五」「大」「力」の小石を必死で探しました。無事見つけて(15分以上かかった)、今は本棚の隅に鎮座しています。探し始めると何故だか夢中になってしまいますね。
もちろん俳句どころではありませんでした。
阪堺電車、一両のみで走行していて、なかなか楽しかったです。
・「すみよっさん」行けてよかったですね。私は出張中駆け足で行ってきましたので「五」「大」「力」の小石のことも知りませんでした。源氏物語に夢中の時でとにかく住吉大社には行っておかなきゃという思いで、居並ぶ社を眺めて感慨に耽っていたことを思い出します。
・41番歌がいいですか。なるほど。俳句ほどではないでしょうが和歌も読み方感じ方は好みによるところが多いのでしょうね。王朝の専門歌人たちも「自分が詠みたいことを自由に詠む」のと「他人によく評価されるよう工夫して詠む」のとの狭間を行き来してたのでしょうか。
無事の退院&ブログ再開、おめでとうございます。今日初めて退院報告を読みましたが、8泊9日とはえらく長い入院でしたね。小生は同じ手術で3~4泊だったと記憶しています。こんなことしているから医療費の膨張が抑えられないのではと文句を言いたくもなりますが、それはともかく、入院中における百々爺の活動は凄いですね。TVであんな熱心にスポーツ観戦したり、映画観賞をする毎日を半年間も送れば、スポーツ評論家や映画評論家になれると思いますよ。入院中でも無為に時間を過ごさない爺の勤勉さは見上げたものです。
小町姐さんの「陽希君追っかけ記」も面白かったです。山登りに興味がない小生にとっては、彼は「二百名山一筆書き」なんて酔狂なことに挑戦している目立ちたがり屋という認識しかありませんでしたが、日頃からの鍛練で強靭かつスマートで格好良い体を作り、人柄も良い若者のようですね。それから、百合局さんには「貴族の収入」に関する情報、ありがとうございました。自分でも情報源に当たってみます。
さて、壬生忠見の41番歌。上三句では「恋すてふ」という素敵な表現で恋する気持ちを素直に詠い始めているものの、下二句はその恋が露見したことに対する不平やいぶかりを述べる恨みの独白となっており、小生にはちょっと内向的で暗い歌という感じがします。これに対して、平兼盛の40番歌は忍ぶ恋だったのにバレちゃったなあ、まあそれはそれでというカラリとした開き直りが感じられ、調べも流麗です。本来、忍ぶ恋は激しくてどろどろしたものかもしれませんが、優雅な歌の世界では、そこをうまく包んでスマートに詠うのがベターかなと思うので、小生は40番歌に軍配を上げます。
(余談)先週、墓参り等のために三重に帰った際、松阪で友人とランチした後、本居宣長記念館と鈴屋(すずのや:本居宣長旧宅)を見学して来ました。彼が小津一族の出身で医師でもあったことは知っていましたが、本居というのは小津家の子孫の氏であることや、彼が昼間は医業に専念し医師としても高い評価を受けていたことを初めて知りました。
彼は晩年も「古事記伝」の執筆で多忙を極めていたのですが、彼から源氏物語についての講義を受けた石見国浜田藩主「松平康定」の強い要請を受けて、67歳の時に1年間で「源氏物語 玉の小櫛」を書き上げたとのことでした。そして、「古事記伝44巻」を完成させたのは69歳で、その後も執筆や講釈に励み、享年は72歳です。
ご承知のように「源氏物語 玉の小櫛」は源氏物語を「物のあわれ」の物語であると論じ、中世の宗教観や倫理観に捉われて、源氏物語を淫乱の書・不倫を教える書・好色を戒める書・勧善懲悪の書などと位置付けていた説(古注とか旧注と呼ばれる)を否定しました。我々が源氏物語を正々堂々と楽しめるのは、本をただせば松平康定のお陰なのかもしれないと思った次第です。
本居宣長記念館、行ったことがありません。
お肉だけ食べに行っていたなんて、残念なこと・・
今度、三重方面に行った時にでも立ち寄ることにしましょう。
・確かに8泊9日は長居し過ぎでしょうね。最後の方は飽きました。色々時間潰したのは単に持前の貧乏性が故であります。とにかくボオッっとしておれない、悪い癖です。でも色んなことに興味を持って時間を過せるのはいいことだと思っています。
→選手名鑑を片手にスポーツ番組を見る。まだのめり込むのは早いけど将来的にはこれが楽しみになりそうです。
・40番41番、言い方は悪いですが所詮歌合せの題詠、「恋」という題を与えられて一月かかって頭の中でひねくり回して詠んだ歌ですよね。初恋の相手が目の前にいる訳でもない、、、。遊びと言えば遊び。でも遊びの中にこそ真実があるとも言えるでしょうし。色々考えさせられます。
・本居宣長記念館、鈴屋行けてよかったですね。何せ今や智平どのの出身市になった松阪ですもんね。私も先年記念館で宣長の年譜を読んで感激したものでした(源氏物語に対する情熱が倍増した感じでした)。
「我々が源氏物語を正々堂々と楽しめるのは、本をただせば松平康定のお陰なのかもしれない」
→貴重なご指摘ありがとうございます。ちょっと調べてみました。
本居宣長記念館発行の「本居宣長の不思議」によると、
石見国藩主の松平康定は参宮の途中松阪に泊り宣長の源氏物語講釈を聴聞した。康定は自身の来訪に先駆け家臣に「駅鈴」と自書の色紙を届け宣長に礼を尽している。その後宣長は康定の懇望と源氏への愛着の深さから「玉の小櫛」を書き上げその刊行経費は康定が立て替えた。
→わざわざ石見国から駆け付けた(むしろ参宮は口実かも)康定もエライけどそこまで名が売れてた宣長はすごいもんです。
40番歌はゆったりとした恋歌ですよね。余裕があるというか・・
41番歌には切迫感が感じられます。真実忍ぶ恋をしていたら、こういう歌になるだろうと思われます。
読むほうも、その時の心の在りようによって、どちらが好きか変わるような気がします。したがって私は引き分け(持)とします。
安東次男説を記します。
兼盛の歌が「わが恋は」と名乗り出た力をかりて「人の問ふまで」の解放をひきだしているのに対し、忠見の歌は「まだき」(早くも)を抑制の働きとして「こそ思ひそめしか」の内攻を引き出している。ほんとうに誰にも気取らせぬように思いそめたのだ、と名の立ったくやしさを言外にのこした表現である。余情は兼盛の歌よりもむしろこの歌の方があり「こそ・・・しか」の係り結びにこめられた未練、執念は、伝えられる作者の人柄にもよく適っている。
謡曲『班女』にある「恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひ初めしか」は、この41番の壬生忠見の歌がそのまま使われています。
・おお、なるほど。「持」という手もありましたね。
判定に難儀したこの大勝負、「持」として両者の優劣を滔々と述べれば判者(左大臣実頼&大納言源高明)の株も上がったでしょうにねぇ。。
→安藤次男説は例によって難解ですね。
・40番41番歌は勝負で白黒をつけるよりそれぞれの良さを評価し合う方がいいのかもしれませんね。
高校の大阪同窓会やら、恩師の個展やら、それに伴う来阪組のお相手やら、しているうちに当談話室は千客万来の賑わいですね。百々爺におかれましては完ぺきなオーバーホールに成功され益々筆が冴えとりますね。御同慶の至りです。誠におめでとうございます。
この勝負の判定、日本シリーズ第5戦イ・デホの左翼ポール越えのホームラン判定に似ていますね。なんせポールのはるか上空を玉は通過してるんですから、判定のしようがありません。いくらビデオを駆使しても解決しません。結局主審の裁定に任せたと思われます。
今回も帝裁定を仰いだわけで、左大臣初め審判団にはそれぞれの意見があったでしょうに。兼盛の「勝つための戦略」が功を奏したということでしょう。それだけ冷静に状況を分析し、対処できたことが勝利につながったのかもしれません。
一方忠見の41番歌。一族郎党の期待を一身に背負い、歌合わせに臨みます。恋する気持ちが素直に現れていて、控えめで純情な忠見の人柄がでていることが人々の心をとらえます。が、惜しくも勝負に負けてしまいました。
今に至るまで甲乙論争が繰り広げられていること自体が、後世の人々の忠見を再評価していることの証左ではないでしょうか。ここでもわが民族の「判官びいき」が顕著に出てますね。
もうお分かりですね。多寡秀は断然41番歌。忠見に軍配を上げます。
が、しかし、百々爺の<40番41番歌は勝負で白黒をつけるよりそれぞれの良さを評価し合う方がいいのかもしれませんね。>は、言いえて妙。
大阪のみなさんにもお元気なようで結構ですね。お忙しい中コメントありがとうございます。
・イデホの打球は面白かったですね。大分時間がかかってました。判定不能と判断するのに時間がかかったのでしょうね。レフトスタンドのヤクルト応援団は何してたのでしょう、一番近いんだし、判定時間中にもファウルだって大騒動すればよかったのに。。
・帝裁定と言いますが、帝は忠見の歌を「こいすちょう、、、こいすちょう、、、」と口遊み次いで「しのぶれど、、、」と口ごもったとき、間髪を入れず実頼は「よし、兼盛だ!」と決めたのかも。
→天気(天皇の気分)左にあり、、ということのようですが、古来天気は変わりやすいものですからねぇ。
最初に、百々爺さんは無事に退院との事で、おめでとうございます。
先週末から出かけていまして、戻ってみると談話室は皆さんのコメントはギッシリと並んでおり、興味深く読ませていただきました。
スコア―を取ると、判定は3対3、1分けで対峙していますね。
遅ればせながらコメントする身としては、天徳歌合の判者に倣い天気に任せたいところですが、あえて#41を良しとします。
技巧的で調べ良く整った兼盛の歌には「恋煩いですか」と問われてしまって・・と余裕すら感じられるが、一方の忠見の方は「密かな恋」が早くもばれてしまった・・と純なところが残る。まだその時になっていないのに《まだき》噂が立ち困っている様子で、忍恋の度合いが高いと思った次第です。
歌会のときは両者とも50歳過ぎと推測され、老域にあってこのような恋唄が出来るのはいかにもベテラン、プロ歌人の成せる業と思う。いずれの歌もリズム良く、下の句で歌全体がが引き締まる。
(余談)京都で同期会があり、その後、宇治、明日香、奈良にいってきました。
三室戸寺、法起院、長谷寺、壺坂寺、岡寺と興福寺南円堂の西国札所です。信仰心というよりも殆ど観光気分ですが、古来、多くの人々が訪れたパワースポットだけに趣きがあり、紅葉の景色も楽しめました。
雨天・曇天の中、電車・バスで足早に巡りましたが、さすがに古都でみる観音像はどの寺でも大きく圧倒的であったこと、高松塚古墳の石室・の極採色壁画(女子群像)、薬師寺の大唐西域壁画(平山郁夫)は印象的でした。宇治の源氏物語ミュウジアムにも立ち寄りましたが「紫式部の和歌と物語」展で岩下志麻・篠田監督の20分ムービーを放映していて、これも印象的でした。
・お待ちしてました。勝負が拮抗してたので枇杷の実さんで勝負が決するなと思ってた次第です。41番ですか、なるほどこれで当談話室のレギュラー陣による勝敗は41番4票、40番3票、持1票となりました。まあ妥当なところでしょうか。忠見も喜んでいることでしょう。
→その内、セミの名がつくセミレギュラーが何か言ってくるでしょうが。。
・西国札所廻り、精力的に回られましたね。一気に増えてよかったですね。長谷寺本寺でなく手前の法起院、興福寺では南円堂が札所なんですね。面白い。けっこうばらついてるし飛鳥の岡寺なんて随分高所にあるし、普通の観光気分ではなかなか行けませんよ。やはり札所廻りという目的(信仰心のことはさておいて)があるから行けたのでしょう。いい財産になると思います。
→源氏物語ミュージアムの浮舟の映画私も見ました。実際に宇治川の流れや川音を聞いた後ですごくリアルに感じたことを覚えています。
まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思いけり
やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初しはじめなり
、、、
遅くからすみません。
41番歌 思いそめしか
に一票します。
投票ありがとうございます。41番歌、これで5-3-1、決まりましたね。順当なところでしょうか。
「初恋」 作詞島崎藤村
舟木一夫で私が三番目に好きな歌です。今度ご披露します。。
https://www.youtube.com/watch?v=-2Bq97MOYgU